52.昭和19年10月 春香、秋の夜
高い秋の空に、細い雲がまるで刷毛でひと塗りしたようにのびていた。
畑には赤とんぼが飛んでいて、山も色づき、すっかり秋の景色となっている。
そんな爽やかな秋の日、村の婦人たちが分校の校庭に集められていた。
「なあなあ、忠三郎や。儂もやらなきゃ駄目かい?」
西郷最高齢のフクお婆ちゃんが、在郷軍人会会長の福田さんに問いかけると、福田さんが困ったような表情で、
「ばあちゃんよ。俺は今、会長やってるの。もうちょっとさ……」
「お前さんなんざ、おしめは儂が替えてやったんじゃ。この寝しょん弁たれが」
「いつの話だよ」
うんざりしたような会長さんの顔を見ると、ぷっと吹き出しそうになる。さすがの在郷軍人とはいえ、お婆ちゃんには頭が上がらないらしい。
今日は竹槍訓練の日なんだけど、お婆ちゃんはいるわ、赤ちゃんをおんぶした若奥さんはいるわで、いつもの事ながらまったく締まらない。でもそれが松守村らしくていいと思う。
赤ちゃんの鳴き声もするけれど、福田さんがせき払いをして、気にしないようにして、
「整列!」
と号令をかける。
もう今日で3回目の訓練ともあって、みんな要領は分かっているけれど、駐在さんがいるからこそやっているのであって、もし来なかったらそのうち自然消滅していきそうだ。
「えいっ、やぁーっ」
「えいっ、やぁ―っ」
と声を出しながら、竹槍を前に向かって突く。突く。突く。
銃に対して竹槍なんてって馬鹿にする人もいるけれど、実は竹槍って結構鋭いんだよね。これで突けば容易に命を奪うことができるくらいには。
もちろん、そういう事態が起きないで欲しいとは願っている。
よく晴れた秋空に、私たちのかけ声と、赤ちゃんの泣き声を響かせながら、訓練は続いていった。
◇
さて訓練から戻り、子供たちの昼食を終えると、和くんを連れた香織ちゃんがやって来た。
今日は午後から女の子の散髪をするので、そのお手伝いをお願いしていたんだ。
かがんで、
「和くん、こんにちは」
と声をかけると、まもなく5歳になる和くんが、坊主頭をぺこりと下げて「こんにちは」と言ってくれた。
ん~、かわいい!
「良くできました」
と言って頭をなでると、幼子特有の柔らかい髪が手のひらをくすぐるようで気持ちが良い。
「香織ちゃんも今日はよろしくね」
彼女も今年で24歳。すっかりと凜々しいママさんになっている。
学童が来てからも既に何度かお寺に来ているので、東京から来た直子さんにも挨拶を済ませてあった。安恵さんは当然顔見知りだし、清玄寺のお手伝いをしていたことも知っているので、自然と受け入れられている。
私が散髪の準備をしている間にも、3人でおしゃべりをしているから、仲は良好のようだ。
「え~。小学校は東京だったんですか!」
「そうそう。高等女学校も途中まで行っていたのよ」
「へぇ」という直子さんに、安恵さんが、
「私は香織さんがうらやましいです。……いいなぁ。東京、行ってみたいなぁ」
と言っている。
まあ、香織ちゃんの場合は身売りを私たちが引き受けて、住み込みの女中として来てもらっていたわけですがね。
ふふふと微笑む香織ちゃんを見ると、自分の娘のように見守りたくなってしまう。
「私の場合は、ほら……。運が良かったから。身売りになって、でもその先が旦那様と奥様のところだったから」
すると香織ちゃんと安恵さんの2人が私の方をチラリと見る。
直子さんが、身売りと聞いて顔をこわばらせ、
「旦那様と奥様って?」
「春香様とその旦那の夏樹様。私はあの方たちに引き取られて、小学校も女学校も行かせてもらってたの」
「……へぇ」
ええっと、そろそろ辞めてもらっていいかな。なんだか気まずくなってきちゃうんですが。
「――春香さんの旦那様ってどんな人なんです?」
「すごい人。三井に勤めていたけど、お優しくって、頼りがいがあって、勉強も教えてもらったんだよね。……ただね」
「ただ?」
「すごく奥様と仲が良いから、私だけ場違いというか、居たたまれないというか、胸やけがするというか、もうね。ずっと新婚みたいな感じで……」
や、やめてー。
そんな私の、声にならない訴えが届いたのか、女の子たちがわらわらと外に出てきて、とりあえず私にとって気恥ずかしい会話は終わったようだった。
――――
――
「……じゃあ、髪をこれくらいで揃えるね」
