05結の章 踏まれても踏まれてもなお耐え抜いて 野辺に咲きたる花ぞうつくし

 太陽の光を浴びて、川面かわもがキラキラと輝いている。
 香織ちゃんの家を辞した俺と春香は、まっすぐ清玄寺に戻らずに川の見える土手にやって来た。
 並んで座る俺たち。先ほどまでの香織ちゃんの様子が脳裏のうりに浮かび、2人とも無言のままだった。

 香織ちゃんのところには言ったが、まだ宇都宮の増田の家、黒磯の石田の家へ行かねばならない。
 そしていつか、ビルマのアラカンに眠るみんなの所ヘも。戦争は終わったと伝えに行かねばならない。


 風がそっと吹き抜け、川原の草たちが揺れている。

「春香……」
「なあに」
「話を聞いてくれるか?」
「うん」
「俺が東京に帰ってきたときの事だ」
「――うん」

 ようやく復員ふくいん船が広島の宇品うじなに到着し、DDTをかけられるなど復員手続きを終えた俺は、ともかくも東を目指して列車に乗った。

 出征しゅっせい時は外から見えないように窓を閉め切っていたこともあり、流れる景色を飽くことなく眺めつづけた。
 戦争が終わって2年が経ち、着々と復興しつつある街並み。東京駅に到着すると、ますますその感が強まる。

 東北本線に乗るために上野まで行ったはいいものの、もう夕暮れに差しかかり、どこかで泊めてもらおうとホームを降りた。

「地下の改札を出ると、そこに子供たちがいたよ。親を亡くして孤児になってしまったんだろう。どの子もあかや汚れで黒くなっていた。
 ……俺たちはこの戦争に負けるって知っていた。
 でもね。いざ、あの子たちを見るとやるせなくてな。俺たちが負けたせいで、この子たちが孤児になったんだって思ってしまって」

 その時、春香がそっと俺の腕に自分の手を添えてくれた。

「その時だ。俺の横を、50歳くらいのご婦人が中学生くらいの娘さんを連れて通り過ぎていった。そのまま、近くの子供に声をかけたんだ。――私の家に来ないかって」

 驚いたことに、ほとんどの子供たちが断っていた。けれど何人か目で、ようやく1人の子供がうなずいた。

「俺はほら、軍服姿だったから声すらかけられなくて……」

 結局、何もできなかった。お前のせいだといわれやしないか。それが怖かった。
 だから、そのご婦人からも孤児たちからも、目の前の光景から逃げるように、俺は駅舎を出た。
 そのまま早足で、行き先もなく歩き続けた。

「気がつくともうすっかり暗くなっていて、ところが自分の居る場所がわからなくなってね。……その時に、美津子っていう女性に声をかけられたんだ」

 ロングスカートの女性で、その人は娼婦しょうふだった。それも町角でお客を見つける街娼の。

 俺の腕に添えられた春香の腕に、ぎゅっと力が込められる。もちろん、そういう夜のお勤めはいらないって断ったさ。

「そしたら、あ~あ、今日はお客無しだって言っていたよ。男の子が待ってるから、もう家に帰るって言ったから、思わずお願いしてみた。……食事もいらないから、ただ泊めてくれないかって」

 自分でも、なんでそんなお願いをしたのか、今さらながらよくわからない。
 でもその美津子って女性は、一瞬目を丸くしてから小さく笑って、いいよと言ってくれた。

 近くにあるらしき彼女の家にいくと、家の前に小学校4年生くらいの男の子がいた。たけるくんという。

 美津子さんを見て「姉さん、お帰りなさい」と言ったものの、隣に俺がいるのを見て男の子は下を向いてしまった。
 それを見た美津子さんが笑って、「この人は客じゃないの。ただ今晩だけ泊めて欲しいってさ」という。

 どういうことかって聞いてみると、これからお勤めなら、外で待ってなきゃいけないと思ったんだそうだ。

 俺はそういう客じゃないからと、3人でその家に入った。美津子さんが夕飯の準備をしようとしたから、背負い袋から取り出した風をよそおって魚の缶詰を出して、おかずにしてもらった。
 健くんは余所余所よそよそしかったけれど、美味しそうに食べていた。

「美津子さんは20台半ば、それなのに健くんは小学校4年生くらい。年の離れた姉弟だなって思っていたら、そうじゃなかった。美津子さんが健くんは浮浪児だったと教えてくれたよ」

 戦争が終わって、浮浪児たちが上野駅の構内にまりだした。
 そばに大きな闇市やみいちもあって、子供たちはそこで食べ物を恵んでもらったり、闇市を仕切っていたテキヤやヤクザ、愚連隊ぐれんたいと呼ばれる若者たちのお使いをするなどして、1日1日を生きていたらしい。

 ところが、昭和21年の春頃から警察が浮浪児たちの狩り込みをはじめ、健くんも捕まって施設に送られたそうだ。
 行った先の施設では、食糧も充分に無く職員からの暴行もあったらしく、結局逃げ出して上野駅に戻ったという。

「美津子さんは美津子さんで、もとは秋田の良いところのお嬢さんだったそうだ。
 ところが、結婚して東京に出てきたはいいものの、戦争で旦那さんは亡くし、しかも進駐軍しんちゅうぐんの兵士4人に襲われて陵辱りょうじょくされ、自暴自棄になって売春婦になったらしい」

 わずかなお金でお勤めをする街娼をパンパンと言ったらしいが、そのパンパンも昨年から警察の取り締まりが厳しくなったという。

「1人で生きていくのが寂しいということもあって、それまでもたまに見かけていた健くんに声をかけ、一緒に住むことにしたそうだ」

 もちろんお客がとれなくて食事抜きの時もあれば、健くんがわずかな食糧を持ち帰って、分け合って食べたこともあるという。

「それを聞いたとき、俺は申しわけなくなって、いてもたってもいられなくなって、お金を出したんだ。泊めてもらう代金だって。そうしたら、すごい剣幕で怒鳴どなられたよ。
 お金を見た途端とたん、目をつり上げて。――ふざけないで! そんなお恵みなんていらないよ! って」

 あの時の剣幕はすごかった。
 そんなつもりで私たちの事を話したんじゃない。そのお金を出すってことは私を抱いてくれるのか。……私たちはここで、ちゃんと暮らしてるんだ。決してみじめじゃないんだ!

「俺は何も言えなかったよ。ただすまなかったとだけ言って。どうにか美津子さんは機嫌きげんを直してくれて、このお魚の缶詰だけで充分だって言ってね」

 それからも戦後のことなど、少し話を聞いて、何もなくそのまま一泊した。
 起きたらすでに美津子さんの姿はなく、俺も列車に乗らなきゃいけないから、健くんにお礼を言付けることにした。

「缶詰を3つ、むりやり渡して、せめてこれだけは受け取って欲しいと言って、それと……。春香。お前には悪いけど、もしどうしても手助けが必要になったら、栃木県那須塩原にある松守村清玄寺に連絡をくれとメモを渡した」

 無駄になるかもしれないけれど、見てしまったからには、聞いてしまったからには、拒否されるとはわかっていても、そう申し出ずにはいられなかった。

 隣でじっと話を聞いてくれた春香の方を向く。彼女は微笑んでいた。
「大丈夫。わかったわ」


 その時、ふたたび強い風がさあっと吹き抜けていった。川原に生えている草たちが、一斉になびいている。
 少し離れたところにあるシロツメクサの群生地でも、白く丸いぼんぼりのような花がいくつも揺れていた。

「ねえ。夏樹。私は思うんだ」

 真っ直ぐに川面を見つめたままで、春香が話しはじめた。

「私たちが知っていたとおりに、たしかに日本は負けたよ。どん底に落ちた。
 ……でも、必ず蘇ることも、私たちは知っているじゃない。だからさ――」

 春香が振り向いて俺の顔をじっと見つめている。
「今度は、その復興を見つめようよ。うちの子供たちと一緒に」

 春香の言うとおりだ。
 日本は必ず復活する。血のにじむような努力を続け、そして経済成長を遂げていく。

 雑草が、踏まれても踏まれても、それでもなお花を咲かせるように。
 どんなに踏みつけられようと、はずかしめられようと、必ず日本は再び立ち上がるんだ。

「そうだな。そうしようか。…………春香」
「なあに」
「愛してる」
「ふふふ。私もよ。愛してるわ、夏樹」

 微笑む彼女がまぶしかった。

 きっと俺たちはこれからも色々な人間の姿を見ることだろう。
 この戦争と同じく、いや、より辛く哀しい出来事もあるかもしれない。

 それでも俺と春香は2人で寄り添いながら、どこまでも歩き続ける。――俺たちの旅はまだ終わらないのだ。

 腕に添えられた彼女の手に自分の手を重ねる。

 隣には春香が居てくれる。これからも永劫の時を歩んでいく伴侶。
 彼女が居てくれること。このぬくもりが、俺に安らぎと喜びを与えてくれるのだ。何度でも言いたい。愛してると。


 まるで長い長い物語を話し終えた気分になり、深く息を吐く。

 見上げた空をツバメがよぎっていった。その向こうで、白い雲がゆっくりと動いている。
 再び川原を吹き抜けた風が、土や草の匂いを運んできた。

 命を育む自然の匂い。
 そこに変わることなく存在し続ける大地の匂いに、俺はどこからともなく力が湧いてくる気がしたのだった――。

05結の章 踏まれても踏まれてもなお耐え抜いて 野辺に咲きたる花ぞうつくし

 朝が来た。
 遅めの朝食を取りながら、今日はどうしてもやらねばならないことがあると春香に告げる。

「香織ちゃんの家に?」
「ああ、そうだ。……戦友だった秀雄くんの最期を伝えにいかないといけない」
 そう言うと顔をくもらせて、
「そっか……」
とうつむいた。

 彼女には昨日のうちに秀雄くんの事を話してある。あの白骨街道で、撤退してくる戦友のために待ちつづけている戦友みんなの霊の話も。

 だからなのか、春香の表情が気になって話を聞いてみると、なんでも今年の4月に戦死の公報が届いていたという。
 それも秀雄くんだけでなく、俺の分も。

「……本当か?」
「本当よ。白木の箱は離れに置きっぱなしだから、後で見る? 公報は返してもらって、……ええっとここだったかな?」
 春香が机の引き出しから一通の手紙を取り出した。

 手に持った箸を置いて、食事中だけれどその手紙を広げる。そこには『死亡告知書(公報)』と標題があって、たしかに俺の名前が書いてあった。

「まじかよ。まさか自分の戦死の公報を見ることになるとは……」
 そうつぶやいて、苦笑いを浮かべながら春香に通知を返した。

「まあ、誰も信じてくれなかったけどね。貴方が生きてるって」

 それは、……そうだろうな。しかし、そうすると春香は1人で俺が生きてると言い張っていたんだろうから、大変だったろう。

 考えていることが伝わったのか、春香がニコッと微笑んだ。
「最初のうちだけだね、大変だったのは」
「そうか。苦労したんだな」
「それで貴方の白木の箱を取りに行ったときに初めてわかったんだけど、同じ時に香織ちゃんにも秀雄くんの戦死の公報が届いていたんだ」

 なるほどな。おそらく死亡の判断は、あの崖崩がけくずれで川原に落っこちて2人でさまよった時だろう。

 春香が自分の味噌汁わんを見つめ、
「でも夏樹が戦死を伝えるとなると。……辛いね」
とつぶやいた。
「だけど、それが戦友の責務なんだ。それに」
「それに?」
「秀雄くんとの約束があるんだ」
「……そう」

 それから「すぐに行くの?」といてくる春香に、なるべく早いほうがいいと言い、食事が終わってひと息ついた頃、香織ちゃんの家に向かうことにした。


 行く前に清玄寺で、恵海さんや美子さん、子供たちの顔を見て挨拶をしてから、香織ちゃんのとつぎ先がある中郷なかごう地区へと向かった。

 初めは俺が1人で行くと言ったんだが、香織ちゃんのことでもあるので春香も行くと言う。
 やむなく、いざ話をする時には門のところで待っているように伝え、春香と2人で連れ立って行くことにした。


 清玄寺から村の中央へつづく道を歩く。左右に広がる畑の上では、幸運をはこんでくるとされるツバメが、大きくえがきながら飛んでいた。

 畑の麦を見ながら、ふと気になった。
「そういえば、もうお盆の祭りは復活してるのか?」
「昨年からだね。青年会の出店は少なかったけれど」

 仕方ないだろうね。今年もそろそろ打合せをする頃だろうか。
 そんなことを考えつつ、分校の手前で道を右折し中郷地区に向かう。

 この道は、かつて東京からこの村に移り住んできたとき、まだ高等女学校生だった香織ちゃんを連れて3人で歩いた道だ。
 あの日は雨上がりの晴れた日だったろうか。今、同じ道を春香と2人で歩いている。

 やがて道の先に、香織ちゃんの嫁ぎ先の家が見えてきた。
 もともとの実家の隣にある嫁ぎ先の家。
 横並びか向かいかの違いはあるけれど、かつての俺と春香の家もそうだった。

 この辺りでは垣根かきねなどないから、道から家がよく見える。香織ちゃんは、庭にある物干し台で洗濯物を干していた。

 5年も会っていなかったからか、もうすっかり大人の顔になっている。和くんももう小学生になっていることだろう。

 手慣れた様子で、1つ1つの洗濯物を広げ、次々に干していく香織ちゃん。
 ……ああ、どんなにか秀雄くんも生きて帰りたかったことだろう。その無念さを思うと、再び俺の胸が締めつけられる。


「――春香。悪いけど、お前は入り口のところで待っていてくれ」
「わかった」

 ここからは俺が一人で行かねばならない。

 家の敷地に入った俺を香織ちゃんが見つけ、首をかしげた。けれど入り口でたたずんでいる春香を見て、俺が誰かわかったようで、目を見張って手をわななかせ始めた。

 それはそうだろう。秀雄くんと一緒に戦死の公報が来たはずの俺が、こうして生きて帰ったんだから。

 じいっと俺を見つめ、そのまま失神するんじゃないかと心配しそうなくらい顔をこわばらせ、それでも微動だにせずに俺が近づいていくのを待っていた。

 視界の端っこで、俺を見たご家族が、外で遊んでいた男の子を家の中に引っ張り込むのが見えた。あの子が和くんだろうか。

 離れた位置で一度足を止め、そっと目を閉じる。

 ……迷うな。これから香織ちゃんに秀雄くんの死を伝えねばならないんだ。

 それでも何と言って切り出したらいいのかわからないまま、俺は目を開けて再び香織ちゃんのところへ向かった。

 けれども俺が口を開くより先に、香織ちゃんがガバッと頭を下げた。戸惑ってしまって足が止まる。

 頭を下げたままの姿勢で香織ちゃんが、
「申しわけありません! 旦那だんな様」
と叫んだ。

 感情をおさえ込んでいるのか、その背中が揺れている。悲痛な気持ちがその全身から噴き出しているようで、俺は身動きできなかった。

「私は旦那様にも、奥様にも、家族のように良くしていただいて、お二方ふたかたには並々ならぬ御恩ごおんがあります。ですが! ……今この時だけは。今この時だけは! おうらみ申し上げます」

 その言葉が胸に突き刺さる。
 がばっと顔を上げた香織ちゃんは、顔を悲しみにゆがめていた。

「今、はっきりとわかりました。あの人は、秀雄はやはり死んだのですね。
 奥様がかたくなに旦那様が生きているって信じていたように、私も心ひそかに、もしかしたら生きているんじゃないかって思っていました。
 ……けれど今、旦那様の顔を見て、やはり戦死してしまったんだと、はっきりわかりました」

 彼女の両目から、見る見るうちに涙がこぼれ落ちていった。

「――なぜ! なぜ! 旦那様はこうしてお帰りになったのに、……私の、あの人は、秀雄は、……帰って来なかったんでしょうか!
 なんで……。秀雄ぉ……」

 香織ちゃんは、そのまま崩れるようにひざをつき、うつむいて両手で顔を押さえて激しく泣きはじめた。

 俺も身を切られたように心が痛い。悔しさに、にぎるこぶしに力がこもる。

 ……そのとおりだ。俺が生きて帰ってこられたのは、俺が人じゃないからなんだ。そんなのひどいズルだ。裏切りも同然だろう。

 あれだけ一緒にいて、それでも俺は秀雄くんを守ることができなかった。生きてここへ連れてくることができなかった。
 そのことは何度も何度も、俺自身が悔やんでいる。

 香織ちゃん。……すまない。本当に、すまない。
 せめて君の悲しみを、この俺にぶつけてほしい。たとえ、どれだけ責められようと、俺はこの身で受け止めてやりたい……。

 その時背後で、春香がこちらに来ようとするのを感じ、後ろ手に来るなと合図する。

 俺はゆっくりと香織ちゃんに近づいた。
 地面の土を握りしめ、嗚咽おえつらしている香織ちゃん。秀雄くんが帰ってこないっていっていたけど、でもね。秀雄くんはね――。


「秀雄くんは、帰ってきたんだよ。ここに。俺が連れて帰ってきた」
 神力収納から秀雄くんの御遺骨ごいこつを包んだ白い布包みを取り出して、うつむいて泣き続けている彼女に見えるようにそっと差し出した。

 それを見た香織ちゃんは恐る恐る顔を上げ、布包みに手を震わせながらのばしてきた。
「あ、ああ、あ……、秀雄ぉ」


 ぶるぶる震える指先で、俺の手からそっと包みを受け取り、じっと見つめている。そして、泣き笑いの表情で、ゆっくりと胸に抱きしめた。
「お帰りなさい。秀雄……」

 その時、ばっとかずくんが走り込んできた。
「まま!」
 幼いながらも心配そうな表情で、香織ちゃんのそばに来て、どうしていいかわからずに立ち止まっている。
 涙に濡れた顔のままで和くんを見つめ、香織ちゃんは「ああ、和」とつぶやいて、男の子を強く抱きしめた。

