02承の章 嫁ぎゆく君に乞われて紅ひくに さちあれかしと祈る筆先

 冬も深まりつつある12月。
 妙な胸騒ぎがして夜中にふと目が覚めてしまった。けれど心当たりはない。ため息をついてそのまま寝ようと思ったけれど、なぜか夏樹も目を開けて天井を見つめていた。

 自分だけじゃなかったんだと思いつつ、私が起きていることに気がついていない夏樹に、わざとらしくギュッと抱きついた。

 うん? と言いたげな表情でこっちを見る夏樹と、暗闇の中で目が合う。いつもなら、えへへとごまかし笑いをするところだけど、なぜか今日はそんな気にならなかった。

「もしかして起こしちゃったか?」
「ううん。そうじゃないけど、目が覚めちゃった」

 さっきから胸の奥がざわざわしている。得体の知れない緊張感ともいうべきだろうか。空気が張りつめているような嫌な気配を感じる。

 時計を見ると、午前2時42分だった。

「なんか変な空気だな」
 思わずつぶやく夏樹にうなずき返して、
「目が冴えちゃったね」
と言いながら身体を起こした。

 とたんに冷気が身体を包む。ぬくもりの残る肌に突き刺さるような寒さ。
 12月だから寒いのは当然だけれど、ちょうど夜中の今くらいの時間から、さらに一段と冷え込むんだよね。

「う~、寒い。……すぐに火を入れてくるよ」

 この感じだとどうせ朝方まで寝られそうにない。
 すぐに下に降りて火鉢の炭に火を点ける。密閉空間での炭の使用は危険だから、暖まってきたら窓を少し開けないといけない。

 そこへ夏樹が掛け布団を肩に抱えて、器用にハシゴを下りてきた。
 火鉢を前にして、1枚の掛け布団に2人一緒にくるまった。

 裸電球の明かりに照らされながら、炭の断面が赤く輝いている。滑らかで真っ黒な炭の表面で、チリチリといいそうな灼熱しやくねつの赤い色が、まるで呼吸をしているかのようにゆっくりと明暗を繰り返していた。

「こうしていると野宿してるみたいだね」
「……確かに」
 野宿の時はもちろん炭じゃなくて薪だけれどね。

 数えてみると、日本に戻ってきてからもう15年になろうとしている。その間に野宿は一度もしていなかった。
 今まで旅をしてきた年月に比べれば、15年なんてちりみたいな年数だけど、それでもこうして一緒にくるまっているのが懐かしく思う。

 人類は火を手に入れて急激に進化してきたという。食べ物を焼いたり暖をとるためだけではない。
 ランプを手に、洞窟の闇を火で照らして、居住空間を広げていくのにも火を使用したのだ。
 実際に夏樹に連れられてラスコーの洞窟に行ったときに、石でできた大きなティースプーンのようなランプを見ている。

 こうして暗がりの中を、家族が寄り添い、夫婦が寄り添い、火を見つめる。人類が歩んできた悠久の歴史で、幾たび繰り返されてきた光景だろうか。

 けれど、その火も時には恐ろしい猛威となる。かつてロンドンの夜を真っ赤に染めたあの火事も、江戸の大火も……。
 この炭と同じ灼熱の赤。建物からは炎が吹き出して巨大な火柱が空を焼き、火の粉が舞い上がる。モクモクと黒い煙が立ち上り、焼け焦げたにおい、そして、人の焼ける例えようもなく嫌なにおいが漂っていた。
 叫ぶ声。避難しようと逃げ惑う人々。火炎地獄のまっただ中にいるような悪夢の光景。

 もし空襲で焼夷弾しよういだんが家に落ちたら、同じようにすべてのものが焼けてしまうのだろうか。
 ……しかも原子の火すら、人類はまもなく手に入れることだろう。豊かさと破滅の両面をもつあの強大な炎を。

 急に腕がぞわりと泡立ったように悪寒が走った。自分の身体を抱きしめるようにして、手のひらで腕をこする。
 するとすぐに夏樹が腕を肩越しに回してきて、私の身体をぐいっと抱き込んでくれた。
 夏樹のぬくもりに包まれる。ずっと傍にいてくれるこのぬくもり。温かく、私を守ってくれるそのぬくもりが、安らぎをもたらしてくれる。

「……ありがとう」
 正直にお礼を言うと、私を抱く腕に力が込められた。
 言葉少なにそのまま二人で炭を見続ける。この無言の時間が心地よい。

 時おり意味もなく目配せをすると、向こうもニコッと笑ったり、お返しで目配せを送ってくる。もちろん意味なんてない。他愛もないじゃれあいだけどそれが楽しかった。

 そんなことをしていると、いつの間にか部屋も暖まってきてあの予感じみた嫌な感覚が綺麗さっぱり無くなっていた。
 時計を見るとすでに午前5時。仮眠程度ならできるけれど、それよりも朝ご飯を作ってしまった方が後が楽だろうか。

「――よし!」
 立ち上がって、朝食を作ると宣言してお台所に向かった。

 この時期の日の出は遅く、畑仕事もないために農家の朝は遅めだ。けれど、役場は決まった時間に開けないといけない。
 私が朝ご飯を作っている間に、夏樹も準備を済ませるという。
 今日という一日が、これから始まる。

 目玉焼きに、昨夜の残りの豚汁もどき。おひつに残ったご飯でじゃこ飯のおにぎり。
 他の家庭に比べて豪勢な方だと思うけど、うちは朝はきっちり食べる派です。

 できたご飯を居間に運ぶと、すでに夏樹が座って数日前の新聞を読み直していた。

「おまたせ――」
と言いかけたとき、ラジオから滅多に聞かれないチャイムの音が、ポンポポ、ポンポポ、ポンポポ、ポンポンポ――と聞こえてきた。

 一瞬、2人で顔を見合わせて、同時にそのままの姿勢でラジオを見ながら耳を澄ませる。

「臨時ニュースを申し上げます臨時ニュースを申し上げます。
 大本営 陸海軍部、12月8日午前6時発表。
 帝国陸海軍は、ほん8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。
 帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。
 今朝、大本営陸海軍部からこのように発表されました」

 え?

 思わず夏樹の方を見ると、眉をひそめて真剣な目で私を見つめ返し、黙ってうなずき返した。

 もしかして今日は、――真珠湾攻撃の日?

「始まった」

 緊迫した短い一言。

 どこか遠くから万歳の声が聞こえてきた。村ではかなりの騒ぎになっているようだ。
「早めに役場に行かないと――」

 そっか。それもそうだね。

 慌ただしく準備をする夏樹と相談して今日は畑仕事もお休みすることにして、お寺で恵海さんと美子さんと一緒にいることにした。
 どうにも今日は気もそぞろになっちゃって、何も手に付きそうにない。それなら美子さんと一緒にいた方が落ちついて過ごせそうだから。

 ニット帽にマフラーをして、半纏はんてんを着込んで、夏樹と一緒に蔵を出る。
 鍵を掛けて、霜柱をざくざくと踏みながら庫裡くりの玄関に向かった。
 寒いけれど今日は風もない。それだけに村のざわつきが空にこだまするように、ここまで伝わってきているようだった。

 庫裡の玄関の所で、役場に向かう夏樹をお見送りをして、私は中に入った。
 うどんでも打とうかな。
 チマチマした作業をしているより、そっちの方がいいかも。


◇◇◇◇
 春香の見送りを受けて、俺は寺を出た。
 冬のもの寂しい空。道ばたにある用水路の端の方は氷が張っていた。

 今年は正月に東条英機陸相が『戦陣訓』を発表してから、一気に戦争の気配が深まった年だった。尋常小学校は国民学校に名前を変え、教科書も変わったと聞く。
 10月には東条内閣が発足。それとほぼ同時に、ドイツ人のリヒャルト・ゾルゲらがソビエトのスパイだったことがわかって特高に逮捕されている。
 その影響もあって、今は防諜ぼうちよう、防諜とうるさくなっていた。

 国民服も制定されて、俺は良い生地があるうちにと、春香のもんぺも一緒に作っておいた。空襲くうしゆう時の道具として、頭巾や肩掛けカバンの雑嚢ざつのうなども常備している。

 那須野の埼玉の方で陸軍が土地を買収したと聞いた。何らかの施設ができるんだと思うが、軍事施設ができるということは、このあたりも空襲の危険性が高まるということでもある。だから備えはしっかりしておかないとマズいんだ。

 2ヶ月くらい前に、全国一斉に大規模な防空訓練があった。あれはもしかして、この開戦を想定してのことだったのかもしれない。

 役場に到着するや、宿直だった鈴木先輩が緊張した表情で訊いてきた。
「夏樹君。さっきのラジオを聞いたか」
「はい。いよいよですね」
「ああ。アメリカと戦争だ」

 まもなく職員が全員揃った。村がざわついているので、みんな何があってもいいように早めに出てきたようだ。
 そのまま朝礼となり、村長さんから訓示があった。

 ほどなくして駐在さんもやってきて、村長さん、助役さんとともに村内に異変がないか巡回をするという。俺たち書記は通常業務として待機することになった。

 書き仕事は沢山たまっている。けれど誰もが集中できなくて、手が止まってしまっていた。川津先輩も鈴木先輩も無言のままに、灰皿を前に煙草をくゆらせていた。
 コッチコッチと時間が過ぎていく。
「駄目だな……。仕事になりゃしねえ」
 吐き捨てるように川津先輩がつぶやいた。

「夏樹君は今いくつだったっけ?」
 問いかける鈴木先輩に、
「今年で33ですよ」
 途端に顔を見合わせる先輩2人。そう。2人とももう40を越えている。役場職員の中で、召集の可能性があるのは俺だけなのだ。
「俺がやっている兵事係だが、夏樹君に担当してもらおうかな」
 冗談交じりの口調でそうつぶやく川津先輩に、俺はかぶりを振って断った。
「いいえ。今まで通りに先輩がなさってください。俺は大丈夫ですよ」
「そうかい」

 冷静に考えれば、このタイミングで兵事係になんてなったら、徴兵忌避ちようへいきひと捉えられるだろうに。

「ドイツは快進撃をしているみたいだが、我らが皇軍はまだ蒋介石しようかいせきを駆逐できていないんだよな」
「援蒋ルートを塞がないと駄目だろうよ」
「そのための仏印進駐なんだろ? 次はビルマかねぇ」
「すると、まだ南に戦線を広げるわけだ」
「そりゃあ、大東亜だから、インドやオーストラリア辺りまで行くんだろ」
「それはわかるが、アメリカとまで戦争か。交渉が難航してるとは新聞に書いてあったがなぁ」
「我慢も限界だったんだろう。物資は心配だが、東亜の平和のためだ。正義はこっちにある。日本が立ち上がらなかったら、いつまでも列強諸国に支配されたままになっちまう」
「そうだな」

 二人の会話を聞き流す。どれくらい時間が経っただろうか。
 やがて村長さんたちが戻ってきた。村内ではどこかしらで人が集まり、興奮状態にあったようだが、それほど大きな混乱はなかったようだ。

 ただ出征兵士の家だけは、ひっそりとしていたという。
 そういえば、香織ちゃんの旦那の秀雄君は、弓6823部隊の所属となった。宇都宮の兵営に入営して直に大陸に渡ったようだが、どうやら今は中国中部の中原あたりにいるらしい。手紙が来たと香織ちゃんが言っていた。

 秀雄君が入営する時、俺と春香も黒磯駅まで見送りに行ったが……。入営してから4ヶ月後だったか、1泊2日の外出許可をもらって帰ってきたけれど、こっそり聞いたところによると支那へ渡るということだった。
 その話を聞いているときの香織ちゃんが、健気けなげに我慢しているのがわかって、見ているのが辛かった。

 子供はまだ2歳になったばかりだ。うまく言葉もしゃべれないけれど、どっちに似たのか元気よく走り回っていた。
 秀雄君に抱っこしてもらい、香織ちゃんと家族3人の写真を撮ってあげた。もの寂しげな笑顔で子供を見ていた秀雄君。やがて時間が来て、和雄君を香織ちゃんに預け、一礼して改札口をくぐっていった。
 その背中に向かって、和雄君は香織ちゃんに抱っこされながら、父親が出征する意味も分からずに手を振っていたのが印象的だった。
 あの時、出発する列車が見えなくなっても、香織ちゃんは線路の先をずっと見つめていた。

 2人には俺と春香の加護を与えてある。和雄君には弾が当たらぬように、爆弾に巻き込まれないようにと。しかし、この凄まじい戦争の中でどこまで彼の身を守る力になるのかは自信がなかった。

 ただ、軍事郵便の手紙が来ているということは、無事だと言うことだ。香織ちゃんから話を聞いた俺と春香も、ほっと胸をなで下ろしたもんだ。
 もっとも検閲があるので軍事機密に当たる内容はなく、居場所も大まかな場所だけで具体的地名は書いてなかった。今も無事でいて欲しい。そう思う。


 日本の方は今年の初頭から、アメリカとの間で交渉が続いていた。
 新聞によれば、アメリカは中国と北部仏印からの撤退を要求。日本はソビエトのコミンテルンに対する防共協定や満州国に対するアメリカの承認を求める。
 この両者の主張がぶつかり合っていたらしい。
 だが日本は防共協定といいつつ、そのソビエトと日ソ中立条約を結んでもいるわけで……。

 日本とアメリカの交渉が続いている間に、ドイツとソビエトが戦争に突入。
 それに乗じて日本は南部仏印にまで軍隊を進めてしまった。

 当然、それはアメリカの態度を硬化させ、交渉は完全に暗礁に乗り上げてしまう。アメリカは全侵略国に対する石油の輸出を全面的に禁止した。日本も含めて。
 今まで中立国として日本と貿易を続けてくれていたアメリカだったが、この輸出禁止によって、日本に対する経済封鎖のABCD包囲網が完成してしまう。

 それでも交渉を続けようとする近衛内閣だったけど、陸相であった東条大将が強硬意見を述べたのだろう。
 結局、閣内不一致で内閣は倒れ、替わって立ったのが東条内閣だった。かつての連隊長殿だけに複雑な気分だ。

 正午、ラジオからは天皇陛下の宣戦のみことのりが発せられた。
 一同立ち上がり、ラジオに向かって頭を垂れる。

天佑てんゆうを保有し、万世一系いっけい皇祚こうそめる大日本帝国天皇は、あきらか忠誠勇武ちゅうせいゆうぶなる汝、有衆ゆうしゅうに示す。

 ――ちんここに米国及び英国に対してたたかいを宣す。

 朕が陸海将兵は、全力をふるって交戦に従事し、朕が百僚有司ひゃくりょうゆうしは、励精れいせい職務を奉行ほうこうし、朕が衆庶しゅうしょは、各々、の本分を尽し、億兆一心にして国家の総力を挙げて、征戦せいせんの目的を達成するに遺算いさんなからんことをせよ――。

 皇祖皇宗こうそこうそうの神霊、かみり、朕は、汝、有衆ゆうしゅう忠誠勇武ちゅうせいゆうぶ信倚しんいし、祖宗そそうの遺業を恢弘かいこうし、速に禍根かこん芟除せんじょして、東亜永遠の平和を確立し、以って帝国の光栄を保全ほぜんせんことを期す」


 つづいて東条大将の懐かしい声が流れてきた。しかし、内容は重大だ。

「ただ今、宣戦の御詔勅しょうちょく渙発かんぱつせられました――

 過般かはんらい、政府はあらゆる手段を尽くし、対米国交調整の成立に努力してまいりましたが、彼は従来の主張を一歩も譲らざるのみならず、
 かえってイギリスオランダフィリピンと連合し、支那より我が陸海軍の無条件 全面撤兵、南京政府の否認、日独伊三国条約の破棄を要求し、帝国の一方的譲歩を強要してまいりました――

 事ここに至りましては、帝国は現下の時局を打開し、自存自衛を全うするため、断固として立ちあがるのやむなきに至ったのであります」

 ああ、満州は確かに日本の生命線になった。……それも命取りという悪い意味で。

 加えて外交交渉中になぜ軍事行動を起こしてしまったのか。そんな相手を信頼する国などあり得ないだろう。なぜ仏印に進駐してしまったのか、悔やまれる。

 結局、その後も役場のなかは仕事にならず。何度か日本の同盟通信からのニュースが流れ、真珠湾攻撃の成功や各国の対日宣戦布告の見込みが報じられるのを聞くばかりだった。

 世界は必ずどこかでつながっている。地球の裏側で起きた独ソ戦が、陸軍の仏印進駐につながり、外交で行き詰まりを見せたように。
 なんてタイミングが悪いんだ。戦争を回避しようとする一方で、戦争に突入しようとする勢力も。いくつもの船頭がせめぎ合っているうちに、引き返すことのできない一線を越えてしまったのだ。

 しかし、それも歴史の姿なのだろう。……いや、それが人間の、社会のすがたというべきだろうか。

02承の章 嫁ぎゆく君に乞われて紅ひくに さちあれかしと祈る筆先

 今日は珍しく香織ちゃんがやって来た。昨年の12月15日に出産した長男の和雄くんと一緒に、ちゃんと婚家のおしゅうとめさんに許可をもらって。

 生まれてすぐの頃に抱っこさせてもらったけど、あの頃のフニャフニャした感じではなく、今ではしっかりした赤ちゃんらしい体つきに成長していた。もう生まれて8ヶ月。首も腰もわっている。

 蔵の居間にいるけれど、赤ちゃんが一人いるだけで楽しくなる。そのかずくんはちょこんと座った姿勢で、一生懸命にテーブルの上に手を伸ばそうとしていた。
 つかまり立ちは、まだ無理みたいだね。

 香織ちゃんが微笑んで、
「はいはい。和くん。これね」
と言って、私が作ったキルトのクッションボールを持って、「ころころころ」と口でいいながら和くんのところに転がしてあげていた。

 ギュッと無造作にそのボールをつかんだと思ったら、半開きの口からよだれを垂らしたままでカプリとかみついた。……いや、まだ歯は生えそろってなかったか。
「あー」

 満足したのか、今度はエイヤッと腕を上げる。その手の先からボールが落っこちて、ころころと転がっていく。それを見てまた手を伸ばす和くんに、香織ちゃんがまたもボールを転がしながら渡してやる。

「かわいいね」
 ボールに口をつけている和くんのほっぺたを、指を伸ばしてさわる。桃のようにうっすらと産毛が生えているけれど、羽二重餅はぶたえもちのように柔らかい。
 思わずニンマリとしてしまう。

 まだ赤ちゃん語もしゃべれないみたいだけれど、随分とおとなしいし、人見知りもしないようだ。

 また転がったボールに手を伸ばそうとして、バランスを崩してゴロンと転がった。
 そのまま見守っている私と香織ちゃんの顔を見上げ、うつ伏せのままで両手と両足を上げて飛行機のポーズを取る。

