26.昭和17年10月 夏樹出征
東部第44部隊、すなわち輜重兵第51連隊の補充部隊は、その名の通り兵員の補充業務を行う留守部隊だ。
期日通りに兵営に入ったものの、ほどなくして前線への充員として、今年入営したばかりの二等兵たちとともに、外地へ出発することを知らされた。
新しい配属先は弓6828部隊。秀雄君と同じ33師団で、行き先は南方戦線のビルマらしい。
まあ。とっくに覚悟していたことだから、どこであろうと構わない。
この出征は、宇都宮管区全体として、歩兵や山砲、工兵も合わせて、およそ400人弱が一緒にビルマに向かうらしい。うち輜重兵部隊としてはわずか17人ということだから、編成としてはおよそ1班分に当たる。
もう少し編成について説明しよう。1つの輜重兵連隊には複数の中隊がある。そして、その1中隊の中身はおおむね次の通りとなる。
中隊―①本部
―②第1小隊―第1分隊―第1~3班
第2分隊―第4~6班
―③第2小隊―第3分隊―第7~9班
第4分隊―第10~12班
―④第3小隊―第5分隊―第13~15班
第6分隊―第16~18班
1つ班がおよそ15~20名ほどなので、1小隊で100人から120人、1中隊でおよそ300人から400人となる。
通常は小隊ごとに、馬に車を引かせる輓馬部隊だったり、自動車部隊だったりする。
今回は大規模な輜重兵の輸送ではなく、たかだか1班程度の充員輸送ということなので、新たに連れていく馬も、運んでいく自動車もないということだ。
おそらく現地に馬も自動車も、それなりの数があるのだろう。
(※作者註:このような充員の時に馬、自動車等を運んだのかは未確認です)
つまりだ。馬や自動車を帯同したら、鉄道の乗り降り、船の乗り降りの度に膨大な作業があるわけだが、俺たちの場合はそれがない。
他の充員者と一緒に移動するだけだから、かなり気が楽だった。
そして、いよいよ出発の日が来た。
あらかじめ春香には日にちを連絡しておいたが、来てくれているだろうか。
10月5日。重たい兵装に身を包み、17名の出征者が留守部隊の連隊長殿より訓示を受ける。
引率の樺井軍曹殿に連れられて営門をくぐり、集合場所である護国神社に向かった。
そこにはすでに他の歩兵や砲兵たちが待機していて、俺たちもすぐに合流する。
一同整列し出征する全部隊が揃ったところで、歩兵の中隊長殿の号令により社殿に向かって一斉に黙祷を捧げた。
普通なら武運長久を祈るんだろうけど。他のみんなと一緒に頭を下げながら、このうちの何人が生きて帰ってこられるだろうかと思う。
黙祷している間にも、遠くから群衆のざわめきが聞こえてくる。これから、この神社から駅まで行進をする予定になっていて、その見送りに来てくれているのだ。
「直れ!」
号令に従って顔を上げると、一呼吸置いて「しゅっぱーつっ」と号令が下された。
先頭の軍楽隊が勇ましくラッパを鳴らし始めた。そのまま足踏みをしながら鳥居をくぐって出て行く。
つづいて小銃を持った歩兵たち、さらにいくつかの部隊と順番に出発し、とうとう俺たちの番が来た。
軍曹殿の号令に従って、俺も前の人に続いて鳥居をくぐった。
大通りをしばらく歩くと、道の左右に見送りに来た人々がずらっと並んでいた。どの人も日の丸の旗を盛んに振っている。
「おおおっ」という歓声が空にこだまし、俺たちの身体を飲みこんでいく。
パー、パー、パパ、パパ。パッパラパッパー――。
行進していく俺たちの頭上で、秋特有の高い空が広がっている。
歩いているうちに砂塵がもうもうと立ち、汗がほんのりと肌着を湿らせる。
春香の姿はあるだろうか。見送りに来てくれているだろうか。
軍列の横を、俺たちについていこうと懸命に歩く和服の女性がいる。その姿を見る度に、春香じゃないかと視線がさまよってしまう。せめて行く前にもう一度、もう一度でいいから、彼女の姿を見たい。
前を向きながら、眼の動きだけで春香の姿を探していると、沿道で人を掻き分けている女性に自然と視線が吸い寄せられた。
――春香っ。
彼女の方が先に俺を見つけたのだろう。必死にこっちに来ようとしている。そのまま群衆の前に出て、小走りになって俺の列の横へとやってきた。
