01起の章 暁は いまだ暗きに 降る時雨(しぐれ)夫(つま)の枕を きつくいだきぬ

 翌年昭和6年の夏。7月30日から8月2日にかけて、夏樹が4日間のお休みをいただけた。
 すぐに私たちの間では、どこか旅行にいこうという話で盛り上がる。

 世間では熱海に新婚旅行というのがブームらしく、それにあやかるわけじゃないけど、伊豆や箱根あたりで温泉がいいと一度は決まりかけたんだよね。

 けれど、いざ旅館の方に問い合わせてみると、昨年の11月下旬に伊豆と箱根を中心とする大きな地震があって、まだ温泉に入れる状態じゃないということだった。
 残念と思ったけれど、被災地は大変だと思う。

 それはともかく、じゃあどこにするかという話。時期的に海にはまだ早い。
 房総半島を周遊するか、それとも鎌倉でお寺めぐりをするか、山梨、日光とか、いくつか候補地を挙げては、ああでもない、こうでもないと話し合う。

 せっかくの旅行だもの。こうして話し合う時間そのものが、何だかとても楽しかった。
 で、結局どこにしたかというと、行き先は富士山。
 そう、富士登山だ。なぜかって? その理由は、タイムリープ前も含めて登ったことがなかったから。

 富士山はかつては女人禁制の山だった。けれど明治になってそれが解禁され、今ではグループで登る女性たちもいるらしい。
 ちょうど7月上旬に山開きを迎えたそうだし、懸念していた天候の方も梅雨が20日頃に明けたようだった。

 今までに3000メートル級の山なら、シルクロードを行き来しているときにパミール高原を通ったり、アンデスの山々を通ったりした経験がある。
 だけど日本人として、やっぱり富士山は一度は登ってみたいと思うでしょ? 富士山は日本人にとって特別な山なんじゃないかな。

 そんなわけで7月30日のお昼前、東京から東海道線に乗り、列車に揺られながら西へ向かう。静岡県の三島を過ぎて沼津を通過すると、右側の窓には愛鷹山あしたかやまの向こうに富士山が見えてきた。

 天気は晴れ。夏の青空に白い入道雲が浮かび、その下を雪のない富士山が美しい稜線りょうせんを見せている。

 やがて列車は富士駅に到着した。今度は、富士身延みのぶ鉄道に乗り換えて大宮おおみやに向かう。
 すでにここの区間は電化が済んでいるけれど、車窓から見える風景はのんびりした農村そのものだった。

 7月下旬ともあって、青々とした稲が風に揺られている。田んぼがゆるやかな傾斜地けいしゃちに広がり、稲田の上に道ばたの木々が枝を伸ばしている。
 駅の近くは現代風の商店やかわら屋根の建物が多い。けれど少し離れると、板葺いたぶき屋根の家や茅葺かやぶきの家もあるようだ。
 開けた窓から綺麗きれいな空気が入り込んできて、強い陽射ひざしに熱くなった肌に心地よかった。

 隣では、夏樹が疲れて眠っている。
 私の肩にコテンと頭が寄りかかっているけれど、その重みがなんだかいとおしい。

 すー、すーと、まるで赤子のようなおだやかな寝息が聞こえてくる。

 ふふふ。かわいいよね。男の人の、こういう無防備なところ。

 やがて大宮の駅に到着した。夏樹を起こして、いざホームに降り立ってみると、ぐんっと富士山に近づいてきたのがわかる。
 改札を抜け、駅前のタクシーで今日のお宿へと向かった。

 大宮には花街はなまちなんかもあって多くの芸者さんがいるらしいけど、私たちはそういう席よりも2人でのんびりするのが好きだ。
 自宅にいる時と一緒じゃんって思われるかもしれないけど、場所が違えばまた雰囲気が違う。その土地その土地の雰囲気や料理なんかを、二人きりで堪能たんのうするのがいいと思う。

 ……本当は子供がいれば、また違うのかもしれないけれど。神である私たちは、人の世の因果からは外れているので、特殊な方法でないと子供ができないのだ。
 生まれる子供も神さまになるだろうし。少なくとも修行の旅が終わるまでは、ね。

 小さな川沿いにある橋本旅館で一泊。明日は早朝のうちに車で途中まで送ってもらえるよう、お願いしておいた。
 夏場で暑いから窓を開けると、川のせせらぎとともに、ミンミンゼミの鳴き声があちこちから聞こえてきた。

 うだるような夏の暑さ。じんわりと汗が浮かんでくる。少しでも涼を求めて、2人して窓辺にへばりつく。
 向かいの通りを虫取りあみを持った子供たちが歩いている。ランニングシャツに下駄の男の子たちに、妹と思われる小さな女の子が一人。

「なんか懐かしいな」
「おじいちゃんお坊さんを思い出すね」
「そうそう」

 裏山のお寺さん。そこの住職が年配のお爺さんだったけれど、子供好きで、私たちは「お爺ちゃんお坊さん」って呼んでたんだ。

 夏樹と一緒によく遊びに行ったもんだ、あのお寺。
 カブトムシに、クワガタ、トカゲくらいなら私も平気だけど、さすがに2人してヘビに追いかけられたときは肝を冷やした。

 ふと顔を上げると、夏樹がこっちを見ている。
「うん?」
「いや。あの時は焦ったなって」

 しょっちゅう一緒にいたもんだから、同じ思い出ばかりなんだよね。……でもそれがいい。

 その日は旅館でごろごろしながら、次の日のために早めに休むことにした。


◇◇2日目◇◇

 夏の朝は早い。
 昨日の内に手配しておいたとおり、早めの朝食のあとですぐに準備を調え、タクシーで途中まで送ってもらった。
 馬なら五合目まで送ってもらえるそうだけれど、折角だから、なるべく自分たちの足で登りたい。

 この地域だと村山むらやま口登山道という歴史のあるルートがあるんだけれど、残念なことに新しい大宮おおみや口登山道ができると、村山のルートはすたれていったらしい。

 杉林の小道に、さっそく二人で入った。

 丈夫じょうぶな着物の下に股引ももひきをはき、地下足袋に巻き脚絆きゃはん、手甲というちの二人。まだ林中なので菅笠すげがさは背中に回してあるけれど、かつて江戸は宝永のころに帰国していたときの物を引っ張り出してみた。

 ときおり鳥の鳴き声がするほかは、私たちが土をむ音しかしない。風もないけど、気温は少しずつ上がってきた。
 を手で払いながら一歩、また一歩と進む。ひたいに出てくる汗を首にかけた手ぬぐいでぬぐう。

 歩き出して30分が経った頃に最初の休憩きゅうけいをして、さらに50分ほど歩いて2回目の休憩。
 道ばたの溶岩ようがん石に腰を掛けて、水筒から一口だけ水を飲む。

「ふぅ。……落ちつくな」
 夏樹の視線を追って、私もまわりを見回した。

 登山道の左右の林の中に、大小さまざまな溶岩石がゴロゴロと転がっていて、どれもみなこけむしていた。
 その一つ一つの石に、悠久の時を感じる。

 人は変わりゆく、社会も時代も変化して……。けれども自然はいつまでも変わらないものなのかもしれない。
 甘納豆あまなっとうを一粒口に入れ、森の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 10分の休憩後、再び歩き始める。それを何度か繰り返したころ、ようやく1合目の休泊所が見えてきた。

 横長の小屋の中にテーブルとイスが並んでいる。まさに峠のお茶屋といったところかな。
 ただ、歩いているペースの関係上、違うタイミングで休憩を入れると余計に疲れてしまう。そのため、1合目はそのままスルーして2合目に向かうことにした。

 そんなふうに途中で大休憩をはさみつつ順調に歩き続け、お昼なんかも食べて、5合目までもうすぐというところで、とうとう樹海から抜けた。
 ここから先はゴツゴツとした岩はだの山道だ。

「し、しんどい……」
 体力を普通の人より強化してあるとはいえ、つかれのピークが来てしまった。
 正直、今、一歩も動きたくない。

「ちょっと長めの休憩にしよう」

 入営中の行軍で鍛えられたせいだろうか、夏樹も疲れてはいるようだけれど、まだまだ大丈夫そうだ。

「ねぇ。ウィダーとか、カロリーメイトとか持ってない?」
「ないない。そんなのこの時代にないから」

 そう言って笑った夏樹だが、鞄をごそごそとまさぐって、
羊羹ようかんならあるぞ。あとは黒糖か、かりんとうだな」

 まあ、一緒に準備してたから、持ち物はわかっているけどね。
 チョコレートクッキーとか甘納豆をちょくちょく口に入れてきたけれど、それでも疲労はやってくる。素直に夏樹から貰った羊羹ようかんをかじりながら、だらしなくゴロンとあお向けになった。

 ああ、もう、このまま眠りたい。

 夏樹が私を見て笑っている気がするけど、もう疲れたよ。

 ふさっと菅笠すげがさが私の顔に掛けられる。乾燥したわらに似た匂いの向こうから、夏樹の声が聞こえてきた。
「ちょっと寝てもいいよ。ちゃんと起こすから」
「ごめん。お願い。眠い」
「はいはい。ちゃんと見張ってるから、安心して30分くらいお休み」
「あいしてるよー」
「はいはい」

 夏樹が見張っててくれるなら安心だね。甘えさせてもらって、ちょっとだけ。おやすみなさい――。


 しばらくして、夏樹に起こされて復活した私は、再び一緒に歩き出した。
 見上げるみねは、青空に向かってどこまでも続いているように見える。ここから先はさえぎるものがなにもないので、風が強くなる。急激きゅうげきな天候の変化に、落石に注意をしないといけない。

 服の上からコートのように広げたゴザを巻く。ゴザっていうんだけれど、風や少しの雨なんかはこれで防ぐというわけだ。

 そして息を整えながら、歩幅を小さく。少しずつ少しずつ登る。林の中では峠のお茶屋さんみたいだった休泊所も、風をしのぐために、石を積んで作った建物になっている。

 6合目を過ぎた頃、急にあたりが霧に包まれた。風もあるのに霧に包まれるとは、これいかに。
 おまけに雲の中だというのに、雨まで降ってきた。
 
 夏樹が眉をひそめている。
「……雲の中だ。雷には要注意だな」
「え? これって雲の中なの? 霧じゃなくて」
「ああ。今は大丈夫そうだけど、危険を感じたらすぐに休憩しよう」
「うん」

 風にあおられて、ゴザの上にバラバラと雨が降ってくる。それでもそんなに強いわけじゃないので、まだ大丈夫。
 ただ急に寒くなってきたようだ。

 夏樹は時々、立ち止まっては耳を澄ませているようだ。その横顔が雨で濡れているけれど、山の男のようで妙に格好いい。
 ニマッと笑みが浮かびかけるけど、下を向いて我慢する。時たま、こういう真剣な表情になると、ドキッとしてしまうんだよね。

 幸いにも雷雲かみなりぐもじゃないようで、7合目を通り過ぎて少しした頃には、急に周りが明るくなってもやが薄らいできた。
 きっと通り抜けたんだと思う。すぐに雲海が見えるってほどじゃないけど、ほっと安心しながら、また歩き出した。

 時間はもう夕方の4時を回っている。
 けれど、今日の目的地の8合目まではもうすぐだ。さすがに8合目まで来ると、かなり空気が薄くなってくる。けれど、これくらいならまだ大丈夫。
 それでも最後は、夏樹に荷物を持ってもらって、ようやく休泊所に到着した。

 石積みの休泊所で、中の男性に声をかけ、泊まる手続きをする。一人一泊2円なり。
 泊まるとはいっても、個室があるわけでも、まして男女別の大部屋があるわけでもない。山小屋らしく、ごろ寝・雑魚寝ざこねで皆で泊まることになる。
 入り口のほか窓はなく、りランプに照らされたほの暗い休泊所だった。

 それで気になる宿泊者だけど……、見事に女性は私一人でした。まあ、夏樹が一緒なので大丈夫でしょう。

 肝心の食事だけれど、ここまで高地になると気圧の関係で沸点が低くなってしまい、まともな料理は難しくなる。
 幸いに玄米のご飯とのお味噌汁みそしるをいただけたので、持って来た梅干しとたくあんでお夕飯。

 終わってから、小屋の家主からお酒を買って二人で飲んだけれど、これがまた薄くって全然おいしくなかった。
 色は、中国の黄酒のような色をしてるんだよ。それなのに薄くって驚いた。
 なにしろ、二人で乾杯してクイッと飲んで、お互いに「ん?」という表情で顔を見合わせてしまったくらい。
 二人して吹き出してしまって楽しかったから、それはそれでよかったけど。

 せっかく手作りの乾燥肉ビーフジャーキーを持って来たのに、このお酒のさかなじゃ勿体もったいなかったかな。かつて南米で教わったチャルケの知識で作った自信作だったんだけどね。

 それはともかく、ご来光らいこうの日の出は午前4時30分ごろというので、早めにその日は休むことに。一番奥の壁側で夏樹に守られながら私は眠った。


◇◇3日目◇◇

 体が揺すられている。

「春香。そろそろ起きろ」

 ささやくような夏樹の声。ずっとずっと長い間、聞き続けているこの声。

 ぼんやりとした意識のままで目を開くと、至近しきん距離きょりに夏樹の顔がある。そのまま胸もとに顔を押しつけて、こすりつけると、後ろ頭をポンと叩かれた。

「いい加減に起きろって」

 これも空気が薄いせいだと思う。決して朝だから頭の働きがにぶいのではないと思う。……いえ、思いたい。
 正直にいえば、ただ甘えたいだけだけどさ。

 それはともあれ目を覚まして、小屋の家主からおにぎりをもらって朝ご飯にする。
 時間は午前1時30分。他の人もだいたい起きてきていたけど、ご来光らいこう関係なく寝るっていう人もいるみたいだ。

 準備を調えて小屋の外に出たけれど、外はまだまだ夜空が広がっていた。

 けれど――、

「うわぁ、すごい」

 ちょうど月齢は15。満月だ。
 その煌々こうこうと輝く月明かりに照らされて、眼の前には雲海が広がっていた。

 びゅおおぉぉぉと風が吹き抜けていく。
 その音にまぎれて、夏樹の声が耳元で聞こえる。
「きれいだな」
「うん。これはすごい」

 ただうなずくしかできない。
 うっとりと、目が、心が、この天地創造をも想像させる、雄大な景色にきつけられる。

 やはり強い風が吹いているのだろう。雲海はゆっくりと動いていた。
 月の作り出した幻想世界。

 ――美しい。

 けれどもその景色にひたっている時間は、それほどないようだった。
 他の宿泊客はすでに行ってしまった。そろそろ私たちも出発しないといけない。
 着ゴザをもう一度確認して、私たちは登山道を踏み出した。

 ここは8合目。
 胸突むねつ八丁はっちょうという言葉があるとおり、ここから先は体感で一気に空気が薄くなり、気を抜くことはできない。
 2呼吸で1歩。2呼吸で1歩という具合で、ゆっくりと歩を進める。夏樹も私とペースをそろえて歩いてくれていた。

 亀の歩みのようだけれど慎重に進むしかない。
 念のためランプを持って来ていたけれど、幸いにしてこの明るい月明かりなら、ランプがなくてもよく見える。

 満月、星空、そして、眼下には雲海が広がる、岩ばかりの登山道。
 杖をつきながら、夏樹と一緒に登っている。それがとてもどこか非現実的で、不思議と素敵すてきなことのように思われて、どこか楽しい。

 9合目を通過して、大きな岩を通り抜けると、もうあとは山頂までもうすぐだった。
 先に登っていった人たちのランプが、すでにここから見える。

 空気が薄くて、もうしゃべるのも億劫おっくうだけど、夏樹の目を見るだけで言っていることがわかる。

 ……もう少しだよ。
 ……うん。

 うなずく私を見て、満足げに微笑む夏樹。その顔を見て、私もやる気が出てくる。

 もう少し。あと、もうちょっと。
 山頂はもう見えている。すぐそこが、――ゴールだ。

 長い長い階段を登りきるように、最後の一段を上りきった途端、私は山頂の小高い広場にいた。

 思わず夏樹と拳をコツンとぶつけ合う。
 ニッシッシと笑みを浮かべれば、夏樹も満ち足りたような笑みを見せてくれた。

 さて、火口のまわりをぐるっと一周するお鉢廻はちめぐりもあるけれど、それよりもご来光が先決だ。
 人が集まっている方向が日の出の方向だろう。夏樹と一緒に人だかりに合流し、見晴らしの良い場所を確保して座り込んだ。

 私たちの後から登ってきた人たちも、少しずつこちらにやってくる。
 どの人も登りきった充実感からか、安心したような笑顔になっていた。

 それから、どれくらい待っただろうか。

 空が少しずつ明るくなってきた。日の出の時間が近いのだろう。
 座っていた私も立ち上がり夏樹に寄り添って、雲海の向こう、はるかな空の果てをじっと見守る。

 紺色の空に、空の一角が黄色に明るくなっていく。
 そっと夏樹が私の腰に手を回して抱き寄せてくれた。
 次の瞬間、黄金に輝く太陽が顔をのぞかせた。

 ずっと遠くに、輪郭をゆらゆらとさせて。
 太陽をよぎる雲海がシルエットになっていた。

 人々が歓声を挙げる。中には、真言だろうか、御経を唱えている人もいる。
 強い光が、はるかな距離きょりを一気に貫いて、私の体を照らしている。じわじわと、太陽の熱が、エネルギーが身体に染みこんでいき、温められていく。

