03転の章 わが夫(つま)が戦いいますは彼方(あなた)かと 南の空を見つめたたずむ

 再び夜の闇の中をコイレンタックの集積所に戻った俺たちだったが、翌日すぐに食料を買い入れるために近くの集落をまわることになった。いわゆる徴発ちょうはつって奴だ。

 空は分厚い雲が覆っていて、例年より早い雨季の到来を告げている。

「……誰もいないのか」
 わずか7軒の高床式の小屋が点在する集落だが、戦争の気配にすでに住民は逃げ出してしまっているようだ。
 一緒に来ていた増田が鳥小屋を見つけたけれど、中は空っぽで、白いふんと抜け落ちた羽根だけが落ちていた。

 ここには俺たち樺井分隊のメンバーだけでなく、アラカン山系に住んでいるチン族のうち日本軍に協力してくれる青年たちもやってきていた。
 昨年のうちから、ほぼ1個小隊を組むような形で協力してくれている彼らだが、すでに悲劇も起きていると聞いている。

 陸軍にはひかり機関といって、現地住民を味方に引き入れる役目を負った人たちがいる。対するイギリス軍にもVフォースという同じ役目の一隊があるらしい。

 日本軍に協力してくれているチン族の青年にリンシェンがいた。いわゆる知的なイケメンでチン高原の英雄で、女の子から人気があったという。

 彼らには話し言葉はあっても書く文字はない。だから女の子たちは草花に自らの思いを託して贈る風習がある。燃えるような恋心をセクパンの花に、不変の情愛を誇り高い月桂樹に託すといった具合で。

 リンシェンに心を寄せるノムネーという娘がいた。20歳の美しい娘さんで、リンシェンも心を寄せていたらしい。しかし、リンシェンは負傷のためにモーライクの野戦病院に下がってしまう。それが悲劇を生んだ。

 ノムネーは男たちに人気があり、特にしつこく言い寄っていたコンホーという男がいて、そいつはVフォースの分隊長にまでなった敵のスパイだった。
 リンシェンがいないのをいいことに、部下を連れてノムネーに近寄り、〝リンシェンはイギリス軍につかまって銃殺になった〟と嘘をついて、ノムネーを強引に連れ去ったのだ。

 戻ってきたリンシェンはすぐに部落の仲間を引き連れて、コンホーの部落に乗り込んだが、すでにコンホーもノムネーの姿もなかった。
 しかしリンシェンが無事であることを知ったノムネーは、嘆きのあまりに自ら谷底に身を投げてしまったという。

 青年の部族が今も協力してくれているのは、その恨みもあるのだろうか。戦争の裏に起きた悲劇に同情を禁じ得ない。

 同じチン族の青年ロンレンが、1軒の小屋で米を見つけた。
 まだもみのままのビルマ米。赤い色をしていて、チン族ではお酒に使う米で食べるような米ではない。……けれど、今や俺たちの主食はこの米になっていた。

 他の小屋も探してみたけれど、見つけられたのはこの米だけのようだ。
「誰もいないと買うこともできないな」
 買うっていったって軍票だ。こんな山中じゃ紙切れと変わらないだろう。
 置いていくべきか迷ったが、俺はなけなしの軍票ぐんぴょうをその小屋に置いていくことにした。

「おーい。夏樹。次に行くぞ」
 外から増田の声がする。「今行く」と言いつつ外に出て、みんなと合流する。
 その時、急に雨が降ってきたが、そのまま次の部落に向けて出発することに。
 最後に再び集落を眺めると、人気の無くなった家々が、なかば密林に呑み込まれるようにたたずんでいた。



 いくつかの集落をめぐり、また道中見つけた果物や食べられそうな野菜を手に俺たちは帰還した。

 雨が粛々しゅくしゅくと降り続け、時折スコールのように激しくなる。その時は、あっという間に地面に川ができ、ぬかるみ、泥の飛沫しぶきが腰にまで跳ね上がる。せっかく徴集したお米もいくらか濡れてしまった。
 痛んでしまうから、濡れたお米から食べないといけないだろう。

 しかし、こんな雨の中でも敵の砲撃はしぶとく続いている。俺たち日本軍の居場所がわからないらしく、山に向かって絨毯じゅうたん爆撃をしているようだ。

 ともあれ今のところは、ここコイレンタックまでは砲弾が飛んでくるような状況ではない。

 今日の分の食糧、もみ2合をもらって、仮設で作った竹の屋根の下に入る。
 増田や他の奴もやってきて、狭いながらも思い思いの位置に座った。

 鉄棒を脱いで支給されたもみを入れ、拾ってきた棒で突く。何度も突く。とにかく突く。突いて突いて突き続ける。
 何をしているかって? 脱穀だっこく作業だ。

 ダダダダと屋根を打つ雨の音に、ザッザッザッザッと米を突く音が交ざる。屋根からこぼれた雨の滴が水たまりに落ちるピチャンという音もした。

「あー、クソッ」
 なかばぶち切れながら増田が乱暴に米を突いた。
 体力が落ちている今、この作業はしんどいのだろう。

 ザッザッザッザッ。

 あちこちで誰もが黙って米を突く。

 けれども突然増田が、手を止めた。
「悪い。ちょっと見といてくれ」
 そういって激しい雨の中を外に出て行く。よろめくその背中に向かって「ちゃんと手洗って来いよ」と声を掛けると、わざと怒った顔をして拳を握り、そのままふらふらと林の方へと歩いて行った。

 あいつ、今朝から腹の調子が悪いんだ。やたら下しているっていうが……。
 置いていった鉄帽が転がっている。おそらく喉を通らないだろう。だが食べないでいて体力が落ちてしまうと、余計に体力がなくなる。

 しばらくしてびしょ濡れで戻ってきた増田は青白い顔をしていた。
 躊躇ちゅうちょしていて中に入ってこようとしない。「おい。増田――」

 声を掛けると戸口でぽつりと、
「悪い。ちょっと軍医のところの行ってくる。それ食べられないと思うからお前にやるよ」
と言うや振り返って再び雨の中に出て行った。

 ――あいつ。多分、アメーバ赤痢せきりなんだろう。

 俺も鉄帽を置いたままで追いかける。
「ちょっと待て。一緒に行ってやる」

 雨が身体を打ち、たちまちにびしょ濡れになるが、構わずに増田に追いついた。
 そのままフラッと倒れかけたところを支えて、そのまま肩を貸してやる。

「すまん。身体に力が入らねえんだ」
「この馬鹿。無理しやがって」
「でもよ」
「でもよじゃない。……ほら行くぞ」

 髪をらした雨水が、そのままあご、首を伝って胸もとに入っていく。シャツがびしょびしょになって肌に張り付いていく。
 冷たい。
 雨に身体の熱が奪われていく。
 俺の方が背が高いせいか肩を貸していると上手く歩けない。だが、予想以上に増田の身体は軽かった。

 もう何日も水浴びをできずにいるせいか、えた匂いがするが、それは俺も同じだろう。「すまんすまん」と言い続ける増田を支えて、俺は連隊本部の裏にある野戦病院に向かった。

 幸いに軍医殿にすぐに見てもらうことができたが、診断の結果は案の定アメーバ赤痢せきりだった。
 なにやら注射を打ってくれたものの、それは単なる栄養剤らしい。もう薬がないそうで、銃創じゅうそうや切り傷にすらヨードチンキを塗ってやるしかないという。

 礼を言って外に出ると、同じような奴らが周りで雨をけながらうずくまっているのが見えた。
 ……ジャングル野菜を食べるようになったし、川の水を使ったりしている。そのせいで感染したのだろうか。

「夏樹。すまん。ちょっとまた腹が痛い」
 そういって、増田は俺から離れるとふらつきながら林の中へと消えていった。

 薬も無くて何が野戦病院だ。なにか良い方法は……。

 増田が心配だ。だが俺には何もできない。それが苛立いらだたしい。

「――おい」

 その時、うずくまっていた一人の兵士が俺を呼んだ。
「俺か?」
「ああ。あいつ、アメーバ赤痢せきりだろ。ペストやコレラじゃなくて良かったな。……ここだけの話だ。信じるも信じないも自由だが、炭を食わせると良いらしいぞ。俺はこうして食ってる」
 そういってすいさんの時の燃え残りらしき黒い木片を見せてくれた。

「炭か……」
 効き目があればもうけものか。
「すまん。ありがとう」
 礼を言うと、そいつはうなずき返してから、器用に雨を避けて横になった。

 さっそく戻った俺はこっそりと火を起こし、近くにあった竹をくべて炭にした。増田に「これを食え」と渡したときに引きつったような顔をしていたが、「効き目があるらしい」と言うと半信半疑の表情でガシガシとかじっていた。

 これで治ればいいんだがな……。


 具合の悪い増田は、結局、あれから何度も林の中に行っていた。
 だが、それ以上俺も心配してやることができない。なぜなら、俺たち動ける人員に命令が下ったからだ。

 雨が降り出してから、ここコイレンタックまで物資が届かなくなった。ただちにチュラチャンプール、または場合によってさらに後方の83マイルの国境地点の集積所まで行き、糧秣りょうまつ・弾薬を補給せよとのことだ。

 力なく横たわっている増田を残していくことが心配だが、薬も補給できればありがたい。
「いいか。絶対に戻ってくるから、お前はとにかく炭を食ってろ。いいな」
「……ああ、すまねぇ」

 泥で顔が汚れ、顔色が悪い。だが、頑張れよ。

 俺は雨用の軍衣を身にまとい、わずか動ける小隊員15人でチュラチャンプール目指して林道に足を踏み入れた。

 曇り空のせいか、林道は薄暗い。道は完全にぬかるみになっていて、場所によっては雨水が小さな川となって横断していた。
 乾季とはまるで違う様相をていしている山道。

 気合いを入れろ。前を向くんだ。俺たちの輸送に戦友の命も、作戦の成否もかかっているんだから。

03転の章 わが夫(つま)が戦いいますは彼方(あなた)かと 南の空を見つめたたずむ

 インパール平原に入るところにトルブン隘路あいろ口がある。
 左右から山裾が接近して、上から見ると砂時計のくびれ部分のように見えるところだ。

 弓の歩兵笹原214連隊は、4月6日にそのトルブンの南にあるチュラチャンプールに進出し、そこを拠点にトルブンの英印軍と戦闘に入っていた。

 その後を追いかけるように出発した歩兵作間215連隊も、4月8日にチュラチャンプールに到着したが、田中参謀長の指示でトルブンの敵陣地を無視し、西側の山中を北上したと聞く。

 弓師団では、すでに柳田師団長ではなく田中参謀長の指示で動いており、次々に連隊を動かしているのは、何としてもインパールに乗り込むんだという意思の表れだった。

 しかしこれが功を奏したのか、4月10日になってトルブンの英印軍は退却を始め、笹原連隊はこれを追撃する形でインパール平原に進出。
 そのまま北へと突き進み、19日にはニンソウコンという集落を占領した。

 インパール道には、インパールからの距離をマイルで示す道標がついている。その83マイル地点がビルマ―インド国境に当たっていた。

 途中から師団に合流したインド国民軍の兵士たちは、その国境を越えた途端、祖国インドの地を踏んだ感激に全身を震わせ、
ジャー・インインド万歳!」
と口々に叫び、両手で土を握りしめて涙を流していたという。そして、サフランの黄色と白、緑の3色に吠える虎が描かれた旗を立て、
チャロー・デリー行け! デリーへ!」
と血気盛んに進軍を開始したらしい。

 すべて伝聞だが、後方任務の俺たちのところには、こうして色んな情報が自然と集まってくる。

 ――天長節4月29日までにインパールへ!

