夜叉姫伝

時は長徳4(998)年。鬼討伐に向かった1人の武士は、美しい1人の鬼と出会った。
決して交わらぬ人と鬼とが出逢ったとき、そこには哀しき愛の物語が生まれる。

 


 

 今は昔。これは1000年の古の出来事――。

 |長徳4《998》年の11月。にわかに全国で|疫病えきびょうが|蔓延まんえんし、この国そのものが汚れた|瘴気しょうきに侵されつつあるかのような気配を漂わせていた。
 京では|あやかしが現れ、ここ木曾の山中でも激しい戦いが始まろうとしていた。

 秋の夜のひんやりとした空気が林に漂っている。|武士もののふたちの持つ|松明たいまつの明かりが木々を妖しく照らしていた。
 どこからともなく|異形いぎょうの鬼が現れたと聞き、|信濃守しなののかみ中原|致時むねときが|追捕使ついぶしを派遣したのだ。
 追捕使に任じられたのは地元木曾の武士・|福島ふくしまの|兵衛ひょうえ次郎|光俊みつとしたちで、鬼の襲撃を受けた村里を調査し、|卒塔婆そとば山より来てると噂する村人の言を得た。
 ならばと総勢500人の武士をひきいて討伐に向かっている最中、突如として異形の鬼たちが林中より現れたのである。その数は30人。

 体長2メートル。いかにも力のありそうな鬼の肉体、そして、瞳がなくランランと血の色に輝く瞳に、その額からのびる2本の角。その手の指先からは長く鋭そうな爪がのびていた。
 村人と同じような|粗末そまつな服を着ているのは男の鬼だろうか。着物に身を包んだ女の姿も奥に見えるが、あれは女の鬼なのであろうか。

 現実の|あやかし、それも今にも武士を食い殺さんという鬼の|獰猛どうもうな殺気に震え上がる武士たち。しかしその姿こそ恐ろしいが、わずか30人である。
 追捕使の福島光俊らは声高に「ひるむな。たかが30匹ぞ」と呼びかけた。

 それを見た鬼たちは鋭い牙の先からよだれを垂らし、「ぐるるるぅ」と野生の獣のごとく|のどを鳴らしている。――果たしてどちらが狩る者か。狩られる者か。

「かかれぇ!」
 号令直下、弓矢が飛ぶ。そして、突撃しようというタイミングを見計らったかのように、鬼もこっちに突撃してきた。途端に、陣形を崩され、乱戦となる武士団と鬼。

 放り投げた松明が、下生えの草や積もった落ち葉を燃やし、辺り一面が火の海となる。|轟轟ごうごうと燃える林の中を、鬼と武士とが戦い続けた。
 が、武士の刀を鬼の爪はたやすく弾き、風のように動いて武士を|翻弄ほんろうし、人外の|膂力りょりょくで鎧の上から|粉砕ふんさいし、次々に武士が殺されていく。あきらかに鬼は|殺戮さつりくを楽しんでいた。

 炎と血のほとばしる戦場で、流れの武士であった|加賀かがの三郎|時定ときさだは1匹の鬼と戦っていた。着物に身を包み漆黒の長い髪をたなびかせ、その指先から鋭くも|強靱きょうじんな爪を伸ばした美しい女の鬼と。

 ……強いっ。

 天下無双の武士を目指して本拠地の親元を飛び出し、平氏か源氏に仕えようとしたが門前払いとなり、どこぞの|受領ずりょうに仕えられぬかと諸国を流浪してきた時定にとって、たまたまタイミング良くこの鬼退治に参加することができたのは|僥倖ぎょうこうであった。
 この鬼退治で名を高め、そして再び源平いずれかの|郎従ろうじゅうに取り立ててもらおう。そう思っていた。

 しかしである。もとより力自慢ではあったが、どれほど力を込めようと、この女の鬼に刀を受け流され、返す爪は雷のごとく鋭く、あわてて避けるはめとなっている。

 たおやかな見た目。年の頃は18ほどか。|京女きょうおんななど足元にも及ばぬ氷のような|美貌びぼうに瞳を真紅に輝かせている。額からは小さな2つの角をのぞかせ、恐るべき鬼気を身にまとって、死そのものを体現しているかのような美しさ。
 時定は素直に思う。――なんと美しい鬼か。

 武士の|断末魔だんまつま、鬼の|える声、そして剣戟と火の燃える音。
 現実味のない幻想的な戦場で、時定は女の鬼と死力を尽くして戦い……、そして、とうとうその爪で肩から切り裂かれ地面に倒れ込んだ。

 体からどんどん血が流れていく。薄くなっていく意識、重く冷たくなっていく体。命が少しずつ体から抜け落ちていくような感覚。
 女の鬼は時定を見下ろしていた。その爪に時定の血を|したたらせたままで。

 |かすみがかっていくような視界に、炎の海を背景に美しい女の鬼が時定を見ている。時定は口元に笑みを浮かべた。「……お前は、美しいな」
 意識が闇に沈んでいく。その最後の瞬間まで鬼を見つめ思った。
 こんなに美しい鬼に殺されるのなら、最期を|看取みとられるのならば、それならそれで良いのかもしれぬ――。


 ふと目が覚めた。
 まるで深い眠りについて、まだ寝ぼけているかのように、ここがわからない。体を起こそうとすると、たちまちに激しい痛みが体に走った。
「ぐっ」
 思わずうめき声を上げ、そのまま脱力した。頭ががんがんと痛む。

 目玉をぎょろりとめぐらして、小屋のなかを見渡すけれど、見知らぬ小屋だった。いや、あるいは酒に|ったせいで忘れているだけかもしれないが。

 時定は意識がはっきりしてくるにつけ、尚のこと混乱した。俺は死んだはずだ。あの美しい女の鬼に看取られたはず。ならばここはどこだ?

