4.昭和4年 夏樹、入営

2019年4月25日

 凍えるような冷気の底にいる。今日も寒そうだ。
 見慣れない天井が見える。建物のどこかで複数の人があわただしく動いている気配がする。

 ああ、春香がまたくっついているな。この柔らかいぬくもりに包まれていると、温かく幸せな気持ちになる。布団の中に汗のにおいがする。ああ、そうか。昨日は……。

 あれ? ここはどこだっけ?

 そこまで考えて、ようやく意識が覚醒してきた。

 そっか。1月10日だ。
 ――俺は今日、歩兵第一連隊に入営する。
 遅れてはいけないということで、昨日、ここの宿に泊まったんだった。

 起き上がろうとすると、その途端、春香が行かないでとばかりに、ぎゅっと力を入れてきた。……動けない。
 仕方なく、ただじっと隣にある寝顔を見つめる。自然と昨夜の様子が思い出された。


◇◇◇◇
「それにしても、なかなかのお祭り騒ぎだったね」
 そう言いながら、浴衣に羽織を着た春香が、テーブルの舟盛りから刺し身を一切れすくい上げた。
 ほかにも蒸し物、焼き物など、ここは温泉旅館ではないけれど、豪華なご馳走が並んでいる。二人の間にあるお鍋から、熱気が蒸気となって立ちのぼっている。

「確かにね」
 苦笑いを浮かべながら、手にしたお猪口ちょこをクイッとあおる。熱めの燗酒かんざけが喉をとおり、身体の中でカッと燃えるように熱くなった。

 昨年11月ごろだったか、俺の手許に現役兵証書が届いた。折しも天皇陛下の即位大礼に、世の中が慶賀一色になっている時だった。

 所属は歩兵第一連隊。入営日は昭和4年1月10日。
 現役兵確定。それも歩兵だ。

 あの時、春香は既に覚悟をしていたようで、短く「そう」とだけつぶやいたが、あの切なそうな横顔が心に残っている。無理をしているのが見え見えだったが、それはきっと俺も同じだったろう。

 それから春香は今まで以上に甘えてくるようになった。でもそれが俺にはうれしかった。春香に甘えられるのが好きだから。

 驚くほどのことでもないかもしれないが、酒屋の晋一郎君も同じ歩兵第一連隊だった。
 この時代。現役の歩兵に選ばれるのは名誉なことだと考えられているらしく、出発する際の壮行式では、町内会総出でのお見送りを受けた。まるでお祭の主人公のような扱い。……もっともどこか手慣れたようでもあったが。
 万歳の声に見送られ、俺は春香と家を出た。ああ、晋一郎君は親父さんが付き添いだった。

 注いでやった燗酒に口を付け、春香はほぅっと色っぽく息を吐く。
 少し胸もとが開いた浴衣姿は破壊力抜群だ。
「麻布かぁ、近いといえば近いんだろうけどね」

 連隊の兵営は麻布桧町。後に防衛庁やら東京ミッドタウンとなるあたり。
 俺はさりげなく、
「同じ東京内だから、休みの時は帰れるよ」
「うん。……待ってる」

 そうは言ったものの、一体どれくらいの頻度で外出許可をもらえるのかはわからない。そのわからないということが、余計に寂しさをかき立てる。

 ちなみに俺が兵役に就いている間だが、春香は、家から離れたところの畑を借りて農作業をする予定だ。
 本当は、一人だからと家に閉じこもるのはよくないんだが、どこかに勤めると余計な問題を招き寄せかねない。具体的にいえば、ちょっかい掛けようとする悪い虫とか、悪い虫とか、悪い虫とか、悪い虫とか。

 ……心配しすぎだろうか。

 もちろん出かけるのはOKだと言ってあるが、充分に身の回りに気をつけて欲しい。
 もっとも今、不景気で、強盗の際に家人に戸締まりなどを注意する「説教強盗」なんてのも出没しているから、家にいたからといって安心はできない。

 うん。やはり心配なんだよな。1人暮らしをさせるのは。

 もっとも今まで戦乱の時代もあったし、大抵のことには対処できるとは思う。けれど、それはそれ、これはこれ。2人暮らしが長いとどうしても心配になる。

 視線に気がついて顔を上げると、春香が苦笑していた。
「心配なのはわかるけど。まあ、どうにか1人でやってみるって。ちゃんとおうちは守ります。私も軍人の妻なんだから」
「……ああ」
「それより、夏樹もよ。上官に連れられて変なところに行ったら、タダじゃおかないからね」
「そんなことしない!」
「絶対?」「絶対にだ」