「あれ? 前にはいはいしてたよね」
「ええ。そうなんですけど、妙にこのポーズが好きみたいで」

 ふうん。……えへへ。こいつめ。

 指で脇腹をツンツン突っつくと、キャッキャッと笑いながらあわてたように仰向あおむけになった。
 ほほう。まるでまな板の上のこいのようじゃあないか。料理してくれと言わんばかりの期待した目が、ニコニコしながら私を見ている。

 手をワキワキさせながら、ゆっくり近づけて、途中からガバッと脇腹に押し当てて、こちょこちょとくすぐった。
 笑いながら身をよじる和くん。鈴が転がるような笑い声を上げている。
 や~、かわいいなぁ。もう何時間でもこうやって遊べるよ。

 ニヤニヤしながら私を見ている香織ちゃんの視線が気になりますが、今はまだ自分が産めない分、ほかの赤ちゃんを愛でているのですよ。
「こんな事を訊いて失礼かもしれないですが、お子さんは、その……」

 他の人は遠慮して、面と向かって言ってこなかったことだけど、ずばっと訊いてきたね。まあ私と香織ちゃんの仲だから、心配してくれているんだろう。

「別にどっちかが悪いってわけじゃないんだよ。説明がしにくいんだけど、まだ子供を宿す時期じゃないっていうか」
「そうでしたか。旦那様と奥様には大恩がありますから、気にはなっていたんです」
「ふふふ。香織ちゃん。心配してくれて、ありがとうね。
 普通なら気になる年齢になってきたけど、大丈夫よ。たとえ40になっても私はちゃんと産めますよ」
「そう、なんですか?」

 なぜに疑問形なのかわからないけど、この時代だと不思議なんだろうね。子供ができないことが離婚の原因になりうるわけだし、生めよ育てよという時代だからってのもあるのかな。
 単純に、私と夏樹には年齢の問題はまったく当てはまらないわけで、それがまた説明しにくい。

 ちょっと気まずくなったところで、香織ちゃんが和くんを膝の上に抱っこした。
「そういえば、お米が変わったじゃないですか。……あれ、上手くけなくて困っているんですが、何かコツってありますか?」
「ああ、なるほどね」

 昨年の12月に白米禁止令がでて、7分づきのお米でないと販売しなくなったんだ。
 おそらく米どころの農家ではそんなことは無いと思うけど、あいにく松守村は畑作中心。必然的に白米生活より玄米よりの生活となっている。もしくは麦飯とか。
 聞くところによると、東京のデパートや料理屋でも白いお米を出すのが禁止になったらしい。お店の人も大変だと思う。

 7分づきのお米は、今までの白米を炊くのとは勝手が違って、水切りが悪いというか……。
〝はじめチョロチョロ中パッパ、赤子泣いてもふた取るな〟とは言うけれど、実はもう一手間必要で、最後にちょっとだけ火力を強くして、余分な水分を飛ばさないと美味しくできないんだよね。

 ただこの加減が難しい。ガラスぶたってわけじゃないから中も見えないし、油断をするとげちゃう結果になる。
 きっと香織ちゃんのところも、下手に焦がすよりは多少はゆるい方がいいと妥協するか、もしくはお焦げを美味しく食べる方法を探すかだったのだろう。お湯に戻してお塩を振るとか、そんな風に。


「最近は節米、節米って言われるんですけど、どうすればいいのかわかんなくて」
「わかるわかる。でも節米は悪いことじゃないんだよ」

 昨年は朝鮮で凶作となったため、国内のお米の流通量が減っている。それもあって節米っていわれているんだけど、実は栄養の面からすれば悪いことではない。

 今まで多くの家庭の食事では、こんもりとご飯を多めにして、副食は少し、お漬物つけものとお味噌みそ汁という食事になっている。
 だけどこれって、ビタミン不足になるんだよね。で、ビタミン不足になると脚気かっけになってしまう。これはかつての大航海時代と同じだ。

 そこで節米して他の栄養素を取る。玄米にはビタミンも豊富に含まれているから、身体も強くなるというわけで、にはかなっているんだ。
 問題は、お金がかかるということと、玄米は手間がかかるということだね。

 そういえば今度、お寺の美子さんが講師となって代用食の講習会をするとか言っていたっけ。そういう説明もするんじゃないかな。

 それはともかく、
「節米には3つの方法があるよ」
「3つですか?」

 オススメは1つだけだけどね。

「あれれ? ああいう雑誌とか見てない?」
「……そのう。うちは貧しいので」
「あっ、ごめんね。1つは混ぜご飯や、おかゆにして量を増やす方法。混ぜるのは大豆とかサツマイモとか」
「それってかてめしですよね。うち、普段からそれです」

 予想はしていたけど、やはり既に当たり前のご飯だったか。

「うちもやってるよ。夏樹なんかそら豆ご飯とか、さつまいもご飯とか好きなんだよね」
 もっと貧しい時代もありましたからね。私たちも平気ですよ。こういうご飯は。

 右手の指を2本立てる。
「気を取り直して2つめ。代用食だいようしょく
「代用食?」
「そう。たとえば……」

 そう呟きながら、窓辺の机から『主婦之友』『婦人倶楽部くらぶ』を適当に手に取った。ページを開いて香織ちゃんに見せながら、

「ええっと……、しパンとかうどんか。小麦粉を使ってすいとんなんかも、上手にできたら美味しくなるんじゃないかな」

 けれど香織ちゃんは浮かない顔をする。
「これって結構お金がかかりそうな気が………」
 はいそれ、正解。

 そもそもお米は安い主食だったわけで、それを節約しようとして、より高い主食に替えるのは難しいだろう。

 というわけで3つめ。実はこれをオススメしたい。

「……3つめ。献立こんだてを工夫する」

 香織ちゃんは何を言われたかよくわかっていないようだ。しかし、栄養バランス的にもこれが一番いいと思っている。

「おかずを増やすんだよ。それで代わりにお米を減らすの」
「おかずですか……、でもそれも難しいような」
「ちっちっちっ。香織ちゃん、メニューのレパートリーを増やせば、上手に節約できるんですよ。これが」
「はい。……あまり自信はないですけど」
 むしろ今までがお米に偏ってたんだしね。

 そのままパラパラと2人で雑誌をめくっていると、香織ちゃんが、
「あ、これなんか面白いですね」
と言って、記事をまじまじと読みはじめた。

 ……ああ、それは確かに面白かったな。
「東京8大デパート戦時食料献立の腕くらべ座談会」

 それぞれのデパートが節米メニューを紹介したわけだけど、高島屋の枝豆ご飯とか良さげで、今年の夏にさっそく作ったよ。夏樹には好評だった。

 再び別の雑誌を見ていて、香織ちゃんが首をかしげた。
魚粉ぎょふんをパンに入れるんですか? おいしいのかな?」
「ああ、興亜こうあパンね。それ、生臭なまぐさくておいしくないよ」
「ですよね。興亜奉公日だとまあ、そういう食事もありなのかもしれないですけど……」

 最後は言葉を濁した香織ちゃんだけど、気持ちはわかる。
 今、毎月一日が興亜奉公日っていって、神社にお参りに行ったり、ぜいたくは禁止して質素な日の丸弁当を食べようってことになっているんだ。
 前線の兵士の苦しみを、銃後じゅうごの私たちも知ろうという趣旨らしい。銃後っていうのは戦争に行っていない国内の生活みたいな意味ね。

 ただ日の丸弁当にはお米を大量に使うわけで、節米にはそぐわない。その代わりにと提案が出ているのが興亜パンだ。
 魚粉だけでなく、海藻かいそうの粉末だとか大豆の粉も入れた蒸しパンで、一度作って見たけど味がねぇ……。カロリーメイトみたいな味なら食べる気にもなるけど。もう二度と作るつもりはない。
 味は度外視した栄養重視のパンだろうけど、あれは絶対に普及しないと思う。

「あ、おらししてる」
 香織ちゃんが急に戸惑った声を上げた。私は笑いながら、
「お風呂場で替えてきたら?」
と勧めると、「すみません」といいつつ替えの布おむつを持って、そそくさとお風呂場に入っていった。

 泣きだした和くんをあやしながら、おむつを替えている香織ちゃんの声が聞こえる。私は肘をつきながら、昔のことを思い出していた。

 ……碧霞へきかも最初はこうだったなぁ。

 かつて育てた女の子も、私たちの所に来た時はちょうど和くんくらいの歳だ。お漏らしもしたし夜泣きもしたし、なんだか懐かしい。

 あの子が結婚して孫の顔も見られて、私たちは人並みの幸せを味わうことができた。
 ただ心残りなのは……、私たちが中国を離れている間にいくつもの戦乱があったようで、再び訪れたときには、あの子の子孫がどこに行ってしまったのか、わからなくなっていたんだよね……。

 あれから2500年以上も経っているから、さすがにもう難しいかもしれないけど、どんな形であれ生き延びていて欲しい。
 というか、私たちと因縁のある一族だから、きっとまたどこかで会える。なんとなくそう信じている。

 抱っこしながら戻ってきた香織ちゃんと再びおしゃべりをしていると、いつのまにか和くんが眠りこけていた。
 2人してその寝顔を見て笑みを浮かべる。子供が寝ちゃうと急に部屋が静かになる。
 寒くないように毛布を掛けてやり、香織ちゃんと対面してお茶を入れてあげた。

 お茶を飲んだ香織ちゃんが、
「……ふう」
とため息をつく。うれいを帯びた表情に、
「お疲れさま」と声を上げると、苦笑いを浮かべていた。

 一番最初の子供。家事に加えて初めての子育てとあっては、色々と疲れもまっているのだろう。

 少しの間、会話が途絶える。
 この辺りでは、もうあと一週間もすれば、麦の種まきの時期を迎える。その前のほんのひととき。
 蔵の窓から差し込んだ陽光が、やさしく和くんを包み込んでいた。そして、それを見つめる香織ちゃんも。
 まるで聖母のような柔らかい笑み。慈愛に満ちた母親の目をしていた。

 ふと、その香織ちゃんの視線が動いた。窓辺の机に放り投げてあった新聞が気になったようだ。

 あれは先月ので、とうとう日独伊三国軍事同盟が結ばれたと華々しく報道されていたものだ。

 ドイツではすでに北部フランスを支配下に置いている。それに呼応するように、ソビエトもイタリアも軍事作戦を開始しているとか。――ヨーロッパに放たれた火は、着々と燃え広がりつつあるのだ。

 ヨーロッパは、私たちと夏樹が旅をしてきた土地でもある。知り合ってきた人々は大丈夫だろうか。

 日本でもドイツとフランスが休戦協定を結ぶや、ベトナムやラオス、カンボジアあたりを植民地としているフランス領インドシナ、通称仏印ふついんに軍隊を駐留ちゅうりゅうさせた。
 蒋介石しょうかいせきを援助するルートの1つ、通称、仏印ルートをつぶすために、現地政府に軍隊の進駐しんちゅうを認めさせたのだ。

 日支事変は、すでに徐州じょしゅう武漢ぶかんといった中国の中部を抑え、南部地方に手を伸ばしているところ。南部の海岸沿いを抑えて、これまた列強れっきょう諸国が蒋介石を援助するルートをつぶすという意図があるらしい。

 国内の生活にも影響が出ていて、去年の10月には価格統制令という法律ができて、お店の商品についている値札にはマル公とか、○協という印が付くようになった。物価が固定されて変動しなくなったのだ。

 便利なように見えて便利じゃない。利益を上げるために闇市やみいちに商品が流れ込んでいくだろうから。結果、ものすごく高くても買わざるを得ないだろう。

 7月には抜き打ちのように、贅沢ぜいたく品の生産や取引、販売が禁止された。突然の発表と施行で、都会ではショックを受けた人も多かったらしい。
 アメリカがくず鉄の対日輸出を全面的に禁止したというから、そのうち金属類の回収が始まると思う。

 こんな生活の中だけれど、来月には皇紀こうき2600年で盛大に祝うという。

 神の子孫である初代天皇・神武天皇が即位してから2600年。
 私たちは残念なことに、その頃に日本にいなかったから即位の真実はわからない。
 ただ、その2600年という歴史の重みだけはわかっている。歴史を歩んできた私たちだからこそ、その重みがわかる。

 ――それでもだ。
 私にとって皇紀2600年の祭りは、厳しくなりつつある生活への不満を、違うベクトルに逸らすための行事にしか見えない。……口に出しては言えないけれど。


 しばらく手にした湯呑ゆのみに視線を落としていた、香織ちゃんが静かに話し出した。
「――年明けには、秀雄さんが兵営に入ります」

 そうか。今年の徴兵ちょうへい検査で甲種こうしゅ合格だったんだよね。
 入営が決まったときに挨拶に来てくれたけれど、確か所属は弓6823部隊。兵営先は宇都宮と聞いている。

「私、どうしたらいいのかわからなくて……」
 そうつぶやくように言うと、それっきり香織ちゃんは目を閉じた。

 急にその姿が、はじめて家に来たときの、迷い子のように弱々しく見えた。
 なんて声をかけてあげればいいのか。
 どう言ってあげればいいのだろうか。
 私にはわからない。

 ……それでも、できることはある。

 そっと手を伸ばして、小さく震えている手を包み込むように握る。顔を上げた香織ちゃんの目尻は、ややうるみかけていた。

 まっすぐに目を見つめ、
「泣きたかったら泣いていいんだよ」
 きっと誰からもこんなことを言われていなかったんだろう。はっと目を見開いた香織ちゃんが、泣き笑いのような表情をした。
「は、い……」
 絞り出すような声。私の胸も締めつけられるように苦しい。

 そばにいって、横からそっと腕の中に抱き込んであげた。かつて義娘むすめの碧霞にしてあげたように。
 とたんにせきを切ったように泣き始める香織ちゃん。

「わたし。心配させると――、いけないから。和雄にも」
 まっている感情がほとばしり出るように、ぐずりながらもしゃべっている。

「いいのよ。今のうち、たくさん泣きなさい」
「結婚したばかりなのにっ。和もまだこんなに小さいのにっ」
「うん。わかってるよ」

 背中をさすってあげるけれど、気休めのような言葉しか出てこない。でも、香織ちゃんはそんなことお構いなしに、胸の内をさらけ出すようにしゃべり続けた。

「お義父さまもお義母さまも我慢しているんです。秀雄さんだってっ。……それなのに、私がっ。――私が泣くわけにいかないじゃないですかっ」

 そうして私は、泣きつづける香織ちゃんを抱きしめてあげた。

 どれくらい経ったろうか。やがて落ちついた香織ちゃんが、私の腕の中で小さくうなずいた。
「奥様、ありがとうございました。……もう大丈夫です」
と小さい声で言いながら、顔を上げた。

 抱擁ほうようをといて、すぐ隣に座る。香織ちゃんは涙を拭きながら、健気けなげにも私に向かって微笑んだ。
「変なところをお見せしちゃって――」

 言葉の途中で和くんが泣き出した。突然、火が付いたように激しく。
 香織ちゃんが立ち上がり、抱っこしながらあやす。

 まだ目もとがれ、泣いた跡が残っているけれど。和くんの頭に自分のほほをてながら、身体をゆっくりと揺り籠のように揺らしている。

「香織ちゃん」
「はい」
「いつでもうちに来ていいからね」
「……はい」

 先月隣組となりぐみが組織された。配給や月に一度の常会がメインだけれど、戦争反対のようなことを言えば、すぐに特高に通報されてしまうだろう。
 だけど、ここなら。蔵ならばその心配は無い。言いにくいこともすべて私が聞いてあげる。それも女神の役目かも知れないし。

 にっこり微笑んだ香織ちゃんからは、先ほどまでの弱々しさはもう既になかった。
 覚悟をしたかのような、それとも母としてのかわからないけれど、しっかりとした力強さを感じたのだった。

02承の章 嫁ぎゆく君に乞われて紅ひくに さちあれかしと祈る筆先

 昭和14年の11月、夜9時ごろに突然、誰かが蔵にやってきて俺の名前を呼んだ。
 そろそろ寝ようかと思っていたんだが……。玄関に向かおうとする春香を手で制し、自分が出ることにした。

「鈴木さん、こんな夜ふけに何かあったんですか」

 そこにいたのは役場の書記で先輩の鈴木さんだった。たしか今晩は宿直当番だったはず。緊急事態、というわけでもなさそうだが、妙に緊迫した空気を漂わせている。……熊でも出たか?