 夢ではない。体の痛みが、ここが現実だと教えてくれる。ならばここはあの世であろうか。

 しかし間もなく小屋に誰かが入ってきた。すぐにその誰かは時定が目を覚ましたことに気がついて、近づいてくる。
 その誰かは、あの女の鬼だった。相変わらず表情の読めない目で、時定を見て、
「目を覚ましたか?」
 ずっと寝ていたせいか、声を出そうにもかすれた声しか出なかった。
「おぬしは……。俺は……」
「我は|椿つばき。そなたは生きておる」
「お前が……」

 助けてくれたのか? ここはどこなんだ?

 うまくしゃべれない時定ではあったが、椿と名乗った鬼はそれがわかったようで、
「そなたの仲間は全員死んだ。我らが殺した。……じゃが、お主は我の血を飲ませ、ここの隠れ家にこっそり運び出した」

 血を飲ませ? ……それがどういう意味かわからないが、この椿に助けられたのは確かなようだ。
 だが、時定はますます訳がわからなくなっていく。なぜ俺を助けたんだ? お前らを|討伐とうばつしようとした武士の一人である俺を。
「な、……ぜ」

 問いかけた時定の言葉を聞いて、椿は目をまたたいた。黙り込む。言葉を選んでいるのか? しかし、その表情のない顔からは何を考えているのかわからない。

「我にもわからぬ。……ただ。……そう。ただ、このままお主を殺してしまうのは、してはならぬと思った。助けねばならぬと。なぜかそう思ったのだ」

 そう言う椿もまた答えを探しているようだった。時定は拍子抜けした。そのまま脱力して小屋の屋根を見る。
 椿はそれを見て、
「その傷が|えるまでは面倒を見てやろう。この小屋は隣の山にあって一族の者には知られておらぬ。しかし、外に出るでないぞ」
 時定は小さくうなずいた。

 こうして時定と椿の生活が始まった。


 どうやら鬼の血には傷を癒やす効果があるようだ。あるいは鬼の生命力が体に宿るのかもしれない。
 ともかく時定は、あれほど瀕死の重傷であったにもかかわらず、みるみる内に回復していった。
 不思議がる時定に、椿は明かした。「お主の食事に、わずかだが我の血を混ぜている」と。

 椿は時定の面倒を見てくれた。食事もそう。体に巻いた布を外して、傷に当てた薬草を取り替えるなど。重いはずの時定の体であるのに、その細腕のどこにそんな力があるのかと思うほど軽々と抱き上げたり、体位をかえられたり……。
 相変わらずの無表情であるが、時定はいつしか椿に恋をしていた。あるいは出会った時かも知れないが、その無表情の下の椿の感情が感じ取れるようになっていた。

 切り裂かれた胸も腹も、いつしか傷のところの肉が盛り上がり、さらに色がほかの肌と同じようになり、痛みも感じなくなっていく。体も起こすことができるようになり、立ったり歩いたりできるまでに回復した。
 だがしかし、時定はその小屋から出ようとはしなかった。この小屋を出て山を下りたいと思わなかった。むしろ、椿のそばから離れたくなかったのだ。

 何日かに一度の夜、椿は留守にした。帰ってくるのはだいたい深夜だったが、時定は起きて待っていた。「先に寝ておればよいのに」と呆れたように言う椿は、何をしてきたのか教えてはくれなかったが、かすかに漂う血の臭いでどこかで戦ってきたのだとわかっていた。それが動物相手か、あるいは武士相手かはわからなかったが。

 ある時、日中にもかかわらず椿がどこかに出かけており、帰りが遅かった。夕飯時になっても帰ってこない椿を、時定は心配しながらも手持ち|無沙汰ぶさたにして待っていた。

 次第に|気心きごころを許すようになっている椿だったが、その料理はお世辞にも旨いと言えるものではなかった。調味料が無いのである。
 そんなこともあって、時定は小屋にあった山菜に、昨日調理した残りの鳥肉、自らの懐中袋から竹筒を取り出し、中に入れてあった味噌を使って鍋にした。帰りが遅くなっている理由はわからないが、椿を殺せる生き物などいまい。疲れて帰って来るであろうから、旨いものを作ってやろうと。

 ちょうど味噌鍋ができたころに椿が帰ってきた。
 少し急いで帰ってきたのか、その頭に草の葉っぱが乗っかっていた。まるで|かんざしでも挿しているかのように。

 時定は笑いながら、椿に近寄ってその葉っぱを取り、
「面白い髪飾りをしてきたな。……こんど、ちゃんとした|かんざしを買ってやろう」
というと、椿は初めて笑った。「それは楽しみだ」
 時定はその笑顔にみとれてしまった。

 それから二人で味噌鍋をつつくや、椿はその鍋の旨さに驚いた。
 今日はいつになく感情が表れることよ。
 時定はそう思いながら、幸せな気持ちになり、とうとう椿に告白した。
「お主が好きだ。一緒になってくれ」
 確かにその日は椿の色々な表情が見られる日であった。キョトンとした椿が、「我は鬼ぞ」と言うが、時定は「構わぬ。心底|れた。お主がいいと言うまで、俺は結婚を申し込む」
 微妙な表情になった椿は表情を消し、「すまぬが少し外に出る」と言って、食事も途中のままで出て行った。

 時定は落胆したが、勇気を振りしぼり、椿が駄目だと言っても決して諦めぬと固く誓った。
 そのまま椿が帰ってくるのを待ち続けたが、深夜になっても帰っては来ない。時定は起きて、椿の帰りを待ち続けた。

 このまま帰ってこぬのではないかと心配になったが、ようやく朝がたになって椿が帰ってきた。時定を見るなり、
「良いぞ」
 ただ一言だけ言った。時定は思わず椿を抱きしめたまま、喜びの余り、小屋の中をぐるぐると踊った。
 いつしか椿も微笑みを浮かべていた。


