テセウスの話を聞いた私は、何とも言えない気持ちになってしまった。
ペイリトオスがクーデターを起こしてアテナイの王となった。
そして、ゲオルギウスさんは実はペイリトオスの派遣したスパイ。
……ただ、話を聞く限りだと。
テセウスが、
「おそらくゲオルギウスさんは途中で計画を知ったに違いないと思うんです。その上で、僕らが生き残る可能性が高い方法を選んだと思います」
うん。……それでも随分な賭だったけれどね。
夏樹は腕を組んで考え込み、
「状況はわかったよ。だけどここは安全だから安心していい。……あとはアリアの様子だな」
みんなで心配そうにアリアを見つめる。
今は静かに寝息を立てている。テセウスも辛いと思うけど、王子でもあったテセウスのことだ。まだ納得はしているのだろう。でもアリアは。
夏樹が私に、
「春香。何かの時はアリアを頼む。俺は少しアテナイの様子を調べないといけない」
と言う。慌てて手をつかんで、
「ちょっと。一人で行くの?」
「……とりあえずナクソスのグロッタ港までね」
そう。確かに今のアリアを放ってはおけない、か。
私がうなずこうとした時、かすかに誰かが呼ぶ声が聞こえてきた。
「おお~い。誰かいないかぁ!」
夏樹が腰を上げて、
「一体誰だろう? ちょっと行ってくるよ」
と言いながら、玄関へと向かった。
私はテセウスに、
「あなたは見られるとまずいかも知れないから、部屋から出ないでね? あと、ちゃんと二人とも守ってあげるから心配しないで」
と言い置いて、部屋から出る。
すぐに回廊を玄関の方に向かうと、向こうから夏樹の驚いている声が聞こえてきた。
なにかあったのかしら?
小走りになって行くと、そこには行商人の男の人がいた。
夏樹が、
「いやいや。最初は誰かわかりませんでしたよ」
「そうかい? 頭を剃っただけなんだけどね」
行商人の男性がそういってツルツルになった頭を撫でる。
……うん? どこかで見覚えがあるような気がする。
男性が私を見てパチリとウインクした。
「やあ、奥方。お久しぶりです」
その声と握手のために右手を差し出す様子を見て、私の記憶がフラッシュバックする。
「ふぃ、フィリラウスさん? え、ええ!」
思わず大きな声を出してしまって、あわてて手で口を押さえる。
フィリラウスさんは明るく笑いながら、
「ははは。ともあれ中に入れてもらっていいかな?」
私は、ダイニングにフィリラウスを案内してハーブティーをお出しする。
夏樹がすぐに、
「よくぞご無事で」
「ああ……。もう聞いているのか? 情報が早いな」
フィリラウスさんはそう言うと、
「実はね。私も神託をいただいていてね。“死を偽装してナクソスへ行け”ってさ」
なんとなく女神アテナの顔が浮かぶ。
そっか。アテナイに吹く嵐ってクーデターのことだったのね。
そう思っているとフィリラウスさんが突然物憂げな表情になって、
「……テセウスとアリアが心配なんだ。もともとゲオルギウスにペイリトオス殿の動向を探らせていたんだが、テセウスと一緒にクレタに行かせたからねぇ。ミノス王を倒してアリアを救出したとは聞いたんだが」
とつぶやいた。
私は夏樹と目を合わせてうなずいた。
さっと立ち上がり先に客室に向かう。
後ろから事情を説明しようとする夏樹の声が聞こえてきた。
「実は――」
――――
客室に入ると、アリアがようやく目を覚ましたところだった。
テセウスがベッド脇に膝をついてアリアの手を握りながら何かを語りかけていた。
アリアの目から涙がこぼれる。
すぐにそばに行き、
「テセウス。アリア。いい知らせよ。フィリラウスさんは生きている。……今、来てるのよ!」
と教えると、二人ともガバッと身体を起こした。
「「本当ですか!!」」
そこへ部屋の外から走ってくる音がして、ガタンっと扉が勢いよく開き、フィリラウスさんが飛び込んで来た。
「アリア!」
一目散にフィリラウスさんがベッドに駆け寄りアリアを抱きしめる。互いの無事を確かめるように強く抱き合いながら、すすり泣く声が聞こえてきた。
