27.昭和17年10月 輸送船

2019年4月25日

 暗闇のなかをぐううっと身体が持ち上がり、またすうっと落ち込んでいく。
 座り込んでいる背中側には増田の奴が横になっている。ときおりうめき声が聞こえてくるところを見ると、この揺れにやられているようだ。

 波が静かなときは機関の音がゴウンゴウンと聞こえてくるんだが、今は波のザパーンという音と船体のきしむ音。そして、あちこちから誰かのうめき声が聞こえる。

 船は瀬戸内海、玄界灘げんかいなだと通過し、途中で台湾の高雄たかおを経由して更に南へと向かっている。
 最初は軒並み船酔いになったみんなも、5日ほどしたら少しずつ回復していた。けれど、昨日から時化しけはじめているせいで前以上の船酔いになっているようで、どこもかしこも悲惨な状況になっている。
 おそらくこの荒れ方も今日がピークだと思うんだが……。

 ともかくこれでは眠れない。この貨物室はどうも換気の類いが無いようで、色んな臭気がこもっていて嫌になる。かといって甲板に出ようにも、雨が降っているだろうしな……。

 また身体が持ち上がった。
「ううぅ……」「うぷっ」
 幽鬼のようなうめき声に、俺は寝るのをあきらめて棚から抜け出した。駄目だこりゃ。甲板でどこか雨宿りできるところを探そう。

 例の4段寝台の下には、あふれ出した奴らが転がっている。俺は自分の雑嚢ざつのうを持って、皆を踏まないように注意しながら階段をのぼった。

 ハッチを開けるやいなや、雨交じりの強い風が吹き込んできた。すぐに外に出てハッチを閉める。
 風にあおられた強い雨が、ざざぁっと俺を打ち付けてくるように降ってくる。激しく波に揺れる甲板が足元でうねっている。並んでいる大発ダイハツの上陸ていが雨に打たれながら、ギシギシと揺れている。
 さすがにこの悪天候では他に誰もいないようで好都合だ。

 これだけ船体が大きいと、この程度の時化しけでは波が甲板まで入り込んでくる程ではないらしい。
 かつて帆船で荒れ狂う海を渡った経験からすれば、油断こそできないけれどもまあ大丈夫だ。

 足元を滑らせないように慎重に船首の方に向かう。あっという間に身体がびしょ濡れになるが、出港してから風呂にも入れていないわけだし、ちょうど良いだろう。
 雑嚢ざつのうはこっそり神力でコーティングしているから大丈夫。

 船首の方に甲板から数本の柱が立っていて、高射機関砲を備え付けた砲台が設えてある。その下ならば雨をしのげそうだ。

 幸いに台座を支える柱の近くに、れていない場所を見つけた。そこに腰を下ろして背中を柱に預ける。雑嚢ざつのうが転がっていかないように足で挟み込む。

 風が吹き荒び、雨が細かいミストとなって身体を包み込んでいく。
 けれども、こういう自然の猛威パワーを身体に感じるのが気持ちいい。偶には雨に打たれたい気持ちといえば理解してもらえるだろうか。
 ……少なくともあの兵員居住区よりはマシだな。

 ヒュオオオォォという風の音に紛れ、ときおり雷鳴がする。俺はそれをよそに、雑嚢ざつのうから高雄で受け取った慰問袋いもんぶくろを取り出した。

 送り主は大阪の天満てんまに住んでいる女の子だった。名前を宮脇雅美ちゃんというらしい。中に入っていた手紙によれば、国民学校の4年生だとか。
 大阪弁が可愛らしくて、高雄を出発する前にお礼の返事を書いておいた。

 それはともかく慰問品の中に、お菓子や筆記用品の他に文庫本が2冊入っていたんだ。しかも菊池寛の小説とあって、これはかなりうれしい。
 かつて、人間のことを知りたいのならばシェイクスピアを読めと言われたことがある。彼は劇作家ではあったけれど、人の苦悩や運命に翻弄ほんろうされる姿を実によく書き表していた。
 そして、それは小説家にも通じるものがある。ユーゴーの『レ・ミゼラブル』などもよかった。この菊池寛の『恩讐おんしゅう彼方かなたに』もそうだ。
 吹き込む雨に濡れぬように気をつけながら、俺はしばし読書に没頭した。