「慌てないで聞いてくれ。……先ほど駐在さんから連絡があってね。今晩は重大な用件があるから兵事係へいじがかりを待機させておくようにということだ」

 心の中で、雷に打たれたような衝撃が走った。
 巨大な何かが俺の前に立ちふさがっているような、平穏な日常が今まさに、どす黒い影に飲み込まれようとしている。そんな強迫観念にも似た緊張に、思わず息を潜めてしまう。

「……わかりました」

 うちの村で電話があるのは駐在さんのところと清玄寺だけだった。対外的な公の電話は、駐在さんのところに行くことになっている。
 兵事係はもう一人の先輩の書記、川津さんなんだが、こういう場合は村長さん以下、役場職員が集まることになっている。

 そう。
 兵事係を待機させておくということは、召集令状が役場に届くということだ。役場に届いた令状は、3時間以内に宛先へと届けなければならない規則になっていた。

 急いで役場に向かわなければならないが、こんなに静かな夜では車を出すことができない。防諜にも気を使わないといけないからだ。やむなく徒歩で向かう。

 後ろから心配げな顔をしてやってきた春香に近寄り、その耳元で、
「召集令状が役場に来るみたいだ。……先に寝ていてくれ」
と小さい声で告げると、黙ってうなずいていた。

 さっそく鈴木先輩と一緒に蔵を出て、寺の裏口から村道に出る。途中、昨年作ったばかりの厩には3匹の挽き馬がいるが、この時間は眠っているようで静かだった。

 夜の冷気に包まれながら空を見上げると、秋の寒空に明るい月が浮かんでいる。いつもよりも光が寒々と冴え渡っているようだ。

 道脇を流れる用水路が、月の光を反射しながら澄んだ水の音を響かせている。他に聞こえるのは、俺と鈴木先輩に足音だけ。足元には2つの影法師が落ちている。

 途中で、俺と同じ在郷軍人の家に寄り、もしかしたら動員の令状が来るかもしれないから、急使として3人ばかり集めてもらうようにお願いをしておいた。

 暗がりの中を役場の明かりがぽつんと点いている。
 到着すると、先に連絡を受けていた川津先輩が待機をしていた。
「おう。来たか」
「はい」
「まず間違いなく。赤紙だろう」

 もしかしたら俺の番かもしれない。
 その言葉を飲みこんで、いつもの席に座る。

 静寂の中を、壁に掛けた時計がコッチコッチと、妙に大きな音を立てている。

 この地方の大きな警察署は黒磯になるから、召集令状はその黒磯署から運ばれてくる手はずになっている。ただし、そこにはまだ自動車がないので、おそらく自転車で運ばれてくるのだろう。
 やがて闇の中を複数の走ってくる足音がして、在郷軍人の仲間たちが役場に入ってきた。

 俺が、
「まだですよ」
と言うと、ふうと肩を下ろして銘々が手近な椅子に座る。
 それからしばらくして村長さんや助役さん、収入係が到着し、これで徴兵事務の準備は整った。
 9人も人が集まってはいるけれど、誰一人としておしゃべりをしようという人はいなかった。


 2ヶ月前、わざわざ三井の松本先輩が新聞の号外を送ってくれたんだが、ヨーロッパではとうとうドイツがポーランドに攻め入り、フランスとイギリスがドイツに宣戦布告をした。
 第二次欧州大戦がはじまったのだ。
 1ヶ月後にポーランドは占領されてしまったが、こちらではいまだに中国での戦線が安定していない。


 待ちくたびれたころに、2台の自転車の音が聞こえてきた。油が切れているのか、キーキーともの悲しい音を立てている。

 役場の前で音は止まり、2人の警察署員が和紙の包みを持って来た。動員番号と松守村の名前が書いてある包み紙。令状は2枚と書いてある。

 村長さんの立ち会いの下で封を切る。川津先輩が中から朱に染められた紙を取りだした。紙を開く動作が妙にゆっくりに見える。

 召集されたのは――。

「鈴木貞夫、松本俊郎」

 ……俺ではなかった。しらず安堵の息をついていた。名前を呼ばれた2人は、根古と中郷の青年だった。

 すぐに在郷軍人名簿を取り出してきて、召集令状の記載内容に間違いがないかどうかを確認する。氏名の文字に誤りがあると届けられないし、間違いがあったらそれを正当な理由として召集を拒否できることになっている。

 しかし、今回も間違いはない。
 記録をする台帳に記入した後で、来てもらった在郷軍人2人に使い番をお願いすると、神妙な顔で赤紙を受け取り、夜道を走り去っていった。

 沈黙が室内を支配する。
 そのまま30分ほどで2人とも帰ってきた――。

 それから幾つかの手続きをして応召事務が終わったところで、川津先輩は駐在さんのところへ報告に、他の人は宿直の鈴木先輩を残して解散となった。助役さんは令状を届けた2軒の様子を窺ってから帰るという。

 そんなわけで俺は夜道をとぼとぼと一人戻る。静けさに眠る村を月が見守っていた。
 今回は自分じゃなかったことに安堵しつつも、自然と春香のことを思い、ひどく切なくなる。

 気がつくと蔵に帰り着いていた。
 春香が行灯あんどんを玄関先に出して置いてくれたようだ。その優しさが心に染み入る。
 きっともう寝ているだろう。明かりを消して、起こさないように静かに蔵に入った。

「おかえり」

 暗闇の中で声を掛けられて、ドキンと心臓が鳴った。
「脅かすなよ。……ただいま。先に寝ていればよかったのに」
「寝られるわけないじゃん」

 それもそうか。
 春香も心配していたのだろう。火鉢をつけて部屋を暖かくして、俺の帰りを待ってくれていたようだ。ありがたい。

 時計を見るとちょうど深夜1時を回ったところだった。

「2人召集されたよ」
 コートを脱ぎながらそう言うと、
「そう」
とだけ返事をして、春香は黙ってしまった。

 戦争が長引くにつれ、この村にも赤紙が届くようになってきた。同時に生活の方も急速に変わりつつある。
 国民精神総動員運動の名の下に、国家のために働くことが当然とされ、戦争に反対するようなことを言うと、非国民だとか国賊だなんてと呼ばわれてしまう時代になってしまった。

 今年の1月には『国民職業能力申告令』というのが出され、新聞報道によると技術者や高学歴者のみならず、運転免許所持者も該当するらしく、俺も春香も登録することになった。

 そのほか、昨年には革製品と鉄製品の使用と製造制限が始まり、ランドセルやバッグ、財布、つり革から野球のボールやグローブに至るまで牛皮などを使うことができなくなった。
 鉄製品の方も、まだ供出の話や使用禁止が出たわけではないけれど、鉄製の机、ストーブ、五徳や鉄瓶、パーマネントの機械などの製造が禁止。

 今年に入ってからも、米穀や肥料の配給統制、自動車のタイヤやチューブの配給統制、羊毛の購入制限、繊維製品製造制限だのと。
 もう数えるのもうんざりするほどの規則や統制令ができている。だけど、これからも品目が増え続けるだろう。

 すっかり身体が冷えてしまった。できれば温かいものが飲みたいけれど……。

「お風呂の用意もしてあるわよ」
「え? お風呂?」
「うん。身体冷えたでしょ」

 時間が時間だけれど、せっかくだから湯船だけでも入るかな……。そう思って、礼を言いながら俺は服を脱ぎはじめた。
 ズボンを下ろしていると、春香もおもむろに寝間着のボタンを外し出す。

「お前も入る?」
「うん」
「そんなに気をつかわなくても大丈夫だぞ」
「ううん。私が、そういう気分なだけ」

 そうか。上手くいえないけど。帰り道に俺が春香のことを思ったように、1人、蔵にいる間に、俺のことを思ってくれていたのだろう。それがうれしい。

 2人して浴室に入り、手桶で身体を流してさっそく浴槽に身体を沈める。
 本日2度目のお風呂だから洗うことはしない。

 春香が俺の方を見て急ににっこりと微笑むと、背中を向けて俺の方に身体を寄せてきた。そのまま俺の肩を枕にするように頭を乗せてくる。後ろから春香を抱きかかえるような体勢になった。

 ちらりと顔をのぞき込むと、少し伏せた目もとがほんのり赤く染まっている。この表情は幸せに浸っている時の顔だが、今日はどこか寂しげに見える。
 そのままお腹に手を回すと、むき出しの肩越しに、ちらりを俺を見上げてきた。……こいつめ。期待しているな。

 肩を抱き込むようにして顔を寄せると、春香は自分から目をつぶって唇を上に向けた。ついばむように3度キスをすると、満足したようで再び俺にもたれかかってきて、小さく鼻歌をうたいだす。

 腕に柔らかい胸が当たっている。お腹はまるで上質なシルクのようになめらかだ。腕の中にある、この確かな重みが愛おしい。

「あなたじゃなくて、本当に、よかった」
 つぶやくような声に、抱きしめる腕に力がこもる。

 ふと春香が思い出したように、
「そういえばさ。香織ちゃんのところ、今8ヶ月だって」
「ということは出産は年末ごろになるのか」
「そうだね。まだそんなにお腹は目立たないみたいだけど」
「これから大きくなるんじゃないか」
「そうなのかな」

 まだ俺たちは子どもの出産を経験していないから、よくわからないんだよな。母親と胎児の成長具合とかは。
 お腹に回していた俺の腕の上に、春香がそっと手を重ねた。
「ここに命が宿るってどんな感じなんだろうね。お腹の中で赤ちゃんが動くと、どんな気持ちになるのかな」
「……春香」
「あ、ごめん」
「いや、俺もその日が来ることを楽しみにしてるしな」
「うん」

 俺たちの修行の終わりはいつなのか。帝釈天様ははっきり仰らなかったけれど、それはそんなに遠い未来じゃない予感がしている。おそらく春香も薄々感じていると思う。最近はこうして子どもの話をすることも多くなってきた。
 子どもをお腹に宿すこと。新しい命を産むということ。それは俺たちが神通力を使う以上の神秘だと思う。

 後ろからぎゅっと抱きしめ、耳元に口を寄せる。
「愛してる」
 クスッと小さく笑った春香はコクンとうなずいた。
「私も。愛してる」

 そんな風に抱き合っていたら、寝る気分じゃなくなってきてしまった。
 お風呂から出て寝巻きに着替え、梯子はしごを登ってロフトに敷いた布団に入ったはいいが、仰向けに並んでおしゃべりの続きをして、その夜は更けていった。


◇◇◇◇
 夏樹が夜に役場に行って帰ってきてから、一週間が経った。
 国防婦人会の会員でもある私は、割烹着をきてたすきを掛け、今日出征する貞夫君の壮行会に来ていた。

「祝出征 鈴木貞夫君」と書かれた大きなのぼりが立っている。
 家の前に壇を設け、その上に立つ貞夫君は日の丸を畳んでたすきにしていた。今年で26歳だという。

 その後ろには年老いたご両親と、奥さんが顔をうつむかせて控えていた。

 在郷軍人会会長の福田さんが大きい声で、
「鈴木貞夫君の出征を祝して、万歳を三唱します」
と宣言する。
 集まってきた人たちで、
「ばんざーいっ」「ばんざーいっ」「ばんざーいっ」

 三度の万歳の声が響いた後、貞夫君は腹に力を入れ、
「名誉の召集であります。お国のために、この命を捧げて戦ってまいります!」
と大きな声で挨拶をした。

 それを聞いた福田会長が一呼吸置いて、
「しゅっぱーつ!」
と指示をする。楽隊役の在郷軍人の人が太鼓を叩きながら行進を始める。壇から貞夫君が降りて、その後ろについた。

 私は、他の国防婦人会の奥さん方と一緒に、日の丸の小旗を振りながら『海かば』を歌う。

 海かば
  かばね
   山かば
    くさかばね
 大君おおきみ
  にこそなめ
   かへり見はせじ

 歌っている私たちの目の前を貞夫君が通り過ぎていく。その横顔は無表情だった。
 その後をご家族がうつむいたままで続き、次いで福田会長、そして、私たち国防婦人会が付いていく。

 いずれ夏樹にも赤紙が来るだろう。その時が無性に怖い。
 だから、普段はその事をなるべく考えないようにしていた。けれど、こうして壮行会に出ると、どうしても来たるべきその日のことを考えずにはいられない。

 村道の両脇の畑には、赤とんぼが飛び交っている。頭上には、抜けるような青空が広がっていた。

02承の章 嫁ぎゆく君に乞われて紅ひくに さちあれかしと祈る筆先

 ここは清玄寺の控え室の一つ。ふすまの前にある桐の箱には、この日のためにあつらえた、黒引きのそでたたんで入っている。その隣には婚礼小物の箱も並べてあった。

 今日は昭和131938年11月の19日。香織ちゃんと秀雄君の結婚式だ。
 もうしばらくしたら、香織ちゃんがご家族と一緒にやって来るだろう。

 私は長襦袢ながじゅばんを広げ、用意してあった衣桁いこう衣紋掛えもんかけにかけた。
 床の間には、今日の日のために届けられたお祝いが並んでいる。新婦が寒くないようにと、片隅に置いてある火鉢ひばちでは鉄瓶てつびんがゴトゴトと音を立てていた。

 昨年、香織ちゃんと秀雄君から相談を受けた際に確認したところ、2人はお付き合いしていることすら、それぞれの両親に伝えていなかった。
 この時期、恋愛結婚としては、まずはお付き合いの報告と許可を得て、それから年数を経て婚約へと進むのが筋道すじみちだろう。けれど、そのやり方では数年単位の時間がかかってしまう。
 そこでもう1つの方法をることにした。つまり、第3者からの仲介、お見合いのやり方だ。

 つまり、仲人なこうどを立てるってことだけれど、その役目は村の新参者である私たちにはふさわしくない。
 そこで恵海さんにも相談して、まずは恵海さんが仲介役となって、ご両親に2人の結婚を勧めることにしたのだ。

 結論からいえば、2人の付き合いはご両家ともに歓迎された。香織ちゃんの所は小作農だけれど、秀雄君の所は違うので少し心配していたが、特に問題は無かったようだ。
 ……内実は、どうもお付き合いのことは、前から薄々感づいていたらしい。
 ま、それもそうだよね。自分の子どものことなんだから。

 ただし2人とも17歳という若さなので、せめてあと1年は待つようにということだった。その条件を飲んだところで、お仲人さんを村長さんにお願いして結納を済ませたのだった。

 あれから1年。香織ちゃんは秀雄君の家で見習い兼花嫁修業をすることになった。
 だから、私たちの畑仕事の手伝いはもう終わり。それまで毎日のように会っていたのに、同じ村の中とはいえ、会えない日が続くとどこかもの寂しい気持ちになったものだ。
 ともあれ、今日、2人は結婚式を挙げる。

 この辺りでは、結婚式を新郎の家で行う風習なんだけれど、家の事情は様々なので、できない場合は今日のようにお寺でその場所を提供しているらしい。
 これも村人がすべて、清玄寺の檀家だからできることだろう。

 庫裏くりの玄関の方からざわめきが聞こえてきた。どうやら到着したようだ。
 廊下を歩く音が近づいてきたので、出迎えのために部屋の前に出ると、タイミング良く香織ちゃんとそのご両親がやって来るところだった。

「香織ちゃん。今日はおめでとう」
 満面の笑みを浮かべた香織ちゃんが、全身から強烈な幸せオーラを振りまいている。
「はい。奥様も今日はありがとうございます」
 後ろのご家族にも一礼をして、
「皆様も、今日はおめでとうございます。新婦はここで、皆様は隣の部屋でお控え下さい。すぐに美子さんが落ちつき餅お汁粉をふる舞われると思いますから」

 香織ちゃんのお父さんとお母さんは、私に深く頭を下げた。
「奥様には本当に、本当にお世話になりました」
「いえいえ。頭をお上げになって。私たちの方こそ、香織ちゃんには色々やってもらって、ありがとうございます」
とまあお礼合戦になりかけたけれど、時間には限りがあるので、強引に隣の部屋に行ってもらう。私は香織ちゃんと控え室に入った。

 久し振りに香織ちゃんと2人きり。
 中に入った彼女は、衣装ケースの花嫁衣装や小物、そして、床の間に並んでいるお祝いの品々を見て、もう胸が一杯になっているかのように少し泣き笑いの表情を浮かべた。
 その様子に私も胸が熱くなる。けれど、式までに着替えを済ませないといけない。
「さあ、香織ちゃん。着替えをはじめるよ」
「はい」
 振り返った香織ちゃんの笑顔がまぶしかった。

 着ている服を脱いでもらい、長襦袢を後ろから掛けてあげる。前をあわせて下帯で固定をして、それからイスに座ってもらった。
 衣裳を着させる前にお化粧をしてしまわないといけない。だからまずは髪を調えないとね。
 香織ちゃんの髪は文金高島田ぶんきんたかしまだを結えるほどボリュームは無いから、お化粧の後でカツラをかぶせる予定。髪をまとめ終えたら、次はお化粧だ。

 緊張している顔にはまだ少女の面影が残っている。
「目をつぶって」「はい」

 無言のうちに化粧下地を塗り広げて肌に馴染なじませる。化粧皿けしょうざらにおしろいを水でかし、筆をつける。ひたいからそっと、ムラにならないように丁寧に色を塗る。

 少しずつ白くなっていく香織ちゃんの顔。筆を動かすたびに、一緒に過ごしてきた時間が思い出される。

 初めてうちに来た日の幼い姿。半纏はんてんを着て緊張していて、おでんを食べていたあの顔。

 学校に行きだして、友だちができて、き活きとしていた制服姿。

 わからないところがあるといって、居間の電球の下で夏樹から勉強を教わっていた姿。

 割烹着かっぽうぎをきて一緒にご飯を作ったり、青空の下でたらいで洗った洗濯物を干したりした。

 畑仕事の合間に木の下で休憩きゅうけいを取ったときの、あの木漏れ日の顔。

 雨にれて走って帰った後で、お互いのびしょれ姿を見て、腹を抱えて笑ったこと。

 そして、秀雄君を応援していた、あの祭りの夜に見た一生懸命な姿。

 色んな事を思い出すと、自然と目頭が熱くなり涙がにじんできてしまう。
 お化粧をされるがままの香織ちゃんに、気取られぬように、筆を持ったままで右の腕で目もとをぬぐう。

 大きくなったなぁ……。
 本当に。本当に大きくなった。

 再び筆をとっておしろいを塗る。それが終わったら、眉墨まゆずみを載せていく。次第に凜々りりしい乙女の姿になっていく。
 新しい絵皿を取り出し、朱の口紅に細筆をひたす。

 きゅっと引き結んでいる香織ちゃんの唇に、筆を当てる。

 幸せになるのよ。必ず。絶対に幸せになりなさい。

 祈りを細くしなやかな筆先に託して、そっと朱をひいていく。

 この先、困難な時代が来る。
 けれど、折れぬように、くじけぬように、がらぬように。
 願わくば、いかなる悲劇もこの小さな身に降りかからぬように願いながら――。

 ひと通りのお化粧を済ませ、そっと息を吐く。

「もういいわよ」

 そっと目を開いた香織ちゃんに姿見を向けてあげた。

「……わあ。まるで自分じゃないみたい」
 そうつぶやく香織ちゃんに、
「この後、振り袖を着て、かつらをかぶせるとまた変わるよ。……かつらは重いから、屈みすぎたりしないように注意してね」
「はい」

 再び立ってもらい。着付きつけの続きをする。振り袖に腕を通し、下帯、上から私の持って来た金銀の刺繍ししゅうの施された帯を結って帯締おびじめをむすぶ。

 そして、いよいよかつらをかぶせ、正面から位置を調整した。
「お、おも……」
 うめく香織ちゃんにくすりと笑いかける。「でしょ」

 最後に飾りなど全体を確認して、姿見の前に椅子を運んで再び座ってもらった。
 隣の部屋に、新婦の準備ができたことを知らせると、今度は自分の番だ。急いで奥の部屋に向かう。私たちも新婦側の下座に座ることになっている。
 はやく着替えないと……。


◇◇◇◇
 お寺の本堂には、昨夜の内に準備しておいたように新郎新婦の座布団の後ろに、参列者用の座布団が並んでいた。
 すでに両方の家族は着席しており、残りは新郎と新婦、そして、お仲人さんだけだ。

 やがて恵海さんを先頭として、新郎と新婦が入堂してくる。香織ちゃんは、村長さんの奥さんに左手を支えられながら、ゆっくりと歩いている。向かって左側の座布団に着席した。
 お仲人さんが着席したのを確認して、恵海さんのお導師で結婚式がはじまり、やがて式は三々九度に移っていく。

