03転の章 わが夫(つま)が戦いいますは彼方(あなた)かと 南の空を見つめたたずむ

 平野部から再び山間部に入る。ミトハ川の北岸にある道路を、多くの撤退てったいする傷病者たちとともに、俺は秀雄くんを負ぶって歩き続けた。

 例年ならば雨季明けが近づいてくる季節というが、今日もまだ、空はどんよりと閉ざされている。野戦病院と同じく血と泥、そして死臭の入り交じった空気が、停滞してあたりにただよっていた。

「空襲だっ」

 かすれたような誰かの声が聞こえる。すぐに俺の耳にも飛行機のエンジン音が聞こえてきた。

 くそっ。こんなことをしている場合じゃないのにっ。

 苛立いらだちながら、すぐに街道を外れて林の中に突っ込む。しゃがみこんで茂みに隠れ、一度、背中の秀雄くんをおろした。
 もうすっかり元気を無くしてぐったりしている。水筒のふたを開けて手渡してやった。

 姿を現したのは爆撃機の編隊だった。空の高いところを飛んでいる。どうやら攻撃目標は俺たちじゃないようだ。もっと遠くへ行くのだろう。
 亡者のように地上をいずる俺たちに対し、空を行く銀色の機体。物量の差、戦力の差をまじまじと見せつけられる。

 秀雄くんのところに戻ろうと振り返ると、少し離れたところの茂みで、俺たちと同じようにしゃがみ込んでいる兵士の姿があった。
 空襲くうしゅう恐怖症になっているのか、その危険は無さそうだがピクリとも動かずに隠れている。
「俺たちが目標じゃないみたいだぞ」
 そう声を掛けたとき、鉄帽の下の顔が見えた。……そいつすでにガイコツとなった兵士だった。

 気がつくと、その脇にも5、6人の兵士が横になっている。ほぼ、全員が骨になっていた。

 さらにその奥にも6人ほどの集団が。その隣にも。注意をして見れば、あちこちに同じような死者の集団がいた。

「夏樹さん。……もういいですよ。俺を、置いていって下さい」
 呆然ぼうぜんと彼らを見ていた俺だったが、秀雄くんの言葉に振り変える。飲み終わった水筒を腹の上に載せ、秀雄くんは仰向けになったままで俺を見上げている。

「お願いです。もう」
「馬鹿野郎。そんなことができるかっ」

 駆けつけて叱りつける。身動きする力もないことをいいことに、そのまま腕をつかんで背中に負ぶった。

 立ち上がりながら、
「お前はそのまま負ぶわれていろ。あとは俺に任せておけ」
と言うと、泣き声交じりで、
「もう迷惑をかけられません。どうか。置いていって」
「バーカ。何にも食っていない君なんか軽いもんだ。こんなのなんてこと無いぞ」

 本当に軽い。だが同時に、とても重い。この手に感じるのは、秀雄くんの命の重みでもある。
 手に震えが伝わってくる。秀雄くんは俺の背中で泣いていた。


〝そうだ。もう少しでカレワだぞ〟
〝俺たちのようにはなるな〟

 不意に見知らぬ声が聞こえた。
 周りを見渡すが、人影は見当たらない。

〝街道荒らしが来る。このまま林を東に行け〟

 そうか。この声は――、ここで死んだみんなの声か。

 目に神力をまとわせると、あちこちの草むらから、立ち上がってこっちを見ている将兵の半透明の姿が見えた。

〝あの山を越えればカレワだ〟
〝俺たちの分もがんばれ〟
〝さあ行け。諦めるな〟

「あ、ああ」
 戸惑いながらも、その声のままに俺は林を東に行く。死んでしまった戦友たちの間を縫うように。
 次々に掛けられる声。俺の胸に熱いものがこみ上げてくる。いつの間にか涙が流れていた。

「ほら。秀雄くん。みんなが励ましてくれているぞ。がんばれ。諦めるな。もうすぐだって」

 ――みんな。ありがとう。……俺は諦めない。だから安心して輪廻りんねの流れに行ってくれ。

 そう心の中で願う。もう安らかに、次のせいに向かってくれ。あれだけ苦しんだんだ。戦ったんだ。もういいじゃないか。

〝そういうわけにはいかないさ〟

 俺の心の中の声が聞こえたのだろうか。誰かがそう言った。

〝お前たちみたいに、まだ誰か来るかもしれない〟
〝最後の1人がここを通り過ぎるまで、俺たちはここにいるよ〟
〝迷う奴がいるかもしれない。寂しがる奴もいるかもしれないからな〟
〝なに俺たちも大丈夫だ。ここにはみんないるんだから〟

 ――ばか、野郎。…………だが、そうか。寂しくはないか。みんないるもんな。


「俺はまたここに戻ってくる。全員が撤退したって。必ず、みんなに言いに来る」
 いつか必ず。戦争が終わったって、伝えに来るよ。

〝頼んだぞ。それまで待ってるぜ〟
 そう言っただろう兵士の幻がニカッと笑った。ひげづらのままで。

〝お前たちが無事にカレワまで行くことを祈ってる〟
〝最後まで頑張れよ〟

 俺は泣きながら「ああ」「ああ」と言いながら、彼らの間を進んだ。



 それからも俺は歩き続けた。
 昼だけじゃなくて夜も。ひたすら林の中を。死んでしまったみんなの遺体が、ずっと並んでいる山の中を。

 そして、ようやく眼下にカレワが見えてきた。その向こうにチンドウィン川が見える。雨季のまっただ中で、茶色く濁り、圧倒的な水量になっている。

 川岸にたくさんの日本軍の兵士がいるようで、人の群れがアリのようにうごめいているのが見える。どう見ても師団の撤退は順調とはいえないようだ。
 それもそうだろう。いつの時代も、敗走の時はごちゃごちゃになってしまうだろうから。

 しかし、今はそんなことよりもカレワだ。あそこに行けば薬がある。秀雄くんのために、そう信じている。

「秀雄くん。もうすぐだ。もうちょっとの辛抱だぞ」

〝夏樹さん。もういいんです〟

「ばか。なに言ってるんだ。すぐに薬をもらってやるからな」

 俺はそう言いながら、早足で林の中の獣道をたどる。ゴールが目の前に見えてきたからか、足取りが軽い。道も、草や木の根が張り出しているものの、そのせいだろうか、ぬかるんでいるところも少ないようだ。
 この調子なら、本気で走ればすぐに到着できそうだ。

〝本当に。もう、いいんですよ〟

 背中の秀雄くんがそういうが、もうすぐじゃないか。

 だが、その時、俺は違和感を覚えた。俺は……、どうやってしゃべっている?
 ふと足を止め、背中の秀雄くんを肩越しに見ると、力なくうなだれている。

「秀雄、くん?」
〝……だから、もういいんです。俺は〟

 まさか。

 丁寧ていねいに秀雄くんの体をおろす。おい。その口で返事をしてくれよ。

「おいおい。冗談は止めてくれよ。それとも寝ちゃってるのか」

〝だから、そうじゃないんですって〟

 俺の目に涙がにじんでくる。指先がしびれたように細かく震える。
 すぐ隣に立っている兵士を見上げた。うっすらと半透明で、さっきから俺にしゃべりかけているその兵士は、秀雄くんの顔をしていた。

 俺に向かって、寂しそうに微笑んでいる。

〝俺はもう死んでしまいました〟

「馬鹿な。なんでだ? だって、もうすぐそこなんだぞ!」
 あとほんの少しだって言うのに! 嘘だろ。冗談だと言ってくれよ!

 ……しかし、俺にはわかっていた。秀雄くんは、間に合わなかったのだ。俺の背中で、すでに事切れていたんだ。

「あ、あああ。ああ。……うわあぁぁぁぁぁ」

 叫んだ。とにかく叫んだ。もうわけがわからない。ただひたすらに、俺は叫んだ。

 ふざけんな。なんで、死んだ。なんで死んじゃったんだよ。

 理不尽だとはわかっている。だけど、やり場のない怒りに突き動かされるままに、俺は叫び続けた。

 上を向いたとき、雨雲から雨が降り出した。すぐにザーッと強くなる。

〝すみません〟という秀雄くんの声は、しかし、今の俺の耳には入ってこなかった。

 大粒の雨が俺の顔ではじける。俺は秀雄くんの前に突っ伏して、地面を何度も殴りつけた。
 握りしめた地面が、泥となって指と指の間からこぼれる。その手が震えた。


 ああ、春香! なんて。なんて地獄なんだ。ここは……。

03転の章 わが夫(つま)が戦いいますは彼方(あなた)かと 南の空を見つめたたずむ

 2人の精霊ナッツの教えてくれた方角をひたすら進む。1日、2日と日が経ち、頭上を戦闘機や爆撃機がさかんに飛んでいく日もあった。
 もはやどれだけの日にちが過ぎたのか、よくわからない。
 次第に秀雄くんのお腹も、下す回数が増えていて、少しずつ体力を失っていっているのが心配だ。

 それでも途中でマンゴーの木を幾つか見つけたこともあり、どうにかこうにか歩き続けることができた。

 やがて道しるべにしていた小さな川が、ここから前方でより大きな川に合流しているのがわかった。
 敵影が無いかどうかを確認してその川辺に出てみると、どうにも見覚えがある。方角は何となくだが南に向かって流れているようだ。

 その時、対岸を少し下ったところに集落の建物が見えた。
「あれは……」
 すると後ろで木により掛かっていた秀雄くんが、ぽつりとつぶやいた。
「ヤザギョウじゃないですか?」

 その地名を聞いて思い出した。そうだ。ここはヤザギョウだ。野戦病院も倉庫もあったはず。すると俺たちは今、カボウ谷地にいるのか。
 たしか秀雄くんたちが進軍したのは、ここヤザギョウが発起ほっき地点だったな。それで覚えていたのだろう。

 ここがヤザギョウだとすると、南に行けばカレミョウやインタンギーだ。幸運にも俺たちは、ケネディピークやフォートホワイトの高山をショートカットしてこれたんだ。
 ひそかに案内してくれた2人の精霊ナッツに心の中でお礼を言う。


 さて場所が分かれば元気も出てくる。とすると、目の前の川はミッタ川だろう。ここをずっと下流に行けば、エナンジョンの北方でイラワジ河と合流するが、空からは丸見えなのでその手段はつかえない。

 ともあれ、俺たちは気を引き締めて、カレミョウに向かって川沿いを南下した。


「おお……。追いついた」
 無事にカレミョウで日本軍に追及できたことに安堵して、座り込みそうになってしまう。
 もちろん自分の部隊かどうかはわからない。それでも、ここまで無事に来られたことがうれしい。

 しかし、秀雄くんはやはりアメーバ赤痢に感染していたようで、すでに重篤じゅうとくの症状を呈している。
 薬なんかないから、増田の時のように炭を作っては食べさせている状態だった。

 近くの座り込んでいる奴に聞いてみると、まだ作間連隊がティデムで英印軍を抑えているらしい。
 とにかく師団の撤退を急がせているらしいが、敵の飛行機が街道も川面も監視しているため、夜間しか移動できず。しかもチンドウィン川を渡るのに時間がかかっているという。

 ここに来るまでで体力を使い果たしてしまった者も多く、野戦病院もあるせいか、多くの傷病者の姿が見える。しかも隅の方では、力尽きた者の遺体をもまるで眠っているように横たわっていた。
 それを気にする者もなく、ここでは生者と死者が一緒になっている。

 俺は秀雄くんの肩を支えながら、野戦病院に向かって歩きはじめた。

 泥まみれの兵士。あかか、死臭ししゅうか、なんとも言えない腐臭ふしゅうが辺りに漂っている。
 血のにじんだ包帯。手の傷にうじが湧いていても、もうそれを振り落とすこともできないでいる兵士。目を開き、生きているのか死んでいるのかわからない奴。

 ……はたしてここは、本当に現世なのだろうか。同じ地球なのだろうか。
 そんな馬鹿げた考えが頭に浮かんでくるほど、ここにいる人々は凄惨せいさんな姿をしていた。

 しかし、目の前の人々――。
 やせ衰えて骨と皮だけになり、傷か病気かわからないが体の一部がふくらんでいたり、白くぶよぶよの素足を投げ出し、服はボロボロでシラミがっていて、うみと血便で汚れたふんどしのままに横たわっている者たちが、ゆっくりとうごめいている。
 この人々を見ると、これが現実の光景とは思えなかった。

 不意に離れたところの一角いっかくでケンカが起こり、「貴様か。俺の――をったのは」と声が聞こえたが、周りの奴も一瞥いちべつするだけで何も言わなかった。

 がしっと突然、服を捕まれた。見下ろすと、目をぎょろっとさせた兵士が俺を見上げている。

「なあ、お前、なんか食うもん持ってないか? なければ手榴弾しゅりゅうだんでもいい」

 目の奥に青白い火が見えるようだった。
 ――なんでこんな所にいるんだ。なんで俺たちはこんなに苦しまなければいけないんだ。彼の瞳にその怒りが、恨みが宿っているのだろうか。

 異様な雰囲気をまとっているその男に、俺は黙って首を横に振った。それでもそいつは、秀雄くんの方を見たが、秀雄くんも首を横に振った。
 やがて諦めたのか、その男は舌打ちをして手を離してくれた。

 突然めまいが俺をおそった。
 ……ここは一体なんなんだ。なんなんだよっ。
 ただその言葉だけがグルグルと頭の中で回っていた。

 目を閉じてめまいが治まるのを待つ。ようやくマシになったので目を開いたところ、ふと足元に1枚の新聞らしきものが落ちているのに気がついた。

 ――こんな場所で新聞?

