29 野宿

 碧霞を丁と玉さんに任せ、俺と春香はそのまま馬に乗って弱まってきた雨の中を出発した。
 風によって雨雲が吹き流され、雲間から夕日が顔をのぞかせている。
 まるで台風の時のように、ダイナミックな光と雲の下をただひたすらに馬で駆け抜けた。

 東へ。豊邑の東方へ。三門峡へ。

 やがて街道沿いの渭水が、北から延びている雄大な黄河に合流し、そのまま東へと延びていく。
 東西に連なる山脈がちょうど黄河を挟むように南北にあって、さながらここは東西に長い一種の回廊のような地形となっている。

 豊邑を出てから次の日の夜。俺たちは街道脇の林に入って野宿をしていた。

 さすがに夜になってからの移動はできない。
 俺と春香は夜の闇の中でも目が見えるけれど、馬はそうではないからだ。

 500年に及ぶ旅のお陰で、こうして野宿をするのもとっくに慣れているから、俺たちはさっさと野宿の準備をはじめた。
 昨日の雨のせいで木々が湿っているが、それでも一度火がついてしまえば消えることはない。
 簡単な夕食を終えてから、俺は小さな鍋に水を入れて火に掛けた。中に山羊のミルクに砂糖を入れ、火加減を調節しながらゆっくりとかき混ぜる。

 気持ちは焦りがちだが、そういう時こそ落ち着かないといけない。そのためには温かくて甘い飲み物が一番だ。

 近くで大きな石に腰掛けている春香が、じっと俺の手元を見ていた。

「……ねえ、夏樹。子牙くんは大丈夫だよね。だって歴史だとこの戦いは周が勝つんでしょ」
「俺たちが知る歴史とはいっても、結局は結果がわかっているにすぎないよ。だが、子牙くんは大丈夫なはずだ」
「そう……」

 温まってきたミルクを火から下ろし、コップに注いで春香に手渡した。

 春香は両手でコップを持ち、ちびちびと口につけている。
「うん。おいし」

 満足そうな春香を見ながら、俺も自分のコップに口をつけた。口の中に優しい甘さが広がっていく。

 さっきはああ言ったが、一方で俺自身にも不安もある。
 俺たちが碧霞を育てたように、ふとしたことで歴史が変わる可能性がある。そんな気がしてならない。

 因縁の糸がどのように紡がれているのかはわからないが、俺たちとの出逢いが子牙くんに影響した結果でないといいのだが……。

「あのさ」
「うん?」
「子牙くんの病気。様子を見て、神力でこっそり治しちゃったらダメかな」
「春香……」
「どうせ無事なんだから……、やっぱりダメかな」

 俺の目をじっと見つめる春香。実は俺もそのつもりだった。
 雨の中で叫ぶ碧霞を見てしまっては、どうにかしてやりたいと強く思ったのだ。

 それがいいのか、悪いのかは別だが……。

 すると、その時唐突にどこからともなく、
「かまわんじゃろ」
と声がした。

 あわてて周りを見回すと、林の間にいつのまにか一人の老人がたたずんでいる。
「ほっほっほっ。失礼するぞい」
と言いながら、その老人は焚き火のそばに座り込む。

 どこか少し変わった感覚。存在としては俺たちと同じような神に近い。

「俺は夏樹、こっちは妻の春香です。……失礼ですが、いったい貴方は?」
と言うと、老人はうなずいて、
「うむ。ワシは|崑崙こんろん山に住む元始天尊という。……仙人じゃよ」

 仙人?
 なるほど仙人といえば、道教において神の上位におかれる道の体現者だ。俺たちの持つ神威とは違うが、よく似ている空気をまとっているのもうなずける。
 って、元始天尊っていえばその最高峰じゃないか。

「ふむ。山羊の乳を温めたのか。どれ、ワシにも一杯くれんかの」
「あ、はい」
 残ったホットミルクを、春香の用意した新しいコップに注いで手渡すと、興味深そうにしながら口にされる。
「ほほぅ。これはこれでうまいの」

 長い髭でよくわからないが、どうやら喜んでいるようだ。

「それはそうと姜子牙の病気じゃが、お主たちが治してしまってよい。どうせなら、そのまま三門峡の戦いを手助けしてやればよい」
「しかし、俺たちは不用意に歴史を変えるようなことを許可されておりません」

 俺がそう言うと、元始天尊様は、
「ほっほっ。大丈夫じゃ。すでに天帝釈様がうまいことフォローしてくれておるよ」

 えっ、フォロー?
 ――そうか。
 それで碧霞を育ててもお咎めがなかったのは、あの方が調整されていたのか。

 初めて知る真実に驚いていると、
「そうはいっても、お主が言うように不用意に歴史を変えてはいかん。じゃが、この度は問題なかろう。それこそ歴史が証明しておるわけじゃし」
「ま、まあ、それはそうかもしれませんが」
「細かいことを悩んでおると、|禿げるぞ?」

 その途端に春香がプッと吹き出して、「禿げるって」とつぶやいた。

 まさかすでに薄くなってきてるんじゃないだろうな……。
 春香の様子を見ていると心配になる。思わず頭に手をやって確かめるが、大丈夫……だよな?

 春香がますます笑って、
「ふふふ。大丈夫よ。夏樹。薄くもなっていないから」
「いや、春香に言われても心配になるというか……」
「あら。それはどういう意味かな?」

 もちろん春香が俺に嘘をつくなんて思ってはいない。けど、同時に俺にべったりなわけで。

「だって春香は俺が禿げてようが、受け入れてくれるだろ?」
「それはそうだけどさ……。う~ん」
 ちょっと怒りかけた春香だったが、それもそうかと納得して微妙な顔をしている。

 元始天尊様が笑い出した。
「ほっほっほっ。お主らは仲が良いの。さすがは2柱で1柱の神と言ったところじゃ」

 そのまま手の平に小さな八角形の板の内側に、白と黒の陰陽模様、つまり渦巻き模様が刻まれた板を取り出される。

「これは……」
「|宝貝ぱおぺえの一種で|盤古幡ばんこはんじゃ。これを使えば天地陰陽の気を読み、時の流れを読み解くことができる」
「はあ」

「お主らはすでに|女媧じよかに会ったのであろう。ならばわかっておるはずじゃ。すでに商の|命数めいすうは尽きようとしている。滅びはのがれられぬ」
 そう言うと元始天尊様は宝貝を|ふところにしまわれた。

 空になったコップを足元に置かれると、
「さてと、それじゃワシはいくぞい。まだまだそなたらは力不足じゃ。学ぶべきことがたくさんある。……せいぜい、禿げぬ程度に悩むがよい」

 あわてて立ち上がる俺と春香の目の前で、一本の剣を差し出された。
 勢いその剣を受け取ると、
「そなたにやろう。無銘の剣じゃが、いずれ役に立とう」

 そう言うとほっほっほっと笑いながら、元始天尊様は林の中を歩いて消えてしまわれた。

 その後ろ姿を見送ってから、手渡された剣を眺める。

 やや短めの直剣のようだが……。おそるおそる鞘から抜いてみると、刃はにぶい黄金色に黒の紋様がしてあった。

「ふふふ。よかったね」
 微笑む春香に、俺は引きつった笑みを返す。

 ……剣なんて手渡されても、俺はこの戦に参加するつもりもなければ、人を切るなんてもってのほかだ。

 ただ一人の考古学者としては、この剣に非常に興味がある。
 なにしろ無銘とはいえ仙人からもらった剣なのだ。かつて平成の日本にいた頃ならば一笑に付していたかもしれない。

「見たところ、|越王勾践剣えつおうこうせんけんに似ているようだな……。実におもしろい」
「また、学者の顔してる」
 春香が笑った。

◇◇◇◇
 周の陣地に到着したのは、それから2日後だった。
 しかし、俺と春香はその入り口で止められてしまって、中に入れてもらえないでいた。

「いったい何者だ?」
と警戒する兵士に子牙くんの外戚だと言ったのだが、なかなか信じてもらえない。

 まあ、冷静になって考えてみれば当然のことなんだが。いかに外戚とはいえ戦地にやってくることなど、まずないだろう。

 ……しまったな。

 そこへお供を連れた武将が見回りだろうか、やってきた。その武将は俺たちを見て、驚きの声を挙げた。
「む。そなたたちは!」
 やってきたのは黄飛虎将軍だった。
「お久しぶりです」

 将軍は兵士に「丞相殿の外戚だ」と一声掛けてから、近づいてくる。
 いぶかしげな表情で、
「どうしてこのようなところへ……。いや、そうか。丞相殿のことですな?」

 挨拶もそこそこに尋ねてくる将軍に、俺は黙ってうなずいた。
「わかりました。一緒にどうぞ」

 黄飛虎将軍は歩きながら、
「実はもう5日になるが、本陣が奇襲されてしまって、毒針を受けてしまったのです」
「その針は?」
「もちろん取ってあるが……。今のところ、丞相が倒れたことを敵に悟られてはいないようだが、そなたたちも充分に気をつけて欲しい。なにぶんここはもう戦場なのだから」

 将軍も息子を3人も亡くしたのに……。
 日本にいたときならば哀悼の意を表するべきかもしれないが、今、ここではかえって失礼に当たるか。
 覚悟の上で戦場に来ているはずだ。それよりはむしろ――、
「将軍。ご子息は立派でした。天下の大義のために戦われたのですから」

 俺がそう言うと、将軍は黙ってうなずいて、
「ありがとう。心遣いに感謝する」

 なんでも、三門峡関には5つの出城のような砦があって、息子さん3人は金吒と呼ばれる青年とともにその一つを攻めていたらしい。

 しかしその砦を守る|蚯蚓きゅういんという男が思いのほか手強く、4人ともに捕らえられ、交渉をするでもなく見せしめのように、砦の上で張りつけにされ処刑されてしまったのだそうだ。

 すぐに周の全軍でその砦を総攻撃して蚯蚓を討ち取り、4人の遺体を取り戻した。そして、たった一人残った黄天爵に周に連れて帰ってもらったという。天爵は、そのまま黄家の血を絶やさぬように、周に留まり以後の戦闘を禁止している。

 やがて一つの天幕の入り口で将軍は振り返り、
「ここだ。俺はずっとは付いていられぬが、何かあれば中の者に言ってくれ。薬師だから必要なものがあれば申しつけるがいい。丞相を頼む」
「もちろん。俺たちにとっても可愛い娘の婿殿。尽力しますよ」
「うむ」

 そう言うと将軍は天幕に入って中の男性に俺たちを紹介すると、すぐに外に出ていった。
 編成や軍議などやらねばならないことが沢山あるのだろう。

 去って行く将軍を見送らずに、そのまま寝台の子牙くんのそばに行く。
「いまだに毒の特定はできていません」
 男性の説明を聞きながら、子牙くんの顔を見る。

 顔色が青白くなっている。
 まるで悪夢にさいなまれているように時折うめいているが、いまだに気を失っているようだ。
 脈を測ろうと手首を取ると、その手は冷たかった。血圧が下がっているのだろう。

 ……まあ、正直、俺は医者でも薬師でもないから、これがどのような症状であるかなどはわからない。
 できることはただ一つ。神力で毒素をなくし彼の身体を癒やす。ただそれだけだ。

 けれども他の人がいては神力を使うことはできない。この男性にはテントの外に出ていってもらわないといけない。

 春香に目配せをすると、彼女はうなずいて、
「すみません。お湯を沸かして、きれいな布と一緒に持って来て下さい」
と言う。男性は「わかりました。すぐに」と言って、外に出ていく。

 それを見届けて、俺は子牙くんの額に手を乗せた。
 その瞬間、子牙くんの口から、
「……碧霞」
と声が漏れた。

 ゆっくりと手の平から神力を子牙くんの身体に流し込んでいく。病や毒、身体をむしばむあらゆるものを浄化し、活性化させるイメージ。

 青白かった子牙くんの顔色が、次第に赤みを増してくる。それと同時に、苦しげな息づかいが、眠っているかのような穏やかなものになっていく。

「子牙くん。三門峡関を打ち破り、商を倒すのは君だ。みんな、君が復活するのを待っているんだよ」

 かつて春香がギリシャでテセウスにしたように、加護の力を子牙くんに与える。俺の中の何かと、子牙くんの中の何かがつながったような感覚がした。

 ――そして、子牙くん。
 君は帰らなくてはならない。
 碧霞のもとに。丁や家族のもとに。

 静かに手を離すと、春香が安堵の息を吐いた。
 これでもう大丈夫だろう。

 俺と春香が見つめる前で、子牙くんがゆっくりと目を開いた。
「あぅ――」
 しばらくぼうっと宙を見つめている。

 その顔がゆっくりと俺たちの方に向けられた。
「し、師父? 春香様? ……幻、か」

 そうつぶやく子牙くんに、俺はかぶりを振って、
「いいや。現実だぞ。子牙くん」

「な、なんと! なぜここに……。い、いや私は何を……」

 記憶が混乱している子牙くんに、俺は再び神力を広げ、
「今はまだ眠りなさい。次に目が覚めたとき、ゆっくり説明をしよう」
と言い、無理矢理に眠らせる。

 春香が俺の手を握った。
「……もう大丈夫ね」
「ああ」と返事をしながら、俺は春香と一緒に子牙くんの寝顔を見守り続けた。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です