 夏樹とともにすっと立ち上がり、御宝前の方に用意されている朱塗しゅぬりの儀式用酒器を取りに行く。
 お給仕きゅうじは私と夏樹なのだ。

 最初は夏樹の番なので脇に座って待機をすると、私の目の前を、小盃しょうはいを載せた三方さんぼうと飾りを付けたお銚子ちょうしを持った夏樹が通り過ぎていく。
 無言のうちに。聞こえるは、外でそよ風が木々を揺らす音と、夏樹のずり足の立てる衣擦きぬずれの音だけ。

 まずは新郎のもとへ。夏樹がズ、ズ、ズ、ズズーと独特の足さばきに次いで、ふわりと座った。キリッとした姿勢が美しい。
 私の位置からは夏樹の背中しか見えないけれど、身体の動きで何をしているのかはわかる。今は新郎の持つ盃にお酒を注いでいるところだ。
 新郎が緊張した面持ちで、両手で盃を持ち3口みくちにわけて飲み干した。
 次は香織ちゃん、また秀雄君のところに注ぎ、夏樹が戻ってきた。

 私の番だ。立ち上がって御宝前に進み、中盃ちゅうはい三方さんぼうに載せて左手で、お銚子を右手で持つ。振り返り、夏樹と同じようにずり足で香織ちゃんのもとへ。
 みんなの視線が集中するけれど、表情を変えないように口を引き結び、新婦の正面に座る。

 対面した香織ちゃんが、私をまっすぐに見つめる。けれどこれは無言の儀式。口を開かずに三方さんぼうを前に出して盃を取ってもらう。
 飾りを付けたお銚子ちょうしふたに左手を添え、3度にわけて盃にお酒を注ぐ。朱塗しゅぬりのさかずきに、同じく朱塗りのお銚子の口から、清水のようなお酒がツーッと流れていく。

 香織ちゃんはこぼさないように、慎重に、かすかに手を震わせながら盃を口に近づけていった。3口めにスウッとお酒を飲み干す。
 盃のしりに添えられた香織ちゃんの手。畑仕事で日に焼けた指だけど、とても美しく、また可愛らしく見えた。

 飲み干す仕草に魅入みいっていると、いつのまにか空になった盃が差し出されていた。三方を持って盃を受け、再び香織ちゃんと目を合わせる。

 角隠つのかくしの下の白い顔。朱を引いた口元がキュッと引き結ばれている。少女だった女の子は、すでに一人前の女性の顔をしていた。

 その後、新郎、新婦とお酒を注いで御宝前に戻る。
 三献さんけんめのお給仕は夏樹。それが終われば、引き続いて親族盃しんぞくはいの儀となる。夏樹と2人で立ち上がり、お銚子を持って御神酒おみきを参列者の手元に用意した盃に注いでいく。
 私たちが元の席に着いたところで、恵海さんが仲人なこうどの村長さんに目配めくばせをした。

「我が国が一致協力して未来を築くべき今日こんにち。このき日に清玄寺の本堂にて新郎・井上秀雄君、新婦・大島香織さんの婚姻こんいんの儀がおこなわれました。ご両家の皆さま、まことにおめでとうございます。
 それではお盃をお取り下さい」

 村長さんの声に、誰もが手元の盃を手に取る。

「新郎と新婦の幾久いくひさしいお幸せと、ご両家の益々ますますのご発展をお祈りいたしまして、乾杯いたします。――乾杯」

 盃に口を付け、すっと飲み込む。
 一呼吸置いたところで恵海さんがお祝辞を述べはじめ、そして、式は如法にょほう相整あいととのった。

 ご住職が退座の後、村長の奥さんの介添かいぞえを受けて、香織ちゃんが秀雄君のご両親の元へと行き、一人正対せいたいして座る。

 そっと指先だけを付ける礼をして、
「今までおじさん、おばさんとお呼びしておりましたが、本日、この時をもちまして、私は秀雄さんの妻となり、お二方ふたかたの娘と相成あいなりました。年若く未熟者みじゅくものの私ではございますが、幾久いくひさしくお願い申し上げます」

 その挨拶を聞いた途端、香織ちゃんのご両親が目にハンカチを当てた。

 新郎のご両親はニッコリ微笑んで、
「今日はとてもい日だ。うちの秀雄に、こんなに立派な嫁が来てくれる。そして今、私たちの娘となったんだ。
 ご近所同士、昔から知っているとはいえ、こんなにうれしいことはない。なあ、大島の。本当にありがとうよ」

 香織ちゃんのお父さんに呼びかけた声には、娘を嫁に出す親に対する思いやりが込められていた。

 香織ちゃんのお父さんはうるんだ目のままで、
「ああ、井上の。香織を、頼むぞ」
と一言だけいうと、深々と頭を下げた。

 思わず、もらい泣きをしそうになる。なんてあったかいんだろう。人と人とのきずなというか、今この場は、まだ若い2人を中心とした思いやりに満ちている。

 ――結婚式は優しさに包まれる日。

 かつて誰かから聞いた言葉が胸に響いた。

 さてその後、お寺の客間に移動した。綺麗きれいにおぜんが並び、食事の用意ができていた。
 松守村では、こうしてお寺の客間で宴会をする場合が結構あるんだよね。今日はもちろん披露宴ひろうえんになるわけだけど、お料理はお寺の奥さんの美子よしこさんが指揮をして、2人のいる中畑なかはた地区の人たちが作っていた。

 昨年の11月にとうとう大本営だいほんえいが設置され、12月には南京なんきんを占領した。国内ではこれで支那事変が終結するとお祝いムードになった。南京では汪兆銘おうちょうめいを首班とする中華民国国民政府が樹立し、そして日本政府は、蒋介石しょうかいせき側を交渉の相手とせず、汪兆銘おうちょうめい政府と国交を結ぶと宣言。
 しかし、蒋介石は重慶じゅうけいに本拠を置いて抗日戦を展開していて、長期戦に陥っていた。

 こうした戦争の長期化のせいか、この前の4月にはとうとう国家総動員法が公布され、すでに施行状態となっている。他にも、こんな田舎ではあまり関係ないけど、軍事機密を保護する軍機保護法ぐんきほごほうというのが制定された。
 国際連盟からは、かつてワシントン会議で結んだ支那の主権を尊重する条約に反すると批判をされたが、自衛権を行使したまでとして主張し、国内では、かえって蒋介石へ援助しているイギリス・フランスへの不満がまってきているらしい。

 今はまだこうして宴会もできるけれど、やがて配給時代になればそれも厳しくなるだろう。

 一同がそろい、再びお仲人さんにより祝い膳が始まる。お酒が回っていくうちに、いつしか2人の子供の頃の暴露ばくろ話になった。
 その話に笑ったり怒ったりする主役の2人。そして、それを見て笑う参列者一同。

 宴もたけなわになったところで、新郎の親戚の男性が手をパンと打ち、
「おさかなげをしよう」
と言い出した。
「おう!」といらえを返す男衆おとこしゅうが歌をうたいだす。

「見よ東海の空あけて~ 旭日高く輝けば~」

 今年の2月にレコードが発売された愛国行進曲だ。女衆おんなしゅう手拍子てびょうしを打ちながら聞いている。
 見ると夏樹も一緒に歌っていた。私と目を合わせて微笑んでいる。

 軍国調の歌詞だけれど、祝いの席で歌をうたうという行為自体が楽しいのだろう。お酒が入っていることもあって、誰もが笑顔になっている。

 男衆の歌が終わると、次は女衆の番。曲目はもう決まっている。伝統の「めでたぶし」。

 めでた、めでたの この酒盛りは
  鶴と亀とが 舞い遊ぶ
 さかなあげましょ せんすへのせて
  せんすめでたく いよ~えひらく

 手拍子をしながら香織ちゃんも歌っている。この時は年頃の明るい笑顔になっていた。
 歌が終わると、みんなが一斉に拍手をした。「いよっ、ご両人!」

 笑顔があふれる酒宴は、こうして夜ふけまで続いたのだった。

02承の章 嫁ぎゆく君に乞われて紅ひくに さちあれかしと祈る筆先

「よっこらせっと」
 我ながらおばさんくさいと思いながら、買ってきた荷物を車の後ろの座席に入れる。
 反対側のドアからは、香織ちゃんが同じようにシートの上に運び込んでいた。中身は、ここいらで手に入らない作物の種や木綿の布、ガラスペンやインクなどの筆記具、そしてお酒だった。

 外はもうすっかり暗くなっていて、ここから見える黒磯駅の明かりがもの寂しげに見えた。
 香織ちゃんと二人、夏樹に頼まれて宇都宮に買い出しに行ってきたんだけど、さすがに日帰りだときついね。

 本当は荷物もあるから車で行ってしまえれば良かったんだけれど、木炭自動車ってのが登場しているから……。木炭で自動車って動くんだね! 初めて聞いたときは目が点になったよ。
 まだまだ普通の自動車も走ってはいるけれど、早めに自重しようということで黒磯の駅に出るまでを精々の範囲としている。
 自分たち用のガソリンはそれなりの量のストックがあるとはいえ、村で自動車はうちも含めて3台しかないので、注目されていると思う。

「もうすっかり暗くなっちゃいましたね」
 助手席に乗った香織ちゃんも今年で17歳。まだ幼さが残っているものの、だいぶ大人びた表情も見せるようになってきたと思う。

 運転席に座ってエンジンを掛ける。
 ライトを付けて、ゆっくりと車をスタートさせた。初速ローから2速セカンドに、2速セカンドから3速サードに。
 まだ私だとスムーズにギアチェンができなくて、その度に車がガクンと揺れてしまう。でもまあこれにも慣れた。坂道発進だって余裕だよ。

 時間は夜の9時。酔っ払いすらも、もう家に帰ってしまったのだろう。駅前通りも街灯がついているだけで、ほとんど人の通りはない。
 そんな静かな街を通り抜け、田舎道を一路、松守村に向かって走らせる。

 暗い夜道を2つのライトが照らし出している。夜の林道もそうだけれど、こうした農道も何か出てきそうで怖い。
 私の視界の端っこで何かが飛んでいるようだけれど、あれはきっとコウモリだと思う。この時期は夕方になると、あちこちで飛び始めるんだよね。

 しばらくは2人とも無言で、ただ路面の凸凹でこぼこに合わせて車が揺れる音と、エンジンの音だけが流れていく。開けた窓からは夏の夜特有の気だるげなぬるい風が入ってきていた。

 さっきから黙りこくっているけど、疲れて寝ちゃったかな。
 そう思って横をチラリと見ると、香織ちゃんはじいっと前を見ていた。

「もしかして怖い?」
 夜の真っ暗な道だから……。

「いえ。ただ街がすごく賑やかだったなって思って」
「なるほどね。北支事変がはじまったからだろうね」

 7月7日に蘆溝橋ろこうきょうという所で日本軍が夜間訓練をしていたんだけど、そこへ中国側が発砲し、それが元となって軍事衝突となり、その戦火はまたたく間に広がって行った。
 まるでギリギリまで水を湛えていたダムが決壊したかのように。

「喫茶店でもその話題ばっかりでしたね」
「まあね」

 今回のお使いは、あらかじめ注文していた品を宇都宮の三井の支店で受け取るだけだったんだけど、せっかくだから香織ちゃんとブラブラと街を歩いてお店めぐりをしたんだ。
 服や布を扱っているお店では、すでに化学繊維せんいのスフを使った商品が並んでいた。まだ着たことはないけれど、粗悪そあく品と聞いた覚えがある。なんだかガーゼみたいな生地で着心地は悪そうだった。
 喫茶店に入ると、我が日本こそがアジアを植民地から解放するんだとか、皇軍の快進撃をめたたえ、蒋介石しょうかいせき罵倒ばとうする話ばかりが耳に入ってきた。八紘一宇はっこういちう挙国一致きょこくいっちだの、勢いの良い話ばかり。

 思えば、あの2.26事件から時代の変化が早いように感じる。

 満州への大規模な日本人移住計画が発表されたし、日本とドイツの防共協定が結ばれた。
 今年の4月には防空法が制定。『国体乃本義』という本も出版された。
 そして、先日の蘆溝橋ろこうきょうを発端にする北支事変だ。

 燎原りょうげんの火のごとく、もはやすべてを焼き尽くすまでこの戦争は広がって行くだろう。定められた運命歴史のとおりに。

 ぽつりと香織ちゃんがつぶやいた。
「秀雄と、その、もし結婚しても、いずれは支那に行っちゃうのかなって思いまして……」

 そっか。秀雄君も今年で17歳。徴兵ちょうへい検査まであと3年だ。
 おそらく兵営に入っても教練が終わり次第、すぐに中国に行くことになるだろう。そうなれば香織ちゃんは……、一人きりになってしまう。

 確かに不安だよね。

 単なる海外出張じゃないんだよ。爆弾や機銃を持った相手と、命がけで戦いに行くんだ。
 戦死する可能性だって高いと思う。

「気持ちは分かる。私だって、夏樹にいつ召集令状が来るかわからないから」
「あ……、すみません」
「いいのよ」

 そして、ごめんなさい。

 夏樹は戦場に行っても絶対に死ぬことはないの。だから、そういう意味では香織ちゃんとは状況が違う。自分たちがズルをしているようで心苦しいけど。

「もし、このまま戦争になって。もし……、そのまま――」

 ぶつぶつと不安を漏らしはじめた香織ちゃん。

 秀雄君との未来が心配なんだろう。
 好きな人を失うことが、怖いんだろう。

 ――でもね。

「香織ちゃんはその秀雄君が、誰よりも好きなんでしょ?」
「はい」
「一緒になりたいんでしょ?」
「はい」
「香織ちゃん。今はこういう時代なの。でもね。だからこそ。――一緒にいられる時を大切にするべきだと私は思う」
「そう……、ですか」

 人は生まれてくる時代を選べない。
 生まれてくる国を選べない。
 生まれてくる家を選べない。

 だけど、それだからこそ。たとえ短い間だとしても、精一杯の幸せをつかむべきだと私は思う。

 ……ただ、私は永遠の時を夏樹を歩む宿命さだめ。そんなことを言える資格は、ない。

「ですね。奥様と旦那様はそういう感じがします。……そっか」
「私たちは送り出すしかない。ほとんどの人は戦争よりも、とにかく生きて帰ってきて欲しいっていう気持ちだと思うよ。……貴女もってきたでしょ。千人針せんにんばりを」

 駅前に何人もの女性が白いさらしの布を持って、道行く婦人に赤い糸で一針縫ってもらっていた。寅歳とらどしの人は自分の年齢の分を縫い付け、他の人はただ一針だけ。

 虎は千里を行き千里を帰る。

 1000人の女性に縫ってもらった布を腹巻きにすれば、家族のもとに帰ってこられるという。出征家族の、そして人々の祈りの結晶だ。

 道行く女性たちに一針をう女性。

 奥さんか母親か、はたまた妹さんかわからないけれど、どこか思い詰めたような必死な顔が脳裏から離れない。
 励ましを受けて、表情こそ微笑みを浮かべていたけれど、無理をしているのが透けて見えた。

 今の時代、下手なことを言うと非国民と指をさされてしまう。本心では戦争に行って欲しくないと思っても、それを外に出すことはできないんだ。

「はい。……そういえば、奥様も私と一緒で申歳さるどしだったんですね」
「あはは。すごい偶然だよね」

 思い出したように言う香織ちゃん。今年29歳の設定だから、明治41年の申歳さるどし。香織ちゃんは大正9年の生まれで、やはり申歳さるどし
 とはいえ私の場合、本当は違うけど、そんなことは言えないし言う必要もない。

「そっか。奥様と一緒なんだ。私は……」
 そうつぶやいて、また香織ちゃんは黙り込んだ。夏樹も申歳さるどしの設定ですよ。

 自動車は川沿いの道に出た。ここまでくれば村までもうすぐだ。
 山間から流れてくる唯一の川だけど、長い年月で大地を削ったせいか、畑とかのある平野部よりも低い場所を流れているんだよね。

「あ、ホタル……」

 その声にスピードを緩めて、ちらりと川の方を見ると、たしかに小さな光が飛び交っているようだ。
 ……うん。よし。

「ちょっと見ていこっか」
「え? はい」

 そのまま道ばたに車を寄せてエンジンを切る。ライトを消すと途端に真っ暗になった。
 携帯電灯を持って足元を確認しながら土手を降りていく。
 川のそばまで行ってから、危ないから念のために手を繋いで電灯を切る。再びあたりは暗闇に包まれた。

 耳を澄ませば、川のせせらぎが聞こえてくる。その澄んだ水の音に誘われるように、闇の中をぽわり、ぽわりとホタルの光が浮かび上がった。
 7月も下旬だというのに、まだ結構な数のホタルが空を舞うように飛んでいる。この時期だとヘイケボタルだろうか。

「きれいだね」
「はい。本当にきれいです」

 飛び交うホタル。その軌跡が、まるで滑らかな墨のように、漆黒の川面に映り込んでいて美しい。

「知ってる? ホタルってね。卵からかえって、ずっと川の中で幼虫のままで暮らすんだよね」
「はい」
「時期が来るとサナギになって羽化して成虫になる。大人になると、こうやって光りを放ちながら空を舞う」
「はい」
「でもね。成虫になってから、たった一週間くらいしか生きられないんだよ。その短い期間にオスとメスが出会って卵を産むの」
「……はい」
「ほんのわずかな時間しか許されない生命いのちだからこそ、この光が美しく見えるのかもしれないね」
「……」

 ふと一匹のホタルが香織ちゃんの服にとまった。
 ぽわりぽわりとそのお尻が光っている。香織ちゃんはその光をじっと見つめていた。

「後悔しないように、今を大切にしなさい」
「はい」

 そうして私と香織ちゃんは、しばらくホタルを見つめ続けたのだった。


◇◇◇◇
 数日後、私と夏樹は香織ちゃんに相談があると言われ、清玄寺の応接間をお借りしていた。

 目の前には香織ちゃんと、彼女がお付き合いをしている秀雄君が緊張をたたえて座っている。

 実は以前にも何度か会っているので、彼の人となりはそれなりに把握はしていた。
 なかなかの人見知りのようだけれど、香織ちゃんと楽しそうに話をしているところを何度も見ていた。
 日に焼けた顔に青年らしい凜々りりしさが同居している。いつも私たちに会うときは緊張しているようだけれど、今日はいつも以上に緊張しているようだ。

 香織ちゃんに「秀ちゃん」と声を掛けられ、秀雄君が意を決したように、がばっと顔を上げた。

「今日は旦那様と奥様にお願いがあってまいりました。――僕たちが結婚するためにお力添えをいただけないでしょうか」

 私の目には、並んで頭を下げる2人が妙にまぶしく見えた。

 そっか。とうとう決意したんだね。

02承の章 嫁ぎゆく君に乞われて紅ひくに さちあれかしと祈る筆先

「では、夏樹君。一緒に読み合わせをしよう」
「はい」

 俺は自分が書き上げた戸籍抄本こせきしょうほんを持って、村長さんと読み合わせの準備に入る。
 コピーやプリンターのないこの時代。役場で発給する文書は基本的にすべて手書きなのだ。

