23.昭和17年8月 崩れた日常
あな気疎しや 勢ひはすべて痿えけり、
諸の「愛」の宝も ほろびけり。
はかなくも 残れる身には、
来しかたの 追憶も憂し。
~ダンテ・アリギエリ『あはれ今』~(上田敏訳)
◇◇◇◇
真珠湾攻撃に熱狂した翌年。
新聞紙上では皇軍の快進撃が伝えられ、次々に伝えられる戦果に、その都度村人たちは喝采を上げていた。
けれど同時に、夏樹の役場の仕事はますます忙しくなった。
なにしろ隣保班(隣組)の上に区会があり、その上に村役場があるわけで、伝達事項、配給の事務、そして国債の割り当てや供出物の回収と輸送と、息をつく間もなく仕事が次々にのしかかってきているようだ。
今年の春には翼賛選挙があったばかりだし、その選挙事務も大変そうだったなぁ。
8月19日の今日も、清玄寺の本堂前で村の男衆に支持を出していた。
私は本堂前の階段で、美子さんと一緒に冷茶を飲みながら、夏樹たちの作業を眺めていた。
本堂前の広場には、お寺の梵鐘や喚鐘、灯籠や大きな鈴が並んでいる。金属類回収令による供出の作業だった。
ここの梵鐘は江戸時代中期のもの。先に総代会で供出を決定した後で、恵海さんが悲痛な表情で私たちの所にその報告に来た。
もっとも、それまで朝と夕方にならしていた梵鐘も、空襲警報と混ざって紛らわしいということで、今では鳴らすことが禁じられていた。そう考えると、供出も仕方がないことかもしれない。
その代わりにお灯明立てや花立て、香炉だけは供出を免除してもらったとか。
「ぽっかりと、なんにも無くなっちゃって……」
主のなくなった鐘楼を見て、美子さんがぽつりとつぶやいた。
私たちが見ている前で、男衆が手分けをしてトラックに仏具を載せていく。
「いくぞー。いっせーのせ!」
「そっち、段差あるから気をつけろ!」
恵海さんが首に掛けたタオルで額の汗を拭った。色々と思うところはあるのだろう。妙にやつれ、一気に歳を取ったようにみえた。
「美子さん。形あるものはいずれは無くなります。戦争が終わったら、時期を見てまた造りましょうよ」
「御仏使様……」
空を見上げながら悟ったようなことを言ってしまった。私の横顔に美子さんの視線があたっているのを感じる。
いつもなら止めて下さいっていう呼び名を、無視したままで、
「その時は盛大に村で祭りでもして。ね?」
と言って美子さんを見ると、小さくうなずいて微笑みを浮かべていた。
「そうですね」
「だから、その時まで、恵海さんと美子さんには元気でいてもらわないと」
最後に一言付け加えると、美子さんは含み笑いをして恵海さんの方を見ていた。
今年で66歳と聞く。まだお元気そうだけど、悪くなるときは一気に来るから、身体は大事にして欲しい。
清玄寺には……、そしてこの村には恵海さんがまだまだ必要だ。
からっと晴れた夏特有の青い空に大きな入道雲が浮かんでいた。
近くの樹からはセミが鳴いている。その鳴き声につられるように、何気なく本堂脇に目をやると、紫陽花の葉の上に大きな蝸牛がのんびりと動いていた。
◇◇◇◇
次の日、清玄寺で、美子さんが代用食の講習会を開いた。
せまい庫裡の方ではなく、お寺の方の広い厨房に、村内3地区から何人もの女性が集まって来ている。
「昨年の開戦以来、皇軍は、フィリピンのマニラ、グアム、ラバウル、シンガポール、ジャワのパレンバン、そしてビルマのラングーンの英米を倒し、輝かしく前進しております。
……それを支えるのが銃後の私たちです」
講師の美子さんが、みんなの顔を見渡しながら話を続ける。香織ちゃんも、私の隣で、2歳になる和くんを連れて参加をしていた。
「しかし敵もさるもの、東京に敵機が来襲して空襲があったのを覚えておられるでしょう。けれど、前線で皇軍が安心して戦えるよう、私たちがしっかりと銃後の暮らしを護らねばなりません」
すでに数年前から、壮丁となり徴兵検査をくぐり抜けた若者達は、ほぼ入営となり、そのまま戦地へ向かっていた。
さらに後備役の人たちにも赤紙が届けられ、村内の多くの家から出征兵士が出ている。
「そのために増税もされました。貯蓄報国! は、あまり皆さん上手くいっていないかもしれませんが……。
塩の通帳制も始まり、醤油や味噌も配給、衣料品も切符制。……そして、先日にはうちからも梵鐘をはじめとする金属の供出をしました。弾丸切手を買ったところもあるでしょう。当たると良いですね」
