47.昭和19年9月 夏樹、カレミョウ

2019年4月25日

 2人の精霊ナッツの教えてくれた方角をひたすら進む。1日、2日と日が経ち、頭上を戦闘機や爆撃機がさかんに飛んでいく日もあった。
 もはやどれだけの日にちが過ぎたのか、よくわからない。
 次第に秀雄くんのお腹も、下す回数が増えていて、少しずつ体力を失っていっているのが心配だ。

 それでも途中でマンゴーの木を幾つか見つけたこともあり、どうにかこうにか歩き続けることができた。

 やがて道しるべにしていた小さな川が、ここから前方でより大きな川に合流しているのがわかった。
 敵影が無いかどうかを確認してその川辺に出てみると、どうにも見覚えがある。方角は何となくだが南に向かって流れているようだ。

 その時、対岸を少し下ったところに集落の建物が見えた。
「あれは……」
 すると後ろで木により掛かっていた秀雄くんが、ぽつりとつぶやいた。
「ヤザギョウじゃないですか?」

 その地名を聞いて思い出した。そうだ。ここはヤザギョウだ。野戦病院も倉庫もあったはず。すると俺たちは今、カボウ谷地にいるのか。
 たしか秀雄くんたちが進軍したのは、ここヤザギョウが発起ほっき地点だったな。それで覚えていたのだろう。

 ここがヤザギョウだとすると、南に行けばカレミョウやインタンギーだ。幸運にも俺たちは、ケネディピークやフォートホワイトの高山をショートカットしてこれたんだ。
 ひそかに案内してくれた2人の精霊ナッツに心の中でお礼を言う。


 さて場所が分かれば元気も出てくる。とすると、目の前の川はミッタ川だろう。ここをずっと下流に行けば、エナンジョンの北方でイラワジ河と合流するが、空からは丸見えなのでその手段はつかえない。

 ともあれ、俺たちは気を引き締めて、カレミョウに向かって川沿いを南下した。


「おお……。追いついた」
 無事にカレミョウで日本軍に追及できたことに安堵して、座り込みそうになってしまう。
 もちろん自分の部隊かどうかはわからない。それでも、ここまで無事に来られたことがうれしい。

 しかし、秀雄くんはやはりアメーバ赤痢に感染していたようで、すでに重篤じゅうとくの症状を呈している。
 薬なんかないから、増田の時のように炭を作っては食べさせている状態だった。

 近くの座り込んでいる奴に聞いてみると、まだ作間連隊がティデムで英印軍を抑えているらしい。
 とにかく師団の撤退を急がせているらしいが、敵の飛行機が街道も川面も監視しているため、夜間しか移動できず。しかもチンドウィン川を渡るのに時間がかかっているという。

 ここに来るまでで体力を使い果たしてしまった者も多く、野戦病院もあるせいか、多くの傷病者の姿が見える。しかも隅の方では、力尽きた者の遺体をもまるで眠っているように横たわっていた。
 それを気にする者もなく、ここでは生者と死者が一緒になっている。

 俺は秀雄くんの肩を支えながら、野戦病院に向かって歩きはじめた。

 泥まみれの兵士。あかか、死臭ししゅうか、なんとも言えない腐臭ふしゅうが辺りに漂っている。
 血のにじんだ包帯。手の傷にうじが湧いていても、もうそれを振り落とすこともできないでいる兵士。目を開き、生きているのか死んでいるのかわからない奴。

 ……はたしてここは、本当に現世なのだろうか。同じ地球なのだろうか。
 そんな馬鹿げた考えが頭に浮かんでくるほど、ここにいる人々は凄惨せいさんな姿をしていた。

 しかし、目の前の人々――。
 やせ衰えて骨と皮だけになり、傷か病気かわからないが体の一部がふくらんでいたり、白くぶよぶよの素足を投げ出し、服はボロボロでシラミがっていて、うみと血便で汚れたふんどしのままに横たわっている者たちが、ゆっくりとうごめいている。
 この人々を見ると、これが現実の光景とは思えなかった。

 不意に離れたところの一角いっかくでケンカが起こり、「貴様か。俺の――をったのは」と声が聞こえたが、周りの奴も一瞥いちべつするだけで何も言わなかった。

 がしっと突然、服を捕まれた。見下ろすと、目をぎょろっとさせた兵士が俺を見上げている。

「なあ、お前、なんか食うもん持ってないか? なければ手榴弾しゅりゅうだんでもいい」

 目の奥に青白い火が見えるようだった。
 ――なんでこんな所にいるんだ。なんで俺たちはこんなに苦しまなければいけないんだ。彼の瞳にその怒りが、恨みが宿っているのだろうか。

 異様な雰囲気をまとっているその男に、俺は黙って首を横に振った。それでもそいつは、秀雄くんの方を見たが、秀雄くんも首を横に振った。
 やがて諦めたのか、その男は舌打ちをして手を離してくれた。

 突然めまいが俺をおそった。
 ……ここは一体なんなんだ。なんなんだよっ。
 ただその言葉だけがグルグルと頭の中で回っていた。

 目を閉じてめまいが治まるのを待つ。ようやくマシになったので目を開いたところ、ふと足元に1枚の新聞らしきものが落ちているのに気がついた。

 ――こんな場所で新聞?