「暑いねぇ」

 窓の外は、夏の盛りの8月とあって、猛烈な陽射ひざしが大地を照りつけていた。
 たまに風がすうっと入ってくるけれど、役場内はひどい暑さで、誰もが胸もとのボタンを余分に開けてパタパタと仰いでいた。

 2.26事件の鎮圧を見届けて村に帰ってくると、恵海さんから一つの申し出を受けた。村役場に勤務してみませんかと。

 最初はどうしようかと迷ったけれど、春香と相談してその申し出を受けることにした。そのため、日中の畑仕事は春香たちにお任せしてしまっている。
 会計帳簿を管理している春香によれば、年間収支で見ると、今のところはトントンだということだ。

 実は、俺を役場に誘ってくれたのは村長さん自らだった。

 ――村の様子が一番よくわかるのは役場です。給料は安いですが、ぜひ役場に勤めていただけませんかと。

 その言いぶりからして、どうも恵海さんと裏で結託しているような気がした。どうもこの人も、俺たちが人の世の栄枯盛衰を見るために放浪する人外の存在と思っている節がある。

 とはいうものの、役場勤めにまったく興味がなかったわけではない。

 松守村の村役場は、村長、助役、収入役の3役に、俺たち書記3名。それに雑務や使いっ走りをしてくれる使丁していの少年の計7人だ。

 村長は村議会で選出されるが、伝統的に清玄寺の筆頭総代が就任している。助役と収入役、書記は3地区からその都度バランスを取れるように選出しているらしい。
 とすると、俺はさしずめ清玄寺からの選出ということになるのだろうか。

 いざ勤めてみると、今まで経験していなかった事がしょっちゅう起こり、貴重な体験をしていると思う。

 例えば、戸籍は秘匿ひとく扱いじゃないため、誰でも手数料さえ支払えば閲覧が可能だったりする。
 今年も数件の閲覧申請があって、どうも結婚する相手候補の事前調査のようだった。相手の家の不動産や親族関係を知ろうというのだろう。
 事実、その後しばらくして、6月だったか、西郷地区で結婚した夫婦があった。

 ところが、今度は婚姻届こんいんとどけが出てこない。
 同じ村の中のことだから結婚しただのはすぐわかるわけで、どうしたものかと思ったが、その理由を書記の先輩・川津さんが教えてくれた。

 なんでも、結婚してすぐに婚姻届を出してくるところは少ないそうだ。
 どういうことかって思うだろ? どうやら試行期間の意味があるらしいんだ。

 結婚は家と家との結びつき。だからよめ婿むこがその家にふさわしいかどうかを見ると。入籍してしまうと離婚の手続きが煩雑になってしまう。だからすぐには届け出をしないのだそうだ。

 じゃあ提出するタイミングはいつかとなると、どうも新妻が妊娠したのを機会として入籍の話し合いが始まることが多いらしい。
 中には子供の出生届と同時の場合もあるとか。

 驚きだ。

 出生届だって、子供が学校に入る年齢になって初めて届け出を出す親も多いとの話。
 これはまあ、わからないでもない。子供の死亡率は決して低くはないからだ。
 ……でも戸籍に載せなくていいのかと思わないでもないが。

 これには裏話があって、妾さんの子供の場合、戸主が承諾しないと戸籍に入れられない。つまり、戸籍上では存在しない子供となってしまうわけだ。本妻からの圧力もあるそうだし、戸主の権利は強いから。どうにか学校にやりたいと相談に来た人もいたが……。

 近親婚もあるらしく、その場合、通常の婚姻届は受理できない。
 これまた裏話でどうするかというと、同じような境遇の若夫婦などと相談して、戸籍上で交換して婚姻届を出すらしい。

 それって戸籍上の配偶者が現実とは別の人となるわけで、かなり問題はあるように思うが、そうはいっても現実に子供は生まれてくるのでどうにもならない。

 しかも役場としてはその内容が正しいかどうかは確認しないことになっている。
 届出書の要件さえ満たしていたら受理するのだそうだ。
 ……これもまた、複雑な内部事情がある場合に、平穏裏へいおんりに済ませる一つの方法なのかもしれない。

 余計な話が長くなってしまった。
 村長さんが俺の書いた謄写本とうしゃぼんを持ち、俺が戸籍原簿げんぼを読み上げる。
 文字を一つ一つチェックして間違いはないとのこと。無事に承認印をもらうことができた。

「読みやすい字ですね」
「そうですか」
「ガラスペンにも慣れているようで結構なことです」
「ありがとうございます」

 実際は俺の方が年上なんだが、それでも今年63才になる村長さんに言われるとうれしくなる。

「役場の仕事にも慣れましたか?」
「まだ戸惑うことも多いですね。ただ川津先輩も鈴木先輩もいますので」
「そうですか。それはよかった。……今度、点呼召集がありますから、よろしくお願いしますね」

 点呼召集とは毎年8月に在郷軍人が召集され、健康状態の確認などをする行事で、いわば在郷軍人の虫干しみたいなものだ。
 今年は3日後に近くの百村もむらの小学校だったな。村長さんが引率だが、暑い日にこの年齢じゃ大変だろうに……。

 外ではせみが盛んに鳴いている。今年の夏も暑そうだ。


◇◇◇◇
 その日の深夜。
 蔵の中の裸電球の下で、春香とともに半年分の畑の出納帳すいとうちょうをチェックしていた。

 網戸がしてあるとはいえ、開け放った窓から入ってきたが飛んでいる。
 陶器の蚊遣かやりから蚊取り線香の煙が細くのびているけれど、窓を開けている限り、あまり効果は無いようだ。
 ……まあ、どっちにしろ俺たちは刺されないけれどね。

 春香が数字を読み上げ、俺がそろばんをはじく。計算した合計と台帳の金額を照合して間違いがないことを確認する。

「ふぅ」
 すべての確認を終えて2人して手を頭上に伸ばし、かたくなった体をほぐす。首を左右に振って肩のこりもほぐした。

「終わったな」
「うん。今年は余裕があるね」

 後ろに手をついて、だらしなく足を前に伸ばす。春香は台帳の上にひじをついて、組んだ手の上にアゴを乗せていた。

「香織ちゃんたちの様子はどうだ?」
「ん~。みんな毎日が楽しいみたいよ。……ほら、今までは家族の中だけで農作業だったのが、女の子のグループでやってるからさ」
「ああ、学校のノリか」
「そうそう。私も楽しいしね」
「彼女たちのお陰で畑も広くなったしなぁ。奉公期間が終わったらどうするか……」
「お給金を払って来てもらう? ……もうちょっとやり繰りしないと厳しいかもしれないけど」
「そうだな。今度考えてみるか……。何か名産ができると良いんだけど」

 東京に売り込むときに、ご当地ブランドとなっていると買い手がつくからね。

 春香が何かを思い出したように、
「あ、それとね。香織ちゃんなんだけど」
「うん」
「今年で16才でしょ。こっそり教えてくれたんだけどさ。隠れて付き合っている男の子がいるよ。例の相撲の時の秀雄君。……年上かと思ったら同い年ですって」
「ほう」
「色々と相談されちゃった」
「なんて?」
「どうやったら胸が大きくなりますかとか、お2人はどうやって結婚がまとまったんですかとか、親にどう打ち明けたら良いかとか」

 最初が胸かいっ。……まあ、春香は中学1年生の時からバストアップ体操していたからなぁ。「楽しみにしてて」とか言っていた覚えがある。
 視線が自然と春香の胸に行く。それに気がついた春香がフフフと笑い出した。


「それとさ。私思ったんだけど、旅館は無理としても温泉休憩所きゅうけいしょとかなら、やれるんじゃないかな?」
「温泉休憩所?」
「うん。ほら、百村もむらの先の板室いたむろだって温泉あるし、湯本だって温泉がある。このあたりも掘れば出てくると思うんだよね」
「あ~、なるほど。……でもお客が来るかな?」
「そこは売り込み次第だね」

 ふむ。確かに今の人員じゃ旅館は無理だろうが、休憩所か……。確かに温泉があれば入ってはみたい。
 村として掘って、村営として運営できれば一番良いんだが。これは村長さんに相談だね。

「ね。それはそうと、今度温泉に行きたいな」
「ははは。前からそう言っていたな。確かにこっちに来てからまだ行っていないし……。一週間後でも行ってみるか? 近くでも良いだろ?」
「うん。板室でいいよ。……女の子たちも連れて行って良い?」
「そりゃあ、構わないけど……。それじゃ男は俺一人か」
「私と夏樹だけ家族風呂みたいなのないかな?」
「この時代にさすがにそれは……」
「無いかな。お風呂付きの個室ならあるんじゃないかな。それとも……、やっぱ温泉掘る?」

 そう言われると掘りたくなるね。温泉宿は男女別に分かれているところもあれば、こんなに田舎だと混浴のところもある。ただし家族風呂ってのはさすがにないだろう。

 春香の裸体を他の奴に見せたくはないからな。湯着ゆぎだとしても断固として却下だ。水着が許容できるギリギリだな。子供だったら一緒でも良いけど、大人の男は絶対に駄目だ。

 ふむ……。川の上流で神力で掘っておいて、湧き出したのを発見したことにするか……。マズいかな? でも確かに近くに温泉ができるのは魅力だ。

 気がつくと春香がニヤニヤしてこっちを見ていた。
「今度、一緒に川の上流に行ってみる?」

 完全に考えていることが見抜かれているよ。でもうなずいてしまう。
「そうするか」
「それは楽しみ。……ちょっと呑むでしょ? 今すぐに用意してくるね」
「俺も行く」「わかった」

 2人連れ添って蔵の入り口にある台所に向かう。
「すぐさかなを作るからちょっと待ってて」
「じゃあ、先にお酒持って行くよ。……冷酒が良いか?」「そだね」

 春香は野菜の入ったかごからキュウリを取り出し、梅干しの入った壺を棚から下ろしている。
 まきを一本取り出すと、神力であっさり火を点けてかまどに放り込み、小鍋に水を張って載せた。鶏のささみ肉を取り出したから、きっと茹でたささみを細かく刻んで梅肉とえるんだろう。

 俺は食器棚から冷酒用の江戸切り子の酒器を取り出し、お盆に載せて一足先に居間に戻った。
 机の上の台帳を片づけてお盆を置き、四次元ポケットならぬ神力収納から純米大吟醸の『仙禽せんきん』を取り出した。宇都宮で購入したお酒で、まだ飲んだことが無いお酒だ。
 切り子の徳利に入れて、そのまま神力で冷やしてしまう。こういうところは神さま特権だな。

 窓の外を見ると、黒々とした林の影の上に星が輝いていた。今日はいい夜だ。

 ふとなんとなくラジオを付けた。12時近くになるけれど、何かやってないだろうか。周波数を合わせていると、ジジジーという砂嵐の音から急にアナウンサーの声に切り替わった。
 これでよし。……どうやら今のドイツで開催されているオリンピックの中継をしているようだ。

 そのまま何となく聞いていると、小鉢を持った春香がやって来た。予想通りキュウリとささみの梅和うめあえ。それに枝豆が載っていた。

「おまちどおさま」
 そう言って並んで座る春香。さっそく、お猪口ちょこを持たせていでやる。俺も春香に注いでもらって2人で乾杯をした。「お疲れ~」

 お猪口に口をつけると、冷えたお酒が喉を通っていく。どこかリンゴを思わせるフルーティな酸味。自然と口角が上がる。うまい。

 見ると春香も純粋にニコリと笑みを浮かべて味わっていた。
 俺が見ているのに気がつくと、
「これ。おいしいね」
「また買ってくるよ」
「うん。ぜひ」
 春香ははしで梅和えを取ると、こっちを向いた。
「はい。あ~ん」
 苦笑いをしながら口を開ける。キュウリ、ささみ、梅和えのコラボ、旨くないわけがない。またこの華やかなお酒によく合っている。
「うまい」と言いながら、俺も梅和えを箸で取って春香に、「あ~ん」としてやった。

 満足げに咀嚼そしゃくしている春香。そうしてしばらく飲んでいると、お酒が回ってきたせいか、電球の明かりに照らされた春香の首もとが、妙になまめかしく見えてしまう。
 誤魔化すわけじゃないけど、団扇うちわを取ってあおぎながらお猪口をあおった。

 その時、ラジオから聞こえるアナウンサーの声に、2人同時に顔を上げる。
「そのまま切らずに待ってください。スイッチを切らないでください」

 時刻はまもなく深夜12時となる。どうやら競泳の決勝戦のようだ。日本からは前畑秀子選手が決勝に進んでいるらしい。

 ホイッスルが鳴り、選手が一斉に飛び込んだ。
 ドイツのゲネンゲルと、前畑さん、オランダのワールベルグ、イギリスのストレーの勝負。
 第一ターンはイギリスのストレー。前畑さんは2位につけている。

「前畑、ゲネンゲル2人が出ました。イギリスは遅れました。イギリスは遅れました。
 わずかにひとき、ひとき我が前畑じょうはリードしております」

 夜のしじまに、ただラジオの声だけが聞こえる。

「まさに大接戦。火の出るような大接戦。まことに心配でございます心配でございます。ゲネンゲルも強豪、つづいております。
 我が前畑わずかにリード。わずかにリード」

 どうやら他の選手を引き離し、前畑さんとゲネンゲル、2人の勝負となりつつあるようだ。アナウンサーの声が次第に緊迫していく。


「前畑あと10メートルで150。わずかにひときリード。前畑がんばれ! 前畑がんばれ!
 あと2メートルでターン。あと2メートルでターン。ターンしましたターンしました!ただ今ターンしました。ひときわずかにリード。前畑がんばれ! 前畑がんばれ! がんばれ! がんばれ!」

 気がつくとあおいでいた手も止まり、俺も春香もラジオをじっと見つめ、拳を握っている。声が熱を帯びていく。興奮が伝わってくる。

「あと40、あと40、あと40、あと40。
 前畑リード、前畑リード、ゲネンゲルも出ております! ほんのわずか、ほんのわずかにリード、前畑わずかにリード! がんばれ! 前畑がんばれ! がんばれ! がんばれ!
 あと25、あと25、あと25。わずかにリード、わずかにリード。わずかにリード 前畑! 前畑がんばれ! がんばれ! がんばれ! ゲネンゲルも出ておりますっ。
 がんばれ! がんばれ! がんばれ、がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ、がんばれ!
 前畑っ、前畑リードっ、前畑リードっ、前畑リードしておりますっ、前畑リードっ、前畑がんばれ! 前畑がんばれっ
 あと5メートルっ、あと5メートルっ、あと4メートル、3メートル、2メートル、ああっ、前畑リードっ。
 ――勝った! 勝った! 勝った、勝った! 勝った、勝った! ……前畑勝った! 前畑勝った!」

 開けている窓の外から、人々の興奮した声が聞こえた。「うおおぉぉぉ。やったぁぁっ」「万歳! 前畑! ばんざぁい!」

 同じラジオを聞いていたんだろう。興奮のあまりに家から飛び出している人もいるようだ。

 俺はふうぅと長く息をき、肩の力を抜いた。金メダル。それも日本人女性初の。テレビがないのが残念だ。

「こうして平和が続くといいのにね」
 ぽつりと春香がつぶやいた。
「確かにな……」

 東京日日新聞によれば、5月に斎藤隆夫さいとうたかお議員が、今までのクーデター事件に対し、事件を闇から闇に葬り去り続けた結果、悪化し続けたと軍部を批判した。
 この批判に日日新聞は讃辞を送っていて、久方ひさかたぶりにまっとうな記事を見た思いをした。

 けれどその10日ほど後に、陸海軍大臣は現役武官が就くことに決まった。
 おそらく、2.26事件を受けて現役から予備役になった、皇道派の真崎大将たちの復権を拒むつもりなのだろう。

 しかし同時に政府の命運を軍部が握ることとなる。気にくわない内閣なら、武官を派遣しなければ、組閣そかくすらできずに次の内閣になってしまうのだ。
 ……果たして今の首相は、それに気がついているのだろうか。

 在郷軍人会の福田さんが言うには、大幅な軍備増強の動きがあるらしいし。

「夏樹」
 名前を呼ばれて顔を上げると、いつの間にか近寄っていた春香が、心配そうな顔で俺をのぞき込んでいた。

「大丈夫だよ」
 安心させるようにそう言ったが、うまく微笑めていただろうか。俺には自信が無かった。

02承の章 嫁ぎゆく君に乞われて紅ひくに さちあれかしと祈る筆先

 ドサッという音で目を覚ました。
 2月ということもあって、部屋の空気は寒いなんてものじゃない。おそらく先ほどの音は屋根から雪が落ちる音だろう。

 俺に抱きついている春香が、急に頭をぐりぐりと動かした。乱れた髪が俺の首筋をくすぐってくる。
 蒲団ふとんのなかをのぞくと、幸せそうな春香の寝顔があった。ふわっと彼女の匂いがする。厚手の寝間着ねまきごしではあるけれど、押し当てられた胸の感触に思わず俺も幸せな気分になった。
 Fカップある彼女の胸は中学生の頃からバストアップ体操をしていた努力の成果だ。目的はもちろん俺に好かれるようにだったそうだが、きっと他の女子に視線が行かないようにという作戦もあったんだろうなって思ってる。

 今日からしばらく東京に出るということもあって、昨日は特に甘えていたと思う。お互いに。

 春香はよく「私もあなたを守りたい」って言っているけれど、俺にとってはこうして一緒にいること。傍にいて、そのぬくもりを感じることが喜びだし、そこに春香がいるという事実そのもの、その実在が俺を幸せな気持ちにさせてくれるんだ。
 だいたい、この幸せを守りたいと思うのは当然だろう。結局、俺は常に彼女に守られているんだと思う。

 そもそも霊水アムリタを俺が飲んだのは、かつて手を離して無くしてしまった春香と、再びやり直したいと思ったからだ。たとえその結果、人から神になったとしても。
 もし再び巡り会えた彼女が俺を受け入れてくれなければ、この広い世界を俺は一人でさまよい歩くことになっただろう。果てしない孤独の旅に。
 けれど彼女は俺を受け入れてくれた。同じようにアムリタを飲んで俺の眷属となることを望んでくれたんだ。

 まだ夢の世界にいる春香。その額にそっと口づけをして、起こさないように気をつけながら俺は蒲団から抜け出た。

 あれから2年が経ち、村での生活も3年目に入ろうとしている。
 今日は昭和11年の2月23日。久しぶりに松本さんに会うために、これから東京に向かう列車に乗らなければならない。