 小屋から遠くに行かぬ、そして午前中だけという約束で、時定は外に出ることを許された。
 これで刀の|稽古けいこができるとあって、喜びいさんで外で刀を振るう。不思議と怪我をする前よりも体の調子も動きも良い。……いや良いどころではない。力がどんどん湧いてくるし、飛び上がれば2メートル、3メートル平気で飛び上がれるようになっていた。
 これも椿の鬼の血のお陰であろうか。

 椿は眠そうにしながらその訓練を見て、
「朝から飽きもせず、よくやるものよ」
と言った。眠そうなのは、あれだ。昨夜は遅くまで夫婦の営みをしていたからだ。

「俺の夢は、天下無双の武士となることさ。お前のお陰でなにやら調子が良い。この状態で技こそ身につければ……」
と輝くような笑みで言う。
「ふむ。天下無双の武士……か」
 椿は考え込んでしまった。確かに椿が自らの血を与えたことにより、時定は鬼の力をその身に宿している。十全とはいかなくとも、このまま技を身につければ、一族の者とも対等に戦えようと。

 夫婦となった2人は仲良く暮らしていた。時定が気がかりだったのは、何日かに一度、椿が夜を留守にすることだった。戻ってくるときは決まって疲れ果てた様子だった。
 それも初めは7日に一度。それが5日に一度となり、最後には3日に一度となる。
 何をしに行くのかと尋ねたことがあったが、苦笑いを浮かべて「鬼の習性だ」とだけいわれ、さもありなん、仕方あるまいと思うことにした。

 椿には秘密があった。いや、鬼の習性といった椿の言は正しかったというべきか。
 数夜に一度、椿が留守にしたのは、鬼生来の欲求に耐えるためだった。
 鬼の愛し方は、その愛する者を食らう、そしてその者と一体になること。この愛の在り方こそ、鬼の呪われた習性だった。
 夫婦になった椿は、四六時中、この欲求に耐え続けた。表情には出さない。そして、夫にも隠して耐えた。

 そもそも椿が時定の命を助けたのは、自らを美しいと言ってくれたことにあった。お前は美しい、その想念を込めて見つめられたこと。鬼である椿にとって矛盾ではあるが、時定を死なせてはならぬと思ったのだ。
 そして夫婦となり、人が人を愛することの心地よさを知った椿。天下無双の武士となりたいとの時定の夢を知ればなお、鬼の習性に従って時定を食らうことはできなかった。

 故に耐えた。耐えて、耐えて、そして数日に一度、我慢できそうになくなると、一人谷川にある洞窟に|もって自らを傷つけ、その欲求に耐え続けていたのだ。

 それでも椿は幸せだった。まだ喜怒哀楽が表情にはっきりと出るわけでもなかったが、それでも時定といるのが幸せだった。その言葉を耳にし、見つめられ、彼の者の匂いをかぎ、ぬくもりを感じ、そして抱かれて一つになるのが喜びだった。


 こうしてひっそりとした人と鬼の夫婦の生活はつづいた。
 けれど、悲しき宿命が二人に忍び寄っていた。いつまでも続くと思えた生活の終わりが近づいてきたのだ。

 ある朝、時定がいつものように刀を振っていると、少し離れた林の中から話し声が聞こえてきた。そっと視線をやると椿と2人の女が対峙している。この女、その正体は椿の2人の姉だった。もちろん鬼である。
 あわてて小屋の影に時定は隠れた。このような山中に妖しげな女人。明らかに鬼であろう。ここに人間である自分がいると知られるのはまずい。

 一方、椿は話し声が時定に聞かれはしないかと心配で小屋の方をちらりと見た。この時間、時定は稽古をしているはずだが、今はその姿はない。小屋の中に戻ったのかと安堵した。

 2人の姉は椿を責める。「人間の男などとなぜ暮らしている」と。
 椿は言う。「夫婦となった」と。
 姉は悲痛な眼差しで椿を見た。
「一族の|おさからの通告だ。人と鬼とは一緒に暮らせぬが|おきて。椿がその人間を殺せ」
 しかし椿は「せぬ」と断る。2人の姉は次第にすがるような表情になり、
「なぜだ。鬼の愛し方は、相手を食らい、愛する者と一つになることではないか。ならば殺して食らえばいいではないか」
 椿は気まずい表情を浮かべつつ、姉に言う。
「我は、人の愛し方の喜びを知った。それに我が夫には天下無双の武士となる夢がある。その夢を奪いたくはない」

 椿の答えを聞いた2人の姉は、即座に爪を伸ばして鬼気を身にまとう。
「そなたが殺せぬならば、掟に従い、我らが殺すぞ」
 椿もすぐに爪を伸ばし、2人の姉に対峙した。「させぬ」

 相手の|すきを窺うように対峙する両者。
 長姉は言う。「一族から抜けるか」
 椿は|躊躇ちゅうちょせずに「|なり」と告げた。

 それを聞いた2人の姉鬼は、「ならば我らの手より逃れて見せよ」と言いながら、椿に襲いかかった。
 振り下ろされた爪をかいくぐり、返す爪で横に|ぐ。2人の姉はそれを受け流すことなくその身で受け、そのまま後ろに飛び下がった。
 血のにじむ着物、傷の痛みをも構わずに再び爪を構える姉鬼2人の目からは、一筋の涙がこぼれた。

 そう。掟で2人は殺さねばならないのだ。一族を裏切った妹を。契りを結んだ2人を。

 しかし、椿を思う姉鬼には非情に|てっしきることはできなかった。故に攻撃に手を抜き、無言のうちに、逃げろと念じていた。
 涙を見てその意図するところが伝わった椿は、自らも涙をこらえて小屋に向かって走りながら声を挙げた。「時定! 逃げるぞ!」
 あわてて小屋の陰から飛び出してきた時定の手を取り、一目散にその場から逃げた。

