8-1 大森林を行く
天秤の月。ウルクンツル帝国の北東に、針葉樹の立ち並ぶ大森林が広がっている。
――ウルクンツル帝国コランダ大公領。
大森林の中を一人の女性が歩いている。唯一の女性の天災、その名を狡猾の天災モルドという。
黒いスカートに赤いコートを羽織り、とても森の中を歩く恰好ではない。
腰につけた鞭が木漏れ日に光る。長い黒い髪に整っているが、ややきつめの顔をしている。
「ふんふんふ~ん」
と鼻歌を歌いながら、楽しそうにまるで踊るように歩いている。
一本の大きな杉の木を通り過ぎたとき、モルドはぴたっと立ち止まった。
細い指をあごに当て、
「ん~。無粋なのはいらないなぁ」
と言って、振り返ると、目の前に体長3メートルの巨大な灰色熊がよだれを垂らして二本足で立っていた。
「ぐるるる……」
モルドはおびえることもなく、ため息をつくと、グリズリーを見上げ、
「邪魔」
とめんどくさそうにつぶやいた。その瞬間、グリズリーの背中が大きく爆発する。
背後の木々や茂みがグリズリーの血やはじけ飛んだ肉片が降りかかる。
グリズリーの巨体が崩れ落ちた。
ズズン……。
その巨大な頭を、ヒールを履いた足でぐりぐりと踏みつける。
「バカだよね。相手を見てケンカを売れって、……もう聞こえてないか」
そして、右手で女性用の洋風扇子を取り出すと、ばっと広げた。扇子を仰ぎながら周りを見回し、何かに気がついたように森の奥を見つめた。
「……見つけた。うふふふふ」
モルドはまるでグリズリーなどいなかったかのように、森を奥へ奥へと進んでいく。
その先には一つの石の祠があった。
モルドは祠を正面がながめ、
「やっぱり、これくらい強くないとね」
と言いながら祠の正面の扉を触る。
「さあ、復活の時よ。……出てきなさい。森の怪人フンバ」
しなやかな全身から黒い瘴気があふれだし、それがしなやかな手を通って祠に流れ込んでいく。
祠にヒビが入り、地の底から響くようなうなり声が聞こえる。
モルドの顔がニヤリと笑った。
「さあ、北の災典の始まりよ」
針葉樹の森に野太い雄叫びが空気を振るわせながら響き渡った。
――――
エストリア王国とウルクンツル帝国の間に広がるヴァージ大森林。
今、俺たちは馬車を警護しながら、大森林を横切る街道を進んでいる。
トリスティア教会のシンボルマークのついた馬車の中には、アルの街の修道院長、聖女ローレンツィーナ様が乗っている。
聖女という存在は、前に聞いたことがあるのだが、前の聖女が亡くなると、次の聖女の称号を持った少女が世界のどこかに生まれるらしい。教会ではその少女を見つけ育てるのだそうだ。
ともあれ、俺たちは馬に乗って、その馬車のまわりを進んでいる。
俺は、ネコマタ美少女のサクラと並んで馬車の前を歩いている。馬車の御者は聖女の弟子でもある真紅の髪の美人修道女ヘレン。そして馬車の両サイドは世界樹の巫女であるハイエルフのカレンと、神竜の騎士であるドラゴニュートのシエラ。馬車の後ろには薄紫がかった白銀の美しい髪を持つ美女ノルンと海底王国ミルラウスの歌姫セレンがいる。
ちなみに全員が俺の婚約者であり、幾度も心と体を重ねた結果、全員と念話ができるようになった。……あ、いや、セレンとはまだだけどね。
少しずつ寒い季節になってきているので、みんな厚手のコートを着ている。
特にこの街道は、馬を利用しても三日から四日ほどはかかるので、夜は寒さを覚悟しなければならない。
もっとも、俺たちの場合、ノルン謹製の魔道具のおかげで、結界に包まれた快適な気温と安全な眠りを約束されているので、ほとんど心配はない。
まあ神船テーテュースの飛行モードならもっと楽なんだが、今回は、ある意味で公の仕事でもあるので使用はできないってわけだ。
俺と一緒に前方を警戒しているサクラが、
「マスター。ウルクンツルってどんなところでしょうね?」
ときいてきた。……サクラ的には食べ物とかファッションとかの文化的なことを言っているんだろう。
「そうだな……」
俺たちが拠点としていたエストリア王国は魔法の研究がさかんで、騎士団もそれぞれの武具による戦闘方法に魔法を織り交ぜた戦闘スタイル。魔法剣スタイルといえばわかるかな?
