17.昭和11年8月 夏樹、役場勤め

2019年4月25日

「では、夏樹君。一緒に読み合わせをしよう」
「はい」

 俺は自分が書き上げた戸籍抄本こせきしょうほんを持って、村長さんと読み合わせの準備に入る。
 コピーやプリンターのないこの時代。役場で発給する文書は基本的にすべて手書きなのだ。

「暑いねぇ」

 窓の外は、夏の盛りの8月とあって、猛烈な陽射ひざしが大地を照りつけていた。
 たまに風がすうっと入ってくるけれど、役場内はひどい暑さで、誰もが胸もとのボタンを余分に開けてパタパタと仰いでいた。

 2.26事件の鎮圧を見届けて村に帰ってくると、恵海さんから一つの申し出を受けた。村役場に勤務してみませんかと。

 最初はどうしようかと迷ったけれど、春香と相談してその申し出を受けることにした。そのため、日中の畑仕事は春香たちにお任せしてしまっている。
 会計帳簿を管理している春香によれば、年間収支で見ると、今のところはトントンだということだ。

 実は、俺を役場に誘ってくれたのは村長さん自らだった。

 ――村の様子が一番よくわかるのは役場です。給料は安いですが、ぜひ役場に勤めていただけませんかと。

 その言いぶりからして、どうも恵海さんと裏で結託しているような気がした。どうもこの人も、俺たちが人の世の栄枯盛衰を見るために放浪する人外の存在と思っている節がある。

 とはいうものの、役場勤めにまったく興味がなかったわけではない。

 松守村の村役場は、村長、助役、収入役の3役に、俺たち書記3名。それに雑務や使いっ走りをしてくれる使丁していの少年の計7人だ。

 村長は村議会で選出されるが、伝統的に清玄寺の筆頭総代が就任している。助役と収入役、書記は3地区からその都度バランスを取れるように選出しているらしい。
 とすると、俺はさしずめ清玄寺からの選出ということになるのだろうか。

 いざ勤めてみると、今まで経験していなかった事がしょっちゅう起こり、貴重な体験をしていると思う。

 例えば、戸籍は秘匿ひとく扱いじゃないため、誰でも手数料さえ支払えば閲覧が可能だったりする。
 今年も数件の閲覧申請があって、どうも結婚する相手候補の事前調査のようだった。相手の家の不動産や親族関係を知ろうというのだろう。
 事実、その後しばらくして、6月だったか、西郷地区で結婚した夫婦があった。

 ところが、今度は婚姻届こんいんとどけが出てこない。
 同じ村の中のことだから結婚しただのはすぐわかるわけで、どうしたものかと思ったが、その理由を書記の先輩・川津さんが教えてくれた。

 なんでも、結婚してすぐに婚姻届を出してくるところは少ないそうだ。
 どういうことかって思うだろ? どうやら試行期間の意味があるらしいんだ。

 結婚は家と家との結びつき。だからよめ婿むこがその家にふさわしいかどうかを見ると。入籍してしまうと離婚の手続きが煩雑になってしまう。だからすぐには届け出をしないのだそうだ。

 じゃあ提出するタイミングはいつかとなると、どうも新妻が妊娠したのを機会として入籍の話し合いが始まることが多いらしい。
 中には子供の出生届と同時の場合もあるとか。

 驚きだ。

 出生届だって、子供が学校に入る年齢になって初めて届け出を出す親も多いとの話。
 これはまあ、わからないでもない。子供の死亡率は決して低くはないからだ。
 ……でも戸籍に載せなくていいのかと思わないでもないが。

 これには裏話があって、妾さんの子供の場合、戸主が承諾しないと戸籍に入れられない。つまり、戸籍上では存在しない子供となってしまうわけだ。本妻からの圧力もあるそうだし、戸主の権利は強いから。どうにか学校にやりたいと相談に来た人もいたが……。

 近親婚もあるらしく、その場合、通常の婚姻届は受理できない。
 これまた裏話でどうするかというと、同じような境遇の若夫婦などと相談して、戸籍上で交換して婚姻届を出すらしい。

 それって戸籍上の配偶者が現実とは別の人となるわけで、かなり問題はあるように思うが、そうはいっても現実に子供は生まれてくるのでどうにもならない。

 しかも役場としてはその内容が正しいかどうかは確認しないことになっている。
 届出書の要件さえ満たしていたら受理するのだそうだ。
 ……これもまた、複雑な内部事情がある場合に、平穏裏へいおんりに済ませる一つの方法なのかもしれない。