 一年で一番冷える大寒だいかんが過ぎたけれど、底冷えのする寒さが続いていた。できれば早めに松守村に帰りたいが、想定ではそうもいかないだろう。

「あれぇ……。夏樹……。どこいった?」
 背後から寝ぼけた声が聞こえてきた。いつもなんだけど、不思議と俺が蒲団から出るとわかるらしい。掛け布団からぴょこんと出した寝ぼけ顔があいらしい。あのぼわっとしている寝ぐせがいとおしい。
 ……まあ、相手にベタ甘なのは俺も同じっていうことだな。

 ともあれ、俺は朝ご飯を食べて済ませて清玄寺を出発。春香の見送りを受けて、黒磯駅から東北本線に乗った。
 列車の中はそれなりの人が乗っているとはいえ、この時期はそれなりに冷える。春香の編んでくれたニットの帽子とマフラーが温かかった。

 すっかり曇ってしまっている窓を手でぬぐう。流れていく外の景色。今年は50年に一度の大雪ともあって、林や畑には分厚い雪が積もっている。遠くに見える関東山地の山々も白く染まっていた。

 あの夏祭りからの事を少し話そう。

 昭和8年の秋に俺は春香と出かけ、村から20キロメートルほど東の山中に向かった。そこの山の一画に、火山性ガスが吹き出して岩場となっている場所があって、そこが目的地、世に殺生石と呼ばれているところだ。

 実は江戸の昔からそこに、人々の伝承から生まれた土地神の九尾の狐がいるのだ。もちろん人の目には見えないけれども。
 再会の挨拶をしたときに次の年は冷害となると聞き、戻った俺たちはすぐに松本さんを通して余剰分のお米を買い取り、古米として保管しておいた。

 さすがは土地神。案の定、昭和9年は再び東北は冷害の年となり、かつてと同じく農家は食べるものに困り、娘の身売りが行われる年となってしまった。

 畑作をして2年目に過ぎなかったが、幸いに俺たちの畑では冷夏にもかかわらず作物が例年通りに成長して想定通りの収穫をすることができた。……無意識下で何らかの力が働いているんだと思う。
 それにたまに春香と2人で山に入って、鹿や猪を狩って燻製肉くんせいにくを作ったりもしたから、自分たちが食べる分にはまったく困らなかった。

 けれども松守村ではそうもいかず、俺たちは保管していた古米を清玄寺を通して放出した。それでも借金の申し込みがあり、結局、身売りする娘さんを4人も引き取ることとなってしまった。
 今年で奉公期間が終わる香織ちゃんも入れて、今や合計5人である。

 ただこれだけ人がいれば畑を広げることができる。そんなわけで全員で作物を植え付けた結果、ジャガイモやカボチャなどはかなりの収穫となった。食べる分以外は三井の物流網に流してしまったが、収支的にはややマイナスといったところかな。
 たまに帳簿を見ながら、春香がパチパチとそろばんを弾いている。

 女の子を引き取ったこともあって、また青年団での活動に参加するようになったためか、それなりに村にも融け込んで行けていると思う。

 ともあれ、あの古米に随分と助けられたわけで、格安で流してくれた先輩にお礼を言うとともに東京の状況を見に行くのが、今回の東京行きの目的だ。予定では10日間ほどは東京にいることになると思う。


◇◇◇◇
 上野駅に着いたのは、すでに夕方で暗くなっている時間だった。
 地下の車寄せから外に出ると、街には雪が積もっていてまるで別世界のように見えた。
 タクシーに乗り込んで、滞在予定の日本橋の八洲ヤシマホテルに向かってもらう。3年ぶりの東京。ネオンの明かりがどこか懐かしい。

 そのままチェックインを済ませて、その日は早めに休むことにした。そして、翌日、あらかじめ連絡していた時間に合わせて、三井本館に向かう。
 かつての職場に入ると、たちまちにデジャブに襲われる。まだ警備員も受付も顔見知りの人たちだ。
 簡単に挨拶を交わして松本先輩を呼び出してもらった。

 再会した先輩は3年前より貫禄がついていたが、2人きりで話ができるようにと応接室に案内してくれた。

「どうだい? 久しぶりの職場は」
「懐かしいですね。……自家製のものですけどお土産にどうぞ」

 俺は手作りの沢庵たくあんと野菜の味噌漬みそづけ、それと鹿肉のジャーキーを取り出した。

「おう。こりゃまたさかなに良さそうだね。ありがとう」
「自家製だから販売するほど量はないですからね」
「ははは。それがいいんじゃないか」

 好みがあるかも知れないけれど、味は俺が保証しよう。

 女性事務員が珈琲を出して部屋から出て行こうとする。その背中に先輩は、
「悪いが、次に声を掛けるまで、誰もこの部屋には入れないでくれ」
と言った。女性はわかりましたと返事をして一礼をしていく。

 それを見届けて、俺はまず古米の件のお礼を言った。すると先輩は「いいって」といいながら灰皿をテーブルに出した。
 ポケットから煙草を取り出して自ら一本取り、俺に向かって差し出そうとして、
「そういえば煙草はやらないんだったな」
「一本いただきますよ」
と言うと、ほれと言うように差し出される。一本いただいて互いに火を点け、煙をくゆらせた。

 もちろん、普段は煙草なんてやらない。ただこういうお付き合いで吸うときがたまにあるくらいだ。

「まあ、なんだ。やっぱり君がいなくなったのを惜しいと思ったな。正直に言うと」
「急にどうしたんです?」
「なにしろ君のお陰で、あの村はこのまえの凶作も大丈夫だったろ」
「ああ、まあ、そうですが……」

 先輩はふぅぅと煙を出した。
「……夏樹君は不思議な奴だよ。まったく」
とつぶやいた。
 そして、煙草をぐりぐりと灰皿に押しつけて火を消し、珈琲を一口飲んだ。俺もそれにならう。

「君がいなくなってから、かなり世の中は変わったよ」

 そういって今、政府や軍部の中央がどうなっているのかを教えてくれた。

 俺たちが松守村に行った昭和8年。
 日本は国際連盟を脱退し、ドイツではヒトラーが首相になった。

 例の犬養首相が射殺された五・一五事件の裁判が始まり、彼らの主張が報道された。
 彼らは現在の社会は腐敗堕落ふはいだらくの極みにあり、その原因が支配階級にあるとし、政党は政道を省みずに互いに党争に注力して賄賂事件などを起こし、その背後にある財閥ざいばつも同罪であると。

 農村の窮乏きゅうぼう、中商工業や漁民の困窮こんきゅうを述べて、これを救うためには一君万民の政治と国民の大覚醒を求めるほかにないと言い切り、死に臨んだ犬養首相をめて大罪を犯した自らは極刑にふさわしいと結んだという。

 冷静に見れば裁判を利用した戦術ともいえるが、この主張は人々の胸を打った。全国から嘆願書が続々と届いたらしい。

「しかしだ。クーデターの連鎖は終わらなかった。その年の7月に明治神宮で、11月で川越でそれぞれ露見している」

 そこまで話した先輩は何かを思い出したようで、急に身を乗り出した。
「そういえば君は歩兵第一連隊だったな。……栗原という男を知っているか?」
「はい。連隊の旗手をされていました」
「そうか」

 それっきり先輩はしばし黙り込んだ。
「先輩?」
「君は今の社会をどう思う? この非常時にあって国家改造をせねばならないと思うか?」
「……なるほど」
 俺の経歴から思想に影響がないか疑っているのか。もちろん、そんなことはありえない。

「俺は彼らに同調するつもりもなければ、自ら物事を動かすつもりはないですよ」
 まっすぐに目を見てそう言い返すと、先輩は苦笑して頭をががぁっと掻いた。
「それもそうか。あんな田舎に引っ込んだわけだしな」

 そもそも俺がいた時には、そんな思想を持った人は誰もいなかったと思う。おそらく俺が除隊した後に何かあったんじゃないか。

「ただ、あの時」
「あの時?」
「ええ。一度、東条連隊長殿から幹部候補生の推薦があった場合、それを受けるかどうか尋ねられたことがあって、もしあれを受けていたら今ごろはどうなっていたことか」
「……そうか」
「まあ、家内から離れる期間が長くなるんで、きっぱり断りましたがね」
「はははは。そうか。夏樹君はそういう奴だったな。そういえば。……だがいいタイミングで除隊になったかもしれないね」

 ただほとんどの人が、今の日本は行き詰まっていると考えている。そして、やれ政治機構を改造せねばならないとか、教育機構を改造しなければならない。あれを改造、これを改造と、改造説が巷にあふれかえっているのも事実だ。

 その後、先輩が内緒の情報だと教えてくれたのは軍部の動きだった。

 驚くべきことに、俺が除隊した次の年である昭和6年。3月と10月に陸軍内でクーデターの動きが早くもあったらしい。

 当時の陸軍大臣宇垣うがき一成氏または荒木貞夫中将を首班とする内閣、与野党と軍部と提携した挙国一致内閣の確立をもくろんでいたらしい。

 もともと天皇陛下のもとで政治は内閣が、軍事が軍部が取り仕切ってきた。

 軍部にとっては軍事統帥とうすい権を陛下からお預かりしているという認識だったらしいが、当時の政府は諸外国との協調外交を方針としていたため、ロンドンで海軍軍縮条約を結ばれてしまう。軍部では、これを統帥権の侵害と見做したわけだ。

 さらに満州事変への対応が国内からは弱腰に見えたわけで、軍部内に政府への不満が高まっていたことは確かだろう。

 この3月事件、10月事件は未遂に終わったが、それに農村の凶作や不況による失業者の増大が加わり、井上の血盟団、五・一五事件に発展したという。

 その後、結局政権が交代し、荒木陸軍大臣が誕生した。荒木大臣は急進派に人望の厚い真崎大将を参謀次長にして要所を押さえ、逆に宇垣一派を中央から駆逐したらしい。
 この急進派は皇道こうどう派と呼ばれているという。

「あの年は、裁判所の判事まで赤化共産化していたことがわかって大変な騒ぎになったろ?」
「ああ、そういえばそうでした」
の方はあれからほとんど下火だな。小林多喜二の拷問死も影響しているだろう」
「特高の……」
 かなりひどい拷問だったと聞く。

「そうだ。だがあれから時を同じくして、今度は右翼側というか……。ほら、陸軍でパンフレットを出したろう」
「2年前ですね。国家総動員体制の奴で」
「そうそう。それだ」

 荒木陸軍大臣が体調上の理由で退き、後継の林陸軍大臣となったが、その補佐として永田鉄山氏がなったんだ。去年昭和10年、殺されてしまったけれど。
 この林・永田コンビで出されたパンフレットで新聞にも掲載された。

 かつては戦争は武力と武力の戦いとされていたけれど、このパンフレットでは武力だけでなく生産力や経済力などすべてを統制することが説かれていた。
 確実に太平洋戦争につながる内容で危機感を覚えた記憶がある。

 ただあれは……。
「批判も多かったがな。軍が政治介入することを公言したんだから」
「それでもクーデターよりは、まだパンフレットの方がいいですがね」
「ははは。それもそうだ」

 松本先輩は立ち上がり、窓から外を眺めた。そのままの姿勢で、
「去年は天皇機関説の批判が起きた。もう30年以上前から主張して受け入れられてきていたのにな」

 憲法学の見地から、美濃部みのべ達吉博士が主張したことだ。

 たしか憲法に規定されている天皇大権とは、天皇陛下の御一身のわたくしの行為としてではなく、国家の行為として効力を発揮するという説だったはずだ。
 あれは立憲政治の法律解釈からすれば、そのようにならざるを得ないだろう。でなければ、支配者が誰かという違いだけで、結局は前近代の封建社会に逆戻りしてしまう。

 昨年2月の新聞で美濃部博士は一身上の弁明を掲載し、俺の目にはさして問題ないように見えた。
 しかし、世間ではそうでないようで、あれから機関説への排撃はいげき運動が展開され、国体というものを明らかにしようという運動が起きている。
 徳富蘇峰とくとみそほうなんかは美濃部氏の著作を読んでいないと前置きをして、強烈な批判を続けているが、あれはおかしい。批判をするなら相手の著作を読んでするべきだ。

 ただあれから西欧思想に対する日本思想とか、日本精神という言葉が目に付くようになってきた。

「あの排撃運動は影響が大きいな。特に軍部では真崎教育総監が機関説排撃を全軍に指示をしたことが、どうもあちこちを刺激したようだ。噂では閑院宮かんいんのみやも動かれたという話だ」
「ああ、それで教育総監を罷免に……」
「だがそれを外で口にするなよ。危険だ」
「それはわかっています」
「永田軍務局長はそれが理由で殺されたからな。……どこにどんな目があるか分からないんだ」

 あれから真崎派というか皇道派が怪文書をばらまいている。それは俺の手元にも届いた。統帥権干犯だというんだ。軍部の動きに不案内な俺には、何がどうなっているのか判断はできなかったが……。

「林・永田ラインに対する皇道派の反撃だろう。……いや、犯人は怪文書に踊らされた哀れな男と言えるかもしれないが」
「そうですか」
「その裁判がようやく始まったばかりだが、まだまだ怪文書が飛び回っているようだから、夏樹君も踊らされないように注意した方がいい」
「はい。……気をつけます」

 俺たちが松守村で暮らしている間に、こんなにも色んな事件が起きていたのか……。
 残念ながら新聞だけではわからないことも、報道されないことも多く、やはり田舎に住んでいると情報にうとくなってしまうようだ。
 ただその分、春香の身の安全はしっかりと守れるだろうから後悔はない。


 振り返った先輩がニィッと笑う。右手の親指を立てて、くいっと外を指す。
「じゃあ今晩は俺のおごりだ。銀座の鳴門にふぐを食べに行こうぜ」
「はい。ごちになります!」

 こんな時代に高級料理かよって思うかもしれないけど、実はこの時代はまだ庶民の食べ物的な位置づけだったりする。
 俺も先輩も、そんなランク付けより味優先だから関係ないけどね。この憂うつな気分を、酒で洗い流そうじゃないか。


◇◇◇◇
 先日来、降り続いていた雪が止んでいた。けれど吹き抜ける風は妙に冷たい。

 どういうわけか雪があると、たとえ東京であっても夜は静寂に包まれてしまう。
 風の音すらも雪が吸収してしまっているかのようで、この静けさがどこか不気味だ。

 今日は26日。
 時計を確認すると、今は午前4時30分。
 日の出はまだ先。暗闇が支配する時間。

 今、俺は虎ノ門近くの路地に潜んでいる。
 先ほどから遠くで騒然とした空気が伝わってきていた。……そう。俺の所属していた歩兵第一連隊の方角だ。

 そのまま外堀通りの西側を見ていると、やがて小銃を持った部隊が行軍してきた。
 俺には気がつかないままに彼らは2手に分かれ、1隊は首相官邸の方へ、1隊は六本木通りを宮城の方へと進んでいった。
 多いな。総勢800名ほどだろうか。

「――始まったか」

 銃声が聞こえだした。俺はそっと目を閉じる。

 離れたところを見る能力、天眼で官邸をのぞくと、暗い建物の中を兵士たちが歩いているところだった。
 警官との銃撃戦……、そして、中庭で一人の老人が撃たれた。けれど老人はまだ生きている。ずりながら壁により掛かるように正座をしている。
 そこへ兵士たちが近づいていったが、一定距離からは近づかずに今は遠巻きに見ている。すぐに一人の将校が何かを命じると、命じられた兵卒が2発の銃弾を撃ち込んでトドメを刺した。

 一団は老人の遺体を屋内に運んでいく。そして、壁に掛けられていた写真と照らし合わせ、身元を確認したのだろう。万歳をした後に乾杯をしていた。


 天眼を切り、肉眼を開く。

 ――いよいよ暗黒時代が始まる。

 不意に風にまぎれて粉雪がふりはじめた。哀しげに舞い散る。暗闇の東京に。

02承の章 嫁ぎゆく君に乞われて紅ひくに さちあれかしと祈る筆先

 松守村での暮らしが始まってから、早や3ヶ月が経とうとしている。季節は春から夏に変わり、今日はお盆の7月15日だ。

 引っ越ししてすぐのバタバタとした日常もようやく落ちついて、最近は村の中に出かけるようにしている。少しでもコミュニティに融け込んでいけるように。
 普段は何をしているかっていうと、夏樹の退職金で土地を購入し、野菜や果物を育てて暮らしている。

 かつてはもう少し人がいたこの村も、都会に出て行く人もいて村民が少し減っているらしい。そうした人たちの持っていた畑や未耕作地を購入していったところ、2町2ヘクタールもの広さになった。
 さすがに2人では管理しきれない広さなので、当面の耕作地を5反50アールに制限して、香織ちゃんと3人でどうにかやりくりをしていた。

 残念ながら、水のとぼしいこの地域の事情もあって水田とはいかなかった。また後にこの地方は酪農が有名になるけれど、まだ手を付けている人はいないようだった。そのため酪農も断念せざるを得ない。歴史の改変はできるだけ避けたいから。
 ……ただ自分たち用にと乳牛2頭と山羊を3頭手配している。牧草地とする場所の選定もおえて、地主さんから購入済み。目処が立ったら柵を作ったりする予定だ。

 作っている野菜は、とりあえず枝豆のほかにカボチャ、サツマイモ、トウモロコシ、大根なんかの野菜と、いずれ果樹園にするつもりの区画ではリンゴや梨、ブルーベリーなどの苗を植えている。

 あまり色々と育てると多種目少量の収穫量となってしまい、流通に載せるのが難しくなる。そこで出荷用と自宅用とで分けて区画割りをしてみた。
 もっとも今年は試験栽培が主なので、食べる分が収穫できればいいと判断している。あとは温室も作る予定と、……こうして考えてみるとまだまだやることがあるね。


 さてそれはともかく。――今晩はお盆の夏祭り。
 1年のうち、正月と並ぶ大イベントの日だ。

 数日前から清玄寺の広場にやぐらが建てられ、地区の青年団が屋台なんかも準備している。夏の収穫祭の意味もあって、かなり盛大になりそうでワクワクしている。

 普段は私たちと一緒の香織ちゃんにも、お盆の期間はお小遣いを渡して実家に帰らせた。所謂お盆休み。というわけで、今の時期は2人暮らしなのです。

 外から太鼓の音が聞こえる。人々の歌う声や笑う声が混じっていた。
 その雰囲気に気がくけれど、まだ祭りは始まったばかりだろう。

 電球の下で姿見すがたみを見ながら浴衣の帯を締める。
 朝顔の柄の浴衣に紺色の帯。公称25歳のまだ若い時分だからまだこの柄でも大丈夫だよね。髪を洋風に巻き上げて、かんざしを挿した。
 後ろで待っている夏樹はかつての七夕の時と同じく市松模様の浴衣だ。手には団扇うちわを持っている。襟元えりもとから見える首もとの鎖骨に、エロスを感じるのは私だけだろうか。