正面の鏡越しに、目の前に座っている6年生の大森鈴子ちゃんに尋ねると、「お願いします」と彼女は丁寧に頭をさげた。
小さい子から順番に散髪を行い、彼女で最後になる。終わった子から順番に、清玄寺のお風呂に入ってもらっていた。
ちなみに男子の散髪は昨日だったけど、日にちを別にしているのは、終わった後のお風呂を男女別にするためだ。
もっとも散髪とはいっても髪型は、男子が坊主、女子はおかっぱと決まっている。
それでも5年生や6年生になると前髪の長さとか細かい注文があったりするんだよね。他にも身だしなみが気になるらしく、服やかばんにワンポイントの刺繍を入れたりしていて、とてもいじらしいと思う。
直子さんや安恵さんもそうだけれど、いくら戦時中とはいえ、細かいところでお洒落を楽しんでいるみたいだ。
私? 私はほら。今は見て欲しい人も遠くだから……。あ、でも、だらしなくしているわけじゃないですよ。いつもどおり、平常運転です。
「寮母先生、あと4日すると、うちのお母さんが面会に来るんです。秋冬の衣類と、キャラメルを持って来てくれるって手紙が来ました」
「本当? よかったわねぇ。……そっか。面会日まであと4日か。楽しみだよね」
「……はい」
「来た時に、可愛いっていわれるように頑張んなくっちゃ」
「はい!」
そんな会話を続けながら、鈴子ちゃんの髪にクシを入れ、散髪用のはさみをシャキシャキと入れていく。
でも、面会か……。いいなぁ。
夏樹の手紙は、戦況が厳しくなったのか、単に遅れているだけなのかわからないけれど、ぷっつりと途絶えてしまっている。
死ぬわけがないから無事でいるっていうのはわかっているけれど、ふとした瞬間に胸がざわざわとする時がある。今は子供たちがいるから、あまり考えないで済んでいるけれど、正直にいって心配だ。
「鈴子ちゃんの髪は少し固めの髪質だねぇ。ちょっと重めに見える時があるから、短めの髪型が似合うと思うよ」
「はい」
「というわけで、この辺りもちょっとカットするね」
「はい」
刈り終わったら、香織ちゃんがブラシでざっと髪を払い落とし「じゃあ、お風呂に」と声をかけた。
「春香先生、ありがとうございました」という鈴子ちゃんを見送って、私は直子さんと安恵さんに向き直る。
「ついでにお2人も少し手を入れてあげようか?」
疲れのせいか、少しボサボサになってきてるよね。香織ちゃんは大丈夫だけど。
直子さんがちょっと迷いながら、
「じゃあ、お願いしようかな」
と目の前に座った。
さて、この子の場合はメガネをかけて、普段は後ろで一本にまとめているんだよね。顔は少し丸顔で、文学少女をそのまま大人にしたような雰囲気。
体型は太くもなく細くもなく普通。もっと髪を伸ばせると顔がスリムに見えると思うんだけど……。
まあ環境が環境なので、手入れが簡単で洗いやすいのが優先となってしまうのは可哀想ではある。
「あまり全体の雰囲気は崩さないで、伸びた分だけをカットしますね」
「はい」
「……戦争が終わったら髪を伸ばすといいと思うよ」
「はは。そうですか」
「そうしたら良い人も見つかるかも。プラチナの指輪とかもらっちゃったりして」
指輪とともに結婚の申し込みとか。……この年頃の子に言うのは失礼か。
「春香さんったら! それにプラチナなんて回収命令出てますから、指輪なんて夢のまた夢ですよ」
「あ~、たしかに」
出征前に夏樹が言っていたとおりに、9月1日からプラチナは非常回収となっていた。
そういえば、東京では雑炊食堂が現れ、雑炊を食べるために人々が行列をしているとも聞く。新聞もますます戦時礼讃というか、鬼畜米英、神風日本というような内容を強調していた。
――相手は『けだもの』 憎い敵め、自力で倒せ(6月17日『読売』)
――もとより戦争の極意は相打である(6月21日『毎日』・徳富蘇峰)
7月17日の『読売』にはサイパンでの日本軍の攻撃の様子が書かれていた。
「最高司令官最後の命令 米鬼を粉砕すべし 武器なきは竹槍にて」と見出しがあって、どうやら最後の突撃前に皆で恩賜の酒を戴いて、万歳の後、敵中に突撃を敢行したらしい。
1ヶ月後の8月19日の『朝日』には、集団自決の記事が掲載されていた。
女たちは岩の上に悠然と立ち、敵前で髪をくしけずり、手に手をとって海に身投げをしたという。……小さい子供までが手榴弾を投げ合ってなど、ちょっと読んでいられない記事だった。
