10-7 ヘレンの予感

 神船テーテュースの自室で、窓から外を眺めている。

 眼下には一面のにぶい色の海が広がっていた。

 テーテュースのデータによれば、南北の大陸は、あたかも地球の南北アメリカのように一部がくびれていた。北側をアーク大陸といい、南側の大陸をノーム大陸という。

 火の神殿がある大火山地帯はノーム大陸の北側にあったので、俺たちは今、そこからさら北に向かって海の上を飛んでいるところだ。

 船なのに航海ではなく飛行している。これは時間が惜しいという理由からだ。

 お陰で揺れもなく静かなものだが、時折、海中から光の珠が浮かび上がってきて、そのまま空へと昇っていくのを見た。

 おそらく海の中の生き物が死んだのだろうと思うが、この現象はやはり生け贄なのだろうか。食べられて死ぬのは普通の自然界の営みだとは思うが、それで死んでもああして光となって天に昇っていくのだろうか。

 これについては結論が出ていないので、そのままテーテュースのサポートシステムに観測を依頼しているが、一定の高度まで行くとそこから先は、さすがの神の船でも探知できないらしい。

 この紫色の空といい、何もわからないということが恐ろしい。

 その時、ノックする音がして我に返る。窓のガラスを触っていた手を下ろして扉に向かった。

「お、ヘレンか?」

 いつもと雰囲気がことなり、顔が少し赤く染まり妙に色気があるような気がするが……。

「ちょっといいかしら?」

「ああ、どうぞ……」と言うと、ヘレンはさっと中に入ってきた。そのまま俺の前を通り過ぎて、ソファにポスンと座り込む。

 どこかソワソワと落ち着かなげにしている。珍しいな。緊張でもしているのか。

 俺の部屋なんて、もう自分の部屋のように慣れているだろうに。

 横に座って「どうしたんだ?」と尋ねながらその手を握って驚いた。

 ――熱い。

 あわてて、

「おい、ヘレン。熱があるんじゃ――」「大丈夫よ」

「だけどこの体温は」「大丈夫なの。そっちの原因は分かっているから」

 そっちの? どういうことだ?

「体内で魔力が活性化しているのよ」

「それって身体強化のようにか?」

 うなずくヘレンに向かって、俺はスキル:魔力視を使用した。

 このスキルは人体の魔力だけでなく自然界の魔力の流れも見ることができるから、体内の魔力の流れをチェックすることもできる。

 だが魔力視でヘレンを見た瞬間、思わず「うっ」と声が漏れてしまった。

 平常時の3倍ほどの魔力が凄い勢いで流れていて、うっすらと魔力の輝きが強弱をつけながら点滅している。

 まるで戦っている時のような状態。って、そうか。興奮状態にあるのか。

「困っているのはね。どうにも活性化がおさまってくれないのよ」

「急にどうしたんだ?」

「――感じるの」「なにを? 予言か?」

 彼女は聖女ローレンツィーナ様の弟子だ。神託を得ることもあるかもしれない。

 ヘレンはうなずいた。

「似たようなものよ。これから向かう先に、あのピレトがいるって」

 そう言って妖しく笑った。

 狂死の天災ピレト。

 アークの宰相に成りすましてヘレンに魔王の嫌疑を掛けて騎士団を動員し、さらにその騎士団員の精神を支配して操り魔族を滅ぼそうとした奴だ。その裏で闇の神殿で致死のデスサイズでヘレンを一度は死に至らしめた。