「どう?」
 夏樹に尋ねると、ぐっと寄ってきて私の腰に手を回してきた。
「色っぽいな。すごく。うなじなんて特に」
「えへへ。2人でお祭りなんて久し振りだもんね」
 真っ正面から見つめられるとちょっと恥ずかしい。

 夏樹の背中に手を回してつま先を伸ばし、そっと唇を伸ばす。夏樹も優しく微笑みながら私の背中を支え、そっと唇を重ねてくれた。

 ぶっちゃけ、私はキスが大好きだ。
 唇と唇を重ねる、あの柔らかい感触が好き。長く重ね合って息づかいを感じるのも、より夏樹を求めるように、深く長く、思いを絡み合わせるようなキスも大好きだ。

 ちなみに今の夏樹は、今日の祭りでワクワクしているのが半分、そして私の浴衣にちょっと興奮しているのが半分といったところかな。

 身体を離して見つめ合う。

「……じゃあ、行くか」「うん」

 キスで上機嫌になった私は、左手に巾着を持って、右手の指を夏樹の指と絡め合うように手を繋いだ。
 電灯の明かりを落として蔵の玄関に向かう。真っ暗になってしまうけれど、私たちの神眼にははっきりと周りが見えるから大丈夫。提灯ちょうちんは外に出てから明かりをともせばいいだろう。

 引き戸を開けると、途端に夜の暗がりの中を人々の喧噪けんそうが響いて、にぎやかな祭りの空気が伝わってくる。

「太郎の勝ちぃ!」

 行事の名乗りの後で、わあぁぁぁという歓声が聞こえる。

 そう。江戸の昔から、お盆のお祭りでは相撲大会をやるのだ。
 男たちにとってはいいところをみせるチャンスとあって、意気込みは相当のものなんだよね。

 夏樹が蔵の鉄扉を閉めている間に、私は提灯ちょうちんのロウソクに火をともした。夏樹がその提灯を持って足元を照らす。その横を手をつないで歩いて行いた。

 薄暗い道。庫裡くりの玄関から先は、境内けいだいの木々に色とりどりの飾り提灯がるされている。その向こうが明るくなっていて、祭り会場となっている。

 昼間の熱気がまだ残っていて、それがまた祭り気分を盛り上げてくれる。
 ゆっくりと喧騒に向かって歩く。この雰囲気が、妙に心をうわつかせる。鼓動こどうが早くなっていく。

 本堂の脇を抜けると、そこはもう会場の入り口だった。中央にはやぐらがあって、その手前に土俵どひょうがこしらえてあった。
 数日前から男衆おとこしゅうが作っていた土俵だけれど、その上で今も熱戦がり広げられている。

 土俵とやぐらとの間には本部テントが張ってあって、恵海さんや筆頭総代の村長さん、村にある3つの地区の地区長さんなどが観戦しているようだ。

 まわりの屋台とはいっても、さほど大がかりなものがあるわけではない。それぞれの地区の青年団が出している屋台だ。
 お酒、ビール、ラムネのコーナーが一番人気で、次が炭火コンロを利用した焼き串や飴玉かな? だれがやっているのか、どんどん焼きの屋台まである。
 割り箸を挿したキュウリの一本漬け、五平餅、トウモロコシもあって松守村らしいと思う。

 村中の人たちが集まっていて、結構な人混みだ。家族連れ、年配のお爺さん同士が集まってタバコを吸っている。
「まずはビールを持って恵海さんに挨拶に行こうか?」
「差し入れもね」
「じゃあ、焼き鳥でも持って行くか」
 いいんじゃないかな。肉食禁止ってわけじゃないし。ここの宗旨は。

 さっそく屋台で自分たちの分も含めてビールと焼き鳥を買う。お盆に載せて、土俵を横目に回り込んでテントに向かった。

「どうも。盛大ですね」
 夏樹が恵海さんに声を掛けると、恵海さんはニカッと笑った。
「御仏使様。ぜひ楽しんでいってください」
 ……この人、いくら言っても、ふとしたときに御仏使様って呼ぶんだよね。

「はい。これ差し入れです」
 私はそう言って、恵海さんや村長さんたちにビールを配った。焼き鳥は紙皿のままでテーブルの上に置いておく。

「奥さん。ありがとう」
 声を掛けてくれたのは在郷軍人会会長の福田さんだ。一礼して、
「いつも主人がお世話になってます」
「あ、こりゃどうも」
とどこか照れたように頭を掻いた。こういうところは田舎の人らしいよね。ふふふ。

 他にも駐在さんにも挨拶をする。制服姿だけど、ビールで良いのかな? ちょっと思ったけど構わずに渡すと受け取ってくれた。

 恵海さんからは、
「御仏使様も座られてはいかがです」
と言われたけれど、私たちはもうちょっと会場を歩きたい。
 丁寧に辞してテントを離れようとしたとき、視界の端に香織ちゃんの姿が入った。
 見ると兄弟にはさまれながら、一緒になって土俵に声援を送っている。

「秀雄ぉ。がんばれーっ。根古ねこの奴なんか投げ飛ばしてっ」

 根古っていうのは地区の名前。他に中畑なかはた西郷にしごうとあって、香織ちゃんは中畑地区だ。きっと土俵の上の男の子は同じ中畑地区なので、ああして応援しているんだろう。

 相撲すもうは年齢順で、子供の部、青年の部、壮年の部となっている。
 今は青年の部のようで、どうやら香織ちゃんの応援している秀雄君は15才くらい。対戦相手はもうちょっと上の大学生くらいだ。
 体つきはやはり相手の方が良さそう。
 ここからでは秀雄君の背中しか見えないけれど、普段は農作業をしているのだろう。年齢の割には、それなりに引き締まって見える。

 行事をしている神主さん、この人も清玄寺の総代、が名前を呼んだ。
「ひがーしぃ、根古、達郎くん。にーしぃ、中畑、秀雄くん」

 両選手が手にした塩をいて土俵に入る。両陣営から声援がかかる。けれどその声を意に介さないかのように互いを見つめる2人。真剣なやる気が伝わってきた。

 強い照明に2人の若い肉体が照らされている。中央で対面し、身体をかがめ、両の拳を下げていく。緊張が高まっていく。

「見合って見合って、……はっけよい、のこった!」

 次の瞬間、組み付こうと立ち上がった秀雄君に、達郎君の張り手が次々に決まる。「きたねえぞ」とヤジが出た。

 突進の勢いを殺され、それでも秀雄君は張り手を返しながら組み付こうとジリジリと前に出る。顔が歪んでいるが、一歩も引かない。
 バシバシっと筋肉と打つ音。打たれて赤くなっていくお互いのからだ。

 ふっと一瞬の隙をついて、秀雄君が頭を低くしてガシッと組み付いた。左手が相手の回しをがっしりつかんでいる。
 相手もすぐに秀雄君の回しに腕を伸ばした。さすがに体格の違いがあるから、簡単にまわしを取られてしまうが、秀雄君の右手もがっしりとつかんでいた。

 がっぷり四つに組んで、いよいよこれからが本当の勝負だ。

「いけー! 秀雄!」
 香織ちゃんは必死に声援を送っている。
 一緒にいるときは少し大人びて見えるときもあるけれど、今の横顔を見ていると年頃の女の子そのものだ。

 土俵上の二人は力を入れながらも、タイミングを計っているようだ。
 先に仕掛けたのは達郎君だ。足をがっと掛け、秀雄君を投げようと身体をよじる。
 秀雄君はすばやい足裁きで相手の足をかわした。しかし、その姿勢を崩したところを達郎君に押され、見る見るうちに土俵際に追い詰められていく。
 苦々しげな表情。でもまだ目は諦めていない。

「達郎。やれ!」「秀雄ー、負けるな!」

 土俵際で踏ん張っている秀雄君。達郎君も最後の押し出しができないでいる。必死の攻防に二人の顔が赤くなっていた。
 不意に秀雄君がくるっと回って、達郎君を投げにかかった。力のベクトルを流しつつも、達郎君も土俵際で堪える。そこを秀雄君が押し出した。堪えようとする達郎君だが、抗しきれずに一歩、足を外に踏み出してしまう。

「やったー! 秀雄! やったー!」
 香織ちゃんがすごい興奮して飛び跳ねている。

 最後に、秀雄君が達郎君に手を差し出して握手をした。互いに礼をして、達郎君が土俵から下がっていく。

 行事から勝ち名乗りを受けてから、秀雄君も土俵から降りていった。降り際に香織ちゃんの方を見てガッツポーズを取っていたのが印象的だ。

 ……ふふふ。これは何か匂いますな。恋の香りが漂っているような。

 どうやら地区対抗だけあって、相撲大会はかなり盛り上がっているようだ。

 次の選手が土俵のそばに進んできたところで、不意に私のお腹が鳴る。「あ」と声が漏れた瞬間、今度は夏樹のお腹が鳴った。
 互いに顔を見合わせ、
「何か食べるか」「うん。そだね」
と意見が一致。私たちは土俵から離れて屋台めぐりに向かった。

 屋台で料理を作ったりしながら話し合っている男女。買い食いをしながらおしゃべりしている子供たち。
 年配の人も思い思いに過ごしていて、なかなかいい夏の祭りだと思う。

◇◇◇◇
 ドンッ。ドンッ。ドン、カツカッツ。ドドン、ド、ドン。

 軽妙な太鼓の音に合わせて、みんなで輪になって踊る。数百年ぶりだけど踊り方はすぐに思い出せていた。

 隣で踊る夏樹が微笑んでいる。きっと楽しいんだろう。もちろん、私も楽しい。

 踊りの輪の反対側では、ちょうど香織ちゃんが家族と一緒に踊っていた。その隣には声援を送っていた秀雄君とその家族らしき人たちがいた。
 きっと近所のお兄さんなんだろうね。

 内側を向いたときの香織ちゃんの笑顔が、ニコニコしていて凄くうれしそうだった。

 楽しかった夏祭りも終わりの時間がやってくる。
 最後に恵海さんが挨拶をして、お開きとなった。けれど、お店をやっていた青年団や、まだまだ残って宴会をする人々もいるようだ。

 もちろん私たちは帰るけれども、来年は私たちもお手伝いをすることになるだろう。

 帰り際に、さあっと香織ちゃんがやって来た。
「旦那様。奥様。明後日からまたよろしくお願いします」
 お盆休みもあと1日だから挨拶に来たのだろう。

「こちらこそ、よろしくね。……今日の恰好かっこうは可愛いわよ」
「あ、本当ですか」

 うん。その浴衣、きっとお母さんが用意してくれたんだろうけど、よく似合っている。

 夏樹が微笑みながら太鼓判を押す。
「ああ、似合っているとも」
「ありがとうございます。旦那様と奥様も、その。素敵です」

 ふふふ。なかなか言うようになったじゃない。

「ありがとうね。さ、ご両親が待っているわよ」
「あ、はい。じゃあ、これで」

 一礼をして去って行く香織ちゃん。お父さんとお母さんが私たちに向かってお辞儀をした。軽く頭を下げて返礼をする。

「さてと、じゃあ帰ろうか」
「そうだな。……ほれ」

 夏樹が左腕を少し浮かせた。にっしっしっ。わかってますよ。
 私は右腕を絡め、わざと胸を押し当てた。

 今晩はね。祭りの熱気に当てられたこともあって、お互いにごにょごにょするつもりなのです。
 というわけでこの先は2人だけの時間。だから内緒。

02承の章 嫁ぎゆく君に乞われて紅ひくに さちあれかしと祈る筆先

 玄関を開けてくれたのは小柄な初老のご婦人だった。きっとこの人が奥さんの美子よしこさんだろう。
 私をひと目見て、
「まあ、たいへんっ。ちょっと待って!」
と言って、すぐに奥に走り込んでいってしまった。

 そんなに濡れてたかな?

 思わず自分の服を見下ろしてしまう。
 ――うん。確かに少しはブラウスも濡れてるけど、放っておけばすぐに乾く程度だから問題はないはず。
 雨のお寺ともあって誰か来ているような気配はなく。うっすらとほの暗いけれど、とても落ちついた空気が漂っていた。
 まもなく奥からドタドタドタと足音がして、ご婦人がタオルを持って帰ってきた。
「ほらほら。これで拭いて!」
 お礼を言って受け取りつつ、
「連絡していた春香です。……今、夏樹も来ますから」
「はい。美子です。いま住職も来ますけど、荷物下ろすの手伝いますよ」
「いえいえ。そんなに多くはないですから、大丈夫です」

 大型家具とかは処分したし本当に身の回りの物だけなんだよね。それにこんな雨の中だから運んでもらったら悪いよ。
 実はドラえもんのポケットのように空間収納の力もあるので、大切な物から食料やら、結構気軽に色んなものを突っ込んでいたりする。

 タオルで髪を抑え水気を取っていると、廊下の奥から「ようこそ」という声がした。顔を上げると恵海さんがこっちに向かってくるところだった。よっぽど私たちが来るのが待ち遠しかったのか、前にお会いしたときよりもうれしそうだ。

 けれど、私をひと目見て、
「む。こりゃ、いかん! わしは後で御挨拶しますので……」
といって、急にきびすを返してそそくさと奥に戻って行ってしまわれた。

 一体どうしたんだろう?

 疑問に思っていると、美子さんが笑いながら、
「そりゃあ、御仏使様。少しけてますから……」

 え?
 あわてて見下ろすと、白いブラウスだったせいか、確かにうっすらと下着が透けて見える、かもしれない。

 そこへ夏樹がやって来た。
「ほらよっと」
 手にした薄手のコートを私の肩に回してくれる。
「あ、ごめん」「……傘もささずに飛び出すから。まったく」
 呆れたように笑う夏樹に、何も言えなくなる。
「もしあれだったら、ちょっと着替えさせてもらえ。……俺は香織ちゃんを起こして、荷物もこっちに運んでくるから」
「うん」

 こうして私は近くのお部屋で着替えさせてもらうこととなった。終わって落ちついたところで皆で本堂に御挨拶をして、美子さんの案内で奥の応接間に通される。
「はい、どうぞ。少しお待ちになってくださいね」
と言われて入った応接間は8畳の和室で、中央には漆塗りのテーブルが置いてある。
 障子しょうじが開いている窓からは雨に包まれた村が見えた。

 下座しもざの方で3人で座っていると、しばらくしてから、
「失礼します」
と声がかかり、すっとふすまが開いて恵海さんが一礼をして入ってこられた。その後ろからは先ほどの美子さんが、早くもお盆にお茶を載せて待機している。

「はるばる、お越しいただきありがとうございます」
 恵海さんの挨拶に、夏樹がいやいやと手を振りながら、
「こちらこそ、今日からお世話になります。……事前にお伝えしたように、例の蔵をお借りしますので」
「あそこは口伝で御仏使様の建物だから触れぬようにと戒められております。鍵もありませんで、周りだけは掃除は欠かしませんでしたが、ちょいと中の状態はわかりかねますども、どうぞご自由にお使いください」
「ありがとうございます」

 話に出てきた蔵はね。奥の離れのそばにあるんだけれど、中にお宝とか書物があるってわけじゃないんだ。外見こそ蔵の形だけれど、中は私たちが住むための住居になっているんだ。
 ……ほら、長い旅でそれぞれ拠点にしたところを確保してあるから。その一つなんだよね。

 前に来たときも、当時の住職さんは中を知っているはずだけれど……。長い年月で失伝したか、えて言いのこさなかったのだろう。
 ぶっちゃけると、神力での封印を施してあるのでセキュリティは万全だし、中は時が止まったように当時の状態のままになっているはず。だから、改めて掃除の必要もほとんどないと思う。

 生活に必要な家具もそのままにしておいたけれど、さすがに江戸は元禄げんろくとか宝永ほうえいの頃のものだから、作りは古いだろう。衣類も当時のものを着ていると目立つだろうから、今風の物を持って来てある。

 それから少し村の近況をお話しいただいた。
 今年の3月3日に東北で大きな地震があって、三陸の沿岸部には悲惨な津波の被害が出ていた。松守村はそこから距離があるとはいえ少し心配していたけれど、それほどの被害も無かったらしく安心した。
 後は香織ちゃんのことかな。問題は。

 恵海さんから聞くところによると、前に清玄寺で引き受けた4人の娘さんは、借金の金額もそれほどでなかったため、すでに奉公期間を終えてそれぞれの実家に戻っているという。
 戻ってすぐに結婚した子も2人いるそうだから、ちょうど良い花嫁修行になったのかもしれない。

 話し合いの結果、香織ちゃんはお寺の方で寝泊まりをして、決められた時間に来てもらうことになった。
 なぜ今まで通りに一緒に住まないかって?
 蔵は狭いし、きちんと部屋が分かれているわけでもないんだ。……それにさすがに夜は夫婦2人きりにして欲しい。
 漆喰の壁で防音性に優れてはいるけれど、声は内に籠もっちゃうだろうし、色々とね、支障があると思うんだ。

 その日は雨が降っていることもあり、蔵ではなくお寺の離れに泊まらせてもらうことになった。
 お夕飯の準備のお手伝いをと思ったけれど、美子さんが香織ちゃんとやるので荷物の整理をしておいてくださいとのこと。それならということで、夏樹と恵海さんと3人で蔵を開けに行くことにした。

 傘を差して雨の中に出て、そのまま蔵のある奥の方へと向かう。
 お寺は本堂から廊下でつながって、大きな広間のある2階の建物、さらに住職さんの家族が暮らす庫裡くりの棟、そしてその奥に離れがある構造だ。
 こんなに田舎の寺院としては結構な大きさだと思う。

 蔵は建物群から少し離れたところにある。白い漆喰のいわゆるオーソドックスな蔵だ。湿気を避けるために石造りの基壇きだん部の上に建っている。ひさしが張り出しているので、入り口の石段を上がれば濡れる心配もない。

 夏樹から傘を預かって水気を切っている私の背後で、夏樹がカチャカチャと正面の鉄扉の鍵を開けている。
 こうして久方ぶりに、かつての住居を訪れることに少し胸が高鳴っている。こう。不思議とワクワクしているような。きっと恵海さんはそれ以上だとは思う。初めて蔵に入るんだから。

 ガタリと音が鳴った。夏樹は鍵を引き抜き、さらに取っ手をぐるりと回して重い扉を開いた。ギギィと音を立てて鉄扉が開くと、今度は目の前に木製の引き戸が現れる。

 うわぁ。懐かしい。

 この引き戸は玄関の扉代わりなんだけど、脇に「夏樹 春香」と書いた表札がある。
 ……っといけない、いけない。今は恵海さんがいるんだった。素知らぬ風を装わないといけない。