 第15軍の牟田口司令官の強いスローガンを実現しようと、烈31師団は4月6日にコヒマの集落を占領。
 祭15師団はインパール平地北部に到着。インパールの背後の山々に分散して陣を構えている。
 そして、我が弓33師団もインパール平原に進出したわけで、ここにインパール包囲網が完成した。


 さて輜重兵33連隊は、本部をチュラチャンプールに置き、前線の物資集積所をログタク湖西側の山裾にあるコイレンタックに作った。――俺は今、そこにいる。

「さて、全員揃ったな」
 森村小隊長が地図を広げた。それを見ているみんなは、俺も含めてだが、長引く戦闘によってすっかりひげが伸びてしまっている。

 さらに輸送した食糧が尽きかけていて、1日あたりの配給量は定量の3分の1。つまり、1日2合となっており、誰もが少しずつ痩せてきていた。密林で採ってきた植物を野菜にしているせいか、赤痢になって1日に20回も腹を下している奴もいて病院送りになっている。

「これから俺たちは、ここコイレンタックから最前線への補給任務に就く。現在わかっている情報を説明するから、よく聴いておけ」

 現在地コイレンタックを棒で示し、
「俺たちの任務は、ヌンガンにいる作間連隊第1大隊、第2大隊への弾薬補給だ。――ここを見ろ」
 棒を動かした先はビジェンプールという町があった。

 インパール平原の南部にはログダク湖と呼ばれる湿地帯がある。雨季には水を湛えた広大な湖になるらしいが、インパール道はその西側を通ってインパールに続いている。

 トルブン―モイラン―ニンソウコン―ポッサンパム―ビジェンプール―プリバザー、そしてインパール。

 インパールまでもう少し。だが、ビジェンプールに英印軍が強固な陣地を構えているらしい。

「このビジェンプールから西の山を横断するのがシルチャール道だ。インドに繋がる敵の補給路の一つと見られる。
 この道の南北、こことこことここに敵陣地がある。現在、作間連隊第1大隊の第2中隊、第1中隊が陣を張っているが、前後から砲撃を受けて動けない状態になっている」

 第2大隊が通過した時には敵影はなかったらしいが、翌日、第1大隊が敵と遭遇。そのまま戦線が拮抗しているわずか1日の間に、どんどん敵陣地は強化されてしまったらしい。
 今ではそこを森の高地と呼んでいる。

 森村小隊長は説明しなかったが、目標とする天長節までもうすぐ。
 第15軍からは21日に、弓、烈、祭の3師団でもってインパールへ総攻撃を加えるとの命令が来ていたらしく、ここで足止めを喰らっている場合ではないとして、田中参謀長の命令が下りた。
 作間連隊の第一大隊は、そこに第2中隊と第6中隊を残して、主力を敵前通過してヌンガンの第2大隊へ追及しろと。

 そこまで期限にこだわる理由が分からないが、今日は19日だ。ビジェンプールはまだ落とせていないし、予定されている21日の総攻撃はほぼ不可能であることが明らかとなっている。
 かといって、天長節まであと10日。……まだ突破の見通しは立たないから焦っているのだろう。

「いいか。もうわかっているだろうが、特に赤とんぼ偵察機に気をつけろ。偵察機に見つかると砲撃が来ると思え」
「はい」

――――
――


 敵陣のすぐ前を突破しなければならないため、駄馬を使うことができずに人力輸送となる。弾薬箱を背嚢はいのうに入れて背中に背負うと、ずしりとした重さがかかるとともにベルトが肩に食い込んだ。
 なかには栄養失調のためにふらついている奴もいるが、大丈夫だろうか。

 ついこの前の16日には雨も降り、予想より早く雨季になることが予想される。幸いに今日は晴れているようだが、いつ天候が急変するかわからず油断はできなかった。

 密林の中の移動なので、昼のうちに森の高地近くまで行く予定になっている。森村小隊長殿の指示で、まだ体力があるという理由で、俺が先頭を命じられた。

 みんなの準備が完了したのを確認し、俺は例のナイフを手にうっそうとした林の中に足を踏み入れた。
 絡み合って行く手をはばむような木々や、葉のついたつるを、ナイフで打ち払い道を切り開く。

 このナイフは、俺と春香が1本ずつ持っている特別製のナイフ。切れ味は抜群だ。かつてアフリカでも南米のジャングルでも大活躍をしてくれた。

 時折、足を止めて周りの音に耳を澄ませる。まだ頭上は木々の枝葉で覆われていて、偵察機に見つかる危険はない。グルカ兵はもちろん、誰かがいるような気配もないか。

 たび重なる砲撃音で、動物すら恐れをなして姿を隠してしまっている。風もなく山特有の湿気が身体を包んでいる。

 幾度かの小休止をしたところで、不意に林の出口が見えてきた。一度進軍を止め、小隊長殿の指示を仰ぐ。
 斥候を出すことになったが、ここまでの移動で予想以上にみんなの体力が奪われてしまっているようだ。
 仕方なく、俺は志願し、他2人を連れて木々の切れ目を目指して静かに移動をはじめた。

 途中で2人にも止まるように手で指示を出し、小銃を構えて、1人で静かに進む。ドクンドクンという自分の心臓の音だけが聞こえる。
 葉っぱの動き、足元の枝を踏まないように。そろりそろりと息をひそめ、ゆっくりと腰をかがめて出口を目指す。

 どうやら道路があるというわけではなさそうだ。たまたま木々が途切れてぽっかりと空き地になっているようだ。
 まだ油断はできないが、そのまま一番端にある木の陰に隠れ、外の様子をうかがう。

 おお。ここは山の稜線りょうせんだったのか。

 眼下に、広々としたインパール平原が一望できる。さっと視線をめぐらせて偵察機の有無を確認するが、今は大丈夫なようだ。

 手前右側にログタク湖が太陽の光を反射してキラキラと輝いている。ずっと左に視線をずらすと、湖の北側に大きな街の影がぼんやりと見える。

 ――あれが、インパール。
 俺たちが目指している場所。

 するとその手前がビジェンプールか。ここからでも戦車やトラックが動いているのが見える。重砲がいったい何門あるんだ? ひっきりなしにどこかに向かって撃っている。

 突然、爆音が聞こえてあわてて茂みの中に身を隠す。
 ざあっと木々を揺らして、俺の頭上を輸送機が飛んでいった。護衛だろうか。見慣れない戦闘機もいるようだが……。あのマークはアメリカ軍のものだ。

 思いのほか時間が過ぎていたようで、他の2人もゆっくりとやってきた。
 目の前では、ビジェンプールの戦車、重砲が見える。飛行場が奥にあるようで、そこに輸送機が次々に着陸していく。その圧倒的な輸送力、軍事力に言葉が出てこない。

「……ともかく、ここのルートは駄目だな。もどろう」
 ここを移動するのは目立ちすぎる。迂回路うかいろを探した方がいい。俺の言葉に、他の2人もうなずいた。

 戻り際にもう一度、その景色を見る。
 山脈にかこまれたインパール平原。その雄大な景色は美しい。しかしその美しい世界で、今戦争が行われている。天国と地獄がここでは同居していた。

 砲撃の音を背中に聞きながら小隊に戻って報告をすると、小隊長殿は地図を取り出して、迂回路を検討しはじめた。しばらくはここで待機となるだろうか……。



 夜、俺たちは無事に森の高地陣地の手前まで来ることができた。

 小隊全体を緊張が包んでいる。これから敵陣の前を通り抜けなければならないのだ。
 夕暮れになり、にわかに雲が出てきてはいた。来てほしくはない雨季ではあるが、今だけは雨の援護がほしい。

 湿った生温かい風がねっとりと俺を包み込むように吹いてきた。
 増田が嫌そうな顔で、
「うげっ、気持ち悪い風の吹くところだな」
と吐き捨てるようにつぶやいた。

 そのまま暗くなるまで待ち、先ほどと同じように俺が先頭だ。周囲は真っ暗で、普通の人ならば、よほど目をこらさないと何も見えないだろう。
「絶対に音を立てるな。前の人を見失うな。いいな?」
 小隊長殿の注意にみな真剣な表情でうなずいた。さあ行こう――。

 枝を引っかけないように、そっと道に降り立つ。このまま敵陣の前を通りすぎ、向こうの林に入る。わずか300メートルほどの距離だが、その距離が遠い。

 そろりそろりと足を進める。背後に次の奴が俺の背嚢はいのうをつかんでついてきている。幸いに俺は暗夜でも視界が効くから周りの状況をある程度は見渡すことができる。
 幸いに敵影はない。敵陣も鉄条網てつじょうもうの向こうは静かだった。陣地を強化するのに、あの内側にもう1つの鉄条網を張って2重にしてあるようだ。
 それが今、俺たちに幸いしているかもしれない。

 息を凝らしながら又一歩進んだときだった。道脇の木の陰に人影を見つけた。
 さっと小銃を構え、銃口をその人影に向けた。
 様子をうかがうが、こっちに気がついている気配はない。かといってこのまま近づいていくと気づかれる可能性が高いだろう。

 ……どうする。

 迷うが、声を出すこともできない。答えの出ないままに、少しずつ距離が縮まっていく。

 ――違う。これは。

 その人影の正体が見えた。誰かの亡骸。うつむいたままで放置されている。きっと突撃しようとして撃たれ、そのままになっているのだろう。

 回収してやりたいが、今はそれはできない。心の中ですまんと謝りながら、俺はその前を通りすぎた。

 ようやく再びの森の道へと入り込み、息を静かに吐いた。
 敵陣からの攻撃はなかった。無事に見つからずに全員が来られたようだ。


 一度、危地を通り抜けると、急に臆病になる。もっと安全な場所へと急ぎたくなる。けれども俺は慎重に森の奥へと向かった。



 ようやくヌンガン近くにいた第2大隊に到着した頃には、空が明るみはじめていた。

 大隊本部の倉庫係に運んできた弾薬類を預ける。食料は申しわけ程度しか持ってこられなかったのが心苦しいが、食料がないのはコイレンタックでも同じだ。

 明るくなってしまったために、夜まで第2大隊のところで待機することになった。夜通し緊張しながら重い弾薬を運んだ皆は、死んだように眠っている。
 俺は一人、ここにいるはずの秀雄くんを探し、2人で宿営地の端っこで並んでしゃがむ。

