42.昭和19年6月6日 夏樹と春香、それぞれの夜、それぞれの朝

2019年4月25日

せいヲ受ケテヨリ、ここニ32年。御心配バカリヲ オケシテ 先立さきだツ不孝ヲ オ許シ下サイ。
 一、母上
 年ヲ重ネルゴトニ年老イテイキマス。今マデ通リノ働キハ デキナイデショウカラ、暑サ寒サヲいとッテ 御身おんみ オ大事ニ ナサレテ下サイ。
 一、英子
 予期セヌえんニヨリ とつイデキタオ前ニハ感謝シカナイ。短イ間デハアッタガ我ガ最愛ノ妻デアッタ事ヲ忘レナイ。今後ハ呉々くれぐれモ健康ニ留意シ、ゴ両親ニ孝養セヨ。えんアラバ他ニとつグモ可ナリ。オ前ノ幸セヲ祈ル〟

 暗い夜、目の前に小さなたき火がユラユラと揺れている。

 パチパチと木が燃える音を聞きながら、俺は町田の遺書を読み、深い深いため息をついた。
 火の中で燃えているのは、町田の親指だ。火葬するこの小さな火が、まるであいつの命の火のようにも見えた。


 俺たちが突撃した戦いで、高田隊は隊長以下43名が戦死、中村小隊は6名の戦死。生存者は俺を入れて10名ほどだった。

 翌18日朝に連隊本部に戻った時、ちょうど新師団長の田中信男少将殿が到着したところだった。
 師団長心得ではあるが、実際は師団長と同じ。その意気込みが立派な体格からあふれ出るようなエネルギッシュな人だ。
 33年間伸ばし続けているらしい立派なひげで、その顔が鍾馗しょうきに似ているから、すぐに裏でみんなが「鍾馗しょうきさん」とあだ名を付けていた。

 漏れ伝わる話だが、33マイルのトルブンの敵についてすぐに会議が始まり、弓の第3田中大隊、祭の67連隊の第1大隊瀬古隊、兵54師団から岩崎大隊、右突進・山本連隊から戦車隊がこっちに向かっていることが報告されたそうだ。

 田中新師団長は着任初戦にいきごんで、少数の敵など力攻めで殲滅せんめつしようと、部隊が到着次第に逐次投入することに決定。敵をパラシュートで降りた30人ほどと甘く見た報告があり、それを信用したらしい。
 その場にいた第15軍の木下、高橋両参謀さんぼうもこれに賛成し、実働部隊中、最上位者の松木連隊長がその指揮に、その補佐に高橋後方参謀が当たることになったという。

 問題があるだろう。なぜ階級にこだわっているんだ。

 松木連隊長は輜重兵しちょうへいだぞ。しかも42歳で商工省で自動車の開発をしていたような人だ。戦術を知らない人を指揮官にしてしまっている。
 そのまま新師団長たちは、高橋後方参謀を置いてモロウの第15軍司令部、および弓師団本部に向かった。

 俺の懸念は当たった。
 実質はほとんど高橋後方参謀が指示を出していたんだが、到着した部隊を集結させる間もなく、ただ敵陣に突撃させ、そのたびほぼ壊滅。
 大隊長たちは敵情もわからないから、斥候せっこう威力偵察いりょくていさつを提案するも却下きゃっか。わけもわからぬまま、敵の陣地の正確な位置もわからぬままに突撃させられていた。

 せっかく到着した瀬古大隊も岩崎大隊も、大隊長以下が戦死、半分以上の人員が死傷した。
 ようやく25日に英印軍が自主撤退したからいいものの。あのままでは打通だつうできなかっただろう。

 あたら若い命が散っていく。彼らが幼い頃から教わった尽忠報国じんちゅうほうこくは、果たしてこのように理不尽な突撃で死ぬことだったのだろうか……。

 もっともその戦場を見た松木連隊長は、300人以上の壮絶な戦死体に激しくショックを受けて錯乱さくらんし、拳銃や刀を隠さないといけない事態になったという。

 どこの戦場を見ても、仲間たちがどんどん死んでいくばかりだった。



 小さな火葬の火の中で、町田の指の骨が赤くなっている。
 火は平等だ。敵も味方も区別なく、すべての罪も焼き尽くして浄化し、新たな輪廻りんねへとあいつを導いていくだろう。そう信じたい。

