29 風がやんで雨が降るとき

 2年後の|紂王31BC1046
 俺たちが国書を届けた国々と、周は無事に同盟を結んでいた。
 そして今年こそ天命に従い帝辛を討つ年と呼びかけ、来る甲子の日に商都南部の牧野に集結することを決定していた。

 満を持して第二次となる大規模な軍勢を整え、文王の位牌を掲げて豊邑を出発した。それが一ヶ月前の事だった。

 出征の前に丁が2歳下の黄玉さんと結婚した。2人はそのまま子牙くんたちと同居するらしいので、たとえ子牙くんが留守だからといって、俺たちは碧霞の家に詰めるようなことはしていない。新婚さんだし、碧霞も孫夫婦との時間を大切にしたいだろう。
 もちろん、すぐ近くに住んでいるから駆けつけるのはすぐにできる。そんなわけで、普段は春香と2人暮らし。……いつも通りということだ。

 伝え聞くところによると、現在、周軍は国境の三門峡で戦っているらしい。かつては普通の小さな関所だったはずだが、今では強固な要塞となっているという。
 実際に2年前の第一次遠征の際はすぐに撤退することになったそうだが、……まあ、これは子牙くんの策略でもあったようだ。なんにせよ激戦が繰り広げられているのは間違いない。

 今朝まで晴れてすがすがしい天気だったが、昼過ぎからみるみるうちに雲が出てきて、あたかも夕暮れになったかのように暗くなった。

 春香が髪をかきああげて、|ゆううつそうに、
「あ~あ、雨が降りそう。お出かけもできないよ」
と空を見上げた。

「きっと風がやんだら降り出すぞ」
「うん。……じゃあ今日は家の中でってことで、新しい料理に挑戦しようかな」
「おっ、それはちょっと楽しみ。肉? 魚?」
「今、うちにあるのはね。ええっと」

 春香は、ゆるく手を握り人差し指を鼻の下にあてて考えている。新作料理は春香に任せるとして、俺はどうするかな。

 そう思ったとき、玄関の方から誰かの声が聞こえてきた。お客さんのようだ。いったい誰だろう。

 手で俺が行くよと春香を制して、玄関に急いだ。ドアを開けると、そこには丁の嫁の|ぎよくさんがいる。

 玉さんはにっこりと微笑んで、
「お祖父様。今日はお夕飯を一緒にどうですか」
と言った。

 一も二もなく、俺は「いいよ」と返事をして、すぐに春香のもとに向かった。
 孫夫婦からのお誘いだ。断るわけがない。

◇◇◇◇

「パーパ! マーマ! もうっ、最近なかなか来てくれないんだから……」

 碧霞が、がばっと俺の手を握る。

 そう言われるともっと遊びに来ればよかったかなって思うが、お前はもう40歳じゃないか。まったくいつまでも甘えん坊で……。
 ぷうっと頬をふくらませた顔を見ていると、その表情がどこかで見たことがあるような気がしてきた。碧霞じゃなくって誰だったか。

 そう思っていると、春香が苦笑しながら、
「いや、だってさ。丁も玉さんもいるからさ。あなたももう充分に大人だし」
と言う。

 ――あ。そうか。あの顔は、
「春香にそっくりだな」

「え?」「え?」

 思わず声に出ていたようで、春香と碧霞が同時に振り向いた。
「あ、ああっと。何でもないよ」
と誤魔化すが、碧霞が、
「ちょっと、パーパ! そこまで言っておいてそれはないでしょ」
と抗議する。

 春香はそんな碧霞の様子を見て、どこか納得したようでウンウンとうなずいて、
「なるほどなるほど。……私はわかったわよ?」
「えっ?」
「ふぅん。なるほどね」といいつつ腰に手をやり、春香は人差し指で碧霞を指さした。「貴女はやっぱり私の娘だってことね」
「えっと、ちょっとよくわからないんだけど……。ま、いいのかな?」

 なぜか疑問系で終わる。
 けれど、そのしゃべり方。本当に春香がもう一人いるみたいだ。
 碧霞の後ろで玉さんが微笑んで見ている。その笑顔を見ていると、これから毎日顔を出しに来てもいいなとそう思った。

 さっそく台所に行き女性陣が料理を始める。時間はまだ早いけれど早めのご飯にして、夜は夜で春香と一緒に琴を弾きたいそうだ。
 久し振りに俺も2人の重奏を聴いてみたい。きっと丁も玉さんも驚くと思う。

 何とはなしに女性陣の料理を見ていると、ダダダダッと外から激しく地面を打ち付ける雨の音が聞こえてきた。

 窓をのぞくと軒先の瓦から細くこぼれる雨水が見えた。庭の木々に雨がはじけてパシパシっと音を立てている。

「降ってきたわね」
 春香がぼそっとつぶやいた。

 俺は窓のそばにイスを持っていき、しばらく外の雨をながめることにした。
 まるで梅雨のような光景にどこか懐かしさを覚える。背後の室内では、春香たちが楽しそうにおしゃべりをしていた。