小さく「夏樹」と呼ぶ声は、しかし群衆の歓声にかき消されてしまっていた。けれど口の動きで俺の名前を呼んだことがわかる。
微笑んで顔だけを向けると、ハンカチで目もとを拭いながら、幾度もうなずきながら付いてくる。
あなた、あなたと、その眼が何度も俺を呼んでいた。
俺はただただ、その度にうなずき返すだけ……。
ありがとう。春香。
もう大丈夫。もういいから。
お前も身体を大事に、帰りを……、待っていてくれ。
俺の想いが通じたのだろうか。春香は最後に気丈な微笑みを見せて、大きくうなずいた。すぐに、他の歩きはじめている人々のなかに、その姿が飲みこまれていく。
――来てくれていた。
その思いに心が震える。俺は歯をかみしめ、唇に力を入れると真っ直ぐ前を見つめた。
もう未練はない。行こう。戦場に。
やがて群衆は解散となったようで、後ろのざわめきが少しずつ遠く、小さくなっていく。駅に着いて行進が終わったときには、市民はほとんどいなかった。
おそらく残っている人たちは出征兵士の家族なんだろう。
その人たちの為にだろうか。わずかな時間だけれど、最後の別れの時が与えられた。
しかし、俺と春香は別れをもう済ませている。これ以上会えば、ますます辛くなるだけ。それをお互いがわかっていた。だから彼女はここまでは来ていない。
俺たちは予め手配されていた旅館に入り、日が暮れるのを待った。
握り飯だけの夕食が終わると再び集合がかかり、外に整列をする。貨物線に止まっている列車はすでに準備万端のようで、俺たちが乗り込むのを待っていた。
日が暮れた秋の夕方は一気に暗くなる。
すでに防諜のために、一般の人々は誰も近づけなくしてあるようで、駅員さんと憲兵以外には誰の姿も見えない。
「1」「2」「3」「4」――と点呼を終え、無言のうちに次々に改札を通り抜けて客車に乗り込んでいく。列車の窓には鎧戸が閉められていた。
席に座り、しばらくすると列車がガタンと揺れて動き出す。いよいよ出発だ。
外が見えないのがもどかしいけれど、鎧戸の向こうを透視しようとするかのように、何人かの兵士がじっと鎧戸を見ていた。
少しずつスピードを上げる列車。一定のリズムで揺れが伝わってくる。
気を張っていたみんなも、いつしか疲れが出てきたのだろう。固いイスではあるけれど、列車の揺れに誘われるように、一人、また一人と眠りに落ちていった。
前の席の増田一等兵もさっきから眠そうに欠伸をしている。俺の視線に気がついて苦笑いを浮かべている。
「眠いんだよ」
同じ輜重兵で、幸いに同い年(の設定)、住まいは宇都宮らしいが、気が合う良い奴だ。
俺も苦笑いを浮かべ、
「今のうちに俺も寝るかな」
「そうしとけよ。まだまだ先だし……」
外地に行くとなれば広島の宇品か、北九州の門司のどちらかからの出港となるだろう。いずれにしろ栃木県からはかなり遠い。
車内では頭をうなだれて眠る兵士たち。隣の奴に寄りかかっているのもいる。増田も寝てしまったようだ。
俺も静かに目を閉じた。
◇◇◇◇
あれから夜中に2度ほど乗り換え、今度は東海道線を一路西へと向かった。相変わらず鎧戸を閉めたまま、外部との接触はできないようになっていた。そのせいか換気口はあるんだけれど車内の空気が淀んでいるようで、気分が悪くなりそうだ。
朝方に列車は停まり、下車の指示が出た。ようやく到着したのだ。固くなった身体を伸ばし、外に出てみるとそこは広島の宇品だった。
すぐに俺たち輜重兵部隊に集合がかかった。現在作業中の物資の積み込みをしろという命令が下る。
馬も自動車も持ってはいかないが、結局、積み込みと荷下ろしの作業をやらねばならないらしい。
俺たちは列車の貨物車へ行き、分解されている輜重車を運んだり、馬を艀に乗せてウインチで釣り上げるのを手伝った。
それが終われば次は弾薬だ。弾薬の入った箱を肩に担ぎ、一列になって運び込んでいく。
「重っ」
誰かがつぶやいた。たしかに弾薬はとんでもなく重い。肩が外れて落ちてしまいそうだ。
あ、これ無理だ。
