13.昭和7年 夜ふけの会話

2019年4月25日

 かまどに火を入れて、ヤカンを載せる。

 振り向くとテーブルで夏樹がコーヒーミルのハンドルをゴリゴリと回していた。
 丸椅子に座ってその様子を眺めていると、チラリとこっちを見てすぐに視線を戻していた。
 大学生の時に珈琲店でバイトをしていたけれど、こうして珈琲を入れている姿はよく似合うと思う。

 高校の試験勉強の時はどっちかの部屋でやることが多くって。夜遅くにちょっと休憩しようと言って、深夜の台所でこうして珈琲を入れてくれたこともあった。
 お義母さんの用意してくれていたコンビニのシュークリームを、台所の床に2人並んで座り込んでかぶりついていたのが懐かしい。

 ヤカンがコーと音を立て始める。
 夏樹はき終わった豆を、ドリッパーにセットしておいた和紙の上に移している。

 こうして作業をしているところの真剣な眼差しが好きだ。もちろん私を見つめるときのあの優しい眼差しも好き。
 悩んで眉間にしわを寄せているときには、落ちついて欲しいと思って頭を撫でてあげたりもあった。辛いことがあった時には、その頭を抱え込んで胸に抱きしめたくなる。
 ……まあ、大抵、その時は私も泣いていたりするんだけどね。

 静かな夜の台所。ヤカンのお湯がいてきて、底から泡が上がるコポコポという音が聞こえてきた。そろそろお湯はよさそうだ。
 かまどに行って火を落とすと、夏樹が鍋つかみのミトンに手をやってきて、お湯の入ったヤカンを持っていく。そのまま、さっとお湯でサーバー全体を湿らせて、しばらく蒸らしている。
 お湯を注いだ瞬間に、挽き立ての珈琲の良い香りが広がってきた。

 さっきまでと同じように丸椅子を引いてテーブルのそばで眺めていると、こっちをチラリと見た夏樹の口元が今度はそっと微笑んでいた。
 器用にヤカンから細くお湯を落とし、円を描くようにお湯を注いでいる。ドリッパーの中では珈琲の泡が盛り上がっていく。細く白い湯気が立ち上った。

 頃合いを見て、食器棚から二人分のコーヒーカップを取り出して並べておく。
 夏樹は2回、3回とお湯を落とし、さっとドリッパーを下ろした。

 無言だけれど、居心地の良いこのひととき。
 2人だけの夜の時間がゆったりと流れていく。

 ヤカンを戻した夏樹が、もう一つの丸椅子に座った。私はサーバーの珈琲をカップに注ぎ、一つを夏樹に手渡した。
 それぞれがカップを手に取り、そっと口にする。香りが鼻こうに広がり、おいしい苦みが舌に広がる。モカのブレンド。後から空気が通るような喉ごし。

 こっちを見る夏樹にうなずき返した。いつでもいいよ、と。

「――三井物産を辞めようと思う」

 唐突な話だけれど、思いのほか私は冷静に聞けていた。
「そう」

 もしかしたら、いつかそう言い出すんじゃないかって、心のどこかで感じていたのかもしれない。
 けれど、商社のサラリーマンとして忙しそうにしているのも、たまにお酒を飲んで遅くに帰ってきたときも充実しているように見えたけれど、どこか無理をしていたのかな。

「理由をきかないのか?」

 怪訝けげんそうな夏樹に黙って見つめ返すと、その動機を教えてくれた。

「俺たちは裕福だって意識はないけれど、財閥ざいばつの三井に勤めている限り、周りはそうは思わないだろう。それに思うんだ。……本当に苦しいのは農村なんじゃないかって」

 だから、その農村で生活をするべきじゃないかと。でも理由はそれだけじゃないような気がする。でないと、今日みたいな事件のあった夜にこんな話はしないと思う。
 もしかして……、

「今日のようなクーデターがこれからも起きるだろう。それに特高とっこう警察の監視が厳しくなっていくはずだ。そういう環境に、春香や、香織ちゃんを置いておくのは心配なんだ」