「待て!」と叫びつつ追いかける2人の姉鬼。たとえ演技でも追いかけねばならない。……そう、姉鬼が情に流されずに椿を殺せるかも監視されていたのだから。

 木々の間を転げるように走る椿と時定。鬼である椿はもちろん、その血を身に宿した時定も人ならざる速さで木と木の間を通り抜けていく。

「あの2人は?」
と言いかけた時定に、短く「姉だ」と答える。
「本当にいいのか――」
 このままでと言いかけた時定に、椿は「よい。我はお主の妻なれば、覚悟はしてあった」と言う。
 時定は表情を硬くして一言。「すまぬ」
 椿は「謝るでない。そなたのせいではない。我が決めたことぞ」

 それでも時定は申しわけなく思った。
 椿は別だが、鬼は鬼。|あやかしの化け物という認識をいまだに持っていたのだ。しかし、さきほどのやり取りを見て、直感的に納得してしまった。彼らもまた人であると。
 もっとも先ほどの会話を聞いてしまった時定は、鬼の愛し方は相手を食らうことと知ってしまった。
 同時に疑問にも思う。相手を食らうならば、一体どのようにして家族の関係を維持しているのか。もっともわからないなりに、親子があり、姉弟がいて、互いを大切に思っているのは、あの姉2人の様子からはっきりしている。

 時定は知らなかったが、愛する者を食らうとは鬼の男女の愛し方である。家族愛とはまた違う。
 夫婦になる時には、互いに相手に|み付きながらまぐわって契りをなすのだ。しかし、互いに強靱な肉体を持っているが故に、凄まじい再生力を持っているが故に死ぬことはないのだった。

 椿はそれをしなかった。人の愛し方で時定に抱かれた。いかに血を分け与えたとはいえ、時定は人間。鬼のような身体再生力はない。先ほどの会話を聞かれたとは思っていない椿は、これからも人として時定を愛するつもりだった。

 それに、追いかけてきた姉の辛い立場もわかっていた。自分がどれだけ家族に愛されていたかも。そしてそれらを捨て去って、時定を選んだ自分の決断を。
 だが時定と一緒にいれば、いずれ同じ事になっただろう。……こうして惚れてしまったからには、どこまでも追いかけるのが鬼の女の|ごうなのだ。

 どれくらい走り続けただろうか。時定にも鬼の尋常ではない体力がたしかに宿っていたようだ。
 夜になり、また朝になり、人の住む里が見えてきたところで2人は足を止めた。……追いかけてくる気配はない。もっとも2人の姉は初めから逃がすつもりだったのだろうが。

 これからどうしようか?
 2人ともそう思っていたが、やがて時定が、「里はずれに住まわせてもらおう」と言う。
 あの里は自分たちが鬼討伐のために一時的に滞在していたところである。
 故に討伐で重傷を負いつつも、からくも生き延びて山中をさまよい。別の里で看病してもらってから帰還したことにしようと言う。

 幸いに椿の角は元よりそれほど大きくないが、さらに引っ込めることができる。髪で隠せば人と変わらない。
 看病してもらった娘に情が移り、夫婦となった。それで大丈夫ではないかと。

 その提案に椿はうなずいた。……もう一族の元には戻れぬ。椿の家族は時定一人となった。
 ならばこれからは人として生きていかねばならぬ。幸いに時定は世の中の事を知っていた。
 時定は言う。もしこの里にいられなければ、また流れればよい。諸国を2人でとは、なんとも風流ではないかと。

 こうして2人は里はずれに住まうことになったのだった。


 時は流れ、|長保2《1000》年、中央では一条天皇のもとに|定子ていしと|彰子しょうしが皇后宮と中宮に|冊立さくりつされた。

 時定と椿の住まう家の庭では、梅の花が咲き、穏やかな時間が流れていた。
 椿はいまだに時定を食らいたくなる夜があったが、次第にその間隔もひらき、その欲求を自然に抑えることができるようになった。
 おそらく里で暮らすうちに人に近づきつつあるのではないか。ひそかにそう思い、安堵をしていた。こういう暮らしも悪くはない。

 2年前より続いている鬼討伐は、いまだに達成することができず、とうとう|信濃守しなののかみよりかの|源頼光みなもとのよりみつにその討伐が依頼されるに至った。
 四天王と称される強力な武士を配下に、数々の武勲、ことに大江山の鬼退治はつとに彼の勇名を天下にとどろかせていた。

 頼光は自ら軍を率いて信濃国へやってきて、着々と鬼退治に向けての準備を進めていた。
 その前線基地となるこの里でも、陣営ともなる屋敷を築き、そこに四天王が一人|卜部季武うらべのすえたけを詰めさせ、情報収集に当たらせていた。

 時定は、この時ぞ源氏に仕える好機とばかりに季武を訪問し、その武力をして季武を驚かせ、正式な郎従では無いものの、毎日、季武の元へ出仕していた。

 毎朝、喜々として出て行く時定を、椿は見送っていた。
 鬼討伐に来た武士と聞き、内心では穏やかではなかったものの、自分はすでに一族を捨てた身。いかに中央の|精兵せいひょうといえ、鬼が人に負けるとは思いもしなかった。
 それよりむしろ、まるで子供のような笑顔を浮かべて、家を出て行く時定を見るのがほほ笑ましくも嬉しかった。

 帰ってきた時定とともに夕飯を取っていると、時定が実に楽しそうにその日にあったことを教えてくれる。
「やはり季武殿は強い。頼光殿の四天王が一人と呼ばれるだけはある。一度も勝てぬ」
 そう言いながらも、ちっとも悔しそうではない。
 鬼の血により|膂力りょりょくも体力も増した時定であったが、季武もその力は負けておらず、その技によって時定は一度も打ち勝つ事ができなかった。けれど、それが時定には嬉しかった。

