03.託された幼な子

「ふわあぁぁぁ」
 隣で春香が眠そうに欠伸をしている。

「後ろの荷台で少し横になるか?」
「ううん。隣がいい」
「そっか。ならもっと寄りかかっていいぞ」
「うん。そうする……」

 まるで子供のようなことを言いながら、春香は俺の右肩によりかかって、すぐに寝入ってしまった。

 |隴中ろうちゅうを出発した俺たちは、順調に帰り道を進み、おそらく今日中には家にたどり着くだろうところまで戻ってきている。
 昨夜泊まった宿では、他にも旅人がいて同じ部屋で寝ることになってしまった。それもあって、きっと眠れなかったのだろう。
 もちろん、俺たちは部屋の端の寝台で、寄せ合うように寝てはいたけれど。他の人がいるといないとでは違うからね。

「すぅー。……すぅー」
 穏やかな春香の寝息が聞こえてくる。起こさないように慎重に俺はロバ車を進めた。

 どこかいい匂いのする髪が肩をくすぐる。このぬくもりが、かけがえのない宝物のように思う。

 今日の|渭水いすいは上流部で雨でも降ったのか、いつもより水量が多いようだ。風もどこか湿り気を帯びてきているから、きっとこの辺りもこれから降るのだろう。
 できれば帰宅するまで、天候が保ってくれるといいんだが。

 何事もなく大きな街道から、俺たちの家のある山の中へと向かう林道に入った。そのまま細い林道を少し急がせていく。

 春香がううんと言いながら、ようやく目を覚ました。左右をきょろきょろと見回して、俺と目が合った。まだ寝ぼけているようだな。

「ん~……。ふふっ」
 急に含み笑いをして、がばっと抱きついてきた。
「おわっ」
 体をひねって春香を受け止めるが、危うくロバ車から転げ落ちそうになった。そんなことにも気がつかずに、春香はぐりぐりと顔をすり寄せている。
 まったく……。俺もそうだが、春香も寝起きが弱いんだよな。

 長い髪が顔に当たってくすぐったいのを我慢して、背中をトントンと叩いてやった。
「ほら、目を覚ませって……」
 そっとその頭にキスをすると、ようやく顔を上げた。

「甘えん坊さん。おはよう」
 再びチュッとキスをすると、春香はにへらっと笑顔になった。
 身体を離して、ん~と伸びをして、
「ふぁ~あ。すっきりした!」
というものの、再び欠伸をしている。その拍子に空模様に気がついたのだろう。
 そのまま上を見あげて、
「なんか雨降りそうだね」
と心配そうにいう。
「あと1時間ほどで家だ。なんとか保てば……」
と言いかけたとき、春香が何かを見つけた。

「あれ? ……ちょっと待って!」
 ロバ車を停止させる前に、春香はさっと馭者台から降りて林の中に入っていく。

「ちょっと……」
 一人だと危険だぞ。

 急いでロバ車を止めて後を追って林に飛び込むと、茂みの影に隠れるように一人の女性が倒れ込んでいた。
 春香はそのすぐ横にしゃがみこんでいる。かすかに息があるようだ。

 俺は周りに危険がないかどうか気配を探りながら、その女性の様子を確かめる。
 ……|ひどいな。
 途中で履き物をなくしたようで、足が血と土が混じり合って傷だらけになっている。
 よく見ると来ている衣類にもところどころ穴が開いていて、すっかり乾いた血の跡が見える。
 あの傷は矢を射かけられたようだが、いったい何かから逃げてきたのだろう。まさか盗賊に襲われたのか? 今のところ気配はないが……。

 ろくに食事も水もとっていなかったようだが、すでに|衰弱すいじやくしきって顔が青白くなっている。もう意識もほとんどなく、残念ながらもう助からないだろう。

 その女性がかすかに目を開けた。ブルブルと震えながら右手を宙にのばす。
 春香がその手を握り、さっと女性の口元に耳を寄せた。かすかな声を聞いて、うなずいている。
「わかったわ。任せなさい。……だから安心してゆっくり眠りなさい」
 