 ……そうか。どうやら大丈夫そうだ。
 香織ちゃんには和くんがいる。あの子がいるかぎり、彼女はくじけることはない。そう思う。
 だから俺は、心のなかで秀雄くんに語りかけた。――君は心配していたけれど、2人とも大丈夫だよと。

 俺は香織ちゃんに語りかけた。
「秀雄くんから香織ちゃんに伝えてくれといわれた言葉がある」

 遺骨を胸に抱いたままで、香織ちゃんが俺を見上げた。和くんもつられて俺を見る。

「生きて帰ることができず、すまない。だが俺は君と結婚できて幸せだった。
 父さんと母さんを頼む。和のことも。
 ……香織。来世こそ、また君と夫婦となって最後まで一緒に暮らしたい。本当にありがとう」

 こうして抱き合っている母子を見ていると、すでに輪廻りんねに旅立ってしまった秀雄くんが2人を見守り、微笑んでいるような気がした。

 香織ちゃんがつぶやいた。
「私の方こそ、来世でもあなたと一緒になりたい。……ありがとう。秀雄」

 夫婦となる。親子となる。そのつむがれた因縁は、生死をも越える。
 果てしない輪廻のどこかで、秀雄くんと香織ちゃんは再び夫婦となるだろう。

 願わくば、その時代が平和でありますようにと祈らずにはいられなかった。

05結の章 踏まれても踏まれてもなお耐え抜いて 野辺に咲きたる花ぞうつくし

「ふふふ、ふーんふんふん~」

 春香が蔵の玄関口にある調理場で、割烹着かっぽうぎに身を包み、機嫌良さそうに鼻歌をうたいながらお鍋を見ている。

 ……ああ、なんて幸せなんだろう。
 ただ調理をしている彼女を見ているだけだというのに。これが幸せをかみしめるっていうことだろうか。
 きっと今の俺はゆるみきった顔をしていることだろう。

 春香もさっきからチラチラとこちらを見てくる。
 そのたびに目が合って、恥ずかしそうにお鍋に視線を戻す。かと思えばこちらの様子を窺うように、再びチラリと見てはまたすぐにお鍋に……。

 ふふふ。そんな春香が可愛い。
 間違いなく彼女も幸せを感じていて、気持ちをどう表現していいのか、わからないでいるのだろう。

 久しぶりの夫婦水入らずのひととき。さっきからお出汁だしのいい香りが漂ってきている。言葉をかわすこともないけれど、ゆったりと流れていくこの時間、この雰囲気が心地よい。

 どうやら料理ができたようだ。そろそろちゃぶ台の準備をしておこう。
 壁際にたたんでおいたちゃぶ台を組み立て、そのまま台所に向かう。玄関の上がり口にあたる板間にお盆が並んでいて、そこにおはしやご飯茶碗ぢゃわんが用意されていた。

 春香がお鍋のおかずをお皿に移しているのを横目に見ながら、そのお盆を取り上げた。――ほう。今日は煮魚か。

 ちゃぶ台にもどってお箸や食器を並べる。すぐに、おかずを持って春香がやって来た。

 目の前に置かれたお皿には、じっくりと味の染みこんだ魚の切り身が乗っている。刻んだ生姜しょうがが添えてあり、うっすらと湯気が立っていた。
「うまそうだな」

 思わず口の中につばがいてくる。5年ぶりの愛妻料理だ、うまくないわけがない。

 待ちきれない様子がわかったのか、春香が苦笑しながら手早く俺の茶碗に麦ご飯をよそってくれた。
 茶碗に盛られたご飯。飯ごうのふたじゃない、俺の茶碗だ。そのことがとても嬉しかった。

 うん?

 春香の目もとがうるんでいる。
 その視線の先には、先ほど並べた俺のご飯茶碗があった。

 すぐに俺が見ているのに気がついたのだろう。そっと微笑んで、
「ようやくそのお茶碗をまた使えたなって思って……」
と小さな声で言った。

 そうだよな。
 おそろいの夫婦めおと茶碗。春香はずっとずっと、これを使うのを待っていたんだ。だけどね……、そんなことを言われたら泣けてくるじゃないか。

 目の前のちゃぶ台には、並んだ2つのおかず、並んだ2つのお箸、並んだ2つのお味噌汁に、今ご飯茶碗も並んでいる。
 かつては当たり前の光景だったけれど、それがこんなにも愛情にあふれたものだったなんて……。

 黙りこくった俺を見て、春香が照れくさそうに笑った。
「――ね。ご飯にしよう」

 お互いにわかっているよとばかりに微笑みあい、少し潤んだ目もとをぬぐってから両手を合わせる。

「いただきます」
「いただきます」

 この食事の挨拶をするのにも、2人して何故か照れてしまう。

 幼なじみから恋人になり、そのまま結婚した俺たちには、付き合い始めの初々ういういしさなんてなかったけれど、新婚さんってもしかしてこんな感じなのかもしれない。


 この5年間。春香はどんな風に過ごしてきたんだろう。何を見て、何を感じ、そして何をしてきたのか。
 ふとそんなことを思う。

 俺たちは永い永い年月を共に暮らしてきた。相手のことで知らないことなんてないくらいに。
 それが今、目の前にいる春香は、俺の知っている春香ではなく、俺の知らない経験を積んで成長した1人の女性のように見えた。
 それが少し寂しくも感じるが、すごいと尊敬をも覚える。

 ……まあ、すぐにベタベタの甘々な俺たちになるとは思うけどさ。


「なんかね」と春香が言いかけた。
「うん?」
「夏樹が帰ってきたら、聞いてもらおうと思っていた話がたくさんあるんだけど……。なんだか、もう、そんなのどうでもよくなっちゃった」

 春香がそう言って微笑み、すぐに、
「あ、でもやってもらおうと思ってたことはあるから、それは後でやってもらうからね」
「やってもらいたいこと?」

 なんだろう。どこかで雨りでもして手つかずなのか?

「そうそう。今日は寝るときに抱きしめてもらって、耳元で愛してるって100回はささやいてもらうから。それから――」

 なにそれ可愛いな。
 でも100回も愛してるって言っていると、その言葉が軽くなりそうな気もする。
 ……そうだ。それなら100回のキスをしよう。その言葉のかわりに。唇でもおでこでも首筋でも手でもどこでも。春香を愛撫あいぶするように、何度も何度も口づけをしよう。

「あー、わかったわかった。俺にもやりたいことがある。だけど、まずはご飯を食べちゃおう。せっかく春香が作ってくれたんだし」
「あ、はは。そうだね」

 さっそく箸で身をほぐし、そっと口に入れた。お出汁と魚の旨みがじわりと口に広がる。懐かしいこの味付け。……ああ、うまい。
 久しぶりに食べる春香の食事は、今まで食べたどんな料理よりもおいしかった。


 食事が終わり、春香が片付けをしている間に、俺はお風呂を入れることにした。
 ただそれだけなのに「私も一緒に行く」と言い出した春香に、居間を挟んで向こう側に行くだけだし、どこにも行かないからとなだめ、1人でお風呂場に行く。

 離れるのが怖いんじゃない。片時も離れなくないのだろう。その気持ちは俺にもわかっていた。

 湯船に水を張り、鉄砲風呂のボイラー部分にまきを入れて火を点ける。洗い場にあるイスに腰掛けて、じっと浴槽よくそうのお湯を見つめながら温まるのを待つ。
 温められたお湯が湯船の表面に上がってきて、浴槽よくそうはしの方へと流れていく。

 ああ。風呂か。前に入ったのは一体いつだったろうか?

 ビルマの雨に濡れ、全身がびしょびしょになったことなら何度でもある。
 バケツをひっくり返したような雨の中を進軍していったみんな。崩れた道を補修し、泥まみれになりながら通り抜け、そして熱に侵されては倒れ、雨ざらしになっていた奴もいた。

 退却路たいきゃくろで見た、あの白骨となった戦友。彼らは今も、遠く離れたビルマの山中で、退却してくる戦友を待ち続けているのだろう。あの雨のジャングルで。

 チンドウィン川を渡ったはいいものの、あれからも激しい撤退てったいがつづいた。あの時も――。


 思考が深みにはまっていこうという時、後ろから春香が抱きついてきた。いつのまにか風呂場に来ていたようだ。

 背中が柔らかく温かいぬくもりに包まれる。
「夏樹……」
 肩越しに俺の首元に顔をうずめ、ささやくその声。彼女の息が首筋をくすぐる。

 どうやら不安がらせてしまったか。

 前に回された彼女の腕に、そっと右手を添える。
「大丈夫だよ」
「うん」
 そうつぶやくけれど、彼女は離れようとしない。

 左腕を彼女の頭に添え、そのまま振り向いて唇を重ねた。
 やわらかいこの感触。春香も少し汗をかいているようだ。かぎなれたこの匂いに、この日だまりのようなぬくもりに包まれていると、穏やかな気持ちになっていく。

「俺はここにいる。もうどこにも行かないさ」
 そう言うと、春香がぎゅっと俺を抱く腕に力を入れた。
「うん。……さっきは少し怖い顔をしてたから」
「そうか。あの戦場を思い出しちゃって……。すまん」
「いいのよ。忘れちゃいけない。そうでしょ? だって私たちは――」

 春香の言いたいことはわかっている。
「人間を学んでいる。そのために歴史をたどっている修行の身」

 そのとおりだ。今回の戦争は思いっきり、その残酷ざんこくな一面を見続けてしまった。

「そして、夏樹は1人じゃないんだよ。私がいる。……だから、貴方のその辛い気持ちを私にも分けて」

 今日だけは、戦争の話をするつもりはなかった。帰ってきた今日だけはと、そう思っていた。
 でもこうして春香と一緒にいると、幸せを感じる度にあの戦場を思い出してしまう。

 ――やはり、まずは春香に話を聞いてもらうのがいいだろうか。春香がどう思うか少し怖いけれど、そこがスタートラインなのかもしれない。

「なあ春香、聞いて欲しい。ビルマで何があって、どんな風に、俺たちが戦ってきたのかを。少し長くなるけれど、聞いてくれるか?」

 おそるおそるそう尋ねる俺だったが、春香は即座に、
「うん。いいよ」
と言ってくれた。

 俺から離れた春香が洗い場の床にじかに座る。
 そのまま俺はインパールに向かって戦っていた日々を、そして撤退し、戦友たちが死んでいった様子を話しはじめた。
 秀雄くんの最後も含めて――。


 お風呂場に俺の声が響く。温かい蒸気が伝わってくる浴槽を前にして、時おり言葉に詰まりながらも俺は話し続け、春香は最後までじっと聞いていてくれた。

 途中で何度もお湯が冷めてしまったので、新たな薪をくべた。そして、長い長い話を終えたとき、春香は俺の方を見た。
 だが、俺はその目を見つめかえすことができずに、少しうつむいてしまった。

 怖かった。理由はわからないけれど、ただ怖かった。

 けれど春香はそんなことお構いなしに俺の傍にやって来て、俺の手を握る。
「よくがんばったね。夏樹。話してくれてありがとう」

 その声を聞き、おそるおそる春香を見る。彼女は微笑んでいた。
 その笑顔を見た途端、俺は知らない間に背負っていた何かが消えていくのを感じた。まるで罪の許しを得られたかのように、救いの光をみたように。

 そうか。こんなにも気持ちが楽になるのか。春香に話を聞いてもらうと。

 春香の目をじっと見つめる。その澄んだ瞳が吸い込まれるように美しい。
 何かな? といいたげに首をかしげる春香に、
「愛してる」
と言うと、不意打ちだったみたいで、少し照れた様子で顔をそらし、
「私も。――ねえ。そろそろお風呂に、入ろう?」
とはぐらかすように言っていた。



 背中を流し合って一緒に湯船に入り、ゆったりとした一時ひとときを過ごす。
 他愛もない会話を交わしながらも、春香の背中を流すときには柔らかくしっとりした肌に妙にドキドキしたし、久しぶりに見る彼女のまろやかな胸に視線がくぎ付けになった。

 まあバレバレだとは思うけれど、そんな気持ちを抑えつつ、お風呂から上がって浴衣に着替え、居間でのんびりとした気持ちで窓の外を眺めていると、春香が酒器をお盆に載せてやってきた。

 雨は降っていないようだけれど、あちこちからカエルの鳴き声がにぎやかしく聞こえてくる。それがまた松守村らしくて懐かしい。

 小さく2人だけの乾杯をして、さっそくお猪口ちょこを口にする。おそらく神力を使ったのだろうけど、よく冷えたお酒がすっとのどを通り、腹の中から俺の体を清めてくれるような、そんな感じがした。

 カエルの声をBGMにして、1口、2口とお酒が進む。
 いが回ってきたのか、少しいい気持ちになりながら、
「やっぱり日本酒は旨いな」
「向こうではどんなお酒を飲んでいたの?」
「ああ……、将校はウイスキーとか手に入れていたみたいだけど。俺たちひらの兵士は地元のチン族の作ったお酒とかだ。ヅウって名前で黄酒みたいに濁っててさ」
「ふうん」

 ま、ズウも手作りとしては悪くはなかったけどね。

 ふと脳裏に亡くなった増田の顔が思い浮かぶ。あいつも子供を残してってしまった。同じように父を亡くした子供たちが大勢いることだろう。
 戦場に散っていった戦友達のことを思えば、もちろん限界はあるが、俺も春香と同じように子供たちを引き受けようとしただろう。
――ああ、そうだ。こっちでは子供たちを引き取ったんだったか。

「そういえば子供たちを引き取ったんだったね」
 すると春香は少し物憂ものうげな表情を浮かべ、手元のお猪口に視線を落とした。
「うん。……見ていられなくてさ」

 そっと左手をのばして、春香の手に重ねる。ピクッとした春香が、おそるおそる俺を見た。俺は彼女の目を見ながらゆっくりとうなずいた。

「わかるよ。俺も色々と見てきたからな」

 この様子、春香も悲惨な光景を見てしまったんだろう。一体なにを見てきたのかわからないけれど。

「なあ春香」
「なあに」
「今度はお前の話を聞かせてくれないか」
「うん。……まあ、夏樹ほどじゃないけれど、こっちも色々あったなぁ。長くなるよ?」
「構わないよ」
「そう。それじゃあ――」


 それから聞いた春香の話に、彼女の苦労を知る。
 清玄寺で学童疎開そかいがあったこと。そして、東京大空襲くうしゅうに、寮母りょうぼだった女性の死。
 子供たちと暮らした生活。俺を待ちつづけた日々。

「色々あったんだな」
「まあね」

 春香の手をなで続ける。
 この手で子供たちの面倒を見てきたのか。そう思うと、俺には春香が何か尊いもののように思えた。

 ちゃぶ台の向こうで微笑む彼女。この歳の姿の春香は、若い時と違った美しさがある。
 しっとりと柔らかい手。どこかいろのある表情。……もちろん、そんなものがなくても、俺にとってかけがえのない、世界で唯一の女性であることには変わりがない。

 この手を握りながら、ずっと世界を回ってきたんだよなぁ。なんてすごい女性なんだろうか。そして、なんて愛おしいんだろうか。

 同じこの手で、俺のために千人針を作ってくれたんだ。俺のために春香人形を作ってくれたし、そして、胸のポケットにお守り代わりに自分の下の毛をい込んでいてくれた。
 そのどれもが、あの悲惨な戦場で、俺を守ってくれたと思う。

 気がついたらつぶやいていた。
「ありがとうな」
「うん?」と、いぶかしむ春香。
「お守りのことさ」
「ああ……、千人針」
「いや、それだけじゃなくってさ。人形もそうだし、胸のポケットの……、毛?」
「毛ぇ言うな」
 わざとだろうけど、久しぶりにほおを少しふくらませている。

「ははは。見た時は驚いたけど、まあその……」
「ふっふっふっ。あのお守りを何に使ったのかわからないけれど、役に立ったんならよかった」

 ちょっと引っかけるような言い方だけど、変なことには使っていないぞ?
 あんな大切なもの、大事にとっておくに決まってるじゃんか。それにさ、

「お前が、自分で抜いているところを想像するとおもしろくって」
「うっ」

 こんな表情をするってことは、やっぱり恥ずかしかったんだろうね。ふふっ。


 少し間があいて、春香が急にニヤリと笑みを浮かべた。なんだ? 何かする気か?