 ああ。なんて、なんて美しいんだろう。

 自然の営み。
 単なる日の出なのに、なぜもこんなにもおごそかなんだろう。なんて力強いんだろう。神々こうごうしいんだろうか。

 不思議な力が満ちてくる。それは神力にも似てどこか違うけれど、希望、そして、生きるという力を私たちに与えてくれるような気がした。

 人々の歓声にまぎれ、そっと気づかれないように、夏樹のほっぺたにキスをした。
 驚いてこっちを見る夏樹の気配を感じながら、私は素知そしらぬ風をよそおって、体を預けるように寄りかかった。
 大丈夫。私の体は、夏樹ががっしりと受け止めて、支えてくれている。

 ここまで二人で登ってきた。
 同じようにこれからも私は、どこまでも夏樹とずっと生きていくんだ。

 私たちは言葉もなく、少しずつ全身を現していく太陽を見つめていたのだった。

01起の章 暁は いまだ暗きに 降る時雨(しぐれ)夫(つま)の枕を きつくいだきぬ

「夏樹君。お昼に行かないか?」

 そう声を掛けてくれたのは、上司の松本さんだ。
 年は俺より5つ上の27歳。ブラウンのスーツを着こなしてなかなかやり手の人だ。

「あっ、お疲れさまです。……ええっと、俺は弁当があるので」
「愛妻弁当って奴か。かぁーっ、うらやましいね。……まあいいや。じゃあ、帰りにでも食事していこう」
「了解です」

 いやいや、松本さんだって結婚してるじゃないですか。お子さんだって、男の子と女の子が一人ずついる。

 それはともかく、除隊した俺は「善行証書」が評価され、三井物産で松本さんの下で正社員として働くことになった。こうして、たまに飲みに誘われたりしており、春香には悪いが、遅くならない範囲でご相伴にあずかっている。
 まだ交換台の時代で自宅に設置するにも許可がいるけれど、こういう時のために電話が無いと困るわけで、贅沢かもしれないけど自宅に電話を設置してある。


 もう10月に入ったが、昼間はまだ暖かいのでスーツのままで行くようだ。室内を見回すと、他にも外に食べに行く人たちがいるようだ。不景気が続いてうちの社も給与がさがったが、今のところはまだ、弁当組はそれほど多くないらしい。

 そう言えば、さっき時報のサイレンが鳴っていたな。時計を見ると12時を少し回っている。……俺も一旦切り上げて、お昼にするかな。

 机の上を片づけて、鞄から2段重ねの弁当箱と水筒を取り出した。
 ふたを開ける。1段目には俵型のおにぎり、2段目は卵焼きに肉団子、ゆで卵、ジャガイモにピーマン、ニンジンの素揚げが入っていた。その脇にはマヨネーズが添えられている。

 水筒からほうじ茶をコップに注ぎ、ひとり、両手を合わせ、
「いただきます」
と言ってから箸を取る。

 まずは卵焼きからだ。

 春香のお弁当は、その時代や地域に合わせてメニューが変わるけど、概して俺好みの味付けをしてあって安心して食べられる。
 やはり食は生活の基本だからな。おいしく食べられるに越したことはない。

 おいしくいただいてから、みんなが戻ってくる前に自宅に電話をして、帰りは遅くなると伝えておいた。

 さて三井物産だが、ここでは国内だけでなく海外との商取引がある。流通路を開拓して、海外との輸出入も活発だ。
 品目では鉄などの重工業品や機械から、生糸などの繊維、米・小麦粉・大豆などの食料品まで実に幅広い。
 アジアには中国関東州の大連、そして台湾に現地支社があり、そのほか、ニューヨーク、ヨーロッパ、オーストラリアなどにも支社を置き、かなり広く貿易の手を広げている。

 俺はまだ若く責任ある役職に就いているわけではないが、このまま勤務をすればいずれ海外出張や海外勤務も増えるに違いない。長期の時は春香も連れて行きたい。

 松本さんの担当はヨーロッパとアメリカ。したがって、俺も欧米支社とのやり取りや輸出入関係が多くなる。
 去年の世界恐慌で、今まで金本位で行われていた世界経済が崩壊し、各国では、他国の貿易品には関税を掛け、本国と植民地との流通を活発化させることで対応しているようだ。
 いわゆるブロック経済って奴だが、まだまだこの状況は続いていくと思われる。
 それに対応していかないと利益を上げられないばかりか、深刻なダメージを負うことになるだろう。

 事実、他の商社は世界恐慌の影響を受けて、軒並み業績を下げているのだ。

 とまあ、難しい話はここまでにしよう。コンピュータなどないこの時代。アナログの、それも数字を扱う仕事は集中しないといけない。

 午後の仕事が終わり、約束通りに松本さんと銀座に出た。肌寒い風が吹くようになった途端に、どこか秋の気配を感じてしまう。
 二人でのらりくらりと歩きながら、時折、立ち止まっては張られているポスターを眺めたりした。

「見ろよ。ハーレーのポスターだ」
「ああ、今は舶来物が人気ですからねぇ。……いいなぁ。ハーレー。俺も欲しいな」
「なんだ、夏樹君はバイク乗れるのか?」
「ええ。いちおうは」

 自動車だって免許証持ちだから運転できる。駐車場があれば自動車通勤なんてのもいいかもしれない。アメリカのハドソン社になるが、エセックス・コーチとか、なかなかお洒落だと思う。
 いやそれともサイドカー付きのバイクもいいな。そういえばSunBeamのカタログに、モデル6、ロングストローク・コンビネーションっていうのがあったっけ。

 ……いいな。休日に2人でドライブとか。
 どこかのお嬢さまのように白のワンピースを着た春香を隣に乗せて。雨上がりの林間道路、木漏れがキラキラと輝く道路を走る。
 バイクのブロロロという音と振動。そして、通り過ぎていく爽やかな風。

 それって、すごく妄想が広がる。今度、ぜひ検討してみよう。いやするべきだ。
 もちろん、多分に俺の願望が込められているのは否定しない。

「じゃあ後ろに奥さんを乗っけてと。うらやましいね」
「松本さんだって結婚してるじゃないですか」
「そうはいうけどよ。最近はおばさん化してきたからなぁ」
「いやいや。まだ20代半ばでしたよね」
 そう突っ込むと、乾いた笑いを浮かべていた。「ま、子供もいるしな」

「しかしビールは各社とも、随分とポスターに力を入れてるな」
「たしかに。季節ごと、和装、洋装とバリエーションが多いですね」
「俺なんか、これ好きだな」

 松本さんが立ち止まったのは、まだ若い16~18歳くらいの美少女が、華やかな和服を着て日本酒の瓶を持っている絵だった。

「この眉に、はにかんだ笑顔が、こう、キュンとこないか?」
「それって日本酒造のじゃないですか。ビールのじゃない。……でも、確かにかわいいですね。笑顔も自然で、これはモデルもいいし、絵師もいいですね」
「だろ? もっと大人の女の絵もいいけど、やっぱこれくらいの少女のがいいな。鬼も十八、番茶も出花ってところか」
「それってめてないような……。花の16歳とかどうです?」
「おっ、夏樹君、上手いな。花の16歳いいね」

 仕事帰りの時間帯。
 銀座では道路の街灯がともり、カフェーのネオンが輝いている。通りには多くの人々が歩いていた。
 オールバックにロイドメガネの若い男性。それに髪を短く切り、洋装で颯爽と歩く女性たち。
 流行の最先端を行く、モダンボーイにモダンガールたちだ。こうした繁華街の雰囲気は、いつの時代も変わらない。

 俺たちの脇を助手席に女性を乗せたタクシーが走っていく。
 それを見送った松本さんが、
「銭タクか。……不景気だな」
とつぶやいた。
 どういう意味かっていえば、あの助手席の女性は客引きなんだよ。お客が乗ると、運転手から客引き代を貰って降りるという寸法になっている。不景気になると、色んなサービスが増えるもんだ。

「さてと松坂屋のレストランってのも男同士じゃ、ちょっとな。黒猫亭に小夜子って女給がいるらしいが……。君はカフェー・タイガーとかユニオンも駄目だったっけ?」
「はい。嫌いじゃないですけど、確実に家内にバレますしね」

 あそこはちょっとね。若い女給さんが体を寄せてきたりするからなぁ。それに一部過激なサービスの所もあるから要注意なんだよ。
 意気地なしと言うなら言ってもらってかまわない。だが、俺は入る気がしないというか。
 ユニオンなんて、今年、大阪から進出してきたところだけど。話に聞くだけでも、俺は苦手だ。
 そんなことより、春香に色んな格好してもらった方が……。春香もノリノリでやるだろうし、絶対に楽しいと思う。

「ははは。確かにあの奥さんは敏感そうだったね。それに君もどこか潔癖けっぺきなところがあるよ。……じゃあ、グリル銀座にしようか」
「はい」

 また二人で銀座を歩く。大震災でかなりの被害を受けた銀座だが、こうして歩いているとすでに復興を遂げたといっていいと思う。
 西洋建築の建物も多いが、中には「大新」のような町屋風というか和風の建築もあって、そういうところは平成の京都に近いかもしれない。

 グリル銀座は装飾のないあっさりした建物だが、正面上に「GRILL GINZA」とアルファベットの文字が、看板として壁から浮かして取り付けてある。その両サイドのポット照明が、入り口を照らしていた。

 中に入って席に案内をしてもらい、早速、料理の注文をした。俺はビーフシチューを、松本さんはカツレツだ。

 照明に照らされた店内は、まさに洋食屋さんといった風情で落ちついた雰囲気だった。他にも数組のお客さんがいて、お店の入りは5割といったところか。和服にエプロンの女給さんが動き回っている。

 さきにビールを持って来てもらって乾杯をすることにした。
「お疲れさま」「お疲れさまです」
 ぐいっとグラスに口をつけた。
「ふぅ」
 グラスを置いたあと、さっそく松本さんが本題に入ってきた。

「さて、もう仕事にはだいぶ慣れたようだね」
「ええ。お陰様で」
「それはよかった」
 そこで松本さんの雰囲気が変わった。

 真剣な眼差しになり、
「昨年の世界恐慌の影響はどこまで把握している?」
ときいてきた。俺はおしぼりで手を拭きながら、
「そうですね……。実際は恐慌前にすでに慢性的不況となっていたようですね」
「ああ」
「うちは、同業者との協調や地方市場への進出、外国間貿易の促進を次々に展開したようですが、結果的にそれが良い影響を与えているようですね。
 アメリカで絹業界が活況となれば、日本産だけでなく上海や広東の生糸を輸出する。……これって松本さんの主導でしょう?」

「ほお、そこまで把握していたか」
 松本さんは感心感心といいながら、
「……ただそれでも今度の恐慌は厳しそうだ」
と言う。
 それには俺も同意する。実際、海外からの報告を見ると、どんどん影響が広がって行くのがわかる。

「生糸の価格が下がって来ていますし、国内でも地方問屋が力をつけてきていて、中央市場での我々の影響力も弱体化しているようですね。
 海外も中国市場、南洋・インド方面も購買力が低下してきているようですし、アメリカの大規模市場も当面は落ち込むでしょう」

「俺も同意見だ。他社の知り合いに探りを入れたが、他社はかなり利益が落ち込んでいるみたいだ」
「そうですか……」
「三菱で、株式で集めた資本金に対して、利益率が19.5%から2.6%に大幅下降。日綿なんて、13.9%だったのが、今年上半期で一気に赤字148%を越えたとか」
「ちょ、ちょっと。どこからそんな数字を……」

 やばい、この人。そんな内部の数字をどうやって手に入れたんだ。

 少し戦慄せんりつを覚えながら、松本さんを見ると、
「まあ、色々とな」
と軽い調子で手をヒラヒラさせていた。

 さすがは若手のホープ。上層部でそういう情報が流れているのかもしれないが、かなり目と耳が広いようだ。
 ……まあ、上司でいる限りは安心していていいだろうけど。

「うちは、物価上昇を見込んでいた在庫を整理した。それと外国間の貿易を推進して、国内の赤字分を挽回する方針だ。
 まあ、もともと独占販売契約をしている取引先を、今度は売り手先ともしていくだろうし、幸いにうちの主要商品の機械なんかは政府に買い上げてもらっている。財閥だから、系列の会社も販売相手にできるし、そういう対策で、他社ほど利益率が低下しているわけじゃない」
「なるほど」

「あとは市場開拓として薄利多売をしていく必要があるかもしれない。不況を切り抜けた後でも、重要な流通路として機能させられるだろうし」
「地方販売網の構築、拡大ですね」
「その通り」

 そこへ料理が運ばれてきた。松本さんはグラスに残ったビールを飲み干して、
「お代わりを」
と注文した。
 どうする? と目できいてきたので、俺も注文することにした。すぐにビールを持って来てくれたが、すぐには口を付けずに話の続きをする。

「あ、そういえば気になってることが一つあります」
「なんだい?」
「今年はどうも全国的にお米が豊作になっているようです。値崩れしてるんじゃないかって思っているんですが」
「ああ。それは別の所からも話が出ていた。こないだ市場取引が停止したって話だから、農家にとっては大幅な収入源で打撃になってるそうだ」
「いくらか買い取って輸出とかは……」
「う~ん。内地米は米騒動の時から政府に統制されているからな。ただこの機会に販路を開拓するのはいいと思うが」

 どうやら松本さんはあまり乗り気じゃなさそうだ。
 それもそうか。今年は豊作だったからといって、来年もそうだとは限らないしな。安定した取引量が見込めないなら、むしろリスクが増えるだけか。

 そう思い直し、ビーフシチューを口に運んだ。
 やや酸味があるが、深い味わい。トマトだろうか。中の牛肉もほろほろと崩れるくらい柔らかい。
「……うまい」
 感慨深くそうつぶやいたら、松本さんもカツレツを一口食べて、
「こいつがビールに合うんだよ」
と言いながら、さっそくお代わりのビールをぐいっとあおっていた。

「まあ、これからもよろしく頼むよ」
「はい」

――――。
 ビールも入って盛り上がった食事も終わり、店の前で松本さんと別れる。

 銀座は相変わらずネオンが輝き、客待ちの円タクが並んでいる。露天が店を出していて、牛飯を食べている男性がいる。グランド銀座のネオン、アセチレンガスの街灯が、どことなく哀愁を漂わせているように見えた。
 

 不景気。恐慌。
 まだ流れはよく見えないけれど、時代は少しずつ悪い方向へと進んでいる。ジワジワと足元から何かがい上がってきている。……そんな気がした。

 街角でサラリーマンを捕まえようとしている女性。アヤカフ怪しげなカフェの女給だろうか、はたまた街娼か、それともキッスガールだろうか。
 明るく誘いかけている表情の奥に、焦りと諦めが透けて見えるような気がする。
 彼女らも生きていくのに必死なのだ。

 俺は深く息をついた。
 空を見上げると、ビルの照明の向こうに、細くなった月が輝いていた。

「――帰ろう。春香のもとに」
 なぜか無性に春香のぬくもりが恋しくなった。駅へ急ぐことにしよう。

01起の章 暁は いまだ暗きに 降る時雨(しぐれ)夫(つま)の枕を きつくいだきぬ

 初めて夏樹のいない正月を迎え、季節はめぐり、再び6月になった。

 夏樹が入営して早や一年が過ぎ去り、もうすぐで半年が過ぎようとしている。
 とはいえ、最近は日曜日の度に外出の許可をいただけているらしく、以前ほど寂しいということはなくなっているのが素直にうれしい。

 階級は一つ上がって一等卒になったそうで、しかも教育がかり補佐を命じられたという。本来は上等卒が教育掛になるだけそうだが、さらにその補佐をするらしい。
 そのため、他の同期の人たちは特殊技術の習得のために外部に長期に詰めることもあったそうだけど、夏樹はそのまま連隊内にとどまっている。お陰様で外出の時に会えるので、良かったかなって思っている。
 馬の世話もしているといっていたけど、初年兵への教育もあって、相変わらず忙しい日々を過ごしているらしい。

 私の方は、夏樹から「頼むから外に働きに出ないでくれ」ということで、畑作業をしながら、たまにお出かけしたりするくらいだ。
 旅行はしない。せいぜい都心までお買い物に行く程度。だって女の一人旅なんて、この時代も案外危険なのだから。

 家で時間のあるときには、今まで集めてきた書物の整理をしたり、改めてじっくりと読んでみたり、創作として短歌を作ったりしている。
 いくらかノートに書きつづっているけど、あんまり上手じゃないのと恥ずかしいから披露ひろうはしないけどね。

 さてと、今日は銀座の資生堂パーラーに来ている。
 洋食屋さんなので服装も洋装で合わせ、白のブラウスにモスグリーンの細身のロングスカート。同系色のベストを着て、コーデュロイ生地のキャスケットは椅子の上に置いてある。スカーフを巻いて、ちょっとボーイッシュなスタイル。

 店内は中央が吹き抜けとなっていて、シャンデリアが掛けられ開放感がある。けれど、私はテラスになっている2階の席の、それも端っこにしてもらった。ディナーの時間帯は、オーケストラボックスで生演奏を聴けるそうだけど、今の時間はやっていないようだ。
 普段から混んでいるお店でも、昼食時を外したこの時間帯なら空いているようで、ゆったりと落ち着ける。

 ダージリンにビスケットを注文すると、ウェイターが離れていく。一人になったところで、そっと耳を澄ませば、談笑するご婦人の声、ウェイターの注文を受ける声、そして、微かに窓の外のにぎわいが聞こえてくる。
 太陽の光が、昼下がりの店内にやらわかく射し込んでいた。

 この光景だけ見ていると、昨年10月からの世界恐慌が遠い世界の出来事のように思える。けれど給与は削減され、家計が苦しくなっているところも多いらしい。

 銀座のお店らしいさざめきに身を浸し、その空気を味わっていると、お盆を持ったウェイターが戻って来た。
 白いレースのかかったテーブルに、紅茶の入ったティーポットを置いて上からカバーをかぶせる。その脇にちょこんと砂時計が置かれ、最後にビスケットの入ったお皿をそばにおいて、一礼して下がっていった。


 さらさらと落ちていく砂を見てゆったりと気持ちになりながら、かばんから先日届いた夏樹の手紙を取り出した。


――春香へ。

 もうそろそろ梅雨に入るころで、最近はちょっと雨が降ったと思ったら、晴れて蒸し暑くなったりと忙しい天気だな。
 そっちは変わりなく過ごしていることと思うが、今日は驚きのニュースがある。


 そこまで読んで、私は一人ほくそ笑む。
 ふふふ。一体なんだろうね。

 ワクワクしながら、続きの文面に視線を走らせた。


――前に話したと思うけど、青年訓練所を卒業した人には半年の兵役短縮っていう決まりがある。正確には、さらに中隊長殿の試験があるんだけど、それはまあいい。案外、この青訓を出ていない人もいたりするけど、それもまあいい。

 実はな。俺も半年短縮となった。
 思わず飛び上がって喜びそうになって、表情を抑え込むのが大変だったよ。

「――え? マジ? ほんと?」
 半年短縮の文字を見て、無意識のうちに独り言が漏れる。

 え、やだ。すごくうれしいんだけど。嘘じゃないよね。

 手紙を持つ手が少しずつ震えてくる。……本当、なんだ。本当なんだ、これ!