「もう大隊とはいっても、中隊程度の人数しかいないんですよ」

 そう自嘲じちょうする秀雄くん。すっかりせてしまったなぁ。頬がすっかりこけてしまっている。

 轟音をひびかせて、頭上を輸送機が通りすぎていく。
「気をつけて下さいよ。輸送機は24時間ひっきりなし、朝は赤とん偵察機ぼも飛んでますから。一人でも見つかったらしつこいくらいに攻撃されます」
 俺はうなずいた。
「ああ。わかっている」

「あいつらは凄いですよね。いくらでも飛行機が飛んできてますよ。こっちの友軍機なんて、このまえの25日に久しぶりに見たのが最後ですよ」
 ため息をつく秀雄くんには、まだ悪態をつく元気があるようだ。


 俺は、自分が吸わないので取っておいた煙草を取り出し、箱ごと秀雄くんに手渡した。
「おおっ。Vじゃないですか。さすが夏樹さん」
「いっておくが、吸わないから取っておいた奴だからな。ちょろまかしてはいないからな」
「わかってますって。さっそく1本」

 そう言うと1本取り出して、そそくさと火を点けて口にくわえた。うまそうに目を細め、ふうっと煙を吐いている。

 付き合いでしか吸ったことがなく、俺には煙草の旨さがいまだにわからない。けれど、こうして喜んでもらえるなら、大事に取っておいてよかったな。

「それが最後の1箱だからな。大事に吸ってくれ」
「ありがとうございます」

 無造作にポケットにしまった秀雄くんは、しばらく無言で煙草を楽しんでいた。
 ときおり通りかかる戦友らしきから羨ましそうな目で見られ、その都度笑い返していた。
 ギリギリまで吸いきって、足でぐりぐりと踏み潰した秀雄くんは、ふうっと息を吐いた。

 おもむろに自分の手のひらを見て、
「最近、寝不足で、夢か幻かわからないんですが。たまに見るんですよ」
「何をだい?」

「最初に殺した中国兵です」

 そして自嘲する様に唇をゆがめた。
「俺は幸いにもまだ撃たれていません。爆風に巻き込まれかけたことこそありましたけどね。
 ……たくさん殺しましたよ。突撃もしたし、手榴弾しゅりゅうだんで敵を吹き飛ばしたこともあります」

 秀雄くんは俺の手を見る。
「夏樹さんは輜重しちょうだから、そんなことはないでしょ。俺の手はもう汚れちまっている。
 ……村に帰っても香織を抱けるかどうか自信がありません。和雄の頭を撫でてやりたいけど、もう――」

 俺はなにも言うことができなかった。

「その中国兵がですね。死んだ戦友たちと一緒になって俺を見ているんですよ」
「秀雄くん……」
「中には戦車の砲弾を食らって上半身が吹き飛んだ奴もいました。爆風で手が吹き飛んだ奴も、頭を打ち抜かれた奴も、もとのままの姿で。ただじっと俺を見ているんです」
「秀雄くんっ」

 声を荒げて呼びかけると、ようやく気がついたような様子で俺を見る。
 妙な迫力を漂わせている。秀雄くんは、どこか覚悟を決めている者特有の気配をまとっていた。

「夏樹さん。1つお願いがあるんですけどいいですか?」
「なんだい」
「――もし」

 俺が死んだら、香織をお願いします。

「え?」
「俺は生きて帰れないでしょう。だから。……香織を、和雄をあなたにお願いしたい」

 馬鹿を言うなと言い返すことは簡単だ。それが戦場ここでなければ。
 まっすぐに俺を見る秀雄くんの目は、少しくぼんできているというのに、強い意志が宿っていた。

 それでもなお、俺はこう言わずにはいられない。

「秀雄くん……。わかった。だが、君も必ず一緒に帰るんだ」

 俺の返事を聞いた秀雄くんが微かに微笑んだ。
「よかった。これでもう安心だ」

 満足そうにつぶやいた秀雄くんは、急に安らかな表情になった。

 その顔を見て、思わず息を呑んでしまう。
 ……だが、秀雄くん。そんなこと、俺は許さない。必ず君を松守村に連れて帰る。香織ちゃんのところに君を。そう思っているんだよ。

03転の章 わが夫(つま)が戦いいますは彼方(あなた)かと 南の空を見つめたたずむ

 トンザンにいた英印軍がインパールに退却していき、その後にようやく俺たち弓33師団が占領することができた。

 例の3299高地の物資集積所には、自動車とトラック合わせておよそ800台の車両が残っていたが、そのほとんどが部品を抜き取られるか破壊されていて、使えないようになっていた。
 それでも現在、工兵と輜重兵の一部で自動車収集班を結成し、1台でも多くの車両を使えるように修理と整備をしている最中だ。

 あのまま占領できていたら、これだけの車両を動かすガソリンも沢山あったんだが、英印軍が火を点けていったせいで、いまもまだ陣地の端っこで火が燃え続けている状態だった。


 額の汗を右手でぬぐうが、腕も汗をかいているのでぬるっとした感触だけが残る。
 あまりの暑さにとっくに軍服は脱いでいて、シャツのままで車のボンネットをのぞき込んで作業をしていた。

 駄馬小隊を組んでいた俺と増田だったが、この戦闘の間に馬がほとんど死んでしまったために解散となり、長谷川小隊長殿も本来の第1中隊に戻っていった。俺と増田も第2中隊の森村小隊、樺井かばい分隊長殿の指揮下に戻っていた。

 久しぶりに第3自動車中隊の石田とも再会したが、あいつの中隊は運んできた弾薬をここに置くや、すぐに再補充のためにカレワに向かっていった。

 まあ、今修理しているこの1台が動くようになっても、未整備のトラックやジープがまだまだ残っているんだよな。
 複数の車から1台を組み上げるやり方で整備補修を進めているけれど、なかなか作業が進まないのは仕方がないだろう。

 ……さて、こいつもこれで大丈夫だろう。

 パコンとボンネットを閉じる。
「よしっ、これで完了だ! ……そっちはどうだ?」

 すると車の下に潜り込んでいた増田はとっくに車体下から抜け出していた。だらしなく座って、水筒の水を飲んでやがる。
「じゃあ、テストしてみるぞ」と声を掛けて、運転席に乗り込む。

 窓は全開だというのに暑い。暑すぎる。閉めたボンネットの上で温められた空気がユラユラと揺れていた。

 それはともかく、頼む。動いてくれよ。

 そう願いながらキーを回した。
 キュルキュルキュル。

 セルが回る音が続く。
「行け、行け行け行け――」
 祈りながらアクセルをガシガシと踏んでいると、突然ブオンとエンジンがかかった。

「っしゃあ!」

 ガッツポーズを取って、そのまま少しふかしてからエンジンを切った。
 増田の奴がこっちを見上げて笑っていた。

 うるさいな。暑いとイライラするんだよ。

 外に出て、そばに置いておいた水筒から水を飲む。
 ふうと息を吐いて増田の隣にどかっと座り込んだ。俺も少し休憩しよう。

「どうだ、順調か?」
 樺井かばい分隊長殿だ。
「どうにか1台おわりました」
 さすがに工兵たちには負けるな……。

 そのまま分隊長も俺たちの隣に座った。増田が周囲の整備修理をしている仲間を見て、小さい声で言った。

「かなり亡くなりましたね……」
「ああ作間連隊も夜襲も失敗したし、軽装甲車が6両とも地雷で破壊された。
 ……お前たちは知ってるんだろうが、笹原連隊の入江大隊長が戦死。末木大隊の中隊長も2人、機関銃中隊長も戦死した。
 笹原連隊長が玉砕の覚悟で将兵と末期別れの酒を飲み交わし、最後の突撃をする寸前だったんだろ?」
「大きい声じゃ言えませんよ」
「将校が20名も戦死した戦いだ。一緒に行ったお前たちはまだいい。俺たちは師団本部と一緒にいて直接戦っていないしな。正直、後ろめたいよ」

 作戦が始まったとき、みんなはすぐにでもインパールに進出できるっていう雰囲気だった。それがふたを開けてみれば、最初の攻撃目標を攻略するだけで50%ちかい死傷者を出し、殲滅的打撃を受けてしまっている……。

「分隊長。これでインパールまで行けるんでしょうか?」
「夏樹。それは言うな。……ただ柳田師団長が電報で第15軍本部に作戦中止の意見を具申したらしい。国境までで防衛線を引くに留めるべきだってな」
「「えっ」」

 それはマジか。
 確かに部隊は半壊していたが、インパール攻略は上からの命令じゃなかったか。

 思わず、
「それって大丈夫なんですか?」
「大丈夫なわけないだろう。案の定、第15軍の牟田口むたぐち司令官殿から激しいおしかりの返報が来たそうだ。師団の田中参謀長もカンカンになっていたらしい」
「はあ、……それは、そうでしょうね」

 あの参謀長はなぁ。
 何がなんでもインパールに1番乗りするんだと息巻いているっていう噂だ。そりゃあ、カンカンにもなるだろう。

「軍からは、爾後じごの師団の指揮は参謀長に任すと言ってきたらしい」
「え? それじゃあ、師団長は……」
 驚く増田に、分隊長はシッと口に指を添え、
「声が大きいぞ。元々、牟田口司令官の計画に対し師団長は反対していた。あの人は事情通だし慎重派だからな。豪傑タイプの司令官とはそりが合わないのもあったんだろう。
 が、田中参謀長は強気で積極的だから、牟田口司令官も好んで直接指示を出していた節もある。だからこうなっても不思議じゃない」

 分隊長殿は言わないけど、これで師団長は蚊帳かやの外になるというわけだ。

 樺井分隊長殿は自嘲するように、
「とっくに師団長は外されているのさ。田中参謀長から『師団長の泣き言など聞くな!』と怒鳴られた将校もいるらしい」

 俺と増田は無言になる。
 師団司令部の事はよくわからない。が、師団本部がそのような状態だと、その下の将兵は……。
 樺井分隊長も思うところが色々とあったのだろう。

 愚痴ぐちは続く。
「だいたい作戦発起前の兵棋へいぎ演習の時、田中参謀長からは、急速突進を重視して、糧秣りょうまつも最小限、傷病者は途中にうち捨てて、さらに山砲も持ち運びが楽な31式を5門程度持っていくなんて説明があったらしい。
 ……山砲無し。航空支援も無し。突進する以外に戦いようがない。その結果がこれだ」

 増田があわてて、
「分隊長。ちょっと声を落として」
「む。――すまん。第15軍の牟田口司令官から、さっさと敵を追撃しろと矢の催促さいそくらしくてな」

 ふざけるなっ。英印軍の退却が終わったのは昨日だぞ。

 予め追撃戦力を用意していたわけじゃないんだし、少なくとも笹原連隊にはもう戦力は残されていなかった。それをさっさと追撃しろだと!