それに対し、ウルクンツル帝国は北方にあって、冬の寒さは厳しいそうで、尚武の国と言われている。騎士団も純粋な戦闘力を重視しており、よく言えば質実剛健、悪く言えば脳筋たちの風土らしい。
帝国王室は、超古代の魔導文明王朝時代の皇室の分家の血脈らしく、その血の伝統は王室だけでなく国民の強い誇りになっていて、熱狂的に帝室を支持しているという。
厳しい気候に鍛えられた武の国。それが一般の認識だろう。
「きっと旨い料理がたくさんあるんじゃないか? それにお酒も良いのがありそうだ」
俺がそう言うと、サクラがキランッと目を光らせ、
「マスター! ぜひグルメツアーをしましょう! ね! ね!」
と馬を寄せてきた。
俺は笑いながら、
「もちろんだ」
と言うと、サクラがグフフフと笑い出した。
俺が苦笑していると、背後の馬車の横窓がガラッと空いて、ローレンツィーナ様が顔を出す。
「ごめんなさいね。本当はもっと楽に行けたんでしょうけど」
俺は、窓の近くまで移動し、
「いえいえ。……向こうでの宿泊所も教会の方で押さえてもらいましたし、かえって助かりますよ」
そうなのだ。エストリア王国の第一王女セシリアがウルクンツル帝国の皇太子カールに嫁ぐとあって、帝都の宿は満杯状態らしい。
俺がシンさんから手紙をもらった時点で手遅れだったんだが、聖女ローレンツィーナ様が教会の伝手を使って、帝都にある教会所有の一軒家を俺たちのために確保してくれている。
ローレンツィーナ様が俺にだけ聞こえるように、
「ね? あなたの彼女たち、楽しみにしてると思うわよ。……セシリア様の花嫁姿パレード」
うっ。
聖女様の言いたいことはわかっている。いつ式を挙げるのかってことだ。
「い、いやぁ。……ほら、まだセレンの挨拶も済んでないし」
「すぐにでも行けばいいのに……。海神セルレイオス様の紹介なんでしょ? 文句なんかでないって」
「そ、それはそうですけど」
「……私も早くヘレンの子供が見たいわぁ」
そこへ御者をしていたヘレンが盗み聞いていたみたいで、
「こ、子供!?」
と真っ赤になっていた。
うん。照れたその顔も、強気な普段の様子とギャップがあって胸にぐっとくるものがある。
(ちょっと。ジュン。……しっかりしなさい)
ノルンから、すぐさまお叱りの念話が飛んできた。
(おう。悪い)
まあ、正直にいって、すでに俺とノルンはステータス上で半神になっているから、まともに子供ができるのかどうかは未知数なんだけどね。
聖女様が意地悪そうにニヤリと笑った。
「あ、そうか! 自分たちの結婚式のお手本にするわけね? なるほど」
俺は頬をひくつかせながら、案外、聖女様って悪そうな笑顔が似合うと思った。
とまあ、この話はキリがないから置いておこう。
秋特有の高い空に、夏を超えた木々の葉っぱが揺れている。空から警戒しているノルンのガーディアン、フェニックス・フェリシアの真紅の翼が美しい。
森の木々も、もうあと一月くらいで美しく色づいてくるだろう。
どこか空気も秋の涼しげな空気になりつつある。
さて、まだまだ先は長い。
俺は馬車の前の定位置に戻る。隣のサクラに笑いかけながら、
「ちょっとした小旅行だな」
と言うと、サクラがニコッと笑った。
「わかってますって! みんなで結婚式の視察をするんですよね! マスター!」
「ぶふっ!」
思わず吹き出したら、馬車を護衛しているはずのみんなが笑い出した。
「「「あはははは」」」
明るい笑い声が、澄んだ秋空に響いていった。
なんだかわからないけど、気恥ずかしくなった俺は少し馬を早めた。
懐からシンさんからの手紙を取り出した。
俺たちを無償で鍛えてくれたシンさんとその部下のトウマさんとイトさん。あの一年間は夢だったのかとも思ったけれど、不意に届いた手紙。
――親愛なるジュンくんへ
ウルクンツルへ行きたまえ。君たちの成長を楽しみにしているよ。
シン
短い文面だが、きっと会える予感がする。
ふふふ。トウマさん。今度は負けませんよ。
……いやまてよ。確か婚礼祝いとして武闘大会が開催されるんだっけ? まさかトウマさんが出るんじゃないだろうな。
ちなみに一般枠の出場申し込みはすでに締め切りが来ていて、俺たちは参加の予定はない。
ランクA冒険者には、ギルドから参加が打診されたようだが、俺たちがランクAになった今年の春は、タイミング的にギリギリアウトだった。
その時は、さほど興味がなかったからなぁ。
そんなことを考えていると、隣にサクラがやってきた。
「マスター。武闘大会のこと考えていましたよね」
くっ。
サクラとはもともとコントラクトという魔法の絆を結んでいたこともあり、最近、ノルンと同じように、考えていることが筒抜けになりつつある。非常に厄介だ。
サクラがむすっとした声で、
「あっ。今、厄介だって思ったですよね?」
……めんどくさい。
「ふふふ。いくらめんどくさいと思ってもダメですよ? やっといて良かった。コントラクト!」
サクラはいたずらっぽく笑うと、俺の隣で鼻歌を歌い出した。