 この凄惨せいさんな戦場で、今だけはゆったりとした時間が流れている。木の燃える音に、ただ心静かに耳を傾けている。

 視界の端っこで何かが動いた。顔を上げると、それは1匹の蛍だった。
 気がついてみると、あちこちで光っている。俺は蛍の群れのまっただ中にいた。

 暗闇にひかる蛍のかそけき光。ゆっくりと明滅しながら宙を舞う幻想的な軌跡。
 一匹の蛍が飛んできて、ひょいっと俺の手の上にとまった。

 増田と俺と一緒にバナナを食べていた町田。
 若い奥さんの写真を、嫌そうに増田に手渡していた町田。
 マラリアから復帰して痩せた町田。
 そして、死にたくない。怖いと震えていた町田。

 あいつと一緒に過ごした時間が思い浮かぶ。蛍が動き回っている俺の手に、ぽたりとしずくがこぼれた。
 そっと頬に手をやると、無意識のうちに俺は涙を流していた。

 ――絶対に生きて帰る。

 そう言っていたあいつの願いは、あっという間にはかなく散ってしまった。
 まだ結婚して一週間くらいしか過ごしていなかったろうに。若い奥さんのところには、この骨とともに戦死の通知書が届くことになるだろう。

 享年32歳。……現役兵の若者よりは長生きしたと言えるだろうか。
 すでに弓師団では戦死1310名、戦傷2502名、戦病3544名を数えるという。計7416名。しかし、実際はもっと多くの兵が戦死したと思う。すでに師団の7割以上が消耗し、壊滅状態となっている。
 それでもまだ攻撃命令は続いている……。

 手のひらの蛍がすうっと飛んでいった。美しい光の軌跡を残して。


 それを見送りながら、俺はふところから春香の手紙を取り出した。

〝今年も11月になりました〟と始まる手紙。
 何度も何度も繰り返し読んでいるこの手紙。

 書かれている内容よりも、彼女の懐かしい筆跡が愛おしい。
 指先でそっとなぞる。少しでも彼女のぬくもりを感じたい。この文字に込められた彼女の思いを、何度でも何度でも感じ取りたい。

 幸せな空気を思い起こさせてくれる手紙。一緒にいたあの幸せな日々の空気が、この手紙には確かに宿っていた。もう遥か遠くに無くしたもののように感じる、幸せな記憶……。
 深く息を吐いた。

〝春香〟と最後に書かれた2つの文字を見ると、脳裏に彼女の微笑む笑顔が蘇る。
 困ったときの顔、すねたときの顔。出征前の行かないでと言うような泣き顔も。
 こんな時だからだろうか。春香の声を聞きたい。あのぬくもりに包まれたい。

 ――会いたい。いま彼女に、心から会いたい。

 封印したはずの心が、想いがこみ上げてきて、せつなく俺の胸を締めつける。

 でも、彼女はここにいないんだ。
 その事実に、急に孤独感が俺を襲う。広い世界にたった一人でいるような心細さに、血の気が失せたように背筋が寒くなる。

 ぽうっと胸のポケットが光っているように見えた。いったい何だろう。何が……。
 中をのぞいてみると、爆弾の炎に巻き込まれたときだろうか。い付けられた糸が半ばちぎれていて、白い布にくるまれた幾本もの細い毛が見えた。
 すぐにわかった。これは春香の下の毛だ。

 あいつ……。こんなものをここに縫い込んでいたのか。
 恥ずかしそうに毛を抜いて、このポケットに仕込んでいる姿を想像すると、急におかしさがこみ上げてくる。
 やだなぁ。はずかしいよ。という心の声が聞こえてくるようだ。

