22 心、ここにあらず

 昼下がりに庭の見えるテーブルでイスに座り、漆喰の壁に掛けられた赤いタペストリーを眺めている。
 そばでは碧霞がお茶をいれてくれていた。

 穏やかな午後。丁は友達と一緒に庭で遊んでいるようで、窓の外から子供たちのはしゃぐ声が聞こえてくる。きっとまた竹とんぼで遊んでいるんだろう。

 碧霞の横顔を見ながら思う。
 俺たちも不思議な縁に恵まれたものだ。山中で託された赤子が、まさかかの有名な太公望の妻になるとは。
 自分たちはその外戚なのだが、いまだにその実感はない。俺たちにとっては単に娘を育てたという認識でしかない。

 なんとなくそんな事を考えていると、唐突に春香が、
「――碧霞」
と名前を呼んだ。しかし碧霞から返事はない。
 ふと見ると、碧霞はお茶をいれている姿勢のままで、窓の外に広がる空を見つめていた。
 手許の急須から注がれるお茶が、コップに入りきらずにこぼれ落ちている。

「へ~き~か!」
 強めに春香が言うと、ビクンッと反応してキョロキョロしはじめた。
「えっ。あ……、マーマ?」
「こぼれてるわよ」
「……あ」

 あわてて急須をおろし、布巾でこぼれたお茶を拭き取ろうとして、さらにコップをひっくり返した。
 バシャッという音とともに、お茶が広がる。

 春香が碧霞の手首をさっと握って、
「座りなさい。私がやるから」
と言うと、「う、うん」と碧霞がつぶやいて大人しくイスに座った。

 春香が片付けをしているのを横目にしながら、そっと碧霞の様子を窺う。
 今はどうしていいかわからない様子で、左右の指を握ったり開いたり細かく揺らしていて、落ち着きがない。

 だけどまだ出発してから、それほどの日にちが経っているわけでもないぞ。今からこの状態だと、そのうちに精神的に参ってしまうのでは……。

 心配になって、俺は|せわしなく動いている碧霞の手をぎゅっと握りしめた。碧霞は一瞬びくっと手をふるわせて、俺を見上げた。

 不安げに揺れる瞳を正面からのぞき込み、
「大丈夫だ」
と力強く断言する。
 さらにもう一度、「大丈夫」とゆっくりと言葉にする。

 しばらく俺を見つめていた碧霞が、ゆっくりと息を吐いた。肩の荷が下りたように、もう一度大きくため息をつく。

「うん。……パーパ、ありがとう」
 そう言うと、碧霞はほんの少しだけ落ち着きを取り戻したようで、こわばっていた口元をゆるめた。視線を窓の外に飛ばし物思いにふけりはじめる。

 春香を見ると、目を合わせた春香が首を横に振った。

 ――今はなにを言ってもだめ。そっと見守るしかないよ。

 本当は、子牙くんは崇侯虎討伐だけでなく、最終的には牧野で帝辛の軍を打ち破ることを伝えてやりたい。けれども、その未来を教えるわけにはいかない。それがとても、もどかしい。

 その時、外から兵士の声が聞こえてきた。
 何だろうと思って玄関に行くと、宮殿からの使いの兵士がいた。
「崇侯虎を討ち取ったとの知らせが届きました! 被害は軽微だそうです!」

 それを聞いた碧霞は、やや目を見開いてから、
「そう。……ありがとう」
 ほっとしたのだろう。そっと目を閉じて、その唇からまた「ありがとう」と小さな声が漏れる。

 兵士に目配せをすると、兵士は「失礼します」と一礼をして、そのまま宮殿に戻っていってくれた。

 春香がそっと碧霞の隣に立って、いまだ目を閉じたままの娘を抱きしめた。
「良かったわね。……本当に」
「うん」
 碧霞はなされるままにつぶやいている。

「そうだ。丁には俺が言ってくるよ」
 確か今は友達と一緒に庭にいるはずだ。きっと大喜びするぞ。
 俺は後は春香に任せて、急いで庭に向かった。

 それほど広い庭ではないので、すぐに3人の男の子を見つけることができた。が、子どもたちは遊んでいるわけではなかった。
 3人が並んで、身の丈ほどもある長い棒で、槍のように突きを繰り返している。

「なにをしてるんだ?」
 そう声をかけると、丁が、
「じいちゃん! みんなで訓練してるんだ」
と言うではないか。

 なぜそんなことをしているのか、予想がつかないではないが……。子どもなりに色々と思うところがあるのだろう。
 しかし、これはよくないな……。

「練習のやり方は誰かに教わったのか?」
 そう尋ねると、小さな肩を落として、
「ううん。パーパはいつも忙しそうだし」
と言う。

 やはり自己流か。
 武術で自己流はダメだ。才能があるならともかく、最初はちゃんと誰かに師事してもらわないと。

「丁。自己流の鍛錬はよくない。だからお祖父ちゃんに任せろ。お父さんに相談して誰か先生を見つけてもらおう」

 そう言うと丁は「本当!」と飛び上がって喜び、他の2人の男の子と一緒に「やったな」と言い合っている。

 確かに丁も9才だ。そろそろ|かたの|稽古けいこくらいは始めてもいいだろう。どこかに道場でもあればいいんだが。まあそれも含めて子牙くんに相談だな。

「やったぁ! さすがはじいちゃんだぜ!」
 喜ぶ子どもたちに、忘れずに
「そうそう。今、連絡があって姫昌様が勝ったそうだよ」
と教えると、どの子も目を輝かせて「本当?」とききかえしてくる。
 うなずき返してやると、互いに右腕をぶつけ合って、
「やったな!」「ああ」「さすがは父さんだ」
と言っている。