 余計な話が長くなってしまった。
 村長さんが俺の書いた謄写本とうしゃぼんを持ち、俺が戸籍原簿げんぼを読み上げる。
 文字を一つ一つチェックして間違いはないとのこと。無事に承認印をもらうことができた。

「読みやすい字ですね」
「そうですか」
「ガラスペンにも慣れているようで結構なことです」
「ありがとうございます」

 実際は俺の方が年上なんだが、それでも今年63才になる村長さんに言われるとうれしくなる。

「役場の仕事にも慣れましたか?」
「まだ戸惑うことも多いですね。ただ川津先輩も鈴木先輩もいますので」
「そうですか。それはよかった。……今度、点呼召集がありますから、よろしくお願いしますね」

 点呼召集とは毎年8月に在郷軍人が召集され、健康状態の確認などをする行事で、いわば在郷軍人の虫干しみたいなものだ。
 今年は3日後に近くの百村もむらの小学校だったな。村長さんが引率だが、暑い日にこの年齢じゃ大変だろうに……。

 外ではせみが盛んに鳴いている。今年の夏も暑そうだ。


◇◇◇◇
 その日の深夜。
 蔵の中の裸電球の下で、春香とともに半年分の畑の出納帳すいとうちょうをチェックしていた。

 網戸がしてあるとはいえ、開け放った窓から入ってきたが飛んでいる。
 陶器の蚊遣かやりから蚊取り線香の煙が細くのびているけれど、窓を開けている限り、あまり効果は無いようだ。
 ……まあ、どっちにしろ俺たちは刺されないけれどね。

 春香が数字を読み上げ、俺がそろばんをはじく。計算した合計と台帳の金額を照合して間違いがないことを確認する。

「ふぅ」
 すべての確認を終えて2人して手を頭上に伸ばし、かたくなった体をほぐす。首を左右に振って肩のこりもほぐした。

「終わったな」
「うん。今年は余裕があるね」

 後ろに手をついて、だらしなく足を前に伸ばす。春香は台帳の上にひじをついて、組んだ手の上にアゴを乗せていた。

「香織ちゃんたちの様子はどうだ?」
「ん~。みんな毎日が楽しいみたいよ。……ほら、今までは家族の中だけで農作業だったのが、女の子のグループでやってるからさ」
「ああ、学校のノリか」
「そうそう。私も楽しいしね」
「彼女たちのお陰で畑も広くなったしなぁ。奉公期間が終わったらどうするか……」
「お給金を払って来てもらう? ……もうちょっとやり繰りしないと厳しいかもしれないけど」
「そうだな。今度考えてみるか……。何か名産ができると良いんだけど」

 東京に売り込むときに、ご当地ブランドとなっていると買い手がつくからね。

 春香が何かを思い出したように、
「あ、それとね。香織ちゃんなんだけど」
「うん」
「今年で16才でしょ。こっそり教えてくれたんだけどさ。隠れて付き合っている男の子がいるよ。例の相撲の時の秀雄君。……年上かと思ったら同い年ですって」
「ほう」
「色々と相談されちゃった」
「なんて?」
「どうやったら胸が大きくなりますかとか、お2人はどうやって結婚がまとまったんですかとか、親にどう打ち明けたら良いかとか」

 最初が胸かいっ。……まあ、春香は中学1年生の時からバストアップ体操していたからなぁ。「楽しみにしてて」とか言っていた覚えがある。
 視線が自然と春香の胸に行く。それに気がついた春香がフフフと笑い出した。


「それとさ。私思ったんだけど、旅館は無理としても温泉休憩所きゅうけいしょとかなら、やれるんじゃないかな?」
「温泉休憩所?」
「うん。ほら、百村もむらの先の板室いたむろだって温泉あるし、湯本だって温泉がある。このあたりも掘れば出てくると思うんだよね」
「あ~、なるほど。……でもお客が来るかな?」
「そこは売り込み次第だね」

 ふむ。確かに今の人員じゃ旅館は無理だろうが、休憩所か……。確かに温泉があれば入ってはみたい。
 村として掘って、村営として運営できれば一番良いんだが。これは村長さんに相談だね。