正直、今の新聞に読む価値があるのかと思ってしまう。ページ数もどんどん少なくなって、まるで号外のような新聞になってきた。
こんなことを人前でいうと「西洋的」だの「非国民」と言われてしまうだろうけどね。
日本が負け越して、いよいよ本土決戦。戦況が末期的になっていることがわかってきているけれど、それでも日本の勝利をみんなは信じているんだろうな……。
記事を読むと、悲愴な決意を固めておけという予告に読めてしまうのが辛い。
直子さんの髪にクシを宛てていると、シラミの卵を1つ見つけた。
そういえば子供たちの髪にもあった。ちょうど良いから専用のクシでこそげ落としたけれど、服や寝具は大丈夫だろうか。
本格的な冬に入る前に、一斉に退治しておいた方がいいような気がする。今度、みんなと相談することにしよう。
直子さんの後には安恵さんの髪をカットし、その日の臨時ヘアサロンは店終いとなった。
◇
夜、点呼集合が終わり、今日は宿直では無いので離れで休むことにする。
最近はめっきりと秋が深まって、夜は冷えてきている。静かな秋の夜。どこか切なく、もの寂しく、アンニュイになるのは私だけだろうか。
――こういう夜には温かいコーヒーが似合う。
たまにはそういう気分に浸りたくて、厨房でコーヒーを淹れてきた。とはいっても、コーヒー豆は手に入らなくなっているので、たんぽぽの根っこを粉にして炒ったタンポポ珈琲だけど。
部屋の明かりを落とし、行灯の明かりだけにする。離れの縁側の障子を開けると、ガラス戸の向こうには静かな夜の世界が広がっていた。
この離れからは村は見えないけれど、シルエットになった山々を背景に、透き通った空に星々が輝いていた。
縁側の木の床に座り込み、そばのお盆からカップを持ち上げる。本物の珈琲ほど香ばしくはないけれど、この香りをかぐと不思議と気分が安らぐ。そのまま、そっと口を付けた。
夏樹が淹れたように上手にはできないけれど、この苦みがおいしい。
……ああ、今ごろは何をしているのかな。ビルマも今は秋なんだろうか。
外の冷気がガラスから伝わってきて、私の身を心を、そっと締めつける。
切ない。そして、遠く離れている夏樹のことが愛しい。そんな気持ちで体中が一杯になる。
懐から一冊の帳面を取り出した。
帰国してから、しばしば作り続けてきた短歌のノートだ。幾度も添削した跡があるし、そんなに上手なものはできていないけれど、思いつく度にちょこちょこと書き綴っている。
――暁は いまだ暗きに 降る時雨 夫の枕を きつくいだきぬ
「きつく」がいいか、「つよく」がいいか、いまだに迷っているけれど、これは夏樹が入営していた時のもの。
あの頃に作った夏樹枕は、今も私の心の支えになっている。
……う。そういえば出征する夏樹のために、千人針の他にも人形を作ったりとか、お守りを縫い付けたりとかしたっけ。
恥ずかしかったけど、少しでも夏樹の力になっていてくれたら嬉しい。私は戦場までついて行けなかったから。
そう思いつつ、次の歌を見ると、
――嫁ぎゆく君に乞われて紅ひくに さちあれかしと祈る筆先
これは香織ちゃんが結婚した時のもの。あの小さかった女の子が、あっという間に大人の女性になり、そして今では立派なママさんだ。
一緒に暮らしていたのは短い間だったけれど、かけがえのない私たちの家族の1人。……ああ、色んなことがあったなぁ。
――わが夫が戦いいますは彼方かと 南の空を見つめたたずむ
出征した夏樹を思った歌。南の空。あの空の果て、空の続く先に夏樹がいる。そんな物思いに耽っていた時のものだ。
ずっとずっと一緒にいた私たちだけど、こうして離ればなれになって、ますます相手の事が愛しく、そして大切に思う。私だけじゃなくて夏樹も同じ思いだと確信している。
早く帰ってきて欲しい……。
我慢する。辛くても耐えるって出征の時に決意したから、泣き言はいわない。
でも、会いたい。傍にいて欲しい。抱きしめたい。夏樹のぬくもりが恋しいっていう気持ちは募るばかりだ。
こんな秋の夜は特に――。
夜空には三日月が細く輝いていた。その姿が妙に凜々しく、――そしてなんとも言えず清らかで、透きとおるように美しい。
コーヒーを飲みながら、私の夜はこうして静かに過ぎていった。