 喜びがジワジワと湧いてくる。自分でニンマリと笑みを浮かべているのがわかる。
「やっ」
 たーと叫びそうになって、ここが店内であることを思いだし、あわてて口を閉じた。

 周りをチラリと見ると、何人かが私の方を見上げていたけれど、目が合うとすぐに視線をそらされた。

 ははは。やっちゃったかな。――でも、うれしい。

 今すぐに立ち上がっておどりしたい衝動に駆られるけど、我慢して椅子に座り直す。気分が落ち着かない。

 帰ってくる。帰ってくるんだ。夏樹が!
 気がつくと、ちょっと目尻に涙がにじんでいた。そっと目を閉じて、周りに気づかれないようにハンカチで目尻を押さえた。

 微笑む夏樹の顔を思い出しながら、喜びをかみしめる。
「ふふふ」と含み笑いをしながら目を開けて気がついた。とっくに砂時計の砂が落ちきっている。
 でもそんなこと、今はかまわない。

 少し気分が落ちついてきたので、カバーを外して、ティーストレーナー茶こしを通して紅茶をカップに注ぐ。濃いめの紅茶が白磁のカップに映えている。
 立ち上るダージリンの、どこかマスカットにもプラムにも似た香りが立ち昇った。
 口を付けると、いつもよりも渋みが強かった。けれど、その渋みが美味しいと思う。

 カップを置いて、再び夏樹の手紙に目を落とした。1枚目をめくり、2枚目に目を通す。


――理由を聞くとなんとも世知辛せちがらいんだが、どうやら予算の関係で、青訓未終了者でも10人に1人くらいは除隊にせざるを得ないらしい。
 俺が選ばれたのは……、あの軍規に厳しい連隊長殿の手配とは思えないから、班長殿か、中隊長殿のお陰なのかもしれない。うちは、俺とお前の二人暮らし、お互いしか身寄りがいないからだと思う。

 それはそうと、除隊までは気を緩めずにいたいと思う。気を引き締め、引き継ぎもしっかりしないといけないしな。
 残念なのは、そうだな。今年の秋の銃剣術大会に出られそうにないことだが、まあそれは仕方がないだろう。
 除隊の後だけれど、町内会の人に除隊祈念の盃を配りたいと思う。その時は一緒に挨拶回りになるが、よろしく頼む。

 それじゃ、また詳細がわかったら連絡するよ。
 いざ除隊が決まると、早く会いたいっていう気持ちが心を占めているよ。
 愛してる。   夏樹。

「愛してる」の文字に、いつもながらニマニマとして、珍しく書き添えてあった追伸文に目をやった。


――追伸 帰ったら夏樹枕を見せてくれ。ついでに手のひらサイズの春香人形も作っておいてくれるとうれしい。では。


「……ゴホッ、ゴホッ」
 夏樹枕! 春香人形って。

 吹き出しちゃったじゃないの。
 無作法してちょっとこぼれちゃったので、口元をナフキンでぬぐう。

 う~ん。夏樹枕はとりあえず洗濯して隠しておくとして、私の人形か。どうしよう……。

 思わぬお願いに微妙な気持ちになりながら、カップに手を伸ばす。
 こりゃ、困ったぞ。

 急に照れくささと恥ずかしさがこみ上げてきて、なぜか額に汗がにじんできた。


◇◇◇◇
 とうとう6月30日になった。今日は夏樹が帰ってくる日。

 昨日の昼ごろに降り出した雨は夜に止んで、強い風に雲が払われて、昨夜は星々がきれいに輝いていた。
 夏樹が帰ってくるとなると、どうにも興奮しちゃって寝られなく、結局、電灯もつけずに縁側に座り込んで、ガラス戸越しに星空を見上げていた。
 朝方にうつらうつらとしてしまったけど、日の出とともに目が覚め、それからずっとそわそわしている。

 わざわざ迎えに来なくていいとのことだったので、家で帰りを待つと返事をしてあった。いざ当日になると、やっぱり迎えに行った方が良かったと後悔している。

 だって……。もう、落ち着かなくって、朝から玄関を出ては駅の方を眺めたり、また玄関に入ってちょっと腰を下ろし、またすぐに玄関を出たりしてる。廊下の窓だって何回も開けたり閉めたりしてしまい、今ではもういいやと開けっぱなしだ。

 自分でもおかしいと思うんだけど、どうにも止められないでいる。

 まだかな。もうすぐかな。

 また外に出ようと玄関を開けたところで、お隣の高木さんが門扉の向こうにいた。
「春香さん。ちょっとは落ちつきなさい。さっきから見ていればなんですか、行ったり来たり、行ったり来たりと」
と言いながら微笑んでいる。

 玄関先で面倒な人につかまってしまった。
 この人、40ぐらいの小柄な女性なんだけど、色んなことに細かくって。でも、今日は随分と雰囲気がやわらかいような気がする。

「はい。そうなんですけど。どうにも」
「まあ、気持ちはわかりますけどね。……あ、ほら。来ましたよ」
「本当ですか!」
 道路に飛び出した私に高木さんが何か言っている。
「ですから、落ちつきなさいって」とか何とか。

 駅の方に通じる道。
 その向こうから、カーキ色の軍服を着た夏樹がやってくる。
 お休みごとに帰ってきてはいたけれど、兵役を勤め上げた今、その顔はいつもより凜々りりしく、そしてたくましく見えた。

 まっすぐに私を見ているその視線に、胸がキュンと締めつけられる。
 少しずつ大きくなる夏樹の姿。やがて3メートルほど離れたところで、すっと立ち止まった。ほんの少し遠い、この距離が妙にもどかしい。

「夏樹一等卒、只今、帰りました」

 そう言って頭を下げる夏樹。私も深く頭を下げる。
「お帰りなさいませ。無事にお勤めを終えられ、誠におめでとうございます」

 頭を下げながら、すぐ横で高木のおばちゃんも頭を下げていることに気がついた。

 ゆっくりと頭を上げると、夏樹がいつもの雰囲気に戻っていた。
 二マッと笑って、
「ただいま。春香!」
と言う。反射的にパッと抱きついて、
「おかえり」
と言うと、すかさず後ろ頭をスパーンと叩かれた。高木さんだ。
「これ! はしたない!」

「すみません」と言いながら渋々しぶしぶ離れると、「そういうのは家に入ってからになさい」とありがたいご注意をいただく。

 夏樹が苦笑しながら、
「高木さんもありがとうございます。また留守中、春香がお世話になりました」
というと、おばちゃんは、なんでもないというように手を振って、
「いいえ。どうせ春香さんの添え物ですから、私は」
「どうもありがとうございます」

 ひしっと夏樹の手を握っている私をじっと見て、おばちゃんは珍しくいたずらっぽい表情になった。なんだろう?

「奥さんが、朝からずっと出たり入ったりしていましたから、こっちも落ち着かなくて、家の掃除なんてとてもとても。……さあさ、どうぞ家に入られて。私もこれでゆっくりと掃除ができます。挨拶はまた改めて回ればよろしいでしょう」

 あ、あああ、あ。
 それは言わないで欲しかった……。恥ずかしい。

 見上げると夏樹が苦笑していた。

「へえ……。そうだったんだ。ありがとうございます。今はお言葉に甘えさせていただきますね。……春香。中に入ろう。高木さん、また後日」
 夏樹に肩を押されるままに、私も一礼をしてから二人で玄関に入った。

 居間で、夏樹が軍服を脱いでいく。
 一つ一つ横で受け取りながら、丁寧に畳んでいく。硬く丈夫な生地。全体的に色あせていて、落とし切れていない汚れが何箇所もある。ボタンが取れた後で直したのだろうけど、前のボタンのほつれた糸がまだ残っていた。

 これを着て訓練していたんだ。こんなに重くて、動きにくそうな服。
 ひじのけているところなんて、ちゃんとわれていないじゃないの。

「――そこは、去年の特別大演習で引っかけたんだよ。いくら縫っても破れちゃってさ」

 私の見ているものがわかったのだろうか。夏樹がそう教えてくれた。

「11月14日から5日間。手紙にも書いたろ? 最終日に水戸練兵場で観兵式をやったやつ。……ほら、俺たち第一師団は南軍白川陸軍大将の指揮下でさ」

 うん。手紙でそんなことを書いていたけど、実は私にはさっぱりわからなかった。でも、この裂けた肘の所を見ると、過酷だったんだろうな。
 そう思いながら、そっと穴の縁を指でなぞる。

 すでに夏樹はズボン袴下も脱ぎさり、今は襦袢じゅばんのボタンを順番に外している。不意に思い出したように、
「ああ。そうそう。さすがに上等卒にはなれなかったけど、……善行証書ぜんこうしょうしょってのをもらったよ」
と言う。

 善行証書?

「ほら。一月の隊対抗競技で銃剣術は班内で一番だったし、使役のうまやでもさ、気難しい馬がいて、よく週番上等卒に頼りにされてたしね」

 ああ、なるほど。何となくわかる。
 どんな仕事でもお役目でも、経験の度合いが他の人とはまったく違うから。頼りにされたんだろう。

 夏樹は着替え終わると、部屋の中央でごろんと大の字になった。私はそのそばににじりよって、寝転んでいる夏樹の顔を上からのぞき込む。

「あ~、疲れた! マジでもう。今日は家でゴロゴロするぞ」

 その宣言をする夏樹が可愛らしい。そして、そんな夏樹あなたが大好きです。
 こうしているだけで、わけもなくニコニコと笑顔になってしまう。

 そばにいるってこと。夏樹がここにいるってこと。明日も、明後日あさっても、明明後日しあさっても、そのまた明日もずっと、ここにいるってこと。
 それがとてもうれしい。

 不意に、窓辺の風鈴が涼やかな音を響かせた。
 その音を聞きながら、私は夏樹の胸もとに潜り込む。

 ……今日は、私もゴロゴロしよう。夏樹と一緒に。

01起の章 暁は いまだ暗きに 降る時雨(しぐれ)夫(つま)の枕を きつくいだきぬ

 ――この前、カレンダーを見てみたら、いつの間にか8月になろうとしていて驚きました。あなたが入営してからもう7ヶ月も経っているなんて。

 今まで手紙には心配させるからって書かなかったけど、実は最初の頃は何も手につかなくって。夜も独り寝が怖くて、何回も戸締まりとか確認したりしていました。
 でも今はそれも慣れてきています。……多分。
 これは内緒だけど、実は夏樹枕を作ったので、毎晩、抱きついて寝ています。

 畑の野菜も順調に育っています。お隣の高木のおばさんも何かあったら相談しなさいと、結構な頻度でうちに顔を出してくれています。

 なんだか今年はひどい不景気なようで、大卒の学生さんも就職難になっていて、失業者も多いみたいです。おばちゃんが言うには、「大学は出たけれど」なんて言葉が流行してとか。

 この前、酒屋さんに行ったときに、晋一郎君が急性胃炎となり休養室に入室になったと聞きました。夏場なので、なにか痛んだものを食べたのでしょうか。あちらの親御さんが心配しておりました。貴方は……、まあ大丈夫だと思いますが。

 前に外出をいただいて帰ってきた時に聞いたけど、教練の方は順調でしょうか。銃の扱いにも慣れた夏樹のことですから、心配はいらないと思いますが、くれぐれもやり過ぎませんように。

 暑い時期です。一段と訓練が厳しい時節とは思います。心配は無用とわかってはいても、くれぐれもお体を大事にされて下さい。また次の外出を心待ちにお待ち申し上げております。
 いつも胸の内には貴方がいます。貴方も同じ気持ちでいることも。
 ではまた。愛しています。           春香より


――――。

 最後の言葉を読んで、思わず頬がゆるむ。
 今は夜の点呼前の空いた時間。休憩や読書、自習の時間だ。

 それにしても、春香。
「夏樹枕」って抱き枕だよな。なんてものを作ってんだ……。
 でもまあ、それで安心して寝られるなら、それでもいいか?
 作られた本人としては照れくさくて、ムズムズするが。

 たしかに晋一郎君は急性胃腸炎になっていた。
 でもそれは、晋一郎君だけじゃなくて、他に何人も胃腸炎になって、休養室送りになっていたんだ。
 原因は多分、みんなで食べたまんじゅうだろう。きっと傷んでいたんだと思う。酒保で買ってから2日もたってから食べたから……。
 もっとも、もう全員回復しているからなんてことはない。一人だけ何ともなかった俺は、「お前の胃袋は鉄でできてる」と言われたっけ。

「おい、夏樹」
 突然、背後から声を掛けられて振り向くと後藤班長殿だった。
「はいっ」
 あわてて立ち上がろうとするが、手で止められる。
「かしこまらんでいい。また奥さんから手紙か」
「はい。そうであります」
「まったくうらやましいな。前に中隊長殿がおっしゃっていたぞ」

 中隊長殿が? 何か問題でもあったのだろうか。

「何とでありますか?」
「手紙やはがきには検閲をしているが、係からお前のはもう読みたくないとの訴えがあったそうだ」
「は、はい」
「何でも、見ていて胸やけがするらしい」
「……はい」

 後藤班長殿の微妙な笑みに、何と答えたものか。返答に窮する。
 その時、兵室のドアが開いて、一人の下士官が入ってきた。……なんと中隊長殿だ。
 誰かがすかさず「敬礼っ」と言い、室内に居た全員が立ち上がって中隊長殿に敬礼をした。

「夏樹二等卒はいるか?」
 あわてて中隊長殿に向かって、
「はいっ。自分であります」と返事をすると、
「よし。付いてこい」
と言う。

 は? いきなり? 一体なんの用だろう。

 一瞬、混乱したのは仕方がないと思う。班長殿だっていぶかしげな顔をしている。
 しかし、そんなことはお構いなしに、中隊長殿が、班長殿に点呼には戻らせると伝えた。
 状況がよくつかめない。同期のやつらも二年兵たちも、俺を注視している。何かした覚えもない。緊張しながら「行って参ります」と言い、俺は中隊長殿の後ろについて廊下に出た。

 廊下に出ると、中隊長殿が、
「実はな。新しい連隊長殿が直接聞きたいことがあるそうだ」
「はいっ。……連隊長殿がですか?」
「そうだ。お前の履歴書を見てな。直接確認したいことがあるらしい」

 そのまま中隊の兵舎を出て連隊本部に向かう。ちょうど日没した頃で、外は夕闇せまる優しげな色をしていた。
 けれど昼間のひどい蒸し暑さは、風がないせいもあって、今もなお熱気が残っている。

 新しい連隊長殿。
 それは今月8月2日に着任した東条英機とうじょうひでき大佐。……そう、あの東条英機である。太平洋戦争を始めた軍人宰相の。
 同じ連隊とはいえ、俺みたいな兵卒には検閲の時くらいしか見かけるような機会はない。その連隊長殿が俺を指名だなんて、一体なんだろう。

 中隊長殿と2人で本部の入り口に向かうと、そこで本部付き下士官が待機していた。

「夏樹二等卒か」
「はいっ。夏樹二等卒でありますっ」
「よろしい。では中隊長殿もご一緒にお願いします」

 連隊本部なんて、まず入ることなどない。緊張しながら付いていくと、やがて一つの扉の前で下士官殿が居住まいを正してノックをした。

「失礼します! 夏樹二等卒を連れて参りました!」
「入れ」
「はっ。失礼します」

 中隊長殿にうながされ、先に中に入ると、正面の机の向こうに東条連隊長殿がいた。中肉中背、丸眼鏡をして、見定めようとするかのように、俺をじっと見つめている。

「夏樹二等卒でありますっ。失礼しますっ」
 敬礼をし、直立不動の姿勢となる。
「直れ。……履歴に外国から帰国とあったが、これは本当かね」

 なんだ帰国前のことを知りたいのか。

「はい。本当であります。かつてイギリスに住んでおりましたが、ドイツに滞在の後、フランスのマルセイユより船便で帰国いたしました」
「ドイツには何の用で行ったのかね」
「はいっ。自分は考古学の学徒であり、バイエルンのバート・テイツに、アルベルト・グリュンヴェーデル博士を訪ねました」