 だが本物ならば情報に飢えている俺にとって、こんなにありがたいものはない。
 拾い上げて読んでみると、タイトルに『陣中新聞』と書いてある。日付は6月19日。読んでみて驚いた。
 連合国軍によるフランス・ノルマンディへの上陸作戦。さらにサイパン陥落と本土空襲。北ビルマの情勢まで詳細に記事になっていた。

 なんだか、自分の足元にぽっかりと穴が開いている気持ちがする。
 いや、これはあらかじめわかっていたことじゃないか。この戦争に日本が負けることは。

 しかしそれでも、追い詰められていくドイツと日本の記事を見ると、俺たちは一体なんのために戦ったのか、わけが分からなくなってきた。
 何のために、あんなに大勢が死んだのか。何のために今も、この河原に集まっているのか。何のために。何のために……。

 俺の肩にもたれかかっている秀雄くんがいなかったら、俺はその場にへたり込んでいたかもしれない。

 その時、ぼんやりしている俺の視線の先で、うずくまっている一団の中に埋もれるように、横たわる増田の姿があった。

「増田だ。……秀雄くん。ちょっと我慢できるか?」
と断って、急いで増田の所に向かった。

 増田のそばに2人の兵士が屈んで、何かを見ている。……あいつら何をしているんだろう? 話しかけているようでもないが。
 俺が来たことに気がつくと、その2人の兵士は立ち上がってこっちにやって来た。

「なあ。ここだけの話なんだが、牛の肉がある。100円でどうだ?」「いちじくもあるぞ。こっちは30円でいい」

 は? 牛肉? いちじく? ……そんなもの今はどうでもいい。

「すまん。今はいい」
 そんなことより早くそこを通してくれっ。
「そうか――、じゃあな」と言うそいつらの横を通り抜けて、増田のところへ駆けつけた。

「おい増田!」
と声をかけるも、横になった増田は弱々しく俺を見上げた。
 何かをしゃべろうと口を開けたが、言葉が出てこない。喉がヒュウッと音を鳴らす。そして……、なんてことだ。金蝿きんばえがたかっている。

 あわてて近くにしゃがみ込んで肩に手を置いた。
「しっかりしろ。俺だ。夏樹だ」
 力なく増田はうなずいた。

 ……死期が近づいている!

 否応なく、その事がわかってしまう。増田の命が消えようとしているのがわかる。こいつから死の匂いがしていた。

 愕然がくぜんとしながらも必死で声をかけると、増田は息を荒げながら、震える手でポケットの中から何かをとりだした。
 俺に持って行ってくれというように掲げられたのは、しわくちゃになった遺書だった。
「お、おい。馬鹿野郎。なんだよこれ。しっかりしろよ」

 もうそれしか言えない。光の消えそうな目で、増田が俺を見つめている。
 俺が懸命になっているのがおかしいとでもいうように、そっと微笑んだ。
 口が開いた。あわてて耳を近づけると、

「あ、りがと……。後は……」
とかすれた声で言い、最後に小さく誰かの名前を呼ぶ。
 ふっと力が抜けた増田は、そのまま横たわった。まるで眠っているように。――動かない。

「おい。増田。……増田。おい。返事をしろ! 増田。馬鹿野郎。しっかりしろ!」
 いつしか俺は泣いていた。なんども増田の名前を呼ぶ、肩を揺するが、それから増田が目を開けることは二度と無かった。

 くそ。ちくしょう。お前まで死んじまいやがって。くそっ。くそっ。くそっ。


――――
――

 どれだけの時間をそうしていたのだろうか。
 急にポンと肩を叩かれて振り向くと、そこには心配そうな表情の秀雄くんがいた。「夏樹さん」
「ああ。わかっている……。すまん」

 痛ましそうな視線をしている彼に謝り、俺は地面に落ちた遺書を拾った。「馬鹿野郎。こんなものをたくしやがって」

 ナイフを取り出し、奴の親指を切り取る。軍隊手帳を抜き取り、一緒にあり合わせの布でくるんだ。

 ふと見ると、すでに靴を履いておらず裸足になっていた。……いやまてよ。脱がされた跡があるぞ。
「まさか」
 誰かに取られたのか?

 怒りでギリッと歯をかみしめる。が、今さらどうにもできない。

 増田の顔を忘れないように、じっと見つめる。
 辛かったろう。苦しかったろう。故郷くにに帰りたかったろう。家族のところへ帰りたかったろうに。

 こいつの望みも、命とともに虚しく消えてしまったのだ。


 秀雄くんが急に倒れたのは、その後すぐだった。
 あわてて背中に背負って病院に急ぎ、軍医に診てもらう。そこで告げられた病名は、俺に衝撃を与えた。

「マラリアだな。……残念だが、ここにはもうキニーネも無いぞ。カレワに行ってみろ。あそこならまだ残っている可能性がある」

 マラリア! よりによって……。もしかして南端とはいえ、カボウ谷地を通過したのがいけなかったのだろうか。俺がそばについていながら……。

 辛そうな表情の秀雄くんを見て、俺は後悔の念に襲われた。だが、秀雄くんはまだ生きている。

 カレワか。自動車なら1日だが、歩きなら3日ほどかかる……。だが、俺が連れて行く。背負って、山を越えて、もしカレワになかったら、いかだをつくってでも直ちにチンドウィン川を渡ろう。
 必ず秀雄くんを助けるんだ。絶対に香織ちゃんの元に連れて帰るんだ。

 俺は先生にお礼を言うや、すぐに秀雄くんを負ぶって野戦病院を出た。

03転の章 わが夫(つま)が戦いいますは彼方(あなた)かと 南の空を見つめたたずむ

 ピチョン。ピチョンと頬に水が当たっている。

「ふふふ。起きたかな」
 この声は春香だな。俺が寝ているのをいいことに、いたずらをしているのだろう。
 外は雨だろうか。ザーッと音がしている。

 なんだか疲れが残っていて体を動かす気力が無い。そのまま寝ている振りをしていると、春香は、俺の体のあちこちをツンツンと突っつきはじめた。

 まったく。しょうがないなぁ。

 思わず口元に笑みが浮かびそうになって、我慢するが、
「起きてるのはわかってるんだぞ」
と春香が耳元で言ってきた。

 笑いながら目を開けると、そこには浴衣姿の春香が笑っている。膝枕をしてくれていたようだ。
 そばの机には水滴のついたコップがおいてある。さっきの水滴の正体はあれかな?

「お寝坊さん、おはよう」
「おはよう。……なんだか体がだるい」
「夏風邪かな? どれどれ」
 ほっそりした手が額に乗せられる。
「大丈夫。熱はないね。いつも頑張っているから少しは休めってことかな」
 だといいんだけどね。

 風鈴が涼やかな音を響かせる。

「――なんだか凄い夢を見たよ。戦争のまっただ中に行ってさ」
「へえ」

 ……本当はわかってるさ。こっちが夢なんだろ。

「今度話を聞いてくれるか」

 でも……。今はまだめないでくれ。
 そう思うと涙が出てきた。
「どうしたの? そんなに辛かったの」
「まあな」
「そう……。戦争だものね。うん。泣いてもいいよ。夏樹が何を見てきたのかを私にも教えて。多分、私も一緒に泣いちゃうと思うけど」
「ああ」

 少しずつ声が遠くなっていく気がする。

「だから、あなた……。もう少しがんばって。私はずっと待っているから」
「ああ。わかってる」

 ――愛しているわ。

 その声を最後に意識が急浮上していく。

 俺もだ。春香。おまえを愛している。

 ……ああ、この言葉は届いただろうか。夢の中の春香に。



 ザーッと聞き慣れた雨の音が。そして、服の中を何かがいずり回っている。

「う、」

 一声ひとこえ挙げた途端、体に痛みが走った。しかし、すぐにすうっと痛みは消え、俺は目を開ける。
 雨にれた木々。葉っぱが雨を弾き、地面には土砂が広がっている。そのすぐ向こうは川になっていて水が流れていた。

 ここは……。そうか。崖崩れに巻き込まれて……。

 何があったのか思いだした俺は、体を確認したがどこも怪我はないようだった。まあ、それも当然か。
 ただ服の中に虫が入り込んでいるようで、それが気持ち悪い。入り込んだ泥がざらざらとしている。幸いに頭上に枝が張りだしていて、俺を空から隠してくれていた。

 泥からい出て木の根に座る。
 もうしょうがないから服を脱いで、中に入っていた虫を放り投げた。この泥は……、どうにもならないだろう。気持ち悪いけれど、あきらめて再び身にまとう。

「うん?」
 さっきまで気がつかなかったが、少し離れたところに背の高い草に埋もれるように1台の車があるようだ。誰かが乗っている。
「誰かいるのか」
と声をかけながら近くに寄っていくと、そこには軍服を着た骸骨がいこつがハンドルを握っていた。

 こいつ。弓の自動車隊の誰かだろうか。それとも師団直轄ちょっかつか? 輸送の途中で崖から落ちてしまったんだろうが……。

 そいつの足元に背嚢はいのうがあったので中をまさぐって軍隊手帳を探すも、どうやらどこかで紛失したらしく見当たらない。それとも生き残りがいて持っていったのだろうか。見ると確かに右手の親指の骨がないようだ。

 それを見て俺は安心した。なら大丈夫か。……この背嚢はいのうの中身は申しわけないが使わせてもらおう。

 そう思った時だった。少し離れたところの茂みが揺れた。
 反射的に車体の影に身を隠し、ナイフを取り出した。小銃は崖崩れの時にどっかにいってしまっている。手元の武器はこれくらいしかない。

 何か、もしくは誰かが近づいてきている。
 緊張が高まる。息を殺しながら、その誰かを確認しようと、茂みに意識を集中していた。

 鉄帽だ。それも日本軍の……。

「誰かぁ」
と声を挙げて誰何すいかすると、揺れていた茂みがピタッと止まった。日本語で呼びかけたから、向こうもこっちが分かったはずだ。

 頼む。日本軍でいてくれよ。

 その願いが通じたのだろうか。はたまた因縁のなせるわざか。
「弓は作間連隊の井上だ。井上秀雄だ。――そっちは誰だ」

 井上秀雄! 秀雄くんじゃないか!
 俺は手を挙げて、
「こっちだ。俺だ。夏樹だ!」

 はじめはギョッとして小銃を構えた秀雄くんだったが、驚きに目を見開いて慌てて銃口を下げた。
「夏樹さん!」

 俺を見て安心したのか、笑顔になった秀雄くんだったが、そのまま後ろにふらっとよろめいて尻餅をついた。

 ……ああ、やつれたなぁ。だいぶ。

 苦笑しながら近寄って、手を引っ張り上げてやった。

「いやぁ。あの崖を落っこちちゃいましてね」
「俺もだよ。ほら……、あの崖崩れに巻き込まれて」
「よく無事でしたね」
「人のことは言えないだろ」
「それもそうだ」

 そう言って秀雄くんは笑った。

 さて2人になれば、できることも増える。とはいえ、崩れた崖を見上げるも、ここを登るのは危険そうだ。どこか別の道を探すしかないだろう。

 崖の位置から、おそらく現在地はトンザンからテイデムに向かうインパール街道のさらに東側。谷間のどこかだろうと思われる。
 目の前には小さな川が見える。おそらく雨季にしか現れない川だと思われるが、あの流れる方向に進んでいけば、やがてどこかの集落が見つかるだろう。

 相談した上で、敵機に見つからないように注意しながら、あの川から近すぎず、離れすぎずの距離を保って下流の方に進むことにした。
 うっそうとした林の中だ。なにか目標となるものがないと方向を見失ってしまう。どこか見覚えのある場所にぶつかることを期待しよう。



 幸いにも秀雄くんは小銃を持っている。だから彼には警戒をお願いし、ナイフを持った俺が先に道を作る。……正直にいえばかなり体力を消耗しているようで、ふらついている彼に先頭を行かせるのはこくというものだ。

 俺たちの行く手を阻むような緑の壁。そのなかでも獣道を見定め、邪魔な草木を切り払う。部隊の行軍ではないから、川さえ見失わなければ自由にルートを決定できる。その点は楽だな。

「夏樹さん。山歩き慣れてますね」
「まあな。これでも春香と一緒によく狩りをしていたから」
「そういえば、あの飢饉ききんの時も山で鹿を仕留めてましたか……」
「よく覚えているな」
「ははは。こうして部隊と離れると、どうしても昔のことを思い出しちゃって」
「……それもそうか」

 しかし、すぐに口数が減っていく。後ろからはついてきているが、周りを警戒しているわけでもなく、体力が無くてついてくるのが精一杯という様子だ。

 どうやら雨はそこまで強くないらしく、葉っぱに囲まれている俺たちのところまでは降っては来ない。
 何度目かの休憩をとったところで、次第に周りが暗くなってきたことに気がつき、いったん夕飯がてら長めの休憩にした。
 途中で見つけたジャングル野菜で、後でスープでも作ろう。

 例の自動車の中にあった背嚢に、幸いに携帯天幕があったので、それを使わせてもらう。
 枝で天幕を吊り、下に敷物を敷いて準備ができたところで、秀雄くんは、ちょっと……と言って、茂みの中に入っていった。

 ずっとフラフラしているようだったし、一瞬、マラリヤかとも思ったが、確認してみると幸いに熱は無いらしい。もし腹を下しているのだとしたら思い当たるのはアメーバ赤痢だ。

 ……早めに部隊に追及。それも野戦病院か衛生兵のところへ行かないとマズそうだ。
 とはいえ、今はどうにもできない。俺も休憩させてもらおう。

 投げ出した足の先。道の端っこでは、山ヒルが尺取しゃくとり虫のようにその体を伸ばし、俺の足に取りこうとしていた。
 ナイフの端っこで引っかけて遠くに投げ飛ばしたが、俺に取り憑いたところで血は吸えないだろうに。

 夕飯代わりに雨水を集めて、そこにジャングル野菜を入れて、水の煮沸しゃふつ消毒も兼ねてスープを作る。残念ながら塩はない。けれども、重湯がわりにはなるだろう。これで少しでも腹がくちくなればいいんだが……。