婦人たちが小さく笑った。弾丸切手もというのは、宝くじ付きの切手のことだ。今年の6月8日から郵便局で売っている。
「それはともかく、今のところは野菜は2日に1度、魚やイカは加工品がほとんどですが4日に1度の配給。これからも益々配給生活が強化され、限られた食材でやりくりをする厳しい生活となると思います。
しかし、前線の我らが皇軍の将兵は今も戦っているのです。これに耐え抜き、さらに婦人として、増産に励む一家の健康を守らねばなりません。
そこで本日は代用食の講習をします」
美子さんの前には、石臼やすり鉢、食材として麦、蕎麦の実、いくらかの野菜、大豆、卵、そして、救荒作物である稗などの雑穀が並んでいる。
最近では見慣れない食材も登場して来ているし、配給食材を利用したレシピなどは、婦人雑誌に紹介もされている。
ただ、雑誌を買うのにもお金がかかるわけで……。そういう意味で今日の講習会となったんだよね。
「なにしろ実際に材料が手に入ってからでないと、献立は考えられませんから、これは切実な問題です。そこで、いま家にある食材をどのように使っていくのかが重要となるわけですが、この食料戦を、私たちの知恵と工夫で勝ち抜いていきましょう」
「はいっ」
「とくに大事なのは、いかにタンパク質を採るかで――」
肉はすでにぜい沢品として、ここまで回ってくることは稀だ。魚だって塩漬けや干した物ばかり。もっとも、内陸のここまで加工品とはいえ、海産物が回ってくることはそんなにない。
となれば、タンパク質を採るには大豆と卵が重要となってくるわけなんだけど、その卵も配給では2人で1個程度。
さらに今年からは粉末状の乾燥卵なんてものも登場した。
「生大豆粉は、そのままだとちょっと生臭いですが、豆乳にしたり、ちょっと炒るといいでしょう」
出た生大豆粉! これね。謎の粉なんだよね。
単に炒った大豆を挽いて作った、きな粉ってわけでもないし……。
「他にもコロッケやお肉のつなぎとしても使えます。これは栄養があるのでオススメです」
婦人雑誌によれば、砂糖も手に入りにくくなっているし、都会では子供のおやつにも苦労しているらしい。
……もっとも村では、おやつに甘い物という発想自体もともと無かった。野菜がせいぜいなんだよね。キュウリとか、カボチャとか。
――その時、厨房に恵海さんが飛び込んできた。
息を切らせて室内を探し、私を見つけると、
「春香様! すぐに蔵にお戻り下さいっ」
え? 蔵に何かあったの?
状況が掴めぬままに、皆さんにお辞儀をして恵海さんと厨房を出た。
「落ちついて聞いて下さい。――夏樹様に」
と言いかけたところで、廊下の先に夏樹がたたずんでいるのが見えた。
真剣な眼差しを見た瞬間。嫌な予感が体中を駆け巡る。
駆け寄った私に、夏樹がぽつりと言った。
「来たよ。……赤紙が」
一瞬にして、目の前が真っ暗になった。
――ついにこの時が来た。
ふらりと倒れそうになったけれど、足に力を込めて踏みしめる。
泣かない。そう決めていたから。
あなたを心配させないように。
出征してから、私は一人で泣こう。
恵海さんが気遣わしげな声で、
「ともかくも、まずは部屋に入り下さい。ここでは人目がありますから」
と近くの部屋の襖を開けてくれた。
夏樹が私から視線を外さないままに、
「ええ。ありがとうございます。美子さんには大丈夫とお伝え下さい」
と言って頭を下げる。
ではと言いながら、奥へ急いで行く恵海さんを尻目に、私たちはその部屋に入った。
すぐに神力で中の声が聞こえないように結界を張る。
覚悟はしていたけれど、いざ実際にその時に直面するとショックが大きい。
がしっと肩をつかまれる。
「大丈夫だ。大丈夫。落ち着け」
同時に、ふわりと夏樹の神力が私の身体を包みこんだ。力強いぬくもりと一緒に。
どうやら知らないうちに顔がこわばっていたようだ。
小さくうなずいて私は夏樹を抱きしめた。頭を胸もとに押し当てる。
色々と言葉が浮かんでは消えていく。けれど無言のままで時が流れていった。
「蔵に……、戻るか」
「うん」
私たちは誰にも挨拶をせずに、まっすぐ蔵に戻った。居間に上がるとすぐに、届けられた召集令状を見せてくれた。
赤く染まった一枚の紙を手に取って、しげしげと見つめる。
充員召集令状。
到着日は9月1日午後参時。……あと10日ほどしかない。
宇都宮の東部44部隊だという。
ただこの部隊名だけでは私にはわからなかった。
いったいどこの戦場に行くのだろう?