 夏樹が真剣な眼差しで私を見ている。
 やっぱり私の身を案じているんだ。テロはともかく、特高警察か……。それってまるであの魔女狩りと同じ時代がやってくるということだろうか。あのひどかった時代が今度は日本に。

「それとだ。戦争が始まるとどんどん物資が無くなっていく。こういう都市部だと特に食料も。だから、その前に農村に移っておいた方がいいと思う」

 そこまで先のことを考えてはいなかったけれど、言われてみれば確かにそうだろう。農村で畑暮らしをしておいた方が、戦時中の食糧難には強い、と思う。あまり自信はないけれど。

「結局、私のためなんだね」
「いいや、俺のためでもある」
「そうだけど……、でも」
「春香。俺のためでもあるんだ。確かに戦争を経験するために日本にやって来た。――だけどな。俺だって男だ。できることなら好きな女は守りたいじゃないか」

 そっか。……そっか。
 なんだか急に目頭が熱くなってきたよ。いつも夏樹に守られてばかりだなぁ。
 本当は、私だってあなたを守りたいのに。

 夏樹が私を見ている。まっすぐに。
「いつも春香を頼りにしてるさ。今の俺の正直な気持ちとしてだ」
何かを言おうとしてためらっているような表情で。
「……俺は、おまえを愛してる。それだけだ」

 ずるいよ。今ここで、それを言うなんてずるいよ。
 まるで最初の告白を受けた時のように、胸が熱くなる。あの桜の木の下の時のように。愛おしさで胸が一杯になってくる。

「ありがとう」

 心の底から、ありがとう。
 貴方が霊水アムリタを飲んでくれたからこそ、私はここにいる。長い長い旅、貴方と一緒でどんなにか楽しかったことだろう、どんなにか幸せだったことだろう。

 そっと立ち上がって、夏樹の背中からぎゅっと抱きしめ、髪に顔をうずめる。ちょっと涙が出ているけれど、そのままで。

「ね? ボリビアに行った時のことを覚えてる?」

 なすがままだった夏樹が、前に回した私の腕に自分の手をそっと添えた。
「もちろん」
「――見渡す限りの白い塩の大地。水が張って湖がまるで大きな水鏡のようになっていてさ」
「うん」
「あの高い空が映し出されていて」
「うん」

「夜になると、頭上には一面の星空。足元にも星空が広がって、まるで宇宙の中に浮かんでいるみたいだった」
「うん」
「私ね。あんなに綺麗な景色を見たのは初めてだった。……でね。あの光景を見ているときに思ったんだ」
「うん」

 ぎゅっと抱きしめた腕に力がこもる。
「――あなたは私のすべてだって」

 この広大な宇宙。地球。悠久の時の中で、私は貴方と出会えたんだって。

「……春香」
「だからね。思うようにしていいのよ。どうかなって思った時は私もちゃんと言うから。貴方は貴方の思うようにしていいの」

 愛してる。ずっとずっと愛してる。
 こうして相談してくれてうれしいよ。これからも私は貴方のそばにいるから。


 心を高ぶらせてしまったけれど、落ちついてみればちょっと恥ずかしい。
 でもそれは夏樹も一緒だったようだ。

 腕をゆるめて、振り向いた夏樹と目が合うと、二人揃って照れ隠しの笑いを浮かべる。

「春香。今後のことを少し詰めておこう」
「うん。わかった」

 目をこすりながら、私は元のイスにもどった。


◇◇◇◇
 それからおよそ一年後、春分が過ぎて清明4月上旬の時期になった。穀雨こくうに至るまでの清々しい季節のはずだけれど、今日4月15日はあいにくの雨だった。

 私は、夏樹が運転するハドソン社の自動車・エセックス・コーチの助手席にいる。このちょっとレトロなデザインが気に入っているけれど、さすがにサスペンションはまだ良くないので衝撃がお尻に来るときもある。

松守まつもり村はもうすぐだね」
「そうだな……。あと1時間くらいか。香織ちゃんは?」
「後ろでぐっすり寝てる」

 後ろの席で、沢山の荷物に埋もれるようになってるけどね。
 長時間のドライブだったから、乗っているだけでも疲れちゃったんだろう。

 風はなく雨は穏やかに、静々と降っている。その向こうに、遠くの山々から霧が空に向かって立ちのぼっていた。
 ときおりツバメがエサを探して飛んでいる。
 この辺りは水源が乏しいので、稲作の田んぼよりも野菜畑が多く広がっている。石でも踏んだのか、ガタンと大きく揺れた。

