45.昭和19年9月 夏樹、雨と泥にまみれて

2019年4月25日

「ううっ。くそ。また下痢が……」
「おい。増田、大丈夫か」
「ああ、わかってる。炭だろ、炭を食えば」

 撤退てったいに次ぐ撤退で、俺たちは今ティデムを通り過ぎたあたりにいた。

 しかし、ここからはアラカンの山中を、それもケネディーピークの標高3000メートル級の山々を横断していかなければならない。
 それも、街道沿いは敵偵察機赤とんぼが飛んでいるため、日夜問わずに密林の中を移動するほかなかった。

 体力が無くなった者は、40メートル歩いてはへたり込んで休む。また40メートル歩いては休むといった具合に、次第に遅れがちになり、部隊から脱落し、ここに来て増田も遅れてしまっている。
 同じようについて行けなくなった奴らと一緒に、今は10名ほどの集団になっていた。

 竹を杖にして、ボロボロになりながら豪雨のジャングルを歩く。足元では水が川のように流れ、その下では底の無い泥が俺たちの足を飲みこもうとしている。足を上げるのにも苦労をするほどだった。

 大きな木の下で、ちょうどよく水を避けられそうな場所を見つけた。それを幸いと、俺たちの一団は、ここで夜まで休憩をすることにした。
 さっそく増田は近くの茂みの中へと入っていく。あいつも体力が無くなったようで、塩分不足でボウッとしているし、ヒューヒューと笛のような呼吸をするようになっていた。

 肩を貸そうと言うんだが、歩けるうちは自分で歩くという。そうか、としか返事ができなかったが、たとえ歩けなくなっても背負ってやろうと思っている。

 ビルマの雨季は7月、8月がピークだが、それを過ぎた9月になっても、まだ雨は変わることなく降り続けている。
 俺たちが雨宿りしはじめたのを合図にしたように、途端に雨が強くなっていた。まるでしゃを張ったように周りがけむってしまって見えなくなった。
 いつ英印軍が追いついてくるのかわからないが、今のところはまだ戦闘機だけが脅威だ。これも追撃を阻止そしし続けてくれている部隊のおかげだが、フォートホワイト、いやその先のシインやカレミョウ、さらにチンドウィン川を渡るまでは安心ができない。
 確実に日本の勢力圏だといえる場所に辿たどりつかないといけないが、まだまだ遥か先だった。

 夕方になり出発となった。ところが一人の兵士が立ち上がってこない。
「もう駄目だ。ついて行けない。……置いていってくれ」

 そいつの戦友らしき歩兵が、
「馬鹿野郎。しっかりしろ。さあ、行くぞ」
と手を引っ張り上げる。

 けれど、座り込んだ兵士は、
「すまん。許してくれ。放って、先に行ってくれ。――頼む」
「元気を出せ。すぐに英印軍が来るぞ。なあ」
 懸命に励ます歩兵に、
「どうにも、もう体が動かないんだ」
「もうあとひと踏ん張りだ。さあ、立て。立つんだっ」

 声を荒げた歩兵の肩が震えている。見上げる兵士の目にも涙が光っていた。
 周りのみんなも「一緒に行こう」と声をかけるも、そいつは黙って首を横に振っている。

 汗にまみれ、泥にまみれ、黒くあごから無精ひげを生やし、やせ細って落ちくぼんだ目。若い兵士たちのやり取りを見ていると、俺の目にも涙がにじんできた。

「――元気になったら、後から行くよ」

 しばらく見つめ合った2人。歩兵は、
「じゃあ、仕方ない。……必ず後から来るんだぞ。いいな」
「ああ。お前こそ、気をつけて行けよ」

 歩兵は俺たちの方を振り向いて、無言で先に歩いて行く。俺たちはあわてて「後からちゃんと来いよ」と声をかけて、先に行った歩兵の後について行った。

 誰もが今生の別れだとわかっていた。

 しばらくして後ろから手榴弾しゅりゅうだんの音が聞こえた時、先頭の歩兵は一度だけ「くそっ」と言葉を漏らした。


 そうして密林の中を進んでいると、突然の爆音が響いた。
 と同時に、木々の枝をはじき飛ばしながら銃撃が一直線になって飛んでくる。
「逃げろ!」

 三々五々に散って密林の中に逃げ込む。
 ――スピッドファイアだ。

 ガガガガッと機関銃が執拗しつように鳴り続け、2度も3度と上空を旋回しては、銃撃が地面を走る。
 幸いに一機だけのようだ。……あきらめて行ってくれないだろうか。

 背中を大木に預けてその枝の下に隠れながら、ただ居なくなるのを待つ。やがてすうっと機首をめぐらして最後に一度旋回をしてから、どこかへ飛んでいった。

 爆音が遠く去り、それからしばらく経ってから、散っていった兵士たちが集まってきた。泥だらけで誰の顔にも疲労が濃い。
 しかしそれでも歩き続けないと、待っているのは死だ。

「行こう」
 俺はみんなに声をかけて、今度は先頭になって前を進む。
「ちょっと待ってくれ。――1人足りない」
 振り返って数えてみると確かにいない。

 再びバラバラになって、小さな声で呼びかけた。「お~い。行くぞ」「片山どこだ。行くぞ」
 名前を呼んでいるのは同じ部隊だった戦友だろう。

 20分ほど探したが見つからない。
 再び集まった俺たちだったが、誰もがあきらめていた。「……片山」と肩を落としているのは、名前を呼んでいた奴か。
「すまん。このままだと敵が来る。行こう」
 そいつがそう言う。もしかしたらその片山は、もうついて行けなくて隠れて出てこないのかもしれない。
「しかし……」
と言い渋る俺だったが、少し離れた灌木かんぼくの方から爆発音が聞こえた。――自決したんだ。

 一斉にその灌木の方を見る俺たち、やがて彼の戦友と思われるその兵士が重ねて「行こう」と告げた。

 1人減り、そして2人目が減った。
 それでも俺たちはアラカンの山中を歩き続けた。やがて夜になり、少しでも平坦へいたんな道を行こうと話し合い、インパール道に出ることにした。

 泥濘ぬかるみでぼこぼこになっている道。やはり道ばたで倒れている兵士がいた。うじが湧いていて、体内のガスのせいか体がふくらんでいる。
 その死体をちらりと横目で見るだけで、俺たちは進んだ。もはや死体を見ても、何も感じなくなってきている。感覚がにぶってきていた。

 もう元気の残っているのは俺だけ。だから道を確認しながら先頭を歩くのは俺の役目になっていた。
 雨はうんざりするほど降っている。ヌチャヌチャと、さながら幽鬼のようにみんなが俺の後をついてきている。
 道の反対側は、かつて牛たちが落ちていった奈落の崖が口を開けている。しかし、今はそこが苦痛から逃れる非常口のようにも見えた。

 連日、昼も夜もなく歩いているせいか、みんな朦朧もうろうとしている。幾度いくど目かの休憩で、朝が近くなったので再び密林に入ろうとした時だった。

 にわかに地面が揺れたと思ったら、すぐ隣の山肌が滑った。土砂が降り注ぎ、足を取られた俺は、巻き込まれて衝撃とともに落ちていった。ものすごい圧力が、俺の体をひねりつぶそうとする。
「あ」と口を開けた増田の姿が遠くなっていく。ドウッと頭に衝撃しょうげきが走って、――俺は意識を失った。