 さらに1000年前に、魔族の族長家と人族の王家との婚姻をぶち壊すために謀略をめぐらした恐るべき策謀家でもあった。

「私の頭の中でね。ベアトリクスの声が聞こえるの。――もうすぐだ。もうすぐだって」

 そうか。それで……。

「ジュン。付き合ってくれる? たかぶっちゃって」

 ヘレンが立ち上がって俺を見下ろした。

「いいとも。久しぶりに訓練スペースに行くか」と言いながら俺も立ち上がる。

 この船には異空間作成機能があって、俺たちでも思い切り力をふるうことができる訓練が可能だ。

 いくら訓練してもし過ぎるということはない。相手の正体は巨大で人知を越えた化け物なのだろうから。

「ベッドでもいいんだけど――。ふふふ。まあ、そっちでいいかな。確かめさせてあげるわ。強くなった私を」

「そりゃあ怖いな」

「精霊珠の力を味あわせてあげる」

 ヘレンはそう言って胸もとの聖印を軽く叩く。火の精霊珠が赤く輝いた。

 ピシッと俺の鼻先に、ヘレンの指が突きつけられる。

「――勝負よ。ジュン。次の夜の主導権をかけて」

 そんなことを言われたら、ますます負けられないじゃないか。

「了解。俺が勝ったら、たっぷりと蕩けさせてやる」

「……ちょっとやめてよ。身体がもっと熱くなっちゃったじゃないの」

 ははは。そりゃ悪かった。

 ともあれ訓練スペースの入り口は甲板にあるので、一緒に部屋を出た。途中で、セレンにも出逢ったので彼女に立ち会いをお願いすることにした。

 それにセレンはすでに水の精霊珠から力を引き出したことがある。きっとヘレンに的確なアドバイスができるはずだ。

 ――とまあ、その時はそんな事も考えていたわけですが、その代わりにセレンとの勝負も求められる結果に。

 勝敗?

 魔法は飛び交うわ、結界を張られて動きは制限されるわ。ちょっと足を止めると、水と火の波は押し寄せるわで凄まじい戦いになった。

 特に精霊珠の結界に閉じ込められてしまって、結局は俺も聖石を発動して神力を解放する羽目になったわけで、勝負には勝ったけれど、内容としては負けたと言えるかもしれない。

「はあ、はあ、はあ……。その力、ずるい」

「そうよ。ちょっとは自嘲しなさいな」

 へたり込んでいるヘレンとセレンがそういって俺を見る。

 2人とも少し赤らんでいることといい、その乱れた吐息といい、大きな胸が激しく上下しているところといい、疲労困憊ながらもあたかもベッドの中で抱いた時のように色っぽい。

「悪い。俺も負けるわけにはいかないからな」

 夜の主導権など握らせてなるものか。特に普段から「人魚半句職なの」と言っているセレンには、こっちが貪られてしまいそうだ。そういうのはすべてが終わってから、ごくたまににして欲しい。

