36.昭和19年3月 理不尽な命令

2019年4月25日

 トンザンにいた英印軍がインパールに退却していき、その後にようやく俺たち弓33師団が占領することができた。

 例の3299高地の物資集積所には、自動車とトラック合わせておよそ800台の車両が残っていたが、そのほとんどが部品を抜き取られるか破壊されていて、使えないようになっていた。
 それでも現在、工兵と輜重兵の一部で自動車収集班を結成し、1台でも多くの車両を使えるように修理と整備をしている最中だ。

 あのまま占領できていたら、これだけの車両を動かすガソリンも沢山あったんだが、英印軍が火を点けていったせいで、いまもまだ陣地の端っこで火が燃え続けている状態だった。


 額の汗を右手でぬぐうが、腕も汗をかいているのでぬるっとした感触だけが残る。
 あまりの暑さにとっくに軍服は脱いでいて、シャツのままで車のボンネットをのぞき込んで作業をしていた。

 駄馬小隊を組んでいた俺と増田だったが、この戦闘の間に馬がほとんど死んでしまったために解散となり、長谷川小隊長殿も本来の第1中隊に戻っていった。俺と増田も第2中隊の森村小隊、樺井かばい分隊長殿の指揮下に戻っていた。

 久しぶりに第3自動車中隊の石田とも再会したが、あいつの中隊は運んできた弾薬をここに置くや、すぐに再補充のためにカレワに向かっていった。

 まあ、今修理しているこの1台が動くようになっても、未整備のトラックやジープがまだまだ残っているんだよな。
 複数の車から1台を組み上げるやり方で整備補修を進めているけれど、なかなか作業が進まないのは仕方がないだろう。

 ……さて、こいつもこれで大丈夫だろう。

 パコンとボンネットを閉じる。
「よしっ、これで完了だ! ……そっちはどうだ?」

 すると車の下に潜り込んでいた増田はとっくに車体下から抜け出していた。だらしなく座って、水筒の水を飲んでやがる。
「じゃあ、テストしてみるぞ」と声を掛けて、運転席に乗り込む。

 窓は全開だというのに暑い。暑すぎる。閉めたボンネットの上で温められた空気がユラユラと揺れていた。

 それはともかく、頼む。動いてくれよ。

 そう願いながらキーを回した。
 キュルキュルキュル。

 セルが回る音が続く。
「行け、行け行け行け――」
 祈りながらアクセルをガシガシと踏んでいると、突然ブオンとエンジンがかかった。

「っしゃあ!」

 ガッツポーズを取って、そのまま少しふかしてからエンジンを切った。
 増田の奴がこっちを見上げて笑っていた。

 うるさいな。暑いとイライラするんだよ。

 外に出て、そばに置いておいた水筒から水を飲む。
 ふうと息を吐いて増田の隣にどかっと座り込んだ。俺も少し休憩しよう。

「どうだ、順調か?」
 樺井かばい分隊長殿だ。
「どうにか1台おわりました」
 さすがに工兵たちには負けるな……。

 そのまま分隊長も俺たちの隣に座った。増田が周囲の整備修理をしている仲間を見て、小さい声で言った。

「かなり亡くなりましたね……」
「ああ作間連隊も夜襲も失敗したし、軽装甲車が6両とも地雷で破壊された。
 ……お前たちは知ってるんだろうが、笹原連隊の入江大隊長が戦死。末木大隊の中隊長も2人、機関銃中隊長も戦死した。
 笹原連隊長が玉砕の覚悟で将兵と末期別れの酒を飲み交わし、最後の突撃をする寸前だったんだろ?」
「大きい声じゃ言えませんよ」
「将校が20名も戦死した戦いだ。一緒に行ったお前たちはまだいい。俺たちは師団本部と一緒にいて直接戦っていないしな。正直、後ろめたいよ」

 作戦が始まったとき、みんなはすぐにでもインパールに進出できるっていう雰囲気だった。それがふたを開けてみれば、最初の攻撃目標を攻略するだけで50%ちかい死傷者を出し、殲滅的打撃を受けてしまっている……。