 その言葉を聞いた女性はかすかに微笑むと、ふっと力が抜けたように目を閉じた。

 じっとその女性を見つめる春香の肩にそっと手を乗せると、春香が首を横に振る。
「……息を引き取ったわ」

 見知らぬ女性とはいえ、こうして看取ることになったのも何かの縁だろうか。なんともいえない痛ましい気持ちになる。
 どうにかここまで逃げてきたのだろうが、もう少し早く出会えていたら間に合ったのかもしれない。

 今は眠っているように横になっている女性。そっと黙祷を捧げようとしたとき、春香が女性の脇から大きな布包みを取り上げて抱え込んだ。
 慎重な手つきで布を開いていくのを見守っていると、急にその包みがびくんと動いた。

「|ニャーン《おかあさん》! ニャン!」

 春香がぎゅっと抱きしめて、
「大丈夫。大丈夫。あなたのママはここにいるわ」
と耳元でささやきながら、ゆっくりと揺りかごのように身体を揺らして、その子をあやしている。

「ニャン――」
 けれども実の母が亡くなったことを本能的に悟っているのか。その子はお母さんを呼びながら激しく泣き続けた。
 暴れるその子の指が頬をひっかくが、構うことなく春香は辛抱強く抱きしめている。「大丈夫。大丈夫よ。ここにいるわ。大丈夫」
 小さな背中を優しくトントンと叩いたり、さすったりしながら、ひたすら耳元でささやき続ける。
 春香の目から、きらりと涙がこぼれ落ちた。あたかもその子に訪れる悲しみを、その一身で引き受けようとするかのように。
「大丈夫よ。大丈夫――」
 俺はそっと春香の背中に手を添えた。ちらりと俺を見る目は切なげだった。

 やがてその子は泣き疲れて、電池が切れたようにすとんと眠りに落ちた。
 けれども春香は「大丈夫。あなたのママはここにいるのよ」と、まるで子守歌のように、そっとささやき続けていた。

 俺はロバ車に戻って布を取り出して、亡くなった母親の顔を拭き清める。そのまま女性を抱きかかえ、荷台に横たえた。
 ……せめてお墓をちゃんとした場所に建ててやらなくては。

「ねえ。夏樹……」
 すがるような目で俺を見つめる春香。その目を見るまでもなく、春香が言いたいことはわかる。
 その子を――。託されたその子を育てたいんだろう。

 子供のいない俺たちには、当然、子育ての経験はない。けれども、その大変さよりも、その子に一人前の人生を歩ませなければならない。その責任がある。
 だから、決して自分たちが子供が欲しいからという安易な気持ちで、その子を育ててはいけないと思う。それが、かつて俺たちの生きていた平成の日本だったならば……。

 まあ、ぐだぐだ言わずとも、俺も春香と同じことを考えている。
 その子を放り出すという選択肢はない。ただ……、親になるのはそんな軽いことじゃない。必要なのは覚悟だ。

 その子がどのような人間になろうとも、親として愛し続けるという覚悟。
 必ずしも善人になるとは限らない。悪いことだってするかもしれない。それでも親は無条件で子供を愛するものだ。
 みずから腹を痛めた子ではないのだから、なおのことその覚悟が必要だろう。

 俺は春香のそばにより、その腕に抱かれている幼子をのぞき込んだ。黒い髪にぷっくらした頬に、涙の跡が残っている。
 ややつり目がちだが、それは母親譲りなのだろう。そっと頭を撫でる。幼子独特の細く柔らかい髪を触っていると、不思議な実感が湧いてきた。