 博士が少し前に、中央アジアの発掘調査報告を本にまとめられたんだよね。トルファンやクチャのキジル石窟とか。仏教美術の遺跡として名高く、敦煌とんこう壁画との対比もされて論じられることが多い。特にキジルは変相図へんそうずなど、実に鮮やかに描かれていた壁画だったはずだ。

 案に違わず博士のところで、一緒に調査に同行したアルベルト・フォン・ル・コック氏にも話を伺ったが、ラピスラズリを原料とする青の彩色について、実に熱の入った説明を受けたものだった。
 前室と後室の構造……、っといけない。今は連隊長殿の前じゃないか。

「ほう。バート・テイツに……。それで帰国した理由は?」

 これはもしかしてスパイだと思われているのか? 
 丸眼鏡の向こうから、じっと俺の心を探るような目で見ている。表情がほとんど変わらないから意図がつかめない。
 日本で戦争を経験するためなんて答えられないが。…………すまん。松本さん。名前を出させてもらう。

「イギリスに居りました際に、日本から留学しておりました年上の松本氏と出会い、意気投合し、日本に帰ることを決意しました」
「その松本というのは?」
「はい。三井物産の私の上司であります」
「そうか。一つ聞きたい。ドイツで彼の国、そして国民についてどう感じた?」

 おや? この質問の意図はちょっとわからないな……。

「自分はグリュンヴェーデル博士が目当てでありましたが、概して生真面目な国民性を持ち、我ら日本人と近しいところがあると感じました」
「そうか」
「――ただ、ビールを飲むと途端に誰よりも陽気になります」

 俺の返事を聞いた連隊長殿の口元がピクリと動いた。

 ビールを飲んだ彼らはやばいんだよ。ものすごく陽気になって、いつだったか、みんなでテーブルの上にのぼって歌い出して、それを店員が怒っているのにお構いなしで、お店にいたずらしたりと、性格が一変してた。

「そうか。わかった。……もう一つ。もし中隊長が幹部候補生に推薦すると言った場合、これを受けるかね?」
「いいえ。辞退いたします」

 即断だ。とんでもない。幹部候補生になどなっては、春香と離れる期間が長くなるじゃないか。

「その理由は?」
「自分には妻がおります。国内に身寄りがなく、今も一人、自宅で暮らしております。自分がいませんと、妻が困窮してしまいます」

 次の瞬間、連隊長殿は本気で机を叩いた。バンッという大きな音が響く。
 烈火のごとく怒り、大きな声で吠える。

「帝国軍人には尊い使命がある。貴様はそのことを理解しておらんのか!」

 ものすごい気迫。ビリビリと、まるで声そのものに圧力があるかのように、身体が押されそうになる。
 あわてて、
「はいっ。存じておりますっ」
と答え、まっすぐに連隊長殿の目を見つめた。今、目を離してはいけない。絶対に。

 緊迫した空気。時間が長く感じる。
 やがて、
「まあ、いい。わかった。……戻れ」
「はいっ。失礼いたしますっ」

 俺は敬礼をし、中隊長殿に連れられて連隊長室を退去した。

 本部棟を出たとき、思い切って中隊長殿に尋ねてみた。
「中隊長殿。少しよろしいでしょうか」

 立ち止まった中隊長殿が後ろを振り向く。
「なんだ?」
「連隊長殿に叱られてしまいましたが、まずかったでしょうか」

 すると中隊長殿は、ちょうど満月を迎えた空を見上げ、逆に尋ねてきた。
「昨日の飛行船は見たか?」

 そう。昨日は8月19日。ドイツの飛行船ツェッペリン伯号がやってきた日だ。
 演習中だった俺たちも、班長殿の指示で長めの休息となり、みんなが空を見上げて巨大な船体に大騒ぎをしていた。
 第1次世界大戦で敗戦国となったドイツ。経済がどん底まで落ち込み、多額の負債もあっただろうけど、あの飛行船は復興を感じさせるものだった。

「連隊長殿はな。ドイツびいきなんだ。それでお前の経歴が気になったんだろう。心配はいらないと思うが、軍規にも細かく厳しい人だから注意しろ」
「はいっ。ありがとうございました」
「では、早く戻るぞ」
「はいっ」

 再び中隊長殿の後ろを歩く。
 月光に照らされた兵営は、まるで別世界のように見えた。

 中隊の兵舎に入ると、なぜか無事にここに戻ってこれたという実感が湧いてきた。さして、たいした危険もなかったけれど、妙に安心する。俺もこの兵舎暮らしに染まってきているのだろう。

 中隊長殿と分かれ兵室に戻ると、室中は微妙な雰囲気に包まれていた。
 なにがあった?
 そう戸惑いながら、帰還の報告をして同期の所に戻ろうとしたとき、戦友の鈴木鉄一殿に呼ばれた。

「はいっ」
と返事をしてそばに行くと、そのまま部屋の隅に連れて行かれる。

 連隊長殿と何があったのかを尋ねられたので、会話をそのまま伝えると、「そうか」とだけ言い、何かを考えるような仕草をしている。

 この人、無口だから、こういう仕草はいつもなんだけど。ついでなので兵室の雰囲気について尋ねてみた。

 小さい声で説明をしてくれたところによると、俺がいない間に連隊長殿直々の厳命が伝えられたという。初年兵と軍服を交換させた者は元に戻すようにと。

 ……ああ。なるほど。確かに新品である俺たちの軍服と、交換させている二年兵の人がいたっけ。

 昼間に俺たちの演習風景を、連隊長殿が視察していた。きっとその時に気がついたんじゃないだろうか。

 鉄一殿が小さく笑った。
「俺には関係ないがな」

 なるほど。兵室の雰囲気がいつもと違うのはそれが理由か。
 俺の戦友殿はそんなことをしていないから平気なようだが、戻した方も戻された方もちょっと気まずいんだろう。

 どうやら軍規に細かいというのは、その通りであるようだ。


◇◇◇◇
 9月に入ると、突然、連隊長から一泊の外泊許可が出された。
 班が、前半組と後半組に分かれて外泊となるが、それまで班長殿や教育係の上等卒から、外泊の際の注意事項を毎晩のように聞かされる。

 普段の外出と共通することも多いが、特に帰営時間には絶対に遅れるな。電車内では上官と老人に席を譲ること。上官には欠礼をするなという三カ条は、本当に耳にたこができるくらい、しつこく言われた。
 同期が言うには、自分らの初年兵の時は外出は許可されても、外泊許可が無かったから、やっかみもあるんじゃないかということだ。それを聞いて、なるほどと思ってしまう。

 俺は後半組になってしまい、前半組の奴らが意気揚々と出て行くのを見送った。
 人手が足りなくなった分、サンパチ歩兵銃の手入れがあわただしかったが、自分らも次と思えば苦にはならない。二年兵の先輩たちも、この間ばかりはビンタ一つしなかった。

 後半組の番になって、俺もみんなと一緒に営門を出てまっすぐ家に向かった。
 どこかウキウキした気分で、もっとも街中でも上官に出逢う度に、一々敬礼をしないといけないが、早く家に着かないかと電車に乗っていても妙に気がいてしまう。

 ようやく自宅が見えてきた時、俺は知らずのうちに走り出していた。

 玄関のドアを叩き、
「ただいま」
と大声を出すと、中からドタドタと足音がして、春香がガラッと玄関の戸を開けた。
「おかえり」

 その声を聞いた途端、ばっと玄関に入って春香を抱きしめる。
 春香のぬくもりを両腕で、胸で感じつつ、頭に顔を押しつけて髪の匂い、身体の匂いを吸い込む。
 どこか気を張っていたのだろうけど、クスクスと含み笑いの声、春香の匂いをかぐと帰ってきたという実感が湧いてきて、ようやく肩の力が抜けた。

 玄関に鍵を掛け、着替えてから居間に向かうと、すぐに春香がお茶を入れて持って来てくれた。

 開口一番、
「この前ね。お客さんが来たんだよ。……誰だと思う?」

 お客? この言いぶりからして松本さんじゃないな。酒屋の晋一郎君のお母さんでも、お隣さんでもなさそうだ。

 心当たりがなく返答しかねていると、クスッと微笑んで、
「東条英機連隊長さん。驚いた?」

 は? 連隊長殿?

 俺の表情を見て春香がおかしそうに笑う。

「旦那さんが留守をしているご婦人の家には上がれないって言って、玄関先ですぐに帰っちゃったんだけどね。
 なんか生活の様子を見に来たみたいよ。旦那さんは帝国陸軍の軍人として立派に勤めているから、貴女もしっかりと家を守りなさいとかなんとか。困ったときには社会局とか方面委員に相談するようにってさ」
「ふうん」

 なんだろう。この前、身寄りがないと言ったからか? 春香のことを心配して来てくれたのか? たかが一兵卒なのに?

「あの東条英機だよね。私おどろいちゃった。……案外、部下の面倒見がいい人なのかもね」
 そういう春香の顔を見てなるほどと思った。俺は詳しくは知らなかったが、案外そうなのかもしれない。

01起の章 暁は いまだ暗きに 降る時雨(しぐれ)夫(つま)の枕を きつくいだきぬ

 早や3ヶ月が過ぎキツかった基本教練にも少し慣れてきた頃、第1回目の検閲があった。いわゆる期末テストって奴だ。
 検閲するのは連隊長殿直々なので、班長殿もどこか緊張しているように見えた。

 フル装備の軍装をきちんと身につけられているかのチェック、そして、38式歩兵銃の整備がきちんと行われているかの兵器検閲。
 さらに号令に合わせて、「右向けぇ、右」や行進の集団行動徒手教練サンパチ歩兵銃を持っての「になつつ」「着剣つけけん」等の執銃教練。そして、最後には射撃訓練だ。

 まあ結果的にいえば、大きな問題もなく検閲が終わったのでよかったと思う。

 この4月の第一期検閲が終わると、いよいよ第二期の教練に入る。今までの班ごとの教練に加え、さらに応用の内容、複数の班が集まっての中隊規模での集団教練となっていく。

 欠かさず行われていた体操も、その内容が一段階グレードアップして、よりキツくなった。90分ぶっとおしで、基本と応用の体操をし続けるっていえば、その辛さがわかるだろうか。
 正直、夏場の教練は地獄だろうと思う。

 今もそう。4月中旬だというのに、もう汗だくだ。もちろん教練中だということはあるけれど、まるで季節を1月か2月先取りしたかのように暑い。
 早足で行軍をしているが、他のみんなもすでに息を切らしはじめていた。

「もっと気合いを入れろぉ!」
 班長殿の声に「はいっ」と返事をするものの、みんなの余裕はない。けれど、そんなことはお構いなしに、
「よし! そのまま軍歌演習! 歩兵の本領ほんりょうぅ!」
と号令が下された。もちろん行軍しながらだ。
「「はいっ」」

 万朶ばんだの桜か えりの色ぉ
 花は吉野に 嵐吹く
 大和男子やまとおのこと 生まれなば
 散兵線さんぺいせんの 花と散れぇ

 尺余しゃくよつつは 武器ならずぅ
 寸余すんよつるぎ 何かせん
 知らずやここに 二千年
 きたえ鍛えし 大和魂やまとだま


 青い空に、行軍をしながら歌う俺たちの声が、広がって行く。
 まるで運動部みたいだが、ここで班長殿からさらに号令が出た。

「よし! 駆け足ぃ、進め!」
「「はいっ」」

 まじか。ここで駆け足に移行するのか。

 そんな思いをいだきながらも、前の長沢に遅れないように付いていく。リズムよく走る俺たちの靴が、ザッザッザッと音を立てている。
 みるみるうちに、みんなの息が荒くなっていった。

「歌はどうした! 五番!」
「「はいっ」」
「声を張れぃ!」
「「はいッ」」

 おかしいな。今日の班長殿はやけにノリノリだ。何が彼をそうさせたのか。
 班長殿のかつに、みんな破れかぶれのように声を張り上げた。目の前の長沢が肩で息をしながら、必死で口を大きく開けている。
 リズムだよ。リズム。上手く歩く速度と歌を合わせないと、最後まで保たないぞ。

 敵地に一歩ぉ 我れめば
 軍の主兵は ここにありぃ
 最後のけつは 我が任務
 騎兵・砲兵 協同ちからせよ

 アルプス山を 踏破とうはせしぃ
 歴史は古くぅ 雪白し
 奉天戦ほうてんせんの 活動はぁ
 日本にっぽん歩兵の すいと知れぇ

 ああ、隣の晋一郎君もアゴを前に出して……。完全にスタミナ切れだ。段々と歌声よりも、ゼーハーゼーハーという荒い息の音が大きくなっていく。
 俺も息を整えながら、何とかリズムを取っている。
 しかし、班長殿には歌を止めるつもりはなさそうだ。俺たちが息切れしてようとお構いなしらしい。

「よぉし、八番!」
「「はいっ」ぃ」

 退しりぞ戦術ことわ われ知らず
 みよや歩兵の 操典そうてん
 前進前進 また前進
 肉弾とどく 所まで

 我が一軍の 勝敗は
 突喊とっかん最後の 数分時
 歩兵の威力は ここなるぞ
 花散れいさめ 時は今

 ああ。もう歌っているのは俺のほか、2、3人だけのようだ。
 行進も、普段なら終わる距離を歩いたと思うんだが。

「最後!」

 歩兵の本領 ここにあり
 ああいさましの 我が兵科へいか
 会心えしんの友よ いざさらば
 ともに励まん わが任務

「全体、止まれ!」
「はいっ」

 号令で一斉に止まったはいいが、何人もがその場で崩れ落ちそうになる。思わず屈んで息を整えている奴もいた。
 班長殿はため息をついて、
「貴様ら、明日から毎日歌わせるぞ! 覚悟しておけ!」
「「はいっ」」
「……小休止とする」
「「はいぃ」」
 途端に、みんな地面に倒れ込んだ。
 情けない声が上がったが、珍しく班長殿は怒らずに苦笑いをしている。

 俺もその場でしゃがみ込んだ。折良く、汗ばんだ肌に心地よい風が通り抜けていった。汗で張り付いていた襦袢じゅばんが冷やされていく。

 ふう。
 ――俺の体力もまた、見た目年齢と同じく調整をすることができる。
 だが、人の中で暮らす関係上、余程のことが無い限りは人並みよりやや上くらいにしていた。
 ……俺も体力切れは辛いからな。今も最後まで歌ったが、これくらいなら変に目立つこともないだろう。

 どこもかしこも荒い息が聞こえる中、班長殿は俺たちの前にやってきた。
「貴様ら、そのままでよく聞け」
 その声に地面に仰向けに倒れていた奴らが身体を起こす。だらしなく足を投げ出しているけれど、顔だけは班長殿の方を向いている。

 班長殿は、神妙な顔つきで、俺たちを見回した。
 いつもと違う雰囲気に、これから一体なんの話をするのか気になった。

「歌に奉天戦とあったのがわかったか?
 ……いいか。我が連隊はかの旅順りょじゅん要塞の攻略、そして奉天ほうてん大会戦に参与している。悪戦苦闘、獅子奮迅ししふんじんの働きをなし、軍司令官より10通もの感状賞状を授与せられた。これは! 百有余ゆうよの連隊中、一、二を争っているのである! ――まさに我が連隊こそ、日本にっぽん歩兵のすいと知れ!」
「「はい!」」

 どこか誇りに満ちた班長殿の言葉は、不思議と誰の胸にもじぃんと響きわたったようだ。
 そっか。連隊の歴史は、そのまま所属する将兵の誇りでもある。それを伝えたかったんだろう。
 ……まあ、冷めた目で見ればこれも人心掌握術の一つになるんだろうけど、それでもみんなの顔つきが少し違って見える。目標や誇りがあれば、辛い教練も耐えられるのなら、それでもいいのかなとも思った。


 さて他に教練中のことを語るとしたら使役のことだろうか。

 第一期の教練を終えたので、俺たちにもさまざまな雑務が与えられた。これを使役といい、連隊の銃工場や靴工場なんかに当番としてあてがわれる。そして、俺の当番はうまやだった。
 週番勤務の上等卒の指示のもと馬の世話をする係で、他の当番よりも俺にピッタリだと思う。
 なにしろ動物は本能的に俺の正体を感じるらしく、危害を加えることもないし、基本的に言うことを聞いてくれるから。

 その中の一匹「松山号」を厩舎の外に出し、杭につないで藁束わらたばでマッサージを行っていると、後ろから、
「こうしてみると、普通の馬なんだがなぁ」
と声がした。
 振り返ってみると、週番勤務きんむ上等卒の高杉殿だった。使役中なので軽く頭を下げて敬礼に替える。

 高杉上等卒殿は俺の手さばきを見て、
「こいつな、別の奴だと言うことを聞かないんだよ。2日前も、別の奴がブラッシングしていたんだが、急にまれて大けがをしたんだ。……まあ骨は大丈夫だったから良かったものの。もっと前にはられた奴もいたし。まいったよ」
とグチグチと言っている。

 ああ、それはかなり危険だ。
 力が強いから、指など折ったら銃も使えなくなる。この強靱きょうじんな脚で蹴られようものなら、下手したら死んでしまうだろう。

 ――おい。お前。暴れちゃ駄目だろうが。

 馬の目を見ながらそう念じると、まるで意味がわかったように下を向いて、どこか気まずそうにしている。
 馬なんだが、まるで人間を相手にしているようだ。

「馬も相性がありますし、好みもあります。このマッサージ1つとっても嫌がる所もありますし、気持ちよさそうにする所もあります」
「そうかもしれないが、こうして見ていると、こいつは人の好みもありそうだな」
「こいつも生きていますから、それもあるかと」

