06 商の都へ

 年が明けて季節は廻り、夏の日差しが大地を照りつけている。土埃の舞う街道を、俺たちは商の都に向かっていた。
 碧霞も上手に馬に乗れるようになってきてはいるが、さすがに長時間の乗馬にはまだ慣れていない。乗れるようになったら商の都に行こうと約束していたが、まだそれには早かった。
 けれども、とある知らせを受けこうして俺たちは今、殷に向かっているところだ。ちなみに碧霞は春香の操るロバ車の荷台で休んでいる。
 俺はというと、護衛の意味もあって一人で馬に乗って、ロバ車の横を歩かせていた。

 中国の都市は大抵が大きな壁に覆われている。その壁の外にも民家が広がっている場合もあるが、街道にも関所があって、そこを通るには通行証が必要だった。
 俺たちは宋異人さんから貰った通行証を利用して、商の支配域に入り、牧野の地から北に向かっている。
 さすがに西域をつなぐ主要街道ともあって、道は広く整備されていた。行き交う人々も増えており、いよいよ都が近くなってきているようだ。

 街道の横には水量ゆたかなエン河が流れており、川沿いに日差し避けの木々が生い茂っていた。周りには青々とした田畠が広がっている。

 やがて一際大きな街の姿が見えてきた。立派な防壁がずらっと広がっていて、その威容を天下に示しているように感じられる。いよいよ殷に到着したのだ。
 門を通り抜けて広い通りをゆっくりと進む。
「うっわぁ」
 荷台の碧霞が感嘆の声を挙げている。ふふふ。まあお上りさんのお約束といったところか。
 殷の街には漆喰や石造りの建物が広がっていた。さすがに大都市。立派な建物が多い。

 目を輝かせてキョロキョロしている碧霞も今年で11才となり、最近急に体つきが女性らしくなってきたように思う。……まあ、まだまだ子供だけどね。

 さて、こうしてはるばるとやってきた理由は、お祝いをするためだった。なんでも姜子牙くんがとうとう結婚したのだという。
 宋異人さんからの連絡によれば、お相手はここより南の豪族である馬氏の娘で、取引のある家らしい。
 馬一族も先祖は姜族の血を引いているという話で、それもあって婚姻の話が進んだという。なんでも、武門の出身でなかなか気の強い娘らしいから、さすがの彼も奥さんの尻に敷かれているのではないだろうか。

「あ、あれが宋異人さんの屋敷かな?」

 どこか|隴中ろうちゅうや|豊邑ほうゆうにあった、彼の屋敷と似ている家が見えてきた。

◇◇◇◇
 驚いたことに、宋異人さんの屋敷で再開した子牙くんは、心底くたびれた表情を浮かべていた。生気を失ったように覇気が感じられない。

 あまりの変わりように、
「ど、どうした?」
 思わずそう声をかけると、子牙くんは、俺の背後にいる春香と碧霞を気にしながら、
「え、ええ。ちょっと色々とありまして」
と言葉を濁す。

 春香たちには聞かせられない話か? ……このやつれ具合。このまま放ってはおけないぞ。

 心配そうにしている宋異人さんに目配せをすると、うなずいてくれて、
「春香様、お嬢様。珍しいものを手に入れましたので、こちらへどうぞ」
と2人を外に連れ出してくれた。
 春香は、自分たちがいると子牙くんが話しにくいということに気がついているようで、黙って部屋から出て行ってくれた。

 子牙くんと2人になったところで、テーブルに向かい合って座う。
「一体なにがあったんだ?」

 すると重い口を開いて、あれからの事を話してくれた。

 前々からかなり気の強い女性とは聞いていたそうだが、最初はそれもかわいい我が侭なんだろうと思っていたそうだ。
 けれどすぐに、それが間違いだと気づかされたという。実際は猛烈だったとは彼の談だ。

 いわく……、
 朝早くから「いつまで寝てるのよ! 朝の稽古をするわよ!」とたたき起こされ、槍を持ってコテンパンにやられていること。
「そんなんじゃ、軍で活躍できないわよ。馬氏たる私の夫がそんなんじゃ困るから、たたき直してやる」と、鼻息荒く宣言されている。そのため毎日生傷が絶えないらしい。

 宋異人さんから新婚だということで早めに帰宅するように言われたが、いざ戻ると「なんでこんなに早く帰ってきたの! 私がのんびりできないでしょ! はっ。もしかしてクビになったんじゃないでしょうね?」と。

 そうかといって帰りが遅くなってしまうと……。
「さっさと帰ってきなさいよ! いつまでも食事の片付けができないでしょ!」

 またある時は「ああ、帰ってきたの。竹ざるを編んでるから、食事が終わったらアンタもやるのよ。少しでもいい生活をするために儲けないとね! あなたは鈍くさいところがあるから、いつクビになるかわかんないんだし」