「なあ椿。まだまだ俺は強くなる。そして、季武殿に認められてもいる。ようやく念願を叶えるための一歩を踏み出せそうだ」
 輝かんばかりの時定の笑顔が、椿にはまぶしかった。

 ――夢。
 それは鬼が持ち得ぬもの。人のみが持つ、生きるという事の意味。けれど、今は鬼であるはずの椿にも夢ができた。それは時定とともに生きるということ。当たり前のようでいて、これほど困難な夢は無いだろう。

「それにもうすぐで源頼光殿もこの里に来るらしいぞ。あの大江山の鬼退治の荒武者が」
 時定の口から鬼退治の言葉を聞いて、表情をこわばらせる椿。それを見て時定も失言を悟った。
「すまぬ。そなたの家族であった。配慮が足りなかった」
 頭を下げる時定に、椿は「構わない」と言う。どういうことかと顔を上げた時定に微笑みかけた。
「易々と討ち取られる者どもではないし、そなたがいれば我には……。|存外ぞんがい、この人としての生き方も悪くはないし」
 それを聞いた時定は、我慢できずに立ち上がり、おどろく椿を抱え上げた。
「お主は、最高の女だ」
 真っ直ぐな思いに椿は照れて赤くなった。「やめんか。急に」

 それから1ヶ月後、頼光ひきいる武士団によって、鬼が討伐されたとの知らせが届いた。
 椿はそっと山を見上げ、無言のままで|たたずんでいた。


 椿が大きな籠をせおって山道を歩いていた。山菜の季節。かつては見向きもしなかった山菜だが、人の使う調味料を知り、料理というものを知った。
 教えてくれたのは時定だ。諸国放浪の時定はそうしたことをよく知っていたのだ。

 里からそれほど離れているわけでもなく、今歩いている道は村人もよく使っている道。もとは山岳修験者たちが使っていた道で、この先の崖にある|渡橋ときょうを越えればお隣の|美濃国みののくにとなる。もっとも鬼である椿にとっては道があろうが無かろうが、それほど違いはなかった。

 2人で暮らす分にはそれほど食糧がなくとも充分だ。ほどなくして村へと戻ることにした。
 ちょうど|ふきを取り終えたところで、山道に戻るでもなく、このまま沢ぞいを歩いて下る。
 もうまもなく村というところで、子供たちが遊んでいるところに|遭遇そうぐうした。どうやら沢ガニを獲っているらしい。
 子供たちは一瞬、椿を見て身構えるも、新しく村にやって来た夫婦の片割れとわかって、安堵したようだ。

 椿はどこか子供が苦手だったこともあり、軽く挨拶だけして通り過ぎようとした。が、その時、対岸の林から大きな熊が姿を現した。すでに子供たちを見つけていて、真っ直ぐに飛び込んでくる。

 熊を見て体をこわばらせていた子供たちだったが、椿が「逃げよ!」と叫ぶと、あわてて体を|ひるがえして逃げようとした。
 しかし、熊の方が速かった。一番後ろの女の子に襲いかかる熊だったが、間一髪、そこに椿が体を割り込ませて勢いを利用して投げ飛ばす。そのまま河原の石に落としつけて、熊の頭をかち割った。

 ……ふん。他愛もない。

 そう独りごちて、子供たちを見ると、誰かがつぶやいた。「……角」

 気がつくと、隠していたはずの角が出ていた。あわててすっと引っ込めて、「怪我はないか?」と問いかけると、おそるおそるではあるが、子供たちはうなずいた。
「この辺りは危険もある。せめて大人と来るがよい」
 そういって椿はその場を立ち去った。

 その日の午後。夕飯の準備をしている椿のもとへ、子供たちの親がお礼にやって来た。
 椿はわざとおでこを見せるように前髪を分けてから、親たちに会った。やはりどの子かわからないけれど、角のことを言ったのだろう。どの親もお礼を言いがてら、椿の額を見るもそこには角などない。
 戸惑った様子ではあったが、どこか納得したようで、親御さんたちは帰って行った。

 どうやら上手く誤魔化せたようだ。きっと子供たちの見間違いとでも思うことだろう。

 椿は一人安堵して家の中に入った。
 やがて時定が帰ってきて、いつも通りの夕飯。結局、子供たちを助けたことを時定には言わなかった。

 翌日も時定は上機嫌で季武の元に向かった。

 鬼討伐が終わり源頼光はすでに京に去ったが、残党がいた場合を考慮して卜部|季武すえたけとその一部の武士だけは残っていた。けれどこのまま何もなければ、来月には京に戻るらしい。
 時定にはまだ誘いはなかったが、せめて季武が出発するまでは欠かさず出仕して、何とか郎従に取り立ててもらえるように申し込むつもりだった。


 それから7日が経った。
 時定がいつものように季武のいる屋敷に向かうと、なにやら様子が|物々《ものもの》しい。
 何かあったのかと思いつつ、すでに顔見知りになった一人の武士を見つけて声を掛けた。
 すると季武殿より時定に内密の話があるらしいと言う。今、そなたには話せぬがバタバタしており、すぐに季武殿を呼んでくるので、申しわけないがそこの小屋で待っていて欲しいと。

 いぶかしく思いつつも了承した時貞は、指示された小屋に入る。
 壁の外からは武士たちの騒ぐ声。何かを運び積んでいくような音。小屋の壁にも何かを立てかけているようだ。

 やがて季武が声が聞こえてきた。しかし、すぐに小屋の引き戸から、何かを打ち付けるような音がする。

 なんだ? どういうことだ?

