06.アテナイへの船旅

 二人のお客さんを見送ってから一ヶ月が経ち、5月半ばとなった。

 相変わらず晴れの日が多く、日に日に気温が高くなっていく。

「お~い。まだか?」

 外から聞こえる夏樹の声に、「は~い。今いくよ!」と言いながら、部屋の中に忘れ物がないかチェックをする。

 うん。大丈夫ね。

 最後にテーブルの上の鞄を持って、玄関に向かった。

「お待たせ」

と言いながら、玄関から出ると夏樹は私を一目見て、

「お? なんか新鮮だな。その髪型」

と言う。「えへへ」と笑いながらクルッとその場で一回転した。

 今日の髪型は頭の後ろで一本にしたゆるふわの三つ編み。服もふんわりしたパンツルック。

 この髪型ってちょっと幼く見えるからちょっと恥ずかしいんだけど、見た目20歳の今ならおかしくないはず。

「どう?」

「いいな。ふんわりした感じが似合ってる」

「ふっふっふっ。――こうして夏樹は愛する妻に惚れ直したのだった」

「変なナレーションを入れない! でも間違ってない」

 そんな他愛もない話をしながら、私たちは小道を下りていく。

 さてと気を取り直してこれからの予定を話そう。

 今日から二人でアテナイ旅行に出かけるのだ。

 実は、先月のアリアが帰り際に「アテナイに来たら絶対に来てね」と言いながら、アリアの家の紋章が入ったプレートを渡してくれたのよね。

 なんでもこれがあるとアリアの家の庇護下にあることを示すらしく、アテナイの港にも入れるという代物。

 個人的にはパルテノン神殿も見てみたいし、夏樹も興味があるみたいで楽しみにしている。

 もう荷物は、桟橋に繫留してある外洋航海用の双胴船カタマランに積み込んでおいた。後は出発するだけなのだ。

 夏樹と手を繋ぎながら、まるでデートに行くみたいにウキウキした気持ちで小道を下っていく。

 うふふ。楽しみだなぁ。クルージング。

――――。

 入り江からスウッと外洋に出ると、今日は風があってやや波が高いようだった。

 けれども流石は双胴船。さほど傾くこともなく、むしろ帆に風をはらんで速度を上げながら海を軽快に走っていく。

 風の向きを見ながら、夏樹と一緒になって帆を操作していると、視界の端っこで何かが海面から飛びだしてくるのが見えた。

「おっ。イルカだ!」

 夏樹の声に思わず振り返ると、イルカが豪快にジャンプをしていた。

 クルクルッと前回り。ツイスト、そして、逆回転。

 一匹で、または何匹もの仲間たちと同時にジャンプしている。

 まるで波と戯れるように、楽しげに次々とジャンプの妙技を決めていく。

 やがてイルカの群れが私たちの船の近くまでやってきた。船と並行して泳ぎながら、私たちに挨拶をするように顔を覗かせては潜ったり、小さくジャンプしている。

 自然と笑顔でイルカたちを見ながら、

「なんだか良いことがありそうね」と言うと、

「ああ。きっとあるさ」と夏樹が言う。

 私たちを楽しませてくれたイルカたちは、やがて別の方角へと泳いでいく。

 船縁で夏樹と並んで見送りながら、「じゃあね~!」と声をかけると、その声に応えるように3匹のイルカが一斉にジャンプをしてくれた。

 そのまま深いところに潜っていくイルカたち。

 彼らを見送りながら、夏樹が、

「そのうち入り江に来てくれるかもね」と言う。

「夏樹が言うと、その通りになりそうね。……その時は」

「その時は?」と聞き返してきた夏樹に、

「絶対に一緒に泳ごうよ」とにっこりと微笑んだ。

「ふふっ。そうだな」

と笑いながら、夏樹は再びイルカたちが去っていた方向を眺めた。

 いいなぁ。楽しそうだな。

 目を閉じるとその光景が浮かぶようだ。

 ――入り江の白い砂。足下を洗うように波が流れている。

 青い空にふわっとそよぐ風に、輝く太陽が肌をじりじりと焼く。

 後ろから私の名前を呼ぶ夏樹の優しい声が聞こえ、正面の入り江ではイルカたちが遊んでいる。

 キュキュキュキュという鳴き声に誘われるように、夏樹と一緒に浜辺から海にエントリーする。

 すっと身体の下にイルカが入り込んで、私の身体が海面に押し上げられ、笑いながら横を見ると、同じようにイルカに乗った夏樹がニッコリと笑っていた。――。

 パコン。

 はっと気がつくと、夏樹が私の額にチョップをしていた。

現実リアルに戻ってきた?」

と言う夏樹の笑顔に、テヘッと舌を出す。「うん。妄想してた」

――――。

 太陽が西に傾いていくころ。私たちは、アテナイへの途中にあるセリフォス島にようやく到着した。

 西向きに開いている入り江の一つで碇を下ろし、今日はここで停泊することに。

 船が飛ぶように進んでいるかのように感じられたけれど、実際は5ノットほどの速度だったようだ。

 夏樹に聞いてみたんだけど、この島にはペルセウスとダナエが流されたと言う伝説が伝わっているらしい。

 ゴルゴンを退治したとされるペルセウス。なんだかロマンがあるよね。

 キャビンからデッキにテーブルとイスを出し、二人並んで夕日を見る。

 昼間に強かった風も、島影に入ったせいか穏やかになっている。