「私もこれになぐさめられたからね~」
と言いながら、春香は長い枕をひょいっと取り出して、胸もとに抱き込む。
 思わず、それを指さして、
「あー! それが俺の枕か!」
と声を上げてしまった。
「そうだよ。見せるのは初めてだよね~。これに夏樹の浴衣を着せてね。抱きついて寝てました」

 抱き枕だけに1メートルほどの長さがあって、その先端にまるでマジックで描いたような人の顔が、布を器用に切り抜いて縫い付けてある。

「それ、俺に似てるかあ?」
「え~。似てるでしょ」
「いや、デフォルメしすぎじゃあ……」
「いいの。夏樹の顔は私の頭の中にあるんだから、イメージが重ねれば良いんだから」
「そういう問題なのか」
「そういう問題です」

 むぅ。

 黙り込んだ俺の目の前で、春香が枕をすっと差し出す。俺が手をのばすとヒョイッと枕が逃げた。
 再びのばした手の先で、ぱっと枕が消える。神力収納か。
「あ――」というと、春香はにっこり笑って、
「でももういらない。夏樹はもう、ここにいるんだから」
と言う。

 春香がゆっくりと立ち上がり、俺の所にやってくる。何をするんだろうと見ていると、堂々と「よっこらしょ」と言いながら、あぐらを組んでいた俺の足の上に頭を載せて、ごろんと仰向けになった。

 甘えん坊モードになったな。
 苦笑しつつも、春香のほっぺたを触る。
 春香も手をのばして、俺の頬に手を当てた。ほくそ笑んで俺を見上げている。

 お酒をくいっとあおり、空になったお猪口をちゃぶ台にトンと置いた。空いた手で俺の春香の手に自分の手をそっと重ねる。
 そのまま目をそっとつぶり、添えられた春香の手に頬をすり寄せ、そのぬくもりを味わった。

 いつしかお互いに口数が少なくなった。
 そっと目を開き、足の上の春香を見つめる。酔いが回っているのもあるだろうけど、その目元は少し熱を帯びているようだ。

「――じゃあ、上に行こうか」
というと、春香はうなずいて身体を起こした。

 いそいそと窓を閉めに行くと、春香は片付けを明日にしたらしく、先にハシゴの上にのぼっていく。
 部屋の電気を消すと、ロフトにある行灯あんどんに明かりが灯った。まるでベッドランプのように、ほのかな光がロフトから漏れている。

 ハシゴを登り上にあがると、すでに春香は布団の上で正座をしていた。

 対面するように俺も正座で座り、すっと彼女の左手を取る。怪訝けげんな表情を浮かべた春香の目の前で、神力収納から結婚指輪を取り出した。

 俺たちの絆の指輪を、今ふたたびはめよう。

 少し震える春香の薬指に、ゆっくりと指輪をはめていく。するすると奥へ差し込み、かつての定位置へ。

 無言のうちの儀式。誰も見ていない2人だけの儀式だ。

 次は俺の番。
 左手を差し出すと、春香が同じように仕舞っていた結婚指輪を取り出した。俺の左手を取って同じように薬指にゆっくりと指輪がはめられる。

 その途中から、不意に春香の頬をツーッと一筋の涙が流れ落ちた。終わってから、親指でその涙をぬぐってやり、潤んだ瞳を正面から見つめる。

 胸の奥から、愛してるっていう気持ちがこみ上げてきて、目もとが熱くなる。視界がにじんできた。

「ただいま……。春香」

 改めてそう言うと、春香は微笑んで、
「お帰りなさい。……あなた」
と言って、抱きついてきた。

 柔らかい彼女の身体を受け止めて、そのまま布団の上に倒れ込む。震える彼女の唇、そして涙の跡に次々に口づけをしていく。

 ああ、こんなにもお前が愛おしい。――愛してる。心の底から愛してる。

 何度も何度もキスをしているうちに、次第にとろけていく心。
 お互いに愛を与えようとするように、俺たちは求め合い、やがて何もかもが一つになっていった。

05結の章 踏まれても踏まれてもなお耐え抜いて 野辺に咲きたる花ぞうつくし


 あなたは、何をしているのでしょうか。
 まだ帰っては来られないのでしょうか。
 どこかで道に迷っているのでしょうか。

 あれから幾度いくども幾度も黒磯に行きました。
 駅前で何度もお待ちしました。
 復員兵を見かけるたび、あなたかと声を掛けました。

 月日は流れ、もう昭和22年。6月になっています。
 もう帰ってきてくれても、いいのではないでしょうか。

 終戦からまもなく2年。それでもまだ、夏樹あなたは帰ってきてはくれないのですね――。


 爽やかな風が洗濯場を通りすぎていく。
 もみ洗いをしていた手を休め、ふと空を見上げた。きれいに晴れ渡っている。今日は少し暑くなるかもしれない。

 戦争が終わってから、連合国軍最高司令官総司令部、通称GHQの指示を受けながら、日本は新たな国作りに入っていた。

 一方で、戦争の傷痕きずあとも深く、ことに昭和20年は凶作の年だったこともあり、食糧を求める人々がちまたにあふれ、戦災孤児は駅にたむろした。
 軍需ぐんじゅ物資の強奪ごうだつ隠匿いんとく物資の捜索そうさく。東京では売春する娘たちにあふれ、窃盗せっとう団が活発に活動をしていたという。

 極東国際軍事裁判が行われ、日本軍の軍人たちの犯罪が審議しんぎされて刑が確定したが、世界情勢では東ヨーロッパ諸国が共産化し、お隣の中国では国共こっきょう内戦が始まった。
 大きな戦争が終わったというのに、平和にはほど遠く、まだまだ世界情勢は安定しない。すでに次の東西冷戦へと移りかわりつつあった。

 国内では事前に予想していたように、農地解放、通貨改革、選挙改革、そして日本国憲法の制定、教育改革と、矢継やつばやに社会が変わっていく。
 それでもなお、復興の道、いまだ遠しといえるだろう。


 今日は学校が休みということもあり、香代子ちゃんが一緒に手伝いをしてくれている。
 和則くんは泰介くんを連れて、畑に行っていた。小さい子たちは洗い場のそばで遊んでいる。

 もみ洗いのおわった衣類を水ですすぐ。簡単にしぼって、他の干すものと一緒にかごに入れた。
 ずっとかがんでいた腰を伸ばし、固まっていたすじをのばすように左右に身体をひねる。

 子どもたちが歌をうたいだした。ここに流れる穏やかな時間の中を、小さな子のあどけない声が響き渡る。

 十五夜お月さん ごきげんさん
 ばあやは おいとま とりました

 十五夜お月さん 妹は
 田舎へもられ貰われて ゆきました

 十五夜お月さん かかさんに
 もいちど私は 会いたいな

 おそらく意味はまだわかっていないだろう。どこか哀しい気持ちになる歌。「もいちど私は会いたいな」という言葉が切ない。

 その時、ふっと足元に何かが落ちた。なんだろうと見下ろしたら、それはずっと手首に巻いていたミサンガだった。
 そっと拾い上げ、手のひらに載せる。すり切れた糸。色の薄れたミサンガ。

 ……そう。とうとう切れたんだ。



 しぼった衣類をパンパンと伸ばして竹竿に掛ける。
 1つ終われば、そばにいる菜々子ちゃんが「はい」と次を手渡してくれた。
 4歳だったこの子も、今は6歳。もう1年生になっていた。

 梅雨シーズンの貴重な晴れの日。今朝までは雨が降っていたけれど、晴れている間にできるだけ天日で干しておきたい。
 夏のようなモクモクとした白い雲が、山の上に姿を現している。夕立こそ心配だけれど、気温も上がりそうだ。
 ラジオからは軽快な音楽が流れてくる。風がそよぎ、洗濯物をふわっと揺らした。


 東京の復興は着々と進んでいるようだ。
 清玄寺寮に来ていた子どもたちからは、以前ほどではないけれど、今でも手紙が届いている。

 あの日、東京に帰っていったみんなだけれど、その家によって随分と環境が変わっていったようだ。とはいえ、やはりどの家庭も生活が厳しいようで、アメリカ軍の兵士からチョコレートをもらったと絵に描いた子もいた。

「よしっと。ね。香代子ちゃん、ちょっと休憩にしよっか」
「はあい」
 少し疲れたので、本堂の正面階段に腰掛ける。ここは本堂の屋根が張り出していて日陰になっていて、見晴らしが良くてのどかな村の様子がよく見える。ひと息つくにはちょうどいい。

 脇のあじさいの上には大きなカタツムリがゆっくりと動いている。
 けんけんぱをしている子どもたち。午後からは畑仕事にいかないといけないなぁ。

 慈育園の経営は、畑だけでは厳しいものがあった。食べるものには困らないのが幸いだけれど、子どもたちはすぐに大きくなるし、勉強に必要な教科書、文房具も馬鹿にならない。
 幸いにお寺での経営って事になっていて、例の講組織による月並み分担金もあるから、なんとかやっていけている。

 教育内容は戦前とはがらりと変わったようだ。
 民主主義を教える内容や英語の授業があると聞き、かつて私が暮らしていた平成の日本にぐっと近づいた気分になったものだ。

「あ~、疲れた」
という香代子ちゃんに微笑みかけながら、今日のおやつは何にしようかなと考えた。

◇◇◇◇
 俺がこのバスに乗るのも、もう何年ぶりだろうか。

 懐かしい黒磯の駅も駅舎自体は変わりがなかったけれど、道行く人々には自分のように軍服を着ている人もおらず、なんだか場違いな気がした。
 ひと目で復員してきたとわかる恰好かっこう。何人かのご婦人が顔を見ては肩を落として歩き去って行った。……きっとまだ戻らない家族がいるんだろう。


 梅雨に入ったとは聞いていたけれど、今日はきれいに晴れている。まるで夏のような空の下を村に向かう道が延びていた。
 窓から射し込む光に照らされた車内。つり革がゆっくりと揺れ、穏やかな空気がただよっていた。

 窓の外からは川が見える。この時期にはもう蛍が舞う頃だろう。
 懐かしい道。……ここに来るまで色んな事があった。

 けれど、ようやく。ようやく。自分はここまで帰ってこられた。それが嬉しい。

 春香はどうしているだろう。そればかりが気になる。
 もうすぐだ。あともうちょっと。

 窓の外を流れていく景色を見ながら、知らずのうちに春香の姿を探している自分がいた。
 大丈夫、清玄寺で待ってくれているはずだ、とわかってはいるけれど、探さずにはいられなかった。

 握った手の中には、列車の中で切れたミサンガがある。
 出征しゅっせいの朝に春香が編んでくれたミサンガ。春香人形やお守りとともに、戦場まで俺と一緒に行ってくれたミサンガだけれど、黒磯の駅に到着する直前で唐突に切れたのだ。まるでその仕事を終えたとばかりに。

 この晴れた空のように、俺の気分は明るくなっていく。この先には春香が待っている。ずっとずっと帰ることを願っていた、……彼女がいるんだ。

 ――あ。そういえばヒゲをってなかったな。

 唐突にそんなことを思い出した。

 前に剃ったのは3日前か? 俺だってわかるかな。
 少し心配になりながらあごに手をやると、もう触りなれた無精ヒゲが指先に触れる。
「今さらか」
 そう言いながら、どこか愉快な気持ちになった。

 しかし戦争が終わってから、随分と経ってしまった。
 捕虜ほりょになった俺は、戦争が終わってもイギリス軍の指示のもとで、ずっと強制労働をさせられていたんだよね。

 俺はかつてイギリスに住んでいたし、英語もできる。それに何より、かつての知り合いが将校になっていて、ひょんなことで再会できたということもあった。
 その際に、みんなより先に日本に帰れるように都合を付けようかと言われたけれど、さすがに一緒に戦ってきた戦友をおいて1人で日本に帰ることはためらわれたんだ。

 ただねぇ。まさ2年もかかるとは思いもしなかったよ。結局は、GHQがイギリスに早く捕虜を日本に戻すように強く要求したらしい。

「次は松守村入口。松守村入口」
 到着だ。降りる準備をしよう。――――春香、いま帰るぞ!


 バスを降りて、村の入り口を見ると同時に万感の思いが胸にこみ上げてくる。たとえようもない喜びが身体からあふれ出していく。

 ここに来るまでどれほどの苦しみを味わったことだろうか。
 だけど、とうとう春香のもとに戻るという目的が叶えられようとしている。
 もう何も俺たちの間を邪魔するものはないのだ。誰も俺たちの間を引き離すことはできない。

 懐かしい村の道を歩き出した。およそ5年ぶりの村は、出発した時と何も変わりがないように見える。それが妙に嬉しかった。


 駐在所を過ぎ、かつて働いていた村役場が見えてきた。

 ちょっとだけ帰還の挨拶をしようかと思ったけれど、それよりも今はとにかく春香の顔が見たい。
 挨拶なら後からすればいいだろう。そう思って足早に通り過ぎた。

 背後から誰かが飛び出してくる気配がする。「――まさか!」と声がした気がするけれど、俺は振り返らなかった。


 道の隣に広がる畑には、青々とした麦が風に揺られている。
 懐かしの分校からは、校庭で運動をしているのだろうか、子供たちのにぎやかな声が響いてきた。その声に、意味もなく口元が笑みをつくる。

 分校の先には、道ばたの桜が青々とした葉っぱに陽光をきらめかせていた。道にまだら模様の影を投げかけ、その木漏れ日の中をアリが行列を作っていた。

 昨日は、――いや今朝までは雨だったのだろう。ところどころぬかるんでいて、道のくぼみにある水たまりに、晴れ上がった空がきれいに写し出されていた。


 途中で1人のご婦人とすれ違った。あれは隣組の石川のまささんだったか。
 いぶかしげな顔のままでお辞儀じぎをしていたから、きっと俺が誰かはわかっていないんだろう。探るような視線を感じたけれど、何かの用事の途中だったようでそのまま役場の方へ歩いて行った。

 村道は畑の外側に沿うように、ゆるやかにカーブを描きながら上り坂となり、その先に清玄寺の山門が見えてきた。

 雨上がりだからだろうか、空気が澄んでいて、景色がいつもよりもくっきりとして見える。そのままわずかな階段をのぼり、山門をくぐった。

 夏には祭りの行われる広場では、見知らぬ子供たちが楽しそうに遊んでいる。
 ……そして、その向こうに歴史のある本堂が静かにたたずんでいて、日陰になっている階段に、春香がいた。


 ――その瞬間、すっと風が通り抜けた。止まっていた時計が再び動きはじめたような感覚をおぼえる。

 階段に座って子供たちを、そしてこちらを見ているその小さな姿を見て、も言われぬ感動が全身に満ちていく。

 遥かな長い時をともに過ごしてきた彼女。それにくらべれば出征しゅっせいしていた年月など微々びびたるものだけれど、千年の別離べつりを過ごしたような気がする。

 きっと彼女も、ここで俺の想像できないほどの苦難に直面しただろう。
 悩んで、悲しんで、それでも彼女は彼女として生き抜いてきたんだろう。
 自分があのビルマの山深い戦場で戦ってきたように。

 ここまでの道のりは果てしなく遠かった。
 戦場をともにした戦友は次々に倒れ、親しい者も3人、それも目の前で失った。すさまじい爆撃に、機銃きじゅう掃射そうしゃに、人間がまるで虫けらのように死んでいく戦場で、いつしか自分も感情を殺していた――。

 でも、もうそんなことは遠く過ぎ去ったことではないだろうか。

 今こうして春香の姿を目にしていると、死んでいった皆には悪いけれど、これまでの苦難や苦しみが意味の無いことのように思えた。

 足を踏み出す。子供たちがすぐに気がつき、そして、階段にいる彼女も、俺に気がついたようだ。

 けれど、彼女はただぼんやりと俺を見ているばかり。……そうか。今、ここにいる俺を、夢か幻かと思っているのか。
 おそらく今までも、何度も俺の幻が彼女の前に現れていたのだろう。

 そっと微笑みを浮かべる春香。けれど、それはどこか寂しげで諦めの色が見えるようだった。

 そんな彼女を見て目もとが熱くなる。幻を見るほどに、ずっと待ちつづけてきた彼女に、すぐにでも膝をついて祈りを捧げたくなる。
 我慢できず、無意識のうちに「春香、春香――」と何度も名前を呼ぶ。

 するとその声が聞こえたのだろう。彼女が突然目を丸くして、まるで心臓が止まりそうになったかのように胸に手を当てた。
 ゆらゆらと立ち上がり、おぼつかない足取りで階段を2、3段降りた。

 今や、春香のなかで、幻から現実になりはじめたのだろう。今にも泣き出しそうな瞳で、まっすぐに俺を見ている。その唇が震えながら「夏樹」と動いた。

「春香ぁっ」
 右手を挙げて声を張り上げると、次の瞬間、春香がこっちに向かって走り出した。はだしのままで、転びそうになりながらも視線をらさずに。

 俺はその場を動けなかった。
 必死で、なりふり構わずに走ってくる彼女を見て、愛しているという強い思いが、胸の奥、魂の底からあふれ出して俺の身体を縛りつけている。

 春香が、少し手前で急に腰が抜けたように崩れ落ちそうになった。
 あわてて支えようと足を踏み出したところで、彼女が俺の下半身にすがりつく。頭をお腹に当てて、そのしなやかな腕は俺の腰に回されている。

「あなたぁっ。あなたっあなたっあなたぁ――」

 同じことを何度も何度も叫ぶ春香に、胸が締めつけられる。止めようもなく涙が目からあふれ出した。
 お腹の上で泣き続ける彼女の頭をかき抱く。

「春香。ああ……、春香」
 喜びがつきぬけ、ただひたすら彼女の名前を何度も、何度も呼び続けた。

 やがて彼女が嗚咽おえつに肩をふるわせるだけになったころ、俺は彼女の両脇に手を差し込んでぐっと持ち上げて強引に立たせ、そのまま抱きしめた。
 泣きれた春香の瞳を真っ直ぐに見つめながら、俺は言った。

「春香。――ただいま」

 目を泣きはらした春香が、そっと微笑む。
「お帰りなさい。――夏樹」

 そのまま背中に手を回し唇を重ねる。涙でしょっぱくて、柔らかい唇に、言葉にならない、ただただ愛してると想いを込めて……。


 どれくらいの時間をそうしていたのかわからないけれど、子供たちや恵海さんたちが、俺たちを遠巻きに見守ってくれているのに気がついた。

 そっと唇を離すと、熱を帯びた春香の目が、なんで? というように問いかける。その唇に人差し指をポンと置いて、
「みんな見てる」
と言葉少なくいうと、彼女もようやくそのことに気がついたようで、おそるおそる後ろを振り向いた。

 恵海さんと美子さんが、微笑みながら頭を下げる。女の子たちは赤くなりながら、俺たちをじっと見ていた。

 腕の中の春香が、今度は照れて赤くなりつつも、コテンと俺の胸に頭をもたせかけてきた。
 ……ふふふ。きっと、恥ずかしいけどそんなの関係ないって思っているんだろう。

 確かに息づく彼女のぬくもり。ああ、俺はようやく春香のもとに帰ってきたんだ。

04転の章 ひぐらしの声をまくらに眠る子ら 見守るわれも夫を夢みし

 う~。帰ってこない。夏樹が帰ってこない。遅いぞ。何をやっているんだろう。

 そんな思いを懐きながらも、季節は廻り、早くも11月となっていた。
 戦争が続いている間は、夏樹がいないことにまだ我慢ができた。だけど、いざ終わってしまうと、早く帰ってきて欲しいとより強く思う。
 やっぱり南方からだと時間がかかるのかな……。