 ひと暴れしたせいで、ヘレンの体内の魔力も過剰に活性化していた状態から、ほどよく循環している状態になっている。

 セレンにとってもいい運動になっただろう。力の流れを感じて精霊視に切り替えると、2人の身につけている精霊珠からも2人に精霊の力が流れ込んでいるのが見えた。

 ……精霊珠か。

 あの海底での戦いでは、俺とノルンの攻撃は巨大なオロチと化したフォラスの首を幾度も落としたが、次々に再生されてしまった。

 結局のところ、天災を倒すためには今の俺とノルンでは力不足で、精霊珠が必要だということだろう。

 もっとも、神力の結晶である聖石の力はこんなものではないと思う。

 それはつまり、俺とノルンもまだまだ神力を使い切れていないということ。その意味では修行が必要だが、はたしてそんな猶予がどれだけ残されていることか。

 ようやく息が整ってきたようで、ヘレンが座り直してから、

「ジュン。……言いにくいことを聞いてもいい?」

「別にいいけど。どうした?」

 珍しいな。前置きするなんて。いや、彼女が気遣いができないってわけじゃなくって、むしろ気を使って尋ねてこないのがヘレンなんだが。

「ジュンはどうして、あの天災たちと戦おうと思えるの? 私たちもだけど、この世界の人たちに任せようとは思わないの?」

 なるほど。彼女たちには俺が日本から転移してこの世界に来たってことも話してある。騎士団だっているし、一介の冒険者にすぎない俺たちが積極的に関わるべきことでもない。

 もちろん因縁のあるグラナダやピレトは別だが、他の奴らとまで戦う責任などはないだろう。

 でも答えは決まってる。

「みんながいるからに決まっているだろ。だが、……そうだな。セレンも聞いてくれ」

 ちょっとした自分語りになっちゃうけど。

「前にも話したが、俺は学生の頃に両親を亡くしている。それから、恋人がいたこともあったんだが結局別れちまって、ずっと一人暮らしだった」

 別れた時はショックでしばらく尾を引いた。けれど社会人になって忙しくしているうちに、ようやく気分が持ち直したと思う。

 たまにアンニュイな気持ちになることはあった。それでも一人暮らしをそれなりに満喫していたと思う。

「それなりに楽しい毎日を暮らしていたさ。休みの日には一人で旅行したりもしていたしな」

 そういえば屋久島行けなかったな。その代わりに、こっちで世界樹は見たが。

「今も理由がよくわからないが、突然、こっちの世界に来た。右も左もわからない状態で。

 ……それでも多くの人たちと出会って、そしてノルンと出会って、ヘレンや他のみんなとも冒険するうちに……。まあ、なんだ。好きになったっていうか。こんな俺の性格だ。はっきりと言葉とか行動では出せなかったけど、お前たちぐいぐい来たもんな」

 思い返してみればすぐわかる。特に最初の夜は、一人も漏れなく彼女たちからのアプローチだったわけで……。

 一夫一妻制という日本の価値観から、複数の女性と身体の関係になることに抵抗があったのも理由の一つだが、いかに自分がヘタレであるのかがよくわかる。

 それと同時に、自分の常識に縛られていたというか。一夫多妻制が認められているこの世界で生きてきた彼女たちの気持ちを、正面から見ていなかったということでもあるのだろう。

 けれども、そんな俺の常識を彼女たちがぶち壊してくれた。そのお陰で、俺は真にこの世界の住人になれたと思う。今ではこうして結婚するまでになったわけで。

「俺は今、幸せなんだよ。ノルンや、ヘレン、セレン。サクラにシエラにカレンと夫婦になれた。こっちの世界に来て、かけがえのない家族が俺にもできたんだ」

 みんなを愛している。それに、みんなも愛してくれているのもわかっている。

 だから……。

「そんなみんなとの生活を、世界を、誰にも壊させない。奴らが、邪神がこの世界を滅茶苦茶にしようというのなら、奴らは俺の敵だ。

 世界のためとか、そんな正義を振りかざすわけじゃない。自分とみんなと、その周りの世界を守りたい。ただそれだけの自分勝手な理由さ」

「そんなことないわっ」

 ヘレンが俺を見上げた。

「今の私たちなら、たとえこの世界が滅びようとも生き延びられると思う。

 ……でもそれだけじゃ駄目だって思ってくれているのね」

「まあな」

 おそらく幾度も体を重ねているからだろうと思うが、彼女たちのステータスにも半神の文字が見えている。おそらくはすでに寿命のくびきからは解き放たれていると思う。

 故にヘレンが言うように、この世界が崩壊しようと生き延びられる公算はそれなりに大きい。なにしろこの船には次元航行機能もあるらしいから、いざとなれば他の世界に行くことだってできるだろう。