 高杉上等卒殿が松山号に近づこうとしたが、途端に反応して頭を上げたので、あわてて足を止めた。

「ほら。俺が近づくと、これだよ。……こいつ、おまえが好きなんじゃないか」
「自分にはわかりかねますが」

 他の使役と違い、馬の世話は独特の苦労がある。
 そんなこともあって、高杉上等卒殿は使役中はそこまで厳しい上官ではない。勤務兵の間でもこんなふうに会話をすることがあった。

「夏樹二等卒は、仕事はやはり馬関係なのか?」
「いえ。三井物産に勤めてました」
「商業じゃないか。それでいて馬に好かれるとは驚きだ」

 なにしろ馬には紀元前1660年から乗ってましたから。もちろん、そんなことは言えないけれどね。

 マッサージを終え、水を入れた桶を馬の前に置く。さてと、蹄鉄ていてつを洗うのは前脚からにするかな。
「ほれ。まずは右だ」
 声を掛けると、松山号が温和しく右足を持ち上げて、洗いやすいように曲げてくれた。

 水でひづめ全体をさっと濡らし、その後、ブラシで丁寧に洗ってやる。終わったら綺麗に水分を拭き取って、油を塗る。こうすれば蹄鉄が長持ちするんだ。

 今日は暇なのか、高杉上等卒殿はまだ俺の作業を見ている。
「お前は輜重兵しちょうへいの方が向いていたかもな。……でも甲種合格で輜重兵じゃ、格好つかないしなぁ」

 輜重兵は、いわば食料や弾丸などの物資を運搬する兵隊だ。物資補給を兵站というけれど、実は軽視されてて、あんなの兵隊じゃないみたいな陰口を叩かれてるんだよね。
 輜重兵がいなければ戦えない。本当はものすごく重要なのに、裏方は軽視されてしまうのだろうか。
 もちろん俺はその重要性を知っているから、馬鹿になんてしない。ああ、でも輜重兵だと兵役期間も短かったのかな……。ならそっちでも良かったかなぁ。

 そんな事を考えていたのがいけなかったのか。いきなり松山号が俺の服をくわえて引っ張った。
「おわっ」
 バランスを崩して転びそうになると、高杉上等卒殿が笑い出した。「はっはっはっ」
 何事かと思ったのだろう。周りの当番からの視線を感じる。

 フンッと鼻を鳴らす松山号の首筋を撫でてやり、
「悪かったって、離してくれ」
と言うと、素直に解放してくれた。それはいいが、よだれが服にべっとりとついてしまっている。
「まったくしょうがないなぁ」
と愚痴をいいながら、左脚の蹄鉄に水を掛けた。

「こいつが、いたずらするのを初めて見たよ。やっぱり気に入られているな」
「そうですか。結構、気の良い奴ですがね」

 シュッシュッシュッとブラシを掛け、水で流してから布で拭く。手順は一緒だ。
 後ろ脚に行こうと立ち上がると、不意に松山号と目が合った。

「はいはい。次は後ろだ」
 そう言って背中をポンと軽く叩いてやった。
 高杉上等卒殿が、
「これからもこいつを頼むぞ」
と言うので、少し畏まって
「はいっ」
と答える。高杉上等卒殿は満足そうにうなずくと、別の馬の所に向かって歩いて行った。

 まあ、こんな調子で厩当番を勤務していたわけで、気がつくと担当する馬はなぜか自然と気性が荒いと言われている馬ばかりとなってしまった。……解せぬ。
 解せぬが理由を聞くと、「お前がやると温和おとなしい」とかなんとか。

 たしかに俺が教練で来られないとき、別の奴に対しては最初から機嫌が悪いそうだ。いつまれるか、いつられるかビクビクしながら世話をしているらしい。

 そりゃあ、服は引っ張るし腕はハムハムされるが、それはむしろ気性が荒いというよりは甘えん坊なような気もする。

 他の使役の工場も気にはなったけど、やはり俺には厩当番が合っているのかもね。

01起の章 暁は いまだ暗きに 降る時雨(しぐれ)夫(つま)の枕を きつくいだきぬ

 凍えるような冷気の底にいる。今日も寒そうだ。
 見慣れない天井が見える。建物のどこかで複数の人があわただしく動いている気配がする。

 ああ、春香がまたくっついているな。この柔らかいぬくもりに包まれていると、温かく幸せな気持ちになる。布団の中に汗のにおいがする。ああ、そうか。昨日は……。

 あれ? ここはどこだっけ?

 そこまで考えて、ようやく意識が覚醒してきた。

 そっか。1月10日だ。
 ――俺は今日、歩兵第一連隊に入営する。
 遅れてはいけないということで、昨日、ここの宿に泊まったんだった。

 起き上がろうとすると、その途端、春香が行かないでとばかりに、ぎゅっと力を入れてきた。……動けない。
 仕方なく、ただじっと隣にある寝顔を見つめる。自然と昨夜の様子が思い出された。


◇◇◇◇
「それにしても、なかなかのお祭り騒ぎだったね」
 そう言いながら、浴衣に羽織を着た春香が、テーブルの舟盛りから刺し身を一切れすくい上げた。
 ほかにも蒸し物、焼き物など、ここは温泉旅館ではないけれど、豪華なご馳走が並んでいる。二人の間にあるお鍋から、熱気が蒸気となって立ちのぼっている。

「確かにね」
 苦笑いを浮かべながら、手にしたお猪口ちょこをクイッとあおる。熱めの燗酒かんざけが喉をとおり、身体の中でカッと燃えるように熱くなった。

 昨年11月ごろだったか、俺の手許に現役兵証書が届いた。折しも天皇陛下の即位大礼に、世の中が慶賀一色になっている時だった。

 所属は歩兵第一連隊。入営日は昭和4年1月10日。
 現役兵確定。それも歩兵だ。

 あの時、春香は既に覚悟をしていたようで、短く「そう」とだけつぶやいたが、あの切なそうな横顔が心に残っている。無理をしているのが見え見えだったが、それはきっと俺も同じだったろう。

 それから春香は今まで以上に甘えてくるようになった。でもそれが俺にはうれしかった。春香に甘えられるのが好きだから。

 驚くほどのことでもないかもしれないが、酒屋の晋一郎君も同じ歩兵第一連隊だった。
 この時代。現役の歩兵に選ばれるのは名誉なことだと考えられているらしく、出発する際の壮行式では、町内会総出でのお見送りを受けた。まるでお祭の主人公のような扱い。……もっともどこか手慣れたようでもあったが。
 万歳の声に見送られ、俺は春香と家を出た。ああ、晋一郎君は親父さんが付き添いだった。

 注いでやった燗酒に口を付け、春香はほぅっと色っぽく息を吐く。
 少し胸もとが開いた浴衣姿は破壊力抜群だ。
「麻布かぁ、近いといえば近いんだろうけどね」

 連隊の兵営は麻布桧町。後に防衛庁やら東京ミッドタウンとなるあたり。
 俺はさりげなく、
「同じ東京内だから、休みの時は帰れるよ」
「うん。……待ってる」

 そうは言ったものの、一体どれくらいの頻度で外出許可をもらえるのかはわからない。そのわからないということが、余計に寂しさをかき立てる。

 ちなみに俺が兵役に就いている間だが、春香は、家から離れたところの畑を借りて農作業をする予定だ。
 本当は、一人だからと家に閉じこもるのはよくないんだが、どこかに勤めると余計な問題を招き寄せかねない。具体的にいえば、ちょっかい掛けようとする悪い虫とか、悪い虫とか、悪い虫とか、悪い虫とか。

 ……心配しすぎだろうか。

 もちろん出かけるのはOKだと言ってあるが、充分に身の回りに気をつけて欲しい。
 もっとも今、不景気で、強盗の際に家人に戸締まりなどを注意する「説教強盗」なんてのも出没しているから、家にいたからといって安心はできない。

 うん。やはり心配なんだよな。1人暮らしをさせるのは。

 もっとも今まで戦乱の時代もあったし、大抵のことには対処できるとは思う。けれど、それはそれ、これはこれ。2人暮らしが長いとどうしても心配になる。

 視線に気がついて顔を上げると、春香が苦笑していた。
「心配なのはわかるけど。まあ、どうにか1人でやってみるって。ちゃんとおうちは守ります。私も軍人の妻なんだから」
「……ああ」
「それより、夏樹もよ。上官に連れられて変なところに行ったら、タダじゃおかないからね」
「そんなことしない!」
「絶対?」「絶対にだ」

 俺は春香だけでいい。お前だけがいればいい。

「ふうん。ならいいけど」
 春香が二マッと笑みを浮かべる。「ま、わかってるけどね」

「……よく考えたら、時間遡行タイムリープしてから離れて暮らすのって初めてなんだよな」
「そうそう。だから心配になるんだよね」
「俺もだ」

 しばしの沈黙が下りる。

「今は平時だから、大丈夫だよね」
「大陸に行かない限りはな」
「私。たくさん手紙を書くよ」
「うん」
「だから、夏樹も手紙ちょうだいね」
「わかった」

 ようやくうなずいた春香だが、どこか寂しげな微笑みを浮かべていた。そして、ささやくように。聞こえるか聞こえないかというほどの小さな声で、おねだりをした。
「さてと、じゃあ今日は2年分、愛してもらおうかな」
 そう言って、ちょっと恥ずかしそうに微笑んでいる。俺も微笑みを返す。
 珍しいおねだりだ。

 ――確かな絆はあっても、それでも人は、もっともっと確かな何かを欲しがる。
 子供がいないから尚のこと、そう思うのかもしれない。

 でもそれは俺も同じこと。
 ……いいや。最初の人生で、一度離ればなれになった俺は、春香以上にそのつながりを求めているのかもしれない。
 そして、この手から離れていってしまうのが。……失ってしまうのが怖いのかもしれない。

 その夜。俺は寂しさを埋めるように、いつまでもこの肌を、匂いを、ぬくもりを忘れないように、思いをぶつけるように、春香を抱いた。


◇◇◇◇
 歩兵第一連隊。
 三井物産の松本さんに聞いたところ、第一師団、歩兵第一旅団に位置する連隊で、かの乃木大将が連隊長をしていた部隊らしい。

 今から4年前に、宇垣うがき陸軍大臣により軍縮が行われた。全国の師団の数も減り、その分の予算で、関東大震災の復興と軍隊装備の近代化をはかっているという。
 世界大戦争第1次世界大戦が終結して国際連盟が発足し、世界中で軍縮の動きがあった。そして、戦時といえるほど緊張した時代ではないからこそ、できたことだろう。

 そう考えてみれば、今の時期の2年を現役兵として兵役を終わらせておくのは、まだ幸運なことなのかもしれない。満期除隊は実質的な退職を意味するからだ。
 もちろん、その後も40歳まで召集される可能性があるし、この先の歴史を知っている俺たちにとって、たとえ覚悟の上だとしても、とても安心などできはしない。

 春香を起こして食事を済ませ、準備を調えた俺は、時間に余裕を見て宿を出た。
 例年、この10日が入営日であることもあって、街の多くの人々が歓迎のために外に出ている。
 よく晴れた空に、「祝入営」と大きく書かれたのぼりがいくつも立っていた。

 それを見て、俺の少し後ろを歩く春香が、
「うわぁ。すごい。出たとき以上だ、こりゃ」
と感嘆のつぶやきを漏らした。

 振り向いて、自嘲するように、
「まるで世界大会に出場するスター選手みたいだな」
と言うと、春香が小さく微笑んだ。
「わかるわかる。その雰囲気」

 本当に言いたいことを隠して、わざと明るいどうでもいいような会話を続ける。

 前と後ろ、わずかな距離が今日は少し遠く、どこかたよりなく感じる。やがて、道路の先に大きなお城のような兵営が見えてきた。

 営門には四角い柱が立っていて、鉄柵の向こうに、三角形の屋根をした大きな建物がある。その正面中央に大きな菊の御紋が輝いていて、屋根の裾に西洋のお城のような円塔2基を左右に置き、さらに砦のようなデザインの壁が続いていた。

 窓がついているから、実際は防壁の役目があるわけじゃなくて、デザインなのだろうけれど、まさに城のような外観が人々を威圧するようにそびえ立っている。
 営門の前には、同じ見送りと思われる多くの人々が詰めかけていて、紋付き姿の青年もいた。

 家族の見送りはここまで。
 門の中へは、俺、一人で入らねばならない。

「春香……」

「うん。わかってる」

 俺はもう一度、春香の手を握った。すべすべした手。いつも俺の隣に居て、繋いでいたこの手。

「――じゃ、行ってくるよ」
 そっと手を離してそう言うと、春香はニッコリ笑顔を見せると、居住まいを正した。
 深々と、丁寧に、俺に向かってお辞儀をする。

「行ってらっしゃいませ。貴方。……立派に勤め上げてお帰りになるのをお待ちしております」

 まるで大輪の白百合のように、清楚で凛とした雰囲気。威厳と高貴さをそなえたその佇まいは、まさに軍人の妻としての姿だった。

 頭を上げた春香ともう一度、見つめ合う。一つうなずいて、俺は背を向けた。

 まだ戦時というわけじゃない。だからといって、気は抜かない。
 春香の空気にあてられたわけじゃないが、俺も最後までやり抜くという覚悟を決めよう。

 俺はまっすぐ前を向いて営門をくぐった。

 中の受付で通知にあった「第2中隊」の札のあるところに並ぶ。
 前後左右にいるのは、同じような紋付き姿の青年たち。こいつらが同期となるのだろう。まだ若々しく、どこか高校生にも見える。彼らも、歩兵に配属されたことが誇らしげなように見えた。
 俺が気になるのかチラチラと見ているが、おしゃべりをせずに口をつぐんで、順番を待っていた。もちろん、俺も口を閉じている。

 そのまま受付を終え、身体検査を受けた後で20人ほどの班に分けられた。俺の班には、幸いにして、酒屋の晋一郎君も一緒だった。

 各班に、それぞれ先輩の軍人があてがわれたが、俺たちの班長は後藤伍長という人だった。20代半ばであろうか。がっしりした体格の戦車みたいな人なんだが、声がちょっと高いので違和感がある。

 後藤伍長殿の先導で身体測定などを済ませ、さっそく軍服に着替えた。
 初々しい兵隊の服装を、後藤伍長殿とほかに2人の先輩がチェックしてくれる。

 着替えを終えた俺たちを見た後藤伍長殿が、満足げな表情で言った。
「どうだ気分は?」
 たまたま近くにいた晋一郎君が、
「はいっ。引き締まります」
と応えると、バンと背中を叩かれて、
「嘘をつくな! まだうかれとるだろうが!」
と言われている。

 確かに他の青年たちは、名誉ある兵隊になったこともあり、またここまで実感のないままに連れてこられているので、どこか浮ついた雰囲気といえばその通りだろう。緊張もしているけれど、まあ初日だ。それも当然だ。

 けれど、こんな風に和気藹々わきあいあいとした空気なのは今日だけだと思う。明日からはしごかれ、上下関係も厳しく、おそらくビンタもされることも覚悟しておかないと。

 その後、宿舎である部屋に案内される。
 手前に長いライフルのような歩兵銃が銃架に立てかけられていた。その後ろから左右の壁側に寝台がずらっと10台ずつ並んでいる。
 壁には棚があって俺たちの軍服一式と、私物入れの小さなロッカー手箱が置いてあった。

 俺たちは初年兵だが、1年上の二年兵の先輩と交互に寝台が配置されているらしい。

 ちょうどお昼の食事時となり、二年兵たちが帰ってきた。そこで、それぞれペアとなる戦友が紹介される。
 俺の戦友は鈴木鉄一さんという非常にぶっきらぼうな人だった。いったい仕事は何をしていた人なんだろうか。

「住まいはどこだ?」
「はい。杉並であります」
「俺は浅草だ……」

 それっきり黙られると、どうしていいのかわからなくなる。浅草が一体どうしたんだろうか。遠いなとか、遊びに行けるなでもいいんだが、もうちょっと何かないか。
 なんとなく、この人と会話するのは疲れそうな気がする。

 指示されるままに他の初年兵と長ベンチに座り、食事が始まった。
 アルミニウムの食器に、赤飯とイサキの尾頭付きの昼食だが、赤飯の量が山盛りになっている。明らかに多い。

「今日はお前たちの祝いだ。残さずにたくさん食べろ!」
 まだ名前はわからないが、二年兵がニヤリと笑みを浮かべながら、俺たちに言った。

 こりゃあ、わざとだな。
 俺は大丈夫だが、昨夜、しばらく食べられないからと、ご馳走や飲み過ぎた奴にはキツいだろう。
 案の定、引きつった顔の同期が多かった。戦友の鉄一殿が俺をチラリと見たので、黙ってうなずいて箸を付ける。
 結果? 完食したのは俺だけさ。二年兵からお褒めの言葉をいただいたが、なんだかな。

 ここでちょっとだけ、階級について触れようと思う。
 下から順番にいえば、次のようになる。
 二等卒 一等卒 上等卒 伍長 軍曹 曹長 特務曹長 少尉 中尉 大尉 少佐、中佐、大佐、とまあこれ以降は、ほぼ雲の上も上で俺たちに関係ないだろう。
 一般に上等卒までが兵卒、曹長か特務曹長までが下士、それ以上は士官、いわゆる将校だ。