 ついでに燃やすのに使った木片の燃え残りを手渡す。何も訊かずに受け取ったところを見ると、炭がくだはらに効くということを知っていたようだ。

「すいません。作ってもらっちゃって」
「いいって。サバイバルは俺の方が慣れているみたいだからな」
「すいません」
 頭を下げる彼の飯ごうにスープを入れてやった。
「まあ、ジャングル野菜しかないが、我慢してくれ。……どこかにマンゴーでもあればいいんだがなぁ」
「はは……、そうですね」


 ――静かだ。
 時折こぼれてくる雨水。地面を流れる水。どこもかしこも水の流れる音しか聞こえてこない。かといって空から見えては困るので、明かり代わりの火を起こすわけにもいかない。

 ふと秀雄くんが小さい声で歌をうたい出した。

 ――夕焼け小焼けの 赤とんぼ
   負われて見たのは いつの日か

   山の畑の 桑の実を
   小籠こかごんだは まぼろしか

 きっと松守村を思い出しているんだろう。
 彼の心には、今どんな風景が映し出されているのだろうか。

「俺と香織は小さい時から兄妹同然に育ったんです」
 ぽつりと語り出した秀雄くんの話を聞く。

「まあ、ちっちゃい頃は生意気な女の子でしてね。でも、あの飢饉ききんで、身売りになるって聞いて、すごい心配したんです」
 そう言って俺を見る。
「今だから言いますが、それも東京だっていうんで、いくら清玄寺の仲介とはいえ、もう会えないんじゃないかって思いましたよ」

 はははと苦笑いをするしかないが、その俺の表情を見て秀雄くんも笑っていた。
「まあ、実際は、村で暮らす以上に良くしてもらっていたようですが」

 そりゃあね。

「久しぶりに村に帰ってきて、ちんまい子供だったのに、すっかり女らしくなってて。……正直、年下のはずが同い年。いや年上のように見える時もありましたね」

 きっと香織ちゃんは、清玄寺や俺たちの畑で働きながらも、お休みの度に実家に戻っていたんだろう。その時に、秀雄くんと会っていたにちがいない。
 恋愛相談を受けていた春香なら知っているだろうけど、きっとそうやって仲を深めていったんだろう。

「春香さんにもお世話になって、香織から発破をかけられましてね。私と結婚したいなら早く覚悟を決めろって言われて」
 その時のことを思い出しているんだろう。目を細めて、口元に笑みが浮かんでいる。

「そうだ。前にもらったタバコがまだ残ってるんです。――1本どうです?」
「そうだな。……もらおうか」
「元々は夏樹さんのですがね」

 彼の差し出した箱から1本とると、彼も1本指にはさんだ。
 何度もマッチを擦る秀雄くんだが、すっかりしけててなかなかつかないようだ。マッチを取り上げて、ひそかに神力を利用して点けてやる。
 先に彼のタバコに火を点けてから、くわえたタバコの先端に火を点けた。ふうっと息を吐くと、タバコの先端がさあっと赤くなり、細く煙が出た。

 すうっと吸い込み肺に煙を送り込むが、相変わらずどこが旨いのかよくわからない。
 けれど、こうして秀雄くんと並んで吸っている。この雰囲気がいい。


 それから夜になったので、休憩を切り上げて再び獣道を歩き続けた。

 夜の森を、たった2人で進んでいる。だけど、今は不気味な気配もなければ、危険も感じない。何かに見守られているような、そんな温かさを感じていた。もしかしたら、秀雄くんが一緒にいるせいかもしれない。

 さて夜半を過ぎたところで、とうとう秀雄くんに限界が来たようなので、朝まで仮眠をとることにして、再び天幕を張った。

 本当は交代で見張りをしようと言っていたが、秀雄くんはあっという間に眠り込んでしまった。
 ……だが、それでいい。少しでも休んで体力を回復してくれ。俺は睡眠不要だから平気だしな。

 夜の暗がりのなかで、じいっと俺は座り込んで物思いにふける。
 谷底に落ちた時はあせったけれど、こうして彼と合流できたのならば、かえって良かった。あのままだと秀雄くんは1人で死んでいた可能性もある。

 体力があっても、1人きりは心細くさせる。心細さは、そして体力のない時の辛さは、たやすく心を絶望に染める。
 そうなってしまえば、諦めて手榴弾で自決してしまうこともあるだろう。人は1人では生きていけないんだ。ましてやここは戦場だから尚のこと……。

 その時、ふと何かの気配を感じて、さっと左を見ると、獣道の奥に1頭の虎がたたずんでいた。そうか。この獣道は虎の通り道だったのか。
 グルルルと息遣いきづかいが聞こえてくる。獰猛どうもうな目で俺たちを見ていた。

 言葉に神力を乗せて「去れ」と言おうとした時、その虎の傍らに透き通った少年と少女の姿が現れた。
 思わず身構えたが、もしかしてこの子らはチン族の信仰するナッツか?
 2人は無言で微笑みながら俺の前にやって来て、すっと闇の中の一方向を指さした。

『――あっちへ行けってことか?』
 チン族の言葉でそう尋ねると、コクンとうなずいている。
『そうか。日本軍が向こうにいるのかな。……ありがとう』

 礼をいうと、2人の精霊はうれしそうに手を振りながら、すうっと姿を消していった。
 虎はどうなったかと思って振り向くと、すでに姿を消していた。ぽつんと、2つのマンゴーを残して。

03転の章 わが夫(つま)が戦いいますは彼方(あなた)かと 南の空を見つめたたずむ

「ううっ。くそ。また下痢が……」
「おい。増田、大丈夫か」
「ああ、わかってる。炭だろ、炭を食えば」

 撤退てったいに次ぐ撤退で、俺たちは今ティデムを通り過ぎたあたりにいた。

 しかし、ここからはアラカンの山中を、それもケネディーピークの標高3000メートル級の山々を横断していかなければならない。
 それも、街道沿いは敵偵察機赤とんぼが飛んでいるため、日夜問わずに密林の中を移動するほかなかった。

 体力が無くなった者は、40メートル歩いてはへたり込んで休む。また40メートル歩いては休むといった具合に、次第に遅れがちになり、部隊から脱落し、ここに来て増田も遅れてしまっている。
 同じようについて行けなくなった奴らと一緒に、今は10名ほどの集団になっていた。

 竹を杖にして、ボロボロになりながら豪雨のジャングルを歩く。足元では水が川のように流れ、その下では底の無い泥が俺たちの足を飲みこもうとしている。足を上げるのにも苦労をするほどだった。

 大きな木の下で、ちょうどよく水を避けられそうな場所を見つけた。それを幸いと、俺たちの一団は、ここで夜まで休憩をすることにした。
 さっそく増田は近くの茂みの中へと入っていく。あいつも体力が無くなったようで、塩分不足でボウッとしているし、ヒューヒューと笛のような呼吸をするようになっていた。

 肩を貸そうと言うんだが、歩けるうちは自分で歩くという。そうか、としか返事ができなかったが、たとえ歩けなくなっても背負ってやろうと思っている。

 ビルマの雨季は7月、8月がピークだが、それを過ぎた9月になっても、まだ雨は変わることなく降り続けている。
 俺たちが雨宿りしはじめたのを合図にしたように、途端に雨が強くなっていた。まるでしゃを張ったように周りがけむってしまって見えなくなった。
 いつ英印軍が追いついてくるのかわからないが、今のところはまだ戦闘機だけが脅威だ。これも追撃を阻止そしし続けてくれている部隊のおかげだが、フォートホワイト、いやその先のシインやカレミョウ、さらにチンドウィン川を渡るまでは安心ができない。
 確実に日本の勢力圏だといえる場所に辿たどりつかないといけないが、まだまだ遥か先だった。

 夕方になり出発となった。ところが一人の兵士が立ち上がってこない。
「もう駄目だ。ついて行けない。……置いていってくれ」

 そいつの戦友らしき歩兵が、
「馬鹿野郎。しっかりしろ。さあ、行くぞ」
と手を引っ張り上げる。

 けれど、座り込んだ兵士は、
「すまん。許してくれ。放って、先に行ってくれ。――頼む」
「元気を出せ。すぐに英印軍が来るぞ。なあ」
 懸命に励ます歩兵に、
「どうにも、もう体が動かないんだ」
「もうあとひと踏ん張りだ。さあ、立て。立つんだっ」

 声を荒げた歩兵の肩が震えている。見上げる兵士の目にも涙が光っていた。
 周りのみんなも「一緒に行こう」と声をかけるも、そいつは黙って首を横に振っている。

 汗にまみれ、泥にまみれ、黒くあごから無精ひげを生やし、やせ細って落ちくぼんだ目。若い兵士たちのやり取りを見ていると、俺の目にも涙がにじんできた。

「――元気になったら、後から行くよ」

 しばらく見つめ合った2人。歩兵は、
「じゃあ、仕方ない。……必ず後から来るんだぞ。いいな」
「ああ。お前こそ、気をつけて行けよ」

 歩兵は俺たちの方を振り向いて、無言で先に歩いて行く。俺たちはあわてて「後からちゃんと来いよ」と声をかけて、先に行った歩兵の後について行った。

 誰もが今生の別れだとわかっていた。

 しばらくして後ろから手榴弾しゅりゅうだんの音が聞こえた時、先頭の歩兵は一度だけ「くそっ」と言葉を漏らした。


 そうして密林の中を進んでいると、突然の爆音が響いた。
 と同時に、木々の枝をはじき飛ばしながら銃撃が一直線になって飛んでくる。
「逃げろ!」

 三々五々に散って密林の中に逃げ込む。
 ――スピッドファイアだ。

 ガガガガッと機関銃が執拗しつように鳴り続け、2度も3度と上空を旋回しては、銃撃が地面を走る。
 幸いに一機だけのようだ。……あきらめて行ってくれないだろうか。

 背中を大木に預けてその枝の下に隠れながら、ただ居なくなるのを待つ。やがてすうっと機首をめぐらして最後に一度旋回をしてから、どこかへ飛んでいった。

 爆音が遠く去り、それからしばらく経ってから、散っていった兵士たちが集まってきた。泥だらけで誰の顔にも疲労が濃い。
 しかしそれでも歩き続けないと、待っているのは死だ。

「行こう」
 俺はみんなに声をかけて、今度は先頭になって前を進む。
「ちょっと待ってくれ。――1人足りない」
 振り返って数えてみると確かにいない。

 再びバラバラになって、小さな声で呼びかけた。「お~い。行くぞ」「片山どこだ。行くぞ」
 名前を呼んでいるのは同じ部隊だった戦友だろう。

 20分ほど探したが見つからない。
 再び集まった俺たちだったが、誰もがあきらめていた。「……片山」と肩を落としているのは、名前を呼んでいた奴か。
「すまん。このままだと敵が来る。行こう」
 そいつがそう言う。もしかしたらその片山は、もうついて行けなくて隠れて出てこないのかもしれない。
「しかし……」
と言い渋る俺だったが、少し離れた灌木かんぼくの方から爆発音が聞こえた。――自決したんだ。

 一斉にその灌木の方を見る俺たち、やがて彼の戦友と思われるその兵士が重ねて「行こう」と告げた。

 1人減り、そして2人目が減った。
 それでも俺たちはアラカンの山中を歩き続けた。やがて夜になり、少しでも平坦へいたんな道を行こうと話し合い、インパール道に出ることにした。

 泥濘ぬかるみでぼこぼこになっている道。やはり道ばたで倒れている兵士がいた。うじが湧いていて、体内のガスのせいか体がふくらんでいる。
 その死体をちらりと横目で見るだけで、俺たちは進んだ。もはや死体を見ても、何も感じなくなってきている。感覚がにぶってきていた。

 もう元気の残っているのは俺だけ。だから道を確認しながら先頭を歩くのは俺の役目になっていた。
 雨はうんざりするほど降っている。ヌチャヌチャと、さながら幽鬼のようにみんなが俺の後をついてきている。
 道の反対側は、かつて牛たちが落ちていった奈落の崖が口を開けている。しかし、今はそこが苦痛から逃れる非常口のようにも見えた。

 連日、昼も夜もなく歩いているせいか、みんな朦朧もうろうとしている。幾度いくど目かの休憩で、朝が近くなったので再び密林に入ろうとした時だった。

 にわかに地面が揺れたと思ったら、すぐ隣の山肌が滑った。土砂が降り注ぎ、足を取られた俺は、巻き込まれて衝撃とともに落ちていった。ものすごい圧力が、俺の体をひねりつぶそうとする。
「あ」と口を開けた増田の姿が遠くなっていく。ドウッと頭に衝撃しょうげきが走って、――俺は意識を失った。

03転の章 わが夫(つま)が戦いいますは彼方(あなた)かと 南の空を見つめたたずむ

 撤退作戦がはじまってから、およそ1ヶ月半が経った。
 笹原大隊は、師団の、そして第15軍の撤退を支えるため、見事な遅滞ちたい戦闘を繰り広げ、敵英印軍の追撃を阻止そししつづけている。

 その間、俺たち輜重兵しちょうへい33連隊は、彼らへのなけなしの弾丸補給と、戦傷者の後方輸送、川の渡河とか補助にと駆けずり回っていた。

 しかし、すでに指揮網も崩壊しつつあり、全体がどうなっているか、師団が、連隊がどうなっているかよくわからなくなりつつある。

 ここはトンザンの後方にある野戦病院。
 9月15日からトンザン北方にまで進出してきた敵と、トンザンの笹原大隊が決死の防衛戦を行いつづけ、既に4日が経っていた。

 一刻も早くここの傷病者を後方に下げなければならないが、車両は1台もなく、「歩け」とただ送り出すだけしかできず、遅々として進まない。

 北方に見えるトンザンの上空では、20数機の戦闘機や爆撃機が旋回しており、陣地では砲撃や爆撃で幾度も土が舞い上がっている。
 もはや防衛戦といえる状態じゃない。ただ攻撃に耐え続けているようにしか見えない。
 眼前で蹂躙じゅうりんを受ける陣地を見ていると、悔しくてたまらない。しかし、もちこたえてくれと祈っているひますら残されていないのだ。