 そっか。この子が……、

 俺たちの一人目の子供になるんだな。

 心配そうに俺を見上げる春香に、にっこりと微笑みかけ、
「名前はどうする?」
 すると春香はほっと安心したような、うれしそうな笑みを浮かべ、少しあわててその子の服を持ち上げた。
「あっ、名前? 名前は|碧霞へきかよ。……ほら、ここに縫い付けてある」
 そこにはつたないながらも丁寧に名前が刺繍してあった。

 ゆっくりと指でなぞる。
 碧霞……。女の子だ。

 母親は、まだ若い女性だった。
 きっと娘が大きくなるのを見たかったに違いない。もっともっと一緒に暮らしたかっただろう。成長した娘と、友達のように笑い合いたかっただろう。
 どのような気持ちでこの布に針をあてたのだろう。なにを願いながら糸を重ねたのだろう。……そして、いったいどのような悲劇が彼女を襲ったのだろう。

 碧霞という名前のように美しい青緑の糸。そこに込められた母の愛。その愛を、これからは俺たちがこの子に与えなければならない。

「そっか。碧霞か。いい名前だ」
 眠り込んでいる碧霞を見下ろし、
「碧霞。これからは俺と春香がパパとママだぞ」
と語りかけた。

 そういえば母親の名はなんていうんだろう……。あとで形見になるものなどを探しておかないといけないな。
 いつか。この子が大きくなったと時に、君の実の母は命がけで君を守りぬいたんだよと教えるために。

 その時、不意に雨が降り出した。
「やば!」
「急ごう!」
 俺と春香はあわててロバ車に乗り込み、自宅への道を急いだ。

◇◇◇◇
「すっかり濡れちゃったな」
 林道の上に張り出した枝葉でそれなりに雨を|しのげたものの、俺たちの家に帰り着いた頃にはびっしょりと濡れてしまった。

 俺たちの家とはいっても、むき出しの岩壁にあった洞窟を改造して家にしたものだ。
 夏暑く冬寒いここの気候には、こうしたヤオトンと呼ばれる地中の家が適している。どういうことかというと、地中の方が温度が安定していて|冬暖夏涼トン・ヌァン・シャ・リャンだからだそうだ。
 事実、ここから北方の黄土高原地帯では、地面を四角く掘り抜いて、そこからさらに横穴を掘る形式の住居もある。

 岩壁にぽっかり空いた洞窟。
 その入り口から5メートルほどのところに石壁を作ってあり、そこが玄関になっている。設置した木の扉を開けて中に入ると、そこは広いエントランスだ。

 入り口脇のランプに火をともし、左手にある階段を上がる。
 2階は、キッチンダイニング、バスルーム、トイレがあり、さらに3階に行くと俺たちの主寝室とお客さん用の部屋があるのだ。

 2階のバスルームからタオルを取ってくると、すぐに後から春香が碧霞を抱っこして階段を上がってきた。
 大きなタオルを春香の頭の上から掛けてやる。
「さんきゅ」
「碧霞は大丈夫か?」
「うん。抱え込んでいたから大丈夫よ」

 碧霞をのぞき込むと、タイミング良く身じろぎをしはじめた。
 そろそろ目を覚ましそうだな。その前に……。
「俺は、碧霞のお母さんをご安置してくるよ」

 春香にそう告げて、俺は1階へ向かった。一時的にも、碧霞の母親を安置する場所を用意するためだ。

 結局、玄関を入ったエントランススペースに作業用の台を置いて布を掛け、そこに安置することにした。
 さっそく雨が上がったら、良い場所を探してお墓を作らなければならない。それもなるべく早く、碧霞に見られる前に。
 そうでないといつまでも悲しみが続いてしまうだろうから。

 作業を終え、ロバを厩舎に連れて行ったころには雨がやんでいた。

「風が……」

 上空は強い風が吹いているのだろう。
 まるで雲の中で竜がうごめいているかのように、時折、稲光を走らせながら、黒々とした雲が見る見るうちに東に流れていく。

 不意に2階の窓から碧霞の泣き声が聞こえてきた。一生懸命あやしている春香の声を聞きながら、俺も家に入った。

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