「おい。夏樹。落ち着け」

 あの玉砕ぎょくさいするかどうかって状態だったのに。そのことを第15軍の方ではわかっているのか?
 ……まさか、まだリゾート避暑地メイミョウの清明荘で、芸者遊びをしてるんじゃないだろうな。

 分隊長殿が俺の腕をつかんだ。どうやら凄い表情をしていたようだが、怒りはおさまらない。
「ですが、この……。この状態で追撃しろって言うんですか」

 笹原連隊だけじゃない。作間連隊だって、もう過半数が戦死と戦傷者になっているんだ。
 師団の戦闘力が半減してるんだぞ。戦場清掃だって終わっていない。戦死した仲間の遺体も収容が終わっていないんだ。

「わかっている。お前の言いたいことは。だがとにかく落ち着け、この馬鹿がっ」
 樺井分隊長がひっぱたいた。
「冷静になれ。いいか」

「……はい。すみませんでした」

「とにかく命令である以上は行くしかない。もうさいは投げられたんだ。だから明日29日に、笹原連隊がインパール平地入り口に当たるトルブン目指して、追撃前進することになった」
「はい」
「ここに野戦病院も設置した。それに戦病者は後方に下げられる。第3と第4の自動車中隊の奴らが、再補給のためにカレワに向かった。載せられるだけの戦病者を載せてだ。
 ――どうだわかったか」
「はい」

 言い含めるような樺井分隊長殿の説明に、俺は頭を下げた。横顔を分隊長がじっと見ている視線を感じる。
 ため息をついた分隊長殿が、
「夏樹。少し頭を冷やしてこい」
と言って下さった。

 たしかに少し冷静になるには時間がほしい。一人になる時間が。だから、俺は分隊長に礼を言って、何かを言いたげな増田を置いて一人に慣れる場所を探して歩くことにした。



 部品りを終えた車両が並んでいる一画で、俺は1台のトラックの荷台に上がり、運転席側に背中を預けて座った。

 ほろなどなく、ときおり風が穏やかに吹く。整備作業をしている音が遠くに聞こえるが、ここなら静かだ。

 数日前に降った雨のせいだろうか、それとも谷間で森林が近くにあるせいか、蚊が何匹も飛んでいる。
 俺は刺されることはないけれど、手で追い払いながら、懐から春香の手紙を取り出した。

〝今年も11月になりました。
 恒例の鎮守の山神社さんじんじゃの秋祭りも、どうやら今年が最後となるようです。

 とはいっても、お盆も鎮守さんのお祭も、今年は清玄寺の2階から眺めるだけにしました。
 最後となるからか、それとも秋の夜長の空気にあてられたのかわからないけど、なんだか味気なくて〟


 もう何度も読み返しているけれど、春香の文字を見た瞬間、何故か目もとが潤んできた。

 幸せな時の匂いが、この手紙には宿っている。彼女の優しい声が耳に蘇ってくる。時に明るく、時に切なく、けれどいつも俺を幸せにしてくれるあの声が。


〝村の方は変わりはありません。恵海さんも美子よしこさんも、香織ちゃんも和くんもみんな元気です。畑も、温室の野菜も、人手がないので規模は小さくしましたが、今年も美味しい野菜が採れました。

 遠く離れたビルマの地を想像しつつ、日々を過ごしております。
 思いはともに。どうかご武運を。      春香〟


「思いはともに……」
 彼女の心からのメッセージ。そっとその文字を指先でなぞる。

 今、春香は何をしているだろうか。
 その目には何が写っているのだろうか。
 毎日笑顔になれているだろうか。
 寂しさに負けてはいないだろうか。

 その時、ふわりと風がそよいだ。

 見上げると、きれいに晴れ上がった空が広がっている。周囲の山々から鳴く蝉の声が、まるで洪水のように押し寄せてきた。
 ずっと鳴きつづけていたのだろうけど、俺の耳には聞こえていなかったようだ。

 なぜこんなにもこの胸が締めつけられてしまうのだろう。
 なぜ、松守村で過ごした夏を思い出してしまうのだろう。
 なぜあの夏の思い出に、心が満ち足りてしまうのだろう。

 空を鳥が飛んでいった。
 強い日差しだけれど、風に揺れる木々の枝はまるでキラキラと輝いているように見える。

 その美しい自然の光景に、記憶にある松守村の風景が重なっていく。俺は、ポケットから春香の写真を取り出した。
 こっちを見ている写真。寂しさを湛えながら微笑んでいる姿。けれどその眼差しを見ていると、さっきまでの怒りややるせない気持ちがどこかに消えていく。

 戦争はまだ続くだろう。もっと悲惨で、理不尽なこともあるにちがいない。
 一人では受け止めきれないかもしれない。

 ……でも、俺は一人じゃない。

 あの空の向こうに春香がいる。確かに、今、この時も、あの空が続いていくその先に彼女がいるんだ。
 姿はここになくても、彼女の心はいつも俺のそばにいてくれる。同じ時をともに歩んでくれているんだ。

「……よし。行くか」

 荷台から立ち上がり、再び見上げた空には相変わらず蝉の声が響いていた。

03転の章 わが夫(つま)が戦いいますは彼方(あなた)かと 南の空を見つめたたずむ

 空からの補給を受けている敵は、無尽蔵に砲弾を打ち続け、間断なく機関銃を撃ち続け、そして、迫撃砲も、手榴弾もひっきりなしに投げてきている。

 3299高地西方の陣地に転進した第3大隊だったが、翌24日には早くも凄まじい攻撃に晒されつつ、25日の今もどうにか踏みとどまって戦い続けていた。

 俺たち輜重兵は連隊本部の位置まで下がっている。
 第3末木大隊のいる西方陣地より、さらにインパール道をはさんだ反対側の高地だ。

 東に見える山峰の向こうで、末木大隊はまだ懸命に陣地を確保している……。
 空は分厚い雲が立ちこめていた。


 神通力の天眼で戦況を見た限りでは、敵英印軍は再び3299高地を占領し、俺たちが捕まえたイギリス人とインド人の捕虜を吸収し、より大きくなっていた。
 ただし、3299高地をそのまま維持するつもりはないようで、ジープやトラックに何か細工をして動かないようにしているらしい。

 一方で、末木大隊の陣地に向かって、次々に重砲の砲弾が撃ち込まれている。

 末木大隊には、すでに弾薬は残り少ない。補給もない。けれど、将兵はまだ戦い続けている。
 陣地に侵入しようとするインド兵士を、これでもかという近くまで引き寄せて、必中弾を浴びせ、時には決死の突撃を行って、文字通り命がけで陣地を守り続けていた。

 悲壮な戦いに、見ている俺も辛い。

 午後2時30分。
 厳しい戦いはいよいよ極限を迎えようとしていた。

 陣地のあちこちが爆発し、すでに戦死した兵士の遺体が爆風に揺れる。
 銃弾を撃ち尽くした兵士が、万策尽きた中でもなお、石を投げて敵に攻撃をしていた。

 すでに生き残りは40人ほどだろうか。誰もが最後の覚悟をしているのが見ていて分かる。

 ある者は鉄帽を脱いで、日の丸を折りたたんで鉢巻きにしていた。

 ある者は、降り注ぐ銃撃から身を隠しながら、悠々とタバコに火を点けて吸っている。

 ある者は、小銃に剣を付け、ギラギラと殺気だった鬼気迫る顔でその刃を見つめている。

 ――今や待つのは最後の突撃の命令だけ。大隊の最後の時が近づいて来ていた。


 もう見ていられなくて天眼を切って、肉眼で第3大隊のある方角を見つめる。
 山間から黒い煙が細く立ち上っている場所。あそこがそうだろう。もう聞き飽きた砲撃の音と銃撃音が相も変わらず聞こえている。

 上空の不気味な雲は風にゆっくりとうごめき、生け贄が捧げられるのを今か今かと待っている。


 背後の連隊本部の天幕から、通信士の大きな声が聞こえてきた。

「大隊は、刀折れ、矢尽き、玉砕せんとす。暗号書を焼き、無線機破壊の用意をなしあり。今夜12時を期して最後の突撃を敢行し、現在地にて全員玉砕せんとす。
 連隊主力の武運長久を祈る! なお――」

 最後の突撃の無線だ。
 次々に部下の戦い様が述べられている。が、電波状況が悪いのか、ところどころが途切れがちになっているようだ。
 ブツッと切れるたびに、もう駄目かと思ったが、再び無線が繋がりどうにか報告は続いているようだ。

 本部の天幕の中の状況はわからない。だが、それからどうやら第3大隊には転進命令が出たようだ。インパール道を開放する決定が俺たちにも伝えられた。



 その翌日、開放されたインパール道を、数多のジープが、トラックが一路、インパールに向かって走っていく。

 伝え聞くところによると、笹原連隊長はまず第1大隊、第3大隊に連絡して、無断でインパール道を開放させたそうだ。
 同時に師団長宛てに、連隊も玉砕の覚悟を固めたと無線で打電したという。
 けれども幸いと言っていいかわからないが、すぐに柳田師団長から、玉砕を思いとどまりインパール道を解放して以後の進出に備えるよう命令が下りたのだった。


 俺たちの目の前を、次々に通過していく敵の長い行列。そのエンジン音が谷間に響いている。誰もがそれを涙を堪えながら見ていた。
 増田も隣でしゃがんいる。「くそっ」
 だが、今の俺たちにはこれ以上戦う力は残されていない。こうして黙って見ているしかできない。それがまた悔しい。

 散っていった人々の顔が思い浮かぶ。
 命を賭して戦ったのに。俺たちは所期の目的を達することができなかった。

 あいつらの死を、俺たちは無駄に――。

 ああ、だが。それでも俺はただの傍観者なんだ。
 なんて無力なんだろうか。

 空に広がる雲を見上げながら、俺は拳を握りしめて一人叫びたい衝動と戦っていた。

03転の章 わが夫(つま)が戦いいますは彼方(あなた)かと 南の空を見つめたたずむ

 3299高地の物資集積所を確保した俺たちだったが、連隊本部はそのまま西方高地から動かなかった。
 北の第1大隊と東の第3大隊と、両方の指揮を執るにはこの位置がいいのだろう。

 17日朝に突撃を成功させて、突角陣地と3299高地を掌握した第3大隊だったが、すぐにその翌日には更に東側の山中に陣を張って、インパール道を監視することになった。

 ただ守るべき山は広大で、大隊の持つ第9中隊を正面南側に、その西側に第10中隊、さらに東の高峰に第12中隊をというように、どうにか分散配置していた。


 左突・笹原連隊の本部が控えとしていた第2大隊も、北の第1大隊の援護に投入することが決まり、19日にインパール道を北上していった。
 英印軍も孤立したトンザン陣地の退路を開くために必死なのだろう。


 中突・作間連隊の話も聞くが、向こうも同じ頃に攻撃目標のトンザン陣地を包囲することに成功したものの、激戦を繰り返しているという。


 さて3299高地占領から5日が経ち、今日は3月22日。俺はその3299高地の倉庫係をしている。
 猛烈な陽射しが森の木々の枝を通り抜け、まだら模様の影を地面に描いている。
 まだ朝早い時間だというのに、すでに気温が32度を超えている。……今日も暑くなりそうだ。

