69.エピローグ 雑草の歌

2019年4月25日

 太陽の光を浴びて、川面かわもがキラキラと輝いている。
 香織ちゃんの家を辞した俺と春香は、まっすぐ清玄寺に戻らずに川の見える土手にやって来た。
 並んで座る俺たち。先ほどまでの香織ちゃんの様子が脳裏のうりに浮かび、2人とも無言のままだった。

 香織ちゃんのところには言ったが、まだ宇都宮の増田の家、黒磯の石田の家へ行かねばならない。
 そしていつか、ビルマのアラカンに眠るみんなの所ヘも。戦争は終わったと伝えに行かねばならない。


 風がそっと吹き抜け、川原の草たちが揺れている。

「春香……」
「なあに」
「話を聞いてくれるか?」
「うん」
「俺が東京に帰ってきたときの事だ」
「――うん」

 ようやく復員ふくいん船が広島の宇品うじなに到着し、DDTをかけられるなど復員手続きを終えた俺は、ともかくも東を目指して列車に乗った。

 出征しゅっせい時は外から見えないように窓を閉め切っていたこともあり、流れる景色を飽くことなく眺めつづけた。
 戦争が終わって2年が経ち、着々と復興しつつある街並み。東京駅に到着すると、ますますその感が強まる。

 東北本線に乗るために上野まで行ったはいいものの、もう夕暮れに差しかかり、どこかで泊めてもらおうとホームを降りた。

「地下の改札を出ると、そこに子供たちがいたよ。親を亡くして孤児になってしまったんだろう。どの子もあかや汚れで黒くなっていた。
 ……俺たちはこの戦争に負けるって知っていた。
 でもね。いざ、あの子たちを見るとやるせなくてな。俺たちが負けたせいで、この子たちが孤児になったんだって思ってしまって」

 その時、春香がそっと俺の腕に自分の手を添えてくれた。

「その時だ。俺の横を、50歳くらいのご婦人が中学生くらいの娘さんを連れて通り過ぎていった。そのまま、近くの子供に声をかけたんだ。――私の家に来ないかって」

 驚いたことに、ほとんどの子供たちが断っていた。けれど何人か目で、ようやく1人の子供がうなずいた。

「俺はほら、軍服姿だったから声すらかけられなくて……」

 結局、何もできなかった。お前のせいだといわれやしないか。それが怖かった。
 だから、そのご婦人からも孤児たちからも、目の前の光景から逃げるように、俺は駅舎を出た。
 そのまま早足で、行き先もなく歩き続けた。

「気がつくともうすっかり暗くなっていて、ところが自分の居る場所がわからなくなってね。……その時に、美津子っていう女性に声をかけられたんだ」

 ロングスカートの女性で、その人は娼婦しょうふだった。それも町角でお客を見つける街娼の。

 俺の腕に添えられた春香の腕に、ぎゅっと力が込められる。もちろん、そういう夜のお勤めはいらないって断ったさ。

「そしたら、あ~あ、今日はお客無しだって言っていたよ。男の子が待ってるから、もう家に帰るって言ったから、思わずお願いしてみた。……食事もいらないから、ただ泊めてくれないかって」

 自分でも、なんでそんなお願いをしたのか、今さらながらよくわからない。
 でもその美津子って女性は、一瞬目を丸くしてから小さく笑って、いいよと言ってくれた。

 近くにあるらしき彼女の家にいくと、家の前に小学校4年生くらいの男の子がいた。たけるくんという。

 美津子さんを見て「姉さん、お帰りなさい」と言ったものの、隣に俺がいるのを見て男の子は下を向いてしまった。
 それを見た美津子さんが笑って、「この人は客じゃないの。ただ今晩だけ泊めて欲しいってさ」という。

 どういうことかって聞いてみると、これからお勤めなら、外で待ってなきゃいけないと思ったんだそうだ。

 俺はそういう客じゃないからと、3人でその家に入った。美津子さんが夕飯の準備をしようとしたから、背負い袋から取り出した風をよそおって魚の缶詰を出して、おかずにしてもらった。
 健くんは余所余所よそよそしかったけれど、美味しそうに食べていた。

「美津子さんは20台半ば、それなのに健くんは小学校4年生くらい。年の離れた姉弟だなって思っていたら、そうじゃなかった。美津子さんが健くんは浮浪児だったと教えてくれたよ」

 戦争が終わって、浮浪児たちが上野駅の構内にまりだした。
 そばに大きな闇市やみいちもあって、子供たちはそこで食べ物を恵んでもらったり、闇市を仕切っていたテキヤやヤクザ、愚連隊ぐれんたいと呼ばれる若者たちのお使いをするなどして、1日1日を生きていたらしい。