「急げ!」
「がんばれ。立てるか!」

 戦友たちが駆けつけて、肩を貸して行ってくれる奴はまだいい。すでに生き残ることを諦めている奴もいて、特にマラリアで高熱を発している奴など、近くの茂みに自ら入っていき手榴弾しゅりゅうだんで自決をした者もいる。

「笹原大隊、撤退てったい! 次はここに来るぞ。急げ!」
 無線を受けたのか、天幕の外で誰かが叫んだ。

 野戦病院がさらに騒がしくなる。この病院のやや北方に松林があって、そこに山砲兵が陣を張っていた。だが、敵軍がここに来るのも時間の問題だろう。

 くそっ。
 心の中で悪態をつきながら、天幕内を見る。まだ避難が住んでいない者が40名ほどもいる。

 すぐ手前にいる、両足を怪我している若い兵士が、なさけない表情で俺を見上げていた。
 見捨てるのかと問いかけているような視線。

 俺がこいつを連れて下がったら……。他の奴らは連れて行けないだろう。
 しかし、もうタイムリミットだ。全員を助けることは……、もう無理だ……。

 その時、奥の方から一際ひときわ大きなうめき声が聞こえた。どうにか立ち上がった兵士が、杖を両手で突きながらやってくる。

「おいっ。少しでも動ける奴はついてこいっ。――――最後の戦いに行こう」

 その声に誘われたように、横たわっていた兵士たちが、やはりうめき声を上げながら体をどうにか起こしていく。
 中には泣きそうな表情の奴も、寂しそうに笑っている奴もいる。

 どうする? いや、俺も――、戦うか。それともこいつを連れて下がるか。

 みんなに声を掛けた兵士がゆっくりとやって来て、俺を見た。
「お前はそいつを連れて下がれ。俺たちが戦っている間に。さあ、行けっ」

 俺も戦う、とは言えなかった。後につづく兵士も、
「お前は輜重しちょうだろう。早く行け。戦うのは俺たちの役目だ」

 次々にそう言って、満身創痍まんしんそういの姿のままに外に出て行く奴ら。残された天幕には、もう動けずに横たわったままで涙を流している者がいた。そいつらが俺を見て、「早く、行けぇ」と怒鳴どなった。その手には手榴弾が握られている。

「すまん! ――さあ、乗れ」
と謝って、すぐに傍の奴に背中を向けてしゃがんだ。そいつも「すまん。みんな。すまん……」と言いながら俺の背中につかまる。

「しっかりつかまっていろよ」
 そう言って立ち上がり、俺は振り返ることができずにそのまま天幕を出た。

 北に構築した陣地に向かって、よろよろの一団が進んでいく。最後にその勇姿を見て、俺は南の、ティデムに向かって足を速めた。

「くそっ。みんな。……すまん」
 無意識のうちにつぶやきがれつづけていた。だが、立ちとどまることはできなかった。
 背中に負ぶったこいつの重みが、俺を前へ前へと進ませる。一刻も早く、ティデムに。みんなの戦いを無駄にしてはいけない。

 後ろ髪を引かれる。心残り。悔しい。そんな言葉で、この気持ちは表現できない。
 ただ申しわけない。後ろに残して行かざるをえない皆に、ただただ申しわけない。

 頭上に戦闘機が飛び始めた。あわててインパール道から脇の林に入るが、彼らの狙いは俺たちではなく、退却する笹原連隊や先ほどの野戦病院のようだった。

 今のうちだ。すぐに道に出て足を速める。背中から機銃掃射そうしゃの音が聞こえだした。ヒューンと言う音、そして、急降下したり旋回しているブウーンという音が、近づいて来ている。

 爆撃の音が近くなった。ちらりと背後を見ると、野戦病院の辺りをめがけて、次々に爆撃機が急降下していた。

「ちくしょう。ちくしょう!」
 悔しさと情けなさで、涙がにじんでくる。それでも俺は足を動かし続けた――。

 雨が降る。道はぬかるんでいる。足が滑り膝をつくが、それでも立ち上がり、ひたすら歩き続けた。

03転の章 わが夫(つま)が戦いいますは彼方(あなた)かと 南の空を見つめたたずむ

 6月18日、待望の援軍として、京都はやす第53師団の151連隊300名が到着した。

 心強い援軍に、下がっていた俺たちの士気も、これでまだ戦えると上がりはじめていた。

 あいかわらず牟田口司令官は、なんとしてもインパールを攻略するとの妄執を持っているようで、作間連隊にコヒマを遮断しゃだんせよと師団命令が下った。

 コヒマは、烈師団が攻略したはいいものの、敵の増援部隊と飢餓きがによって撤退していったところだ。
 対する作間連隊はインパール手前の山中にある。どうやってコヒマへ行けというのだろうか?

 そんな命令を出せるとは、もはや正常な神経ではない。そんな気がする。
 もっとも第一線も第15軍方面軍も、誰一人として冷静に物事を判断できなくなっているのかもしれないが……。


 今日6月27日の朝、安師団は師団命令に従って、シルチャール道にある林高地陣地への攻撃を開始した。

 ――林高地の陣地。
 それは、俺たち弓師団が何度も突撃しながら遂に落とせなかった陣地だ。

 誰もが諦めまじりでもなお、安師団の成功を祈りつづけている。やがてここまで聞こえていた突撃の声と銃撃じゅうげき音が急に静かになった。今では、耳を澄ませば散発的な音が聞こえてくるくらいだ。

 本部から興奮した通信士の声が聞こえてくる。
「橋本連隊。突撃成功! 林高地を占領」

 その声が聞こえてきた俺たち外の兵士も、たちまちに歓声を上げた。

 アメーバ赤痢せきりから復帰した増田も、うれしそうに、
「流石は新着の部隊だ! 俺たちが散々苦労していたのに。……すげぇ!」
とすっかり伸びてしまったひげ面をほころばせている。
 小躍こおどりしそうになってふらついていたが、それも無理はない。ほとんど食べられていないから。

 輸送するトラックもなく、アラカンの山々を徒歩で越えてきた彼ら安師団だったが、わずか30分で、あの苦汁くじゅうをなめ続けた陣地を攻略したとは!
 確かにすごい。

 幾度いくども突撃して死んでしまった仲間たちには悪いけれど、こうして無事に占領できたことを彼らも喜んでくれるんじゃないだろうか。

 久しぶりに明るい気持ちで、俺は命令のあったとおりに、他のみんなと一緒に徴発ちょうはつに向かうことにした。

 ――その時だ。

 突然の爆音が空気を揺るがした。
「なんだ――」
と振り返ったのと同時に、次々に空気が震える。地面が揺れた。林高地陣地の方向から、まるで火山の爆発のように噴煙ふんえんが空高くまでのびていた。

 あれは一体? 何が起きている?

 一瞬そう思ったものの、砲撃音が鳴りつづき、占領したばかりの林高地が攻撃を受けていることがわかった。
 花火の連発どころじゃない。いつまでも続く砲撃音に耳がおかしくなる。誰もが陣地の方を唖然あぜんとした表情で見つめていた。

 あ、あ。なんてことだ。

 雷が落ち続けるような、イグアスの大瀑布ばくふの下に行った時のような、俺たちをあっするようなすさまじい音。それが一体どれくらいの時間続いているのだろう。
 立ち上った土煙の中から新たな土砂が巻き上がり、黒々とした煙が空に広がっていく。辺りが暗くなり、時たま空から細かな砂が降ってきた。

 どれくらい経ったのだろうか。ようやく砲撃が止まり、動けないでいる俺たちの前で、少しずつ噴煙ふんえんがおさまっていく。

 やがて見えてきた林高地には、そこにいたはずの安・橋本連隊300名とともに文字通り消滅していた。
 肉片も何もない。地形が変わっている。どこを探そうにも人がいた痕跡こんせきなどあるはずもない。

 こんなことがあっていいものか!

 胸の奥から理不尽な攻撃に対する怒りが湧いてくる。死体も残っていない。今までも戦争に直面したけれど、ここまでひどくはなかったぞ。部隊ごと消滅だと……。

 ――くそっ。

 やり場のない怒りを拳に込めて、俺は近くの木を殴りつけた。叩きつけた拳がじんじんと痛む。

 気がつくと雨が降り出していた。すぐに怒濤どとうのスコールとなり、空から降る雨が激しく大地を撃ちはじめた。
 前も見えないような激しい雨に、全身を打たれながらも俺は空を向く。冷たい雨が軍衣をらし、そのまま下着にまで染み渡っていく。
 顔の表面をくすぐり落ちるように流れていく水。濡れるままでいるうちに、いつしか怒りに満たされていた俺の心は鎮まっていく。

 やるせない。けれど、なげいても歎いても俺には止める手段は無い。――これが戦争なんだ。


 8日後の7月7日。俺は師団本部のあるモロウの夜間歩哨ほしょうに立っていた。
 前の日に降っていた雨は、朝方に一度止み、山裾やますそから深い霧がさあっと陣地をおおい隠していた。
 すっかり霧が立ちこめて薄暗くなった陣地だったが、朝日が昇ったのだろうか、さあっと明るくなり、やがてすうっと晴れていった。

 俺たち輜重兵しちょうへい33連隊第2中隊は、師団本部の警備を命じられていた。
 すでに後方輜重の俺たちも、ある奴はマラリアで、ある奴は行動中に爆撃の巻き添えを食って、またある奴は徴発ちょうはつに行った村で敵英印軍の銃撃を受けて、それぞれ戦死したり後方の野戦病院に送られていった。

 食べるものもとうとう無くなり、ここ数日は米の融けた水のようなスープを一杯飲んだきりだった。
 一緒に歩哨ほしょうに立っていた増田は、最初から立っていることもできずに横になっている。

 伝え聞くところによると、作間連隊では、連隊長自身がえと高熱のために意識がもうろうとし、夢遊病者のように立ち上がると、
「おおい! みんなでラングーンに旨いものを食べにいこう」
と呼びかけたらしい。

 糧食りょうしょくが尽きようとしている。弾薬も……。

 まだ頭上には雲がおおっているが、遥か東、インパール平原を越えた向こうの山脈の稜線りょうせんのさらに向こうに、輝く太陽の姿が見えた。
 ゆっくりと昇っていく太陽は、しかし、すぐに雲に隠れてしまった。一瞬の輝きだけを残して、いつものように薄暗くどんよりした世界になった。


 そしてこの日、師団は運命の日を迎えた。

 ――現戦線をてっして、トンザン、ヤザギョウの線に後退すべし。

 後に知ったことだが、この日は奇しくも東条内閣が総辞職した日だった。


 すでに弓師団で戦闘可能な兵員は、笹原連隊で146名、作間連隊で224名のみ。中隊規模しかいない兵員で、撤退てったい戦を行うことになったのだ。

 このうち、まず作間連隊は第一線から撤収し、新たな第15軍からの命令を受けて出発していった。
 インパール平原の南の山際を東進し東のパレルを攻略せよと。

 しかしその2日後には、トンザンまでさがって大回りをしてパレルに迎えと命令が出された。
 ――大回りをしてパレルへ行け。
 無茶苦茶な命令だと思うけれど、そのまま後方の防衛任務に切り替えられるような気がする。

 俺の加護がまだ残っていたのか、秀雄くんは奇跡的に未だ銃撃を受けることなく無事だった。すでに南に向かって出発していっている。
 ……きっとこのまま行けば、彼は無事に香織ちゃんのところへ戻ることができるだろう。


 撤退作戦は次のようになった。

 現在、インパール平原ではログタク湖西側のニンソウコンが最前線になっている。そこで井瀬いせ戦車連隊がまだ頑張っている。

 その間に師団本部、笹原連隊の順で下がり、トルブンで笹原連隊が防衛戦をく。そこで井瀬戦車隊を撤退させ、敵の追撃をトルブンで防ぐ。

 以下、笹原連隊の第1大隊、第3大隊とで交互に防衛戦をさせ、順次、時間を稼ぎ遅滞ちたい戦闘を行いつつ撤退する。
 つまり、第1大隊が戦っている間に、その後方で第3大隊が防衛陣地を築き、次は撤退した第1大隊が第3大隊の後方に防衛陣地を構築する。次は第3大隊が、というように交互に陣地構築、防衛戦を繰り返していく手はずだ。

 作間連隊は、トンザンを越えたティデムで後方輸送と防衛任務に就いている。ティデムまで下がれば、そこには作間連隊が待っている。なんとかそこまで転進できれば……。

 こうして撤退戦の詳細を知ることができたのも、俺たちが後方の、それも本部の警備をしていたからだ。自然と、ある程度の戦況が耳に入ってきていたんだ。

 着任当初は強気の命令をしていた田中師団長だが、すぐに尋常ならざる戦況に撤退もやむなしと考えを改めたようだった。

 そうはいっても、もちろん第15軍の命令無しに撤退などできない。

 毎日、展望所に行く師団長は眼下で、井瀬隊が敵英印軍の天地からの攻撃に蹂躙じゅうりんを受けつづけている様子に、どうにもできずに悔しい思いをしていたようだ。

 その気持ちは、俺にもわかる。そして、敵の追撃を受けながらの後方転進は、やはり厳しい戦いになるだろう。


 インパール平原西側の山中を、俺たちは歩いていた。

 わずか36頭の生き残っている馬もすでに力なく、わずかな距離ですぐに腰を下ろしてしまう馬もいる。……残念ながら、そういう馬は処分せざるを得なかった。

 空には敵の戦闘機が飛んでいる。平原の方からは今日もひっきりなしに、爆撃機の投下した爆弾の炸裂した音、そして、戦車の砲弾の音、重砲の砲撃音が聞こえてくる。

 井瀬隊はまだ戦っている。師団の転進を支えるために、殿しんがりとして戦い続けているのだ。
 悔しいけれど、俺たちの行動が遅れれば、それだけ残された部隊が厳しくなる。
 早く。早く。
 一刻も早くトルブンの向こうに行かなければならない。