 その時、倉庫の入り口から、
「――弾薬と糧食を受け取りに来ましたっ」
と元気な声がした。
 顔を上げると、そこには数人の若い兵士が来ている。

 敬礼をして話を聞いてみると、彼らは第12中隊の大宮小隊で、これから東方の第12中隊に追及するそうだ。

 昨日から、南のムアルカイという部落周辺から、銃砲の攻撃を受けているらしい。そのほかにも山中に分散した各中隊陣地にも敵影があるとのこと。
 2日前には、よりによって大隊本部にも直接敵の一群が出現して、激しい銃撃戦となったと聞いている。
 敵はすでに本格的な反攻作戦に入っているとみられ、それに対応するために増援として向かうのだろう。

 ここは谷間になっているせいか、第12中隊が陣を構えている山を見ることはできない。だが地図上の位置からして、第12中隊の陣地を敵にとられてしまえば、そこから山中に広がる第3大隊の各陣地は丸見えとなってしまう。
 砲撃もより正確なものとなり、撤退は必至だ。戦略上の要地だから増援は必須といえる。

 ……しかし増援はわずか1個小隊のみか。4、50人程度の増援、それも先の戦いで負傷者もかなり出たから、実際は30人ほどだろう。
 この3299高地では敵の野戦病院をそのまま利用しているが、戦死者も多ければ戦傷者も多い。

 命令書を確認して、糧食と銃弾の入った背嚢を渡す。
「では、行って参りますっ」
 敬礼をして彼らを見送り、俺は東に聳える山を見上げた。



 翌日のまだ暗い時間、突然、俺と増田の班に命令が下った。第3大隊の各陣地に銃弾を輸送せよというのだ。
 寝ぼけ眼を擦りながら起き上がった。どうやら、昼間に彼らを見送っている場合では無かったようだ。


 行き先は第9中隊。
 すでに夜半は過ぎている。急がないと朝になってしまう。明るくなれば身動きが取れなくなるから、それまでにせめて大隊の本部にいかないとまずい。

 さらに悪いことに今日は新月だった。直線で3キロほどだというのに、真っ暗な山中の獣道を行くのが難しい。
 ずっしりと重い弾薬の入った箱を背負い、俺たちは木々の間に踏み出した。

 敵の斥候を警戒しつつ、ゆっくりと進む。
 俺たちが山に入った頃から、にわかに風が強く吹き始めた。

 真っ暗な闇が圧倒的な質量を伴って、俺たちを飲みこんでいくと同時に、強い風がうねるように吹き抜け、木々の枝がざわざわと怪しく揺れている。
 昼間の熱気などあっという間に吹き飛んでしまい。まるでどこかの幽界のような不気味な空気が漂っていた。

 暗闇でも視界の効く俺でなければ道を間違えてしまうだろう。かといってライトを点けてしまえば、遠くからでもよく見える。風が強くなったとはいえ、それは危険だ。
 みんなも懐中電灯を点けるのは最小限にしているようだ。

 ときおり闇の中にまたたくのは動物の目だ。他のみんなは気がついていないが、幸いに危険な動物はいないようだ。

 第3大隊の本部に到着した頃には、まもなく朝になるところだった。このまま第9中隊の陣地まで行けるだろうか。

 大隊の本部に向かう途中、突然、砲弾が空に撃ち出される音が響きわたった。あわてて近くの遮蔽物を求めて、その影に入る。
「こんな朝早くから――」

 驚くも、せめてどこかの壕に入れてもらわないと危険だ。

 ところが砲弾が着弾したのは、ここから東の山の中だった。
 しめたっ。強い風が吹き続けているから、随分と逸れたんじゃないだろうか。

 ドオン。ドウドウドウドウ。ドオン。

 あの音、カノン砲だろうか。
 腹に響くような音が連続で鳴り響く。たちまちに東の山の頂上近くに次々に土砂が巻き上がり、立ち上った煙が風に巻き込まれてうごめいているように見えた。

 どれくらい攻撃が続いたのだろうか。やがてふっと音が止んだ。
 恐る恐る東の山を見上げる。土煙が風に吹かれて少しずつ透き通っていく。
 露わになった山の一画は、あんなに木々が生い茂っていたのに、まるでえぐり取られたようになっていた。

 本部の方が騒がしい。
 どっちにしろ、到着の報告もしないといけないので、本部の天幕に向かうと、そこでは通信兵が必死になって無線機に語りかけていた。

「第12中隊。応答しろ!」
 よほど焦っているのか、暗号などなく生文になっている。だがその場にいる誰もがそれを咎めることはなかった。
「――第12中隊っ」

 しかし、いつまでたっても無線からは沈黙が流れるだけ。やがて、通信兵は無言で本部内の、あれは末木大隊長だ、の方を見る。
「第12中隊。……玉砕と思われます」
 それを聞いた大隊長は口元を引き締めたままうなずいた。

 玉砕。
 俺の脳裏に昨日、倉庫にやって来た若者たちの姿が浮かんだ。ぐっと握りこぶしに力がこもる。頭がカッと熱くなり、周りの音が遠くなった。

 彼らが……、玉砕しただとっ。


「――輜重兵か」
 誰かの声に我に返る。
「悔しいのは分かる。だが、まずは報告をしろ」
 大隊の将校に促され、俺は敬礼し謝った。



 すでに明るくなっているけれど、どうやら前線では俺の予想以上に状況が悪いらしく。すでに弾薬をほとんど使い果たしているという。

 敵の砲撃に晒される危険はあるが、ともかく一刻も早く弾薬を届けて欲しいらしい。
 幸いにも目指す第9中隊の陣地は、本部の正面700メートルほどという。まだ第12中隊玉砕の衝撃から立ち直れていないが、次は第9中隊の番になるかもしれない。
 急がないとマズい。


 無言で走るように山道を駆け下りる。木々の枝の先が、ピシッと頬を掠めていくが、気にしている余裕はなかった。

 その間にも砲撃の音が再び始まり、次々にこの山のどこかで爆音が聞こえる。
「くそっ、くそっ、くそっ」
 いつしか俺はそうつぶやいていた。だが、止めることはできなかった。

「あそこだっ」
 後ろから誰かが叫ぶ。
 顔を上げると、もう陣地まであと100メートルの近くまで来ていた。だが、すでに砲撃が加えられ、あちこちの地面がえぐれたように吹き飛んでいる。
 周りの木々の下生えには火が燃え移っていた。

「くそっ。どうする?」
 このままじゃ危険すぎて中に入れない。……いや、構うものかっ。

 タイミング良く、一瞬砲撃が止まった。
「今だっ。どこでもいいから壕に入り込めっ」
 咄嗟に俺が指示をしてしまったが、みんな「おおっ」と言う。
「輜重兵だっ」と呼ばわりながら陣地に飛び込んで、近くの壕に入り込む。その瞬間、反対側の斜面から敵兵が現れるのが見えた。肉迫攻撃がはじまる。

 転がり込んだので一瞬空を見上げる形になったが、そこには一機の飛行機が浮かんでいた。
「……あれが赤とんぼ。偵察機だよ」
 中にいた若い歩兵が教えてくれた。……が、すでにぐったりとしている。見ると腹部に砲弾の破片が突き刺さっていた。
 顔にはびっしりと脂汗を浮かべていて、苦しそうだ。
「すまんが、水は、ないだろうか」
「あるぞっ、ちょっと待て」

 どうやら敵は手榴弾を投げ込んできているようだ。
 迫撃砲の音もするが、これは敵の方に着弾しているようだ。味方の擲弾筒隊がまだ生きているようで、良かった。

 一瞬のうちにそう思いながら、頭を上げないようににじり寄る。若い歩兵の水筒は穴が開いて水滴がわずかにぶら下がっているのみだった。
 指先の感覚だけを頼りに自分の水筒を引き寄せて、蓋を開けて口元に近づけてやる。力なく口を開くそいつに、そのまま水を飲ませた。

 やがて口を閉ざし、溢れた水がこぼれる。
 あわてて水筒を離すと、
「ありがとう。……世話になった」
とぽつりつぶやいた。ほっとした瞬間、急に目をカッと開き、
「天皇陛下万歳!」
と叫ぶやスイッチが切れたように脱力し、かすかに「父さん、母さん――」とささやくような声が漏れて動かなくなった。

「おいっ。しっかりしろっ」
と肩を揺するも、もう息をしていない。思わずガンッとそばの地面を殴りつけた。「くそっ」

 しかし、すぐにポケットをまさぐって軍隊手帳を取り、俺の神力収納から愛用のナイフを取り出した。
 ここは戦場だ。遺体を放置して撤退する可能性がある。だから――。

 震えながら、右手の親指に刃を当て一気に切り落とした。そのまま軍服の一部も切り取って親指を包み込み、手帳とともに神力収納にしまう。人体を切る感覚に怖気が立つが、手帳にあった名前を叫んだ。
「友野戦死!」

 今まで砲撃音と銃撃音で気がつかなかったが、あちこちから「負傷!」「戦死」という声が聞こえてくる。

 どうやら敵は一斉に押し込んでくるつもりはないようだ。ただじわりじわりと近づいているのを感じる。
 そっと頭を出そうとすると、次の瞬間、銃弾が飛んできて鉄帽を掠めていった。

 くそったれ。これじゃ身動きが取れない。……なにか打開策はないか。



 幸いに、その日の攻撃も暗くなるとともに止まり、砲撃が始まると同時に敵は撤退していった。
 どうやら向こうも責めきれなかったようだ。こっちは九死に一生を得た。

 おそるおそる壕から外に出ると、辺りにはえぐれた地面、燃えさかる木片に、転がっている誰かの鉄帽。吹き飛んでいる陣地の残骸が、激しい戦闘の跡を生々しく教えてくれた。
 一面に硝煙のけむたい匂いに、鉄の錆びたような血のにおいが立ちこめ、熱気が滞留しているように籠もっていた。

 同じように壕から這々の体で出てきた将兵の顔は、どれもこれも泥や煤で黒くなっていた。
 幸いに増田も、同じ輜重兵の班の奴らも生き延びていた。

 しかし、生き残った喜びはない。目の前には散々にやられた陣地の惨状が広がっているのだ。
 戦死者の遺体があちこちに転がり、立ち上がれない重傷者がうめき声を上げていた。陣地に隣接する木々も砲撃のせいか打ち折られ、その断面がメラメラと燃えている。