「分隊長。これでインパールまで行けるんでしょうか?」
「夏樹。それは言うな。……ただ柳田師団長が電報で第15軍本部に作戦中止の意見を具申したらしい。国境までで防衛線を引くに留めるべきだってな」
「「えっ」」

 それはマジか。
 確かに部隊は半壊していたが、インパール攻略は上からの命令じゃなかったか。

 思わず、
「それって大丈夫なんですか?」
「大丈夫なわけないだろう。案の定、第15軍の牟田口むたぐち司令官殿から激しいおしかりの返報が来たそうだ。師団の田中参謀長もカンカンになっていたらしい」
「はあ、……それは、そうでしょうね」

 あの参謀長はなぁ。
 何がなんでもインパールに1番乗りするんだと息巻いているっていう噂だ。そりゃあ、カンカンにもなるだろう。

「軍からは、爾後じごの師団の指揮は参謀長に任すと言ってきたらしい」
「え? それじゃあ、師団長は……」
 驚く増田に、分隊長はシッと口に指を添え、
「声が大きいぞ。元々、牟田口司令官の計画に対し師団長は反対していた。あの人は事情通だし慎重派だからな。豪傑タイプの司令官とはそりが合わないのもあったんだろう。
 が、田中参謀長は強気で積極的だから、牟田口司令官も好んで直接指示を出していた節もある。だからこうなっても不思議じゃない」

 分隊長殿は言わないけど、これで師団長は蚊帳かやの外になるというわけだ。

 樺井分隊長殿は自嘲するように、
「とっくに師団長は外されているのさ。田中参謀長から『師団長の泣き言など聞くな!』と怒鳴られた将校もいるらしい」

 俺と増田は無言になる。
 師団司令部の事はよくわからない。が、師団本部がそのような状態だと、その下の将兵は……。
 樺井分隊長も思うところが色々とあったのだろう。

 愚痴ぐちは続く。
「だいたい作戦発起前の兵棋へいぎ演習の時、田中参謀長からは、急速突進を重視して、糧秣りょうまつも最小限、傷病者は途中にうち捨てて、さらに山砲も持ち運びが楽な31式を5門程度持っていくなんて説明があったらしい。
 ……山砲無し。航空支援も無し。突進する以外に戦いようがない。その結果がこれだ」

 増田があわてて、
「分隊長。ちょっと声を落として」
「む。――すまん。第15軍の牟田口司令官から、さっさと敵を追撃しろと矢の催促さいそくらしくてな」

 ふざけるなっ。英印軍の退却が終わったのは昨日だぞ。

 予め追撃戦力を用意していたわけじゃないんだし、少なくとも笹原連隊にはもう戦力は残されていなかった。それをさっさと追撃しろだと!

「おい。夏樹。落ち着け」

 あの玉砕ぎょくさいするかどうかって状態だったのに。そのことを第15軍の方ではわかっているのか?
 ……まさか、まだリゾート避暑地メイミョウの清明荘で、芸者遊びをしてるんじゃないだろうな。

 分隊長殿が俺の腕をつかんだ。どうやら凄い表情をしていたようだが、怒りはおさまらない。
「ですが、この……。この状態で追撃しろって言うんですか」

 笹原連隊だけじゃない。作間連隊だって、もう過半数が戦死と戦傷者になっているんだ。
 師団の戦闘力が半減してるんだぞ。戦場清掃だって終わっていない。戦死した仲間の遺体も収容が終わっていないんだ。

「わかっている。お前の言いたいことは。だがとにかく落ち着け、この馬鹿がっ」
 樺井分隊長がひっぱたいた。
「冷静になれ。いいか」

「……はい。すみませんでした」

「とにかく命令である以上は行くしかない。もうさいは投げられたんだ。だから明日29日に、笹原連隊がインパール平地入り口に当たるトルブン目指して、追撃前進することになった」
「はい」
「ここに野戦病院も設置した。それに戦病者は後方に下げられる。第3と第4の自動車中隊の奴らが、再補給のためにカレワに向かった。載せられるだけの戦病者を載せてだ。
 ――どうだわかったか」
「はい」