 不思議とその想像のお陰か、いつの間にか孤独は感じなくなっていた。胸がぽかぽかと温かい。


 その時、空から月の光が射し込んできた。
 雲で閉ざされた空が、すうっと晴れたのだ。雲の切れ間からは、ビルマの大きな満月が輝きを放っていた。月の周りには沢山の星々がまたたいている。


 春香もあの月を見ているだろうか。遥か遠くの松守村から。今、その目には何が写っているのだろう。何をして、何を思っているだろう。
 愛してる。その想いが止めどなくあふれてきて、俺の心を満たす。また涙が出てきた。

 月よ。
 輝くその光で、遠く離れた彼女に俺のこの想いを伝えてくれ。

 そう願いながら、しばらく月を見上げるのだった。

 ――――――
 ――――
 ――

 松守村の奥に位置する清玄寺。その離れで、ふと私は夫の夏樹から呼ばれた気がした。

 縁側に出て障子を開けると、西南の空に満月が輝いている。煌々こうこうと明るいその光が、夜の世界を照らしていた。

 ……今ごろ、あなたは何をしているのかな。

 遠く離れたビルマの地。先月だったか新聞でコヒマ占領との記事はあったけれど、無事に作戦は終わったのだろうか。


 国内では、昨年、東京府東京市が廃止されて、東京都が誕生した。けれど、その誕生したばかりの東京都に、いや他の地方の大都市にも連合国軍の空襲があった。
 ここ松守村でも、区会や隣組となりぐみが総出で防火訓練が行われ、灯火管制のサイレンの違いも教わったし、防空壕を掘った家もある。着々と空襲の備えが進んでいる。

 東京都の小学生の疎開計画が進められているようで、ここ清玄寺もその候補地の1つになっているらしい。
 まだ本決まりではないが、おそらく子供たちを迎えることになると思う。


 配給も怪しくなってきていて、お米はめっきり減ってしまっていた。もちろん、肉や魚もね。
 家庭ではカボチャとサツマイモを作るようにとか、空き地を畑にしましょうと食糧増産が叫ばれている。
 ……うちの畑の未耕作地も、いまでは一面のカボチャで一杯になっているけど、収穫が大変なんだよなぁ。

 婦人雑誌では、お米や豆類までも粉にしてしまって、いかに食い延ばすかに力点を置いた料理を紹介している。
 すいとんとか、雑炊とか。干しいもの作り方もあったね。この前なんか「野草の食べ方」とか「茶がらの食べ方」まで紹介していて、遂にここまで来たかと思ったっけ。
 でも、おそらくこれからもっと厳しくなっていくはず。


 こっちも色々と大変ですよ。
 そう夏樹に教えてあげたいけど、向こうはもっと凄惨せいさんな光景を見ていると思う。

 縁側に座って、ぼうっと月を見上げていると、1匹の蛍が目の前を横切っていった。
 そうか。今年も蛍の季節が来たんだ……。

 手首に巻いたミサンガを見つめる。
 ようやく最近は、貴方のいない朝にも少し慣れたよ。でも偶に、貴方の夢を見る。

 小さい子供だった頃の思い出。小学校6年生の修学旅行の夜。お泊まり勉強会をした中学生。お父さんが胃がんで倒れ、私のそばにずっと居てくれたこと。そして、プロポーズをしてくれた病院の屋上。

 タイムリープして、ギリシャのナクソス島で過ごした日々も、周と商の戦いの最中に育てた碧霞へきかやその旦那の子牙くんのこと。

 アラビアの砂漠に日干しレンガの家。ローマのコロッセオにアレクサンドリアの街。
 幾度となく旅をしたシルクロードの星空に、十字軍の戦乱で真っ赤に燃える町。
 ルネッサンスのフィレンチェの人々。芸術を愛しながらも臭かった街。生と死が隣り合わせだったヨーロッパ。

 船に乗って大西洋を航海し、インカ帝国にも行った。ヨーロッパに戻ってきたら魔女狩りの暗黒時代だったけど。
 元禄の日本での生活は楽しかった。あれから太平洋を渡ったんだよね。インディオの集落を渡り歩いて東海岸にたどり着いたら、また戦争をしていたけど。
 革命だの戦争だの続いた時代に、嫌気をさしてアフリカ探険にも行ったりして。イギリスに戻ってきたら、また事件が待っていた。

