22.帰路

 クレタ島が遠ざかっていく。

 来た時とは異なり、穏やかな海。日没を過ぎてすっかり暗くなっているけれど、月と星の明かりに照らされた海はまさにぶどう酒のような深い深い緑色をしていた。

 私と夏樹は自分たちの双胴船カタマランに乗って、ナクソスの入り江に戻る途中だ。

――――

 洞窟の外に出ると、カトレウス王とその兵士たちが半円状に洞窟を取り囲んでいた。

 なぜか入り口のそばにはオイディプスさんとアンティゴネさんもいて、私たちの帰還をまっていたようだ。

 まもなく夜が明けようという黎明れいめいにたたずむ彼らを見て、どうしたんだろうと思っていると、オイディプスさんが私たちに一礼し、

「これにてお役目は果たしました。またいずれ拝謁の日が来ることをお待ちしております」

と告げて、アンティゴネさんを連れてひょこひょこと去って行った。

 彼らを見送りながら、テセウスがあれからのクノッソス宮殿で何があったのか教えてくれた。

 テセウスが激しい戦いのすえにペリペテウスを倒し、カトレウス王とともに追いかけようとしたそうだ。

 しかし、宮殿の外に出た時にはすでにミノス王の行方がわからず、人海戦術で街中を探そうとしたらしい。

 そこへオイディプスさんとアンティゴネさんが現れて予言の形で行方を教わり、夜道を駆け抜けたという。

 洞窟の前にいる私たちの馬を見てこの中に追いかけていったことを確信し、いざ全員で突入しようとしたそうだけれど、オイディプスさんが「テセウス殿以外は入ってはならぬ」と止めたらしい。

 予言とあっては破るわけにもいかず、カトレウス王は悶々としながら私たちの帰還を待っていたとのこと。

 さっそくテセウスからミノス王を打ち倒したと報告し、その最後の言葉を伝えると、カトレウス王はぐっと詰まって目を閉じて黙り込んだ。

 遠い昔を思い返すようなその様子に、きっとミノス王を追悼しているのだろうと思う。

 ――それからクノッソス宮殿に戻ったところで、私と夏樹は先にナクソスに戻ることにしたってわけ。別れ際にテセウスとアリアがお礼に遊びに行くと言っていたので、今から楽しみにしている。