 心配していたとおり、配給はかろうじて続いてはいるものの、び延びになったり中止になったりしていて、戦時中より当てにならなくなっている。

 幸いにここは農村で、例年よりも凶作気味だったとはいえ、秋ともなればそれなりの収穫があった。
 都会から買い出しにわざわざ来る人もいたようで、村の人たちも交換で良い着物を手に入れるなどできたらしい。

 戦争が終わって、学童の親がぽつぽつ引き取りに来ることもあって、今では30人ほどに人数が減っている。
 そして、その30人もいよいよ東京に帰ることになった。

 1年と3ヶ月になる集団疎開生活。
 我慢させることばかりだったなと思ったけれど、帰る日が近づくたびに甘えてくる子供が増えてきた。
 普段はしれっと大人ぶった態度をとっているような6年生も、何かあるとやってきて、「こんなことがあった」とか「こんなの採れた」と自慢げにやってくる。

 そんな子供たちを見ながら、少しは母親代わりをできたのかなとも思う。寂しくなりつつも、そんなふうに残り少ない日々を一緒に過ごしてきた。

 とうとう、今日はその出発の日。

 すでに清玄寺を出る時に、松守村の人たちや分校の子供たちとのお別れは済んでいた。ここ黒磯の駅にいるのは、清玄寺寮の関係者だけだった。

 まだ列車が来るまでには時間がある。
 改札に入らずに、私たちは駅前広場の一角で固まっていた。戦争が終わった影響もあるのか、多くの人でごった返している。

 東京から買い出しに来たと思われる野菜を持った人。誰かを探すように、道行く人の顔をのぞいている人。そして、あちこちで思い思いにしゃべっている子供たち。
 和則くんと残ることになっている優子ちゃんも、同級生との別れを惜しんでいるようだ。


 ――出発前のお寺でのお別れの挨拶を思い出す。

 本堂に子どもたちが集まってくるのを、私はご宝前ほうぜん側に座って眺めていた。隣には、ここに残ることになる香代子ちゃんや和則くんたちの姿もあって、どこかうらやましげでいて、それでいて寂しそうな表情を浮かべていた。
 彼らも仲の良い友人との別れは、昨日のうちに済ませてあったみたいようだ。

 大丈夫。また会えるよ。東京の復興が終わったら、みんなを連れて東京に行ってもいい。そう思う。

 そんなこんなしているうちに、全員が揃い、青木先生が感慨深げに小さくうなずきながらみんなを見つめていた。

 あの詔勅を聞いてから、しばらくは先生もかなり思い悩んでいたようだ。
 それもそうだろう。今まで教えてきたことはなんだったのか。これからどうなるのか。その指針を見失ってしまったのだから。

 恵海さんがその相談役になっていたようだけれど、訓示も新たな日本建設を目指すようなものに変化していた。もしここに夏樹がいたら、夏樹もきっとアドバイスをしていたと思う。

「それでは皆さん、これから東京に出発します。
 ここで暮らした1年と3ヶ月のことを、先生は絶対に忘れません。おそらくみんなもそうでしょう――」

 先生の訓示が始まった。そして、恵海さんたちが順番に挨拶をすることになり、最後に私にも順番が回ってくる。
 子供たちの視線を感じながら、立ち上がった。

「今ここに直子さんがいないのが残念です。同じように皆さんの中には、家族を失った人もいるでしょう。兄妹を失った人もいるでしょう。
 愛する人を失った悲しみ。ぽっかりと胸に穴が開いたように、そして、その空虚くうきょな穴に冷たい風が吹き込むように辛い時があると思います。……でもね。無くしたものは。亡くした人は帰ってこないのです」

 そっと目を閉じる。まぶたのうらに直子さんの顔を思い浮かべる。笑顔の直子さん、そして、焼けただれつつも、安らかに眠っていたあの顔を。

「――世界は変わりゆくもの。その悲しみもやがてやしていけるでしょう。
 皆さんには未来がある。誰かと巡り会い、そして恋に落ちることもある。心にあいた悲しみの穴は、誰かの愛によって埋めることができる。私はそう思います」

 目を開けた。体はまだ痩せたままだけれど、どの子もたくましくなった。……本当にたくましく。

「そして、誰もが誰かの特別になることができる。皆さん一人一人が、誰かの悲しみの穴を埋められる人になることができるんです。
 誰かの穴を埋めるとき、同時に皆さんの心に開いた穴も埋まっていく。それってとても素敵すてきなことだと思う」

 つぶらな瞳で見つめる子供たちに微笑みかける。

「戦争に敗れ、町はボロボロになったけれど、ここが私たちのスタート地点なのです。地面に倒れた人が、再び地面を踏みしめて立ち上がるように。ここから私たちが、日本が、再び立ち上がるんです。
 この変わりゆく世界で。転変しつづける世界で、私はみなさんと出会うことができた。その縁を大切にしたいと思います。
 そして同時に、みんなもお友だちと。この清玄寺寮で暮らした人々と、松守村の人々と出会った。その縁を大切にして欲しい。それが愛ってことだと思います」

 広い世界。夏樹と2人で歩き続けてきた歴史。多くの別れと、たくさんの愛の形を見てきた。
 恋人、夫婦、家族、友情……。縁って不思議なものだと思うし、人と人との繋がりの根底には愛がある。今はそう信じられる。

「だからどんなに辛いことがあっても、自分が1人だと思わないでください。この広い世界の、どこか片隅で1人ぼっちだなんて思わないで。
 私がいる。みんながいる。まだ見ぬ誰かがいる。……人生ってね。そんなに悪いものじゃないんですよ。それを忘れないで欲しい。そう願っています。
 ――さあ、いよいよ出発です。いつでもまた松守村にいらっしゃい。ここは貴方たちの家でもあるんだから。お手紙を待っています。向こうに帰っても元気でいてください」

 途中でうるっと来てしまい、目をこすりながら自分の席に座る。
 夏樹。私、間違っていないよね。これでいいよね。

 気がつくと、子供たちも胸にこみ上げてくるものがあったようで、何人も目をこすっていた――。

 お寺の外にはすでに村の人たちが集まっている。役場の村長さんから、分校の子供たちまでも見送りのために来てくれていて、そのざわめきが本堂にまで伝わってくる。

 お別れの挨拶が終わり、順番に1列になって本堂から玄関へ向かう子供たちの一人一人と、短く言葉を交わしたり握手したりして別れをしむ。
 低学年の子よりも6年生の女の子の方が甘えん坊みたいで、抱きついてきたので、思わず小さく笑いながら抱きしめ返してあげた。

 それで、そのまま黒磯にお見送りをするために、私たちもついてきたんだよね。

 駅前を眺めていると、青木先生が挨拶にやって来て、
「春香先生。本当にお世話になりました。あなたがいてくれて本当に良かった」
と言う。私は右手を差し出して先生と握手をした。

 正面からじっと見つめて、いたずらっぽくわざと微笑みかける。
「先生。向こうで良い人を見つけて結婚なさってください」
と言ってあげると、照れくさそうに笑っていた。

 そのあと、安恵さんとも言葉を交わし、先生は村長さんの方へと歩いて行く。

 隣の安恵さんが、
「……とうとうこの日が来ましたね」
とどこか寂しげに言った。彼女にとっても、もうこの子供たちは家族か親戚のように感じているにちがいない。

 私はふふっと微笑んで、「今晩はうちできのこ鍋でも食べない? もうお酒も大丈夫だったよね?」
「ちょうど1週間前で20歳になりましたから」「じゃ、決まりね」

 こういう時は一緒に飲むに限る。きのこ鍋を囲んで、恵海さんたちも入れて騒がしく夜を過ごそうじゃないか。

 ――不意に子どもたちの一角いっかくから大きな笑い声があがった。一体なんだろう?
 微笑みながら、そちらに顔を向ける。

 その時、視界の端っこで軍帽を着た男の人の姿が通りすぎていった。


 ……え?


 ドキンと胸が鳴って、あわてて振り向いたけれど、確かに見たはずのその姿はどこにもなかった。
 必死で目で人混みを探すけれど、軍人などどこにも見当たらない。

 胸が喪失感そうしつかんで締めつけられる。右手を胸元に当てながら心の中で自嘲じちょうする。

 とうとう幻を見るようになっちゃったか……。

 そんな私を見て、安恵さんが心配そうに「春香先生?」と声を掛けてくれた。そのとき、青木先生の声が響きわたった。
「そろそろ時間だ。みんな中に入りますよ!」

 気を取り直して駅の方に向き直ると、ちょうど列車がホームに入ってくるところだった。



 その日の晩、清玄寺に村長さんたちをまじえ、みんなできのこ鍋パーティーをした。

「はい。どうぞ」
と恵海さんにおしゃくをすると、
「ああ、こりゃ。御仏使さまについでもらうなんて」
と言われる。

 すでにお酒が回っているようで、目もとが赤い。まあ、村長さんたちも似たようなものだけどね。

 酔っ払った恵海さんが、
「それにしても、この寺も静かになっちゃって……。なんだか寂しいですなぁ」
 優しげに微笑むその目は、私の好きな夏樹の目にそっくりだ。
「……元に戻っただけなんですけど、子どもたちがいるのが当たり前になっちゃいましたからね」

 穏やかな表情で恵海さんとのやり取りを見ていた村長さんが、
「それで、これからどうなさるおもりでしょう」
と尋ねてくる。
 近くにいた美子さんや川津さんも知りたそうに私を見ている。――大丈夫。そのことはもう考えているから。

「今のところですが、恵海さんと美子さんには申しわけないですが、清玄寺に孤児院を作りたいと思っています。……まあ、人数はこれ以上増えないと思いますけど」
「ふむ。この恵海、承知いたしましたぞ」
 見ると美子さんも微笑んでうなずいている。この人たちって、私のやることに全肯定だよね……。

「孤児院の経費は、私の所の畑を利用します。名義は私のままですが、実質はお寺のものとしてください」
「それはかまいませんが……」
「それともう1つ、ご相談があります。大きな話になるんですけど」

 この相談は、これからのお寺と村の関係を変えることになるかもしれない。でも必要なことだと思っている。

「小作に貸している畑をそのまま開放しましょう。あわせて皆さんの借金しゃっきん減額げんがくを行い、檀家組織の見直しをしておいた方がいいと思います」

 やはり想定したとおり、誰もが驚いて私の相談に聞き入っている。
 体制を変えるってことは大きな変化になる。村で受け入れられるには、本来、時間がかかることだ。
 でもね。これから農地解放が行われたはず。

 どっちにしろ小作に畑を開放することになるし、通貨も円が基本単位になっていくわけだから、借金も圧縮される。ならばその前に下準備をしておいて、お寺の運営を支える手段を講じておいた方がいい。
 もちろん、人々の負担が重くなりすぎないように考えながらだけど。

「檀家から地区ごとに講を組織し、畑を開放し借金を減額する代わりに、各家庭に一定額の割り当て金を設け、それを講から毎月お寺に納め、清玄寺の運営資金にててはどうかと」
 恵海さんがあごを撫でながら、ふむぅと考え込んだ。村長さんも手元のお猪口ちょこを見つめながら、吟味ぎんみしているようだ。

「今すぐにどうこうと言うわけではないですが、検討しておいてください」

 清玄寺も、この村も、戦後体制に移り変わっていくべき時がすぐにでもやってくる。
 否応なく、中央から地方へと。既存の価値も社会も大きな変化が訪れるのだ。

「――あははは。あったね。そんなこと!」
 安恵さんの明るい笑い声が聞こえてきた。彼女は子どもたちと同じ鍋をつついている。
 20歳になって初めてのお酒のようで、酔っ払ってご機嫌なようだ。――明日、大丈夫だと良いけど。
 初めてのお酒で、初めての二日酔ふつかよい頭痛に苦しむ未来が、容易に想像できるよ。

 くすっと口の中で笑って、私はお猪口を口につけた。すっかりぬるくなったお酒だけれど、ふくよかでどこか優しい味わいが舌に広がっていく。
 お猪口の底に残ったわずかなお酒が、部屋の明かりを反射して妙になまめかしく見えた。

「世界は移りゆくもの、か……」
 無意識のうちに、そうつぶやいた。


 それから恵海さんと村長さんたち総代そうだいさんとで、話し合いが進んでいったようだ。
 そして1月後、暮れも押し迫ったある日の夜、檀家だんか総会がお寺の本堂で開催された。

 雪の降る静かな夜で、筆頭総代の村長さんから、清玄寺に孤児院を作ることが伝えられ、あわせて、小作農の件、檀家月並金の創設がみんなに告げられた。

 その場に私も座っていたけれど、借金を大幅に減額するとあって、おおむね受け入れられていったようだ。
 最後には座談会のようになって、村の人たちからは東京から買い出しに来る人について相談があったりした。まあ、そちらは私が口を出すことじゃないだろう。

 こうして開設された孤児院は慈育園と名付け、当面は学寮と使用していた宿舎、いわゆるお寺の客殿を利用している。
 今のところは、宮田香代子ちゃんに、石田和則くんと優子ちゃんの兄妹、そして泰介くんと景子ちゃんの兄妹、菜々子ちゃんの6人。
 将来、もし村で孤児が出た場合は、ここで引き取ることになっている。今は清玄寺で運営だけれど、将来は公立の孤児院となっていくだろう。

 この前、豆炭まめたんを入手することができたので、いそいそとこたつを出すことにした。
 かつて学寮の宿直室だった部屋で、そのこたつに足を入れ、子どもたちの綿入れをっている。
 そばの火鉢にかけた鉄瓶の口からは、うっすらと蒸気が立ち上っていた。外は今日も雪。窓辺の障子しょうじからは冷気が忍び込んでくるようだ。

「ん~。ここはヒヨコにしようか?」
 手元の布地を景子ちゃんに見せておうかがいを立てると、うんと小さな頭でコクンとうなずいた。

 こたつの天板では、香代子ちゃんと和則くんがノートを開いて恵海さんから、漢字の書き方を教わっている。その脇では優子ちゃんと菜々子ちゃんが、美子さんに教わりつつお手玉で遊んでいた。そこに景子ちゃんも加わっていく。

 中等学校はこの辺りの村をまとめる百村もむらにある。和則くんと香代子ちゃんは今そこに通う中学生になっていた。

 手元の布に針を刺す。小さい子の笑い声が響いて、とうとう中学生の2人から静かにするようにと怒られている。
 ふふふ。……なんて平和なんだろう。

 まだまだ学校教育も変化していくし、どうなるかわからない世の中ではあるけれど。今この部屋の時間は穏やかに流れている。

 ちらりと恵海さんと美子さんの様子を見るも、2人は2人で楽しそうにしていた。
 自然と口角があがってきた。きっと今、私は微笑みを浮かべていることだろう。

 これで後は――。あなたが帰ってきてくれたら万々歳ばんばんざいなんだけどね。ミサンガを見てそう思う。
 昭和20年の暮れの夜は、こうして過ぎていった。

04転の章 ひぐらしの声をまくらに眠る子ら 見守るわれも夫を夢みし

 とうとう運命の8月15日が来た。

 昨日まわってきた隣組回覧板かいらんばんに、「至急」の文字があり、なんでも今日の正午に天皇陛下自ら重大な発表をされると予告があった。疎開学童組も村人と一緒に分校の校庭に集合することになっている。

 青木先生を先頭に、子供たちが2列に並んで分校に向かっている。その一番後ろに私たち寮母と恵海さんたち、そして小さな子供たちがついていた。

 夏まっさかりで、きれいに晴れた空が青い。遠くには入道雲が浮かんでいた。
 村道の土はすっかり乾いていて白っぽくなっている。あちこちで蝉が鳴いていた。

 こんな風に全員が一斉に集められ、重大発表があるなんて、初めてのことじゃないだろうか。
 恵海さんが、
「一体なんでしょうな」
とつぶやくと、安恵さんがひたいの汗をぬぐいながら、
「ソ連が中立条約を破って宣戦布告してきたし、西の方で新型爆弾が落とされたみたいですから、きっと最後まで頑張れってお言葉をいただけるんじゃないですかね」
と言う。

 どれだけ空襲を受けようと日本は戦争を止めようとしなかった。
 6月下旬には義勇兵役法などという法律が制定され、とうとう兵役の年齢が15歳以上となり、さらに17歳以上の女子までも兵役につくことになってしまった。

 8月6日には広島、そして9日には長崎に原子爆弾が落とされた。報道では新型爆弾とあり、村のみんなは何やらすごい爆弾くらいにしか思っていなかったようだけれど……。原子爆弾の惨状が詳細に伝わってくるのは、これからなのだろう。
 この2日は原爆投下の日と知ってはいても、私は何もできず、気まずい思いでただ流されるように過ごしていた。

 原爆のことを考えていたせいか、恵海さんが、
「なにやら原子爆弾というらしいですな」
と話し出した。私もそこに口を挟む。

「――ええ。大変に恐ろしい爆弾ですよ。たった1発で15万人以上を殺す爆弾です。
 閃光せんこうとともに熱と衝撃しょうげきが広がって、爆心ばくしんに近い人は骨すら残らずに蒸発するように殺され、何キロも爆風が街を駆け抜けて建物も人も吹き飛ばす爆弾です」

 タイムリープ前。もう遥かな過去の記憶だけれど、広島の原爆資料館に行ったことがある。8時15分を指して止まった時計。多くの悲惨な写真に戦慄せんりつした覚えがある。

「御仏使さま?」といぶかしげに私を呼ぶ恵海さんに気づかず、足元の道を見つめたままで話し続ける。

「信じられますか? シミのような影しか残らないんです、光を浴びた人は。生きていた痕跡こんせきなんか何も残らないんですよ。
 夜には黒い雨が降り、放射能によって何年も、いや何十年も人々を苦しめる最悪の爆弾です。あんなもの。開発しちゃいけなかったんだ」

