平野部から再び山間部に入る。ミトハ川の北岸にある道路を、多くの撤退する傷病者たちとともに、俺は秀雄くんを負ぶって歩き続けた。
例年ならば雨季明けが近づいてくる季節というが、今日もまだ、空はどんよりと閉ざされている。野戦病院と同じく血と泥、そして死臭の入り交じった空気が、停滞してあたりにただよっていた。
「空襲だっ」
かすれたような誰かの声が聞こえる。すぐに俺の耳にも飛行機のエンジン音が聞こえてきた。
くそっ。こんなことをしている場合じゃないのにっ。
苛立ちながら、すぐに街道を外れて林の中に突っ込む。しゃがみこんで茂みに隠れ、一度、背中の秀雄くんをおろした。
もうすっかり元気を無くしてぐったりしている。水筒の蓋を開けて手渡してやった。
姿を現したのは爆撃機の編隊だった。空の高いところを飛んでいる。どうやら攻撃目標は俺たちじゃないようだ。もっと遠くへ行くのだろう。
亡者のように地上を這いずる俺たちに対し、空を行く銀色の機体。物量の差、戦力の差をまじまじと見せつけられる。
秀雄くんのところに戻ろうと振り返ると、少し離れたところの茂みで、俺たちと同じようにしゃがみ込んでいる兵士の姿があった。
空襲恐怖症になっているのか、その危険は無さそうだがピクリとも動かずに隠れている。
「俺たちが目標じゃないみたいだぞ」
そう声を掛けたとき、鉄帽の下の顔が見えた。……そいつすでにガイコツとなった兵士だった。
気がつくと、その脇にも5、6人の兵士が横になっている。ほぼ、全員が骨になっていた。
さらにその奥にも6人ほどの集団が。その隣にも。注意をして見れば、あちこちに同じような死者の集団がいた。
「夏樹さん。……もういいですよ。俺を、置いていって下さい」
呆然と彼らを見ていた俺だったが、秀雄くんの言葉に振り変える。飲み終わった水筒を腹の上に載せ、秀雄くんは仰向けになったままで俺を見上げている。
「お願いです。もう」
「馬鹿野郎。そんなことができるかっ」
駆けつけて叱りつける。身動きする力もないことをいいことに、そのまま腕をつかんで背中に負ぶった。
立ち上がりながら、
「お前はそのまま負ぶわれていろ。あとは俺に任せておけ」
と言うと、泣き声交じりで、
「もう迷惑をかけられません。どうか。置いていって」
「バーカ。何にも食っていない君なんか軽いもんだ。こんなのなんてこと無いぞ」
本当に軽い。だが同時に、とても重い。この手に感じるのは、秀雄くんの命の重みでもある。
手に震えが伝わってくる。秀雄くんは俺の背中で泣いていた。
〝そうだ。もう少しでカレワだぞ〟
〝俺たちのようにはなるな〟
不意に見知らぬ声が聞こえた。
周りを見渡すが、人影は見当たらない。
〝街道荒らしが来る。このまま林を東に行け〟
そうか。この声は――、ここで死んだみんなの声か。
目に神力をまとわせると、あちこちの草むらから、立ち上がってこっちを見ている将兵の半透明の姿が見えた。
〝あの山を越えればカレワだ〟
〝俺たちの分もがんばれ〟
〝さあ行け。諦めるな〟
「あ、ああ」
戸惑いながらも、その声のままに俺は林を東に行く。死んでしまった戦友たちの間を縫うように。
次々に掛けられる声。俺の胸に熱いものがこみ上げてくる。いつの間にか涙が流れていた。
「ほら。秀雄くん。みんなが励ましてくれているぞ。がんばれ。諦めるな。もうすぐだって」
――みんな。ありがとう。……俺は諦めない。だから安心して輪廻の流れに行ってくれ。
そう心の中で願う。もう安らかに、次の生に向かってくれ。あれだけ苦しんだんだ。戦ったんだ。もういいじゃないか。
〝そういうわけにはいかないさ〟
俺の心の中の声が聞こえたのだろうか。誰かがそう言った。
〝お前たちみたいに、まだ誰か来るかもしれない〟