 俺は春香だけでいい。お前だけがいればいい。

「ふうん。ならいいけど」
 春香が二マッと笑みを浮かべる。「ま、わかってるけどね」

「……よく考えたら、時間遡行タイムリープしてから離れて暮らすのって初めてなんだよな」
「そうそう。だから心配になるんだよね」
「俺もだ」

 しばしの沈黙が下りる。

「今は平時だから、大丈夫だよね」
「大陸に行かない限りはな」
「私。たくさん手紙を書くよ」
「うん」
「だから、夏樹も手紙ちょうだいね」
「わかった」

 ようやくうなずいた春香だが、どこか寂しげな微笑みを浮かべていた。そして、ささやくように。聞こえるか聞こえないかというほどの小さな声で、おねだりをした。
「さてと、じゃあ今日は2年分、愛してもらおうかな」
 そう言って、ちょっと恥ずかしそうに微笑んでいる。俺も微笑みを返す。
 珍しいおねだりだ。

 ――確かな絆はあっても、それでも人は、もっともっと確かな何かを欲しがる。
 子供がいないから尚のこと、そう思うのかもしれない。

 でもそれは俺も同じこと。
 ……いいや。最初の人生で、一度離ればなれになった俺は、春香以上にそのつながりを求めているのかもしれない。
 そして、この手から離れていってしまうのが。……失ってしまうのが怖いのかもしれない。

 その夜。俺は寂しさを埋めるように、いつまでもこの肌を、匂いを、ぬくもりを忘れないように、思いをぶつけるように、春香を抱いた。


◇◇◇◇
 歩兵第一連隊。
 三井物産の松本さんに聞いたところ、第一師団、歩兵第一旅団に位置する連隊で、かの乃木大将が連隊長をしていた部隊らしい。

 今から4年前に、宇垣うがき陸軍大臣により軍縮が行われた。全国の師団の数も減り、その分の予算で、関東大震災の復興と軍隊装備の近代化をはかっているという。
 世界大戦争第1次世界大戦が終結して国際連盟が発足し、世界中で軍縮の動きがあった。そして、戦時といえるほど緊張した時代ではないからこそ、できたことだろう。

 そう考えてみれば、今の時期の2年を現役兵として兵役を終わらせておくのは、まだ幸運なことなのかもしれない。満期除隊は実質的な退職を意味するからだ。
 もちろん、その後も40歳まで召集される可能性があるし、この先の歴史を知っている俺たちにとって、たとえ覚悟の上だとしても、とても安心などできはしない。

 春香を起こして食事を済ませ、準備を調えた俺は、時間に余裕を見て宿を出た。
 例年、この10日が入営日であることもあって、街の多くの人々が歓迎のために外に出ている。
 よく晴れた空に、「祝入営」と大きく書かれたのぼりがいくつも立っていた。

 それを見て、俺の少し後ろを歩く春香が、
「うわぁ。すごい。出たとき以上だ、こりゃ」
と感嘆のつぶやきを漏らした。

 振り向いて、自嘲するように、
「まるで世界大会に出場するスター選手みたいだな」
と言うと、春香が小さく微笑んだ。
「わかるわかる。その雰囲気」

 本当に言いたいことを隠して、わざと明るいどうでもいいような会話を続ける。

 前と後ろ、わずかな距離が今日は少し遠く、どこかたよりなく感じる。やがて、道路の先に大きなお城のような兵営が見えてきた。

 営門には四角い柱が立っていて、鉄柵の向こうに、三角形の屋根をした大きな建物がある。その正面中央に大きな菊の御紋が輝いていて、屋根の裾に西洋のお城のような円塔2基を左右に置き、さらに砦のようなデザインの壁が続いていた。

 窓がついているから、実際は防壁の役目があるわけじゃなくて、デザインなのだろうけれど、まさに城のような外観が人々を威圧するようにそびえ立っている。
 営門の前には、同じ見送りと思われる多くの人々が詰めかけていて、紋付き姿の青年もいた。