 隣を歩く増田も、やせ細って落ちくぼんだ目をしばたたかせながら、フラフラとしながらも歩き続けている。
 俺は、ほかの3人の輜重しちょう兵とともに担架たんかを担いでいた。その上にはすでに歩けなくなった歩兵がうめき声を上げながら横たわっている。

 担架で運んでやりたい奴は他にももっと多くいる。しかし、満足に食べていない俺たち輜重兵では、すでに担架で運ぶ力も残っていない者も多い。歩兵が担架を担いでいる場合もあるが、それは同じ班の戦友だった。

 歩いている中には、すでに軍袴も無くなりふんどしになってい者、靴がこわれて裸足はだしで歩いている者。さらに血と泥にまみれた包帯を巻いている者、杖をつきつつ必至に追いすがろうとする者たちがいる。

 しゃべる気力すらなく、誰もが無言だ。
 一歩、また一歩と進むその足ごとに、やるせなく、くやしくて、申しわけない複雑な気持ちが強くなる。

 担架の上で横になっている歩兵が泣いている。その口から「すまない、すまない……」と言葉が漏れていた。
 その目が見つめている先には、退却してきた山々があった。

 森、林、アンテナの高地、5846高地の竹のジャングルに灌木かんぼくの山、ガランジャールに三角山、ビジェンプール……。

 どこの戦いでも、俺たちは懸命に戦った。

 どれだけ弱められ、疲れ果てても、目的達成のために勇敢に突撃を繰り返し、大胆に侵入して戦った。白虎部隊の名に恥じない戦いを繰り広げたんだ。

 ああ、けれど、あの山々にはまだ戦友たちの遺体が残されている。
 多くの戦友の血が流れた。死した仲間の遺体を日本に届けてやることができない。祖国を遠く離れた、この山の中に置いていくしかないのか……。

 ――無念むねん
 たった3文字の言葉に、どれほどの感情が込められていることか。こみ上げる複雑な感情に歯を食いしばり、俺は前を向いた。

03転の章 わが夫(つま)が戦いいますは彼方(あなた)かと 南の空を見つめたたずむ

せいヲ受ケテヨリ、ここニ32年。御心配バカリヲ オケシテ 先立さきだツ不孝ヲ オ許シ下サイ。
 一、母上
 年ヲ重ネルゴトニ年老イテイキマス。今マデ通リノ働キハ デキナイデショウカラ、暑サ寒サヲいとッテ 御身おんみ オ大事ニ ナサレテ下サイ。
 一、英子
 予期セヌえんニヨリ とつイデキタオ前ニハ感謝シカナイ。短イ間デハアッタガ我ガ最愛ノ妻デアッタ事ヲ忘レナイ。今後ハ呉々くれぐれモ健康ニ留意シ、ゴ両親ニ孝養セヨ。えんアラバ他ニとつグモ可ナリ。オ前ノ幸セヲ祈ル〟

 暗い夜、目の前に小さなたき火がユラユラと揺れている。

 パチパチと木が燃える音を聞きながら、俺は町田の遺書を読み、深い深いため息をついた。
 火の中で燃えているのは、町田の親指だ。火葬するこの小さな火が、まるであいつの命の火のようにも見えた。


 俺たちが突撃した戦いで、高田隊は隊長以下43名が戦死、中村小隊は6名の戦死。生存者は俺を入れて10名ほどだった。

 翌18日朝に連隊本部に戻った時、ちょうど新師団長の田中信男少将殿が到着したところだった。
 師団長心得ではあるが、実際は師団長と同じ。その意気込みが立派な体格からあふれ出るようなエネルギッシュな人だ。
 33年間伸ばし続けているらしい立派なひげで、その顔が鍾馗しょうきに似ているから、すぐに裏でみんなが「鍾馗しょうきさん」とあだ名を付けていた。

 漏れ伝わる話だが、33マイルのトルブンの敵についてすぐに会議が始まり、弓の第3田中大隊、祭の67連隊の第1大隊瀬古隊、兵54師団から岩崎大隊、右突進・山本連隊から戦車隊がこっちに向かっていることが報告されたそうだ。

 田中新師団長は着任初戦にいきごんで、少数の敵など力攻めで殲滅せんめつしようと、部隊が到着次第に逐次投入することに決定。敵をパラシュートで降りた30人ほどと甘く見た報告があり、それを信用したらしい。
 その場にいた第15軍の木下、高橋両参謀さんぼうもこれに賛成し、実働部隊中、最上位者の松木連隊長がその指揮に、その補佐に高橋後方参謀が当たることになったという。

 問題があるだろう。なぜ階級にこだわっているんだ。

 松木連隊長は輜重兵しちょうへいだぞ。しかも42歳で商工省で自動車の開発をしていたような人だ。戦術を知らない人を指揮官にしてしまっている。
 そのまま新師団長たちは、高橋後方参謀を置いてモロウの第15軍司令部、および弓師団本部に向かった。

 俺の懸念は当たった。
 実質はほとんど高橋後方参謀が指示を出していたんだが、到着した部隊を集結させる間もなく、ただ敵陣に突撃させ、そのたびほぼ壊滅。
 大隊長たちは敵情もわからないから、斥候せっこう威力偵察いりょくていさつを提案するも却下きゃっか。わけもわからぬまま、敵の陣地の正確な位置もわからぬままに突撃させられていた。

 せっかく到着した瀬古大隊も岩崎大隊も、大隊長以下が戦死、半分以上の人員が死傷した。
 ようやく25日に英印軍が自主撤退したからいいものの。あのままでは打通だつうできなかっただろう。

 あたら若い命が散っていく。彼らが幼い頃から教わった尽忠報国じんちゅうほうこくは、果たしてこのように理不尽な突撃で死ぬことだったのだろうか……。

 もっともその戦場を見た松木連隊長は、300人以上の壮絶な戦死体に激しくショックを受けて錯乱さくらんし、拳銃や刀を隠さないといけない事態になったという。

 どこの戦場を見ても、仲間たちがどんどん死んでいくばかりだった。



 小さな火葬の火の中で、町田の指の骨が赤くなっている。
 火は平等だ。敵も味方も区別なく、すべての罪も焼き尽くして浄化し、新たな輪廻りんねへとあいつを導いていくだろう。そう信じたい。

 この凄惨せいさんな戦場で、今だけはゆったりとした時間が流れている。木の燃える音に、ただ心静かに耳を傾けている。

 視界の端っこで何かが動いた。顔を上げると、それは1匹の蛍だった。
 気がついてみると、あちこちで光っている。俺は蛍の群れのまっただ中にいた。

 暗闇にひかる蛍のかそけき光。ゆっくりと明滅しながら宙を舞う幻想的な軌跡。
 一匹の蛍が飛んできて、ひょいっと俺の手の上にとまった。

 増田と俺と一緒にバナナを食べていた町田。
 若い奥さんの写真を、嫌そうに増田に手渡していた町田。
 マラリアから復帰して痩せた町田。
 そして、死にたくない。怖いと震えていた町田。

 あいつと一緒に過ごした時間が思い浮かぶ。蛍が動き回っている俺の手に、ぽたりとしずくがこぼれた。
 そっと頬に手をやると、無意識のうちに俺は涙を流していた。

 ――絶対に生きて帰る。

 そう言っていたあいつの願いは、あっという間にはかなく散ってしまった。
 まだ結婚して一週間くらいしか過ごしていなかったろうに。若い奥さんのところには、この骨とともに戦死の通知書が届くことになるだろう。

 享年32歳。……現役兵の若者よりは長生きしたと言えるだろうか。
 すでに弓師団では戦死1310名、戦傷2502名、戦病3544名を数えるという。計7416名。しかし、実際はもっと多くの兵が戦死したと思う。すでに師団の7割以上が消耗し、壊滅状態となっている。
 それでもまだ攻撃命令は続いている……。

 手のひらの蛍がすうっと飛んでいった。美しい光の軌跡を残して。


 それを見送りながら、俺はふところから春香の手紙を取り出した。

〝今年も11月になりました〟と始まる手紙。
 何度も何度も繰り返し読んでいるこの手紙。

 書かれている内容よりも、彼女の懐かしい筆跡が愛おしい。
 指先でそっとなぞる。少しでも彼女のぬくもりを感じたい。この文字に込められた彼女の思いを、何度でも何度でも感じ取りたい。

 幸せな空気を思い起こさせてくれる手紙。一緒にいたあの幸せな日々の空気が、この手紙には確かに宿っていた。もう遥か遠くに無くしたもののように感じる、幸せな記憶……。
 深く息を吐いた。

〝春香〟と最後に書かれた2つの文字を見ると、脳裏に彼女の微笑む笑顔が蘇る。
 困ったときの顔、すねたときの顔。出征前の行かないでと言うような泣き顔も。
 こんな時だからだろうか。春香の声を聞きたい。あのぬくもりに包まれたい。

 ――会いたい。いま彼女に、心から会いたい。

 封印したはずの心が、想いがこみ上げてきて、せつなく俺の胸を締めつける。

 でも、彼女はここにいないんだ。
 その事実に、急に孤独感が俺を襲う。広い世界にたった一人でいるような心細さに、血の気が失せたように背筋が寒くなる。

 ぽうっと胸のポケットが光っているように見えた。いったい何だろう。何が……。
 中をのぞいてみると、爆弾の炎に巻き込まれたときだろうか。い付けられた糸が半ばちぎれていて、白い布にくるまれた幾本もの細い毛が見えた。
 すぐにわかった。これは春香の下の毛だ。

 あいつ……。こんなものをここに縫い込んでいたのか。
 恥ずかしそうに毛を抜いて、このポケットに仕込んでいる姿を想像すると、急におかしさがこみ上げてくる。
 やだなぁ。はずかしいよ。という心の声が聞こえてくるようだ。

 不思議とその想像のお陰か、いつの間にか孤独は感じなくなっていた。胸がぽかぽかと温かい。


 その時、空から月の光が射し込んできた。
 雲で閉ざされた空が、すうっと晴れたのだ。雲の切れ間からは、ビルマの大きな満月が輝きを放っていた。月の周りには沢山の星々がまたたいている。


 春香もあの月を見ているだろうか。遥か遠くの松守村から。今、その目には何が写っているのだろう。何をして、何を思っているだろう。
 愛してる。その想いが止めどなくあふれてきて、俺の心を満たす。また涙が出てきた。

 月よ。
 輝くその光で、遠く離れた彼女に俺のこの想いを伝えてくれ。

 そう願いながら、しばらく月を見上げるのだった。

 ――――――
 ――――
 ――

 松守村の奥に位置する清玄寺。その離れで、ふと私は夫の夏樹から呼ばれた気がした。

 縁側に出て障子を開けると、西南の空に満月が輝いている。煌々こうこうと明るいその光が、夜の世界を照らしていた。

 ……今ごろ、あなたは何をしているのかな。

 遠く離れたビルマの地。先月だったか新聞でコヒマ占領との記事はあったけれど、無事に作戦は終わったのだろうか。


 国内では、昨年、東京府東京市が廃止されて、東京都が誕生した。けれど、その誕生したばかりの東京都に、いや他の地方の大都市にも連合国軍の空襲があった。
 ここ松守村でも、区会や隣組となりぐみが総出で防火訓練が行われ、灯火管制のサイレンの違いも教わったし、防空壕を掘った家もある。着々と空襲の備えが進んでいる。

 東京都の小学生の疎開計画が進められているようで、ここ清玄寺もその候補地の1つになっているらしい。
 まだ本決まりではないが、おそらく子供たちを迎えることになると思う。


 配給も怪しくなってきていて、お米はめっきり減ってしまっていた。もちろん、肉や魚もね。
 家庭ではカボチャとサツマイモを作るようにとか、空き地を畑にしましょうと食糧増産が叫ばれている。
 ……うちの畑の未耕作地も、いまでは一面のカボチャで一杯になっているけど、収穫が大変なんだよなぁ。

 婦人雑誌では、お米や豆類までも粉にしてしまって、いかに食い延ばすかに力点を置いた料理を紹介している。
 すいとんとか、雑炊とか。干しいもの作り方もあったね。この前なんか「野草の食べ方」とか「茶がらの食べ方」まで紹介していて、遂にここまで来たかと思ったっけ。
 でも、おそらくこれからもっと厳しくなっていくはず。


 こっちも色々と大変ですよ。
 そう夏樹に教えてあげたいけど、向こうはもっと凄惨せいさんな光景を見ていると思う。

 縁側に座って、ぼうっと月を見上げていると、1匹の蛍が目の前を横切っていった。
 そうか。今年も蛍の季節が来たんだ……。

 手首に巻いたミサンガを見つめる。
 ようやく最近は、貴方のいない朝にも少し慣れたよ。でも偶に、貴方の夢を見る。

 小さい子供だった頃の思い出。小学校6年生の修学旅行の夜。お泊まり勉強会をした中学生。お父さんが胃がんで倒れ、私のそばにずっと居てくれたこと。そして、プロポーズをしてくれた病院の屋上。

 タイムリープして、ギリシャのナクソス島で過ごした日々も、周と商の戦いの最中に育てた碧霞へきかやその旦那の子牙くんのこと。

 アラビアの砂漠に日干しレンガの家。ローマのコロッセオにアレクサンドリアの街。
 幾度となく旅をしたシルクロードの星空に、十字軍の戦乱で真っ赤に燃える町。
 ルネッサンスのフィレンチェの人々。芸術を愛しながらも臭かった街。生と死が隣り合わせだったヨーロッパ。

 船に乗って大西洋を航海し、インカ帝国にも行った。ヨーロッパに戻ってきたら魔女狩りの暗黒時代だったけど。
 元禄の日本での生活は楽しかった。あれから太平洋を渡ったんだよね。インディオの集落を渡り歩いて東海岸にたどり着いたら、また戦争をしていたけど。
 革命だの戦争だの続いた時代に、嫌気をさしてアフリカ探険にも行ったりして。イギリスに戻ってきたら、また事件が待っていた。