 ところが、昭和21年の春頃から警察が浮浪児たちの狩り込みをはじめ、健くんも捕まって施設に送られたそうだ。
 行った先の施設では、食糧も充分に無く職員からの暴行もあったらしく、結局逃げ出して上野駅に戻ったという。

「美津子さんは美津子さんで、もとは秋田の良いところのお嬢さんだったそうだ。
 ところが、結婚して東京に出てきたはいいものの、戦争で旦那さんは亡くし、しかも進駐軍しんちゅうぐんの兵士4人に襲われて陵辱りょうじょくされ、自暴自棄になって売春婦になったらしい」

 わずかなお金でお勤めをする街娼をパンパンと言ったらしいが、そのパンパンも昨年から警察の取り締まりが厳しくなったという。

「1人で生きていくのが寂しいということもあって、それまでもたまに見かけていた健くんに声をかけ、一緒に住むことにしたそうだ」

 もちろんお客がとれなくて食事抜きの時もあれば、健くんがわずかな食糧を持ち帰って、分け合って食べたこともあるという。

「それを聞いたとき、俺は申しわけなくなって、いてもたってもいられなくなって、お金を出したんだ。泊めてもらう代金だって。そうしたら、すごい剣幕で怒鳴どなられたよ。
 お金を見た途端とたん、目をつり上げて。――ふざけないで! そんなお恵みなんていらないよ! って」

 あの時の剣幕はすごかった。
 そんなつもりで私たちの事を話したんじゃない。そのお金を出すってことは私を抱いてくれるのか。……私たちはここで、ちゃんと暮らしてるんだ。決してみじめじゃないんだ!

「俺は何も言えなかったよ。ただすまなかったとだけ言って。どうにか美津子さんは機嫌きげんを直してくれて、このお魚の缶詰だけで充分だって言ってね」

 それからも戦後のことなど、少し話を聞いて、何もなくそのまま一泊した。
 起きたらすでに美津子さんの姿はなく、俺も列車に乗らなきゃいけないから、健くんにお礼を言付けることにした。

「缶詰を3つ、むりやり渡して、せめてこれだけは受け取って欲しいと言って、それと……。春香。お前には悪いけど、もしどうしても手助けが必要になったら、栃木県那須塩原にある松守村清玄寺に連絡をくれとメモを渡した」

 無駄になるかもしれないけれど、見てしまったからには、聞いてしまったからには、拒否されるとはわかっていても、そう申し出ずにはいられなかった。

 隣でじっと話を聞いてくれた春香の方を向く。彼女は微笑んでいた。
「大丈夫。わかったわ」


 その時、ふたたび強い風がさあっと吹き抜けていった。川原に生えている草たちが、一斉になびいている。
 少し離れたところにあるシロツメクサの群生地でも、白く丸いぼんぼりのような花がいくつも揺れていた。

「ねえ。夏樹。私は思うんだ」

 真っ直ぐに川面を見つめたままで、春香が話しはじめた。

「私たちが知っていたとおりに、たしかに日本は負けたよ。どん底に落ちた。
 ……でも、必ず蘇ることも、私たちは知っているじゃない。だからさ――」

 春香が振り向いて俺の顔をじっと見つめている。
「今度は、その復興を見つめようよ。うちの子供たちと一緒に」

 春香の言うとおりだ。
 日本は必ず復活する。血のにじむような努力を続け、そして経済成長を遂げていく。

 雑草が、踏まれても踏まれても、それでもなお花を咲かせるように。
 どんなに踏みつけられようと、はずかしめられようと、必ず日本は再び立ち上がるんだ。

「そうだな。そうしようか。…………春香」
「なあに」
「愛してる」
「ふふふ。私もよ。愛してるわ、夏樹」

 微笑む彼女がまぶしかった。

 きっと俺たちはこれからも色々な人間の姿を見ることだろう。
 この戦争と同じく、いや、より辛く哀しい出来事もあるかもしれない。

 それでも俺と春香は2人で寄り添いながら、どこまでも歩き続ける。――俺たちの旅はまだ終わらないのだ。

 腕に添えられた彼女の手に自分の手を重ねる。

 隣には春香が居てくれる。これからも永劫の時を歩んでいく伴侶。
 彼女が居てくれること。このぬくもりが、俺に安らぎと喜びを与えてくれるのだ。何度でも言いたい。愛してると。


 まるで長い長い物語を話し終えた気分になり、深く息を吐く。

 見上げた空をツバメがよぎっていった。その向こうで、白い雲がゆっくりと動いている。
 再び川原を吹き抜けた風が、土や草の匂いを運んできた。

 命を育む自然の匂い。
 そこに変わることなく存在し続ける大地の匂いに、俺はどこからともなく力が湧いてくる気がしたのだった――。