 1年目の俺たちは二等卒だが、これが1年もすれば一等卒になる。さらに優秀なやつは上等卒となるらしい。
 まあせいぜい2年の兵役期間だし、上の階級になれば部下の命を預からなくてはならなくなる。それは俺には避けたいところだ。

 ともあれ、こうして軍隊生活がはじまった。午後からは、中隊長殿の訓示、宣誓式、契約書への署名捺印とあったが、まあそれは語るほどのことでもない。着替えた服は荷造りをして、送り返す手続きをした。


 兵営の朝は起床ラッパから始まる。

 ――パッパ、パッパ。パッパ、パッパ。パッパ、パッパ、パー。

 入隊2日目の朝、古年兵の誰かが、ラッパのメロディに合わせ、
「起きろよ、起きろ、みな起きろー。起きないと、班長さんに怒られるー」
と歌っていたが、こういう替え歌も伝統なのだろうね。

 最初のうちは敬礼や掃除、整理整頓の仕方などの生活指導。それが終わると動作などの基本教練、手旗信号などを教わりつつ、体操など身体作りが続けられた。
 これはキツいけれど、いわゆるブートキャンプに当たるのだろうから仕方が無い。同期の奴らなんかはヘトヘトになりながら、どうにかこなしているという状態だった。

 夜は夜で大変だ。
 ある日、夜の点呼が終わり、週番下士官が帰った後のことだ。
「堀田二等卒! 前へ出ろ!」
「はいっ」
 伍長殿に名前を呼ばれた晋一郎君が、一歩前に出る。
「貴様! 昼の態度はなんだ! ヨロヨロしおって!」
「はいっ」
「たるんどるんだ! キビキビ動かんか!」
「はいっ」
 晋一郎君も必死だ。その彼の返事を聞いていると、こっちも緊張してしまう。

 次の瞬間、矛先が俺たちにも来た。
「お前らもだぞ!」
「「はいっ」」
「地方の娑婆しやばっ気が抜けておらんからそうなるんだ!」
「「はいっ」」
「長沢ぁ! 貴様、軍人勅諭の五箇条は覚えたか!」
「まだでありますっ」

 そう答えた途端、長沢の身体がベッドに叩きつけられた。ドガァッという音にみんなが引きつる。
「貴様ぁ! いつになったら覚えるんだ!」「はいっ。もうしわ」ドンッ。「それでも軍人か!」「はいっ。ぐっ」
 その後さらに何度も殴られる鈍い音を聞きながら、直立不動で立ち続ける。すこしでも気を緩めて身体が動いてしまえば、今度は俺がやられる。そんな必死な空気が漂っていた。

「いいか! こいつが覚えないのは、貴様らの責任でもある! 連帯責任だ!」
 後藤伍長殿はそう言うと、端から順番に平手で思いっきりひったたき始めた。

 バンッ。バンッ。バンッ。……。
 重たい平手の音が少しずつ近づいてくる。時折、「うっ」とうめく奴がいた。そして、俺の番が来た。

 次の瞬間、衝撃で視界が一瞬で揺れた。麻痺したように頬がしびれている。
「あ、りがとうございましたっ」
と言うと、伍長殿は手を止めて俺を見て「よし!」と言い、隣の奴の頬をひっぱたいた。叩かれた頬が、今ごろヒリヒリとしてきた。
 俺以降はみんな叩かれた際に、「ありがとうございました」と言っていった。

 一通り終わると、伍長殿は少し表情をゆるめ、
「いいか、3日後にもう一度、五箇条を覚えたか確認する。それまでに覚えさせておけ!」
「「はいっ」」

 ――この日はこれで終わったが、まったく万事がこの調子だ。
 欠礼したと言われては平手、銃の扱いが雑だと言われてはぶん殴られる生活。

 ほかにも花魁おいらんやウグイス、セミの鳴きまねをさせられたり、積んでおいた衣類をぶちまけられたりと、……おそらくこの制裁も伝統なのだろう。
 それも1ヶ月、2ヶ月と経てば少しずつ慣れてくる。しかし、慣れてくれば慣れてきたで気の緩みもあったのか、余計にビンタの回数も増えていった。

 まあ、叩かれるのに慣れてしまって、痛くない叩かれ方を身につけることができたが。

01起の章 暁は いまだ暗きに 降る時雨(しぐれ)夫(つま)の枕を きつくいだきぬ

 年が明けて昭和3年。6月は6日むいか。梅雨の足音がまもなく聞こえてきそうな時期だった。
 家の前の道路を掃き掃除していると、そこへ床屋に行っていた夏樹が歩いてくるのが見えた。

 思わず、
「ぷっ」
と吹き出して口に手をあてる。
 そんな私を見て、夏樹がしょうがないなぁという顔で苦笑している。――まん丸の坊主頭で。

 すると、そこへお隣の高木のおばちゃんがどこからともなく現れて、ズンズンと詰め寄ってきた。

「ちょっと春香さん! 旦那さんはお国のため、天皇陛下のために、徴兵ちょうへい検査を受けるために床屋に行ったのでしょ。何を吹き出しているのですか! 失礼です!」

 いったいどこで見ていたのかと思ったが、あわてて頭を下げて、
「すみません」
と言ったところで、夏樹がやってきた。
 私と並んで頭を下げてくれて、
「いやぁ、高木さん、すみませんね。春香が。……ただ、私はこいつのこういう所も好きなもんで。ははは」
と言うと、高木さんはうげっといった微妙な顔になった。

「いいですか。軍人となったならば家族のしつけもなっていないといけませんよ」と言いつつ、少し表情をやわらげて、
「まあ、新婚さんですから多少は大目に見ますが」
と言い、自分の家に戻っていった。

 それを見送ってから、2人で顔を見合わせて同時にプッと吹き出した。
「と、とにかくうちに入ろう」
と手を引いて玄関に入る。またどこで見られているかわからないしね。

 ガラス戸をピシャッと閉めて、すぐに笑いがこらえられなくなって、
「くくく。まったくどこから見てたんだろうね」
と笑いながら夏樹を見上げた。夏樹も笑っている。
「叱られちゃったな」
 照れくさそうに頭を撫であげて、
「どうかな?」
と言う。

「ううん。全然おかしくないよ。――すごく新鮮!」
「新鮮?」
「うん。かわいい」
 夏樹はがくっと力を抜いて、「か、かわいい、か」とつぶやいた。

 だって仕方ないじゃない。
 高校球児みたいでかわいいんだから!

 いやいや、それよりも、
「ね。ね。さわっていい?」
というと、私のテンションに少し引いたような顔をしながらうなずいた。

 手をのばして夏樹の頭にさわる。柔らかで上質な毛皮のようでいて、ほどよい長さの髪の毛が、ブラシのように私の指と手のひらをくすぐった。

「さわり心地がいいよ」
というと、目の前の夏樹が「そうかな」と言いながら微笑んでいる。いやぁ、これはいつまでも撫でていたくなる。
 夏樹が坊主頭になったのは初めてだけれど、なかなか似合うのは驚き。

 でも、そうか。いよいよ検査、そして、徴兵なんだよなぁ。

 私の心のうちが投影されているのだろうか。夏樹の微笑みが、なぜか寂しげに見える気がした。

 徴兵検査通達書つうたつしょによれば検査の日は6月13日。場所は近くの小学校だった。

 うん。今日はご馳走にしようか。
 夏樹の顔を見て、私はそう心に決めたのだった。

 13日はまだ暗いうちから起きて、夏樹は朝食後にお風呂に入った。いつもは洋装のパンツなんだけれど、今日は新品の越中えっちゅうふんどしを用意してある。
 服装は何がいいのかわからなかったけれど、普通の着物にはかまでいいという。

 私も会場までお見送りに行くつもりだったけれど、
「心配するなって。どうせ検査だけで今日中に帰ってくるんだし」
と夏樹が私の頭をガシガシと撫で、「玄関までで充分だ」
「――うん」

 通達書の指定時刻は午前6時30分。日の出が早い時期だから、外はもう明るくなっている。まだ時間は早いけれど、余裕を持っていくと言う。
 玄関先まで出て、歩いて行く夏樹を見送った。途中で夏樹がチラリと振り向いて、じゃあなとばかりに片手を上げる。

 単なる検査よ。検査。

 そう自分に言い聞かせながら、その姿が見えなくなるまでその背中を見続けた。


◇◇◇◇
 俺は、春香の見送りを受けて家を出て、一路、指定された小学校に向かう。
 大安の今日、20歳になった壮丁そうてい。それも東京だから結構な人数の青年が集まるんじゃないかって思う。

 案の定というべきか、道を歩いていると、ちらほらと同じように検査に向かうだろう青年の姿が見える。中には両親と思われる男女が付き添っている者もいた。
 軍人になることは名誉だと考えられているからだろうとは思うが、それにしても大げさすぎるんじゃないか。
 胸の内で独りごちながらも、前を行く3人連れの後を追いかけるように歩く。

 11日に梅雨入りしたばかりだけれど、昨日まで雨の気配はなかった。今日は曇りで東南から湿気のある風が吹いてきている。
 雨の可能性が有るので俺は傘を持ってきてはいるが、持って来ていない人も多そうだ。

 小学校に到着すると、見送りに来ただろう人々が息子の名前を呼んで、「しっかりな!」と激励をしていた。
 苦笑しつつ、俺も他の青年たちの群れに交ざった。

 去年、徴兵令ちょうへいれい兵役法へいえきほうに改定されて、今年が最初の徴兵検査となる。筆記試験はなく、検査の結果、こうおつへいていに区分される。
 体格や健康状態などで判断され、おおまかに次の通りになるそうだ。

 現役兵は甲の者。
 乙は補充兵。
 丙は国民兵役といって余程のことがないかぎり召集されない。
 さらに丁は身体や精神的に問題があって兵役免除。
 戊は徴集延期だったり来年に再検査のもの。

 現役兵となれば2年の服役となるが、学生や家族が路頭に迷う可能性があれば徴兵猶予ゆうよとなる例外規定があるし、事前に青年訓練所での軍事教練きょうれんを受けていれば、現役が半年短縮される。
 ただし俺の場合、国内の学歴などはないわけだから、現役兵となった場合の半年短縮は適用されないだろう。

 集まったのは50人ほどのようだ。同じ地区の同じ年の青年たち。同級生ばかりのようで互いに談笑し合っていた。もちろん俺の知り合いはいないので軽くぼっち気分だ。

「あの……、夏樹さんでしたか?」

 不意に声を掛けられて顔を上げると、どこかで見かけた青年だった。背は俺よりは低いけれど体格が良く、まゆが太くどこか人好きのしそうな顔。服装からは、やはり検査を受けに来たようだが……。ああ、もしかして酒屋さんか?

「堀田晋一郎です。かどの酒屋の」
「ああ。いつもお世話になっています。晋一郎さんとおっしゃるのですね」
「はい。こちらこそ奥様にはいつもうちを利用していただいて」
「いえいえ」

 そんなよくある挨拶を交わした後で、晋一郎君はしみじみと言った。
「同い年の若夫婦なんだそうですね。うちの母が珍しいねと言っていました」

 珍しい、か。
 杉並に来たのは19歳の設定の時だから、珍しいといえば珍しいのだろうか。それとも同い年という方だろうか。

「あぁ、まあ、幼なじみで家族同然の付き合いをしていたんですがね。妻の父が病気で余命宣告を受けまして、せめて亡くなる前に花嫁姿を見せてやりたくて、思い切って結婚を申し込んだというわけですよ」

 晋一郎君は、俺の説明にどこか感動したようだった。
「すごい。なかなかできることじゃないですよ。……いやぁ。奥さんがうちの母に、いつもうれしそうに夏樹さんの話をするもんですからねぇ。それも当然ってわけだ」
「え? 春香が? どんな話をしているのか……」
「ははは。大したことはないですよ。何がお好きなんだけど、それに合うお酒はないかとか。前にこんなことがあって、その時夏樹さんがこんな風に言ったとか。……まあ、新婚さんらしい事ばかりで」

 ああ、まあ、なんというか。恥ずかしいな……。でもそっか。少しうれしいかも。

 その時、壮年の軍人がやってきた。
「集合しろ!」
 晋一郎君と「じゃあ、また」と軽く頭を下げて話を切り上げた。見ると、他の青年たちも同様に話を止め、軍人の方を見ていた。

 俺たちはその軍人に連れられて講堂に向かう。もう誰も口を開く者はいない。一瞬にして緊張を俺たちを包み込んでいた。

 中に入ると、壁際に机が出され、役人らしき男性や軍人がずらっと並んで座っていた。そうだな。雰囲気としては、選挙会場のような雰囲気が近いだろうか。緊張感は全然違うけれど。

 講堂の真ん中で整列すると、さっそく訓示が始まった。
「この徴兵検査は、諸君の成人式である。ご奉公の一つであり、厳正なる態度で望んでもらいたい」

 ついで服を脱ぐように指示をされ、ふんどし一丁となって整列する。初めは身長測定からのようだ。

 終わった人は隣の体重測定に。一人、また一人と無言のうちに進んでいく。

「さっさとしろぉ!」
「はい!」

 突然、2人前の青年が叱り飛ばされ、周りの人たちが一斉にビクッと身体をこわばらせた。「ここへ立て!」
 ピシッと物差しで背中を叩かれている。「もっと胸をはらんか! あごをひけぃ!」
「はい!」

 途端に俺の前の青年が少し震えだした。萎縮いしゆくしているらしいが、今、ここで励ますわけにはいかない。口を開いた途端に、今度は俺が叱られてしまう。

「よし! 次ぃ!」「は、はい!」

 内容は普通の身体測定なんだが、やっているのが軍人なので非常に迫力がある。俺の番が来た。

「ほほぉ。貴様、体格がいいな。よし、ここに立て!」
「はい!」

 すかさず腹から声を出して返事をする。身長は172㎝ほど。たしかにこの時代の平均以上ではある。体格がいいとはそのことだろう。
「うむ。次!」

 こうして体重や胸囲を測った後で視力や聴力の検査を行い、今度は10人ずつ組となって、指示されるままに足を曲げたり伸ばしたり、手をひねったり、指を屈伸させたりさせられた。
 今度は聴診器を胸に当てられる。おそらく結核などの調査だろう。風邪の診察のように口を開けて、のどの診察もあった。

 それが終わったところで、再び軍人の号令が下る。
「よし! それではふんどしを取れ!」「はい!」

 号令直下、ふんどしを脱いでピシッと姿勢を正す。外気に触れた下半身が涼しくなるが、裸のままで今度は軍医らしき人物の前に整列する。
 順番が来ると無造作にグイッとひねられた。
「ぐっ」
 痛みに声が漏れるのを我慢すると、
「よし次!」

 この言葉で、前の人がやっていたのと同じように、軍医に背中を向けて四つんいになる。お尻の検査だ。人間ドックの直腸ちょくちょう検診のように、何かをぐいっと突き込まれ、すぐに抜かれる。

「よし!」
と言われ、
「はい!」
と返事をして立ち上がり、すべての検査は終わった。

 最後に一人ずつ、一番偉そうな軍人の前に行き、そこで簡単な質問がなされ、その後で検査結果が告げられていった。
 とうとう俺の番がやってくる。鼓動こどうが早くなる。40半ばと思われる軍人は、静かな目で俺を見た。

「君は夫婦2人のようだな。身よりはいないのか」
 思ったより穏やかな声で質問をされる。
「はい。家族は妻だけであります」
「そうか。仕事は?」
「三井物産に勤めております」
「ふむ三井か……。よろしい。夏樹。甲種合格」
「はい! 甲種合格。ありがとうございます!」

 反射的に返事をしてから気がついた。

 甲種合格。……現役兵だ。

 もちろん抽籤ちゅうせん次第では補充兵に組み込まれるけれど、現役の可能性が高いと見るべきか。これは春香に報告するのが気がかりだ。

 何しろ現役兵となった場合は、来年から2年の兵役となる。
 無事に除隊したとしても、その後も5年4ヶ月の予備役、さらに10年の後備兵役の期間が待っている。
 予備役も後備兵役もいわば待機状態だが、有事の際の補充兵になる可能性は高いというべきだろう。もちろん、現役じゃなくても補充兵になるし、いずれにしろ40歳までは徴兵される可能性があるから、変わらないといえば変わらないが。

 三井物産と答えたときに大きくうなずいていたが、一体なにが決め手になったのだろうか。

「一同、正座! これより連隊区司令官殿の訓示である! 拝聴せよ!」
 おっと考え事をしている間に、全員終わったようだ。
 先ほど結果を宣告していた軍人が訓示を垂れる。

「およそ完全なる独立国は、その存立を確保し、かつ意義あらしめるために、国の権益を――」

 静かな講堂にその声だけが響き渡った。怒鳴るような声ではないけれど、力がこもった声で、実に軍人さんらしい。

 兵役の尊厳について述べているが、この先の歴史を知っている俺にとっては複雑な気分だった。
 たしかに日本という国のために戦うという視点は尊いだろうと思う。天皇陛下のために戦うことも、俺には中世を過ごしてきた経験もあるし、わからないではない。

 ただ、そのために、一体どれだけの人々が犠牲になるというのか。死なずに済むだろう命も多いはずだ。
 ここにいる青年たちも、戦争が始まって召集されたなら、過酷な戦地におもむかなければならない。

 しかし、そんな胸の内を開陳かいちんすることはできない。複雑な気分のままで、訓示は終わろうとしていた。

「――壮丁そうてい諸君には、たとえ昨今の平時にあってもなお、かかる神聖かつ崇高なる意義に基づき、国民の使命を遺憾いかんなくたされんことを望むものである。以上」


◇◇◇◇
 最後に一礼をして解散となり青年たちが外に出て行く。

 外に出るといくつかのグループに分かれて、それぞれがどこかに向かうようだ。
 ……まあ、今日の検査が成人式代わりというのならば、今からみんなで打ち上げにでも行くのだろう。