 長い長い旅。多くの人々と出会い、別れを繰り返してきたけれど。横にはいつも貴方がいた。その思い出が脈絡みゃくらくもなく夢に出てくる。

 もともと幼馴染みだった私たち。貴方のいない日々なんて想像もつかなかった。

 ああ……。貴方は今、どこで何をしているのだろう。
 いつ、私のところに戻ってきてくれるのだろう。
 言葉なんていらない。ただ貴方にそばにいて欲しい。ぬくもりを、存在を、確かにそこに貴方がいる、上手くいえないけどそれを実感したい。

 いつの間にか息を詰めていたようだ。肩の力を抜いて深く深く息を吐く。

「やっぱり寂しいよね」
 ぽつんと独り言がれる。空の月を見上げる。じわりと目もとが潤んできた。
 これもきっと貴方との記憶を思い出したせいだ。――でも嫌じゃない。切なくなるけど。

 できれば、今宵こよいの夢で会えますように。
 そう私は月に願う。

 貴方は今、どこで何をしているのでしょうか。何を見て、どんなことを考えているのでしょうか。
 願わくば、空に輝く月よ。私の想いを。あの人への愛を伝えて下さい。

 そんな私をただただ、月は見守るようにぽっかりと空に浮かんでいる。優しく、わかったよとでも言うように。

――――
――
 ホーホケキョウとうぐいすが鳴いている。

 さらさらと風が頬を撫でる。太鼓の音は恵海さんが朝のお勤めをしているんだろう。

 ふと目を覚ますと、そこは私が寝起きしている離れの一室。身体を起こすと、抱き枕に描いた夏樹の顔がニッコリ笑っている。

 目覚め際に夏樹が、頑張れよって言ってくれた気がする。

「おはよう。夏樹」
 そう枕に声をかけ、私は伸びをする。部屋には障子越しの柔らかい光が満ちあふれていた。

 ……さあ、今日も一日がんばろう。あの人が帰ってきたときに、胸を張って「おかえり」と言えるように。

◇◇◇◇
 夢で春香に会った。

 桜の木の下で中学校の制服姿の春香から始まって、ずっとずっと長い旅で一緒だった数々のシーンを、幾つも再体験した。
 色んな表情を見せる春香。
 最後に出征前のあの夜の春香が。裸体に肩から浴衣を羽織り、俺に抱きついてきた。
 そして胸もとから見上げてくるんだ。「あなた――」と。

 すうっと意識が浮かび上がるのを感じながら、俺は春香の身体を抱きしめ続けた。

 もうお前を失いたくない。傍にいてくれ。離したくはないんだ――。

 けれどその願いも虚しく、どんどん薄れていく意識に、彼女は微笑みながら、
「大丈夫。――あなたならできる。あなたなら頑張れる。私が世界で一番大好きな人だもん。……待ってるから。ずっと待ってるから。だから最後まで――」

 がんばって。

 その声を聞きながら、俺は寂しげにうなずいた。――わかったと。待っていてくれ。俺はこっちで頑張るよ。だからお前もそっちで頑張れとそう伝えた。

 涙がにじんできたけれど、俺もこっちで頑張ろう。どんなに辛くても、足を踏ん張ろう。目を開いて戦争を見つめよう。
 あいつの所に戻ったときに、胸を張って「ただいま」と言えるように。

 目が覚めるともう朝が来ていた。名も知らぬ鳥が鳴いている。目の前の火はとうに消え、町田の小さな骨だけが灰の中に転がっていた。

 それを拾い上げようとして、春香人形を手に抱きしめていることに気がついた。
 いつ神力収納から取り出したのか覚えていないけれど、その人形を見ていると彼女がそこに居るような気がした。
 夢を見たこともあってか、それが何よりうれしかった。この人形がずっと俺を見てくれていて、励ましてくれている。そんな気がした。

 うん。俺はまだやれるよ。

 明るくなっていく朝の空を、俺は清々しく見あげたのだった。

03転の章 わが夫(つま)が戦いいますは彼方(あなた)かと 南の空を見つめたたずむ

※本編とは別ですので、飛ばしていただいても構いません。トルブンで戦っている頃の、弓師団最前線の様子です。

 牟田口司令官の不退の信念のもとに強行されてきたウ号インパール作戦は、このころ大きな行き詰まりを見せていた。

 インパールの北方の山中では、佐藤幸徳師団長が率いる烈師団がコヒマを占領し、日本国内でも大きく報道された。牟田口司令官がもっとも期待を寄せていた部隊だ。しかし、そのままディマプールまで進軍させようとしたところで、第15軍の上のビルマ方面軍から止められてしまった。

 しかも、その実態は占領したのはコヒマの町であって、敵のコヒマ陣地は落とせていなかった。幾つものこぶ山のそれぞれに、互いが連携し合うように英印軍が陣を構えていて、攻める日本軍の損害が増えるばかり。
 何よりも第15軍が約束していた糧秣りょうまつ・弾薬の補給は、後方を敵空挺団に遮断されたこともあって、一度も補給されなかった。

 もともと皇道派の牟田口司令官に対して、統制派の佐藤幸徳師団長は仲が悪く、しかもウ号作戦に反対していた。懸念通りの補給の問題に直面し、佐藤師団長は激怒。補給できるところまで後退するとして、宮崎支隊を残して勝手に師団を下げさせた。

 インパールの北方に出た祭師団も、蜂の巣陣形と呼ばれる強固な敵陣を打ち破ることができず、むしろ反撃されて山中を散り散りになる始末だった。やはり補給が一切されず。もう食料も弾薬も限界に来ていたのだ。

 弓33師団の右突山本連隊も、インパール平原入り口のパレルで激戦を繰り返していた。実は方面軍はこの山本支隊に期待を寄せて攻撃の重点大本命にするつもりだった。しかしどこですれ違ったものか、この重点を牟田口司令官はインパール平原西側に進出した、笹原・作間の両連隊に持っていくことにした。

 自らも第15軍の司令部とともに弓33師団の司令部があるモロウへと行ったのはその表れだった。自ら指揮を執りインパールへ進撃する。
 しかし、その野望も今、英印軍の強固な陣営によって阻まれていた。

 モローの師団の前に、森やアンテナ高地と呼ばれる複数の敵陣があり、司令部を圧迫。
 笹原連隊もビジェンプールをいまだに攻略できず、今は攻撃の矛先を、この森やアンテナの敵陣へと移していた。
 しかし、敵の砲弾と戦車攻撃に、いくら肉迫して突撃を繰り返そうと勝てるものではない。
 この頃になると、敵陣の拡声器や戦車から投降を勧める放送が流れ出した。

「勇敢な第33師団の兵隊さん。私たちはあなた方が白虎部隊という強い部隊であることを知っています。――これから懐かしい日本の音楽とニュースを贈ります。放送中は絶対に射撃しませんから、安心してお聞き下さい」

 微妙におかしなイントネーションの日本語で、こう前置きすると、『つばめ』『愛染かつら』『東京ラプソディ』など懐かしい歌が流れた。思わずしみじみとしてしまう兵士も出たという。

「これは鉄と肉の戦いです。無駄口牟田口の作戦など私たちはみんな知っています。戦争など止めてこっちに来ませんか。――それでは、これから砲撃を開始しますから、兵隊さんは壕のなかへ、将校は壕の外に残ってください」

 この放送が終わった途端に、大量の砲撃が日本軍の陣地へと降り注いだ。


 作間連隊は、森・アンテナ高地周辺の敵軍のさらに背後に回っており、牟田口司令官はこの作間連隊にインパールへの攻撃をさせるつもりでいたが、5月中頃、師団の総力を挙げてビジェンプールを前後から挟撃して奪取する総攻撃を計画した。
 南側からは笹原連隊や戦車・砲兵隊が、そして、北からは作間連隊が突撃するという計画である。

 この攻撃に間に合うように、トンザンよりさらに南の警備任務についていた田中第3大隊を呼び寄せたが、大隊長の田中は極度の臆病でちょっと歩いては小休止、雨が降ったら大休止の案配で、到着がはなはだしく遅れている有様ありさまだった。

 5月20日の夜、作間連隊第1大隊380名は、森谷新大隊長の指揮の下でビジェンプール北方を奇襲きしゅうし成功。
 ただちに壕を堀って敵の反撃に備えたものの、翌21日には敵歩兵と戦車の地上攻撃を受けて、空からは20機を越える爆撃機が順番に降下して爆弾を落としていく猛攻を受け、為す術もなく後退することになった。

 ……もう作間連隊には対戦車火器も鉄条網も残っていなかったし、南からの攻撃はそもそもビジェンプールまで届かず、単独攻撃となっていた。135名が戦死し、作戦は失敗に終わる。

 作戦通りに南からも攻めてもらわないと、このままでは突入した部隊は全滅する。
 しかし、作戦主任の山守大尉が師団本部に連絡を取ったところ、ビジェンプール南にも敵が出て、トルブンも抑えられ、準備不足、輸送不足であと1両日はかかるとのことだった。

 これを聞いた作間連隊長は激怒し、電話越しに師団の田中参謀長を怒鳴りつけた。

「師団は作間部隊を見殺しにするつもりかっ。作間の兵隊は食えなくたって突入したぞっ。――こんな馬鹿な戦があるかっ。いいか。今すぐに出せ! どんな方法でもいいから、今すぐに援軍を出せ! 作間の部隊は全滅するぞっ」

 しかし、一方で撤退はできなかった。もしも南にいる笹原や戦車隊が攻撃したときに、自分たちもビジェンプールを攻撃していないと、今度は笹原たちが無駄死にしてしまう。
 苦悩する作間連隊長だったが、ビジェンプールを死守せよとの師団命令には変更は無い。
 ……ならば再び部隊を突入させねばならない。

 行くなら第1大隊だが、すでに大隊長、中隊長、小隊長の全員が戦死しているようだ。残存兵力をまとめ上げ新たに指揮をする者が必要だ。

 連隊長の前には、河合連隊副官、作戦主任の山守大尉、情報将校の長中尉の3人がいる。誰もが死地に赴くことを覚悟していた。

 苦悩の末に長中尉に下達しようとしたとき、山守大尉が進み出て、
「連隊長。自分をやって下さい。自分の第1中隊はビジェンプールに突入して全滅しました。自分の中隊です。どうかこの山守を、行かせて下さい」
と申し出た。
 作間連隊長は胸にこみ上げてくるものを、ぐっと堪え、静かに「そうか。山守、行ってくれるか」と言った。

 長中尉は胸に一枚の写真を持っていた。
 足利出身の中尉には、思いを寄せてくれる女性がいた。そして、中尉もその女性に思いを寄せていたのだ。しかし、自分が行くのは死地である。「結婚して下さい」と強く訴えるその女性に「自分よりもっと貴女にふさわしい人がいるから」と固辞していた。
 けれどその瞬間、中尉にとってその女性は心の妻となった。ひそかにその写真を持っている。中尉はそういう人だった。すでに決死の覚悟はできていたのだ。

 山守大尉が「自分を」と進言したのは、長中尉は連隊に必要だと思ったのではないか。または、自分ならビジェンプールの司令部をやれるとの思いがあったのではないだろうか。

 これから100%帰ることができない死地に向かう。
 死を決した山守大尉は穏やかな心境で、通信紙に、
「立派な死に所を、喜んで出発します。骨は一片も残りません。後に禍根かこんは残してありませんからご安心下さい。なお、長年、当番兵として尽くしてくれた益子平八郎兵長宅に百円送金を依頼してあります。――死を決して安らかなり」
と書き残した。


 第1大隊の本部があるブンデの部落では、先のビジェンプールから撤退てったいしてきた兵士が三々五々に逃げ延びてきていた。山守大尉は、再度のビジェンプール攻撃を伝え、部隊の編成に努めていた。
 けれどもどの兵士も満身創痍まんしんそういで、戦意も低い。ノロノロと集まる様は敗残兵のそれであった。
 かろうじて集まったのは第4中隊、佐藤政春准尉を長とする12名の兵。さらに第3中隊、各中隊のわずかばかりの兵。合計35名ほどだった。

 軍刀をスラッと抜いた山守大尉は、
「これからビジェンプールの司令部に突入して陣地を死守する! 貴様らの命は俺がもらう。命の惜しい者は即刻申し出よ! 出発に当たって処断する!
 ――白虎部隊の名誉にかけて、陣地を死守し、他部隊の突入を待つ!」
と訓示した。

 夕闇に紛れて部落民の使う間道を進んだ一行だが、第4中隊、第3中隊は前進するものの、他の隊員は戦意を失っていて闇に紛れて一人ずつ減っていった。

 やがて平地の見える丘で休止をした時には、すでに22名ほどになっている。待てど暮らせど後続は来ない。
 これも仕方ないかと諦めた。

 山守大尉はとっておきの興亜という白い上質な煙草を取り出した。
「これが最後だ。全部分け合って吸え」
 お互いにしみじみとした感慨で吸いながら、大尉の指示を聞く。

「この丘を降りて道路に出て、竹林の奥に敵高級司令部が隠されている。……全員でそこに突入するぞ」

 誰もが黙して聞いている。最後の煙草を吸い終えるや、大尉が力強い声で詩を吟じ始めた。
 その声を聞いているうちに兵士たちは生死を超越した境地に入り、ただ「命令のままに戦うのみ」と独特の安らかな気持ちとなっていた。

 静かに丘を降りる一行。路上に敵トラックが数量あるが敵影はない。道路の左側に盛り上がった台地がある。そのままその台地に向かってのぼっていった。

 おもむろに、すっと山守大尉が停止を命じた。
歩哨ほしょうがいる。――俺が行く」
 そういうや、大尉はさっと駆け寄るや軍刀で抜き打ちに歩哨に切りつけた。

 ――次の瞬間、足元の壕より自動小銃で撃たれ銃弾が次々に大尉の体にめり込む。
 ぐっと唇をかみしめた大尉は、銃身を左手でつかみ軍刀を振り下ろし、壮絶な戦死を遂げた。


