38.昭和19年4月 夏樹、雨季到来

2019年4月25日

 再び夜の闇の中をコイレンタックの集積所に戻った俺たちだったが、翌日すぐに食料を買い入れるために近くの集落をまわることになった。いわゆる徴発ちょうはつって奴だ。

 空は分厚い雲が覆っていて、例年より早い雨季の到来を告げている。

「……誰もいないのか」
 わずか7軒の高床式の小屋が点在する集落だが、戦争の気配にすでに住民は逃げ出してしまっているようだ。
 一緒に来ていた増田が鳥小屋を見つけたけれど、中は空っぽで、白いふんと抜け落ちた羽根だけが落ちていた。

 ここには俺たち樺井分隊のメンバーだけでなく、アラカン山系に住んでいるチン族のうち日本軍に協力してくれる青年たちもやってきていた。
 昨年のうちから、ほぼ1個小隊を組むような形で協力してくれている彼らだが、すでに悲劇も起きていると聞いている。

 陸軍にはひかり機関といって、現地住民を味方に引き入れる役目を負った人たちがいる。対するイギリス軍にもVフォースという同じ役目の一隊があるらしい。

 日本軍に協力してくれているチン族の青年にリンシェンがいた。いわゆる知的なイケメンでチン高原の英雄で、女の子から人気があったという。

 彼らには話し言葉はあっても書く文字はない。だから女の子たちは草花に自らの思いを託して贈る風習がある。燃えるような恋心をセクパンの花に、不変の情愛を誇り高い月桂樹に託すといった具合で。

 リンシェンに心を寄せるノムネーという娘がいた。20歳の美しい娘さんで、リンシェンも心を寄せていたらしい。しかし、リンシェンは負傷のためにモーライクの野戦病院に下がってしまう。それが悲劇を生んだ。

 ノムネーは男たちに人気があり、特にしつこく言い寄っていたコンホーという男がいて、そいつはVフォースの分隊長にまでなった敵のスパイだった。
 リンシェンがいないのをいいことに、部下を連れてノムネーに近寄り、〝リンシェンはイギリス軍につかまって銃殺になった〟と嘘をついて、ノムネーを強引に連れ去ったのだ。

 戻ってきたリンシェンはすぐに部落の仲間を引き連れて、コンホーの部落に乗り込んだが、すでにコンホーもノムネーの姿もなかった。
 しかしリンシェンが無事であることを知ったノムネーは、嘆きのあまりに自ら谷底に身を投げてしまったという。

 青年の部族が今も協力してくれているのは、その恨みもあるのだろうか。戦争の裏に起きた悲劇に同情を禁じ得ない。

 同じチン族の青年ロンレンが、1軒の小屋で米を見つけた。
 まだもみのままのビルマ米。赤い色をしていて、チン族ではお酒に使う米で食べるような米ではない。……けれど、今や俺たちの主食はこの米になっていた。

 他の小屋も探してみたけれど、見つけられたのはこの米だけのようだ。
「誰もいないと買うこともできないな」
 買うっていったって軍票だ。こんな山中じゃ紙切れと変わらないだろう。
 置いていくべきか迷ったが、俺はなけなしの軍票ぐんぴょうをその小屋に置いていくことにした。

「おーい。夏樹。次に行くぞ」
 外から増田の声がする。「今行く」と言いつつ外に出て、みんなと合流する。
 その時、急に雨が降ってきたが、そのまま次の部落に向けて出発することに。
 最後に再び集落を眺めると、人気の無くなった家々が、なかば密林に呑み込まれるようにたたずんでいた。



 いくつかの集落をめぐり、また道中見つけた果物や食べられそうな野菜を手に俺たちは帰還した。

 雨が粛々しゅくしゅくと降り続け、時折スコールのように激しくなる。その時は、あっという間に地面に川ができ、ぬかるみ、泥の飛沫しぶきが腰にまで跳ね上がる。せっかく徴集したお米もいくらか濡れてしまった。
 痛んでしまうから、濡れたお米から食べないといけないだろう。

 しかし、こんな雨の中でも敵の砲撃はしぶとく続いている。俺たち日本軍の居場所がわからないらしく、山に向かって絨毯じゅうたん爆撃をしているようだ。

 ともあれ今のところは、ここコイレンタックまでは砲弾が飛んでくるような状況ではない。

 今日の分の食糧、もみ2合をもらって、仮設で作った竹の屋根の下に入る。
 増田や他の奴もやってきて、狭いながらも思い思いの位置に座った。

 鉄棒を脱いで支給されたもみを入れ、拾ってきた棒で突く。何度も突く。とにかく突く。突いて突いて突き続ける。
 何をしているかって? 脱穀だっこく作業だ。

 ダダダダと屋根を打つ雨の音に、ザッザッザッザッと米を突く音が交ざる。屋根からこぼれた雨の滴が水たまりに落ちるピチャンという音もした。

「あー、クソッ」
 なかばぶち切れながら増田が乱暴に米を突いた。
 体力が落ちている今、この作業はしんどいのだろう。

 ザッザッザッザッ。

 あちこちで誰もが黙って米を突く。

 けれども突然増田が、手を止めた。
「悪い。ちょっと見といてくれ」
 そういって激しい雨の中を外に出て行く。よろめくその背中に向かって「ちゃんと手洗って来いよ」と声を掛けると、わざと怒った顔をして拳を握り、そのままふらふらと林の方へと歩いて行った。