「ね。それはそうと、今度温泉に行きたいな」
「ははは。前からそう言っていたな。確かにこっちに来てからまだ行っていないし……。一週間後でも行ってみるか? 近くでも良いだろ?」
「うん。板室でいいよ。……女の子たちも連れて行って良い?」
「そりゃあ、構わないけど……。それじゃ男は俺一人か」
「私と夏樹だけ家族風呂みたいなのないかな?」
「この時代にさすがにそれは……」
「無いかな。お風呂付きの個室ならあるんじゃないかな。それとも……、やっぱ温泉掘る?」

 そう言われると掘りたくなるね。温泉宿は男女別に分かれているところもあれば、こんなに田舎だと混浴のところもある。ただし家族風呂ってのはさすがにないだろう。

 春香の裸体を他の奴に見せたくはないからな。湯着ゆぎだとしても断固として却下だ。水着が許容できるギリギリだな。子供だったら一緒でも良いけど、大人の男は絶対に駄目だ。

 ふむ……。川の上流で神力で掘っておいて、湧き出したのを発見したことにするか……。マズいかな? でも確かに近くに温泉ができるのは魅力だ。

 気がつくと春香がニヤニヤしてこっちを見ていた。
「今度、一緒に川の上流に行ってみる?」

 完全に考えていることが見抜かれているよ。でもうなずいてしまう。
「そうするか」
「それは楽しみ。……ちょっと呑むでしょ? 今すぐに用意してくるね」
「俺も行く」「わかった」

 2人連れ添って蔵の入り口にある台所に向かう。
「すぐさかなを作るからちょっと待ってて」
「じゃあ、先にお酒持って行くよ。……冷酒が良いか?」「そだね」

 春香は野菜の入ったかごからキュウリを取り出し、梅干しの入った壺を棚から下ろしている。
 まきを一本取り出すと、神力であっさり火を点けてかまどに放り込み、小鍋に水を張って載せた。鶏のささみ肉を取り出したから、きっと茹でたささみを細かく刻んで梅肉とえるんだろう。

 俺は食器棚から冷酒用の江戸切り子の酒器を取り出し、お盆に載せて一足先に居間に戻った。
 机の上の台帳を片づけてお盆を置き、四次元ポケットならぬ神力収納から純米大吟醸の『仙禽せんきん』を取り出した。宇都宮で購入したお酒で、まだ飲んだことが無いお酒だ。
 切り子の徳利に入れて、そのまま神力で冷やしてしまう。こういうところは神さま特権だな。

 窓の外を見ると、黒々とした林の影の上に星が輝いていた。今日はいい夜だ。

 ふとなんとなくラジオを付けた。12時近くになるけれど、何かやってないだろうか。周波数を合わせていると、ジジジーという砂嵐の音から急にアナウンサーの声に切り替わった。
 これでよし。……どうやら今のドイツで開催されているオリンピックの中継をしているようだ。

 そのまま何となく聞いていると、小鉢を持った春香がやって来た。予想通りキュウリとささみの梅和うめあえ。それに枝豆が載っていた。

「おまちどおさま」
 そう言って並んで座る春香。さっそく、お猪口ちょこを持たせていでやる。俺も春香に注いでもらって2人で乾杯をした。「お疲れ~」

 お猪口に口をつけると、冷えたお酒が喉を通っていく。どこかリンゴを思わせるフルーティな酸味。自然と口角が上がる。うまい。

 見ると春香も純粋にニコリと笑みを浮かべて味わっていた。
 俺が見ているのに気がつくと、
「これ。おいしいね」
「また買ってくるよ」
「うん。ぜひ」
 春香ははしで梅和えを取ると、こっちを向いた。
「はい。あ~ん」
 苦笑いをしながら口を開ける。キュウリ、ささみ、梅和えのコラボ、旨くないわけがない。またこの華やかなお酒によく合っている。
「うまい」と言いながら、俺も梅和えを箸で取って春香に、「あ~ん」としてやった。

 満足げに咀嚼そしゃくしている春香。そうしてしばらく飲んでいると、お酒が回ってきたせいか、電球の明かりに照らされた春香の首もとが、妙になまめかしく見えてしまう。
 誤魔化すわけじゃないけど、団扇うちわを取ってあおぎながらお猪口をあおった。