 家族の見送りはここまで。
 門の中へは、俺、一人で入らねばならない。

「春香……」

「うん。わかってる」

 俺はもう一度、春香の手を握った。すべすべした手。いつも俺の隣に居て、繋いでいたこの手。

「――じゃ、行ってくるよ」
 そっと手を離してそう言うと、春香はニッコリ笑顔を見せると、居住まいを正した。
 深々と、丁寧に、俺に向かってお辞儀をする。

「行ってらっしゃいませ。貴方。……立派に勤め上げてお帰りになるのをお待ちしております」

 まるで大輪の白百合のように、清楚で凛とした雰囲気。威厳と高貴さをそなえたその佇まいは、まさに軍人の妻としての姿だった。

 頭を上げた春香ともう一度、見つめ合う。一つうなずいて、俺は背を向けた。

 まだ戦時というわけじゃない。だからといって、気は抜かない。
 春香の空気にあてられたわけじゃないが、俺も最後までやり抜くという覚悟を決めよう。

 俺はまっすぐ前を向いて営門をくぐった。

 中の受付で通知にあった「第2中隊」の札のあるところに並ぶ。
 前後左右にいるのは、同じような紋付き姿の青年たち。こいつらが同期となるのだろう。まだ若々しく、どこか高校生にも見える。彼らも、歩兵に配属されたことが誇らしげなように見えた。
 俺が気になるのかチラチラと見ているが、おしゃべりをせずに口をつぐんで、順番を待っていた。もちろん、俺も口を閉じている。

 そのまま受付を終え、身体検査を受けた後で20人ほどの班に分けられた。俺の班には、幸いにして、酒屋の晋一郎君も一緒だった。

 各班に、それぞれ先輩の軍人があてがわれたが、俺たちの班長は後藤伍長という人だった。20代半ばであろうか。がっしりした体格の戦車みたいな人なんだが、声がちょっと高いので違和感がある。

 後藤伍長殿の先導で身体測定などを済ませ、さっそく軍服に着替えた。
 初々しい兵隊の服装を、後藤伍長殿とほかに2人の先輩がチェックしてくれる。

 着替えを終えた俺たちを見た後藤伍長殿が、満足げな表情で言った。
「どうだ気分は?」
 たまたま近くにいた晋一郎君が、
「はいっ。引き締まります」
と応えると、バンと背中を叩かれて、
「嘘をつくな! まだうかれとるだろうが!」
と言われている。

 確かに他の青年たちは、名誉ある兵隊になったこともあり、またここまで実感のないままに連れてこられているので、どこか浮ついた雰囲気といえばその通りだろう。緊張もしているけれど、まあ初日だ。それも当然だ。

 けれど、こんな風に和気藹々わきあいあいとした空気なのは今日だけだと思う。明日からはしごかれ、上下関係も厳しく、おそらくビンタもされることも覚悟しておかないと。

 その後、宿舎である部屋に案内される。
 手前に長いライフルのような歩兵銃が銃架に立てかけられていた。その後ろから左右の壁側に寝台がずらっと10台ずつ並んでいる。
 壁には棚があって俺たちの軍服一式と、私物入れの小さなロッカー手箱が置いてあった。

 俺たちは初年兵だが、1年上の二年兵の先輩と交互に寝台が配置されているらしい。

 ちょうどお昼の食事時となり、二年兵たちが帰ってきた。そこで、それぞれペアとなる戦友が紹介される。
 俺の戦友は鈴木鉄一さんという非常にぶっきらぼうな人だった。いったい仕事は何をしていた人なんだろうか。

「住まいはどこだ?」
「はい。杉並であります」
「俺は浅草だ……」

 それっきり黙られると、どうしていいのかわからなくなる。浅草が一体どうしたんだろうか。遠いなとか、遊びに行けるなでもいいんだが、もうちょっと何かないか。
 なんとなく、この人と会話するのは疲れそうな気がする。

 指示されるままに他の初年兵と長ベンチに座り、食事が始まった。
 アルミニウムの食器に、赤飯とイサキの尾頭付きの昼食だが、赤飯の量が山盛りになっている。明らかに多い。

「今日はお前たちの祝いだ。残さずにたくさん食べろ!」
 まだ名前はわからないが、二年兵がニヤリと笑みを浮かべながら、俺たちに言った。

 こりゃあ、わざとだな。
 俺は大丈夫だが、昨夜、しばらく食べられないからと、ご馳走や飲み過ぎた奴にはキツいだろう。
 案の定、引きつった顔の同期が多かった。戦友の鉄一殿が俺をチラリと見たので、黙ってうなずいて箸を付ける。
 結果? 完食したのは俺だけさ。二年兵からお褒めの言葉をいただいたが、なんだかな。