 だが本物ならば情報に飢えている俺にとって、こんなにありがたいものはない。
 拾い上げて読んでみると、タイトルに『陣中新聞』と書いてある。日付は6月19日。読んでみて驚いた。
 連合国軍によるフランス・ノルマンディへの上陸作戦。さらにサイパン陥落と本土空襲。北ビルマの情勢まで詳細に記事になっていた。

 なんだか、自分の足元にぽっかりと穴が開いている気持ちがする。
 いや、これはあらかじめわかっていたことじゃないか。この戦争に日本が負けることは。

 しかしそれでも、追い詰められていくドイツと日本の記事を見ると、俺たちは一体なんのために戦ったのか、わけが分からなくなってきた。
 何のために、あんなに大勢が死んだのか。何のために今も、この河原に集まっているのか。何のために。何のために……。

 俺の肩にもたれかかっている秀雄くんがいなかったら、俺はその場にへたり込んでいたかもしれない。

 その時、ぼんやりしている俺の視線の先で、うずくまっている一団の中に埋もれるように、横たわる増田の姿があった。

「増田だ。……秀雄くん。ちょっと我慢できるか?」
と断って、急いで増田の所に向かった。

 増田のそばに2人の兵士が屈んで、何かを見ている。……あいつら何をしているんだろう? 話しかけているようでもないが。
 俺が来たことに気がつくと、その2人の兵士は立ち上がってこっちにやって来た。

「なあ。ここだけの話なんだが、牛の肉がある。100円でどうだ?」「いちじくもあるぞ。こっちは30円でいい」

 は? 牛肉? いちじく? ……そんなもの今はどうでもいい。

「すまん。今はいい」
 そんなことより早くそこを通してくれっ。
「そうか――、じゃあな」と言うそいつらの横を通り抜けて、増田のところへ駆けつけた。

「おい増田!」
と声をかけるも、横になった増田は弱々しく俺を見上げた。
 何かをしゃべろうと口を開けたが、言葉が出てこない。喉がヒュウッと音を鳴らす。そして……、なんてことだ。金蝿きんばえがたかっている。

 あわてて近くにしゃがみ込んで肩に手を置いた。
「しっかりしろ。俺だ。夏樹だ」
 力なく増田はうなずいた。

 ……死期が近づいている!

 否応なく、その事がわかってしまう。増田の命が消えようとしているのがわかる。こいつから死の匂いがしていた。

 愕然がくぜんとしながらも必死で声をかけると、増田は息を荒げながら、震える手でポケットの中から何かをとりだした。
 俺に持って行ってくれというように掲げられたのは、しわくちゃになった遺書だった。
「お、おい。馬鹿野郎。なんだよこれ。しっかりしろよ」

 もうそれしか言えない。光の消えそうな目で、増田が俺を見つめている。
 俺が懸命になっているのがおかしいとでもいうように、そっと微笑んだ。
 口が開いた。あわてて耳を近づけると、

「あ、りがと……。後は……」
とかすれた声で言い、最後に小さく誰かの名前を呼ぶ。
 ふっと力が抜けた増田は、そのまま横たわった。まるで眠っているように。――動かない。

「おい。増田。……増田。おい。返事をしろ! 増田。馬鹿野郎。しっかりしろ!」
 いつしか俺は泣いていた。なんども増田の名前を呼ぶ、肩を揺するが、それから増田が目を開けることは二度と無かった。

 くそ。ちくしょう。お前まで死んじまいやがって。くそっ。くそっ。くそっ。


――――
――

 どれだけの時間をそうしていたのだろうか。
 急にポンと肩を叩かれて振り向くと、そこには心配そうな表情の秀雄くんがいた。「夏樹さん」
「ああ。わかっている……。すまん」

 痛ましそうな視線をしている彼に謝り、俺は地面に落ちた遺書を拾った。「馬鹿野郎。こんなものをたくしやがって」

 ナイフを取り出し、奴の親指を切り取る。軍隊手帳を抜き取り、一緒にあり合わせの布でくるんだ。

 ふと見ると、すでに靴を履いておらず裸足になっていた。……いやまてよ。脱がされた跡があるぞ。
「まさか」
 誰かに取られたのか?

 怒りでギリッと歯をかみしめる。が、今さらどうにもできない。

 増田の顔を忘れないように、じっと見つめる。
 辛かったろう。苦しかったろう。故郷くにに帰りたかったろう。家族のところへ帰りたかったろうに。

 こいつの望みも、命とともに虚しく消えてしまったのだ。


 秀雄くんが急に倒れたのは、その後すぐだった。
 あわてて背中に背負って病院に急ぎ、軍医に診てもらう。そこで告げられた病名は、俺に衝撃を与えた。

「マラリアだな。……残念だが、ここにはもうキニーネも無いぞ。カレワに行ってみろ。あそこならまだ残っている可能性がある」

 マラリア! よりによって……。もしかして南端とはいえ、カボウ谷地を通過したのがいけなかったのだろうか。俺がそばについていながら……。

 辛そうな表情の秀雄くんを見て、俺は後悔の念に襲われた。だが、秀雄くんはまだ生きている。

 カレワか。自動車なら1日だが、歩きなら3日ほどかかる……。だが、俺が連れて行く。背負って、山を越えて、もしカレワになかったら、いかだをつくってでも直ちにチンドウィン川を渡ろう。
 必ず秀雄くんを助けるんだ。絶対に香織ちゃんの元に連れて帰るんだ。

 俺は先生にお礼を言うや、すぐに秀雄くんを負ぶって野戦病院を出た。