私は見守っているテセウスの肩をポンと叩き、一緒に部屋の外に出た。戸口で夏樹が待っていて、三人でしばらく回廊で耳を澄ませながらたたずんでいた。
テセウスが、
「これもお二人のお力ですか?」
と言うので、首を横に振って微笑みながら、
「いいえ。違うわよ。あなた二人は海の女神のアンフィトリテ様が連れてきたのよ。フィリラウスさんは多分、女神アテナね」
「……アンフィトリテ様」
「あ、それと私たちの正体は内緒」
そう口止めをするとテセウスは神妙な表情でうなずいた。
夏樹が、
「テセウスもそろそろ部屋の中に入った方がいいだろう。俺たちはダイニングにいるから、落ち着いたらでいいけれど、これからどうするかを話し合っておくんだ」
「わかっています。ここでお二人に迷惑をお掛けするわけには参りません」
私は明るく微笑んで、
「アテナイから離れて、この島に住むっていうのもいいかもよ? 顔なんて知られてないだろうし」
と言うと、夏樹もうなずく。
「そうだな。……名前も変えて親子三人で暮らしたらどうだ?」
するとテセウスはしばし考えて、「はい。よく話し合ってみます」と言った。
テセウスに軽く手を上げて、私たちはダイニングに向かう。あとは彼らが自分たちで決めることだ。
――――
「あ~。まさかこんな事になるなんてね」
と厨房に立つと、夏樹がイスを持ってきて背もたれを前にして座り、少し疲れたようにつぶやいた。
「たしかにね」と言いながらかまどに火を入れ、先ほど作りかけていたおだしを温める。
「元気ないわね」
「……まあな。なんか疲れたよ。結局、俺たちのやったことは意味があったのかなって思ってさ」
「あらあら」
私はそう言いながらイスの背もたれにあごを乗せている夏樹の頭を撫でる。ふさふさ、ふさふさ。
気持ちよさそうに目を閉じる夏樹に、
「夏樹はがんばったよ。ね? あの三人が生きてここにいるってのは、夏樹のお陰だよ」
「う~ん。そうかなぁ」
「うん。がんばった。ずっと見ている私が言うんだもの。間違いないって」と言いながら、頭にキスをする。
「……」
そっと目を開いて床を見つめている夏樹。私はイスごとぎゅっと抱きしめる。胸に抱え込んだ頭に手を回して、髪をもふもふする。
「真っ直ぐな人もいれば、影で色々と動く人もいる。幸せを望む人もいれば、権力を求める人もいる」
「……」
「それを見て、苦しくなるし、しんどくなるよね。……でもね。夏樹」
「……ああ」
「私はずっとあなたの横にいる。だから……、いつでも甘えていいのよ? 私たちは二人で一つの夫婦なんだから」
少し離して上から夏樹の顔をのぞき込むと、夏樹は少し赤らんで私を見上げていた。
そっと笑いかけて、
「あなたがいてくれて、私は幸せよ。……だから元気出して」
と再び額にキスをした。
お鍋が湧いてきた音がしたので、そっと離れてかまどの方へ行く。
フライパンにお鍋からスープを入れお米を入れる。途中で白ワインを入れ塩と胡椒で味付けを調える。スープを足したりしながら水分を飛ばし、ちょびっと取り分けて味見。……うん。あとはチーズを掛けましょう。
料理をしている間、夏樹は頬を染めながらじいっと私を見ていた。時折ニマニマしているところを見ると、気を持ち直してきているんだろう。
フライパンを火から下ろして、チーズを削り板でパラパラと削りふりかける。
夏樹がイスから立って、私を後ろから抱きしめる。
「まだ作ってる途中よ?」と言いながらも、後ろを振り向くと優しい目で私を見ていた。
「春香。……惚れ直した」「えへへ。それなら態度で示して欲しいなぁ」
途端にぎゅっと抱きしめられて、がばっと唇が奪われる。
情熱的なキスに夏樹から愛してるって気持ちが伝わってくる。左腕をのばして背後の夏樹の頭を抱え、“愛してる”って気持ちを練り込むようにいつまでもキスを続ける。互いの想いが重なり練り合い、絡み合い、溶け合っていく――。
ガタンッ。
音がして、私と夏樹は同時に我に返った。
唇を離して正面を見ると、照れくさそうに鼻の頭を掻いているフィリラウスさんに、真っ赤になったテセウスとアリアがいた。
「「あ」」
ええっと、さすがに今回はかなり恥ずかしいかも……。