 外の景色を見ていると、夏樹が話しかけてきた。
「外灯があるだけで、随分と変わって見えるな」
「確かに。前はもっと何にも無かったよね」

 電信柱と電線、外灯があるだけで、上手く言えないけれど、時代がかわっていることが明らかに感じられた。

「あ~、なんだな。せっかくの東京暮らしだったけど、悪かったな」
 私は隣を見た。
「……まだ気にしてるの?」
 ちょっと口を尖らせて言うと、夏樹が笑い出した。

 夏樹と一緒ならどこでだって暮らしていける。
 たとえ東京であれ、松守村であれ、どこかの山中であれ、無人島であれ、今まで2人で過ごしてきた経験が、ともに歩んできた長い時間がそれを可能にするだろう。

「ははは。まあ、そうだな」
「それより、そっちの方こそ本当に良かったの?」

 本当にあっさりと三井物産を辞めちゃって。あんなに一生懸命に働いていたのに。

 夏樹は真っ直ぐ前を見たままで、
「いいんだ。最後の仕事も無事終えたし、……それに人脈は無くなったわけじゃない。ちゃんと松本さんと今後のことは相談してあるしね」
「それは聞いてるけどさ」

 あれから夏樹は、松本さんに1つの提案と1つの相談をした。

 提案の方は、三井物産として社会貢献をしていくことが必要だということ。
 事件の背景の1つに、政府や財閥に対する、農村や労働者の不満や敵視があった。それを受けての提案だ。
 恐慌や凶作の影響で賃金の格差が開いている社会で、それも社会主義思想が流行していたわけで、あの襲撃しゅうげき事件はまさに階級闘争の1つの形として暴発したともいえる。裁判がまだ始まっていないから、彼らの目的はまだわからないけれど。

 もちろん具体的な社会貢献策として何ができるのか。それは私にはわからないけれど、それは方針を決めてから詰めていく話だろう。
 実は同じ話が内部に出はじめていたそうで、夏樹の提案は名前を出さずに松本さんを通して検討され、ついこないだの4月4日に財団法人三井報恩会が設立認可される形で結実している。

 そして相談の方はというと、退職して松守村に住みたいということだった。
 松本さんには、土地を買って規模の大きい農業生産を経営して、生産者として流通の一端をにないたいと言ってあるらしい。

 ちゃんと、収穫した農作物を三井物産の地方販売網に載っける内諾をしてしまうところが、夏樹らしいと思う。
 松本さんからは、外国語の堪能な人材が減るということで引き留めていたけど、最終的には納得してくれた。

 香織ちゃんには申しわけないけど、高等女学校を中退させることになってしまった。
 もっとも本人は故郷の松守村に帰れるとあって、実はうれしそうだったりする。……ただし、女中の契約期間は終わっていないので、まだ実家に帰ることはしないようだ。
 私たち的にはかよいでも、どっちでもいいんだけど、本人の希望もあるから……。

 水たまりをバシャッと通過した。ワイパーがキーキーと音を立てている。細かい雨粒が、ミストとなって車内に冷気を運んできた。
 肩口が寒くなってくる。温かいものが欲しくなって、水筒のお茶を飲んだけれどとっくにぬるくなっていた。

 畑の中の農道の先に、松守村が見えてきた。そのまま集落を通り抜け、山際の一角まで行くと、そこが清玄寺になる。
 ようやく見えてきた瓦屋根の本堂は、雨にけむっていた。
 車は正面の山門を通り抜け、ぐるっと回り込んで裏口から境内けいだいに入り込んでいく。……とても懐かしい。

 夏樹が車を停めてエンジンを切った。
「ふぅ」という夏樹に「お疲れさま」と声を掛ける。

「先に声を掛けてくるから、香織ちゃんをお願いね」
 そう言って私は車から降りて、雨の中を小走りで庫裡くりの玄関に走った。