 物思いに耽っていると夏樹が隣にやってきた。

 船縁にもたれかかり二人で美しい星空を見上げる。

「この時代に来てから驚きの連続だったけれど楽しかったわ」

「俺もだ。それに生の時代にいるってのはすごいよ」

「ふふふ。夏樹ったら学者としての目で色々見てたもんね」

 私がそう言うと、夏樹は頭をかきながら「うん、まあな……」とどこか照れたようにつぶやいた。

 夏樹の方を見て、

「あら? 私はそういうところ好きよ。夏樹の見せる仕事の顔って格好いいもん」

「はは……。そうか?」

 うん。その照れてる様子もね。

 内心でそう思いながら、夏樹にもたれかかる。

 真夏の夜とはいえ海上は爽やかな風が吹いている。あの星降る夜のように今日も天の川が美しい。

 どこかのリゾートのような美しい入り江での二人暮らし。ナクソスのグロッタ港やアポロナスの漁村でのお買い物、そして、テセウスとアリアと出会った。

 ふふふ。アリアったら普段の気の強い女の子はすっかりと姿を潜めて、甘々な空気を醸し出していたわね。

 アテナイのパルテノン神殿では――、あ。

「ね。盾をお返しにアテナイに行かないといけないわね」

 そう夏樹に言うと、夏樹はゆっくりと首を横に振った。

「いいや。その必要はないみたいだよ。……いつのまにか俺の亜空間収納から消えていたから」

「え?」

「もう女神アテナの元に戻っていると思うよ」

「へぇ。そんなこともできるんだ」

 亜空間収納なんて、個人プライベートのスペースだと思っていたけれど。……なるほど。まあ相手が女神アテナだからなぁ。そういうのも簡単なんでしょうね。

「アテナイといえば、フィリラウスさんは元気にしているかな? アリアが無事って早く教えて上げたいわね」

 夏樹もうなづきながら、

「ああ。それも大丈夫だよ。アテナイ使節団の誰だったかが伝書鳩を飛ばしてたよ。……もう連絡が行っているだろう」

「そっかぁ。……よかった。じゃあ、これで本当に。本当にもう終わりってことだよね!」

 これでアテナイとクレタとの友好関係も強化され平和が訪れるだろう。

 それに私にとっては、これで再び夏樹とゆっくり入り江で過ごせるってことで万々歳だわ。

「――ねえ。もう暑くなってきたし、帰ったら入り江で海水浴しよっか」

 私がそう言うと夏樹もうれしそうに、

「おっ。いいねぇ。こっちではまだ海水浴はやってないもんな」

「ふっふっふっ。私の水着を見て惚れ直すがいい」

 そう胸を張ると、夏樹はふふっと笑い、

「これ以上、まだ俺を惚れさせるつもり?」

「うん。……私があなたを好きなのと同じくらい惚れさせるまでね」

「俺の方が春香のことを好きだぞ?」

 私はふいっと離れ、くるっと振り向いて、

「じゃあ、勝負する?」と笑いかけた。

 夏樹が近づいて私の手をとる。

 じいっと期待を込めて夏樹を見ていると、「ずっと引き分けだけど――」と夏樹の手がそっと腰に回される。「勝負だ」

 見つめ合ったままでゆっくりと静かに口づけて、「ずっと大好きよ」「俺もだ」と囁きあいながら二人でクルクルと踊る。

 頭上には美しい星空が広がり、その下で私と夏樹が離れては再び抱き合う。波の音を背景に、ハミングしながら甲板をクルクルと回る。

 ぐいっと今度こそお姫様抱っこで抱え上げられ、思わずキャッと声を挙げて私は夏樹の首に手を回す。クスクス笑う私に、夏樹も笑いながら船室に入っていった。

 ……さ、続きは晩ご飯の後にしましょう。

――――。

 船はナクソスの入り江にゆっくりと入っていく。

 ちょっと離れていただけなのに、随分と長い間を留守にしていたような気がする。

 そんなことを考えながら着船の準備をしていると、帆をたたんでいた夏樹が、

「なんだか久しぶりに帰ってきた気持ちがするな」

とまったく同じことを言った。

 同じ事を考えている。そんな何気ないことでも凄く嬉しくなって、「うん!」と明るく返事をして微笑んだ。

 桟橋に船を固定すると、ようやく帰ってきたと実感して全身に疲れがどっと出てきた。

 そんな私を見て、

「片付けは明日にして、今日はゆっくりしよう」

と言いながら、夏樹が私の手を引っ張って行く。

 う~ん、う~ん、と言いながら、手を引かれるままに下を向いて歩いていると、急に夏樹が立ち止まった。背中にごちんとぶつかって顔を上げると、夏樹がさっとしゃがみ込んで「ほら」と言う。

「ありがと」と言いながら夏樹の背中に負ぶわれる。

 ふと中学生の時の事を思い出した。林間学校で靴擦れをした私を、背負ってくれたあの時を。

 いつも私って守られているんだよなぁ。ぎゅっとしがみついて首元に鼻を埋めると、

「くすぐったいって」

と夏樹が言う。「ん~。ごめん」と素直に言うけど離れはしない。

 一歩歩くごとに、たくましい背中越しに揺れる風景。夏樹がちらりと振り向いた。

 負ぶわれたままで砂浜から家までの坂道を上っていく。

「ごめんね。重いでしょ」というと、

「……昔も言ったろ? 春香ならいつだって負ぶってやるさ」

 ふふふ。あの林間学校も楽しかったなあ。幸せな思い出に胸が温かくなるわ。

 でも、もうあの頃と違う。夏樹と夫婦になって、それなりの年月をともに過ごしたんだから。

 私は夏樹の背中でくすっと笑ってぎゅっとしがみつき、

「えへへ。あの頃よりおっきくなったでしょ?」

と言うと、夏樹もはははと笑った。

「あの頃はあの頃で良かったんだぞ?」

「あら、そうだったの? だってあの時、もっと大きいとうれしいって――」

「否定はしないよ。ただあの頃の春香も大好きだったし」

「……ばか」

 私だって大好きだったんだから。そう思いながら、耳元で、

「――さんきゅ」

とささやく。ありがとうね。いつもいつも。

 海から吹き上がってきた風が私たちを通り抜けていく。

 遠くの空はすでにオレンジに染まっている。夏の夕暮れ。

 妙にノスタルジックな気持ちになりながら、私たちは家に帰り着いたのだった。

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