 疑問に思った時定だったが、すぐに季武の声が聞こえてきた。
「時定よ。そのままで聞け」
「はい」
「討ち漏らした鬼が見つかった故に、我らは討伐に向かう。……お主そこで待っておれ」

 時定は悟った。椿が見つかったと。そして、椿の身が危ないと。
「ははは。季武様。もしや椿のことでは無いでしょうな? あれは確かに美しい女人。ですが、我の妻であれば鬼などではありません」
「誤魔化そうとしても無駄だ。子供を助けるためとはいえ、熊を素手で殺すような者が人で有るはずがなかろう。角も目撃されておる。……武士とは王に仕える者。人を守り、妖しを討つ者。そなたは妖術に取り|かれているのだ。すぐに鬼を討ち解放してやろう」

 まずい。このままでは椿が危ない。あわてて外に出ようと引き戸に取りつくが、板と釘を打ち付けられて、時定の力でも開かなかった。

「なりません! 私が保証します。椿が危険な鬼などということはありませぬ!」
 必死に叫ぶ時定の言葉は、すでに誰も聞いていなかった。すぐに季武が軍勢をつれて屋敷から出て行く気配がする。
「させぬ。椿はさせぬ!」

 ここで刀を抜いては、もはや|謀叛むほんも同然。|郎従ろうじゅうにしてもらうことは無理だろう。
 一瞬そのことが頭をよぎるが、時定はそんなことより妻を守るために刀を抜いた。引き戸に切りつけ、|破って外に出るも、そこには時定を逃がさぬ為に待機している者どもがいた。
 どの顔も、ここに通ううちに親しくなった者たちだ。

「時定。おとなしくしろ。すぐに終わる。お前は鬼の|呪縛じゅばくから解放されるんだ。そうしたら一緒に京にゆこう」
 しかし、時定は刀を構えた。「それはよいな。……だが、それは椿も一緒にだ。妻は殺させぬ!」
「くそっ。この愚か者め」

 時定は自らを包囲する武士に突進していった。なんとしても椿のもとへ。ただその一念がその身を突き動かしていた。


 天気が良いので庭先で洗濯物を干している椿であったが、急に空気がおかしいことに気がついた。
 この張りつめた空気。あたかもこれから狩りをおこなうときのような、戦場の空気のような。

 次の瞬間、どこからともなく飛んできた矢が物干し竿をはじき飛ばした。
 はっとして顔を上げると、すぐに第2の矢が飛んでくる。それを左手の爪をのばして切り飛ばすと、ずっと遠くからここに向かってくる武士の一団が見えた。

 次々に飛んでくる矢をいなし、かわし、一目散に家の裏に逃げる椿だったが、|さばききれなくなった矢が左の肩に突き刺さる。その痛みに顔をしかめながらも、そのまま裏手から山へと逃げ込んだ。

 木々の間を走る。人には出せない速度。これなら逃げ切ることはできるだろう。
 ……だが、その先はどうする?
 もはや同族はいない。里にもいられない。それに、時定はどうしたのだろう? 自分を売り渡したとは思わないけれど、時定が心配だ。

 急に一人になった椿は孤独に身を震わせた。どんどん悪い方へ悪い方へと考えてしまう。もしや時定もすでに……。
 そしてそれが隙になったのか、どこからともなく飛んできた矢が椿の右足を貫いた。

 たまらずその場に倒れ込んだ椿。
 そこへ第2、第3の矢が襲いかかる。体をひるがえし、どうにか矢をよける。……速い。さすがは中央の精鋭というべきか。
 それでも椿は諦めない。ひとまずこの場を逃げ切る。時定との合流はそれから考えれば良い。
 もうすぐあの渡橋だ。あそこを越えれば美濃国。さすがに国境を犯してまで追いかけては来ないだろう。

 右足に刺さった矢を抜き、再生力が傷を癒やすのももどかしく、足を|かばいながら橋に向かう。
 一歩ごとに体に走る痛みに額から汗が出てくる。
 後ろから迫り来る気配。自分は追い詰められた手負いの獣となってしまった。

 あと少しというところで、椿はとうとう武士団に囲まれてしまった。
「鬼め。よくも我らを|たばかってくれたな。それに時定をたぶらかしおって」
 初めて対面する季武が、鋭い目で椿を見据えていた。
「あの男を解放せよ。そして、貴様をここで退治してくれる」

 椿は手から爪を伸ばした。
「たぶらかしてなどおらぬ。それに時定はどうした」
 囲まれた今ならわかる。このなかに時定はいない。愛しいあの男の匂いはここにはない。
「殺してはおらぬが、ここには来ぬ」
「……そうか。無事ではおるのだな」

 椿の言葉に意外そうな表情をする季武。
「だが貴様ともはや会うこともない。諦めよ」
「諦めるものか。再び時定と会うまで、我は死ぬわけにはゆかぬ」
「ほざけ」

 季武が刀を抜いてゆっくりと構える。

「我こそは、清和天皇より4代後の子孫、大江山の鬼退治の大将、|みなもとの頼光が四天王。|坂上季武さかのうえのすえたけなり。|あやかしの鬼よ。我が刀の|さびとなれ」

 一瞬だった。人とは思えぬ速度で|を詰められ、刀が振り下ろされた。椿が両の爪を交差してそれを受け横に流すも、その隙に逆から腹を|られ、地面に転がる。
 すかさず後ろに飛ぶと、目の前を刀が通り過ぎていった。

 距離を取って再び爪を構える。人差し指の爪が切り落とされていた。

 ……強い。我よりも。

「射かけよ」
 季武の号令により、左右の武士たちが一斉に矢を放った。「くっ」
 逃げ場は無い。爪を振り回し矢を振り払うも、2本、3本と体に矢が刺さっていく。
 |斉射せいしゃが収まると、次々に武士たちが切り込んでいく。傷ついた体に血をにじませたままで、必死で刀を受け流し、反撃し、そして、なんとか包囲網を破ろうと右に左に動き回る。
 あたかも追い詰められた獲物が逃げ道を探しているかのように。