 またある時は、同じ馬一族の人から頼まれて、飼育していた牛を店で売ってくれと言われるが、宋異人さんの店では牛は取り扱っていない。それで断ると……。「なんですって! 私の顔をつぶすつもり? この役立たず」――――。

 |あわれ、子牙くん。
 さすがは武門の娘といおうか、なんとも激しいというか。これ何て言ってやればいいんだろう。

「もう夫婦げんかばかりで、家に居ても気が休まらないのです。老師。なにか良い方法はないでしょうか」

 ……ああ。力ない目をしている。これが恋愛結婚だったなら、「恋愛と結婚は別だよ」と言ってやるんだが、彼の場合はまた違うからなぁ。それに恋愛生活も夫婦生活も、俺は春香としか知らないからアドバイスのしようがない。

 正直に言って、最初っから2人は合っていなかったのだろうと思う。
 きっと彼の奥さんにとっての尊敬する基準というのが武術なのだろう。きっと文士タイプの子牙くんが頼りなく見えているに違いない。だから厳しく当たってしまう。

 もっともこの時代、武術を身につけることは必要なこと、特に彼にとっては必ず必要になってくる。その意味では、槍の修行についてはやめない方がいいとは思う。
 ただなぁ。この様子だと、すでに自信を無くしてしまっている気がする。
 新婚早々に、悪循環に陥っているというわけだ。

 この辺り、聡明な女性ならうまく彼のやる気を引き出して、自信を持たせつつ練武をさせることができるのだろうけど……。経験不足というか、きっとその奥さんも一族との付き合いしかしたことがないのだろう。付き合いがせまく武門の男ばかりだったのではないか。

 難しいな。逃げるようだが、できれば春香の意見も聞きたいところだ。

「実は昨日から胸の辺りがキリキリと痛くって……。夜も眠れないですし」

 子牙くん、それは胃が痛いんだよ。穴が開くまでは行っていないだろうけど。確実にストレスが彼の身体を|むしばんできているようだ。
 これはまずいな。体調を崩したら、ますます軟弱者めと言われそうな気がする。

 その時、廊下の向こうから宋異人さんの声が聞こえてきた。誰かを連れてやってきているようだ。

「――らです。はい。ですが、今はお客様が――。いえ。我が商会の大恩ある方で――。はい――」

 宋異人さんに案内されて部屋に入ってきたのは、白髪のご老人だった。身なりや雰囲気からかなり高位の役人のようだ。
 子牙くんが飛び上がって、あわてて抱挙礼をした。俺も立ち上がって同じように抱挙礼をする。

 ……だれなんだろう。

 なにも知らない俺を気遣って、子牙くんが挨拶をする。
「これはこれは。商容様。ご来訪ありがとうございます。……こちらは私が尊敬しております夏樹様でございます」

 商容様? それって商の宰相じゃないかっ。
 内心で驚いていると、そのご老人が、
「話し中にすまんな。……夏樹と言ったか。少し邪魔をするよ」
と言って、さっきまで俺が座っていたイスに座ったので、入り口脇で控えている宋異人さんの横に並んだ。

「子牙。座りなさい。お主に話がある」
「はい」

 ……これは俺も聞いていていいのか?
 ちらりと横を見ると、宋異人さんが大丈夫というようにうなずき返してくれた。
 それならいいけど、一体なんの話だろうか。

「実は宋異人殿よりお主が苦労しておると聞いてな。これは丁度いいと思ったわけだが……、お主、|わしの部下になって商に仕えんか?」

 これは驚いた。宰相直々にスカウトに来たのか。

「商容様。私の家庭のことでご迷惑をおかけするわけには参りません」
「いやいや。そうではない。儂の補佐をする人物が欲しくなったところで、お主の話を聞いたにすぎん」

 商容様は姿勢を正して子牙くんに|正対せいたいした。

「我が国は長い間、祖霊の力に守られて繁栄と平和を|謳歌おうかしておる。
 しかし、ずっと懸念であったのは|にえの在り方じゃ。甲骨によるものとはいえ、生けにえを狩り集めて捧げるのは残酷である。
 ましてや東には昔からの強国が我が国を狙っている。陛下は生け贄を取りやめて戦力とし、この国をより強くしたいお考えじゃ。
 ……お主は宋異人殿のもとで西方の情報にも精通しておろう。その力を貸してほしいのじゃ」

 子牙くんはちらりと宋異人さんを見た。宋異人さんは黙ってうなずきかえしている。その様子が、俺には話を受けなさいと言っているように見える。

「まったく|女人にょにんは|ぎょしがたいものよの。
 お主の妻は武門たる馬氏の出。おそらく夫に武の才能が無ければ、それに替わる何か、才能や立場がなくては家の中が治まるまい。なれば、お主にとってもこの話は悪くはないぞ。
 ……そして、宋異人殿にとっても我が国への窓口ができることになる。そうであろう?」

