14.月の女神の訪れ

 日没が過ぎ、もうすっかり暗くなっている。

 私は前を行く夏樹に、

「もうどこかで野宿の用意をしたほうがいいわ」

「わかった」

 馬から下りた私たちは、余計なトラブルに巻き込まれるといけないので、街道を外れて荒野に足を踏み入れる。

 黒々とシルエットのような木と木の間を、手綱を手に慎重にすり抜けて歩く。

 複雑に絡み合っているような枝の隙間から空を見上げると、強い風によって雲は吹き飛ばされ細い半月と星々がきらめいていた。

 その20分後。私たちは一つの大きな岩の影で野宿をすることにした。

 馬を近くの木につなぎ、早速、薪をあつめて火をおこす。

 異世界で冒険者をやっていた経験があるから、野営の準備もお手の物よ。

 お夕飯の準備をしていると、馬たちにえさと水をやっていた夏樹が、

「おっ。いい匂いがしてきたな」

といいながら近くの地面に敷物を広げた。

 鍋の様子を見ながら、

「今日はね。久しぶりに鶉のシチューよ」

と言うと、夏樹が嬉しそうに笑い、

「折角だから、久しぶりにバゲットで食べないか?」

と自分の亜空間収納からフランスパンを取り出した。

 私は笑いながら、

「自重しなくていいなら、メインで何かお肉でも焼こうか? こないだのスブラキとか……」

と振り返った。

 その時、背後の大岩の上から、見知らぬ女性の声で、

「それならこれをローストしてくれないか?」

と聞こえてきた。

 ――え? ぜんぜん気がつかなかったわ!

 あわてて警戒しながら大岩を見上げると、そこには二匹の犬を従えた一人の女性が私たちを見つめていた。

 柔らかく降り注ぐ月の光の中で、輝く銀色の髪をして手には弓を持っている。神力を感じるから、この人もきっと神の一柱。思い当たるのは……、

 私はおそるおそる、

「もしやアルテミス様ですか?」

と声をかけると、女性はニコリと笑って犬と一緒に大岩から飛び降りてきた。

 ファサッと軽やかに降り立った女性は、野性的な魅力にあふれていて、まさしく狩猟の女神ということをありありと感じる。

 おっと、いけない。見とれている場合じゃなかったわね。

 私はシカの肉を受け取ると、

「じゃあ、早速調理します」

と亜空間収納から取り出した調理台の上に置いた。

 私の取り出した調理台を見て、アルテミス様が興味津々の様子で、

「へえ……。君らの時代にはこういうものがあるのか? 材質は軽い金属……、折りたたみもできるのかな?」

 あれこれ見ているアルテミス様をよそに、続いて調味料と包丁を取り出す。

 どうやら血抜きはおわっているようなので、まずはニンニクをすり下ろして塩こしょうとともにお肉にすり込む。

 フライパンをとりだしてオリーブオイルを熱し、強火でお肉を焼き、一気に表面が白くなる程度まで焼いて火から下ろした。

 つづいて調理用のビニール袋を取り出して、お肉とオリーブオイル、バルサミコを一緒に入れて寝かせる。もちろん、ビニールは物質創造で作ったものよ。

 その間にお鍋に水を入れて、火に掛ける。

 ぐらぐらと煮立ったところへコップ一杯の水を入れ、だいたい70度くらいになったところで、お肉をビニール袋ごとお鍋に入れた。

 私が調理している間に、アルテミス様は夏樹とワインを飲み交わしていた。

 おともの犬もちゃんとお座りしていて、行儀良くじっとしている。

「おお! もうアテナには会ったのか! 彼女は私の親友だぞ!」

「そうでしたか。盾までお貸しくださいましたよ」

「ぬぬぬ? アイギスの盾をか? ……本当だ。なら私も何か手伝ってやらないといけないね」

 二人の話し声を聞きながらお鍋を見ている。

 うん。そろそろかな?