 刀|一閃いっせん。椿の背中が切られて血がほとばしった。息を荒げる椿はとうとう膝をつく。

 ここまでか……。せめて今一度、時定に会いたかった。

 すでに角も露わになっている。瞳も赤くなっている。それでも季武らにはかなわない。
 |満身創痍まんしんそういの椿の姿を見て、季武が刀を構えてジリジリと近づいて来た。

「鬼よ。終わりだ。せめてもの情けだ。苦しまぬよう一太刀でその首を|はねてやろう」

 妖しは死ねば|ちりとなる。故に首が|さらされることはないが、それならせめて時定に殺して欲しい。鬼の愛し方に|ならって、愛する者の手で殺されるならば納得ができるというもの。

 その時だ。武士の背後より「うおおぉぉぉ」と声がして、人々をすりぬけて誰かが飛び込んできた。
 突然のことに武士たちが混乱している間に、その誰かは椿と季武の間に割り込んできた。
 ――時定だった。

「時定!」「お主!」
 椿と季武が同時に叫ぶ。時定もここに来るまで無理をしたのだろう。あちこちに刀傷を負い、服に血がにじんでいた。
「させぬぞ。椿は無事か!」
 そういう時定から季武は少し距離を取った。そして|さとすように語りかけた。

「馬鹿を言うな。鬼と人。一緒になどなれぬ。お主は知っておるのか? 鬼がどうやって他者を愛するのか」
 途端に椿が叫ぶ。「言うでない! その先は――」
 季武は非情にも時定に言い放った。
「鬼の愛し方は、相手を食らうこと。そなたはそのうち、そのものに食われるぞ」

 椿はその場に崩れ落ちそうになった。……知られてしまった。鬼の愛し方を。呪われたその習性を。もう時定とは一緒に暮らしてはいけぬ。
 ここまで椿を支えてきた心の柱が、ぽっきりと折れてしまった。

 季武の方を向き続ける時定に、後ろから声を掛ける。
「時定よ。今こそ我にとどめを。そなたの夢を叶えるために。……もはや我には親も姉弟もおらぬ。世界で一人きりで生きていく気力も無し。せめて|仮初かりそめでも|ちぎりを|わしたそなたに殺されるならば、我は本望ぞ」

 しかし時定ははっきりと言った。
「せぬ!」
 その答えに驚いたのは椿である。
「鬼の愛し方などとっくに知っている。だが、それがどうした」

 季武が顔をいからせて時定をにらみつけた。
「おのれ。そこまで|魅入みいられておるか。……すぐに目を覚まさせてやる」
 そう言って季武は時定に切りかかった。

 上段からの切り下ろし、それをかわすや、すぐに左へ切り上げられた刀が、時定の目の前を通り過ぎていく。
 あがっりきった瞬間を狙って時定も切りかかるが、それはあっという間に返された刀に防がれて、刃の上をギリギリと|すべるにとどまった。
 つばとつばとで競り合うが、やはり季武の方が上手。わずか|一拍いっぱくの|合気ごうきによって、身体を入れ替えるように流されて、体勢が崩れたところを切りかかられる。

 しかし、その季武の背中を椿の爪が切り裂いた。「ぐおっ」
 そのまま刀を杖にして身体を支える季武。その脇を時定が走り抜け、椿の手を取って包囲する武士の一画へと突っ込んだ。

「どけどけどけぃ!」

 武士たちは季武の怪我も気にしているせいか、はたまた知り合いの時定を切る覚悟ができていなかったのか。たちまち打ち|えられて、あいた隙間を2人は突き抜けていく。

 2人はそのまま、山道を奥へ奥へと走り出した。その背後から、季武の「追え!」という声が聞こえてきた。


 ようやく谷間に架かる橋にまで|辿たどりついた2人。
 これを渡れば美濃国。さすがに|美濃守みののかみの許可無くして追いかけては来られまい。

 そのまま橋を渡る2人。そこへ次々に矢が射かけられた。
 狭い橋。不安定な足場。対岸の武士からすれば、格好の|まとだ。
「くっ」
 必死で刀を振り、椿を守ろうとする時定。椿も怪我をした足をかばいながら、自らも爪で矢を弾き落としつつ、橋を先に進もうとする。
 しかし余りにも矢の数が多すぎた。橋の半ばを過ぎる頃には、身体の大事な部分は守っているものの、時定の手足に5本もの矢が刺さっている。もはや刀も満足に振ることはできないだろう。

 橋を季武がゆっくりと渡ってきた。味方の矢に当たらぬように2人から距離を置いて立ち止まる。
「あきらめよ。向こうに渡ることはできまい」
 そういって刀を構えた。時定の傷。矢の援護がないにしても、すでに季武の敵ではない。
 季武にとって時定を殺すのは惜しい男だった。しかし、鬼を殺すためには最早、手加減をするつもりもなかった。

「我らが目的は鬼の討伐だ。黙って刀を置いて、こっちに来ればお前の命は助けるぞ」

 これが最後通牒だとばかりに、そう告げる季武。
 時定は笑った。

「人だ。鬼だ。笑わせる。それがどうした。種族が違えようと、あいつと我は夫婦ぞ。命をかけても、殺させなどせぬわ」
 時定はそう宣言すると、刀を一閃して橋を吊っていた荒縄を切り落とした。

 パーンと音がして、中央から切り離された橋が、あたかも振り子が戻るように、それぞれの崖へと引き寄せられていく。
 岩に打ち付けられた衝撃で、時定は縄をつかんでいた手を離してしまった。血のりで手が滑ったのだ。
 空中に放り出されようとしたところを、椿が捕まえた。