〝最後の1人がここを通り過ぎるまで、俺たちはここにいるよ〟
〝迷う奴がいるかもしれない。寂しがる奴もいるかもしれないからな〟
〝なに俺たちも大丈夫だ。ここにはみんないるんだから〟
――ばか、野郎。…………だが、そうか。寂しくはないか。みんないるもんな。
「俺はまたここに戻ってくる。全員が撤退したって。必ず、みんなに言いに来る」
いつか必ず。戦争が終わったって、伝えに来るよ。
〝頼んだぞ。それまで待ってるぜ〟
そう言っただろう兵士の幻がニカッと笑った。髭づらのままで。
〝お前たちが無事にカレワまで行くことを祈ってる〟
〝最後まで頑張れよ〟
俺は泣きながら「ああ」「ああ」と言いながら、彼らの間を進んだ。
◇
それからも俺は歩き続けた。
昼だけじゃなくて夜も。ひたすら林の中を。死んでしまったみんなの遺体が、ずっと並んでいる山の中を。
そして、ようやく眼下にカレワが見えてきた。その向こうにチンドウィン川が見える。雨季のまっただ中で、茶色く濁り、圧倒的な水量になっている。
川岸にたくさんの日本軍の兵士がいるようで、人の群れがアリのようにうごめいているのが見える。どう見ても師団の撤退は順調とはいえないようだ。
それもそうだろう。いつの時代も、敗走の時はごちゃごちゃになってしまうだろうから。
しかし、今はそんなことよりもカレワだ。あそこに行けば薬がある。秀雄くんのために、そう信じている。
「秀雄くん。もうすぐだ。もうちょっとの辛抱だぞ」
〝夏樹さん。もういいんです〟
「ばか。なに言ってるんだ。すぐに薬をもらってやるからな」
俺はそう言いながら、早足で林の中の獣道をたどる。ゴールが目の前に見えてきたからか、足取りが軽い。道も、草や木の根が張り出しているものの、そのせいだろうか、ぬかるんでいるところも少ないようだ。
この調子なら、本気で走ればすぐに到着できそうだ。
〝本当に。もう、いいんですよ〟
背中の秀雄くんがそういうが、もうすぐじゃないか。
だが、その時、俺は違和感を覚えた。俺は……、どうやってしゃべっている?
ふと足を止め、背中の秀雄くんを肩越しに見ると、力なくうなだれている。
「秀雄、くん?」
〝……だから、もういいんです。俺は〟
まさか。
丁寧に秀雄くんの体をおろす。おい。その口で返事をしてくれよ。
「おいおい。冗談は止めてくれよ。それとも寝ちゃってるのか」
〝だから、そうじゃないんですって〟
俺の目に涙がにじんでくる。指先がしびれたように細かく震える。
すぐ隣に立っている兵士を見上げた。うっすらと半透明で、さっきから俺にしゃべりかけているその兵士は、秀雄くんの顔をしていた。
俺に向かって、寂しそうに微笑んでいる。
〝俺はもう死んでしまいました〟
「馬鹿な。なんでだ? だって、もうすぐそこなんだぞ!」
あとほんの少しだって言うのに! 嘘だろ。冗談だと言ってくれよ!
……しかし、俺にはわかっていた。秀雄くんは、間に合わなかったのだ。俺の背中で、すでに事切れていたんだ。
「あ、あああ。ああ。……うわあぁぁぁぁぁ」
叫んだ。とにかく叫んだ。もうわけがわからない。ただひたすらに、俺は叫んだ。
ふざけんな。なんで、死んだ。なんで死んじゃったんだよ。
理不尽だとはわかっている。だけど、やり場のない怒りに突き動かされるままに、俺は叫び続けた。
上を向いたとき、雨雲から雨が降り出した。すぐにザーッと強くなる。
〝すみません〟という秀雄くんの声は、しかし、今の俺の耳には入ってこなかった。
大粒の雨が俺の顔ではじける。俺は秀雄くんの前に突っ伏して、地面を何度も殴りつけた。
握りしめた地面が、泥となって指と指の間からこぼれる。その手が震えた。
ああ、春香! なんて。なんて地獄なんだ。ここは……。