 お鍋を火から下ろしてビニール袋を取り出した。

 お肉を取り出すとじんわりと温かい。ブロック肉を包丁でスライスすると、火の通りもちょうど良く中の方の脂身も適度に火が通っている。

 にゅっと私の肩越しにお肉を見たアルテミス様が、「これはうまそうだ!」と歓喜の声を上げた。

 早速、シカ肉のローストをお皿に並べ、シチューをそれぞれのお皿によそう。

 ワイングラスで乾杯し、三人で食事をはじめる。

 ロースト肉を食べたアルテミス様が、

「うまいな! 柔らかいぞ!」

と夢中で食べている。

「こっちのこれはパンか? こんなに膨らんでいるけど、これもうまい!」

 夏樹と顔を見合わせてほくそ笑む。

 あはは。まあ、確かにこの時代には無いものばかりよね。

 おもむろに夏樹が私に弓を差し出した。

「これをいただいたよ。アルテミス様の加護が加えられている。春香にって」

 シチューをぱくぱく食べていたアルテミス様が、スプーンをくわえたままで、

「いやあ。おいしかった。……これも使ってくれ」

とご自分の矢筒を渡してくださる。

「これは……」

「私の矢筒だよ。神器になるから人の手には負えないけど、まあ……、うまく使ってくれ」

 おずおずと矢筒を背中に背負うと、アルテミス様が「似合ってる!」と満面の笑みを浮かべた。

 夏樹も正面から私の姿をしげしげと見つめ、「本当だ」と目を柔らかく細めていた。

 アルテミス様が立ち上がりウインクをして、「ごちそうさま」といい、

「気をつけたほうがいい。ミノス王はポセイドンの呪いの残滓をその身に宿していて、人間以上の力を持っているはずだ。……じゃあ、また会おう!」

と言い残し、犬をしたがえて颯爽と林の中へと走っていった。

 その姿を見送る私たち。なんて慌ただしいのかしら。でもそれもらしいわよね。

「さすがは狩猟の女神だな」と夏樹がつぶやくと、その言葉に応えるように遠くから犬の遠吠えが響き渡った。

「ふふふ……」「はははは」

 夜空に私たちの笑い声が響き渡った。

 笑いがおさまったころ、気がつくと夏樹が私をじいっと見つめている。

 首をかしげながら見つめ返すと、夏樹は目を伏せて憂いを帯びた表情で、

「ポセイドンの呪いの残滓か……」とつぶやいた。

「どういうこと?」と尋ねると、

「もう一度、テセウスとアリアドネの伝説をおさらいしておこう」

と言いいながら、私の手を引いて焚き火のそばに座った。

 ゆらめく明かりを見ながら、夏樹が話しはじめた。

「ミノス王がポセイドンとの約束を破ったために、その呪いのために妻パシパエは雄牛を愛するようになった。

 そして、生まれたのが牛頭の怪物ミノタウロスで、ラビュリントスに封印されたという」

 私は頷きながら、

「それでアテナイから生け贄を出すことになったのよね? その中にテセウスがいて……」

「ああ、そうだ。ミノス王の娘アリアドネはテセウスに一目惚れして、ダイダロスの助言を得て、ラビュリントスの脱出手段と武器をテセウスに用意する」

 有名なアリアドネの糸玉よね。糸をのばしながらテセウスは迷宮に入り込んで、

「それでテセウスがミノタウロスを倒した」

「そして、テセウスはアリアドネを連れて行くが、途中のナクソスでアリアドネを置いていってしまう」

 まあ、そこまでは知っている。でも現実は随分違うわよね。

 私は夏樹に、

「でもそれはあくまで神話よね。だって今の状況と違いすぎるもの」

という。

「ああ。エヴァンスが発見したという迷宮は、実際には政治と物資の集積所であるクノッソスの宮殿だった。ミノタウロスなどというバケモノは聞かないし、ラビュリントスも存在しない」

 私は補足するように、

「それにアリアはミノス王の娘ではないし……」

とつぶやいた。

 新たな薪を火にくべた夏樹は、

「ただミノス王はかなり強いらしいし、クレタ島には牛に関する信仰があった。もしかしたら、雄牛タウロスのごときミノス王という意味で、ミノス王の事をミノタウロスと呼んでいるのかもね」

「え?」

「するとポセイドンの呪いの残滓があることも考慮して、戦闘力は人間以上であることは間違いないだろう。……それに」

 それにって、まだ何か気にかかることがあるのかしら?

「ラビュリントスはクノッソス宮殿とは別にあるのかも知れないよ。クレタ島には鍾乳洞がたくさんあって儀式の場となっていたはずだから――」

 ……それって、つまり簡単には行かないということよね。

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