 台地だと思ったのは敵の掩蓋えんがい陣地だったのだ。鉄条網もなかったので気がつかなかったのだった。
 第4中隊の佐藤准尉が、すぐに中隊全員の手榴弾しゅりゅうだんを集めさせ、「これから俺が敵陣地に投げ込む。――お前たちはさがれっ」

 そのまま手榴弾をポケットに入れ、准尉は掩蓋えんがい陣地に駆け上った。まるで忍者のように、陣地の空気穴から次々に手榴弾を投下し、あちこちで爆発が起きる。

 突然、ポシュンッと音がするや、照明弾があかあかと輝いて強い光が一帯を照らす。露見した准尉に射撃が集中した。
 その場に倒れた佐藤准尉は、必死の形相で力を振り絞り両手の手榴弾を同時に発火させた。1個は敵陣に投げ込み。…………そして、「万歳っ」と叫んで残る1個を抱え込んで自爆。見事な最期を遂げた。

「うおおっ。とつげきぃぃ!」
 残った兵士たちは「さがれ」と命じられたにもかかわらず、弔い合戦、先にった2人に遅れてなるものかとばかりに、敵陣めがけて吶喊とっかん。たちまちに手榴弾や自動小銃が、勇壮なる20名の突撃部隊に集中した。

 爆発する土砂をかいくぐり、銃弾を体に受けて倒れ伏し、それでもまた別の者が前へ前へと突き進む。

 ――やがて、銃声が止んだとき。部隊は文字通り全滅した。


 静かになった夜に、作間連隊長の目に涙がにじんでいた。

 遂に平地方面の援護がないまま10日が過ぎ、6月28日、師団から派遣されてきた岡本参謀が撤退を進言、師団に連絡し、作間連隊は撤退することになった。

 第1大隊、第2大隊合わせて920名中、生還者はわずか54名だった。

03転の章 わが夫(つま)が戦いいますは彼方(あなた)かと 南の空を見つめたたずむ

高木俊朗『全滅』より

 暗闇の中を俺たちはトラックに乗り込んだ。
 ここは38マイル地点のチュラチャンプールの連隊本部。5月17日の夜。これから俺たちは32マイルにあるトルブンの敵に突撃する。

 状況は目まぐるしく変化している。

 俺はジトッとした夜の風に吹かれながら、最近の出来事を思い返していた。

 ――俺たちが3299高地から戻り、再びコイレンタックと前線を往復する日々が始まった。幸いに増田も回復したようだが、まだ本調子ではないので食料徴発ちょうはつ班に入っている。


 5日前の13日だったか、久しぶりに第3自動車中隊の町田が糧食輸送に来た時に再会した。
 その時に聞いたんだが、前日12日に突然、第15軍の司令部がチュラチャンプールの連隊本部に来たそうだ。当然、牟田口むたぐち司令官も一緒に。
 松木連隊長が状況報告し、軍需物資の増強を要請。ところが、突然、牟田口司令官は凄まじい剣幕で怒り出したらしい。

〝軍の補給が遅れているから前進できないとでも言うのか! それならば夜間だけでなく日中も貴様らがやれ! 貴様らがぐずぐずしてだらしないから、俺がここに来ることにしたんだ!〟

 それを聞いていた将官が憤激ふんげきして、「あんな奴の下で戦っても勝てない。俺が牟田口を殺す」といって手榴弾しゅりゅうだんを持って司令官の天幕に突撃しようとしたらしい。あわてて連隊副官の逸見中尉たちで捕まえて止めさせたという。

 ほぼ同時に、前からこのウ号インパール作戦に反対していた柳田師団長が更迭こうてつされたという。

〝は? 師団長が更迭? なぜ?〟
〝夏樹。わかっているだろ〟
〝馬鹿を言うな。師団長は天皇陛下直々の任命だろ。じゃあ、陛下が辞めさせたのか?〟
〝いや、違うだろう。牟田口司令官、方面軍、そして大本営だと思う〟
〝それこそ統帥権とうすいけんの侵犯じゃないか。おかしい。おかしすぎるぞ〟
〝声を抑えろ。落ちつけって〟

 新師団長は師団長心得という形で、田中信男少将が任命された。これは階位の面で制限があるからで、心得とはいっても実際は師団長となる。一体どんな人なんだろうか。

 牟田口司令官達は、弓師団の本部があるモロウ、コイレンタック西側の山中にある、に向かい、そこに第15軍の司令部を設置したらしい。


 状況がにわかに急を要するようになったのが昨日だ。
 インパール平原の入り口に当たる山間の狭い隘路あいろに、敵影があり、その要所トルブンを占拠されてしまったのだ。
 もともとこのトルブン隘路の防備のために、東方の山中に桜井集成しゅうせい中隊を置いていたんだが、対応しきれなかったのだろうか。さらに山砲小隊をよりトルブンに近い位置に確保させていた。

 前線と遮断されている状態。これを打破し、補給線を維持するため、松木連隊長は手元の戦力でこじ開けることを決意した。

 32マイルのトルブンに対し、
 33マイルに高田隊50名を進出、34マイルに中村見習士官の自動車小隊を待機、山砲分隊を同じく34マイルに展開。
 高田隊を持ってトルブンを攻撃、山砲分隊を協同させてこじ開ける。中村小隊は前線への補給のため、10トンの糧秣りょうまつ積載せきさいして一気に通行する計画だ。

 作戦発起は23時。たまたまチュラチェンプールにいた俺は、中村自動車小隊に臨時に入り今、町田が運転するトラックの助手席にいる。

 車列は全部で8両。俺たちは前から3台目だった。
 出発前に点検は済ませていたが、改めて99式歩兵銃の点検を暗闇の中で行う。

「そういえば夏樹は元歩兵だったんだっけ」
「ああ。……でも10年以上前だぞ」
「もうおっちゃんだもな」
「お前もな」

 緊張をほぐすために、わざといつものような会話を続けているが、町田の緊張はどんどん高まっているようだ。
 だがそれも無理はない。こうして最前線に出るのは初めてなんだから。

 暗闇の中で腕時計を確認すると、時計の針は23:30を示している。そろそろ、高田隊のいる33マイルに着くだろう。
 突撃は24:00の予定だったか。今のところ敵影は無いが油断はできない。いつもはやらないタバコだが、今この時だけは吸いたい気分だ。

 しばらくして無言になった町田を見ると、ブルブルと手が震えていた。
「おい。町田」
「だ、だってよ。お前は怖くないのか」
 暗闇だけれど、その顔は血の気が引いていた。どこか血走った目で俺をチラリと見て、また正面に向き直る。

「歩兵だったお前は平気かもしれないけど。俺は怖い。すっげえ怖い。逃げ出したいよ」
「……町田」

 こういう時、なんて言ってやればいいのだろうか。
 もどかしいが俺には何も言ってやれない。大丈夫だなんて言えるわけもない。

「そりゃあよ。俺だって軍人だ。せ、戦陣訓くらい覚えてる。だけど、まさかこんな。輜重兵なのに突撃なんて」
「おい。落ち着け」
「これが落ち着けるか!」

 息を荒げる町田。それでも運転は間違えていない。
 だけど、その頬を涙が伝っていた。

「ちくしょう。なんで俺がこんなところに。ちくしょう」
 鼻をすする音がして、また無言になる。

「町田……。じゃあ逃げるか? 俺が代わりに運転してもいいんだぞ」
 俺だってお前には死んで欲しくない。なら死ぬことのない俺が代わってやる。突撃の混乱の最中に一人くらいいなくなってもわからないだろうし。

「できるかよ。……今さらそんなことはできないさ」
 そういって寂しそうに笑った。
「あ~あ、せっかく結婚したのに、もっとベタベタしたかったな」
「おいおい。まだ死ぬって決まったわけじゃないだろう」
「まあな」

 けれど、どうも町田は自分の死を確信しているように見える。なぜだ。なぜ生きようとしない。なぜ死ぬことを確信するんだ。


「そろそろ33マイルだ。高田隊と合流するぞ」
「……ああ」
「まあ、悪かったな。変なことを言って」
「いいや別に構わない」
「はは。夏樹らしいな。お前はどんなところでも生き延びる気がするよ」
「そうかもな」
「――なあ、夏樹」
「なんだ」
「俺がもし死んだら、ここに遺書が入ってる。それを……、届けて欲しい。もし死んだらだぞ。もしもの話だ」

 笑ってはいるけれど、どこか乾いた笑いというか、寂しげだ。……町田。お前。
 でも、俺には「わかったよ」としか言えなかった。



 途中で高田隊と合流。中村隊長が何事か打合せを行っている。
 計画では、高田隊が敵を追い込み、山砲がそれを援護、開いたトルブンを俺たちは通過するはずだったが……。

 理由は分からないが、どうも高田隊の兵士がトラックに分乗するらしい。
 敵影がないということだろうか?

 ともかく50名からなる高田隊だが1台につき7名ずつくらい乗せ、再び自動車隊は前進した。
 ここまで無灯火だったが、今、微灯の指示が出た。やはり遮断されていないからこのままモイランまで強行補給に行くつもりなのか。それならそれで安心だ。


 ――いやまてよ。空気が重い。張りつめている。
 これは戦場の空気だ。ならば、必ず敵がいる。

「おい。注意しろよ」
「ああ」

 町田にそう言って、俺も周りを見る。

 1列に道を北上しているせいで正面は、前のトラックの荷台とそこに乗っている兵士しか見えない。
 左右は山裾が広がっている。東側は、峰の上の方に人の気配がする。あれはこっちの桜井隊だろうか。それとも敵軍だろうか。

 急に前方の車が停止した。
 人が次々に下りる気配がする。
「なんだ?」
といぶかしげな町田を運転席に残し、見てくると言って助手席から出た。
 荷台に載っていた高田隊の奴らも下りてきた。一緒に前の方に行くと、正面の川を渡る橋にドラムカンが積んであって通れないらしい。

 中村見習士官殿が、
「敵の妨害工作だろう。さっさとどかして急行するぞ」
と言う。
 とはいえ、ここはもう最前線だ。みんな小銃を構えながら慎重に進んでいる。先頭が何事もなく橋もとに到着。
 周囲に散らばった1小隊が引き続き警戒をし、他のみんなでドラムカンをどかすようだ。
 俺も小銃を肩に掛け、橋に近寄った。


 ――チュンッ。

 その時、何かがドラムカンを打つ音が聞こえた。次の瞬間――。

 ドウンッと大きな音を立ててドラムカンが爆発した。中はガソリンかっ。見る見るうちに広がる爆炎が妙にスローモーションのように見える。周りの皆が次々に呑み込まれ、なお炎は膨らみつづけ、俺をも包み込んだ。
 熱気を感じると同時に時間の流れが元通りになり、凄まじい衝撃が俺の身体も意識も吹き飛ばした。


「はっ」
 気がつくと、真っ暗闇の中、重機関銃の音が響きわたっていた。
 ドウンと音がして何かが打ち上げられ、上空が閃光に包まれた。パチパチパチと音がして昼間のように俺たちが照らし出される。――曳光弾えいこうだんだ。

 どうやら気を失っていたのは一瞬だったようだ。トラックの近くまで吹き飛ばされたようだが、炎に巻き込まれたにもかかわらず、服すら焼けた様子はない。
 周囲の地面に銃弾が突き刺さる音がする。あわてて俺はトラックの影に隠れた。

 みんなはっ。他に生き残りはっ。

 必死に探すと、どうやらトラックに残留していた人たちは無事なようだ。爆発に巻き込まれた人は。前方に出ていた人は……。
 うめき声が聞こえるから、それでも生き残りはいるのだろう。

 トラックの影から慎重に顔を出して銃撃地点を探す。――正面にある橋の向こう側か。

「おいっ。夏樹っ。こっちだ」
 町田の声に顔を上げると、後ろのトラックの影に隠れるようにしていた。あいつも無事だったか。

 匍匐ほふく前進でにじり寄るように町田の所に行くと、そこには他にも生き残りが何人かいた。

 南の方から山砲の発射する音が聞こえた。どうやら味方の援護射撃がはじまったようだ。

「お前。よく無事だったな」
「こんなところで死ねるかっ」

 銃撃と閃光が激しく行きっている。その轟音の中を中村隊長殿の声が聞こえた。「生きている奴は前のトラックに集まれぇ!」

 その命令を聞き、匍匐ほふく前進をしながらトラックの影を伝いながら前へと行く。
 あつまったのは20人ほどだった。中村隊長殿は左の肩と脇腹を撃たれているようだった。

「今、友軍が協同して砲撃してくれている。被害は甚大だが撤退はない。――砲撃終了次第に行くぞ」
 何をだとは言わない。突撃命令に決まっているから。

 町田はうなずくと、汗まみれの顔を右手でこすった。さっきまで怖がっていたのと同じ奴とは思えないほど、穏やかな顔をしている。
 最後にポケットから写真を出して眺め、何事かをつぶやいていた。
 顔を上げた町田と目が合った。黙ってうなずく町田に俺もうなずき返した。

 集められるだけの手榴弾を集めた。
 山砲隊の砲撃を受けているというのに、まったく機関銃斉射が止む気配はない。
 このトラックから橋までおよそ8メートル。橋を渡るのに15メートル。そこから敵陣まで25メートル。
 目算だが、およそ50メートルの距離。手榴弾は何とか届くかどうかといったところか。

「放てぇ」
 隊長の号令でみんな一斉に手榴弾を投げる。放物線を描いて飛んでいく手榴弾が闇に消えた。……俺は天帝釈様の指示があるから、申しわけないが明後日の方向に投げる。
 前方の闇の中で爆発が生じ、いくらか機関銃の勢いが弱まった。
「放てぇ」
 もう一度手榴弾を放り投げ、すぐに突撃の姿勢になる。「突撃ぃぃ」

 第2射の手榴弾の着弾を確認もせずに、中村隊長を先頭に俺たちはトラックの影から飛び出した。
 前方の暗闇から機関銃の赤い火花がいくつも見える。どこに着弾しているかもわからないが、必死で走る。
 周囲で「ぐわぁ」「ばんざぁい」と叫ぶ声がする。弾かれたように後ろに倒れる音。前後ではじけ飛ぶ土砂。身体の近くを通り抜けていく弾丸の空気を着る音。
 それでも俺たちは走る。

 ガッと左肩に衝撃を感じたと思ったら、体が後ろにくずれ、そのまま橋から投げ出された。

 ボチャンと水の中に倒れ込むものの、さほど水深はないようで、俺は仰向けになって岸に背中を預ける。
 上の方から、まだ突撃していく喊声かんせい断末魔だんまつまの叫び声、万歳の声が響いて聞こえる。
 気がつくと、そばに同じく川に落ちている奴がいた。
「大丈夫か」
とうつ伏せになっている身体を仰向けにすると、それは町田だった。「町田――」

 町田は……、すでに事切れていた。

 左胸、右大腿部だいたいぶ、腹部中央、そして、左眼窩がんかに銃撃の跡。きっと即死だったろう。赤黒い血がしたたり落ちている。
 立派に戦った。見事な最後。――そんなわけがあるかっ!


