23.私にできる事

 あの後、私は陽子さんと連絡先を交換した。

 別れ際に陽子さんは、まぶしそうに私を見て、

「あなたが啓一の彼女で良かったわ」

と言うと、深々と頭を下げて、

「どうか。どうか。啓一のことをよろしくお願いします」

とお願いされた。私は、

「はい。お任せ下さい」と微笑んだのだった。

 ――その日の夜。

 私は、再び雪印の『コーヒー』を目の前に、リビングで一人座っている。

 帰宅してからずっとこのまま考え込んでいたので、気がついたらもう夜になっていた。

 電気もつけていなかったので、部屋の中は暗く、家庭用電気製品の待機電力の小さなランプの明かりだけが蛍のように光っている。

 小さい頃から、「家庭」が欲しかった啓一くん。

 啓一くんに最高のものを与えようと仕事に頑張っていたお父さんとお母さん。

 幼稚園のころはお祖母ちゃんがいたから、微妙なバランスが取れていたのだろう。

 そのまますれ違いが重なってしまった両者の絆を、どのようにして取り戻させたらいいのか。

 実は、陽子さんには大見得を切ったけれど、その具体的な方法はまだ何も思い浮かばない。

 お互いに出口を求めて彷徨さまよっている。

 光のない闇の中を手探りで歩き続けているように思う。

 なにか良い方法はないだろうか?

 考えがまとまらず、闇の中をじっと「コーヒー」を見つめていると、突然、電子音が鳴り出した。

 私のスマホだ。

 振動するスマホの画面が明るくなり、部屋を照らしだす。

 あわててロックを解除してみると、相手はキッコだった。

 私は立ち上がって部屋の電気を付けながら、キッコに出た。

「あ、もしもし? キッコ?」

「む……。おかしいわね。今日の声はちょっと沈んでるわね」

「あれ? もしもーし? 紀久子さんですか?」

「そんなの画面見たらわかるでしょうに」

「あはは。それもそうでした」

 わざと明るく電話に出るが、すぐに言葉が出てこない。

「…………」

 というか、キッコから電話してきたんだから、要件を話してよ~。

「京子。やっぱり今日は変ね」

 確信を持ってそういうキッコに、私はため息をついた。

「やっぱりわかる?」

「当たり前でしょ。で、どうしたの?」

「プライベートのことだから詳しくは話せないんだけど――」と言いながら、啓一くんの両親の仕事を隠しながら、家族関係が上手くいっていないことを話し、今、その絆を取り戻すために私ができることを考えていると伝えた。

 私の長い相談を聞いてくれたキッコは、

「そうだったんだ。それで啓一くんは――」

「啓一くんは?」

「いや、何ていうかさ。人を寄せ付けないところがあるでしょ?」

 そのキッコの言葉に私は思わずうなづいた。

「確かに。前はそう思ってた。……でもね。キッコならわかると思うけど、一度、懐に入れたらすごく一生懸命なんだよ」

「あらあら。ご馳走ちそうさま。っというか、私も京子を通してそう思ってるよ」

「最近はキッコも遠慮なく啓一くんに突っ込んでるしね」

「ふっふっふっ。心配しなくても横取りしないわよ。私の好みとちょっと違うしね。ただ、京子のことで彼をいじって楽しんでるだけよ」

 おどけていうキッコの言葉に、悩んでいた私の心も少し軽くなる。

 相手を大切に思っているのにすれ違っている。啓一くんの親子なら何かの切っ掛けがあれば、きっと絆を取り戻せるはず。

 その切っ掛けとなる良い方法はないだろうか。

 考え込んでいると、キッコが神妙な声で、

「京子。頑張れ。私、思うんだけど、それってあなたにしかできないと思うよ」

「え? 何が?」

「啓一くんの親子関係の修復よ。……京子を見ていて本当、そう思う」

「でも、何も思いつかなくて悩んでるのよね」

「私さ、そこがよくわからないんだけど。何を迷ってるの? 女子力の高い京子の得意なことはなに? ……きっとそこに良い方法があると思うよ」

「私の得意なこと……」

「そう。――だから、頑張って」

 キッコはそう励ましてくれると、電話を切った。

 応答しなくなったスマホを耳に当てながら、私はキッコの言葉を、何度も、何度も、繰り返す。

「私の得意なこと……」

 そうつぶやきながら、部屋を見回した。

 もう二年と半年を暮らしているこの部屋。飾りっ気もなくてシンプルだけど、居心地がいいと言ってくれたこの部屋。

 本棚には手芸と料理の本が並んでいる。

 心の中に、初めて啓一くんにご飯を作ってあげた時のことを思い出す。

 懐かしそうに、おいしそうに食べていたあの顔。

 普段の無表情にも見える表情とは打って変わって、ごくごく自然なの表情。

 活き活きとおしゃべりをしながら見せてくれた笑顔。

 ――料理。

 その二文字が、私の心に、まるで神の啓示のように強烈に響き渡った。

 陽子さんの話を思い出す。

 幼稚園のころ、啓一くんがうれしそうに食べていた料理。

 そして、お店に食べに行ったときに「嫌だ」と言った料理。それは――、

「ロールキャベツだ」

 きっと、啓一くんはお母さんのロールキャベツの味を覚えているんだ。

 挽肉をキャベツでくるんで煮込む料理。シンプルな家庭料理だけど、その味わいには心温まるものがあると思っている。

 そして、この料理には、いくつものバリエーションがある。和風だし、トマトケチャップ、ソースなど、味付けにはそれぞれの家のこだわりがある料理。

 だから、陽子さんの作ったロールキャベツこそが、きっと親子の絆をつなぐ料理だと思う。

 そう思ったとき、私の手は自然と電話帳から陽子さんの番号を探していた。

 ――プルルルッ。プルルルッ。

 いつも聞こえてくるはずの他の部屋の生活音も消え、私の耳には陽子さんを呼び出す電話の音だけが響く。

 お願い。

 出てください。

 祈りにも似た待ち時間。幾度めかの呼び出し音の末に、陽子さんが電話に出た。

「もしもし。北野さん?」という陽子さんに、私は開口一番、

「ロールキャベツです」と告げる。

「は? 北野さんよね?」と聞き返す陽子さんに、

「はい。北野です。陽子さん、わかりました。……きっと啓一くんは陽子さんのロールキャベツの味を心の底に覚えているはずです。おそらく、お店で嫌がったロールキャベツはコンソメベースだったんじゃないですか?」

「ろ、ロールキャベツ。ちょっと待ってね。……うん。あの時のお店はフレンチだったと思うから、多分コンソメだったと思う」

「きっと、陽子さんの作ったロールキャベツを食べれば、啓一くんとの絆を取り戻せると思います」

「……北野さん。私の作ったロールキャベツは、私の母が教えてくれたものなんだけど。もう作り方も、レシピもないのよ。残念だけど。……それに私が作ったって知ったら、啓一は食べてくれないと思う」

 そういう陽子さんに私は、

「大丈夫です。食事の場は私が用意します。それに、陽子さんはその味を覚えていますよね?」

「多分、食べればわかると思う。私にとっても母の味だから」

「それなら、私が再現します。絶対に、再現して見せます!」

 そう宣言すると、電話の向こうでしばらく沈黙が続く。

 やがて、小さな声で「ありがとう」と聞こえた。

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