 彼らのやり取りを見ていると、遠い昔の同級生を思い出す。俺にも仲の良い男の友達が2人いた。小中と一緒で、高校の時に一人は別の高校に進学していったが……。
 春香にも仲の良い女子が一人いて、俺が一緒じゃないときはその子と遊んでいたようだ。時には俺たちも含めて5人で遊んだりして。そう、近所のお寺さんで。

 ふふふ。子供たちのやり取りがどこか懐かしい。……丁。友達は大事にな。

◇◇◇◇
 それから一週間が経ち、周の姫昌様の軍勢が無事に戻ってきた。
 戦勝の報が人々にも届いてからというもの。街にはお祭ムードが漂っている。
 そうした中での帰参だ。人々の歓声を受け、兵士たちが列をなして宮殿に入っていく。

 すぐには子牙くんも戻ってくることはできないかもしれないが、俺たちは碧霞たちと一緒に屋敷でその帰りを待っていた。

 日が暮れて真っ暗になったが、街はまだ喧噪が続いている。戦勝の喜びを人々が分かち合っているのだ。

 それはそうと、待ちくたびれた丁がふっと眠りに落ちては目を覚まし、またふっと眠りに落ちてカックンカックンし始めた。
 春香が苦笑いしながら膝の上に載せると、すうっと寝入ってしまったので、そのまま抱き上げて部屋に連れて行き、寝かせることにした。

 今は碧霞と三人で、玄関のそばでイスに座って、帰りを待っている。
 出陣の前には半分だった月が今日は新月を迎え、外は真っ暗になっている。
 ふと思い立って、俺は外に出た。

 門の脇には一対のかがり火が燃えさかっている。街は夜ふけだけれど、いまだに人の声がして、見回りをしている兵士の姿がちらちらと見えた。

 かがり火にくべられた|まきがパチパチと燃え、赤い炎が闇の中を燃え上がっている。
 白い煙とともに、パッと火の粉が舞い上がり、まるで蛍のように赤い小さな光が暗闇に広がり、そして消えていく。
 夜空を見上げると、輝く星々が広がっていた。

 春香と碧霞も外に出てきたようだ。隣にやってくると、同じように星空を見上げている。
「遅いね」
と春香がぽつりとつぶやいた。
 俺は苦笑しながら、
「帰ってきたとはいえ、戦後処理が色々あるんじゃないか?」
と返事をするが、何らの使者もないことが気にはなっている。

 碧霞はじっと宮殿のある方向を見つめていた。星空の下で、黒々としたシルエットになっている宮殿。
 街の通りのあちこちで、まるで街灯のように、ポツンポツンとかがり火の温かい光が見える。

「……あの人が戻ってきたわ」

 不意に碧霞がそうつぶやいた。
 通りを見ると、確かに暗がりを一台の馬車と松明を持った警固の兵士たちの姿が見える。
 子牙くんだ。

 屋敷の前で止まった馬車から、子牙くんが降りてきた。
 まるで久しぶりに帰省した時のように、ちょっと気まずげな微笑みをしている。

「ただいま帰りました」

 すっと、俺の脇から碧霞が前に出ていく。
 子牙くんの前で立ち止まり、しばらく無言で見つめているようだ。
 やがて落ちついた声で、
「あなた。お帰りなさい」
と聞こえてきた。

 俺の位置からは碧霞の後ろ姿しか見えない。けれど、その肩がかすかに震えているように見える。
 子牙くんは優しい目で碧霞を見つめ、近寄ってそっと胸に抱き込んだ。

「遅くなってすまなかった。……今、帰ったよ」
「うん……。うん」

 2人を見ているとなぜか胸が熱くなってくる。
 その時、俺の左腕に、春香がそっともたれかかってきた。
「――よかった」
と言いながら、左手で目尻をぬぐっている。

 何事もなく帰ってくるだろうことはわかっていたけれど、それでもなお、無事で良かったと思う。
 おそらく今回の戦いで、商の帝辛は周を滅ぼすために軍勢をよこすだろう。この国を守り、さらに天下のために、こういう戦いをこれからも繰り返すはずだ。
 だから尚のこと、こうして戻ってくること。2人でいることが、かけがえのない大切な時となるだろう。

 子牙くん。碧霞。本当に良かった……。
 そう思いながら、俺は2人を見つめていた。

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