私の疑問が伝わったのか、夏樹が、
「さっき聞いてきたんだが、東部第44部隊は輜重兵連隊らしい。おそらく補充担当の留守部隊だろうってさ」
「ふうん」
補充担当? 輜重兵連隊?
「つまり、前に兵科区分が撤廃になったせいだろうけど、歩兵から輜重兵に変更になったってことだ」
「そうなの?」
「たぶんな」
輜重兵ということは兵站部隊。
古来から、遠征してきた敵軍に対して軍師がよく狙うところだ。当然、危険も多い。
それに補充部隊ということは、それこそどこの戦場に行くのか全くわからないじゃないか。
考え込んでいると、突然ピシッと夏樹が両手で私の頬を挟んだ。
「いたい」
挟まれてタコのようになりながら、目の前の夏樹の顔をじっとのぞき込む。
「……俺は絶対に死なない」
「うん」
それはわかってる。
「たとえ前線だろうが、後方だろうが」
「うん」
一呼吸置いた夏樹が、私の目を見つめる。
まるで心の奥底まで見通そうかというように。その視線に込められた強い意思が私の心を貫いた。
「たとえどれほどの月日を重ねようとも、必ず春香の所に戻る」
言葉がじわじわと心に染みこんでいく。
強がっている私の心は、やっぱりお見通しなのだろう。
離ればなれになるのが怖い。あなたが遠くに行っちゃうのが怖い。ものすごく。
……それでも、私は泣かない。歯を食いしばって耐えてみせる。
あなたのいない日々を。帰りを――、ずっとずっとあなたの帰りを。
「待ってる。夏樹が帰って来てくれるのを、私はここで待ってる」
すると夏樹は少し照れくさそうに微笑んで、
「わかればよろしい」
と言って、ほっぺたを挟んでいた手を離してくれた。
さっきまで触れられていた自分の頬を撫でる。大きな手のぬくもりがまだ残っていた。
遥か昔に、自分が夏樹に言った言葉を思い出す。
あれはまだ霊水アムリタを飲む前。私が人間だった頃のこと。
――もし生まれ変わったら……、私を見つけて。
私、なっくんが来るのをずっと待ってるから。
実はあの時すでに、夏樹は霊水アムリタを飲み、時間を遡行して私のところにやってきていたのだった。
幼い頃の約束のままに。私のところに来てくれていたんだ……。
それにしても。どれほどの月日を重ねようとも、か。
さっきのクサいセリフを胸の内で反芻していると、急におかしくなってきた。思いだし笑いをする私を、困ったように夏樹が見ている。
「……さっきのセリフ、似合わないよね」
私は、普段通りの、自然体の夏樹が一番好き。
「うっ。まあ、なんだ。かなり恥ずかしかったんだぞ」
「ふうん。でも許す」
だって、うれしかったから。
わざとニヨニヨしていると、夏樹が爆弾を落としてきた。
「というわけで、春香人形は早めに頼むぞ」
「な、なな。持って行く気?」
忘れてると思っていたのに。まだ作ってないよ。
「当たり前だろう」
なに言ってんのという顔をしているけど、それってかなり恥ずかしいでしょ……。
「あと写真もだろ。あとさ裸体画も描いておこうか」
「ちょっとちょっと、待って待って」
写真はわかる。でも、私のヌードデッサン? なんというものを!
「ぬくもりはなくても、見れば思い出せるようにさ」
むう。そう言われると迷ってしまう。考古学者だった夏樹は、発掘調査報告書を書く必要からデッサンも上手なんだよね。
でも……。う~ん……。
私一人で裸で、じっと夏樹に見つめられるんだよね。大丈夫か? 私。
困っている私を見つめる夏樹の顔は、いつも以上に柔らかく、愛おしげな目をしていた。
そんな眼で、私の一番好きなその瞳で見つめられたら、断れないよ。