 どれくらい時間が経っていたのだろうか。
 視界の端が急に明るくなった。

 咄嗟とっさに顔を上げると、あんなにどんよりしていた雲の一画に切れ目が開いていて、そこから青い空が顔をのぞかせていた。
 その雲間から射し込む光が、スポットライトのように荒れ狂う海を照らし出している。

 まるで天地創造の一コマのような荘厳な光景に、俺はしばし魅入みいられていた。
 大きくうねる海。その波頭からほとばしる波飛沫がキラキラと輝いている。雲間から射し込む光が神々しい。

 その切れ間はすうっと閉じてしまったが、それから急に風が穏やかになりはじめた。少しずつ、黒々としていた雲が明るくなっていく。
 どうやら時化のピークは過ぎたのだろう。……波は相変わらず荒れたままではあるけれど。

 俺は小説を雑嚢ざつのうに戻して立ち上がった。
 船首方向を見ると、遠くに大陸が見える。あの陸地の影は見覚えがある。マレー半島だ。とすると次の寄港地は昭南シンガポールなのだろう。

 いよいよ南方にやってきた。ビルマまでもうすぐだ。


 次の日、嵐が過ぎたころに船はシンガポールに着港した。
 いつもと同じように、俺たちは船に乗せた荷物や馬を下ろす作業だ。
 10月とはいえど、ここはほぼ赤道直下。真夏のような暑さに、太陽の陽射しがきつい。俺たちは上半身はシャツ一枚で作業をしていた。

 ウィンチで吊り下げられている馬も、ここまでの航海でかなり疲れているようだ。お陰で温和おとなしくしているので作業も楽だ。
 荷物を港近くの倉庫に運べば作業は終わり。あとは5キロ離れたコカインの宿舎に行くだけだ。
 みんなはクタクタのようだけれど、俺は美しいシンガポールの町並みを楽しみながら宿舎に向かった。

 それからしばらくはコカインの宿舎で待機となった。特に教練もなく、かといって勝手に外出もできない。
 隣接する将校用の宿舎では慌ただしく動いている印象があるから、どこかで何かの作戦が進行中なのだろう。

 ときおり現地の女性数人が宿舎にやって来て、「マスター、バナナー、バナナー」と果物を売りに来てくれた。
 高雄の市場でも南国フルーツが売っていたけれど、彼女たちの果物も実に旨そうだ。
『バナナとマンゴーをくれ』
と言って軍票ぐんぴょうを渡すと、彼女らは目を丸くして、
『私たちの言葉がしゃべれるの?』
『ああ』

 これも霊水アムリタの力と言えるだろうか。神さまチートの一つだが、どんな言語も理解し使うことができるんだ。考古学者である俺にとっては解読できていない碑文も読むことができて、かなり嬉しい力だ。
 それはともかく、彼女らはニコニコ笑いながら、どうやら余分に売ってくれたようだ。これはリュウガンだろうか。

『――おじさん、またね』

 まあ、34歳の設定だから、やはりおじさんに見られるんだろうな。

◇◇◇◇
「おっ? なんか御機嫌きげんだな」
 宿舎の窓辺で鼻歌をうたいながらバナナを食べていると、増田がそんなことを言う。
 買ってきたバナナを放ってやる。「やるよ」
 その隣にいた石田一等兵が「あ、いいな」と言うので、そっちにも1つ投げてやった。

 こいつは4つ下の30歳。夏の点呼召集で何度か顔を合わせたことがある。百村もむらの出身なんだが黒磯の町に出ていてタクシーの運転手をしていた奴だ。
 そして、こいつも俺や増田と同じく弓6828部隊だった。