 涙がこぼれる。悔しい。……だが今、悲しんでいる暇はない。

 幸いにここは川底で敵からは死角になっているようだ。けれど、先頭がひと段落したら斥候せっこうが来るはずだ。
 その前に、ここを脱出しないと。

 俺は町田の右手親指を切り軍隊手帳を抜き取ると、そのまま山裾の方に向かって川床を走った。

 くそっ。町田。すまん! お前を置いていく。許してくれ。
 ――畜生。畜生。畜生ーっ。

03転の章 わが夫(つま)が戦いいますは彼方(あなた)かと 南の空を見つめたたずむ

 今日も今日とて雨が降る。

 俺たちは遮蔽物しゃへいぶつの多い林道をやって来たけれど、雨が降り出すと林道ここだけでなく、平野部の道路もひどくぬかるみ、まるで遠浅の泥の海を走って行くような感じになる。
 あれではたとえジープであっても、一度はまり込んだら動けなくなりそうだ。

 コイレンタックを出発した俺たちの小隊は、夜間の林道を歩き続け、2日めにようやくトルブン隘路あいろ口を越えてチュラチャンプールの集積所に到着した。
 ここには俺たち輜重兵しちょうへい第33連隊の本部がある。

 ところが連隊副官の逸見中尉が教えてくれたところによると、後方輸送の状況が良くなく、ここの物資も補給量が減っているらしい。
 弾薬はまだしも、医薬品は消毒薬こそまだまだあるが、アメーバ赤痢やコレラ、マラリアの薬が残り少なくなっている。そして、食糧についても缶詰や圧搾口糧携帯用ドライフードと呼ばれる携帯食があるものの、今後の補給の見込み、さらにインパール攻略の見込みが立たないことから、支給量を絞っているとのことだ。

 そこで小隊15人をさらに半分に分け、俺を含めた8人でさらに後方の3299高地まで補給に向かうことになった。
 およそ片道100キロの道程。夜間8時間を休憩しながら行くとして、1日30キロ歩く計算で4日ほどかかるだろう。


 夕方になり、そろそろ出発しようと陣地の中を歩いていると、トラックに群がっている兵士たちが見えた。

 何だろうと思って見てみると、それは傷病者たちだ。おそらくこれから後方の病院に送られるんだろう。

 そういえばここから3299高地までは第3中隊が輸送担当になっているはずだが、町田の姿を見なかったな。
 マラリアのせいで30人いた運転手が1人になったと聞いたが、あいつもマラリアになっているんじゃないだろうか。

 キニーネやバグノン注射よりも錠剤のアテブリンが良いとか、コップ一杯の酒が効くとは聞くが、病気に無縁な俺と春香はそっちの知識はほとんどない。
 ただ耳から血まじりの体液が出るような場合、脳にまで行ってしまい異常な行動をするらしい。もちろんそうでなくても悪感おかんを伴った高熱になる辛い感染病だ。

 のほほんとした彼奴あいつの顔が思い浮かぶ。
 トンザン戦の後に、エナンジョンまで補給に戻った部隊がいると聞いたが、案外ずっと後方のラングーンの病院で、看護婦相手に鼻の下をのばしているかもしれん。
 もっとも、そんなことを考えても不安は消えないか……。


 あつまっている傷病者の中に、3299高地の戦いの時、ごうの中で一緒に戦った兵士がいることに気がついた。向こうも俺がわかったようで、
「あんたか」
と言い、右手を挙げてくれた。しかし、その腕にはひじから先が無い。

「これじぁ、もう銃は撃てない。内地に帰ることになったよ」
 その表情はあの時の苛立っていた時とは打って変わり、穏やかなものだった。
「あんたらの武運長久を祈ってる。じゃあな」
 そう言うと足を引きずりながらトラックの荷台に載っていった。

 今さらながらに集まっている兵士を見る。

 両手で杖をつきヨロヨロと足を引きづりながらやってくる兵士。
 真っ青な顔にぎょろりと目を光らせて、あごを吊るように包帯で顔をグルグル巻きになっている兵士。
 まるでギブスをめたように足が太くなっていて、血と泥で複雑な色になっている者。

 足には何も履いていないが、異様な色に足がれ上がってびっこを引いている者。
 腕をグルグル巻きにして肩から吊っている者。うつむきながら杖をつき、亀のようにゆっくりと歩いてくる者。
 えぐれた肉が頬から垂れている者。何度目かのマラリアになったのだろう、紫斑しはんの浮いている者。まともに歩けずに担架たんかで運ばれてきた者。

 血の臭い、嘔吐物おうとぶつの匂い、汗とあかの匂い、汚れきった泥と軍服の匂い。複雑な臭気が一帯に混じり合っていた。

 目を覆いたくなるような、痛ましい一団が次々に荷台に載っていく。言葉なんて出てこなかった。何を言っても上辺うわべだけの軽い言葉になってしまいそうで。

 痛みにうめき声を上げている者もいるが、多くの者はただじっと我慢している。
 むしろ死体の方がきれいかもしれない。そんな彼らを見て、痛ましいなんてそんな言葉で済ませられるか?
 できるわけがないだろう。……だが、それでも彼らは生きているんだ。

 やり場のない怒りと何ともいえない思いが胸の中で混じり合って、あまりのムカつきに吐き気を催しそうになる。
 乗り切れない兵士を整理している衛生兵らしき奴を見ながら、彼らが無事に後方の病院に行けることを祈らずにはいられなかった。



 チュラチャンプールの連隊本部を出発し、俺たちは再びアラカン山系を走るインパール道を行く。

 雨季になり道は様相を一変させていた。くるぶしからすねくらいの深さにまで道がぬかるみ、所々を小さな川ができていて山上から流れている。

 それでもマイル表示が、41/1から41/2と数が増えていき、41/7の次に42マイルに変わると、少しずつ前線から離れているんだという実感が得られる。
 国境を示すサインには弾痕の跡が残っていたが、時々、俺たちを追い越していくトラック、また逆に対面から来るトラックとすれ違いつつ、とにかくひたすら3299高地を目指した。

 どれくらい歩いただろうか。突然、工兵が待機している、関所のようなところに出た。事情を話すと、この先に爆弾坂といって道が完全に崩れている所があるから気をつけろという。
 なんでも敵の爆撃機によって道が流され、工兵で橋を架けてはまた破壊されの繰り返しになっているらしい。
 トラックの通行は不能で、この爆弾坂を境に、それぞれの区間でピストン輸送をしているらしい。

 おそらく運ばれてきた傷病者だろう。かなりの人数がたむろしている。歩けようが歩けまいが、この区間は徒歩で行くしかないのだ。

 折悪おりあしく雨足が強くなってきた。前も見えないほどの豪雨となって、たちまちに道の上に大きな川ができる。
 その途端、少し先の山肌が崩落した。ドドドドと地響きを立てて流れていく土砂。巨大な岩がごろんごろんと転がっていった。
 ……もしあそこにいたら。そう思うと恐ろしい。

 小1時間ほどだろうか。雨が止んできた。すると工兵たちが「行くぞ」と言いながら、道の補修に出発していった。

 まだ崖崩れの危険があるが、そんなことは言っていられないのだろう。
「夏樹さん、俺たちも――」
 そういう年下の言葉に仕方なく俺も腰を上げた。

「おおいっ、手伝ってくれ」
 大きな岩を崖下に落とそうとしている工兵たち、俺たちも一緒になってその岩を押す。
 何本もの丸太を差し込んで、てこの原理で転がそうとする。「行くぞっ。せーのっ」
 相撲の押し出しのように全身で岩を押し、どうにか崖下に転がすことができた。

 こんな作業がまだまだ続くのだ。
 去り際に工兵が更なる危険箇所を教えてくれた。
「あっちは地雷が埋まってる。それと敵機が時限爆弾を投下していってるから気をつけろ」

 俺はもう諦めにも似た気持ちでそれを聞いていた。泥と崖崩れ、地雷に爆弾。街道荒敵戦闘機らしはやってくるし、道路状態は最悪だ。

 こんな状態で戦争が継続できるのか? この先も戦い続けられるのか?
 もはや天長節は過ぎてしまっている。連隊本部で聞いた噂によると、ますます牟田口司令官は発狂したように怒鳴りまくっているらしい。

 攻撃の重点を俺たち弓33師団に置くとして、わざわざパレルに向かった戦車隊を550キロの距離を遠回りさせてこっちに追及させ、さらに自らこっちに向かっているとか。

 ならば、この道を見るがいい。前線の惨状を見るがいい。
 いかに無謀むぼうな作戦かを、自らの目で確認するがいい。
 傷ついた将兵を、病に倒れた仲間を。
 そして、前線で飢餓きがに耐えながら戦っている皆の姿を見るがいい。



 泥まみれになりながら、3299高地近くの川にまでやって来た。
 この川も雨季になって水量が倍に増えているようだ。

 英印軍が作っていた吊り橋が破壊されて川に半ば沈んでいる。そこにロープが架けられていて、そのロープを頼りに渡れるようになっていた。
 さらに工兵たちが作った仮設の橋もあるようだったが、今は橋脚きょうきゃくごと流されてしまっているらしい。

 こっちの川岸には、トラックに乗れなかった傷病者だろうか。それともここの警備兵だろうか、疲れ切った様子で木の下で寝そべっている者たちがいる。
 やむなく敵の吊り橋の残骸ざんがいを渡ることにした。滑りやすく危険ではあるが、一人の落伍者らくごしゃも出ずに渡りきり、ようやくの思いで3299高地に到着することができた。


 さっそく倉庫に向かうと、そこで3人の兵士が倉庫係と何かを話している。
「ですが、糧食の補給がないとキーゴンまで行けません」
「そうはいうが、通過部隊に支給する分はないんだ。……ちょうど師団の青砥あおと大尉が来ているから、相談してみてくれ」
「――はい。わかりました」

 そういって下がっていく兵士。何があったのか倉庫係に聞いてみた。
 今の3人は、後方の病院を退院して前線に追及したのだそうだ。ところが戦死者3名の遺骨を後方のキーゴンに届けるよう命令が出て、再びインパール道を下がってきて、糧食が尽きたという。
「前線では3分の1定量、4分の1定量の食事で戦っていると聞く。補給はできるだけ前線にしてやらないと」

 どこもかしこも食糧不足だ。予め懸念けねんしていたことが、現実になってしまっている。
 あの時、すぐにでもインパールには入れるさ、なんて言っていた戦友たちも、まさかここまで激戦になるとは思いもしなかっただろう。

 しかし、今さらやめることはできない。泥にまみれた戦場だろうが、行けるところまで行くしかないのだ。


 その後、糧食、医薬品、弾薬を補給した俺たちは、チン族の人々を雇って一緒に人力輸送をしてもらうことにして、3299高地を後にする。


 陣地の出口に向かって歩いていると、誰もいない陣地の片隅で一人の若い兵士が、空を見上げながら戦陣訓をえいじていた。

 ――大日本は皇国なり。万世一系の天皇かみにましまし、……戦陣の将兵、よろしく我が国体の本義を体得し、牢固不抜ろうこふばつの信念を堅持けんじし、誓って皇国守護の大任を完遂かんすいせんことをすべしっ。

 およそ戦闘は勇猛果敢ゆうもうかかん、つねに攻撃精神をもって一貫すべし。攻撃にあたりては果断・積極・機先を制し、剛毅不屈ごうきふくつ、敵を粉砕ふんさいせずんばやまざるべしっ。

 信は力なり。自ら信じ、毅然きぜんとして戦うもの常によく勝者たり。必勝の信念は千磨必死せんまひっしの訓練に生ず。すべからく寸暇すんかを惜しみ肝胆かんたんくだき、必ず敵に勝つの実力を涵養かんようすべしっ。

 戦陣深く父母の志を体して、よく尽忠じんちゅうの大義にてっし、――もって祖先の遺風いふうを顕彰せんことをすべし。

 死生を貫くものは崇高なる献身奉公ほうこうの精神なり。生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。
 身心一切の力を尽くし、従容しょうようとして悠久の大義にくることを悦びとすべし。
 ……恥を知る者は強し。つねに郷党きょうとう家門の面目を思い、いよいよ奮励ふんれいしてその期待に答うべし。
 生きて虜囚りょしゅうはずかしめを受けず、死して罪禍ざいかの汚名を残すことなかれ――――。


 風に乗って聞こえてきたその言葉は、自らの心をきつけようとするものか。決死の覚悟をしようというものか。
 まるで若い兵士の心が叫んでいるようで、その声は妙に寂しげに、むなしく俺の耳に響いた。


 ――さあ、行こう。
 みんなが待っている。増田が待っている。
 早く物資を。早く薬を持っていかなければ……。