 晋一郎君も友人たちと一緒のようだ。俺を見て、おそらく俺のことを友だちに紹介したのだろう、周りの青年たちもこっちを見た。
 あいまいな笑みを浮かべて軽く頭を下げると、晋一郎君が駆け寄ってきた。

「あの。夏樹さんも一緒に行かないですか?」

 なんでも彼らはこのまま近くの遊郭ゆうかくに突撃をするらしい。
 女性の前ではあまり言えないけれど、なんでも検査を終えたこの勢いで、別な方も大人になろうというわけだ。いやはや何とも、若者らしいというか。

 まあ、わからないでもないけどね。

「俺はいいよ。……ただ、入営にゅうえいすることになったら、一緒の部隊になる可能性が高いと思うから、よろしく言っといて欲しい」
 そう返事をすると、晋一郎君はすでに予想していたみたいで、
「まあ、なんとなくそう言うだろうとは。奥さんがいますしね……。では!」
と右手を軽く挙げ、小さい声で「行ってきます」と告げて、友だちのところに戻っていった。

 こっちを見る彼の友人たちに、俺は笑顔で手を振る。
 彼の言うとおり、俺には春香がいる。春香以外の女性を抱くつもりはない。なにより、春香は今も俺の帰りを待っているだろう。

 彼らと別れて、一人で小学校の門を出て家路につく。
 空には雲が出てきていた。湿度も高くなってきて、雨の匂いが漂っているように思う。おそらく、今吹いている風がやんだら、途端に降り出すのではないだろうか。

 それにしても、甲種合格か。

 近所の人たちは諸手を挙げて祝ってくれるだろうけれど、きっと春香には色々と我慢させてしまう。自然と俺の気持ちも沈んでいく。
 神たる身なので死ぬことはない。それを断言できるのが幸いだろうか。

「……いつもより甘えさせてやらないとな」

 思わず口からそんなつぶやきが漏れた。

01起の章 暁は いまだ暗きに 降る時雨(しぐれ)夫(つま)の枕を きつくいだきぬ

 1ヶ月が経ち、5月も半ばとなった。
 若葉の美しい季節だけれど、東京ではあまり季節感がわからなかったりする。

 私たちがイギリスに住んでいた時、松本さんという日本人と出会っていた。日本から留学に来ていた三井物産の人で、夏樹と気が合ったために、よく私たちの家に遊びに来たりしていた。

 松本さんは私たちより先に帰国したのだけれど、その人の紹介で、夏樹は三井物産に勤めることになり、また杉並に一軒家を借りることができた。
 なんでも松本さん自身が副業として不動産賃貸をしているらしく、この借家も松本さんのものらしい。

 私たちの戸籍は19歳にいじっているので(帰国後。こればかりは神通力を使っている)、夏樹は財閥の三井物産に勤めることができたはいえ、見習いに近い立場という話だ。

 松本さんもそうだが、エリートサラリーマンは西洋に留学することが多いらしく、初めからヨーロッパで暮らしていた夏樹はヘッドハンティングされた形になるのだろうか。


「――おっ。今日はイワシか」

 夏樹の声に我に返る。そう、私は今ちょうど、割烹着かっぽうぎを着てお夕飯を作っているところ。

 窓の外はもう夕陽色に染まっているけれど、お台所はシェードランプの丸い電球が明るく照らし出している。
 2口あるガスかまどの上には、お味噌汁みそしるのお鍋とイワシを載せた焼き網が乗せられている。ご飯のお鍋は、もう蒸らしているところなので脇にどけてあった。

 ジジジジ……とイワシの脂が焼ける音がして、香ばしい匂いが立ち上っている。

 ふふふ。
 仕事から戻って和服に着替えていた夏樹は、居間で新聞を読んでいたはずだけれど、きっとこの匂いに釣られてお台所まで来ちゃったんだろう。

「ごめんね。もうちょっとだから」
と振り向いて言うと、
「いいよ。ここで待ってるよ」
と、台所の小さな木の丸椅子に座り込んだ。

 微笑みながら、配膳はいぜん台の上においてあるお盆からご飯茶碗ぢゃわんを手に取って、ご飯を盛りつけ、温め直していたお味噌汁をよそう。

 あとはお魚だけなんだけれど……。もういいかな?
 取っ手を持って網を配膳台の方に持っていき、夏樹の目の前でこんがりと焼き目のついたイワシをお皿に取り分けた。

 ゴクリと夏樹ののどが動くのが見える。
「はい。おまちどおさま」
と言うと、待ちきれなかったようで、「じゃあ、早く食べよう」と自分のお盆を持って立ち上がった。

 私も火を消して割烹着かっぽうぎを脱いで自分のお盆を持り、夏樹の後を追って居間に向かう。

 8畳の居間には、既に丸いちゃぶ台が出してあって、その脇に折りたたまれた東京日日新聞が置いてあった。
 向かい合って座り、さっそく「いただきます」の挨拶をする。

 夏樹はさっとお味噌汁を一口飲んでから、すぐにはしをイワシにさして身をほぐしはじめた。
 よっぽどお腹が空いていたんだね。

 お醤油をとって、夏樹のお皿の大根おろしに垂らしてあげると、
「さんきゅ」
と言いながら、すぐにほぐした身の上に大根おろしをちょこんと乗せ、口に運んでパクリと食べた。

「うまい!」

 よかった。
 美味しそうに食べる夏樹の姿を見ると、なんともいえない満足感が心に湧いてくる。

 こうして大好きな人にご飯を作ってあげるのは、私の喜びでもある。まして、こんなにも美味しそうに食べてくれるのなら、うれしさが何倍にもなる。

 ……あ、夏樹が私のために作ってくれたご飯を食べるのも、私の喜びですと補足しておこう。

 私もさっそくイワシの身をほぐして大根おろしと一緒にいただいた。

 じわっと温かい脂が口に広がり、ほんのり焦げた香ばしさと大根おろしとお醤油のさっぱりさと混ざって、なんとも言えないおいしさ。

 そのまま白いご飯をいただく。やはり旬のお魚と一緒にいただくご飯が一番美味しいと思う。
 まあ、欲をいえばカボスかレモンが欲しくなるけれど、残念なことに八百屋さんにはおいてなかったのよねぇ。

 しばしお夕飯を食べながら、今日の出来事をお互いに報告していく。
 夏樹の方は特に問題なく職場にとけこめているようだ。ただし来年には20歳になる。徴兵ちょうへいになったら最短でも2年のブランクができるから、特に大きな仕事の担当にはならないらしい。

 正直、徴兵と聞くと複雑な気持ちになる。
 国民の義務だとはいえ、2年も離れて暮らすのは寂しい。休日もあるとはいえ……、今から心構えだけでもしておいた方がいいかもしれない。

「春香の方は変わりはなかった?」
「あ、そうだ。清玄寺せいげんじ恵海えかいさんから手紙が来てたよ」

 清玄寺とは、栃木県那須塩原なすしおばらの方にある古いお寺だ。
 歴史は平安時代にさかのぼることができるけれど、地方のひなびた、といったら失礼だけれど、こじんまりしたお寺。

 その正体は平安時代に私たちが来たときに建立したお寺だったりする。私たちのことは開基檀那かいきだんなの一族として、代々の住職さんの間で口伝として伝わっているらしい。
 帰国してから、お寺あてに挨拶の手紙を送ったのでその返事だろう。

 茶簞笥だんすの上に置いておいた手紙を夏樹に手渡すと、器用に端っこをほそく切り、中の手紙を読みはじめた。

「うんん? ちょっとこれは……」
と夏樹が目を丸くするなり、とまどったようにつぶやいて、私に手紙をよこす。

 どうしたんだろう? 何か問題でもあったのかな。

 そう思いながら、私も手紙に目を通した。

――
拝啓 時下、初夏のこういよいよ御清適せいてきだん慶賀けいがたてまつそうろう

 陳者のぶれば野衲やのう当代住職じゅうしょくの久保田恵海えかいと申し候。御仏使ぶっしさまにかれましては無事に帰国のおもむき、また勿体もったいなくも御挨拶あいさつの状をたまわり、まことにかたじけながた仕合しあわせに存じ候。

 かねてより、夏樹さま、春香さまなる御仏使ぶっしさまが人の姿をかり遊行ゆぎょうせる故に、来寺らいじおりは仏をむかえるごとくにせよと口伝せられてより、先代も未聞みもんの事にそうらえども、野衲やのうの代にその時にあたり喜び入り候。

 ついては是非とも御来臨らいりんたまわりたく、してお願い申し上げ候なり。その節は万事、遺漏いろう無きよう準備いたしたく御連絡をなし下されたく候。

 尚又なおまた代々お預かり候と伝える所の小作地については、今後はその小作料を御仏使さまにお納めいたしたく存じ候。
 れについても何方いずかたに送金すべきか御指示たまわりますよう願い上げ候――。


 …………。
 一度通しで読んでから、もう一度はじめから読む。

 ええっと。おかしいわね。確かに私たちがお寺を建立はしたけど、いつの間に人外仏の使い扱いになっているのかしら。
 間違いじゃないといえば間違いじゃないのだろうけど。

 江戸時代に一度帰ってきた時も、ひどい飢饉ききんの時で、お金に困っていた人たちから田んぼを買って、それを小作地としてお寺のものにしたことはあるけれど、その時だって開基檀那かいきだんなの一族という扱いだったはず。

 いつの間にこんなに大事おおごとに……。


 手紙を見ながら困惑していると、夏樹がせき払いをして、
「まあ、なんていうか……。とりあえず開基檀那の末裔まつえいだって返事しておこうか?」
「そ、そうね。とりあえずそれでいいんじゃない?」
「だな。――ふぅ。まったく焦ったよ。いきなり御仏使ぶっしさまなんて」
 そう言って笑う夏樹だけれど、その笑いはどこかぎこちない。私はただ苦笑いを浮かべるだけだった。

 ちょっと微妙な空気になったけれど、ご馳走さまをしてから食器を下げた。
 私が洗い物をしている間に、夏樹は戸締まりをしてから、お風呂の準備をしてくれている。
 今はまだガス給湯の時代じゃないから、まきや石炭をくべてお湯を沸かさないといけない。これはちょっと大変なんだよね、湯加減の調整が。

 洗い終わった食器をいて棚に片づける。住み始めて1ヶ月が経ったので、だんだんとこの家にも慣れてきた。
 この家は、上から見ると凵の字型に廊下があって、左上の廊下の先に北向きに玄関がある。

 左側・西側廊下の外側には、玄関の南側に4畳半の小部屋、洋間と続き、凵の内側には8畳の居間と6畳の奥の間がある。私たちが寝室にしているのはこの6畳間だ。

 右側・東側廊下の外側には、北の方から勝手口のあるお台所、風呂場、トイレとなっている。

 洗濯物は、お風呂場で洗ってから庭に干している。まだ洗濯機もない、というより家にある電化製品は電灯とラジオだけ。
 これはどこの家もだいたい同じで、お金のあるところは他に蓄音機があったりする程度なんだよね。

 ここは都市部だから、お台所にはガスのかまどがあるけれど、農村部や地方だと昔のままのかまどだと思う。もちろん、私は昔のかまども使い慣れているから、どちらでも平気ではあるのです。

 さてと、どうやらまだお風呂は沸いていないようなので、シンクにたらいを置き、そこにキュウリと瓶ビールを入れて、上から水を細く流しっぱなしにする。こうすればお風呂上がりには、よく冷えたビールをいただけるだろう。キュウリ? キュウリはお味噌を添えてさかなにする予定。

 そのまま奥の間にお布団を敷いていると、夏樹が呼びに来た。
「お風呂いいよ」
「ちょっと待って。すぐに敷いちゃうからさ」

 もちろん布団は2つぴっちりと並べて敷いている。大きめの布団だったら1つでもいいんだけど、そんなサイズ無いしね。ダブルサイズとか、セミダブルでもいいからあると便利なのに。

 それから着替えの浴衣とバスタオルをもって、二人で脱衣場に向かった。

 脱衣場の裸電球の下でシュルルルっと帯を解き、着物を肩からするりと脱いだ。簡単にたたんで洗濯カゴに入れておく。
 隣では夏樹も着物を脱いでいるところ。

 考古学者として発掘調査で飛び回っていた夏樹は、特段の筋肉質というわけじゃないけれど、ほどよく締まったいい身体をしている。
 ……って、私ったら何をいってるのでしょうかね。

 視線を感じて顔を上げると、夏樹がじっと私を見ている。ちょっと恥ずかしくなって、わざとらしく「えへへ」とごまかし笑いをして、タオルで身体を隠しながら先に浴室に逃げることにした。
 もっともすぐに夏樹もやって来たわけですが。夫婦だもん。問題はありません。

 手桶で浴槽よくそうのお湯をすくって洗い場を流し、ついで夏樹の肩から流してあげる。自分もザバァッと肩からお湯を掛けて足から浴槽に入った。


 2人並んで浴槽の縁に寄りかかりながら、立ちこめる湯けむりをぼんやりと見つめる。こうしていると、今度は箱根あたりの温泉に行きたくなってくるね。

「ふ~ふ、ふんふん――」

 気がつくと鼻歌をうたっていた。宇多田ヒカルさんの『FINAL DISTANCE』。カラオケでは上手く歌えなかったけれど、その歌詞メッセージが、メロディーがとても好きだった。
 すぐに夏樹もハミングして合わせてくる。……ちょっと調子外れだけど。

 その他にも平成の日本で流行っていた歌。好きなドリカムの歌。長い長い旅の間に聞いた歌。いくつものメロディーが蘇ってくる。

 ああ、気持ちいいなぁ。

「お先に」と夏樹が洗い場に出た。私は身体を起こすと、浴槽の縁の上で腕を組みあごを乗せた。

 夏樹がヘチマスポンジに石けんをつけ、左腕から順番に洗っていくのを何とはなしに眺めていたけれど、ふと思いついてガバッと立ち上がった。

「髪の毛、洗ってあげる!」
「へ? 髪の毛」
「うん」

 湯船から出て、夏樹の後ろに立つ。はいはいと言いながら、なし崩し的に前屈まえかがみにさせて木桶で頭の上からお湯をかけてあげる。

 まだシャンプーは開発されていないので、石けんを手で泡立てて髪に乗せた。
 最初は泡を髪に馴染ませるようにゆっくりと、そして、指を広げて髪のすその方から差し入れて、地肌をマッサージするように細かく洗う。

「あ~、これはいいな」

 下で夏樹が気持ちよさそうにしている。ほら、理髪店で頭洗ってもらうと気持ちいいでしょ。あの要領よ。

 夏樹の髪は、一本一本が太くって固めの髪質。実は後頭部の首筋に近い方にほくろが隠れている。私しか知らないほくろだ。

 ちなみに夏樹はよく私の背中、肩甲骨の下あたりにキスしてくれるんだけれど、どうやらそこにほくろがあるらしい。
 自分では見えないけれど、2人だけが知ってるお互いのことって他にもあると思う。

 でもね。それが愛しいと言って、わかってもらえるかな。
 この広い背中も、隠れているほくろも、大きな手も全部が、私にとっては大切でとても愛しいと思える。

 最後に泡を流して終了だけど、今度は夏樹が私の髪を洗ってくれるという。

 場所を交替してイスに座り前屈みになると、
「上を向いてくれるか」
と言われた。
 上? 疑問に思ったけれど、言われたとおりに真上を向いた。

 目の前で夏樹が微笑みながら見下ろしている。
「髪も長いし、こっちの方が洗いやすいよ」
 あぁ、なるほど。そうかもしれない。かつて拾い子を育てたときも、抱きかかえて こんな風に髪を洗った覚えがある。

「……それにこっちの方が春香の顔が見られるしね」
「あ、はい。そうですか」
 うれしくなるけれど、お湯が目に入っちゃうから私は目をつぶった。

「流すよ」と声をかけられてから、おでこから頭のあたりに丁寧にお湯がかけられる。
 案外これって、信頼してないと怖いね。でも大丈夫。ほら、前の方に垂れてこないように慎重にかけてくれている。

 少し時間をおいて、髪に何かがのせられた。石けんの泡だろう。目をつぶったまま、すまし顔でいると、今度は頭のサイドから指が頭皮を撫でるように差し込まれた。

 そのまま力強く、マッサージのように地肌を指がなぞる。
「うわぁ……」

 気持ちいい。

 前の方から、頭頂部、そして後ろの方と指が移動していく。後ろの方を洗われたときは、首筋にぞくそくと心地よさが走った。
 その後は長い髪をすくい上げられ、どうやら毛先まで丁寧に洗ってくれているようだった。
 こうしていると、なんだか心までみほぐされていくみたいな気持ちになる。

「春香の髪って絹糸きぬいとみたいだな」

 突然、夏樹がそんなことを言い出した。

「え? 突然なに? 今は若いからでしょ」
「ははは。そりゃあそうだけどさ。こうして濡れていると特にそう思うな」
「そう?」
「――流すぞ」「うん」

 ざあっとお湯がおでこの生え際のあたりにかかり、そのまま髪を伝って後ろに流れていくのがわかる。何回かそれを繰り返し、まだかなって思い始めた頃に、急に唇をふさがれる。
 驚きにピクッとなったけれど、そっと目を開けると、目を閉じた夏樹の顔があった。