 私の手を恵海さんが握った。はっと気がついて顔を上げると、心配そうに見つめる恵海さんと美子さんがいた。
「御仏使さま。大丈夫ですか」
「……ええ」

 しまった。しゃべりすぎた。心配させてしまったみたいだ。……いや、不審がらせもしただろうか。

 何と言っていいかわからずに口をつぐむけれど、その時、菜々子ちゃんが、
「ね。行こう」
と私の手を引っ張った。そのつぶらな瞳を見て、そっと微笑む。「――そうだね」

 いずれにしろ今は分校に急ごう。


 校庭には、すでに多くの村人たちが集まっていた。地元の子供たちの姿もある。
 うちの子供たちの中に知り合いを見つけたのだろう。気安く手を挙げて互いに挨拶をしていた。

 時間は11時57分。――終戦の詔勅しょうちょくまであと3分。

 学童たちは先生の指示で整列をはじめた。
 村の人はなんとなくバラバラに立って、校庭のスピーカーを見上げている。

 やがてスピーカーから君が代が流れはじめた。幸いに松守村は電波の状態が良かったのか、思いのほか明瞭に聞こえる。

 姿勢を正す人々。そして歌が終わり、男の人の声が流れてきた。
 ……はじめて聞く天皇陛下のお声。私だけかもしれないけれど、どこか固く、本当のお心をどこか奥深くに隠しておられるようにも感じる。

ちん 深く世界の大勢たいせいと帝国の現状とにかんがみ、非常の措置そちもって時局を収拾せと欲し、ここに忠良なるなんじ臣民に告ぐ――」

 頭を垂れる人々。まるで林に並ぶ木になったように立ち尽くしていて、その間を陛下のお声が風のように通り過ぎていく。

「朕は帝国政府をして米英 四国に対し、の共同宣言を受諾じゅだくする旨、通告せしめたり」

 知らず、熱くこみ上げてくるものがある。これでようやく戦争は終わったんだ。
 夏樹が出征してから3年の日々、そして真珠湾からの4年の日々が脳裏をよぎる。やっと……。

「――さきに米英2国に宣戦せる所以ゆえんも、また 実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾しょきするにいでて、他国の主権を排し領土を侵すが如きはもとより朕が志にあらず。

 然るに交戦すで四歳しさいけみし、朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司ひゃくりょうゆうし励精れいせい、朕が一億衆庶しゅうしょの奉公、各々おのおの最善を尽くせるにかかわらず、戦局必ずしも好転せず。

 世界の大勢たいせい、亦われに利あらず、加之しかのみならず 敵は新たに残虐ざんぎゃくなる爆弾を使用して、しきりに無辜むこを殺傷し惨害さんがいの及ぶ所、まことはかるべからざるに至る」

 誰かがすすり泣きをしている。ぐっと拳を握っている人もいるようだ。
 夫を、子供を軍隊に送り出し、増産だ、貯蓄ちょちくだ、報国だと圧迫されながらも勝利を信じてきた暮らし。
 それが遂に果たせなかった。それも力に負けたのだ。あらかじめ歴史を知っていた私でさえ、やるせない思いがあふれてくる。


「――帝国臣民にして」
 唐突に、ほんのわずかだけど、お声がゆっくりとなられた。
 マイクに向かわれる陛下が、涙をこらえて、声に震えがでないように耐えておられる姿が目に浮かぶ。

「戦陣に死し、職域にじゅんじ、非命ひめいたおれたる者、及びの遺族におもいを致せば――」

 そうか。陛下のお辛い気持ちがここに……。
 多くの命が失われたこの戦争。万の後悔を一身に感じられているだろう。それが、淡々とつづく詔勅の、ほんのわずかな変化に出ているのだ。
 悔恨だけではない。その失われた命をも御一身に背負われようと、そう思われているのだろうか。

 この陛下のお言葉を聞いて、何人かの村人が地面に崩れ落ちるようにうずくまった。おそらく子供や夫が戦死した家だろう。
 香織ちゃんも地面にうずくまり、地面にぬかずいて両のこぶしを握りしめていた。その背中が震えている。

おもふに今後、帝国の受くべき苦難はもとより尋常じんじょうにあらず。
 なんじ 臣民の衷情ちゅうじょうも、朕れを知る。しかれども、朕は時運じうんおもむく所、がたきを堪、忍び難きを忍び、もって万世の為に太平を開かと欲す。

 朕はここに国体を護持し得て、忠良なるなんじ臣民の赤誠に信倚しんいし、常になんじ臣民と共にり」

 耐えがたきの所で、遂に感情を抑えられなかったのだろう。一拍、ほんのわずかにお言葉が止まる。

 これから日本は敗戦国として苦難の道を歩むことになるだろう。進駐軍が来て、沖縄はアメリカに支配され、まさしく多くの耐えがたい事件が何年も、そして幾度も発生する。

 他国からは批難され、搾取さくしゅされ、援助を顧みられることなく、要求を受け続けるかもしれない。フェアな条件は与えられず、文句も言えずに難局に直面することもあるだろう。

 何十年も、世代をも超えて、その苦難の道はつづくかもしれない。けれど陛下は、その苦難の道を国民とともに歩いて行こうと決意されているのだ。

「――よろしく挙国一家、子孫あいかたく神州の不滅を信じ、にん重くして道遠きを念ひおもい、総力を将来の建設に傾け、道義をあつくし志操しそうかたくし、誓って国体の精華を発揚はつようし、世界の進運におくれざらことをすべし。
 なんじ臣民、く朕が意をたいせよ」

 どんなに不遇の目にあおうとも、日本の不滅を信じ、復興の道の遠きを思ってなお、国家建設に向かって行くように、か。

 初めて聞いた終戦の詔勅。だけど、それは単に戦争が終わったことを宣言するだけではなかった。
 敗戦国となった日本が歩む苦難の未来を思い、それでもなお復活を信じて国家建設に向かって、共々ともどもに歩もうという陛下の決意でもあったんだ。

 自分たちが戦争を始めたくせに何を言っているんだと思う人もいるだろう。
 戦争にうんざりしていて、ああ、終わった終わったという人もいるだろう。
 愛する家族を亡くして、ふざけるな、自分はまだ生きているぞ、戦えるぞという人もいるだろう。
 そして、ただただ哀しくて、頭がからっぽになっている人もいるだろう。

 色んな思いはあるだろうけど、ただ1つはっきりしていることがある。

 ――長らく続いた戦争は、今ようやく終わったのだ。

 万感の思いを込めて見上げた空は、どこまでも青かった。


 詔勅を聞いた誰もが、何をする気も起きないようで、なんとなくその場が解散となる。

 香織ちゃんの傍に行き、うずくまっている彼女の背中にそっと手を添えた。ゆっくり顔を上げた彼女の顔は涙と砂にまみれていた。

「奥様……」
「もう、終わったのよ」
「はい」
「あなたには和くんがいる。ほら、心配しているわ」

 石川の奥さんと手をつないでいる和くんが、すぐそばに立っていた。振り向いた香織ちゃんが、「ああ……」と言って和くんを抱きしめる。
 小さな手で香織ちゃんに抱きついていた。そのぬくもりを感じているのだろうか。涙に濡れた目を閉じて、そっと微笑んでいる。

 その様子を見てひと安心し、視線を感じて顔を上げると、石川の奥さんが頭を下げていた。……これ以上はお邪魔になるだろう。私はそっと立ち上がる。

 周りは、ほとんど無言のままに家路につく人たち。その向こうに立ち尽くす子供たちと、呆然ぼうぜんとしている青木先生の姿が見えた。

 ともかくお寺に戻りましょうと言うも、先生からは返事がないので勝手に子供たちにそのように指示をした。

 子供たちは言葉が難しすぎてわからなかったようだけれど、素直にお寺に向かって歩いている。先生もその後ろをのろのろと付いてきていた。

 校庭を去り際に、もう一度香織ちゃんを見ると、石川の奥さんに連れられて帰って行くところだった。

 いつの間にか隣に来ていた安恵さんが、
「これからどうなるんですかね」
と心配げにつぶやく。
「みんな捕まって、アメリカやイギリスで売られちゃうのか……」

 私は首を横に振ってそれを否定する。
「それはないよ」
「米英の奴隷になっちゃったり、植民地になるんでしょうか」
「それもないよ」

 そうは返事したものの、昔ならあっただろうし、沖縄は統治されてしまうから、植民地と言えばそうなのかもしれない。

「まあ、もしそうなっても、こんな田舎の村までは捕まえに来ないですよね」
「う~ん。村には来るかもしれないけど、何もしないでいて捕まることはないよ。……ただね」
「ただ?」
「若い子は乱暴される可能性はあるから、もしアメリカ軍が来た時には安恵さんは隠れていた方がいいかも」
「……そうですか」

 温泉も何もない村だから、視察にやって来てもすぐに別の村に行っちゃうとは思うけど。
 ……そう思うと、以前、夏樹と話していた温泉を掘る話は実行しなくて良かったと思ったり。
 GHQ時代が終われば、掘っても大丈夫だとは思うけど。……どっちにしろ、夏樹が帰ってこないと無理か。

 そう。夏樹だ。
 戦争が終わったんだから、いよいよ帰ってこられる時期になるはず。いつになるんだろう?
 子供たちもいつまで清玄寺にいられるのかな?

 ……うん。こうしてみると、まだまだ気が抜けないというか、確認すべきことが多くて忙しくなりそうだ。

「あれ? どうしたんです?」
と安恵さんに言われて、初めて自分が微笑んでいることに気がついた。こんな時に不謹慎ふきんしんだったか。
 でもさ――。

「うん。これで夏樹が帰ってこられるんだなって思ってさ」
「……あ~。うん。そうですか」

 歯切れが悪いなぁ。もう。どうせ戦死したと思ってるんでしょ。

 そうは思いつつ、結局、私も他の人のことより自分のことが一番なんだよなとも思う。だって戦争に負けたと聞いても、これで夏樹が帰ってくると思うと嬉しくなるもの。

 南の方角にある山の稜線りょうせんを見つめた。
 晴れ渡った空に白い雲。強い陽射しに火照る体。俺は生きてるぞと言わんばかりに鳴いている蝉。
 ……人の世界がいかに乱れようと、戦争でボロボロになっても、自然は変わらずにそこにある。

 日本も同じじゃないだろうか。

 敗戦国となっても日本が無くなるわけじゃない。
 この大地に広がる自然のように、国土に刻まれた戦争の爪痕つめあともいつか必ず元のようになる。

 ろくに歴史の知識がないせいもあるだろうけど、もう戦闘はない。戦闘機も爆撃機も爆弾を落とすことはない。これから平和な時代がやってくる。
 今はまだ負けたショックが大きいだろうけど、それでも時は流れていくもの。必死で生きつづけていうるうちに、いつしか悲しみも薄れていくことだろう。

「道の遠きをおもい、か」
 ふとつぶやきが漏れた。

 まあ、どんなに社会が移りかわろうと、私のすることは変わらない。ただ待ち続けるだけ。――愛する夏樹あなたの帰りを。

04転の章 ひぐらしの声をまくらに眠る子ら 見守るわれも夫を夢みし

 ウ――、ウ――、ウ――。

 暗夜にサイレンが鳴り響いている。

 どうしてこの音は、こんなにも心を不安にさせるんだろう。

 防空壕の中では、防空頭巾ずきんをかぶった子供たちが不安げに身を寄せ合っている。恵海さんと美子さんも暗がりのなかで心配そうにたたずんでいた。

 私の腕の中では菜々子ちゃんが震えている。恐怖に見開かれている瞳。
 この子は、あの大空襲の夜を思い出しているのかもしれない。

 青木先生が、
「爆弾を落としてきたら、先生が合図をするから目を閉じて口を開けるんだぞ!」
と大きな声で指示をしている。
 近距離で爆発が起きると、爆風と衝撃で目が飛び出てることがあるらしく、その対策だそうだ。

 石田和則くんと香代子ちゃんのことも心配になって見回すと、和則くんは妹の優子ちゃんを強く抱きしめ、香代子ちゃんは私のそばで震えていた。

 腕を伸ばして香代子ちゃんの肩を抱き寄せる。言い聞かせるように「大丈夫。ここは大丈夫だから」とつぶやき続ける。

 やがてどこからかプロペラ音だろうか、ゴーともボーともつかない音が聞こえてきた。

 いよいよこの村にも爆撃機が近づいている……。あれほど遠くにあった戦争の足音が、とうとうここにもやってきたのだ。

 まだ梅雨が明けていないけれど、雲間から今にも欠けそうな月が姿をのぞかせていた。
 ほかのみんなの目には見えていないだろうけれど、私の目にはその雲の下に銀色の爆撃機が見えている。――あれがB29なのだろうか。

 この近くには軍の施設はなく、空襲に備えた高射砲こうしゃほうも無ければ、機体を下から照らすサーチライトのようなものも無い。
 灯火管制により村には明かりが1つも見えないはずだし、果たしてあの飛行機から村の様子は見えているだろうか。

 7月7日の夜空を飛ぶ1機の爆撃機。どこか絵になるようなその光景。――B29は、幸いに爆弾を投下することもなく飛び去っていき、夜が明けた。



 次の日、厨房ちゅうぼうで作業をしていると、お勝手口かってぐちから隣組の石川のまささん(この地方には鈴木とか、石川さんが多い)が回覧板かいらんばんを持ってやってきた。

「いつもすみません」
といいながら受け取ると、まささんが、
「なんでも宇都宮の方では伝単でんたんがまかれたみたいですよ。それで緊急疎開になるとか。……ないとは思うけど、しばらくは宇都宮に行かないほうがいいと思いますよ」
「ご心配なく。今のところそういう用事はないですから。……それにしても伝単ですか」

 伝単っていうのはビラのことだ。
 連合国軍の爆撃機が、そのビラで宣伝工作をしてくるほか、次の空襲目標の都市を予告していると聞く。実際に、予告通りに空襲になっているらしいから、間違いなく宇都宮は近いうちに空襲されるだろう。

「この前はここにもきましたし、これからどうなるのか……」
とため息をつくまささんに、口に人差し指を添えて、
「まささん。下手なことは言っちゃ駄目。ここがお寺だとはいっても、どこに誰の目があるかわからないんだし」
 そうですねと頭を下げるまささんに微笑みかけながら、他人事じゃないんだよねとも思う。

 昨年から本格的にはじまった空襲は、以前は軍事施設や工場を目標にした精密爆撃だった。けれど、それが3月の東京大空襲から無差別なものに変更になっているらしい。

 5月頃、ドイツが降伏してから少しの間は空襲も落ち着いていたけれど、すぐにまた再開されている。
 おそらく連合国としては戦争を終わらせるには無差別爆撃を行い、民衆や政府を動かすしかないと考えているんじゃないかと思う。

 ただね。悪いけれど、民衆には政府に訴えかける力は完全にがれてしまっていると思う。特高警察もいるし、憲兵隊も目を光らせているわけだし。生活が汲々きゅうきゅうになりすぎて、革命など望べくもないだろう。

 帰っていくまささんを見送り、午後に使う道具を取りに外の倉庫に向かう。
 今日はこれから麦や夏野菜の収穫に行く予定になっている。待ちに待った収穫の夏だ。これで料理を増やすことができる。

 空を見上げると、今日もまだ曇り空。まだ梅雨は明けていない。
 それでも雨は降らないだろう。いい収穫日になりそうだ。
 一人ほくそ笑んで、私は外倉庫の扉を開けた。


 麦わら帽子がチクチクする。帽子の藁の香りが夏の訪れを教えてくれるような気がした。

 収穫期を迎えた作物は麦のほかに、トウモロコシ、キュウリ、ナス、枝豆などなど。
 日々、大きくなっていくその実に、今か今かと待っていた子どもたちが、嬉しそうに畑に潜り込んでいった。

「見てみて。大きい!」
「すっげぇ」「これもいいのかな?」

 あちこちから聞こえる子どもたちの声に、一緒に作業に来た安恵さんも微笑んでいる。
 私ももちろん楽しい。あ、そうだ――、
「いい? ナスはトゲがあるから気をつけるのよーっ」
 大きな声で注意をうながすと、何人かが「はーい」と返事をした。アレ、思いのほか痛いからね。

 不意に服を引っ張られて下を向くと、菜々子ちゃんが私を見上げていた。
「私も採りたい!」
「そうだね。じゃ、一緒に行こうか」「うん」

 ここには泰介くんと景子ちゃんの兄妹も来ている。きっと今ごろはどこかで仲良く収穫作業をしているだろう。

「じゃあ、安恵さんは子どもたちの集めた野菜をまとめておいて下さい」
「了解です! ……どうぞごゆっくり」

 片手を挙げて挨拶をして、私はキュウリの区画に向かった。
「ここをこうして。……はい」
 菜々子ちゃんの手の届くところのキュウリを手に取り、つるの部分に剪定せんていばさみを当ててから、あとは菜々子ちゃんに切ってもらう。

「上手にできました」
 採ったばかりのキュウリを菜々子ちゃんに手渡すと、両手でささげるように持ち上げて、嬉しそうに笑っている。
「じゃあ、安恵お姉さんの所に持って行って」「――うん!」

 駆けていく菜々子ちゃんを見て、私も気合いを入れた。さあ、やるぞっ。
 次々にキュウリを採っては、持って来たかごに入れる。色も大きさもいい。身も詰まっているようで、冷やして食べると美味しそうだ。
 味噌はまだ余裕があったから、今日のご褒美でキュウリを冷やして子どもたちに出しても良いかもね。

 作業をしていると、キュウリの列と列の間から、ひょっこりと和則くんと優子ちゃんが姿を見せた。「あ、いたっ」

 優子ちゃんがトウモロコシを持ってやってきた。
「見てみて。先生、こんなに大きいよ」
「本当だね。――これね。ゆでても美味しいし、取り立てなら生でも食べられるんだよ。乾燥かんそうさせて粉にしてもいいし、甘みがあるから楽しみ!」
「うん。楽しみっ」

 ふふふ。みんな楽しそうで良かった。
 ここのところ暗い話題ばっかりで、子どもたちの雰囲気も暗くなってて心配だったけれど、今日の作業で少しは明るくなるだろうか。
 村の子たちも今日は収穫作業をしているはず。今度、共同で学芸会みたいな名目で収穫祭を企画してもいいかもしれないね。

 菜々子ちゃんが戻ってきた。小さいあんよでよいしょ、よいしょと歩いてくる。――が、その足がふと止まった。
 私の耳に、遠くから何かのエンジン音が聞こえる。菜々子ちゃんは東の空を見上げている。その方向に視線をやると、遠くの空に小さく飛行機の姿が見えた。

 ぞわりと身の毛がよだつ。
「――みんな! 急いで畑に隠れて、地面に伏せなさい!」

 大声を上げると、辺りの笑い声が一度に消えた。「急いで! 敵の飛行機よ! 伏せてー!」
 再び声を張り上げると、途端にあちこちでざわめきが聞こえる。

 くっ。なんでこんな時に。しかも空襲警報はどうしたっての。なぜ鳴らないっ。

 そう思ったとき、すでに射程に入ってきていたのだろう、機関銃を撃つ音が聞こえてきた。

 タタタタタタタタッ。タタタタタタタタッ。

 バババババッと銃弾が連続して地面に当たる音。それがだんだん近づいてくる。
 ――って、菜々子ちゃん!

