45.昭和19年9月 夏樹、雨と泥にまみれて
「ううっ。くそ。また下痢が……」
「おい。増田、大丈夫か」
「ああ、わかってる。炭だろ、炭を食えば」
撤退に次ぐ撤退で、俺たちは今ティデムを通り過ぎたあたりにいた。
しかし、ここからはアラカンの山中を、それもケネディーピークの標高3000メートル級の山々を横断していかなければならない。
それも、街道沿いは敵偵察機が飛んでいるため、日夜問わずに密林の中を移動するほかなかった。
体力が無くなった者は、40メートル歩いてはへたり込んで休む。また40メートル歩いては休むといった具合に、次第に遅れがちになり、部隊から脱落し、ここに来て増田も遅れてしまっている。
同じようについて行けなくなった奴らと一緒に、今は10名ほどの集団になっていた。
竹を杖にして、ボロボロになりながら豪雨のジャングルを歩く。足元では水が川のように流れ、その下では底の無い泥が俺たちの足を飲みこもうとしている。足を上げるのにも苦労をするほどだった。
大きな木の下で、ちょうどよく水を避けられそうな場所を見つけた。それを幸いと、俺たちの一団は、ここで夜まで休憩をすることにした。
さっそく増田は近くの茂みの中へと入っていく。あいつも体力が無くなったようで、塩分不足でボウッとしているし、ヒューヒューと笛のような呼吸をするようになっていた。
肩を貸そうと言うんだが、歩けるうちは自分で歩くという。そうか、としか返事ができなかったが、たとえ歩けなくなっても背負ってやろうと思っている。
ビルマの雨季は7月、8月がピークだが、それを過ぎた9月になっても、まだ雨は変わることなく降り続けている。
俺たちが雨宿りしはじめたのを合図にしたように、途端に雨が強くなっていた。まるで紗を張ったように周りが烟ってしまって見えなくなった。
いつ英印軍が追いついてくるのかわからないが、今のところはまだ戦闘機だけが脅威だ。これも追撃を阻止し続けてくれている部隊のお陰だが、フォートホワイト、いやその先のシインやカレミョウ、さらにチンドウィン川を渡るまでは安心ができない。
確実に日本の勢力圏だといえる場所に辿りつかないといけないが、まだまだ遥か先だった。
夕方になり出発となった。ところが一人の兵士が立ち上がってこない。
「もう駄目だ。ついて行けない。……置いていってくれ」
そいつの戦友らしき歩兵が、
「馬鹿野郎。しっかりしろ。さあ、行くぞ」
と手を引っ張り上げる。
けれど、座り込んだ兵士は、
「すまん。許してくれ。放って、先に行ってくれ。――頼む」
「元気を出せ。すぐに英印軍が来るぞ。なあ」
懸命に励ます歩兵に、
「どうにも、もう体が動かないんだ」
「もうあと一踏ん張りだ。さあ、立て。立つんだっ」
声を荒げた歩兵の肩が震えている。見上げる兵士の目にも涙が光っていた。
周りのみんなも「一緒に行こう」と声をかけるも、そいつは黙って首を横に振っている。
汗にまみれ、泥にまみれ、黒く顎から無精ひげを生やし、やせ細って落ちくぼんだ目。若い兵士たちのやり取りを見ていると、俺の目にも涙がにじんできた。
「――元気になったら、後から行くよ」
しばらく見つめ合った2人。歩兵は、
「じゃあ、仕方ない。……必ず後から来るんだぞ。いいな」
「ああ。お前こそ、気をつけて行けよ」
歩兵は俺たちの方を振り向いて、無言で先に歩いて行く。俺たちはあわてて「後からちゃんと来いよ」と声をかけて、先に行った歩兵の後について行った。
誰もが今生の別れだとわかっていた。
しばらくして後ろから手榴弾の音が聞こえた時、先頭の歩兵は一度だけ「くそっ」と言葉を漏らした。
◇
そうして密林の中を進んでいると、突然の爆音が響いた。
と同時に、木々の枝をはじき飛ばしながら銃撃が一直線になって飛んでくる。
「逃げろ!」
三々五々に散って密林の中に逃げ込む。
――スピッドファイアだ。
ガガガガッと機関銃が執拗に鳴り続け、2度も3度と上空を旋回しては、銃撃が地面を走る。
幸いに一機だけのようだ。……あきらめて行ってくれないだろうか。
背中を大木に預けてその枝の下に隠れながら、ただ居なくなるのを待つ。やがてすうっと機首をめぐらして最後に一度旋回をしてから、どこかへ飛んでいった。
爆音が遠く去り、それからしばらく経ってから、散っていった兵士たちが集まってきた。泥だらけで誰の顔にも疲労が濃い。
しかしそれでも歩き続けないと、待っているのは死だ。
「行こう」
俺はみんなに声をかけて、今度は先頭になって前を進む。
「ちょっと待ってくれ。――1人足りない」
振り返って数えてみると確かにいない。
再びバラバラになって、小さな声で呼びかけた。「お~い。行くぞ」「片山どこだ。行くぞ」
名前を呼んでいるのは同じ部隊だった戦友だろう。
20分ほど探したが見つからない。
再び集まった俺たちだったが、誰もがあきらめていた。「……片山」と肩を落としているのは、名前を呼んでいた奴か。
「すまん。このままだと敵が来る。行こう」
そいつがそう言う。もしかしたらその片山は、もうついて行けなくて隠れて出てこないのかもしれない。
「しかし……」
と言い渋る俺だったが、少し離れた灌木の方から爆発音が聞こえた。――自決したんだ。
一斉にその灌木の方を見る俺たち、やがて彼の戦友と思われるその兵士が重ねて「行こう」と告げた。
1人減り、そして2人目が減った。
それでも俺たちはアラカンの山中を歩き続けた。やがて夜になり、少しでも平坦な道を行こうと話し合い、インパール道に出ることにした。
泥濘でぼこぼこになっている道。やはり道ばたで倒れている兵士がいた。蛆が湧いていて、体内のガスのせいか体が膨らんでいる。
その死体をちらりと横目で見るだけで、俺たちは進んだ。もはや死体を見ても、何も感じなくなってきている。感覚が鈍ってきていた。
もう元気の残っているのは俺だけ。だから道を確認しながら先頭を歩くのは俺の役目になっていた。
雨はうんざりするほど降っている。ヌチャヌチャと、さながら幽鬼のようにみんなが俺の後をついてきている。
道の反対側は、かつて牛たちが落ちていった奈落の崖が口を開けている。しかし、今はそこが苦痛から逃れる非常口のようにも見えた。
連日、昼も夜もなく歩いているせいか、みんな朦朧としている。幾度目かの休憩で、朝が近くなったので再び密林に入ろうとした時だった。
にわかに地面が揺れたと思ったら、すぐ隣の山肌が滑った。土砂が降り注ぎ、足を取られた俺は、巻き込まれて衝撃とともに落ちていった。ものすごい圧力が、俺の体をひねり潰そうとする。
「あ」と口を開けた増田の姿が遠くなっていく。ドウッと頭に衝撃が走って、――俺は意識を失った。