「で、なにか良いことあったんだろ?」
 増田が俺の正面に座ってバナナをむきながら言う。

「別に無いぜ。強いていえば、バナナがすごく旨いってことだな」
 すると石田の奴が、
「なんだ。てっきり綺麗きれいな南国女としっぽりとする約束でも」
と言い出したので、反射的に、
「しねえよっ」
と言い返した。

 こいつ、もしかして会話をしているところを見ていたな? 邪推じゃすいしやがって。
「何度でも言うが、俺は家内一筋だ」

 増田が含み笑いをして、思い出したように、
「そういえば夏樹は子供いるんだっけ?」
「いいや。家内と2人だけだ」
「おっと、そりゃすまん。……そっか、奥さんと2人か」

 そう言えば、他の奴の家族を聞いたことがなかったな。
「石田はどうなんだ?」
「うちは年下女房で、男の子1人だ」
「ふうん」
 そういってバナナに食らいつく増田に、
「そういうお前はどうなんだ?」
「うちは男、男、女の2太郎、1姫だ」
「ほう。うらやましいな」
「毎日にぎやかだよ。上のがようやく小学校にあがったところだ」

 増田は片手で器用にポケットから写真を取りだした。
 受け取って見させてもらうと、増田に並んで、少しふくよかな女性と子供たちが写っている。
「お前の奥さんの写真も見せろよ」というので、写真を返した後で、俺は春香の写真を見せてやった。胸から上のプロマイドみたいな写真だ。

「おいおい。お見合い写真みたいだなって、おい! 美人じゃないか。……ううむ、子供がいないとやっぱ若く見えるのかな。――ふうん」
 何だよ。ふうんって。

「見ろよ。石田。美人だぜ」
「へぇ」
「――よく考えたらお前だって年下女房か。うらやましいこって」

 2人の会話にくつくつと笑いがこみ上げてくる。
 こういう時間も悪くはない。男同士で馬鹿なことを言い合う時間。かつての戦友たちは、今どこで何をしているのだろうか。

 返してもらった春香の写真を見る。一見するとこっちに優しく微笑んでいるようにみえる。けれど、この瞳にはどこか寂しげな色が浮かんでいた。
 その理由はわかりきっているけどね。

 それに増田だって、小さい子供がいるんじゃ別れは辛かったはずだ。生きて再び会えればいいが……。
 自分の写真を見下ろしていた増田が、不意に石田に、
「おい。石田は写真ないのか? 見せろよ」
 しかし石田は気まずそうにしている。
「ああ……」
「ほれ。早く!」
 写真を取り出した石田が増田に渡した。それをひと目見て増田が目を丸くする。
「げっ。お前年下って幾つ下なんだよ」
「……12」
「ひとまわり下の18歳じゃねえか、この野郎!」

 そりゃあ若いな。香織ちゃんより若いじゃないか。

 増田が断言する。「犯罪だな」
 それに乗っかって廊下に向かって、「憲兵さんこっちです」と声を出すと、2人とも示し合わせたように笑いはじめた。もちろん俺も笑った。

 実際はお見合いかもしれないし、ひとまわりくらいなら許容範囲だろう。

「夏樹は美人、石田は年下。一番貧乏くじは俺かよ」
という増田に、
「いやいや。増田には子供がいるじゃないか」
と指摘すると、「そりゃあ、そうだがよ」とブツブツと言っていた。

「なんだにぎやかだな」
 そこへ顔を出したのは、俺たちの引率者の樺井軍曹かばいぐんそう殿だった。
 3人とも立ち上がって敬礼をする。
 軍曹殿は、上等兵から昇進した叩き上げの若者で、今年で25歳と聞いている。
「明日は朝から積み込み作業となる。終わり次第、いよいよ出港となるぞ」
「はいっ」

 手にした春香の写真をポケットに戻す。

「明日にはもう出港か」
とぼやく2人を残し、俺は春香に手紙を書くことにした。

 背中から「美人妻」「尻に敷かれてる」「かかあ天下」とか言葉の断片が聞こえるが、2つめからは違うぞ。……多分だけどな。