 呆然として空を見上げている彼女に気がついて、急いで走る。

 銃撃の音が近づいてくる。必死で手を伸ばす。お願い、間に合って――!

 がばっと彼女を抱えて地面に飛び込んだその瞬間、私の頭のすぐそばを銃弾が通り過ぎていく。

「くっ。――この」
 そのまま震える菜々子ちゃんを必死に地面に押しつける。頭上を通り抜けた戦闘機は、グウウウーンと音を上げながら空高く上がっていき、ゆっくりと旋回せんかいしてきた。

 また撃ってくるというの?
 この子を。幼い子どもたちを、そんなにも殺したいの?

 そう思ったとき、心の底で何かがはじけた。ずっと溜まっていたどろどろとしたマグマが噴火ふんかするように、激情げきじょうが吹き上がる。

 すべてを亡くした子どもから、まだ奪おうというのか!
 そんなにも幼い命が欲しいのか!

 気がついたら私は立ち上がっていた。
 戦闘機が真っ直ぐに、こっちに向かって飛んでくる。銃撃じゅうげきが線を引くように近づいてくる。
 突き刺さる銃撃。吹き上がる土砂。はじけ飛ぶ葉っぱ。

 怒りで頭が真っ白に染まる。ふざけるな! ふざけるな! ふざけるな!
 戦闘機をきっとにらみつける。操縦士そうじゅうしと目が合った気がした。

「いい加減に……、しろおぉぉーっ」

 突き動かされるままに感情を爆発させ、私は力一杯さけんでいた。

 怒りがぶわっと広がっていくような感覚。
 私の頭上を戦闘機が通りすぎた。風がごうっと吹き抜ける。――銃撃はピタッと止まっていた。

 次の瞬間、空に閃光せんこうが走った。すぐにゴロゴロと鳴り出す。強い風が吹き出したのか、ゆっくりと雲がうごめきはじめ、再び雲の合間から稲光がほとばしった。
 これは……、天帝釈さまの援護だろうか。

 再び空高く上がっていった戦闘機は機首を南に変えると、そのまま飛び去っていく。

 はあ、はあ、はあ……。

 荒げる息を整えながら、飛び去っていった南の空を睨みつづける。子供たちを殺させてなるものか。

 その時、おそるおそるといった様子で、
「春香、先生?」
と声が掛けられた。
 振り向くと安恵さんがこっちを見ている。その向こうには畑の緑の中から子どもたちが、ピョコピョコと頭を出していた。

 あっ、いけない。――やりすぎただろうか。

「そうだ。みんなケガはない? それに――、菜々子ちゃんっ」
 あわてて足元の菜々子ちゃんを見下ろすと、菜々子ちゃんは地面に座って、ちょこんと私を見上げている。

「よかったぁ。無事だったんだ~」

 へなへなと腰が抜けて、その場に座り込んだ。
 菜々子ちゃんを抱きあげて、小さな身体にケガがないことを確認し、ほっと肩の力を抜く。そこへ子どもたちが集まってきた。

「みんな、ケガは――」と言いかけたとき、安恵さんが、
「春香先生! なんて無理をするんですか!」
と顔をいからせて怒鳴ってきた。「あ、ごめん」と素直に頭を下げると、深くため息をついて首を横に振ると、
「でもまあ、みんな無事みたいですよ。春香先生のおかげで」
と微笑んだ。

「すげぇ! 春香先生すげえ!」「戦闘機を追い払った!」
 男の子が興奮して叫ぶ。

偶々たまたまだよ。ほら、きっと機関銃が詰まったか何かしたのよ」
と言うと、気持ちを切り替えたのか、安恵さんが冗談っぽく、
「いやいや。あれは春香先生の気迫に負けたようにしか……」
 ……。これは嫌みかもしれない。
「あのね。本気でやめて」「え~」
 まだ興奮しているせいか、やり取りがちょっとお馬鹿っぽい。でもまあ、みんなが無事で良かった。

 地面に伏せたせいであちこちに土の跡の残る子どもたちを見て、守り切れたうれしさに笑顔になる。

 ――その数日後、香織ちゃんが清玄寺にやってきた。
「奥様! 聞きましたよ! なんでも敵の戦闘機を叱りつけて追い払った女傑じょけつだってすごい評判ですよ!」

 思わず私はがくっと脱力した。

04転の章 ひぐらしの声をまくらに眠る子ら 見守るわれも夫を夢みし

 だんだん暖かくなってきたせいだろうか。並んで寝ている子どもたちのほとんどが、掛け布団をはねている。
 不思議だよね、子どもって。これでいて寒くなってくると、無意識のうちに自分で布団を引き上げるんだよ。

 昨年度の6年生は2人を残して、もうここにはいない。その他の学年でも、3月の東京大空襲で親を亡くした子もいて、その子は親戚に引き取られていったりもした。
 けれど新しい3年生、そしてより小さな1、2年生も新たに増えていて、結果的に以前より子どもの人数は増えている。

 すー、すーと、あちこちから寝息が聞こえる広間の中に入り、お腹を出してしまっている男の子の寝巻きを直す。そのままそっと頭を撫でてあげる。
 小さな頭。短く刈り込んだ髪がブラシの毛のように手の平をくすぐる。……ふふっ。何の夢を見ているんだろうね。

 すでに疎開学童が来てから10ヶ月になろうとしている。新しい土地に引っ越ししたときはいつもそうだけれど、最初の1年っていうのはバタバタしているうちに過ぎ去ってしまうものだ。

 来たばかりの頃は、どの子も帰りたそうにしていたなぁ。寂しそうな顔をして……。
 面会も当初は月に何回もあったけれど、ここ最近はほとんどない。手紙のやり取りは続いているけれど、親も子も慣れてきたんだと思う。

 親と子、か……。

 ふと点呼集合の前のことを思い出した。
 寮母りょうぼ宿直室しゅくちょくしつで、香代子ちゃんたちと、新たに引き取った泰介くんと景子ちゃんの顔合わせをしたんだけれど、泰介くんはかたくなに心を閉ざしているようだった。

 それを見た香代子ちゃんが、ようやくあの大空襲の夜に何があったのかを話してくれたんだ。

「……私はね。もともと東京から疎開してきたんだ。だけど、3月に受験で東京に戻って――」

 懐かしい本郷の町に戻ると、所々に建物疎開のために取り崩された家屋があったらしい。
 それを見て、自分の育ってきた思い出の町が少しずつ無くなっていくような、そんな気持ちをいだいたという。

 久しぶりに自宅に帰り、その日の晩は、疎開生活であんなことをした、こんなことがあったと話し、ご両親はその話の1つ1つをニコニコしながら聞いてくれていたそうだ。

 そして、運命の日を迎える。
 9日の夜。空襲警報が鳴り響き、布団から飛び起きて、あわてて庭に出た時には既に焼夷弾しょういだんの細い筒が何本か落ちていたという。

「防空頭巾ずきんをかぶって防空ごうに逃げようとしたんですけど、目の前には焼夷弾が転がっているし、町全体がすでに火の海になりつつあって――」

 ああ。その光景が私にはわかる。
 かつて日本に戻ってきた江戸の街も、同じように火の海になったことがあるから。

 ごうっという熱気に包まれた町。恐ろしかったことだろう。
 ちょうど香代子ちゃんの話が途切れたその時に、「ただいま帰りました」と声がして、黒磯に行っていた和則くんがやってきた。部屋に入るや、香代子ちゃんが話しているのを見て、どこか悟ったように黙ってテーブルの傍に座り込む。

 それを待っていたかのように、ふたたび香代子ちゃんが話しはじめた。

「隣組の人たちも通りを逃げていたから、私たちも一緒に逃げようと飛び出して。だけど、どこに行ったらいいのかわからなくて……。人にまれているうちに、お父さんとお母さんとはぐれちゃって」

 そして香代子ちゃんは人の流れに押されるままに、他の人と一緒に防火用水の中に入ったそうだ。すぐそばの夫婦が薄い布団を一枚持っていたようで、その下に潜り込ませてもらったらしい。

「全身びしょれになった警防団のおじさんが、長い柄杓ひしゃくで水をすくっては、御経おきょうを唱えながら、みんなの頭の上に掛けてくれて――」

 すでに防火用水の外は地獄と化していたそうだ。
 髪に火のついた女性が狂ったように転げ回って、同じように全身火だるまになった人が崩れるように倒れ……。
 業火に照らされて空は赤く燃え上がり、建物から出た火柱がゴウッと音を立てて、あちこちから人々の泣き叫ぶ声が聞こえてきたという。

 そこにB29のグウーンというエンジン音と、ヒューヒューと焼夷弾が風を切って落ちてくる音、地上から放たれる高射砲こうしゃほうの音が混ざり、そして、ガラガラと金物をひっくり返したような凄まじい音が響いた。

「怖くなって耳を押さえて、ひたすらじっとしていたんだ。ひたすらじっと。――長い長い時間が過ぎて、燃えるものがみんな無くなって、ようやく火が消えたみたいでさ」

 着ている服が水を含んで重くなっていたため、布団を持っていた老夫婦に助けられて防火用水から出たという。
 目の前の町は焦土となり、人だかなんだかわからない炭となった遺体が、道路を埋め尽くしていたという。

「ちょうど朝になって明るくなっていたから、すぐにお父さんとお母さんを探して歩き回ったんだけど……」
 少しずつ香代子ちゃんの声が涙ぐんでくる。

「どうやら逃げた先が行き止まりになっていたらしくって。焼け焦げた遺体の山の下敷したじきになっていて……」

 それっきり香代子ちゃんは口を閉ざした。
 かけてあげる言葉が見つからない。せめてもと思って彼女の傍に行き、震えているその肩を抱きしめる。

 火の海から逃げて逃げて、ようやく助かったと思ったら、お父さんとお母さんは死んでいた。それがわかったときのなげきは、どれ程のものだったことだろう。

 愛する人を失った。それも数時間前まで一緒にいた家族を。恐ろしい大火をくぐり抜けたら、自分だけが生き残っていた。まわりに生きている人はいても、もうこの世界にひとりぼっちなんだ。

「泰介くん。その時、私は1人になっちゃったの。
 写真も燃えちゃって、お父さんとお母さんが生きていたっていう事実は、もう記憶の中にしかない。……でもね。もう会えないけれど、その思い出はずっと私の中にある。だから私は生き続けたいと思う。
 大人になって、結婚して、子供を産んで。そして、お父さんとお母さんの思い出を伝えるんだ。……写真もないけど、ちゃんとこの世界でお父さんとお母さんが、私の家族がこうやって生きていたんだよって」


 そう話したときの香代子ちゃんの顔を思い出していると、寝ている子供の1人が突然笑い出した。いったい何の夢を見ているんだか……。
 深く息をはいて、肩の力を抜き、幾人かの寝巻きを直してから廊下に戻る。
 はねた布団は、いま掛け直してもまた蹴飛けとばしてしまうだろうから、そのままにしてある。今晩は布団がなくてもあたたかい。少なくとも風邪を引くことはないだろう。

 子どもたちを起こさないよう静かに廊下を歩き、階段を降りる。
 踊り場の障子が少し開いていたので閉めようと手をのばしたけれど、ふと外の様子が気になって少しだけ障子を開けてみた。

 どうやら空は曇っているようで、星の瞬きは見えない。窓の向こうには真っ暗な闇が広がっているようだった。
 ガラスに写り込んだ自分が、じいっと私を見つめている。

 ……隣に夏樹がいなくなってから、もう3年。
 まだビルマで戦っているはずだけれど、今も銃をもって土まみれになっているのだろうか。それとも戦死の公報が来たということは、軍隊からはぐれてしまって山野をさまよっているのだろうか。

 ううん。でも大丈夫。夏樹のことだもの。

 それに私の人形がついている。
 無事に帰ってきてほしい、そして、夏樹の支えになりますようにと祈りを込めたあの人形が。

 ドイツが降伏したとラジオが言っていた。これでとうとう残りは日本だけとなったわけだ。
 ただそれでも村の人たちも、ここにいる子どもたちも、日本が負けるとは思っていないようだ。

 神国日本。
 神である私が言うのもナンセンスだけれど、科学の時代になっているのにかたくなに幻想じみた信仰に固執してしまっている。
 これじゃ前近代の封建社会となんにもかわらないよ。

 男の子たちの中には、将来は軍人になって、お国のために死ぬんだと誇らしげにいう子もいる。
 軍国教育の成果なんだろうけど、それを聞くたびに複雑な気持ちになってしまう。

 大っぴらには何も言ってあげられず、ただたやすく命を投げ出してはだめ。死ぬその最後の瞬間まで生き抜くつもりでいなければ駄目だとだけ言い聞かせた。

 あの子たちの命は多くの人たちの犠牲の上にあるんだし、国のために喜んで死にに行くようにはなってほしくない。おおっぴらに言えないけれど。



「――俺の所は学校に逃げ込んだんだ」

 ふと耳に和則くんの声がよみがえる。
 香代子ちゃんに続いて、和則くんもようやく重い口を開いて、どうやってあの夜を生き延びたのかを話してくれた。

「もう学校の敷地の前は火がめるように広がっていて、赤々と燃える火の中で黒い影のような人がうごめいていた。町の上には火が旋風せんぷうになって燃え上がっていたよ」

 すぐに誰かが学校も危険だと言い出して、和則くんたちも外に逃げることにしたという。だけど、悲劇はこの時に起きた。
 玄関を出るっていう時に、突然、校舎が崩れたのだ。

 背中をお父さんに突き飛ばされ、転がり出た和則くんが振り向くと、崩れた木材と燃えさかる火の向こうにご両親がいたそうだ。

 そのまま駆け寄ろうとしたらしいけど、
「逃げろー!」
というお父さんの叫び声に突き動かされて、そのまま周りの人と一緒に逃げた。
 幸いに、どうにか川に架かった橋の下に逃げ込むことができたらしく。冷たい水の中で一晩すごしたという。

 頭上から人々の叫び声や燃えさかる炎の音が降りかかるように響いてきて、火の色が映り込んだ川面には、時折、道路から人が飛び込んでいたり。それもそのまま亡くなった人もいて、ぷかぷかと遺体が浮かんでいたという。

 あの日の出来事を話し終えた和則くんは、机の天板の一箇所をにらむように見つめ続けている。そして、独り言のように、
「俺は絶対に生き続けてやる。父さんが助けてくれたこの命、優子と一緒に、何があっても生き続けてやる」
とつぶやいた。

 そういう和則くんを泰介くんはじっと見つめている。

「お前たちがどんなところで、どんな風に暮らしてきたのかはしらない。……だけどな。ここに来た以上、お寺に迷惑だけは掛けるんじゃないぞ。特に春香先生に迷惑を掛けたらぶっ飛ばすからな」

 黙ってうなずいた泰介くんが、ようやく口を開いた。
 2人の身の上話を聞いて、自分も話してくれる気になったのだろう。

 泰介くんたち家族は静岡県の浜松に住んでいたらしい。
 父親はもともと名古屋の出身で、昔は料理屋をしていたそうで、赤味噌のとんかつのお店として有名だった。ただ背が低くて徴兵ちょうへい検査の時は丙種へいしゅ合格。ずっと軍隊に行くことなく暮らしていたそうだ。
 戦争が始まってお米も配給となったころにお店を畳んで、地元警防団けいぼうだん員となったという。

 背が低く、母親の方が背が高くって、ノミの夫婦と呼ばれていたらしいけど、子どもたちをよく撫でてくれる優しいご両親だった。そして、とうとう赤紙が来る。

 警防団の人たちからはおめでとうと言われ、わけがわかっていない景子ちゃんは嬉しそうにしていたという。
 入営までのわずかな日、それまで以上に頭を撫でてもらったし、出発の前日には一緒にお風呂に入って背中を流してあげたそうだ。

 ――いいか。父ちゃんはな、お前たちが将来、ぎょうさんご飯を食べられるようになるように戦ってくる。いないからといって、たわけ愚か者になるんじゃないぞ。
 うん。
 じゃあ、母さんを頼むからな。