 もうっ。
と、ちょっと思ったけれど、離れていった夏樹がにこっと笑っているのを見ると、しょうがないなぁと思ってしまう。

「まったく……」
といいながら、甘えたいのは自分も一緒なんだよねと思い返す。今度は私が身体を洗っているところを、夏樹が湯船のなかから幸せそうに見ていた。

 お風呂からあがって浴衣に着替え、お台所から冷やしておいたビールとキュウリをお盆に載せて居間に向かう。

 廊下がギシギシと音を立てる。縁側の障子も今は薄暗くなっていた。
 この障子の向こうにはガラス戸が閉めてある。風や雨の日にはさらに雨戸を閉めるんだけれど、今日は穏やかな夜のようだ。
 カエルが鳴く声が聞こえてくる。

 居間のふすまが開きっぱなしになっていて、明かりが廊下に漏れている。中では夏樹が、恵海えかいさんの手紙を読み返していた。

「やっぱり気になるの?」
「いや、なんていうか……。小作料だけいくらか受け取っておいた方がいいかと思ってさ」
「え? そう? そこまで困っているわけでもないけど」
「そうか? 俺の給料が月に65円だろ。この時代って、平成の日本から比べて給料で3000分の1だから、換算して月収およそ20万円。……副業が無いとちょっと厳しくないか?」

 ああ、なるほどね。
 この時代、パートというか、女性の働き口はあってもほとんど二束三文みたいなお給金なのよねぇ。薄給もいいとこ。だから私が働きに出てもあまり意味がないからしていない。
 それでも今のところ、家計の面でそんなに困っているわけではない。

 グラスにビールを注ぎながら、
「大丈夫よ。物価は感覚的に2000分の1だから、2人だったら月に50円でもどうにかなるわよ」
と言うと、夏樹はこっちを見て、
「本当?」
「本当」

「ならいいか……。いざとなれば、どうにでもなるし。でもなぁ。わずかでも受け取っておいた方が、外からおかしく見られない気もするんだよな」
「賃貸物件の副業みたいに?」
「ああ」

 今度は私のグラスに夏樹がビールを注いでくれる。
 そのまま軽く乾杯の仕草をして、グラスに口をつけた。このビールは大瓶38銭だから、平成の日本だと760円。ちょっと割高だから、週に1回だけの贅沢ぜいたく
 毎日晩酌してるわけでもないし、普段は日本酒にしてもいい。う~ん。

 夏樹が言った「いざとなれば、どうにでもなる」ってのは、私たちは本来、普通の食事は不要なのだ。
 年齢だって変えられるし、風呂だってトイレだって不要といえば不要にできる。神様なんだから。もちろん極限の時以外はそんなことはしないけど。

 ただねぇ。たしかにご近所さんとか職場の人から見て、お給金と生活レベルが合致していなければ、変に思われる可能性はあるかも。
 副業があるとだけ言っておけば、怪しまれないといえば怪しまれないように思える。

 でも、まあ最後は。
「夏樹に任せるよ」
 こう言うしかないかな。

 お寺の方が生活が厳しいかもしれないけど、夏樹に任せておけば負担にならない程度の割合に調整してくれるだろうし。

 私はキュウリで味噌みそをちょこっとすくってかじりついた。冷えていてうまい。ポリポリ、しゃくしゃくと食べていると、夏樹が何か言いたげにしていた。

 キュウリはまだあるよ?

 そう思いつつ、食べかけのキュウリに味噌をつけて、夏樹の方に差し出してみた。一瞬きょとんとした夏樹が、苦笑しながら口を開けパクリとかじる。
 その様子が妙におかしくって、いつの間にか私は「ふふふ」と笑っていた。

01起の章 暁は いまだ暗きに 降る時雨(しぐれ)夫(つま)の枕を きつくいだきぬ

 静かな夜の海を客船・白山丸がゆっくりと進んでいる。

 夕方まで降っていた雨が止んで、薄い雲の向こうに満月がぼんやりと光っていた。
 漆黒の海が広がっている。遠くにぼんやりと見える日本列島のシルエットは、まるで巨大な恐竜が寝ているかのようだ。

 1927年昭和2年4月。私こと春香は、夫の夏樹とともに故国日本に向かっている。
 温かく心地よいはずの空気が、雨のせいもあってか、肌にまとわりつくような冷気になっていた。

「寒くないか?」
 夏樹の優しい声が、私のふさぎ込んでいた心に染みこんでいく。
 黒のイブニングドレスにシルクのストールを肩に掛けただけだから、確かにヒンヤリと肌寒い。けれど、物憂ものうげな理由は別にある。

「ううん。大丈夫。……だけど、もう少しこのままでいて」
 かすれたような声でそう願うと、夏樹は外気から私を守るように、背中から抱きしめてくれた。

 夜会服の夏樹はいつにも増してかっこいい。
 背中ごしに感じるそのぬくもり、いつも私を包み込んで守ってくれるたくましさに、私の身体も心もあたためられていく。

 ああ、このままずっと。この時間が続けばいいのに。
 これまでと同じように、この先も……。

 これから訪れるは第二次世界大戦。
 平成の日本から時間遡行タイムリープしている私たちにとって、この時期の日本に帰ることには覚悟が必要だった。

 船内中からは軽快なジャズの音が聞こえてくる。
 録音されたレコードの再生だろうけれど、航海最後の晩餐会の楽しげな様子が伝わってくる。

 フランスのマルセイユから日本郵船の白山丸に乗って、欧州航路を東へ、故国日本に向かって出発してから、およそ一ヶ月。
 スエズ運河を通ってインド洋から東南アジアをぐるっと回って、予定では明日の昼頃には横浜に到着するという。
 懐かしい日本に帰ってきた。だけど、どうしても不安が足元から忍び寄ってくるようだった。

「桜が咲いているといいな」
 隣にいる夫の夏樹が、どこまでも続く暗い海を見ながらそうつぶやいた。

 桜か……。
 他の国でも桜を見ることがあるけれど、やはり日本で見る桜が一番きれいだと思う。郷愁がそう感じさせているのかもしれないけれど、それも日本人としてのアイデンティティなんじゃないかって思っている。

 私はうなずいて、
「日本は久し振りだものね。昨日まで天気がぐずついていたのが心配だけど、咲いていたらお花見デートに連れて行ってよ」
「もちろん」

 すっと振り向いて肩越しに夏樹の顔を見上げると、穏やかな目が私を見つめていた。
 柔らかい微笑み。私を愛おしげに見つめるこの眼差まなざし。私の一番好きなこの表情に、愛おしさが胸に湧いてくる。

「愛してる」
 ささやくように言葉が漏れる。夏樹の腕に力がこもる。「俺もさ」
 ギュッと抱きしめられるままに、そっと目を閉じると肩越しにキスをしてくれた。

 ――。
 かつて平成の日本に生きていた私たちは、家がはす向かいの幼なじみだった。

 小さい頃から夏樹のことが好きだった私に、彼が告白をしてくれたのは中学生になったとき。それからずっと恋人として過ごしてきた。

 高校一年生の時にお父さんが胃がんになってしまい、一度は手術が成功したものの年明けに再発。余命宣告を受けてしまった。

 夏樹はそのとき一緒にいて、ずっと私を支えてくれた。そして、お父さんが生きているうちに認めて欲しいからと言って、プロポーズをしてくれたのだ。
 残念ながらお父さんはそのまま帰らぬ人となってしまったけれど、その前に花嫁姿を見せることができて本当に良かったと思う。

 大人になった私たちは結婚して、子どもこそ授からなかったけれど幸せな日々を過ごしていた。そんなある日の夜、夏樹がずっとずっと秘密にしていたことを明かしてくれたのだった。

 なんと夏樹は、これが2度目の人生だったと言う。

 聞くと、前の人生で私たちは、互いにかれながらも口に出せないままに離ればなれになってしまったらしい。
 私の家はお父さんが亡くなったショックから立ち直れず、母も亡くなり、一人ぼっちになった私はどんどん生活が困窮して、とうとう自ら命を絶ったという。

 私の最後の手紙で、ずっと私が夏樹を愛していたことを知った夏樹は、不思議な因縁に導かれ、チベットの奥地で帝釈天様に出逢い、霊水アムリタの力で神様となったらしい。

 そして、私と一緒になるために時間を遡ってきてくれたのだった。

 夏樹は私に言った。「……俺の眷属けんぞくとして、俺とずっと一緒にいて欲しい」と。

 そんなわけで、私も夏樹とともに帝釈天様にお会いし、霊水アムリタの力によって二柱ふたりで一組の神様となったのです。
 でもね。神様とはいっても何でも自由自在というわけでもなかったりする。

 新米の神さまになった私たちに、天帝釈様は一つの修行を命じられた。それが、人間の歴史を体験することだったというわけ。

 不老不死となった身で東西の歴史を歩き、社会の中で人として生きつづけ、人の善性や悪性、欲望も気高さ、様々な要因で人が動き、国が動き、歴史が動いていくということを知るということ。それを学べと。

 私たちは時間遡行そこうして、紀元前B.C.1660年のギリシャ・ナクソス島から、ずっと2人きりで世界中を旅してきたのだ。
 およそ3600年になるのかな? 改めて思い返すととてつもない年数だ。


 急に夏樹が私の耳元で、
「部屋に戻ろう」
とささやいた。
 黙りこくった私が心配になったのかもしれない。でもそうだね。まだ晩餐会は続いているようだけれど、最後の夜だもの。ゆっくりと部屋で二人きりで過ごしたいかも。……いつもだろというツッコミは無しで。

 うなずいた私の腰に夏樹が腕を回して、そっと抱き寄せられる。私も夏樹の腰に腕を回して、寄り添いながら船室に通じる廊下に入った。

 ゴウンゴウンと機関室からと思われる音が伝わってくる。天井の照明がにぶく点灯し、片側に並んでいる客室の扉を照らしていた。
 狭い廊下に、夏樹の革靴と私のヒールのコツコツという音が響いている。

 部屋に戻ってポスンとベッドに腰掛けると、夏樹はリビングチェストからロックグラスを取り出した。そのまま神通力を使って虚空から氷を生み出すと、グラスに澄んだ音がカランと響いた。

 荷物から取り出したのはスコッチのハイランドパーク。スコットランド北部のシングルモルト・ウイスキーだ。
 スモーキーで男性的な力強さがあるけれど、その後に甘い余韻が残ったりする。

 夏樹はロックとかストレートで飲むのが好きなんだけど、私は加水してハーフロックにするのが好き。なぜかっていうと、加水すると急に華やかになって飲みやすくなるからよ。
 二人ともに好きな銘柄なので、普段用にと少し買いためてあったものだ。

「はい、どうぞ」
と手渡されたグラスには、琥珀色のウイスキーに氷がキラキラときらめいている。

 乾杯と言って、口をつけるとウイスキーの芳しいかおりが身体の中に広がっていく。華やかでまろやかな甘みに、思わず口元がゆるむ。

 ふと視線を感じて顔を上げると、夏樹が真剣な表情でまっすぐに私を見つめていた。

「やっぱり不安だよな」
 表面には出さないようにとは思っていても、夏樹にはすっかり心が見透かされている。でも仕方ないと思う。

「不安は不安だよ。だって」
 この先に待つのは、世界大戦だもの。

「正直、俺も不安はある。――もちろん、やろうと思えば、アフリカやブラジルの奥地で戦争が終わるまで細々と暮らすこともできるんだが」

 うん。
 そのことは、何度も話し合ってきたこと。なので、私もわかってる。

 だから私は、夏樹の言葉を先取りして言う。
「けれど、日本人として戦争をきちんと見届けないといけないだろう。でしょ?」
「ああ。その残酷さを、哀しさ、苦しさを知るべきだろう。俺たちの爺さんや婆さんが経験した、あの過酷な時代を」

 ……わかってるのよ。夏樹。

 それでも感情としては、やっぱり怖い。嫌だ。できれば逃げ出したい。そう思ってしまう。

 もちろんそんな私の気持ちは、言葉に出さなくても夏樹に伝わっているだろう。そして、私にも夏樹が同じ気持ちでいることがわかっている。

 目を閉じて顔を上げると、夏樹は屈んできて、私の頭に手を回して唇にそっとキスをしてくれた。
 口元がゆるむのを自覚しながら、まるで幼子のように、頭を立ったままの彼のお腹に押し当てる。すると、夏樹の手が優しく私の髪をすくように撫でてくれた。

 そうよね。これまでも戦乱の時代だってあったし、今さらビビることでもないよね。……悲しく辛いことには慣れないけれど。
 ただ、私は本当に心配なのは――――。あなたと離ればなれになってしまうかもしれないこと。

 優しく髪を撫でてくれるこの手。抱きしめてくれるぬくもり。私の心を包み込んでくれるような微笑みも。
 ずっと傍らにいてくれた夏樹という存在を、これからも、ずっとずっと、私の全身で、心で感じていたい。そう思っている。
 どれだけの時を重ねようと、私たちは一対の御神酒徳利おみきどっくりなんだ。

 白山丸最後の夜。いつものようでどこか違う空気を漂わせて、私たちは抱き合って眠りについた。


◇◇◇◇
 白山丸は翌日無事に横浜に到着し、私たちは入国の諸々の手続きを終えると、さっそく手配したホテルに向かうことにした。

 徳川の幕府が大政奉還してより60年。
 時代は明治、大正と過ぎゆき、昭和の世となっている。人々の格好も大きく変わっているけれど、横浜神奈川宿東京江戸の賑やかな空気には変わりがないようだ。

 およそ3600年ぶりに乗った東海道線は、まだ蒸気機関車が走っていた。なんでも東京側から少しずつ電化工事を進めていて、来年には熱海までの区間が工事完成の予定らしい。
 完成したら少しずつ電車に取って代わっていくのだろうけれど、そうなるとかつて暮らしていた平成の日本にぐっと近づいた気分になるだろう。

 窓側に座らせてもらったので、ガタンゴトンと揺れる車窓から、広い空の下に横たわる街並みを眺めていると、どこかノスタルジックな気持ちになる。
 やがて、見慣れた赤レンガの東京駅が見えてきた。

 そうか……、もうこの駅舎になっていたんだ。
 夏樹も懐かしそうに近づいてくる東京駅を見ている。ふと目が合って、二人で微笑みながらうなずき合った。

 東京駅に到着し、春の陽射ひざしを浴びながら皇居脇のお堀をのんびり歩いて、今日の宿泊先のある九段下に向かう。
 男性は洋装の人も多いけれど、女性はまだまだ和服の人が多い。私も今日は洋服ではなくて、薄緑の小紋柄の着物にうっすら桜色の帯を合わせている。
 連れだって歩いている私たちの横を、人を乗せた人力車が何台か通り過ぎていった。別の所では、甘酒の小さな車屋台で2人組のご婦人がおしゃべりをしている。

 夏樹の提案で靖国神社に立ち寄ると、参道脇の桜がちょうど見頃を向かえ、まさに春爛漫らんまんといった風情だった。多くの人たちが訪れていて、中には軍人さんの姿も見える。
 うん。桜の下の軍人さんは妙に絵になるね。

 春特有のどこか優しい空に、桜が、薄いピンクの花を鈴なりに咲かせた枝を伸ばしている。
 そのまま千鳥ヶ淵の方へと行こうと、桜天井の下を、夏樹と手をつなぎながらのんびりと歩いた。

 ……ああ、今日はなんて良い日なんだろう。

 ちょっとだけ前を歩く夏樹は、私を気遣って歩幅を合わせてくれている。背の高い草履は靴とは感覚が違うので、おしとやかにしずしずと歩かないといけないのです。
 ときおりチラリとこちらを振り向く夏樹の顔は、明るく微笑んでいた。

 ふと一本の桜の枝の下で、夏樹が立ち止まる。
 何かあったかな?
 いぶかしげにしていると、振り向いた夏樹がまじまじと桜と私を見比べて、一人でうんうんとうなずいている。

「あ~、なんだな。……着物姿の春香には桜がよく似合うなって思ってさ」

 その少し照れたような表情に、胸がドキンと高鳴る。
 もう! こんな人混みの中で、まっすぐにそんなことを言われると……。

 顔がほてるのがわかる。でもうれしい。照れるけど。
 そんな私を、またあの優しい眼差しで見つめてくれている。

 はらりと夏樹の頭に桜の花びらが落ちてきた。
 私は息が掛かるくらいそばによって、右手を伸ばして拾い上げた。

「さんきゅ」
「ううん。……大好き」
 そっと周りに聞かれないように小さくささやいて、その胸をつんとつつくと、夏樹がうれしそうな笑顔になった。
 
「あ、ほら、春香の肩にも桜の花びらが……」
 そう言いながら私の耳元に口を寄せて、
「俺もさ。愛してる」
とそっと言ってくれた。

 さあっと風が吹きぬけて、桜の花びらが一気にはらはらと舞い下りはじめた。
 2人で見つめ合い、示し合わせたようにふふっと含み笑いをする。

 私が夏樹の手を取って「さ、行こう」と言うと、夏樹はうなずいてまた歩き出した。
 今度は私が手を引く形になっている。チラリと後ろを見ると、夏樹が微笑んでいた。それを見る私の口元も、いつの間にかにっこりと笑みが浮かんでいただろう。

 舞い散る桜吹雪のなかを、こうして2人で歩いていると、まるでこの時間が永遠に続くかのような錯覚を覚える。
 でも、まんざら間違いでもない。

 私は常に夏樹とともにある。
 眷属神である私は、いつまでも夏樹と同じ時を歩き続ける定めなんだから。

 それでもなお――、

 この幸せな時間がずっと続きますように。


 そう願わずにはいられない。

 私は握っている手にギュッと力を入れた。