 そこへ大隊本部から連絡が入った。
 無線を受けた通信兵が、言いにくそうにしながら臨時に第9中隊の指揮を執っている千木良軍曹殿に何かを報告した。

 それを受けた軍曹殿は、目をゆがめて口を食いしばり、凄まじい形相で何かを堪えている。

「……転進だ。3299高地西方の陣地に今夜中に移動する。……戦友の遺体を運ぶ余裕はない。各自、準備を急げ!」

 その命令を聞いた歩兵たちは返事をしたものの、誰もがうなだれて散らばって、できうる限りの戦友の親指と軍隊手帳を集める作業に入った。

 俺たちは軍曹殿に一声掛けて、一足先に移動することにした。大隊本部、また3299高地で何らかの命令が来ている可能性があるからだ。

 すぐに陣地を出発して、大隊本部を経由。
 どうやら第3大隊全中隊が3299高地を攻める際に築いた西方陣地に転進するらしい。3299の物資は、残留部隊がある程度を運ぶ予定だが、時間が無いのでほとんど残していくしかなさそうだ。

 せめて……。インパール道が打通されていればあの物資を車で運べたんだが、トンザンの背後を遮断している俺たちにも、逃げる場所はどこにも無いのだ。

 ともあれ、俺たちも山中を進む。
 昨夜からずっと吹き続けている風は、雨雲を運んできたようでどんよりとした雲が空を覆い、そこからスコールのような激しい雨が降り出していた。

 あたかも俺たちの転進を援護するかのような雨。まるで機関銃掃射のように、木々の枝をピシピシと打ち、俺たちの身体にも突き刺さるように打ち付けていた。
 びしょ濡れになり全身が冷えるとともに、お腹から何かが流れ出していくような感覚がする。

 足が重い。身体が重い。心が重い。

 顔を上げるも、いつも空に浮かんでいた月は、黒い雲に塞がれて見えない。ただただひたすらに、雨がすべてを洗い流すかのように降りつづけていた。

03転の章 わが夫(つま)が戦いいますは彼方(あなた)かと 南の空を見つめたたずむ

 マニプール川を渡った俺たちは、その西岸の山中を敵に遭遇することなく、順調に北上し、第一目標トンザン陣地の退路を計画通りに遮断することに成功した。

 その最中、山間の谷間に英印軍の一大物資集積場所を発見。
 通称3299高地と呼ばれるその集積所には、目視できるだけでおよそ1000両のジープやトラック、そしていくつもの倉庫に野戦病院もあるようだ。

 笹原連隊では、トンザン陣地後方を遮断するために、部隊を2つに分けた。第1入江大隊はインパール方面に展開して敵増援を防ぐ。
 そして、第3末木大隊はトンザン方向を遮断。第2大隊は控えである。

 3月16日の朝、俺たちはその第3末木大隊の陣地まで弾薬補給に来ていた。
 大隊本部の倉庫係から、敵3299高地が見える場所を教えてもらい、そこに来ていた。
 ここの陣地は峰の上にあり、敵陣地を見下ろす位置にあるからよく見えることだろう。

 昼間なので姿が見られないように、背の高い茅の間から顔を出して敵陣地を見る。
 眼下の谷間に、話に聞いていた以上の集積所が広がっている。いくつもの天幕、そして、すぐに数えられないほどのジープやトラックが並んでいる。

「確かに、すごい数の車両だ。あれが手に入れば、補給の問題は一気に決着が付きそうだな」
 増田がそういうと、一緒に来ていた俺たちの上官である長谷川小隊長殿が、
「あの倉庫も半年分くらいは優に食料がありそうだ。……是非ともうちに欲しいな」

 だがそのためには、3299高地の入り口にある敵の突角陣地を撃破しなくてはならない。幸いにこっちの方が高地にあるから、有利といえるだろう。

 この小隊長殿は、多分に漏れず士官学校上がりなので25歳ほどの若い将校だ。
 ……というより、俺たち1個小隊も俺と増田以外は若い一等兵、二等兵ばかり。まったくなぜ2人だけおっちゃんが入っているのか、そっちの方が疑問だったりする。

 不意に爆音が聞こえてきた。
 あわてて頭を茅の中に隠して小さくなる。もしスピッドファイア戦闘機なら、上からではなく谷間から低空で飛んでくるからだ。しかもあの戦闘機は旋回性能が高いから、一度場所が露見してしまえば、執拗に機関銃掃射が飛んでくると聞く。絶対に見つかってはいけない。

 だがこの音はもっと大型の……。B―24、いや。ダグラス輸送機のような気がする。
 その時、俺たちの頭上を巨大な影が覆った。

 さっと見上げると、予想したとおりのダグラス輸送機のシルバーの機体が飛んでいた。空気をバリバリと震わせて通り過ぎていく輸送機は、いくつかのパラシュートを投下した。

 空中に咲く花のようにパッパッと広がるパラシュート。全部で……20か。あれだけの物資があるのに更に空輸してるのか……。
「圧倒的だな」
 思わずつぶやきが漏れてしまう。

 輸送機はそのまま通り過ぎていった。きっと他にも補給する場所があるのだろう。
 俺たちが地上を這いずるように歩いている間に、敵軍は空をあっという間に飛んでくる。人も、武器も、食料も、その輸送力は桁違いだ。
 小隊長殿がうらやましそうにつぶやいた。
「俺たちも飛行機で運べればなぁ……」

 その時、ドンっと軽い音がして、何かが風を切る音が聞こえてきた。あわてて3人とも撤退する。
 獣道を走りながら、増田が、
「やばいな。見つかったか?」
と言うが、おそらくそうじゃないだろう。

「元から大隊の陣地は見つかってるよ。さっきまでは輸送機が来るから砲撃をとめてたんだろ」
「そうか、なるほど」
 末木大隊は昨夜も威力偵察をしたっていうし、日中は砲撃を受けているって言っていたからな。とっくにこっちの陣地は、敵にバレてるさ。

 背後から砲弾が炸裂して土砂を巻き上げる音が聞こえてきた。爆発の衝撃が風となり、背中から吹き抜けていく。俺たちは駆けるスピードを上げた。



 第3大隊の陣地に戻るには戻ったが、そのまま陣地の後方に回り込むことになった。
 なぜなら俺たちを狙っていた砲撃と別に、陣地にも直接砲撃が加えられていたからだ。

 そのまま近くに掘られた壕の中にさっと潜り込む。中にいた歩兵が俺を日本人を見て、あわてて銃口を逸らした。
「脅かすなよ。グルカ兵かと思ったじゃないか!」
 怒鳴るように言うのに、俺は頭を下げる。
「すまん。余裕がなかった」

 土まみれの顔で俺を見たそいつは、そこにいろというように顎をしゃくる。
 きっと小隊長と増田も、近くの壕で隠れているんだろうが、同じ状況になっているだろう。

 いつまでも続く砲弾の音に耳がおかしくなりそうだ。
「お前……、輜重兵だろ! 今さら連隊には戻れないぞ。夜までこのままだからなっ」
「この攻撃が夜まで続いているのか」
「あ? もっと大きい声で話せよっ。聞こえねえって」
「夜までこのままなのかっ」
「ああ。……だが、それも今日で終わりだ!」
 そういう歩兵の目がぎらつく。

「今晩だっ」
 ……なるほど。突撃命令か。
 それで俺たち輜重に銃弾の補給命令が出ていたんだな。

 その時、至近距離に砲弾が着弾した。地面がズウンと揺れ、頭上から土砂がバラバラッと降ってきた。
 たしかにこの調子では、夜になるまで連隊本部に戻れそうにない。夜までこいつと一緒にいるほかないようだ。

 歩兵はタバコに火を点けると小銃を構え直した。その間にもあちこちで砲弾が炸裂している。
「お前もそいつ99式歩兵銃の準備をしとけっ。……そろそろ――が来るぞ」

 え? なんて言った?
 と思った瞬間、砲撃が突然途切れ、前方からオオオォと鬨の声が聞こえる。
「グルカだっ。お前も急げっ」

 即座に銃を構え、壕からそっと頭を覗かせる。
 前方の森から沢山の英印軍のインド兵が湧いて出てきて、まっすぐに突撃をしてくる。
 あちこちの壕や物陰から、大隊の兵達が歩兵銃や機関銃で応戦。手榴弾が弧を描いて飛んでいった。

 天帝釈様の戒めを思い出しながら、俺は銃を構えて敵を追い払うように打つ。今回の戦争では初めての実戦だ。射線は上の方に向けているものの、1発撃つごとに走る震動に期が引きしまる。

 俺たちの反撃に先頭のグルカ兵は次々に倒れ、陣地の手前で退却していく。それが終わると、今度は再び突角陣地からと思われる砲撃が始まった。
「くそっ。これだから追撃できないんだっ」

 苛ついて地面を蹴り飛ばす歩兵を見ながら、俺は再び壕の中にうずくまった。


 3月の長い1日がようやく暮れようとする頃、敵の砲撃は少しずつ治まっていった。

 入っていた壕からそっと立ち上がると、まるでプレーリードッグが巣穴から顔を出すように、あちこちから同じように歩兵たちが出てくる。
 一緒にいた歩兵も出てきた。俺は手を差し伸べて身体を引っ張り出してやり、互いに健闘を称えるというわけでもないが、拳と拳をぶつけ合った。

「次は俺たちの番だ。……じゃあな」
と言って大隊本部の方に歩いて行くそいつを見送り、そばにいた長谷川小隊長と増田に合流する。

 俺たちはそのまま第3末木大隊の陣地を出て、インパール道を連隊本部のある西側高地に向かって進んだ。
 夜の闇が迫る。そろそろ日本軍の夜襲が始まるだろうか。

 帰り道、増田が、
「そういえば小隊長殿は結婚は?」
と思い出したように尋ねた。

 こんな時に聞く話じゃないだろうと思ったが、小隊長殿は首を横に振り「独り身だ」と短く答えた。

「そうですか……」
とつぶやいたきり、気まずい沈黙が漂う。

 きっと増田は壕の中で色々と考えることがあったんだと思う。
 いつだったか話していたんだが、あいつは上の男の子こそ国民学校1年生だが、下の女の子は生まれて1年も経っていないという。
 初めての女の子でベタ甘で、もうかわいくて仕方がないと言っていた。

 そういえば石田もひとまわり年下の18歳の若妻をもらっていたが、あれは赤紙が来て、あわてて両親が親戚に声を掛け、従姉妹を嫁にもらったそうだ。
 新婚期間は結婚してから出征まで。俺が8月19日に赤紙が来て、入営は9月1日だったことを考えれば、せいぜいが1週間くらいの結婚期間だ。

 他に誰もいないときに、2人とも絶対に生きて帰るんだと言っていた。脱走まではしないが、仮病くらいならしてでもと。

 それを聞いた俺は、ひどく後ろめたかった。

 今、隣を歩いている増田も、長谷川小隊長殿も、限りある命を生きている。撃たれれば死ぬし、熱病にも冒されるだろう。
 時代が時代なら、こんな戦場に出ることもなく、結婚したり、家で子供たちと暮らしていたはずだ。
 それがいかなる運命の巡り合わせか、こんな南方の、遥か遠い国の山中を歩いている。
 家族と離れて……。