 反対側の信濃国側では、同じように崖から垂れ下がった橋の|残骸ざんがいに、季武がぶら下がっている。

「射かけよ!」との号令が谷間に響いた。

 次々に矢が飛んで来るも、もはや時定にも椿にも防ぐことはできない。
 時定は刀も取り落としてしまっているし、身体から血を流しすぎて上手く力が入らない。
 椿は椿で片方の手で縄を、もう片方の手で時定を捕まえていて、どうにか足を巧みに動かして、じわりじわりと崖の上に登るのが精一杯だった。

 とはいえさすがに彼我の距離がある。谷間を吹く風もあって矢は狙いのとおりに飛ばない。それでも次々に身体を掠めるように飛んでくる矢に、2人は|す|すべも無かった。

「うおおぉぉ」
 不意に時定が叫んだ。
 全身に力を込め、動かぬ腕を動かし血まみれの足を橋の底板だった木の板に掛け、自らの身体を支えて登り、椿の身体に|おおい|かぶさる。
 次々に時定の背中に矢が突き刺さっていった。

 その衝撃を感じ、椿は涙を流しながら時定の名前を叫ぶ。「時定!」
「大丈夫だ。椿。さあ登るぞ」
 安心させるように椿に微笑みかける時定であった。

 そのまま2人はあきらめずに縄ばしごになった橋を登り、最後は椿に、時定がおんぶされつつも、とうとう崖の上に転がりこんだ。
 しかしこの時、時定の背中には何本もの矢が刺さり、執念で登ったはいいものの、すでに意識は薄くなりかけていた。

 対岸から季武の声が聞こえてくる。
「たとえ他国に逃げようと、そなたの顔をしかと覚えたぞ。かならず息の根を止めてやる」

 椿にはその声ももうどうでもよかった。

 ただ倒れ込んだ時定の所ヘ行き、自らの血を口に|ふくませ、そして矢を抜いた。
 ぐはっと血を吐く時定を見て、椿が泣きながら、時定の身体を仰向けにして抱き上げ、必死でなおも自らの血を与えようとする。

 時定は力なく微笑んだ。
「椿。もういい。……もう、いいんだ」
「時定。何を言うか。血を飲め。我の呪われた血だが、前のようにそなたの命を|つなぐんだ」
「いや、もう無駄だ。いかに鬼の血とはいえ、俺は血を流しすぎた」
「馬鹿を言うな」
 |抗議こうぎする椿にも薄々わかっていた。前の時は人であったからこそ、鬼の血で驚異の再生力を発揮したのであって、今は同じ鬼の血をいかに与えようと、さらなる再生力には限界があると。それはつまり、時定が死にかけているということだった。

「泣くな……椿」
「時定。時定。……頼む。我を一人にするな。こんな。我ひとり助かっても、そなたがいなくて、我にどう生きろと」
「泣くな椿」

 そして、時定は言った。「俺を食らえ」
「え?」

「俺の人生はもう満足だ。お前を守る事ができたんだからな。この上もなく満足だ。……だから、これからはそなたと一体となり、ずっと一緒に生きよう」

「と、時定……」
「俺はそなたを愛してる」「我もだ」
 涙ながら口づけを交わす2人。泣き顔の椿を見て時定はにっこり笑った。

「――ああ、やはりお前は、美しいな。……美しい、俺の、椿」

 そう言い終えた途端、がくんと力が抜ける時定を見て、椿は号泣した。
 死んだ。時定が死んだ。死んでしまった。

 やがて鬼の目に時定の胸から浮かび上がってきた魂が見えた。青白く、美しく輝く時定の魂。椿の耳に時定の声が聞こえてくる。俺を食らえ。そして一緒になろうと。

 椿は、涙を流しながらもそれを大切に、大切に手でそっと捕まえ、やさしく口づける。そして、そのまま飲みこんだ。

「おお、おお。時定。お前様よ。これから我らは一体となる。何ものも我らを離れさせることはできぬ」

 そうして椿は泣きながら時定を、――食らった。


 それからおよそ1000年の時が流れ、かつては|駿河国するがのくにとよばれた地方のとある都市。
 黒地に椿の絵柄の着物に身を包み、鬼の椿は車の後部座席から商店街を眺めていた。

 平成の日本。コンクリートの建物にアーケード街。

 ふと4人の高校生のグループが窓の外をよぎった。
 うち2人は知っている。|不尽川ふじかわの西、峠を越えた先にあるここ風丘市で有名な古刹寺院の跡取り息子と、古くからの剣術道場の一人娘だ。

「|太秦うずまさは 神とも神を 聞こえくる |常世とこよの神を 打ち|きたますも」
 何かを思い出したのか、椿の口から古い和歌が漏れる。椿はそっと微笑んだ。

「のう。時定。何やら戦が近いやもしれぬぞ」
 すると椿の胸の内に時定の声がする。
〝そうだな。久しぶりに大暴れできそうだ〟
「くくく。楽しみなことよ」
 それっきり黙りこくった椿であったが、すこぶる機嫌が良さそうだ。

 椿を乗せた黒い車は、まっすぐに街道を山の方へと進み、さらに枝道に入っていく。やがて立派な屋敷の中に入っていった。
 車が停まるやドアが開かれ、椿が降りると、目の前を屋敷の玄関まで黒服の男たちが並んでいた。
 極道のようでいて極道ではない。その名も黒椿組。その組長である椿は、夜叉姫と呼ばれていた。

 子分を伴に、椿は薄く笑みを浮かべながら歩いていく。頭上に広がる空は、きれいに晴れ渡っていた。

 


※最後の方で少し混乱されたかもしれませんが、これは、そのうち書こうと思っている現代ファンタジー(仮題)『星天の守護者』に登場する脇役のエピソードです。