 父と子の間の約束。
 そして、父親は歩兵第118連隊に所嘱。まもなくして出征となった。しばらくして戦死したとの連絡が……。
 なんでもサイパンに向かうために輸送船に乗ったところ、その輸送船が撃沈したのだという。

 その知らせを受けたとき、母は1人泣き崩れた。
 白木の箱が帰ってきて「お父さんだよ」と言われて、中に入っている木札を見た時、もうお父さんが帰ってこないんだと悟ったという。

 母子家庭となり、生きていくために母親とともに、福島県は白河にいる叔父おじの家に厄介になったそうだ。祖父や祖母に当たる人はすでに亡くなっていた。
 初めての東北、福島県。母は父親の死亡賜金しきんを叔父にすべて渡し、離れの物置を住居にして、畑を手伝いながら2人を育ててくれたという。

 けれど気を張りながら無理をしつづけていたのか、はたまた突然の環境の変化に身体がついていかなかったのか、今年の2月に激しい下痢げりが始まり、まもなく倒れてしまった。
 医者にせるお金もなく、日に日に衰弱していったらしく、最後は泰介くんたちの見守る中で息を引き取ったという。

 それからは食事も叔父たちと一緒に取るようになったそうだけれど、叔父の家族には具が入った水団すいとんなのに、兄弟にはほとんど水団すら入っていないスープの食事が続いた。
 景子ちゃんが寂しがるからと一緒に遊んでいると、叔母からはこっちは面倒見てるんだから、もっと働けと怒鳴どなられた。

 ある日の夜、たまたま物置から出たところで、母屋から話し声がしたという。
 叔父と叔母が話し合っていて、あの2人がいては自分たちが生活していけないという。

 その会話を聞いたその日のうちに、泰介くんは眠いとぐずる景子ちゃんを連れて、その家を出たらしい。

 神社の社などを点々としながら移動し、畑から作物を盗み、大きな街では物乞いをしてわずかな食べ物をもらって、そして、この松守村に流れ着いたのだという。

 ようやく話してくれたことに内心でうれしく思いながらも、どこかやり場のない怒りを覚えてしまう。
 階段で、夜のガラス窓に写った自分もまた、こっちにいる私をにらみつけている。
 もちろん子どもたちにはこんな顔を見せられない。ただただ、こうした感情を心の底に隠し、いつかおさまるのを待つだけ。

 そう。あの子たちはもう充分に大切なものを失っている。
 父親を、母親を、家族も家もすべて……。あと2ヶ月で戦争は終わる。けれど、彼らの苦しみは戦争が終わったからといって、無くなるわけじゃない。

 私では、失ったものの穴を埋めてあげることは充分にできないだろう。それができるのは亡くなった人だけなんだから。

 でもね。それでも傍にはいてあげられる。寄り添っていくことはできる。見守っていくことはできる。

 それに彼らは1人じゃない。
 和則くん、香代子ちゃん、泰介くん、優子ちゃん、菜々子ちゃんに景子ちゃんと。……もう6人も新しい兄妹がいる。
 1人では無理でも、みんなでなら生きていくことができるだろう。
 願わくば、彼らが無事に生きていけますように。そう祈らずにはいられなかった。


 1階の女の子たちの部屋を見回り、そして、宿直室に戻る。
 幸いに私が離れても景子ちゃんが目を覚ますことはなかったようだ。すやすやと穏やかに眠っているその寝顔を見ていると、愛おしさがあふれてくる。

 そのまま手首にしているミサンガを見下ろした。日々の水仕事で色は抜け落ち、汚れてよれよれになってきている。

 まだまだ頑張れってことかな。

 別に夏樹の声が聞こえたわけじゃないけれど、なんとなくそんなことを思う。

 南の方向はあっちだ。
 この方角をずっと行った先。そのどこかに夏樹がいる。

 話したいことが沢山ある。子どもたちとの楽しい話や苦労もあるけれど、空襲後の東京も、この怒りも、イライラも、寂しさも、やるせなさも全部全部、夏樹が帰ってきたら聞いて欲しい。

 そして、抱きしめてもらうんだ。耳元で何回も愛してる、大好きだとささやいてもらおう。キスはこっちから何回もしちゃうだろうけど。顔を胸元にこすりつけたい。
 ……それくらいはいいよね。

 その時のことを想像すると、気持ちが楽になっていく。

 景子ちゃんの横に潜り込んだ。そのまま横を向いて、可愛い寝顔をじっと見つめているうちに、私もいつしか眠りに落ちていった。

04転の章 ひぐらしの声をまくらに眠る子ら 見守るわれも夫を夢みし

 子供たちのお昼が終わり、今、私たちは厨房でおひつや食器を手分けして洗っているところだ。
隣では、新たに見習い寮母となった香代子ちゃんが、食器をガシャガシャと洗ってくれていて、その洗い終わった食器は、安恵さんが軽く拭いてから棚へとしまい込んでいく。
 下の方の棚に食器をしまった安恵さんが、腰を伸ばしている。あれあれ……。まだ20歳前だと言うのにね。

「香代子ちゃんが手伝ってくれて助かるなぁ」
 そういう安恵さんに、香代子ちゃんが、
「なんにもできないですけど」
と言う。まあ、まだ12歳。平成の日本でいえば中学校1年生だからねぇ。それでも随分と大人びてきたとは思うよ。


 先月の夜這いから再び蔵で暮らすことにしたわけだけれど、最初の頃は、恵海さんと美子さんから何度も理由を尋ねられた。さすがに夜這いがあったなんて話すわけにもいかない。おそらく激怒するだけじゃすまないと思うから。
 なので、当たり障りのないような理由を言ってある。

「あそこは私が夏樹と暮らしていた場所だから、あそこの方が落ち着くんですよ。なんていうか、私がいるべき場所はここだって感じるのが、この蔵だから……」

 どうやら2人ともこの理由に納得したようで、それからは尋ねられることはなくなった。

 肝心の先生の方は、あの夜這いの翌日こそ挙動不審気味で様子がおかしかったけれど、私の方から、意識をして以前と同じように接しているうちに普段通りに戻ったようだ。
 安恵さんは意外と鋭くって、先生に何かがあったと感じていたようだけれど、何があったのかまではわからなかったようだ。

 日々、色んな出来事は起きるけれど、それでも時は流れていく。暦はもう6月になっていた。

 東京で別れた大森鈴子ちゃんから手紙が届いた。
 生き残りの子がいたのかなと思いつつ、すぐに目を通したけれど、書かれていたのは東京を離れることになったということだった。
 やはり、もう……。生き残りはいないのかな。他の子もみな死んでしまったのだろうか。
 残念だとは思う。でもどうやら、あれから3ヶ月が経ち、私も少しは冷静に受け止められているようだった。

 鈴子ちゃんの手紙によると、東京は4月にも5月にも大きな空襲を受けたらしい。
 首都である東京がそんな状態で、なぜまだ戦争を続けられるのだろうか。あの焦土しょうどの光景を見た今なら、尚のことそう思ってしまう。
 もっとも私の記憶のとおりならば、沖縄を占領され、2発の原子爆弾を落とされるまで戦争は止まらない。このまま歴史通りになるだろう。

 それはともかく、鈴子ちゃんは新しい住所を書いてくれてあったので、今度お返事を出しておこうと思う。香代子ちゃんの手紙も同封するといいかもしれない。

 ようやく片付けが終わり、3人で少し休憩をしていると、突然、廊下の奥で電話が鳴り響いた。
 さっと美子よしこさんが電話に出たようだ。漏れ聞こえる声から、どうやら相手は駐在さんらしい。

「――え? 畑泥棒?」

 美子さんのそんな言葉が聞こえてきて、一瞬なんのことかわからなかった。

 畑泥棒って、あの畑泥棒だよね。野菜とかを勝手に採っちゃう……。
 まさか子供たちが? 

 思わず安恵さんを見ると、彼女も顔をこわばらせていた。

 立ち上がりかけた私の耳に、美子さんの言葉が入ってきた。
「ああ、ここの子じゃないんですか。それを先に言ってくださいよ」

 なんだ……。よかった。
 胸をなで下ろして再び腰をかけ、電話が終わるのを待つ。

「はあ、そうですか」
 けれど浮かない様子の美子さんの声が気にかかる。やがて「あのう、御仏使さま」と私を呼ぶ声が聞こえてきた。

 ちょっと行ってくると2人に言って厨房を後にして、隣の部屋にある電話の所ヘ行くと、美子さんが話の内容を教えてくれた。

 なんでも、泥棒は9歳の少年と4歳の女の子だったそうだ。ほかの村から流れてきたらしく、村人の畑だけでなく私の所の畑でも盗んだと話しているという。
 どこの村からか、どこの家の子なのかは教えてくれないらしい。ともかく、畑の持ち主に謝らせようと思って、駐在さんが電話をしてきたとのこと。

 9歳と4歳か。

 2人きりで生きていくのは大変なことだ。
 ただそれでも、いつの時代にも、生きるために人の物を盗んでは生を繋いでいた子供たちがいる。そんな子供を見てきた私にはわかる。
 畑泥棒は悪いこと。そんなの決まっているけれど、これは善悪の問題じゃなくて生きるか死ぬかの問題なんだ。食べなきゃ死んでしまう。生きていくには盗むしかなかったのだろう。

「私が行きますよ」

 半ばまた引き取ることになるような予感を覚えつつ、私はそう言っていた。

 駐在所は村の入り口に近いところにあり、ほとんど村を突っ切っていかないといけない。もっとも別に急ぐ必要もないからと、徒歩で向かうことにした。

 つばめの飛びう畑の上には、黒々とした雨雲が空に広がっている。天気予報がなくなって久しいけれど、もう梅雨に入っているのだろう。

 役場の前を通過して、さらに10分ほど歩くと駐在所が見えてくる。
 出入り口には3人ほどの村人の姿が見えた。どの男の人も50代過ぎのようだ。

「清玄寺です」
と挨拶をすると、男の人たちが「ああ、どうも」と道を譲ってくれた。
 中に入ると、駐在さんの前にいる男の子と女の子の姿が目に入ってきた。
 男の子は体中を殴られたようで、顔はれ上がりアザになっている。きっと捕まったときに散々さんざんにやられたんだろう。

「ああ、どうも」
 せまい村だけに駐在さんも顔見知りだ。
「ほら。謝らんかっ」

 男の子に怒鳴どなると、男の子は涙を流しながら土下座をした。女の子はうつむいて呆然としているようだ。
「もうしませんっ。すみませんでした。許してください」

「いいかっ、お前たちが盗んだ畑はな。村のもんの畑だけじゃない。東京から疎開している学童の畑からも盗んだんだよ」

 怒鳴どなる駐在さん。男の子はただひたすらに「もうしません。許してください」と言い続けている。

 あの服も、もうずっと替えていないんだろう。身体もやせ細って……。

 そうなんじゃないかって予想はしていたけれど、2人の姿を目の前にすると胸が痛む。
「駐在さん。少し話をさせて下さい」
「ああ、どうぞ」

 男の子の前にひざをつき、その頭をそっとでる。あかでベトついた髪の毛。シラミもいるのは当然か。

「顔を上げて」
 そう声をかけるが、男の子は震えるだけで顔を上げようとしない。

 見かねた駐在さんが再び怒鳴ろうとしたので、手でそれを止め、優しく言葉をかけた。
「怒らないから、顔を上げなさい」

 ようやくゆっくり顔を上げた男の子を正面から見る。垢まみれ、泥まみれ、殴られ、踏みにじられた跡の残る、痛ましいその顔。
 果たして、本当にこの子たちが悪いんだろうか。ただ必死に生きようとしているだけなのに。

「そっちは妹さん?」
「はい」
「そう。……どこから来たのかは言えない?」
「はい」
「2度と戻りたくないから?」
「……はい」
「お父さんとお母さんは?」
「死にました」
「そう。……どうして亡くなったのかは教えてくれる?」
「父は戦争で、母は病気で死にました」
「それで家族は妹さんだけ?」
「はい」

「将兵の遺族には恩給が出るのは知ってる?」
「いいえ」
「そう……。誰も教えてくれなかったのか、あなたの親族にだけ説明があったんだと思う」
 もっとも年金は将校でないと出ないけれどね。

 その少年は悔しそうにギリッと唇をかみしめた。

「あなたに恩給が届くようにするには、その親族にも連絡をしないといけない。お名前も、お父さんが陸軍だったか海軍だったかも……」
「いりません!」

 強い口調で断る男の子に、駐在さんが、
「馬鹿がっ。子供が2人で生きていけるわけがないだろう! 悪いことはいわん。お前たちが一緒に暮らしていた家に戻れ」
と言う。
 うん。それが普通の考えだと思う。大人としては、だけど。

 貝のように堅く口を閉ざしている少年を見て、
「じゃあ、私の所にいらっしゃい。お寺だけど、妹さんも一緒に。いつか話してもいいと思えるまで、うちで暮らしなさい」

 思わぬ申し出だったのだろう。少年は腫れた瞼の隙間から、私をじっと見ていた。

 一方で、ぽかんと口を開けた駐在さんが、
「な、なにを。清玄寺で面倒をみるんですか?」
「ええ。もうすでに学童もいるし、4人の孤児もいる。もう2人くらい増えても変わりはありませんよ」
「しかしですな」

 言いよどむ駐在さんだったが、そこへ援軍がやって来た。
「いいんじゃないですかな。本人たちがそれでいいんなら」

 そう言いながら中に入ってきたのは、村長さんだった。

「村長。しかし……」
「清玄寺なら大丈夫でしょう。もし捜索願そうさくねがいが出たときには、その時に初めて連絡すればいい。……このまま元の家に帰しても、また脱走しますよ。この様子じゃ」
「それはそうでしょうが。むぅ」

 私は兄妹に向き直った。
「それでどうする? うちに来る?」
 2人はコクンとうなずいた。それを見て村長さんはうなずき、駐在さんも「仕方がない」とようやく納得してくれた。

 お兄ちゃんは石川泰介たいすけくん、妹は景子ちゃんというらしい。手続きはこちらでやっておきますという村長さんに後はお任せをして、私は2人を連れて戻ることにした。

 外にいる村人に、改めて兄妹と一緒に頭を下げ、今度から清玄寺で面倒を見るから、何かあれば遠慮なく清玄寺に言ってほしいと伝える。
 どうやら男の人たちは外から中の様子を見ていたようで、その場はそれで済んだ。後日、また謝罪に行った方がいいだろう。

 宮田香代子ちゃんに、石田和則くんと優子ちゃん、そして菜々子ちゃんに、石川泰介くんと景子ちゃんと、これで6人となる。さすがに増えてきたか。
 夏樹が帰ってきたらなんて言おうか。それが心配だけれど……、まあ、何とかなるでしょ。



 清玄寺に戻ると、子供たちが遠巻きに見ていた。すぐに先生が解散させていたけれど、明日からみんなと上手くやっていけるかなぁ。

 でも、まずは2人をお風呂に入れよう。
「ね。香代子ちゃん。悪いんだけれど、美子さんのところから打ち身用の塗り薬をもらってきて。あと同じくらいの背丈せたけの子から、服を一着ずつ借りてきてくれないかな」
「はい。わかりました」
「よろしくね。私は2人をお風呂に入れてくるから」

 そのまま清玄寺のお風呂場に行き、脱衣所で服を脱がさずに、そのまま風呂場へと連れて行く。浴槽に水を入れ、窓から手を延ばして外に積んであるまきを手に取った。
 鉄砲風呂の火をくべるところに薪を入れ、すぐ火を点ける。

「さ、服を脱いで」
と振り返るも、男の子はなかなか脱ごうとしない。

 しょうがないなぁ。まずは景子ちゃんから……。

 ボタンを外して脱がせ、その身体を見た途端にハッと息を飲む。もう幾日いくにち食べていなかったのだろうか。
 あばらが浮き出ていて、お腹がふくらんできている。栄養失調の危険な徴候ちょうこうだ。体を動かすのも億劫おっくうだったろうに……。

「春香先生、ここに置いておきます」
 ちょうど脱衣所の方から香代子ちゃんの声が聞こえてきた。替えの衣類を持って来てくれたんだろう。

「香代子ちゃん、お願いがあるんだけれど。美子さんか安恵さんに、この子たち、ずっと食べてなかったみたいだから、薄いスープを作っておくように言っておいてくれる?」
「あ、はい。わかりました」
「お願い」

 さてとお兄ちゃんの方は……。じっと見ていると、ようやく観念したのか一枚ずつ服を脱ぎだした。
 2人とも脱いだ服にはシラミが動き回っている。これはこのままお風呂場で煮沸しゃふつするしかないだろう。
 それよりもあらわになった上半身もひどい。あばらが浮き出ているのは一緒だけれど、殴られた跡が痛々しく残っていた。

 私がじっと見つめているのに気がついているのだろう。お兄ちゃんはさっと顔をらした。
 こんな身体で小さい景子ちゃんと……。そう思うと、胸が苦しくなる。

 いったいこの2人に何があったのだろう。
 まるで野良猫のように、傷つき、身体を寄せ合い、さまよい歩くようにこの村に辿りついたであろう幼い兄弟。
 ご両親が亡くなり、親戚はよくわからないけれど、もうこの世界に2人きりのつもりでいるんじゃないだろうか。

「頑張ったね」

 気がつくと、そうつぶやいていた。

「よく頑張ったね。……でも、あなたたちは2人だけじゃないんだよ。私もあなたたちの中に入れてちょうだい」

 するとお兄ちゃんのれ上がった目から、ポロポロと涙があふれ出した。「うっ、うっ」と嗚咽おえつを漏らす泰介くん。私は2人をそのまま抱きしめた。
「頑張った。よく頑張ったよ。ここに居ていいんだからね」

 この子たちには居場所が必要だ。親代わりになる大人も。恐らく親戚の家ではその余裕が無かったのだろう。
 誰が悪いでもない。どこの家もまず自分たちの暮らしが第一なんだから。