 でもね。俺たちの幸せはやはり周囲も平穏でないといけないし、知り合いも増えたからな。それじゃ駄目なんだよ。

 立ち上がって修道服のほこりを払ったヘレンが、体内の魔力循環を調え始めた。

「ありがとう」

 ぽつりとヘレンが言った。

「この世界を好きになってくれて、ありがとう。私たちを愛してくれてありがとう。

 ――私も、同じ気持ちよ」

 互いに拳をこつんとぶつけ合う。ヘレンの目はキラキラと輝いて見えた。普段は強気なお姉さんといった性格なせいか、こうして素直になられるとドキンとしてしまう。

 そのままヘレンは俺の両頬に手を添えるとキスをしてきた。柔らかい彼女の唇からいつもより愛を感じるのは気のせいではないだろう。その背中に手を回しギュッと抱きしめた。

 いつしかセレンも立ち上がって、俺たちのやり取りをニマニマとした笑みを浮かべながら見つめていた。

 唇を離した俺たちに向かって、

「――こうしてヘレンは、また一つ夫を好きになるのであった」

「ちょっとセレン!」

「なあんてね。……でも、私はまた一つ、ジュンのことを好きになったわよ」

「それはそうだけど」

「というわけで、ジュン。次のヘレンと私の番の時は、覚悟しておきなさいよ」

「ええ? 俺が勝ったんじゃ」

「あれは無効よ」

 なんと自分勝手な。でもそれがセレンらしい。

 知らずのうちに苦笑いを、俺は浮かべていた。やれやれ。

 だが、こんな風に余裕があるのもいつまでのことだろうか。

 そんな俺のちょっとした予感の通りに、セレンとも唇を重ねた後で甲板に戻った途端に、船のシステムから警告が発せられた。

「あと2時間ほどでアーク大陸に到着します。現地グレートキャニオンの瘴気濃度が上昇しています。多数の正体不明モンスターの存在を感知しました」

「なんだって?」

 思わず進行方向を見ると、前方に横たわる大陸が見えた。その上空にどす黒い雲が集まっている。

「2人とも、早く魔法薬で回復しておけ。――テーテュース。みんなに、戦う準備をと。何があっても大丈夫なように」

「了解しました。マスター・ジュン」

 俺に続いて甲板に出てきた2人も、目の前に広がる瘴気の雲を見て顔をこわばらせた。

「悪いな、二人とも。ゆっくりできる時間は終わりみたいだ。すべてが終わったら、その時は存分に――」

「あらあら。そんなのねぇ」

とヘレンが言い、後の言葉をセレンが引き取った。

「望むところ。その時はみんなで順番に、6晩連続で蹂躙してあげるわ」

「ははは」

 怖いな。それは。

 ヘレンが右拳を軽くにぎって俺の胸もとにポンと当てた。

「それはともかく。最高の男には、最高の妻がいるものよ。あいつらになんて負けないんだから」

 その瞳には気負いの色はなく、闘志に満ちていた。

 俺は腹に力を込めた。まっすぐに目を見つめ、

「ヘレン。――やるぞ。絶対にピレトを倒す」

「ええ。因縁を、今度こそ終わらせてみせる」

 すっと身を寄せてきたヘレンが背伸びをし、再び口づけをした。唇が離れてから互いを見て、同時にふっと微笑む。

 その時、セレンのつぶやきが聞こえた気がした。

「――ヘレンばっかりずるい」

◇◇◇◇

 テーテュースの自動操縦に任せ、俺たちは全員が船の前方、先に集まった。

 すでに北アーク大陸の上空に入っていて、眼下には大峡谷グレートキャニオンが見渡せる。

 谷底にはウゾウゾと黒いモンスターがうごめいていた。こいつらは見たことがある。ウルクンツル帝国で戦った奴らだ。まるで影のような多種多様な魔物。

 もとはモルドとかいったか、女性の天災が召喚した魔物たちで、確かカオス・レギオンと呼んでいた。それが峡谷を埋め尽くす勢いで広がっている。

 頭上の空には、本来は肉眼で見えないはずの瘴気が、集まって雲となって現界していた。

 それにしても凄まじい数だ。

 テーテュースの武装で殲滅するか?

 確か、怖くて使っていない兵器があったはず……。

「テーテュース。武装の一覧を――」「やめとけ」

 不意に男の声がして、あわてて振り返る。

「地竜王?」

 そこにはいつ来たのかわからないが、人間形態となった地竜王ガイアが佇んでいた。

「よお。久しぶりだな」

 初めて見たときのように、白くなった髪を頭の後ろで縛った50代くらいの姿。

 いたずらを企んでいるようだった目が、今は真剣味を帯びている。

「倒した分だけ補充されるぞ。それよりも西へ急いだ方がいい」

「それは……、まさか!」

「そのまさかだ。スタンピードになっている」

 俺はすぐさま進路を変更させた。

「テーテュース。西だ。急げ!」

 考えてみれば当然のことだ。これだけの規模の魔物が発生しているんだから。

 ガイアは俺に言った。

「お前らは知っているだろう。こいつらを倒す方法を」

「――召喚主を倒す」

「その通りだ。俺も一緒に行こう。……それとシエラ。改めての試練は無しだ。向こうに到着するまでの間に、お前の竜槍を強化する」

 それはありがたい。だがともかく今は西に急がないと。

 アークということは、機工騎士団が戦っているはず。そしてその最前線には、きっと天災の奴らがいるはずだ。

「絶対に止めるぞ。今度こそ倒すんだ」

 俺の言葉にみんなも気合いの入った返事をした。