人より体力がある程度に調整していたんだが、この作業があまりに辛かったのでそういう制限を緩めることにした。人よりも体力がある程度ではなく、ほとんど疲れない程度に引き上げる。
荒い息を吐いている皆には悪いが、その分、最後まで作業をするから許して欲しい。
前の奴の背中を追いながら港を見渡すと、どうやら俺たちが乗る輸送船の他にも、いくつも輸送船が停泊しているようだ。
どの船にも、俺たちと同じように兵隊が一列になって荷物を運んでいる。
きっと空から見たら、アリが巣穴に食べ物を運び込んでいるように見えるのじゃないだろうか。
ひとりその光景を想像して、胸の内で自嘲する。
アリか。まさに俺たちそのものだな。
なんだかんだ言って、積み込み作業はほとんど一日がかりとなり、終わった頃には日も暮れていた。
疲れた体を引きずるみんなとともに、割り当てられた宿泊予定の民家に向かった。宿ではなく民家なので、5人ほどに小グループに分かれていた。
きっと今までも輸送船が出港する度に、分宿させてくれている家なのだろう。50代くらいの夫婦に年頃の娘さんがいたが、手慣れた様子で俺たちの面倒を見てくれた。
「どうぞ召し上がって下さい」
と一人一人のご飯をよそってくれる。
きっと今日が過ぎれば、もうこのように若い日本人女性と接する機会もないだろうと、同宿の奴らが妙にニコニコしている。
まったく現金な奴らめ。皆の笑顔を見ていると、口元に笑みが浮かんできた。
……俺はもちろん自然体だ。春香がいるからな。
ふと老夫妻と目が合った。俺は笑みを浮かべたままで軽く会釈をする。
見ず知らずのご家族だけれど、生きては帰れぬかも知れない俺たちを、精一杯もてなそうというその気持ちがとてもありがたかった。
朝が来て、ご家族の見送りを受け俺たちは輸送船に向かって出発した。勿論、兵装はすでに調えてある。
順番にタラップを登って行くと、少しずつ視線が高く、そして景色が開けていく。
宇品の町並み。そして、駅舎の向こうには、秋色に色づいている山々が見える。
日本らしい光景。なんてことはない景色だけれど、妙に心に残る。
さて甲板から階段を降りると兵員の居住区になるんだが、実際に与えられた場所を見ると思わず目が点になった。
場所的には船の中層なんだが、だだっ広い部屋の両サイドに、立体的な4段の大きな棚が設けられている。そこで寝ろということなのか。
まるで蚕を育てる棚のような場所だが、1つの段の高さは80センチメートルほどである上に照明もない。区切りもない。どうやらすし詰めになっていろということらしい。
棚に潜り込むしかないんだが、人数を考えると横になるスペースもなく、棚の中で座り込むしか無さそうだ。こんなところで寝られるのか?
貨物室の中央には簡易食卓が並んでいて、そっちで寝た方が寝やすそうだが、みんな同じことを考えているよな……。
「まじか」
おののいているのは増田だけではない。他の奴らも、こんなところで何日も過ごすのかと呆然としているようだ。
「俺、ちょっと甲板に出てくる」
誰かが言い始めると、「俺も」「俺も」と次々に皆が言い出した。そりゃあ、こんな狭いところには、いたくないよな。
それに、最後となるかも知れない祖国をその目に焼き付けておきたいのだろう。
俺も装具を置いて、一緒に甲板に行くことにしよう。
少しの間とはいえ、あんなに狭いところにいたせいか、外の空気がうまい。秋の清らかな空気には、しかし潮の匂いと鉄の匂いが混じっていた。
カモメが戯れるように飛んでいる。その下の海には小型の船が何隻も動き回っていて、何かの作業をしているようだ。
やがて作業が終わったのだろう。タラップや給油管などが離れていった。
「そろそろかな」
誰かがつぶやいた。
何の前触れもなく碇が巻き上げられていく。絡みついた海水が飛沫となってほとばしり散った。
先に隣の船が動き出し、続いて俺たちの船も港から離れていく。港の作業員が手を振って見送ってくれている。
ゆっくりと遠ざかっていくその光景を、誰もが無言でじっと見つめていた。
――春香。行ってくるよ。
彼女の姿を空に思い描き、俺は心の内でそうつぶやく。この海風に乗って、彼女の所にそのつぶやきが飛んでいくような、そんな気がした。