 長い長い旅。多くの人々と出会い、別れを繰り返してきたけれど。横にはいつも貴方がいた。その思い出が脈絡みゃくらくもなく夢に出てくる。

 もともと幼馴染みだった私たち。貴方のいない日々なんて想像もつかなかった。

 ああ……。貴方は今、どこで何をしているのだろう。
 いつ、私のところに戻ってきてくれるのだろう。
 言葉なんていらない。ただ貴方にそばにいて欲しい。ぬくもりを、存在を、確かにそこに貴方がいる、上手くいえないけどそれを実感したい。

 いつの間にか息を詰めていたようだ。肩の力を抜いて深く深く息を吐く。

「やっぱり寂しいよね」
 ぽつんと独り言がれる。空の月を見上げる。じわりと目もとが潤んできた。
 これもきっと貴方との記憶を思い出したせいだ。――でも嫌じゃない。切なくなるけど。

 できれば、今宵こよいの夢で会えますように。
 そう私は月に願う。

 貴方は今、どこで何をしているのでしょうか。何を見て、どんなことを考えているのでしょうか。
 願わくば、空に輝く月よ。私の想いを。あの人への愛を伝えて下さい。

 そんな私をただただ、月は見守るようにぽっかりと空に浮かんでいる。優しく、わかったよとでも言うように。

――――
――
 ホーホケキョウとうぐいすが鳴いている。

 さらさらと風が頬を撫でる。太鼓の音は恵海さんが朝のお勤めをしているんだろう。

 ふと目を覚ますと、そこは私が寝起きしている離れの一室。身体を起こすと、抱き枕に描いた夏樹の顔がニッコリ笑っている。

 目覚め際に夏樹が、頑張れよって言ってくれた気がする。

「おはよう。夏樹」
 そう枕に声をかけ、私は伸びをする。部屋には障子越しの柔らかい光が満ちあふれていた。

 ……さあ、今日も一日がんばろう。あの人が帰ってきたときに、胸を張って「おかえり」と言えるように。

◇◇◇◇
 夢で春香に会った。

 桜の木の下で中学校の制服姿の春香から始まって、ずっとずっと長い旅で一緒だった数々のシーンを、幾つも再体験した。
 色んな表情を見せる春香。
 最後に出征前のあの夜の春香が。裸体に肩から浴衣を羽織り、俺に抱きついてきた。
 そして胸もとから見上げてくるんだ。「あなた――」と。

 すうっと意識が浮かび上がるのを感じながら、俺は春香の身体を抱きしめ続けた。

 もうお前を失いたくない。傍にいてくれ。離したくはないんだ――。

 けれどその願いも虚しく、どんどん薄れていく意識に、彼女は微笑みながら、
「大丈夫。――あなたならできる。あなたなら頑張れる。私が世界で一番大好きな人だもん。……待ってるから。ずっと待ってるから。だから最後まで――」

 がんばって。

 その声を聞きながら、俺は寂しげにうなずいた。――わかったと。待っていてくれ。俺はこっちで頑張るよ。だからお前もそっちで頑張れとそう伝えた。

 涙がにじんできたけれど、俺もこっちで頑張ろう。どんなに辛くても、足を踏ん張ろう。目を開いて戦争を見つめよう。
 あいつの所に戻ったときに、胸を張って「ただいま」と言えるように。

 目が覚めるともう朝が来ていた。名も知らぬ鳥が鳴いている。目の前の火はとうに消え、町田の小さな骨だけが灰の中に転がっていた。

 それを拾い上げようとして、春香人形を手に抱きしめていることに気がついた。
 いつ神力収納から取り出したのか覚えていないけれど、その人形を見ていると彼女がそこに居るような気がした。
 夢を見たこともあってか、それが何よりうれしかった。この人形がずっと俺を見てくれていて、励ましてくれている。そんな気がした。

 うん。俺はまだやれるよ。

 明るくなっていく朝の空を、俺は清々しく見あげたのだった。