 ここでちょっとだけ、階級について触れようと思う。
 下から順番にいえば、次のようになる。
 二等卒 一等卒 上等卒 伍長 軍曹 曹長 特務曹長 少尉 中尉 大尉 少佐、中佐、大佐、とまあこれ以降は、ほぼ雲の上も上で俺たちに関係ないだろう。
 一般に上等卒までが兵卒、曹長か特務曹長までが下士、それ以上は士官、いわゆる将校だ。

 1年目の俺たちは二等卒だが、これが1年もすれば一等卒になる。さらに優秀なやつは上等卒となるらしい。
 まあせいぜい2年の兵役期間だし、上の階級になれば部下の命を預からなくてはならなくなる。それは俺には避けたいところだ。

 ともあれ、こうして軍隊生活がはじまった。午後からは、中隊長殿の訓示、宣誓式、契約書への署名捺印とあったが、まあそれは語るほどのことでもない。着替えた服は荷造りをして、送り返す手続きをした。


 兵営の朝は起床ラッパから始まる。

 ――パッパ、パッパ。パッパ、パッパ。パッパ、パッパ、パー。

 入隊2日目の朝、古年兵の誰かが、ラッパのメロディに合わせ、
「起きろよ、起きろ、みな起きろー。起きないと、班長さんに怒られるー」
と歌っていたが、こういう替え歌も伝統なのだろうね。

 最初のうちは敬礼や掃除、整理整頓の仕方などの生活指導。それが終わると動作などの基本教練、手旗信号などを教わりつつ、体操など身体作りが続けられた。
 これはキツいけれど、いわゆるブートキャンプに当たるのだろうから仕方が無い。同期の奴らなんかはヘトヘトになりながら、どうにかこなしているという状態だった。

 夜は夜で大変だ。
 ある日、夜の点呼が終わり、週番下士官が帰った後のことだ。
「堀田二等卒! 前へ出ろ!」
「はいっ」
 伍長殿に名前を呼ばれた晋一郎君が、一歩前に出る。
「貴様! 昼の態度はなんだ! ヨロヨロしおって!」
「はいっ」
「たるんどるんだ! キビキビ動かんか!」
「はいっ」
 晋一郎君も必死だ。その彼の返事を聞いていると、こっちも緊張してしまう。

 次の瞬間、矛先が俺たちにも来た。
「お前らもだぞ!」
「「はいっ」」
「地方の娑婆しやばっ気が抜けておらんからそうなるんだ!」
「「はいっ」」
「長沢ぁ! 貴様、軍人勅諭の五箇条は覚えたか!」
「まだでありますっ」

 そう答えた途端、長沢の身体がベッドに叩きつけられた。ドガァッという音にみんなが引きつる。
「貴様ぁ! いつになったら覚えるんだ!」「はいっ。もうしわ」ドンッ。「それでも軍人か!」「はいっ。ぐっ」
 その後さらに何度も殴られる鈍い音を聞きながら、直立不動で立ち続ける。すこしでも気を緩めて身体が動いてしまえば、今度は俺がやられる。そんな必死な空気が漂っていた。

「いいか! こいつが覚えないのは、貴様らの責任でもある! 連帯責任だ!」
 後藤伍長殿はそう言うと、端から順番に平手で思いっきりひったたき始めた。

 バンッ。バンッ。バンッ。……。
 重たい平手の音が少しずつ近づいてくる。時折、「うっ」とうめく奴がいた。そして、俺の番が来た。

 次の瞬間、衝撃で視界が一瞬で揺れた。麻痺したように頬がしびれている。
「あ、りがとうございましたっ」
と言うと、伍長殿は手を止めて俺を見て「よし!」と言い、隣の奴の頬をひっぱたいた。叩かれた頬が、今ごろヒリヒリとしてきた。
 俺以降はみんな叩かれた際に、「ありがとうございました」と言っていった。

 一通り終わると、伍長殿は少し表情をゆるめ、
「いいか、3日後にもう一度、五箇条を覚えたか確認する。それまでに覚えさせておけ!」
「「はいっ」」

 ――この日はこれで終わったが、まったく万事がこの調子だ。
 欠礼したと言われては平手、銃の扱いが雑だと言われてはぶん殴られる生活。

 ほかにも花魁おいらんやウグイス、セミの鳴きまねをさせられたり、積んでおいた衣類をぶちまけられたりと、……おそらくこの制裁も伝統なのだろう。
 それも1ヶ月、2ヶ月と経てば少しずつ慣れてくる。しかし、慣れてくれば慣れてきたで気の緩みもあったのか、余計にビンタの回数も増えていった。

 まあ、叩かれるのに慣れてしまって、痛くない叩かれ方を身につけることができたが。