 入ってすぐの所は、土間ならぬ石床になっていて、江戸時代の長屋の部屋と同じように、壁際に水瓶みずがめと流し台とかまどが並ぶ調理スペースがある。
 その奥が玄関の上り口になっていて、その向こうが8畳の和室。一番奥には狭いけれどお風呂もある。
 和室にはハシゴがあって、そこから2階のロフトスペースに上がる寸法になっている。そこはかつて寝室にしていた。

 恵海さんは物珍しそうに見回しながら、中に入っていく夏樹の後をついて行った。私はその場に残ってお台所用品のチェックをする。

 水瓶、良し。洗い場、良し。調理道具も包丁、まな板、ざる、おろし金、鉄瓶てつびん鉄鍋てつなべ、フライパンと揃っている。状態もあの時のままだ。
 かまどの周りも変わりはない。端っこに置いてある特製氷室ひむろもちゃんと使えるようだ。

 この氷室はね。杉並で使っていたもの以上に見つかるとやばいんだ。なにしろ見た目は氷室だけど、これ神力駆動で普通の冷蔵庫機能を持たせているわけ。
 さすがに大きさは小型冷蔵庫のサイズだから、それほど多く入るわけじゃないけどね。

 そこまでチェックしてから、私もくつを脱いで上にあがる。
 先に行った2人は2階に行っているようだ。1階の一間も畳が傷んでいるでもなし、箪笥たんすも、その上の小さな引き出しのある小物入れも、窓際の机も、すべてがここを出たあの時のままだ。
 引き出しを開けると、昔着ていたかすりの着物や帯が入っていた。夏樹のものもある。

「……」

 このかんざしなんか見ていると、脳裏にここに住んでいた頃の思い出が蘇ってくる。
 あの頃は夏樹の頭もちょんまげになっていたし、私も頭を結っていたからなぁ。ふふふ。

 でも思い出にひたるのは後で二人きりの時にしよう。心を引かれるけれど、引き出しを閉めて奥のお風呂場を確認に向かう。そこも綺麗なまんま。念のため、晴れた日に全体をざっと掃除するつもりだけれど、さすがは神力封印といったところでしょう。

 2階から2人が降りてきた。
「本当に住居になっているとは……。驚きました」
 恵海さんがまだキョロキョロしながら言った。
「普通は書物や宝物を管理するための蔵なんでしょうけど、ここには何にも置いてないんですよ」
「ええ。しかも家具などもまだ使えそうなほど状態が良い。なるほど、これはすぐに住み込めるわけですな」
 多少は宝物に期待していたのかもしれないけれど、妙にすっきりした表情になっていた。

 いちおう寺の離れの方も住めるように用意してくれたあったみたいで、少し申しわけなかったけれど、蔵の状態も確認できたので当初の予定の通りにここで住むことにした。
 ただ離れはいつでも住めるように空けておいてくれるらしい。
 普段は使うこともないのでお気になさらずと笑った恵海さんに、二人ですみませんと頭を下げる。
 やっぱり住み慣れたところの方がいいしね。

 ――とまあ、こうして私たちの松守村での生活がスタートしたわけです。
 次の日にさっそく住職さんに連れられて村役場に行き、本籍移動の手続きをすると同時に、お寺の筆頭総代そうだいでもある村長さんや助役じょやくさんたちに挨拶をした。
 そのまま、3つある大きな地区の地区長さんや、村にある分校の校長さん、駐在さんと順番に挨拶を済ませたところで、恵海さんと分かれた。

 私たちはあと一箇所寄りたい所があった。そう。香織ちゃんの両親のところだ。

 今日は幸いに晴れたけれど、昨日までの雨で村道はグズグズのぬかるみになっている。
 普通はこうした挨拶回りって、それなりに服装に気を使うものだけれど、この地面じゃどうにもならない。
 それにおめかししていくのは逆効果の時もあるんだ。こういう村の場合は。村人との間に他所者よそもんという壁を作っちゃうから。

 そんなわけで、普通の木綿地もめんじの股引の上から着物を着て、素足で下駄を履いている。汚れることは気にしても仕方がない。

「こっちです」
 香織ちゃんの案内で、転ばないように注意しながら道を歩いて行く。麦の畑を迂回うかいして伸びている道の先に何件かの家があった。どの家も茅葺かやぶきの古そうな建物だった。

 ちょうど学校が終わって少しした時間帯のようで、家の前の通りで子供たちが集まっていた。
 これからどこかに遊びに行くのかな? 小学校低学年から下の子供たち。
 ……きっとそれより大きい子はお手伝いなのだろう。

「誰か来るぜ」「外の人?」「あの子だれ?」
 小さい声で話し合っているんだろうけど、私の神さま仕様の耳にははっきりと聞こえる。

 なかで一人の男の子が不思議そうな顔をして、「あれってひろしの姉ちゃんじゃねえ?」と言い出した。その声に、みんなが一斉に香織ちゃんを見る。

 香織ちゃんが手を振った。
「やっぱそうだ!」
 誰かが言い出して、一人の男の子が近くの家に走り込んでいった。

「近所の友だちです」
 その様子を見ながら、私たちに言う香織ちゃん。その横顔はどこかうれしそうだ。

 男の子が入っていった家から、数人の人が飛び出してきた。あの男の人と女の人は香織ちゃんのご両親だろう。
 こっちを見た男の人と女の人が動きを止めた。見定めるように香織ちゃんを見て、すぐに顔がほころんだ。

 私は夏樹の手をギュッと握る。すると夏樹はうなずいて、香織ちゃんの背中をポンと叩いて押し出した。
 振り向く香織ちゃんの目が「え?」と言いたげに私たちを見た。私は微笑んでうなずきかける。「行ってきなさい」

「はい」
と小さい声で返事をした香織ちゃんは、お父さんとお母さんのところへゆっくりと歩いて行く。少しずつスピードを上げながら。
 向こうのご両親も香織ちゃんのところに駆け寄っていき、がばっと親子で抱きしめあっている。

 そんな親子の再会を見ていたせいか、いつの間にか私は、夏樹の左腕に自分の腕をからめていた。ぎゅっと抱きしめて。

 ――やっぱりあの子の居場所はここなんだ。

 少しは親代わりをしてやれていたと思ったけれど。この光景。本当の親とは重ねた年月も違うし、私たちじゃ力不足だったなぁ……。

 子供か。

 正直、うらやましい。でもいつかは、私も夏樹の子供をこのお腹に宿すことができる。今はまだその時じゃないだけ。
 そうは分かっていても、この光景はうらやましい。

 でも、この村に来て良かった。そう思った。

02承の章 嫁ぎゆく君に乞われて紅ひくに さちあれかしと祈る筆先

 かまどに火を入れて、ヤカンを載せる。

 振り向くとテーブルで夏樹がコーヒーミルのハンドルをゴリゴリと回していた。
 丸椅子に座ってその様子を眺めていると、チラリとこっちを見てすぐに視線を戻していた。
 大学生の時に珈琲店でバイトをしていたけれど、こうして珈琲を入れている姿はよく似合うと思う。

 高校の試験勉強の時はどっちかの部屋でやることが多くって。夜遅くにちょっと休憩しようと言って、深夜の台所でこうして珈琲を入れてくれたこともあった。
 お義母さんの用意してくれていたコンビニのシュークリームを、台所の床に2人並んで座り込んでかぶりついていたのが懐かしい。

 ヤカンがコーと音を立て始める。
 夏樹はき終わった豆を、ドリッパーにセットしておいた和紙の上に移している。

 こうして作業をしているところの真剣な眼差しが好きだ。もちろん私を見つめるときのあの優しい眼差しも好き。
 悩んで眉間にしわを寄せているときには、落ちついて欲しいと思って頭を撫でてあげたりもあった。辛いことがあった時には、その頭を抱え込んで胸に抱きしめたくなる。
 ……まあ、大抵、その時は私も泣いていたりするんだけどね。

 静かな夜の台所。ヤカンのお湯がいてきて、底から泡が上がるコポコポという音が聞こえてきた。そろそろお湯はよさそうだ。
 かまどに行って火を落とすと、夏樹が鍋つかみのミトンに手をやってきて、お湯の入ったヤカンを持っていく。そのまま、さっとお湯でサーバー全体を湿らせて、しばらく蒸らしている。
 お湯を注いだ瞬間に、挽き立ての珈琲の良い香りが広がってきた。

 さっきまでと同じように丸椅子を引いてテーブルのそばで眺めていると、こっちをチラリと見た夏樹の口元が今度はそっと微笑んでいた。
 器用にヤカンから細くお湯を落とし、円を描くようにお湯を注いでいる。ドリッパーの中では珈琲の泡が盛り上がっていく。細く白い湯気が立ち上った。

 頃合いを見て、食器棚から二人分のコーヒーカップを取り出して並べておく。
 夏樹は2回、3回とお湯を落とし、さっとドリッパーを下ろした。

 無言だけれど、居心地の良いこのひととき。
 2人だけの夜の時間がゆったりと流れていく。

 ヤカンを戻した夏樹が、もう一つの丸椅子に座った。私はサーバーの珈琲をカップに注ぎ、一つを夏樹に手渡した。
 それぞれがカップを手に取り、そっと口にする。香りが鼻こうに広がり、おいしい苦みが舌に広がる。モカのブレンド。後から空気が通るような喉ごし。

 こっちを見る夏樹にうなずき返した。いつでもいいよ、と。

「――三井物産を辞めようと思う」

 唐突な話だけれど、思いのほか私は冷静に聞けていた。
「そう」

 もしかしたら、いつかそう言い出すんじゃないかって、心のどこかで感じていたのかもしれない。
 けれど、商社のサラリーマンとして忙しそうにしているのも、たまにお酒を飲んで遅くに帰ってきたときも充実しているように見えたけれど、どこか無理をしていたのかな。

「理由をきかないのか?」

 怪訝けげんそうな夏樹に黙って見つめ返すと、その動機を教えてくれた。

「俺たちは裕福だって意識はないけれど、財閥ざいばつの三井に勤めている限り、周りはそうは思わないだろう。それに思うんだ。……本当に苦しいのは農村なんじゃないかって」

 だから、その農村で生活をするべきじゃないかと。でも理由はそれだけじゃないような気がする。でないと、今日みたいな事件のあった夜にこんな話はしないと思う。
 もしかして……、

「今日のようなクーデターがこれからも起きるだろう。それに特高とっこう警察の監視が厳しくなっていくはずだ。そういう環境に、春香や、香織ちゃんを置いておくのは心配なんだ」

 夏樹が真剣な眼差しで私を見ている。
 やっぱり私の身を案じているんだ。テロはともかく、特高警察か……。それってまるであの魔女狩りと同じ時代がやってくるということだろうか。あのひどかった時代が今度は日本に。

「それとだ。戦争が始まるとどんどん物資が無くなっていく。こういう都市部だと特に食料も。だから、その前に農村に移っておいた方がいいと思う」

 そこまで先のことを考えてはいなかったけれど、言われてみれば確かにそうだろう。農村で畑暮らしをしておいた方が、戦時中の食糧難には強い、と思う。あまり自信はないけれど。

「結局、私のためなんだね」
「いいや、俺のためでもある」
「そうだけど……、でも」
「春香。俺のためでもあるんだ。確かに戦争を経験するために日本にやって来た。――だけどな。俺だって男だ。できることなら好きな女は守りたいじゃないか」

 そっか。……そっか。
 なんだか急に目頭が熱くなってきたよ。いつも夏樹に守られてばかりだなぁ。
 本当は、私だってあなたを守りたいのに。

 夏樹が私を見ている。まっすぐに。
「いつも春香を頼りにしてるさ。今の俺の正直な気持ちとしてだ」
何かを言おうとしてためらっているような表情で。
「……俺は、おまえを愛してる。それだけだ」

 ずるいよ。今ここで、それを言うなんてずるいよ。
 まるで最初の告白を受けた時のように、胸が熱くなる。あの桜の木の下の時のように。愛おしさで胸が一杯になってくる。

「ありがとう」

 心の底から、ありがとう。
 貴方が霊水アムリタを飲んでくれたからこそ、私はここにいる。長い長い旅、貴方と一緒でどんなにか楽しかったことだろう、どんなにか幸せだったことだろう。

 そっと立ち上がって、夏樹の背中からぎゅっと抱きしめ、髪に顔をうずめる。ちょっと涙が出ているけれど、そのままで。

「ね? ボリビアに行った時のことを覚えてる?」

 なすがままだった夏樹が、前に回した私の腕に自分の手をそっと添えた。
「もちろん」
「――見渡す限りの白い塩の大地。水が張って湖がまるで大きな水鏡のようになっていてさ」
「うん」
「あの高い空が映し出されていて」
「うん」

「夜になると、頭上には一面の星空。足元にも星空が広がって、まるで宇宙の中に浮かんでいるみたいだった」
「うん」
「私ね。あんなに綺麗な景色を見たのは初めてだった。……でね。あの光景を見ているときに思ったんだ」
「うん」

 ぎゅっと抱きしめた腕に力がこもる。
「――あなたは私のすべてだって」

 この広大な宇宙。地球。悠久の時の中で、私は貴方と出会えたんだって。

「……春香」
「だからね。思うようにしていいのよ。どうかなって思った時は私もちゃんと言うから。貴方は貴方の思うようにしていいの」

 愛してる。ずっとずっと愛してる。
 こうして相談してくれてうれしいよ。これからも私は貴方のそばにいるから。


 心を高ぶらせてしまったけれど、落ちついてみればちょっと恥ずかしい。
 でもそれは夏樹も一緒だったようだ。

 腕をゆるめて、振り向いた夏樹と目が合うと、二人揃って照れ隠しの笑いを浮かべる。

「春香。今後のことを少し詰めておこう」
「うん。わかった」

 目をこすりながら、私は元のイスにもどった。


◇◇◇◇
 それからおよそ一年後、春分が過ぎて清明4月上旬の時期になった。穀雨こくうに至るまでの清々しい季節のはずだけれど、今日4月15日はあいにくの雨だった。

 私は、夏樹が運転するハドソン社の自動車・エセックス・コーチの助手席にいる。このちょっとレトロなデザインが気に入っているけれど、さすがにサスペンションはまだ良くないので衝撃がお尻に来るときもある。

松守まつもり村はもうすぐだね」
「そうだな……。あと1時間くらいか。香織ちゃんは?」
「後ろでぐっすり寝てる」

 後ろの席で、沢山の荷物に埋もれるようになってるけどね。
 長時間のドライブだったから、乗っているだけでも疲れちゃったんだろう。

 風はなく雨は穏やかに、静々と降っている。その向こうに、遠くの山々から霧が空に向かって立ちのぼっていた。
 ときおりツバメがエサを探して飛んでいる。
 この辺りは水源が乏しいので、稲作の田んぼよりも野菜畑が多く広がっている。石でも踏んだのか、ガタンと大きく揺れた。

 外の景色を見ていると、夏樹が話しかけてきた。
「外灯があるだけで、随分と変わって見えるな」
「確かに。前はもっと何にも無かったよね」

 電信柱と電線、外灯があるだけで、上手く言えないけれど、時代がかわっていることが明らかに感じられた。

「あ~、なんだな。せっかくの東京暮らしだったけど、悪かったな」
 私は隣を見た。
「……まだ気にしてるの?」
 ちょっと口を尖らせて言うと、夏樹が笑い出した。

 夏樹と一緒ならどこでだって暮らしていける。
 たとえ東京であれ、松守村であれ、どこかの山中であれ、無人島であれ、今まで2人で過ごしてきた経験が、ともに歩んできた長い時間がそれを可能にするだろう。

「ははは。まあ、そうだな」
「それより、そっちの方こそ本当に良かったの?」

 本当にあっさりと三井物産を辞めちゃって。あんなに一生懸命に働いていたのに。

 夏樹は真っ直ぐ前を見たままで、
「いいんだ。最後の仕事も無事終えたし、……それに人脈は無くなったわけじゃない。ちゃんと松本さんと今後のことは相談してあるしね」
「それは聞いてるけどさ」

 あれから夏樹は、松本さんに1つの提案と1つの相談をした。

 提案の方は、三井物産として社会貢献をしていくことが必要だということ。
 事件の背景の1つに、政府や財閥に対する、農村や労働者の不満や敵視があった。それを受けての提案だ。
 恐慌や凶作の影響で賃金の格差が開いている社会で、それも社会主義思想が流行していたわけで、あの襲撃しゅうげき事件はまさに階級闘争の1つの形として暴発したともいえる。裁判がまだ始まっていないから、彼らの目的はまだわからないけれど。

 もちろん具体的な社会貢献策として何ができるのか。それは私にはわからないけれど、それは方針を決めてから詰めていく話だろう。
 実は同じ話が内部に出はじめていたそうで、夏樹の提案は名前を出さずに松本さんを通して検討され、ついこないだの4月4日に財団法人三井報恩会が設立認可される形で結実している。

 そして相談の方はというと、退職して松守村に住みたいということだった。
 松本さんには、土地を買って規模の大きい農業生産を経営して、生産者として流通の一端をにないたいと言ってあるらしい。

 ちゃんと、収穫した農作物を三井物産の地方販売網に載っける内諾をしてしまうところが、夏樹らしいと思う。
 松本さんからは、外国語の堪能な人材が減るということで引き留めていたけど、最終的には納得してくれた。

 香織ちゃんには申しわけないけど、高等女学校を中退させることになってしまった。
 もっとも本人は故郷の松守村に帰れるとあって、実はうれしそうだったりする。……ただし、女中の契約期間は終わっていないので、まだ実家に帰ることはしないようだ。
 私たち的にはかよいでも、どっちでもいいんだけど、本人の希望もあるから……。

 水たまりをバシャッと通過した。ワイパーがキーキーと音を立てている。細かい雨粒が、ミストとなって車内に冷気を運んできた。
 肩口が寒くなってくる。温かいものが欲しくなって、水筒のお茶を飲んだけれどとっくにぬるくなっていた。

 畑の中の農道の先に、松守村が見えてきた。そのまま集落を通り抜け、山際の一角まで行くと、そこが清玄寺になる。
 ようやく見えてきた瓦屋根の本堂は、雨にけむっていた。
 車は正面の山門を通り抜け、ぐるっと回り込んで裏口から境内けいだいに入り込んでいく。……とても懐かしい。

 夏樹が車を停めてエンジンを切った。
「ふぅ」という夏樹に「お疲れさま」と声を掛ける。

「先に声を掛けてくるから、香織ちゃんをお願いね」
 そう言って私は車から降りて、雨の中を小走りで庫裡くりの玄関に走った。