 何事もなく連隊本部に帰着すると、小隊長は本部に報告に行くという。俺と増田は他の輜重小隊のところへ戻った。

 帰りが遅かったから戦死したと思ったという皆に、3299高地の様子を話すと、興味深そうに聞いている。
 その時、突然、東の空に閃光が走った。

 振り向くと、山と山の間から強い光が発している。
 次々に閃光がまたたき、放たれた光が空の雲にまで届いていた。
 同時に激しい砲撃の音と銃撃の音が、谷間を響かせながら伝わってくる。

 誰も何もいわないが、大隊が突撃していることをわかっている。あれは敵が反撃するための曳光弾なのだ。

 バチバチバチという音、重々しいドオンという音、耳を澄ませばわあぁという喊声までもが風に乗って聞こえてきた。

 俺は強く拳を握り、ただひたすらに強い閃光を放つ山間の方角をじっと見つめる。

 がんばれ。戦友たちよ。

 まわりの皆も同じように、今まさに突撃している方角を見ている。無言のうちに、砲撃音が続く。
 いつしか小隊長殿も戻ってきていて、並んでいた。


 ――戦闘音が途絶えたのは翌朝午前5時。
 戦傷者が続出し全滅に近い隊も出たが、末木大隊は突撃攻撃を成功させた。

03転の章 わが夫(つま)が戦いいますは彼方(あなた)かと 南の空を見つめたたずむ

 空には折しも十五夜の満月が煌々こうこうと輝いている。
 柔らかい光が夜の世界を照らし、まるで影絵のように木々を、山々を浮かび上がらせていた。

 目の前には、幅およそ70メートルほどのマニプール川がゆったりと流れている。谷間を流れる夜の川。黒々とした水がなまめかしく月光を反射している。

 3月はまだ暑季だ。
 昼間の熱気が夜の6時を過ぎた今も、濃密に立ちこめていた。

 手前の川原には、木々の枝の下に多くの将兵がその時を待っている。俺たちは今夜、この川を渡る。
 遥か北方。山々を踏み分け、国境を越え、その先にあるインパールを目指して……。


 昨年から、ビルマ方面軍の隷下れいかにある第15軍で、インパールを攻略して、中国の蒋介石しょうかいせきを援助するルートを塞ぐ計画が検討されていたという。

 その計画。ウ号作戦というが、それに備えてか、俺たち弓師団の師団長は桜井中将から柳田中将へと、また輜重兵しちょうへい連隊長も陳田ちんだ連隊長から松木熊吉連隊長に代わっていた。

 輜重兵連隊の編成も変わり、馬はすべて第1中隊に集め1個小隊を編成。
 残りの第1中隊と第2中隊とは牛で編成。
 第3、第4中隊は従来通りの自動車編成となった。

 俺も増田もなぜか第2中隊から選抜されて、新たに編成された1個小隊に配属となった。 ただここだけの話だけれど、俺は牛よりも馬の方が扱いに慣れているので、内心では少しうれしい。

 ――今、斥候せっこうの小隊が、渡河とか地点を探るために川を調査している。
 すでにここは敵連合国の英印軍と日本軍とがぶつかり合う最前線。いつどこに敵軍が潜んでいるか分からない。
 それに制空権はすでに英印軍の手に渡っていた。


 斥候小隊が調査している間に、渡河のヘルプに来てくれた工兵達がゴムボートの準備を始めている。
 制空権が敵に握られている以上、もし渡っている最中に敵機に見つかってしまったら、俺たちには逃げ場は無く全滅の危険性がある。

 月明かりを頼りに作業を続ける工兵たち。
 その作業を見つめていると、増田がやってきた。
「いよいよだな」
と声を掛けると、増田も真剣な眼差しで工兵の作業を見つめながら、「ああ」と短く答えた。
 普段はおしゃべりが好きなこいつも、今は緊張からか沈黙をたもっている。



 敵の情報だが、再びインドとの国境を犯してこっち側ビルマに侵入してきていて、すでにトンザンあたりに強固な陣地が構築されているらしい。

 そのインドはイギリスに長年支配されていた。しかしその支配を打ち破り独立を目指そうと、チャンドラ・ボースが独立運動を展開。昭南シンガポールで独立連盟を結成し、インド国民軍を組織したらしい。
 彼らは日本の陸軍とともにインドに侵入し、独立運動を活発化しようと考えているそうで、まだ合流こそしていないものの、このウ号作戦にも参加する予定になっている。


 日本軍がインドのインパールを目指す。それがウ号作戦だけれど、どうも第15軍の牟田口司令官殿は、さらにその先のアッサム州ディマプールまで軍を進める内意があるらしい。
 ――あくまで噂レベルの話なので、どこまで真実かはわからないが。


 さてそのウ号計画の内容を少し説明しておこう。

 ビルマ中西部。
 チンドウィンという大河の西岸にカレワという部落があり、そこからアラカン山系の山々をうようにインパール道がある。

 我が弓33師団はこの道路に沿って進軍し、途中にある敵トンザン陣地を攻略。さらに道をさかのぼって国境を越えてインパールを目指す。

 同じ第15軍、通称号:林の隷下れいかにはまつり15師団と烈31師団があり、祭は東と北からインパールへ、烈はインパールの背後にあるコヒマを制圧して退路を遮断し、3師団でインパールを包囲する計画となっている。
 雨季が近づいていて、作戦開始がいつになるか心配していたが、ちょうどインパールを制圧した頃に雨季になれば、敵の英印軍は反攻作戦もできないだろうという読みらしい。

 なるほど、図面上から判断すれば、インパールを弓、烈、祭で包囲する作戦で有効な作戦といえるだろう。
 ……こっちの補給線が細く長すぎて、とても維持できないということに目をつぶればだが。

 はっきり言って、無理だろう。


 インパールまで図上の計算では約190キロ。実際は山あり谷あり川ありで、行軍距離は470キロほどになると想定される。
 仮に30日で計算すれば、1日におよそ16キロを歩く計算となる。途中に立ち塞がっているのは、日本アルプス級の山々だ。しかも戦闘しながらで、果たして計算通りにいくだろうか。

 物資輸送は俺たち輜重兵の任務でもあるから「厳しい」とか「無理」とか言いたくはないが、正直補給線をどこまで維持できるかわからない。

 足りない物資は敵陣地で奪う心づもりなのだろうが、そもそもその敵陣地がいくつあるかもわかっていないのだ。
 あるかどうかもわからない物資を頼りに進軍するには、距離が長すぎる、道程が厳しすぎる。

 もちろん危険を恐れて戦争はできない。できない理由を挙げることは簡単だ。それを乗り越えてこそ勝利があるのも道理だろう。
 ……ただ。その上でだ。

 今回のウ号作戦は生半可な戦いでは済まない。そんな予感がしている。
 第15軍の牟田口司令官は50日でインパールを攻略するとか、4月29日の天長節天皇誕生日には堂々とインパール入りすると豪語しているらしいが……。

 しかしそんな俺の不安とは関係なく、昭和19年2月25日、弓第33師団から所属する各部隊に命令が伝達された。

「一、師団は極力企画を秘匿ひとくしつつ、作戦準備を整備強化しX―7日Xの7日前一斉に行動を開始し、一部を以てヤザギョウ―タム―パレル道に沿う地区を、主力を以てトンザン―チッカ―インパール道を、インパールに向かい突進せんとす。

(中略)

九、輜重兵しちょうへい連隊は動物輜重を以て中突進隊の後方を前進し、中及び左突進隊の補佐に任ずると共に、自動車輜重を以て右突進隊の補給及び主力方面の集積に任ずべし。

(中略)

十一、物資収集利用班は、各突進隊の後方を前進し、鹵獲ろかく物資を収集利用し、師団の戦力増強を図るべし。
十二、各突進隊及び各隊は、行李を含み十四日分の糧秣りょうまつを携行すべし。
 特に現行物資、鹵獲物資の収集利用に努め、戦力を保持増強すべし(以下略)」

 ウ号インパール作戦自体のX日は15日。俺たち弓師団の作戦発起はXマイナス7日である今日、3月8日。

 先の命令に明らかなように、弓33師団の本部は、部隊を右突進隊、中突進隊、左突進隊の3つに分けた。

 右突進隊は山本募少将指揮下に、歩兵第213連隊主力、中・軽戦車30両あまりの戦車を持つ戦車第14連隊、9門の九四式山砲、8門の自動車牽引けんいん15榴弾りゅうだん砲と10カノン砲など、野戦重砲兵じゅうほうへい第3連隊、同第18連隊を配属。

 中突進隊は作間さくま大佐指揮下で、歩兵第214連隊主力、山砲兵33連隊の1ヶ大隊を配属。……香織ちゃんの旦那の秀雄くんの部隊だ。
 そして、左突進隊は笹原大佐指揮のもと、歩兵第215連隊主力、山砲兵33連隊の第3大隊を配属する。

 作戦では、まず右突進隊は北から回ってパレルからインパール平原に出て、東南の方角からインパールを目指す。
 中突進隊と左突進隊は、トンザン付近の敵陣地を2方向から挟撃きょうげきして殲滅せんめつし、そこから北に進みインパールを目指す計画だった。

 輜重兵連隊は、俺たち駄馬1個小隊が左突笹原連隊の配属。
 一部の自動車隊を右突山本連隊の補給任務に、そして残りは主力部隊の補給任務に就くこととなっている。

 各自持参する食糧は14日分。
 その内訳は、各人携行が12日分、行李こうり部隊運搬うんぱんが1人2日分計算の糧秣りょうまつ、そして、輜重隊で1人6日分の糧食を連隊分ごとに輸送することに決まった。

 各人の携行量は米だけで10キロ、外套がいとうや携帯天幕を入れると40キロの軍装となる。さらに歩兵銃や弾薬、手榴弾しゅりゅうだんなどを装備すれば60キロの装備。……60キロだぞ。
 高校生男子を常に背負っていると想定すればその重さがわかるだろうか。一度座ってしまえば、1人で立ち上がることも厳しい重さだ。

「どうやら準備ができたようだな」
 増田の声に、我に返って前を見ると、にわかに笹原連隊の動きがあわただしくなっていた。
 ゴムボートが川に乗り出され、そこへ歩兵がワラワラと集まって乗り込んでいく。

「敵影はなさそうだ。戦闘機の音もしない。――頼むから、俺たちが行くまでこないでくれよ」
 祈るような増田のつぶやきに、俺も黙ってうなずいた。

 数日前にも、夜間に敵の爆撃機の大軍が俺たちの頭上を通過していった。
 制空権を握られている俺たちにとって、行動できるのは視界の効かない夜だけ。……そう。今の、この時間だけなんだ。
 幸いに敵飛行機の影はない。最後まで来ないで欲しい。