 まるで戦時中とは思えないほどの日常の光景だけれど、こうして家族と過ごす時間は心地よい。これで子牙くんもいれば尚のこと良かったんだが、それは仕方がないことだ。

 外では風も強くなってきたようで、あおられた雨がうねりながら降っている。どんどん雨足が強くなっているようだ。
 宮殿に仕事に行っている丁だが、たとえ馬車だとしても帰りはびしょ濡れになっていそうだ。……まあ、こういう日もあるさ。

 そんなことを思った時、ふと俺の耳にバシャバシャと何かが近づいてくる音が聞こえた。こんな雨の中を誰かが馬車を走らせているらしい。
 そのまま通り過ぎていくかと思ったが、近くで急停車したようだ。

 なにかあったのだろうか。

 バタンとドアが開く音がして、誰かが走り込んできた。

「丁! どうしたのそんなに濡れて!」

 碧霞が大きな声を挙げるが、丁の顔は青ざめていて険しい。

「落ちついて聞いて欲しい。パーパが……、病に倒れた。黄玉。君のおじさんが3人も戦死したそうだ……」

 碧霞と黄玉さんの2人が息を呑んで、目を見張った。

「戦死したのは誰だ?」

「はい。|黄天化こうてんか様、|黄天禄こうてんろく様、|黄天祥こうてんしよう様です。……ほかにも|金吒きんた様が亡くなられたと」

 その時、春香が、
「なんですって!」
と声を荒げた。
 ワナワナとテーブルの上の手が震えている。ふらっと倒れかかる黄玉さんに丁があわてて駆け寄った。
 俺は春香と碧霞を両腕で抱きかかえる。

 腕の中で春香が「そんな……」と絶句している。

 それもそうだ。あの雪山で、春香は黄家の三人と接していて、天祥君などはよく懐いていたのだから。

 一方の碧霞も気を失いそうな表情をしている。……まさか、ここまで戦況が悪いとは思いもしなかった。

 誰もが黙り込んでいて、激しく屋根を叩く雨の音だけが響いた。

 不意に碧霞が俺の腕の中から離れる。
「碧霞」
と呼びかけるが返事はなく、まるで夢遊病者のようにふらふらと、扉から庭へと出て行く。

「おい! 碧霞!」
と春香をその場に残して、俺も追いかけた。

 ドアを開けて外に出るや、頭からバケツをひっくり返したような雨がこぼれ落ちてくる。
 激しい雨が目に入ってきて、周りがよく見えない。

 雨の音に包まれ、目をぬぐいながら碧霞を探すと、彼女は庭の真ん中で空を見上げていた。

 その顔も、髪も、服も、すべてが雨に打たれるままになっている。「碧霞」と名前を呼びながらそばに行こうとしたとき、雨音の中で碧霞が叫んだ。

「天よ! あの人を救いたまえ! 窮地を助けたまえ!」

 懇願するように両手を組んで高く掲げている。その頬を涙が雨と一緒に流れ落ちていく。

「どうかお願いです。私の愛するあの人を、どうか。どうか! 私のもとへ返してください!」

 それは祈り。懇願。切なる思いを天に訴えて――。

 碧霞の声に、俺は一歩も動けなかった。
 魂を削られるような悲痛な叫びが俺の胸を締めつける。

 ふらっと碧霞が倒れかけた。
 あわてて抱き留めると、俺の胸の中で「どうか、どうか」と呟きながら、そのまま意識を失っていった。
 まるで寝ているかのようなその顔を雨が濡らしている。そのおでこをそっと撫でた。

 ピカッと空が光り、雷の震動が天地を揺らした。一つだけでない。二つ、三つと次々に雷がどこかに落ちていく。
 そのたびに巨大な音が俺の身体を響き、通り抜けていく。

 碧霞を雨から守るように覆い被さると、目の前にどこからともなく鷹の嵐鳳が舞い降りた。

 雨の中を、じいっと俺を見つめる嵐鳳。
 不意に胸の内に言葉が浮かぶ。

 ――天を動かすは、人々の祈りなり。汝、この祈りに応えるや。

 それは誰かの問いかけだったのか。それとも俺自身の心の問いかけだったのか。

 碧霞を抱き上げて、俺は嵐鳳に言った。
「俺が行く。だから……。天帝釈様には見守っていて欲しい」

 この俺の返事を聞いた嵐鳳は、すっと飛び上がり、そのまま雨の中をまっすぐに頭上の雲に向かって飛んでいく。

 その周りを雷光がまたたいた。空に走る光がまるで舞い踊る竜のように見える。その閃光の中を嵐鳳が飛んでいく。

 やがてどこからともなく風が吹き始めた。

 嵐鳳が雲の中に消えていったのを見届け、屋内に戻ろうと振り返ると、春香たち三人が入り口でじっと俺を見つめていた。心配そうな目をしている春香に大丈夫だとうなずく。

 雨の中をゆっくりと戻る。
 腕の中の碧霞は、思ったよりも軽かった。

 亡くなった人はもう戻らない。
 しかし、子牙くんはまだ間に合う。病なら――、俺たちが。

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