 あいつ、今朝から腹の調子が悪いんだ。やたら下しているっていうが……。
 置いていった鉄帽が転がっている。おそらく喉を通らないだろう。だが食べないでいて体力が落ちてしまうと、余計に体力がなくなる。

 しばらくしてびしょ濡れで戻ってきた増田は青白い顔をしていた。
 躊躇ちゅうちょしていて中に入ってこようとしない。「おい。増田――」

 声を掛けると戸口でぽつりと、
「悪い。ちょっと軍医のところの行ってくる。それ食べられないと思うからお前にやるよ」
と言うや振り返って再び雨の中に出て行った。

 ――あいつ。多分、アメーバ赤痢せきりなんだろう。

 俺も鉄帽を置いたままで追いかける。
「ちょっと待て。一緒に行ってやる」

 雨が身体を打ち、たちまちにびしょ濡れになるが、構わずに増田に追いついた。
 そのままフラッと倒れかけたところを支えて、そのまま肩を貸してやる。

「すまん。身体に力が入らねえんだ」
「この馬鹿。無理しやがって」
「でもよ」
「でもよじゃない。……ほら行くぞ」

 髪をらした雨水が、そのままあご、首を伝って胸もとに入っていく。シャツがびしょびしょになって肌に張り付いていく。
 冷たい。
 雨に身体の熱が奪われていく。
 俺の方が背が高いせいか肩を貸していると上手く歩けない。だが、予想以上に増田の身体は軽かった。

 もう何日も水浴びをできずにいるせいか、えた匂いがするが、それは俺も同じだろう。「すまんすまん」と言い続ける増田を支えて、俺は連隊本部の裏にある野戦病院に向かった。

 幸いに軍医殿にすぐに見てもらうことができたが、診断の結果は案の定アメーバ赤痢せきりだった。
 なにやら注射を打ってくれたものの、それは単なる栄養剤らしい。もう薬がないそうで、銃創じゅうそうや切り傷にすらヨードチンキを塗ってやるしかないという。

 礼を言って外に出ると、同じような奴らが周りで雨をけながらうずくまっているのが見えた。
 ……ジャングル野菜を食べるようになったし、川の水を使ったりしている。そのせいで感染したのだろうか。

「夏樹。すまん。ちょっとまた腹が痛い」
 そういって、増田は俺から離れるとふらつきながら林の中へと消えていった。

 薬も無くて何が野戦病院だ。なにか良い方法は……。

 増田が心配だ。だが俺には何もできない。それが苛立いらだたしい。

「――おい」

 その時、うずくまっていた一人の兵士が俺を呼んだ。
「俺か?」
「ああ。あいつ、アメーバ赤痢せきりだろ。ペストやコレラじゃなくて良かったな。……ここだけの話だ。信じるも信じないも自由だが、炭を食わせると良いらしいぞ。俺はこうして食ってる」
 そういってすいさんの時の燃え残りらしき黒い木片を見せてくれた。

「炭か……」
 効き目があればもうけものか。
「すまん。ありがとう」
 礼を言うと、そいつはうなずき返してから、器用に雨を避けて横になった。

 さっそく戻った俺はこっそりと火を起こし、近くにあった竹をくべて炭にした。増田に「これを食え」と渡したときに引きつったような顔をしていたが、「効き目があるらしい」と言うと半信半疑の表情でガシガシとかじっていた。

 これで治ればいいんだがな……。


 具合の悪い増田は、結局、あれから何度も林の中に行っていた。
 だが、それ以上俺も心配してやることができない。なぜなら、俺たち動ける人員に命令が下ったからだ。

 雨が降り出してから、ここコイレンタックまで物資が届かなくなった。ただちにチュラチャンプール、または場合によってさらに後方の83マイルの国境地点の集積所まで行き、糧秣りょうまつ・弾薬を補給せよとのことだ。

 力なく横たわっている増田を残していくことが心配だが、薬も補給できればありがたい。
「いいか。絶対に戻ってくるから、お前はとにかく炭を食ってろ。いいな」
「……ああ、すまねぇ」

 泥で顔が汚れ、顔色が悪い。だが、頑張れよ。

 俺は雨用の軍衣を身にまとい、わずか動ける小隊員15人でチュラチャンプール目指して林道に足を踏み入れた。

 曇り空のせいか、林道は薄暗い。道は完全にぬかるみになっていて、場所によっては雨水が小さな川となって横断していた。
 乾季とはまるで違う様相をていしている山道。

 気合いを入れろ。前を向くんだ。俺たちの輸送に戦友の命も、作戦の成否もかかっているんだから。