 ゆったりとゆれる船はまるでゆりかごのようだ。

 二人、無言でワインを片手に夕日を眺める。

 灼熱のオレンジ色の太陽が、ゆっくりと海に下りていき、キラキラと輝く光の道ができる。

「……マーレ・ドーロ黄金の海」とつぶやくと、夏樹が黙ってうなづく。

 私たちの周りの海が、船が、すべてが黄金に輝いているように見える。なんて美しい光景だろう。

 太陽がゆっくりと水平線の向こうに消えていくと、頭上の空が青い夜色に変わっていく。

 海と空の境目が曖昧となり、オレンジ色から群青色へとグラデーションの世界の中に、ただ夏樹と二人でぽっかりと浮かんでいるようだ。

「春香。泣いてるのか?」

と夏樹の声に「え?」といいながら頬に手を当てる。知らずのうちに涙を流していたことに気がついた。

 夏樹が手を伸ばして、私の涙をぬぐう。

「ふふふ。おかしいなぁ。悲しいとか寂しいとかじゃないんだけど……」

と言うと、夏樹は穏やかに笑みを浮かべて、

「あまりに美しいものを見ても涙って出るんだよ」

と言う。

「……うん」

 日没を迎え、移り変わりゆく壮麗な光の芸術ももう夜の世界へと急速に変化していく。

 一つ二つと瞬きはじめた星が、次々に増えていき、やがて頭上には満天の星空になっていった。

「さてと」といいながら、夏樹が船の明かりに火を入れた。

 私もイスから立ち上がって「すぐにお夕飯にするわね」と言いながらキッチンに入った。

 とはいえ、今日は二人だけだし面倒な調理はしない。

 大きめのマッシュルームをスライスして、岩塩と胡椒を振って鉄製のダッチオーブンに並べる。

 かまどにダッチオーブンを置いて火に掛け、蓋にも真っ赤に燃える炭をいくつか載せる。

 つづいて、氷室からマグロの塊を取り出して、スライスしてカルパッチョを作った。

 パンをお皿に並べて、カルパッチョと一緒に夏樹に外のテーブルに運んでもらう。

 その間に、ダッチオーブンの上から炭を下ろして蓋を開けると、マッシュルームもちょうどいいくらいに焼き上がっていた。

 お皿に並べて、一つ味見をする。……うん。もうちょっとお塩が足りないわね。

 岩塩の削って振りかけて山羊のチーズをおろし金で削り落とす。マッシュルームのグリルの完成だ。

 知ってた? これってすっごくおいしいんだよ!

 暗い海面に船のランプの光がゆらゆらと写り込んでいる。

「お! 今日はイタリアンか」

 夏樹がうれしそうに席に着いた。

 ふふふ。マッシュルームのグリルはね。夏樹の大好物なんだよ。

「これがまたワインに合うんだよ!」

「ふふふ。知ってるって。教えてくれたの夏樹だよ?」

「そうだったっけ?」

 上機嫌で満面の笑みを浮かべている夏樹に、

「……そういう夏樹の子供っぽいところも好きよ」とほほえみかける。

 ある日、夏樹が学会の仕事で三重の皇學館大学へ出張に行った時、伊勢市で入ったイタリアンのお店オステリアラブラで夕食を食べたそうだ。

 大絶賛の夏樹が、帰宅するときに大きなマッシュルームを買ってきて、自分でその味を再現しようと挑戦していたの。

 私は残念ながら、そのお店には行ったことがないんだけど、夏樹の再現してくれたマッシュルームのグリルもとても美味しかった。

「えー? そうか?」と首をかしげる夏樹のコップにワインを注ぐ。

 私もワインに口をつけ、フォークを手に取りマッシュルームを口に入れた。

 マッシュルームの旨みが塩やハーブスパイスによって引き立てられて、得も言われぬ旨みが口に広がる。頬がとろけるように自然とニッコリと微笑みながら、旨みをじんわりと楽しんだ。

 お腹もこなれたころに、夏樹が、

「アテナイだけど、まずアリアの所に行こうと思う」と言う。

 うん。それは勿論よね。

「その後なんだけど、パルテノン神殿に行きたいんだ」

 パルテノン神殿か……。アクロポリスの丘の上に立つ白い大理石の壮麗な神殿。女神アテナを祀ってるのよね。

 残念ながらテレビでしか見たことがないけれど、ギリシャって言ったらパルテノン神殿ってくらいのイメージがある。

「もちろん。いいわよ、っていうか是非行きたいけど、なんで?」

 わざわざ私に許可を得る必要は無いと思うけど……。と思ったら、

「春香の知っているパルテノン神殿はもっと後の建物だよ。それ以前は古パルテノン神殿だけど、この時代まで遡ってはわからないんだよ。まあ、神殿があるのは確かだろうけど」

 なんだ。そういう理由か。でもこの時代の神殿だってすごく貴重だと思う。

「ふうん。……でも行ってみたいな」と言うと、

 夏樹は微笑みながら、「わかった。それに……」と言いよどむ。

 夏樹は言わなかったけれど、多分、考古学者としての血が騒いでいると思う。

 ……考えてみると、考古学者にとって歴史旅行ってご褒美に近いよね。

 (作者註:とはいえ、本作では歴史の事実通りではないのでご注意を)

 妙なナレーションが入ったけれど、星空の下に停泊する船で、私たちは波に揺られながら眠りについた。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください