26.エピローグ エーゲ海は今日も輝いている

「さてと、準備はいいかな?」

 そう独り言をいいながら、部屋の中を見回して私は一人うなづく。

 外から夏樹の、

「おーい。行くぞ!」

という声が聞こえる。

「はーい。今行くよ!」と言いながら、私は寝室を出た。

 中庭に太陽の光が燦々と降り注いでいる。

 ……うん。今日もいい天気。私たちの旅立ちにはピッタリだわ。

――――

 さてあれからの事をお話ししましょう。

 あれからテセウスはディオニクス、アリアはそのままアリア、フィリラウスさんはフィリウスと名前を変えて、ここナクソス島で暮らしている。

 テセウスとアリアは、この家の上の方に自分たちの家を建てて二人暮らしをしていて、フィリラウスさんは近くの漁村アポロナスで酒場を経営している。

 そして、そこを拠点にして昔の伝手をたどって新しい商会を立ち上げた。

 ……どんどん大きくなる商会に、彼はやっぱりやり手だと思う。

 テセウスとアリアは一緒に畜産や畑を育てて暮らしながら、時にはフィリラウスさんの酒場へと通ってお手伝いをしたりしている。

 それとフィリラウスさんの酒場ね。名前を聞いて驚くなかれ。「ディオニッソスの酒場」ですって! ここでお酒の神様の名前が出てくるとはね。

 どうやらこの三人が生き延びていることは知られていないらしく、聞こえてくる情報ではアテナイも落ち着いているようだ。

 ……ああ、それからゲオルギウスさんの正体は二重スパイで、本当はフィリラウスさんの部下だそうだ。

 いまだにフィリラウスさんとつながっているので、テセウスたちが無事でいることももちろん知っている。

 あれから一年後、まだ若いけれどテセウスとアリアは結婚し、私たちの家でパーティーをしてお祝いしたわ。

 もう一つ驚くべき報告がある。

 なんとアリアがなにやら物語を書いているらしく、たまにこんなのどうって持ってくるようになったのよ。

 しかもこれがなかなかどうして面白い。

「驚いたわ。まさかあなたにこんな才能があったなんて」

と褒めたら、アリアは照れくさそうに、

「将来はね。歌を主体にした演劇をやってみたいのよ」

と教えてくれた。

 なんでも酒場に併設して演劇場を作りたいとか。

「そっかぁ。これからは劇作家アリアの時代が来るのか……」

「ちょ、ちょっとやめてよね!」

とまあ、こんなやり取りがあったんだけど、やっぱりこの二人は国やまつりごとなんてものより、こういう好きな夢に向かって努力するのが似合っているわ。

 玄関で待っている夏樹と合流し一緒に外に出る。玄関の扉に鍵を掛け、夏樹が家全体に誰も立ち入れないように結界を張って封印した。

「これで安心ね」

 そういって今まで過ごしてきた家を見上げる。

 晴れた空に白い壁がとても似合っている。

 夏樹がおそるおそる、

「別にまだまだここで暮らしててもいいんだぞ? そんな急いであちこち行かなくても」

と言うが、私は首を横に振った。

「ううん。いいのよ。シルクロードを通って中国、そして、余裕があれば日本でしょ? 私だって見てみたいもん」

 そして、いつものように夏樹の左腕に腕を絡めて、

「それにそれこそ、ここへはいつでも帰ってこれるし、入り江の管理もテセウスたちにお願いしてあるしね」

 入り江への結界は維持したままだから、戦乱に巻き込まれることもないでしょう。

 首をかしげてニッコリ微笑む。

「ね。ダンナさま。見送りに来たテセウスたちが待ってるわよ」

――――

 カバンを肩に掛け、夏樹と並んで小道を下りる。

 入り江から吹いてきた風が優しく通り抜けていく。遠くでは海が夏の日差しをキラキラと反射している。

 濃い緑の木々に紛れて黒いサクランボが艶やかな実をたくさんつけている。枝が風に揺れるたびに地面の木漏れ日がまるで水面みなものように揺れ動く。

 空も大地も海もすべてが生命力に満ちていて、なんて美しい島なんだろう。

 私たちはこれから東アジアを目指す予定。場合によっては向こうでしばらく滞在することになるから、ここには容易に戻っては来られないわ。

 もちろんテセウスたちには東方に長い旅行に出ると言ってある。

「ふふふ。すっかりアリアも新婚さんになっちゃったね」

「まあ、完全にテセウスを尻に敷いているけどね」

「あら。いいじゃない。……それが夫婦円満の秘訣だと思うわ」

 いたずらっぽく笑うと、夏樹が苦笑した。

「えっとそれはウチもなのか?」

「えへへ。どっちだと思う?」

 ピタッと夏樹が足を止めた。私の方に振り向いてニコッと微笑む。……う~ん。何か嫌な予感。

「えいっ」と夏樹が私の腰を無理矢理抱き上げて、小道を降り始めた。

「ちょ、ちょっと! 恥ずかしいよ!」と抗議しながらも笑いがこみ上げてくる。「きゃあ」といいながら夏樹の頭に手を回す。うわぁ。いつもより視線が高い!

 あっ! 砂浜でテセウスとアリアが手をつないでこっちを見てるじゃない! 二人とも大爆笑してるよ。

 楽しくなってきて手を振ると、アリアがぶんぶんと手を振りかえしてくれた。

 夏樹と二人で笑いながら砂浜に降りると、アリアがテセウスの手を引っ張りながら駆け寄ってきた。

「もう! あんたたちは最後まで! いちゃいちゃして!」

 夏樹がようやく私を下ろしてくれた。

 照れ笑いしながら二人に向きなおり、

「なあに? もっといちゃいちゃして欲しい?」

と言うと、アリアがウゲ―と砂糖を吐きそうな顔をして、「やっぱいい。……胸焼けしそう」と言ってクスクス笑い出した。

 隣で満面の笑顔を浮かべているテセウスに、

「いい? テセウス。帰ってきたらちゃんと子供を見せるのよ。……楽しみにしてるからね?」

と言うと、途端にテセウスもアリアも「ええう!」と変な声を上げて互いの顔を見合わせた。

 少しずつ赤くなっていく二人に、してやったりと夏樹と二人でほくそ笑む。

 笑いながら二人の前を通り過ぎて桟橋に向かうと、後ろからアリアが、

「こらぁ!」

と言いながら追いかけてくる。夏樹と一緒に走る。

「あはははは」「ふふふふふ」

 追いかけてくるテセウスもアリアも笑い出した。

「「ははははは」」

 一足先にはしけにつないである縄をひょいっと双胴船カタマランに放り投げて飛び乗った。夏樹が続いて船を押し出してから同じように飛び乗る。

 振り返って、桟橋を走る二人に手を振りながら、

「二人とも元気でね!」

「いない間、入り江と家を頼んだぞ!」

と声を上げる。

 桟橋で息を荒げる二人が口元に両手を添えて、

「ちゃんと帰ってきてくださいよ!」

「待ってるからね!」

 そういうアリアはテセウスに気づかれないようにお腹に手を当てる。

 ……へ? もしかしてもう?

 恥ずかしそうに笑うアリアの笑顔は、今まで見た中で一番輝いて見えた。

――貴方たちの行く末に幸あれ。私と夏樹からの祝福を。

 そう念じながら遠くなっていく桟橋に手を振り続ける。

 船は入り江から外洋に出た。強い風が甲板にいる私を包み、通り過ぎていく。

 多くの恵みを与えてくれる海。

 権力に執われたペイリトオス、子を失った悲しみに理性を失ったミノス王。やり手のフィリラウスさんに、私たちの親友となったテセウスとアリア。

 色々な苦悩に直面したけれど、神々の住まう島々に、そしてこの海に住まう人たちは逞しい。

 隣の夏樹を見上げると、私の視線に気がついた夏樹があの優しい目で私を見つめ返してくる。

 ……愛してる。ただ、その思いだけが募る。

 夏樹が何かに気がついたようで遠くを指さした。

「ほら! イルカが見送りに来ているよ!」

 太陽の光にキラキラ輝く海で、イルカの群れがジャンプをしている。

 素敵なお見送りに心も軽くなり、

「行こう! 夏樹!」

と声を上げると、夏樹が続く。

「進路は東! アッシリアだ!」

 私たちの笑い声とともに、私たちの双胴船カタマランは紺碧の海に白波を立てながら進んでいった。