 そう言って商容様が振り向くと、宋異人さんはうなずいて、
「まさにその通りです。商容様。……子牙は私の腹心の部下。必ずやお役に立てるでしょう」
「うむ。……それでどうじゃ?」
 商容様は子牙くんに尋ねた。この話を受けるかどうかを。

 子牙くんは座ったままで礼をし、
「はい。そのように仰っていただけるのであれば、謹んでお受けいたします。……宋異人様。今まで私を育ててくれまして深く感謝しております。この御恩は必ずや」
「ははは。子牙よ。私のことを恩だと思ってくれるなら、商容様にその分お仕えしなさい。いいね」
「はい。本当にありがとうございました」
「……よし。それでは明日からさっそく、儂の屋敷に来てくれ」
「はっ。これからよろしくお願い申し上げます」
「うむ。……それでは宋異人殿。儂は所用があるからこれで失礼するが、またな――」

 そう言うと、商容様は宋異人様とともに部屋から出て行った。

 2人きりになったところで、
「子牙くん……」
「まさかこのような事になるとは思いもしませんでした」
「俺も驚いたよ」

 それから宋異人さんが見送りを終えて戻ってきて、子牙くんと今後のことを話すことになった。
 こういう状況でなければ、都を案内してもらおうと思っていたが、とても言い出せる状況ではないようだ。
 俺は、春香と碧霞が戻ってきたところで、子牙くんにお祝いを告げて、早々に屋敷を辞したのだった。

◇◇◇◇
 宋異人さんの手配してくれた宿に馬を預けたあと、俺たちは少し街をぶらぶらと散歩することにした。

 3人で川沿いに整備されている並木道をゆっくりと歩く。
 夏場の昼下がりではあるが、現代のように熱気がムンムンしているということはない。季節柄、それでも暑いものは暑いが……。
 道を歩く人も多いけれど、その身なりはさすが都の人というべきか。|隴中ろうちゅうの人々などよりもずっと上等なものを着ている。
 よく見ると召使いらしき人の姿も見え、上級階級の屋敷に属する人も多いのだろう。

「ねえ。パーパ。子牙様の奥さんってどんな人なの?」
「どうやら武門の出のお嬢さんで、かなり気が強い人のようだよ」
「ふぅん。……きれいな人なのかな」
「さてね。まあ――「いや、マーマほど美人じゃないのはわかるけど」そ、そうか」

 言おうと思っていたことを碧霞に先に言われてしまった。
 碧霞は、クスッと笑うと、
「パーパにとってマーマが一番だってわかってるもの」
と言う。そのまま空を見上げて、
「お嫁さんか……」
とつぶやいていた。

 まだ子どもと見ていたけれど、やはり思うところはあるのだろう。
 ……山中での暮らしでは出逢いもない。まだ早いとは思っていたが、やはり町へ引っ越しすることも考えた方がいいのかもしれない。
 碧霞に寄ってくる虫に、イライラするかもしれないけれどさ。

 川向こうを見ていた碧霞が何かに気がついたようだ。
「たくさん煙が上がっているね。あれはなに?」
 たしかに向こうは壁に覆われたいくつもの建物があって、そのあちこちから煙が上がっている。
 この都もやがて寂れ土の下へ埋もれていく。後に発掘され殷墟とわかるんだが、有名な遺跡だったのでその遺構配置はうっすらと憶えている。たしかあっちは……。

「向こうの方は宮城と工場があるんだよ。……あの煙は、その工場のものだろう」
「工場ってなに?」
「建物の中で、専門技術を持った人が物作りをしているんだよ」

 商は青銅器の祭具や武器が作らていた。細かい装飾の入った青銅器は実に美しく、当時の最先端技術であったことはまちがいない。
 建物から立ち上っている煙の数は、そのままこの国の生産力の大きさをも示しているのだろう。

「ふうん。……あ、あれはなに?」――。

 このあたりも人が多いから、興味を引くものを見つけても碧霞が走り出すことはない。むしろ、どちらかといえば俺と春香のそばに隠れているようだ。
 もっとも好奇心は止められないようで、目に入るものすべてが珍しいというように、まったく落ち着きがない。

 そんななかで、一人の武人が馬を駆けさせているのが見えた。
「急使だ! 道を開けろ!」
 あわてて人々が道を開けていき、その中を馬が走り去っていった。

 人々が去って行く馬を一瞥し、少しざわめきはじめる。

 春香がぽつんと、
「なにかあったのかしらね?」
とつぶやいた。「さてな……」

 この時の俺は知らなかったが、この騎馬が戦乱の世の|嚆矢こうしやであった。

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