 少し泣きそうになりながらも、私は二人の身体を洗い、湯船に入れてあげたのだった。

04転の章 ひぐらしの声をまくらに眠る子ら 見守るわれも夫を夢みし

「安恵さん。いくよ。熱いから気をつけて!」
「はいっ」

 大釜の中で煮えたぎっているお湯に竹竿をさしこむ。ぐるりと動かして、中でおどっている衣類をたぐり寄せる。そのまま引っかけて、地面に並べてある すのこの上にベチャンと降ろした。
 湯気の立っている衣類のかたまりを、安恵さんが火箸で広げてから団扇であおぐ。

 ここのところ晴れて穏やかな天気がつづいているので、2日かけて、みんなでシラミ退治をしているところだ。
 特に今日は村の婦人会にも手伝いに来てもらって、朝から布団を本堂の回廊に並べて日干しし、今ごろは子供たちも一緒に宿舎を掃除をしている頃だろう。
 同時並行で班ごとに呼び出して、散髪と頭のシラミ取りを行い、そのままお風呂場へ直行の予定になっている。

 服についた成虫や卵を殺すための煮沸作業は、寮母の私たちと美子さん、そして、無理矢理来てもらった香織ちゃんが担当している。

 もちろん香織ちゃんの子供の和くんも一緒なので、危険な火のそばの作業はさせられない。
 なので今は美子さんのところで、1つ年下の菜々子ちゃんとできる範囲のお手伝いをしてもらっている。

 香織ちゃんは、温度の下がった衣類を再度たらいに入れて水に浸し、踏み洗いをしてから絞る係をお願いしている。
 作業量は多いけれど、手があき次第に私もそっちに合流するし、清掃中の婦人会の人たちも応援に来るからそれまでの我慢だ。

 児童全員分なので山のような衣類。
 一枚一枚を大釜の中に放り込み、熱湯に10分ほど浸して取り出す。三角巾で髪を覆っているけれど、お釜の熱気で額から汗が噴き出てくる。

 そんな作業をしながらも、チラリと香織ちゃんの表情をうかがう。
 あれから1月が経ったとはいえ、表面上は落ちついて見える。子供たちを気にしながら、美子さんともおしゃべりをしながら作業をしているようだ。
 それを見て、そっと安堵のため息をつく。

 あの英霊の伝達のあった次の日、私は香織ちゃんの様子を見に、嫁ぎ先の石川さんの家に向かった。
 そこで石川さんの奥さんに聞いてみたところ、白木の箱を安置して中をあけると、やはり私と同じく1枚の木札が入っているだけだったという。

 それを見た途端、香織ちゃんは拳を握りしめて立ち上がり、そのまま台所に向かって包丁を握り、大根を乱雑にダンッ、ダンッと包丁を叩きつけてぶつ切りにしていたらしい。
 そして1本切り終わるや、包丁を置いて、その場で泣き崩れたという。

 その後、お家にお邪魔して少し香織ちゃんと話もしたけれど、どこか魂が抜けたようになっていて、とても見ていられなかった。
 秀雄くんの葬儀に参列した時は、憔悴しょうすいしきった香織ちゃんが、まだ何にもわかっていない和くんを膝の上に載せている光景を見て、あまりの痛ましさに胸が苦しかった。

 あれからずっと彼女のことが気がかりだったけれど、残念ながら寮母をしている私には、あまり彼女とゆっくりと会う時間をとることができない。
 そんな事もあって、今日は無理矢理来てもらったんだよね。

 一方で私の方は、青木先生や安恵さん、隣組の人たちから、葬儀はしないのですかと何度も尋ねられている。それはもう、うるさいくらいに。
 けれど、主人はまだ生きていますと頑なにお断りしつづけているうちに、最近になってようやく誰も葬儀のことを言い出さなくなった。
 諦めたのか、恵海さんたちが説得してくれたのか……、それはわからないけど。

 戦況は悪くなる一方だ。
 5月9日には、ラジオでドイツが無条件降伏をしたと流れてきて、村の多くの人たちが驚いていた。
 ……これでもう残っているのは日本だけになったというわけだ。

 聞くところによると、いよいよ敵軍が沖縄に上陸したというから、多くの住民をも巻き添えにしている泥沼の戦いが、今、この時も続けられているのだろう。

 日本だけでどうやって戦っていくつもりなのか。どこまで戦うつもりなのか。なんでこんな時代になってしまったのか。
 戦争、出征、空襲、戦死……。もううんざりだ。夏樹も帰ってこないし、私1人でどうしろと。
 っと、いけない。まだ作業中だったっけ。
 濡れた衣類って重いから、こんな作業をしていたら腰を痛めてしまいそうだ。……筋肉痛とは無縁の身体ですけどね。

 さて、そんなことを考えているうちに大釜の作業は終わり、火を消してから、香織ちゃんの作業に合流する。早いうちに大釜も洗いたいけれど、まだ熱すぎるので後回しにせざるをえないだろう。

 洗い場のポンプからくみ出した水をバケツで運び、たらいに入れ、そこへ温度の下がった衣類を放り込む。
 そっと足を踏み入れると、くみ出した水が冷たくて、思わず「ひぇっ」と声が出た。

 そんな私を見ていたのだろう。衣類を踏み踏みしている香織ちゃんが小さく吹き出した。

 ――お。笑った。

 内心でそう思いながら、「いっちに、さんし、いっちに、さんし」と口でリズムをとりながら私も踏み洗い作業をはじめる。

 さっきまで大釜の前にいたせいか、着ている服の中にまだ熱気が籠もっている。時折そよいでいく風が、えり元から入ってきて心地よかった。
 目の前の林の間ではチョウチョが舞っている。チョウチョが飛んでいると菜々子ちゃんに教えてあげようと振り向いた。

「2人とも手伝ってくれるの? いい子だねぇ」
 コクンとうなずいた和くんは、菜々子ちゃんと一緒になって、美子さんが絞った衣類を受け取り空になったたらいに持っていく。その光景が、お婆ちゃんと孫のように見えてほほ笑ましい。

「奥様って変わりませんね」
 香織ちゃんから突然そう言われた。

 私の場合は夏樹が死ぬわけないって思っているからだけど、それを秀雄くんに当てはめるわけにもいかない。
 あんな戦死通知なんて信じていないからと言ったとしても、それを香織ちゃんが信じてしまってもマズいことになる。たとえ、それで彼女の心を慰めることができたとしても、後で戦死が確実なものとわかったときが怖い。

「まあ、遺骨が帰ってこないから実感がないってのもあって、そのうちひょっこり帰ってこないかなって。どうだかわからないけどさ……。それに目の前にもっと悲しんでいる若奥様がいるからね~」
「はい」
 香織ちゃんが曖昧な微笑みでうなずいた。

「それでも私たちは生きていかなきゃいけないしね。それに今は他に子供たちがいるから悲しんでいる暇もないってわけよ」
「ああ、……まあそうですね」
「というわけで香織ちゃん」
「はい」
「いつでもお手伝いに来てくれていいからね」
「――はい」

 きっと家にいても時の経つのが長く感じているはず。
 あたかも明けない夜の中にいるように、出口の無いトンネルをさまよっているように。親御さんも同じ気持ちかもしれない。

 でもね。それでもその悲しみを背負いながらも、生きていかなきゃいけないんだよ。たとえ今は、地獄にいるかのように辛い日々になっているとしても。やがて、その悲しみは時が解決していくだろう。

 不意に和くんの明るい笑い声が響く。菜々子ちゃんのキャッキャと笑う声が続く。美子さんったら、楽しそうにしている。

 でもこの笑い声を聞いていると、なぜか私もうれしくなってくる。
 息が詰まりそうな時もある。暗く重苦しい気持ちになる時もある。そういう私たちを癒やしてくれるのは、子供たちの笑顔や笑い声じゃないだろうか。

 秀雄くんの忘れ形見である和くんが笑っている。その声を聞いて微笑んでいる香織ちゃんを見ながら、私も自分が微笑んでいることに気がついた。



「ふうぅ。チェック終わりっと」

 直子さんが亡くなってから、会計書類は私の仕事になっていた。幸いに食糧事情が回復してきていたので、どうにか今月は収入と支出がトントンといったところだ。
 けれど先のことを考えるとまだまだ不安が頭をもたげてくる。

 というのも、今のところは政府の補助金があるからどうにかなっているわけで、戦争が終わってからもこの補助金が続くのかどうかはわからない。もし補助金が出ないとなれば、運営はかなり厳しくなるだろう。

 だいたい配給だってどうなるかわからないんだよね。特に8月15日以降は。
 今のうちから対策をしておいた方がいいと思うけど、8月で戦争が終わるなどとは誰にも言えない。やるなら1人で、気取られないように話を進めておくしかないだろうか。

 ……うう。こんな時、夏樹がいてくれたらなぁ。

 そう思って、布団に入れてある抱き枕夏樹枕を見る。
 ここのところ菜々子ちゃんと一緒に寝ていたけれど、今晩はバーバとなった美子さんと一緒に寝るらしい。
 ほんのちょっとだけ寂しいけれど、まあ私にはこの夏樹枕があるからね。大丈夫ですよ。

 それにしても……。夏樹枕のにっこり笑っている顔が恨めしい。

 直子ちゃんは亡くなりました。
 いくらこちらで回向をしているとはいえ、まだここの学寮に彼女がいるようで、ふとしたときにその姿を探してしまう自分がいる。一緒に暮らしていた彼女の死を、私はまだ受け入れられていないのだ。

 ……戦争か。
 銃弾に爆弾、焼夷弾。人類の作り出した兵器が、私たち市井の命をもたやすく奪い、大都市をも一夜にして廃墟に変えてしまう。
 悠久の歴史の中で人々の暮らしを支えてきた火が、今は多くの一般市民を殺す武器になっている。

 かつては弓矢や剣の戦いだった。それでも国と国の争いがあり、多くの人々が殺し合い、悲劇が生まれた。
 国というものが生まれる時や滅びる時には、大勢の人々が死ぬ。そんな光景をいくつも見てきた。
 もちろん疫病や魔女狩りなんて時代もあったけれど、やがて銃が生まれ、大砲が生まれ……。その行き着く先が、この戦争となっているのだろう。

 ふと昼間の香織ちゃんの顔を思い出した。……秀雄くんはやはり死んでしまったのだろうか。それとも夏樹と一緒にどこかで生き延びているのだろうか。
 生きていて欲しいと思いつつも、心のどこかでやはり駄目だろうとも感じている。

 一緒にいた人、近しい人が亡くなる。それは辛いことだ。そんなことはわかっている。
 決してうわっつらの言葉だけじゃない。私にだってお父さんを亡くした経験があるんだから。

 ただ……、あの時は夏樹がいてくれた。
 お父さんがガンで闘病中の時も、いや、もっともっと前からずっと夏樹が傍にいて私を支えてくれていた。
 一緒に病院に行ってくれること。一緒に家にいてくれること。隣にいてくれたことで、どれだけ私は救われてきただろうか。

 けれども、今は夏樹はいない。

 それでも救いになっているのは、この広い世界の中で、私は決して迷子になっているわけじゃないということだ。
 ここで待っていれば、必ず夏樹が迎えに来てくれるとわかっているってこと。
 この狂ったような時代のなかで、ただそれだけが私にとっての支えになっている。

 まあ、それでも辛いし、寂しいし、1人にされて困ってるし、いつまで我慢すればいいのかわからなくて苛立つこともあるし、ぐちぐちと文句だっていいたいこともあるけどね。

 四つんいになって枕ににじりより、笑顔のほっぺたを突っついた。

「あなたはいつ帰ってくるんでしょうね?」

 反応はない。……また突っつく。

「今どこで何をしているんでしょうね?」

 指先でほっぺたの辺りをぐりぐりと押し当てる。本物だったら、ここでつねってやるのに。

「いつまで私を1人にしておくんでしょうね?」

 両手でほっぺたを左右から挟み込む。

「何でもいいから早く帰ってきてよね。……お願いだから」

 ぱっと両手を離して、ため息をついた。

 ――はあ、何やってんのかね。私は。

 迷子よりはいいのかもしれないけれど、待ち続けることも辛いよ。
 疎開している子供たちがいるから、まだマシだけどさ。忙しく動いていることで、あのにぎやかな子供たちの中にいるだけで、幾分か寂しさが紛れているのも事実なんだよね。

 それでも、
「ままならないなぁ。……本当にままならないよ」

 そうつぶやきながら、私は夏樹枕の顔を優しく撫でた。にっこり笑ったその口に、そっと唇を重ねる。
 布の感触がむなしいけれど、それでも幸せな気持ちになった。

 うん。今日は、もう寝よう。

 夢で会えるといいなぁと思いつつ、私は部屋の明かりを落として布団にもぐりこんだ。



 いつしか眠りに落ちてから、どれくらいの時間が経ったろうか。
 ふと目が覚めてしまった。……今は何時だろう?

 室内には5月のどこか気だるい空気が漂っている。
 壁と障子しょうじに囲まれた6畳間。電気をけず、静寂の漂っている今、あたかもこの部屋だけが世界から切り離されているような錯覚さっかくがした。
 それが急に怖くなって、隣の夏樹枕に頬をりつける。

 さっきまで何か夢を見ていたのは覚えているんだけれど、その内容は思い出せない。それがちょっともどかしい。
 まあ、いいか……。まだ早いみたいだし、もうひと眠りしよう。

 そう思って再び目を閉じた。ゆっくりとゆっくりと意識がどこかに沈んでいく――。

 うん?

 意識の端っこで何かが引っかかった。まるで張り巡らしたあみに何かがかかったような違和感がする。
 寝ようとしている時に、一体なんだろう。危機感というほどではないけれど、このままここに居ては面倒なことになる気がする。

 目を閉じたままでこの感覚が何かを探ろうと、耳を澄ませて意識を広げていくと、廊下の離れたところを誰かが歩いているのが感じられた。

 ここに向かっている?

 目を開き、さっと起き上がって周囲を警戒する。さっきまで気だるく感じていた部屋の空気が、今は張りつめているかのように感じられた。
 今はわかる。確かに誰かがやってくる。音を立てないように忍び足で、ゆっくりと。

 こんな夜中に私の所に来るなんて。
 それも見つからないようにとは穏やかではない。

 ……こういう時にどうすればいいのかはもう決まっている。伊達に長く生きているわけではないんですよ。

 というわけで、夏樹枕を持って私は縁側に通じる障子をそっと開いた。そのままガラス戸の鍵を外し、音を立てないように裸足のままで外に出た。

 今日は月が明るい夜だ。
 穏やかな月明かりを頼りに、私は蔵へと走る。暗い林の間を、いくつかの光点が動いている。早くも蛍が少し飛んでいるのだろう。
 その光景を横目にしながら蔵にたどりつき、後ろを気にしながら急いで鍵を開けた。

 大丈夫。まだその誰かが外に出てくる気配はない。
 けれど警戒は緩めないままに、するりと中に忍び込んで鍵を掛ける。

 ここまで来れば、もう大丈夫。はやる胸をなで下ろし、台所脇の水瓶から水をすくって、汚れた足の裏をぬぐった。

 ……さて、誰か分からないけれど、部屋にいないとなったらどうするだろうか。外まで追いかけてくるだろうか。

 蔵の居間の明かりを点けず暗いままでハシゴを登り、2階のロフトスペースへ上がる。ここは夏樹と私の寝室スペース。そして、ここには清玄寺側に向いた窓があるんだ。
 窓を開いて、そおっと外の様子を窺う。

 ここから見える夜の村は静かに眠りについている。何もなければこのまま穏やかな空気が流れるところなのだろうけど……。

 そう思っていると、清玄寺の離れの障子が開いた。月明かりに照らされたその人は、青木先生だった。

 ……そう。そういうこと。

 その姿を見た途端、私は悟った。あの人、私に夜這よばいをしようとしたってわけだ。

 私が夏樹以外の誰かになびくわけないのにねぇ……。たとえ1人でいるからって、ありえないし、すきは見せていなかったはずなんだけどな。そうか。未亡人だと思っているのだろう。

 そりゃあ、この村ではかつて夜這いの風習があったよ。
 正確には今でもあるかもしれないけどさ。ただ、それは事前になんとなく合意みたいなのがあったりするわけで。よりによって私にしなくても。

 だいたい夏樹は戦死したわけじゃないんだし。……他の人にはわからないかもしれないから、それを責めるのは酷かもしれないか。

 見ていると、ガラス戸の鍵が開いているのを見つけたようで、先生は外をながめて私を探しているようだ。

 お願い。そのまま帰って……。

 しばらく視線をさまよわせていた先生だけれど、私の祈りが届いたのか、諦めたように頭を小さく左右に振り、ふたたび障子を閉めていった。
 もしかしたらトイレにでも行っていると思ったのかもしれないね。

 肩から力を抜いて、ため息をひとつつく。
 先生には少し同情をしている部分もある。だって、こんな田舎に男1人で来られてるんだよ。奥さんでもいれば別なんだけれどね……。

 かといって、私にはどうにもできないことだ。しかも誰にも相談できないしねぇ。精々が、あの人に良い人が現れますようにと祈るくらいかな。

 気を取り直して振り返り、私は2階のロフトスペースを見回した。

 私たちが寝室にしていたこの場所。いくつもの思い出のある蔵。
 そして何より、この建物全体に込められた夏樹の力が、私の肌にしっとりと馴染む。

 私を包み込むあたたかい力。心安らぐ気配。思い出の品々。
 それらが私のいるべき場所はここなんだよと教えてくれているように感じる。

 ――うん。今日から、寝泊まりはここでしよう。

 それにしても私に夜這いなんてね。やっぱり1人になると色んなことが起きるもんだ。
 しみじみとそう思いつつ、この事はすっぱり忘れることにした。

 だって今は蔵に居るんだもん。少しご機嫌な気持ちになりながら、私は改めて布団を敷くのだった。