 その時、ラジオから聞こえるアナウンサーの声に、2人同時に顔を上げる。
「そのまま切らずに待ってください。スイッチを切らないでください」

 時刻はまもなく深夜12時となる。どうやら競泳の決勝戦のようだ。日本からは前畑秀子選手が決勝に進んでいるらしい。

 ホイッスルが鳴り、選手が一斉に飛び込んだ。
 ドイツのゲネンゲルと、前畑さん、オランダのワールベルグ、イギリスのストレーの勝負。
 第一ターンはイギリスのストレー。前畑さんは2位につけている。

「前畑、ゲネンゲル2人が出ました。イギリスは遅れました。イギリスは遅れました。
 わずかにひとき、ひとき我が前畑じょうはリードしております」

 夜のしじまに、ただラジオの声だけが聞こえる。

「まさに大接戦。火の出るような大接戦。まことに心配でございます心配でございます。ゲネンゲルも強豪、つづいております。
 我が前畑わずかにリード。わずかにリード」

 どうやら他の選手を引き離し、前畑さんとゲネンゲル、2人の勝負となりつつあるようだ。アナウンサーの声が次第に緊迫していく。


「前畑あと10メートルで150。わずかにひときリード。前畑がんばれ! 前畑がんばれ!
 あと2メートルでターン。あと2メートルでターン。ターンしましたターンしました!ただ今ターンしました。ひときわずかにリード。前畑がんばれ! 前畑がんばれ! がんばれ! がんばれ!」

 気がつくとあおいでいた手も止まり、俺も春香もラジオをじっと見つめ、拳を握っている。声が熱を帯びていく。興奮が伝わってくる。

「あと40、あと40、あと40、あと40。
 前畑リード、前畑リード、ゲネンゲルも出ております! ほんのわずか、ほんのわずかにリード、前畑わずかにリード! がんばれ! 前畑がんばれ! がんばれ! がんばれ!
 あと25、あと25、あと25。わずかにリード、わずかにリード。わずかにリード 前畑! 前畑がんばれ! がんばれ! がんばれ! ゲネンゲルも出ておりますっ。
 がんばれ! がんばれ! がんばれ、がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ、がんばれ!
 前畑っ、前畑リードっ、前畑リードっ、前畑リードしておりますっ、前畑リードっ、前畑がんばれ! 前畑がんばれっ
 あと5メートルっ、あと5メートルっ、あと4メートル、3メートル、2メートル、ああっ、前畑リードっ。
 ――勝った! 勝った! 勝った、勝った! 勝った、勝った! ……前畑勝った! 前畑勝った!」

 開けている窓の外から、人々の興奮した声が聞こえた。「うおおぉぉぉ。やったぁぁっ」「万歳! 前畑! ばんざぁい!」

 同じラジオを聞いていたんだろう。興奮のあまりに家から飛び出している人もいるようだ。

 俺はふうぅと長く息をき、肩の力を抜いた。金メダル。それも日本人女性初の。テレビがないのが残念だ。

「こうして平和が続くといいのにね」
 ぽつりと春香がつぶやいた。
「確かにな……」

 東京日日新聞によれば、5月に斎藤隆夫さいとうたかお議員が、今までのクーデター事件に対し、事件を闇から闇に葬り去り続けた結果、悪化し続けたと軍部を批判した。
 この批判に日日新聞は讃辞を送っていて、久方ひさかたぶりにまっとうな記事を見た思いをした。

 けれどその10日ほど後に、陸海軍大臣は現役武官が就くことに決まった。
 おそらく、2.26事件を受けて現役から予備役になった、皇道派の真崎大将たちの復権を拒むつもりなのだろう。

 しかし同時に政府の命運を軍部が握ることとなる。気にくわない内閣なら、武官を派遣しなければ、組閣そかくすらできずに次の内閣になってしまうのだ。
 ……果たして今の首相は、それに気がついているのだろうか。

 在郷軍人会の福田さんが言うには、大幅な軍備増強の動きがあるらしいし。

「夏樹」
 名前を呼ばれて顔を上げると、いつの間にか近寄っていた春香が、心配そうな顔で俺をのぞき込んでいた。

「大丈夫だよ」
 安心させるようにそう言ったが、うまく微笑めていただろうか。俺には自信が無かった。