 言い含めるような樺井分隊長殿の説明に、俺は頭を下げた。横顔を分隊長がじっと見ている視線を感じる。
 ため息をついた分隊長殿が、
「夏樹。少し頭を冷やしてこい」
と言って下さった。

 たしかに少し冷静になるには時間がほしい。一人になる時間が。だから、俺は分隊長に礼を言って、何かを言いたげな増田を置いて一人に慣れる場所を探して歩くことにした。



 部品りを終えた車両が並んでいる一画で、俺は1台のトラックの荷台に上がり、運転席側に背中を預けて座った。

 ほろなどなく、ときおり風が穏やかに吹く。整備作業をしている音が遠くに聞こえるが、ここなら静かだ。

 数日前に降った雨のせいだろうか、それとも谷間で森林が近くにあるせいか、蚊が何匹も飛んでいる。
 俺は刺されることはないけれど、手で追い払いながら、懐から春香の手紙を取り出した。

〝今年も11月になりました。
 恒例の鎮守の山神社さんじんじゃの秋祭りも、どうやら今年が最後となるようです。

 とはいっても、お盆も鎮守さんのお祭も、今年は清玄寺の2階から眺めるだけにしました。
 最後となるからか、それとも秋の夜長の空気にあてられたのかわからないけど、なんだか味気なくて〟


 もう何度も読み返しているけれど、春香の文字を見た瞬間、何故か目もとが潤んできた。

 幸せな時の匂いが、この手紙には宿っている。彼女の優しい声が耳に蘇ってくる。時に明るく、時に切なく、けれどいつも俺を幸せにしてくれるあの声が。


〝村の方は変わりはありません。恵海さんも美子よしこさんも、香織ちゃんも和くんもみんな元気です。畑も、温室の野菜も、人手がないので規模は小さくしましたが、今年も美味しい野菜が採れました。

 遠く離れたビルマの地を想像しつつ、日々を過ごしております。
 思いはともに。どうかご武運を。      春香〟


「思いはともに……」
 彼女の心からのメッセージ。そっとその文字を指先でなぞる。

 今、春香は何をしているだろうか。
 その目には何が写っているのだろうか。
 毎日笑顔になれているだろうか。
 寂しさに負けてはいないだろうか。

 その時、ふわりと風がそよいだ。

 見上げると、きれいに晴れ上がった空が広がっている。周囲の山々から鳴く蝉の声が、まるで洪水のように押し寄せてきた。
 ずっと鳴きつづけていたのだろうけど、俺の耳には聞こえていなかったようだ。

 なぜこんなにもこの胸が締めつけられてしまうのだろう。
 なぜ、松守村で過ごした夏を思い出してしまうのだろう。
 なぜあの夏の思い出に、心が満ち足りてしまうのだろう。

 空を鳥が飛んでいった。
 強い日差しだけれど、風に揺れる木々の枝はまるでキラキラと輝いているように見える。

 その美しい自然の光景に、記憶にある松守村の風景が重なっていく。俺は、ポケットから春香の写真を取り出した。
 こっちを見ている写真。寂しさを湛えながら微笑んでいる姿。けれどその眼差しを見ていると、さっきまでの怒りややるせない気持ちがどこかに消えていく。

 戦争はまだ続くだろう。もっと悲惨で、理不尽なこともあるにちがいない。
 一人では受け止めきれないかもしれない。

 ……でも、俺は一人じゃない。

 あの空の向こうに春香がいる。確かに、今、この時も、あの空が続いていくその先に彼女がいるんだ。
 姿はここになくても、彼女の心はいつも俺のそばにいてくれる。同じ時をともに歩んでくれているんだ。

「……よし。行くか」

 荷台から立ち上がり、再び見上げた空には相変わらず蝉の声が響いていた。