10.星降る夜

 本当に静かだ。

 風もなく、波の音だけが、くり返し、くり返し聞こえる。

 あたりはすっかり暗くなり、頭上広がる満点の星空の明かりがほのかに大地を照らしている。

 桟橋に腰をかけて足先を海水につけていると、最近、ようやく海水も温かくなってきたのがわかった。季節が夏へと移り変わろうとしている。

 今日は美しい星空に魅せられて、夏樹と二人で夜の入り江デート。

 隣に座っている夏樹と、持ってきたワインを飲む。

 ……たまにはいつもと違うところで飲むのも、新鮮でいい。それもこんなに凄い星空の下でなら、ムードがあって最高だ。

 星明かりにほのかに照らされた夏樹の横顔に、わけもなくドキドキする。

 ふいっとこっちを向いた夏樹と目が合うと、包み込むような優しい顔でにっこりと微笑んでくれる。

 私の愛する旦那様。ずっとずっと寄り添って行く素敵な伴侶。

 幼いあの頃に、夏樹と出会えて本当に良かった。今更ながらに改めてそう思う。

 少し渋みのある赤ワインが喉を通っていく。

 ここナクソス島は、海の恵みも山の恵みもある素晴らしい島だ。……ただ、現代からやってきた私としては、トマトがないことがとっても残念。

 夏樹に聞いてみたところ、なんでもトマトは南米原産で、大航海時代にならないと伝わってこないとか。

 イタリア料理とかギリシャ料理などの地中海料理っていったら、トマトを使った料理が多いと思ってたから、これにはすごく驚いた。

 だってトマト代わりに使っているのはお酢らしいのよ。うちにはワインビネガーの瓶はあるけれど、やっぱりトマトとは違うから……。

 神の力で栽培しようにも、どこも無い赤い野菜は目立ちすぎて手を出せないのよね。

 おっとと、思考が全然関係ない方へと流れていっちゃった。折角の星空デートだもの、もっと楽しまないと。

「なあ、春香。また今度、どこかに船で行きたいね」

という夏樹に、私は前から行ってみたいと思っていた所を提案する。

「そうね。こないだはアテナイだったけど、今度はクレタ島はどう?」

「ああ、クレタ島か……。この時代だと文明の中心ではあるんだよな」

「でしょ? ナクソスやアテナイに無いものも見られるかも」

「それはいいけど、クノッソス宮殿は無理だぞ? それに見られるとしたら鋳造の工房ぐらいかも」

 もちろん、クノッソス宮殿は実際に使っているでしょうから、当然無理だってことはわかるわ。それも多分、ミノス王の居所でしょうね。でも、鋳造の工房?

 夏樹に尋ねてみると、

「ああ。クレタ島は青銅器の鋳造が盛んだったはずだよ。その技術が古代ギリシャの美術に大きな影響を与えていくんだ。……いや、もうちょっと後だったかな?」

「ふうん。なるほどね。夏樹はやっぱり何でも知ってるよね」

と寄りかかりながら誉めると、アハハと笑い、

「こう見えても考古学者だからね」

と言う。

 ――ううん。考古学の知識だけじゃないわ。いっつも私を導いてくれる。そういうところがとっても大好きなのよ。

 そう胸の中で独りごちていると、不意に夏樹が海を指さした。

「あっ。ほらっ、ご覧よ!」

 指を指す方向を見て、私は思わず息を吸うのを忘れるほどの光景に目が釘付けになった。

 海が、蒼く輝いている――。

 なんて、なんて神秘的な光景なんだろう。

 夏樹がゆっくりと、

「ちょっと時期が遅い気もするけど。たぶん、ホタルイカだよ」

と教えてくれた。

 すごいわね。波と一緒に揺れる蒼い輝きが、入り江の砂浜沿いにずらっと広がって行く。その一つ一つの輝きに、不思議な生命の神秘を感じ、声もなく夏樹と二人で見入っていた。

 こんな星空デートの夜に、なんて素敵なプレゼントなんだろう。もしかしたら、ギリシャの神々からの贈り物なのかもしれない。

 夏樹が、「よっ」と言いながら立ち上がり、私に手を差し伸べた。

「なあ、少し歩こう」

「うん」

 夏樹の手を取って立ち上がり、ワインやコップを桟橋に置いたままで二人で砂浜の方へと歩く。

 桟橋に繫留している三隻の船が、蒼く輝く海にぽっかりと空いた黒いシルエットとなって見える。そのそばを、いつものように腕を絡めながら通り過ぎた。

 ゆっくりと歩きながら、頭上を見上げると、キラキラと輝く天の川が広がっている。天空を横切り、水平線に向かって伸びている星々の煌めき。

 ギリシャ神話では、女神ヘラのお乳が流れたものという。

 そう思った瞬間に、――やだ。恥ずかしいわね。と誰かがつぶやいたような気がする。

 フフフと微笑みながら、私はぎゅっと夏樹の腕を抱きしめた。

 砂浜の中央に来たところで、海を向いて並んで座る。

 しばらく海の輝きを見ていたが、そのままごろんと仰向けに寝転がった。

 難しいこととか考えることなしに、こうやって仰向けになっていると、まるで大地に抱かれているような不思議な気持ちになる。大地の神が女神であるのも納得だわ。

 視界いっぱいに広がる銀河の星の輝きに、

「きれいね」

「ああ。東京じゃ絶対に見られないよ。登山した時とか街の明かりが干渉しないところでないと、これだけの星空は見えないなぁ」

 その言葉を聞いた私はざっと上半身を起こして、隣に横になっている夏樹を見下ろした。

「そういえば、海外出張であちこちに行っていたよね」

と言うと、

「ああ。っとそうだな。……星空だとアンデス山脈で見た星空が一番きれいだったな」

と思い出すようにつぶやいた。

 ゆっくりと夏樹も体を起こし、手を私の手に重ねる。優しくなでるその愛撫が心地よい。

「ボリビアにウユニ塩湖っていう塩の大地があってね。雨季には水を張って、見渡す限りの鏡のようになるんだ」

「うん」

「青空も映り込むけど、今日みたいな星空の夜はものすごく美しいんだ。水面に星空が映り込んで、まるで自分が本当に宇宙の中に浮かんでいるような気持ちになる」

 夏樹の話を聞きながら一生懸命に想像するけど、どうも私の想像力には限界があるみたい。

 でも、きっとものすごい絶景なのだろうなぁ。

「いつか絶対に連れてってよ」

 気がついたらそう言っていた。

 私の手をなでていた夏樹の手が止まり、ぐるっと私を抱き寄せる。息遣いを肌で感じながら、私の耳元で、

「もちろんだ。……それ以外にも、俺と一緒に世界中を旅しよう。俺の行ったことのある絶景ポイントも、未知の景色も。二人で探そうよ」

と夏樹のささやきが耳をくすぐる。――ひゃあっ。

 まるで風がふいっと頬をなでるように、夏樹が軽くキスをした。

 ものすごい至近距離で、夏樹は照れたような表情をしながらも、あの優しい目で私を見つめている。

 ああ、夏樹……。

 狂おしいほどの思いが突然わき起こり、私の体を突き動かす。

 がばっと夏樹を押し倒して、頭を抱えて何度も何度もキスをする。突然のことで夏樹がびくっとなるけど、この思いが止められない。

 愛してる。愛してる。愛してる! ――――。

 しばらくしてゆっくりと唇を離して見下ろすと、夏樹はめったにみられないとろけたような表情をしていた。

 その顔を眺めていると、急にぐいっと腕を引っ張られて――。

 それからのことは、二人だけの秘密。恥ずかしいし。

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