「あ! 富士山だ!」
 通路をはさんだ向こうの席で、幼稚園くらいの女の子がかわいらしい声をあげた。何気なくそちらを見ると、お母さんと女の子、そして、小学校低学年くらいの男の子の家族が座っていた。三人とも窓の外の富士山を見ている。
 ちょうど、日没の時間が近づいていて、富士山の白い雪がほのかに赤く染まりかけている。
「なんかいいことありそうだね」と男の子が言いながら母親の方を見ると、お母さんも笑顔でうなづいていた。
 お母さんは、子供たちの背中を優しくなでて、
「どうして富士山っていうか知ってる?」
と尋ねた。
 子供たちは首を横に振ってる。女の子が「富士山は富士山だよ!」と元気に母親の顔を見上げた。
 お母さんは慈愛に満ちた表情で、あの有名な竹取物語のお話を始めた。
「昔、昔、ある所におじいさんとおばあさんがいたの。ある時、おじいさんが不思議に光る竹を見つけて、その竹を切ってみたところ、かわいらしい女の赤ちゃんがいたのよ」
 お母さんは女の子のほっぺたをツンと突っついた。
「おじいさんとおばあさんは、かぐや姫と名前をつけて、自分たちの娘として育てました。赤ちゃんは見る見るうちに大きくなり、女の子から、美しい女性へと成長しました」
 二人の子供たちはお母さんのお話に聞き入っていた。

 ――かぐや姫の美しさは評判になり、幾人もの男性から「妻に」と求婚されるが、決してそれを受けることはなかった。それでも五人の男性が求婚し続け、おじいさんの説得もあって、自分の見たいと思う品をお持ちの方のところへと嫁ぐという。その品物が仏の尊い石の鉢、蓬莱山の宝樹の枝、決して焼けぬ火鼠の皮、竜の首に五色に光る宝玉、そして、燕の子安貝。……どれも天竺や漢土の伝説の品。
 ある者は意図的に偽物をこしらえて持参したが、たちまちに見破られるなど、本物の品物を持ち来たる者はいなかった。

 お母さんは、一呼吸置いて、
「その頃、かぐや姫のことを帝がお聞きになったの」
 女の子が「ミカド?」と問いかけると、「その頃の日本を治めていた王様のこと。天皇陛下のご先祖様かしらね」と答えた。
「帝はどうしてもかぐや姫に会いたいと思って、たまたま通りかかったように見せかけて、かぐや姫のお家に行ったのよ」
 かぐや姫を見初みそめた帝でも、かぐや姫を連れて行くことはできなかった。けれども、帝は3年もの間、かぐや姫の屋敷に通いつづけたという。
 そうするうちに、かぐや姫は月を見て物思いに耽ふけるようになる。月の都に帰るべき時が近づいてきたのだ。おじいさんとおばあさんを本当の親のように思って、別れの時が近づいていることを歎くかぐや姫。おじいさんもおばあさんも大層 悲しんだ。帝はこの事を聞き、兵(つわもの)ども2000人を遣わして、かぐや姫を奪われまいとする。
 しかし叶わずして月の使者が訪れ、かぐや姫は月の都へと戻ってしまう。その最後、天の羽衣をいざ着ようという時に、帝への思いに気がついたかぐや姫は、手紙とともに不死の薬を残していく。

 ――今はとて天の羽衣着るをりぞ 君をあはれと思ひいでける

 帝は悲しみに沈み、かぐや姫のいないこの世に生き続けることはできないと、天にもっとも近い山、駿河国の富士山の山頂で手紙と不死の薬を焼かせたという。誰でも知っている有名なお話だ。けれど――。
 お母さんは話を結ぶ。
「その時に、多くの武士が登ったので富士山とも、不死の薬を焼いたから不死の山、富士山ともいうようになったのよ」
 男の子が「ふうん」と納得しているが、女の子は「愛してるのにお別れしちゃったの?」と悲しげにつぶやいた。
 その時、車内アナウンスが流れた。
「まもなく新富士。新富士です。お降りのお客様は――」
 どうやら、私も降りる駅が近づいてきたようだ。
 そっと通路の向こうのご家族に、
「そのお話には、別のお話もあるのはご存じですか?」
と声をかけた。
 そう。この竹取物語には、ここ富士の地元には別の伝説が残っている。
 私は女の子の顔を見ながら、微笑んで、
「かぐや姫と帝は一緒に富士山の頂き近くの洞窟に入っていったのよ」

 もしかしたらこの地元の伝承も、別れを悲しむ人々の願いが作り出したものかもしれない。
 でも私は信じたい。
 きっと二人は思いを通じ合い、添い遂げたのだろうと。
 お母さんが「ありがとうございます」というのに返礼して、私は二人の子供に微笑みながら新幹線の降車口に向かった。

 新富士駅から見える富士山は、夕焼けの光を浴びて、綺麗な紅に染まっている。その美しい姿に、冷たい風に包まれているにもかかわらず、不思議な感動がこの身を包む。
 かつて、天皇陛下が中国からのお帰りの際にお詠みになられた歌がある。

 外国(とつくに)の旅より帰る日の本の 空赤くして富士の峰立つ

 ――そうだ。日本は富士山がある国なんだ。私たちの心の故郷。その原風景は富士山にあるのではないだろうか。
 私はにぎやかな街の音に包まれながら、妙に誇らしげな気持ちで、タクシー乗り場に向かった。

 

 


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