 ゴムボードが静かに対岸に向かって進んでいく。
 漆黒の川を行く仲間たち。その姿は俺の目に、伝説のアケローン川を渡る船のようにうつった。

 冥界の川ステュロス憎悪の支流であるアケローン悲嘆川。
 その川を自由自在に渡れるのは、エレボスニュクスの息子である渡し守カロンのみだという。

 かの『神曲』の一節が思い浮かぶ。

 ――天を見るを望むなかれ、我は汝等をかなたの岸、永久とこしへの闇の中、熱の中、氷の中に連れゆかんとて来たれるなり。


 今、俺たちは、六文銭も1オロボスも持たずに、亡霊のごとく渡河の順番を待っている。そして、自分たちの力で暗黒の川を渡ろうとしているのだ。
 果たしてこのうち何人の将兵が、生きてこの川を渡って帰れられるのだろうか。

 気がつくと、俺は右手をお腹に当てていた。そこには春香が何日も何日も街角で頭を下げてくれた千人針がある。

 俺たちを守るは、妻や母の願いの結晶である十五の守りのみ。
 春香の祈りが俺を守ってくれる。そう信じている。――だから行こう。

 たとえあの川の向こうが地獄であったとしても。俺の女神が守ってくれるなら、恐れるものは何もない。ただこの戦争を、この先の戦いをこの目で見届けてこよう。
 どんなに苦悩にさいなまれようと、何が待ち受けていようと、俺には春香がいてくれるんだ――。

 地の底を流れる川を、影絵のような一団が渡っていく。
 ただビルマの黄金こがね色に輝く月だけがそれを見守っていた。

 


03転の章 わが夫(つま)が戦いいますは彼方(あなた)かと 南の空を見つめたたずむ

 夏樹が出征してから1年と半年が過ぎた。

 あれから私は清玄寺の奥の離れで生活をしている。
 恵海さんと美子さんが心配してくれたってこともあるんだけど、1人で蔵にいるとどうしても寂しくなっちゃうから、甘えさせてもらうことにしたんだ。

 今日は、雪も深まっている昭和19年の1月17日。
 清玄寺の広間で開かれている隣組の常会月例会合に来ている。

「――ということで、皆さまには再三再四のお願いですが、国債の分担をお願いします」
 隣組の組長である石川さん、の奥さんがそういうけれど、いつもはおしゃべりで騒がしい他の人たちは目線を合わせないように下を向いていた。

 その気持ちもわかる。
 どこも借金だらけでとても国債を買う余裕なんてないんだから。
 国債の割り当てが隣組に課せられてくるんだけど、政府ではこんな農村では負担が重すぎることくらいわからないんだろうか。

 誰もが返事をしないし、隣組組長さんもそれがわかっているんだよね。だから本来は旦那さんが言うべきなのに欠席しちゃって、奥さんのまささんに言わせているってわけ。
 お互いにお互いの事情がわかっているだけにねぇ。まささんも言いにくいけど、言わなきゃしょうがない。辛い立場だと思う。

 恵海さんが皆の様子を見てため息をついた。
「しょうがない。うちに持って来なさい」
とまささんに言うと、まささんは、
「いつもすみません」
と頭を下げていた。

 この光景ももう何度も見ていた。
 で、清玄寺にもお金がなくなってきているから、国債のお金は、結局うちからこっそり出すことになる。
 恵海さんが申し訳なさそうに私を見た。
 ……まあ、しょうがないよ。
 そっと微笑んで小さく首を縦に振る。大丈夫。これくらいの負担は、夏樹だってわかってくれる。

 だるまストーブに乗せたたらいから、湯気が立ちのぼっている。窓の外は雪が降り続いていた。――今晩も寝るときは寒そうだ。


 昨昭和18年の11月5日から6日にかけて、東京で大東亜会議が開催された。
 東京に、ビルマ、満州、中華民国、タイ王国、フィリピン、インドの各国代表が来て大東亜共同宣言をしたわけで、それを新聞で知った皆はいよいよアジアの独立に意気揚々、……とはならなかった。
 農村も農村の松守村では、それよりも日々の生活の方が大切だった。なにしろ男手がどんどん減っているのだから。表面上は特に何もないけれど、内心では早く戦争が終わって欲しいと考えている人も増えてきつつあるように思う。

 もっともあの大東亜会議には諸刃の剣の一面がある。
 6ヶ国政府といっても、私自身、日本が独立させた国は傀儡かいらい国家のようなイメージを持っているし。あの大東亜共同宣言だって、米英の侵略にアジアが立ち上がろうっていう内容になっていた。今までの日本の主張そのままだけど、各国の意見は盛り込まれているんだろうか。
 たとえ傀儡でなかったとしても、結局のところは対立をあおるだけ。もちろんそれが狙いなんだろうけど。


 それに戦況は、新聞で書かれていないようだけれど、次第に敗色が濃厚になっているのが透けて見えた。
 昨年の5月の下旬だったろうか。山本五十六元帥の戦死が報道され、村内も一時騒然としてショックを受けている様子だった。
 ガダルカナル島だって「転進」って書いてあったけど、実際は敗走していたはず。

 それに10月には、とうとう徴兵ちょうへいを免除されていた学生も、繰り上げ卒業となって出陣することになり、その壮行会が盛大に行われたし……。
 学徒出陣だけではない。女性の社会進出といえば聞こえは良いけど、鉄道員や運転手、軍需工場で働く女性が増えていて、段々と戦争末期の様相を呈しはじめているように感じた。
 いずれ子供たちも工場へ働きに出ることになるだろう。

 敗戦まであと1年半。
 きっと夏樹も戦場で色んな嫌なものを見ているだろうし、それを思えば私も泣き言はいえない。


 その日の夜。
 離れで1人、夏樹からの手紙を読み返していた。

 〝お前を連れてきたいと思っている〟と書かれている言葉に、そっと微笑む。
 どうやら地元の人たちとは上手にコミュニケーションがとれているみたいだし、変化に富んだ風土のようだ。
 優しい人たちか……。ビルマね。

 きっと膝の上で書いたんだろう。いつもの夏樹の文字よりは形が崩れている。
 一体どんなところにいるんだろう。何を見て、何を考えながら書いていたんだろう。軍隊生活ってどんな風なんだろう。他の人と上手くやっていけているんだろうか。
 辛い目に遭っていないかな。哀しくて理不尽なことに、怒りを覚えていないだろうか。

 ……夏樹は自分でため込んで、私以外の人には相談しないタイプだから心配になるよ。
 持って行った私の人形は、役に立っているだろうか。

 最後の〝愛してる〟の文字を指先でそっと撫でる。
 細い線の文字だけれど、そのインクが温かい。この文字の先に夏樹がいる。それが指先に感じられるような気がした。
 あたたかくて優しいあの声が、また聞きたい。あのまなざしに見つめられたい……。


 息を深くはいて、そっと目を閉じる。今ははるか遠くにいる夏樹の気配を求め、感覚を広げ研ぎ澄ませるけれど、雪の夜特有の静寂がひしひしと感じられるだけだった。
 それがまた孤独感をつのらせる。

 ……ああ、駄目だ。こんな夜は心細くなってしまう。もう寝た方がいいかも。

 手紙を畳んで机の上に置き、部屋の明かりを落として布団に入った。
 あらかじめ入れておいた湯たんぽのお陰で、中はほんわかと温かい。私は夏樹枕を抱き寄せて、そっと目を閉じた。


 顔に太陽の光が当たっている。
 そっと目を開けると、満開の桜が天蓋のように私を覆っていた。重なった花々の間から、木漏れ日が、キラキラと射し込んでいる。

 大きな桜の木。この木は……、そうだ。
 子どもの頃、よく遊びに行った裏山のお寺。街を見下ろす高台にあった桜の木。
 そして、夏樹が私に「春香が好きだ。誰よりも愛している」と告白してくれた場所だ。

 忘れたことなんてない。けれど遠く、少しおぼろげになってしまった記憶。

 ああ、ここから見える景色はこんな風だったな……。

 懐かしさに目を細めた時、さあっと一陣の風が吹き抜けた。
 桜の花びらが、はらはら、はらはらと一斉に舞い降りる。

 どこからともなくパンパイプの音が聞こえてきた。遊牧民の奏でる風の歌のような、素朴な音色。

 このメロディー……。これは旅の合間に、夏樹と一緒に作った曲。私たちだけの、私たち2人をうたった歌。
 自然と唇から言葉がこぼれていく――。


 嵐が過ぎるまでは 岩陰でやりすごそう

 雨がやんだら 立ち上がり 再び一緒に歩きだそう

 どんなに辛い道のりも

 あなたがそばにいてくれるなら 


 ……ああ。そうよ。夏樹がそばにいてくれるなら、どんな辛いことも我慢できる。
 貴方がいない切なさが、愛しさが、胸の底からこみ上げてきた。目元が涙でにじんでくる。

 その時、夏樹の声が聞こえてきた。

 ――私は歩いて行ける 勇気をくれるあなたと だから


 振り返ると中学生の時の夏樹がそこにいた。懐かしい学ランを着て、まだまだ幼い子どもの顔でそっと微笑んでいる。
 夏樹の歌声に重ねるように、私も一緒に歌おう。


 いくつもの時を超えて

 その先へ その先へと 2人で行こう

 風に吹かれ 虹の向こうに

 風に吹かれ 空の果て

 どこまでも 一緒に行こう

 歌っているうちに、夏樹はまるで早送りの動画のように大人になり、着ている服も結婚式の時の礼服に変化していった。
 気がつくと、私もあの日のウエディングドレスを着ている。
 歩み寄ってきた夏樹が私に手をさしのべる。その手を取ってほほえみかけると、私と夏樹の間を、桜の花びらが風に乗って通り過ぎていった。

 これは夢だ。
 それはわかっている。目が覚めたらきっとまた、1人。

 それでも、今は。この夢の中だけでも、貴方を感じていたい。
 そっと胸に飛び込んで抱きしめる。夏樹はそっと私の髪を撫でてくれた。

 ――ヒンヤリとした空気に目が覚めると、そこは眠りについた離れの部屋だった。
 もう見慣れてしまった天井に、冬の冷たさ。

 ああ、朝が来た。来てしまった。
 あなたのいない一日が、また始まる……。

 寝ているうちに泣いてしまったんだろう。濡れた夏樹枕が妙に冷たかった。
 けれどもそのまま顔を押し当てて、匂いをかいだ。
 もちろん、夏樹の匂いなんてない。それでも、少しでも夏樹を感じたかった。


 どれくらいの時間をそうしていたかわからないけど、ようやく起きる気になって、枕元に置いておいた普段着のもんぺを布団の中に引き込んで、そのまま着替えてしまう。
 布団の外は寒いから、これくらいはいいよね。

 のろのろと起き上がって障子を開けると、朝日の光に、凍りついた木々の枝や積もった雪がキラキラと輝いていた。

 ――ああ、会いたいなぁ。


◇◇◇◇
 その日の午後、冬装備に身を包んだ香織ちゃんがやってきた。

「奥様! 明日は映画館に行きませんか?」
 そう言う香織ちゃんのほっぺは、外の冷気で赤くなっている。

「え。どうしたの?」
 なぜかキラキラした目をしている香織ちゃんに戸惑いを隠せない。
 せき払いをした香織ちゃんが、
「私も他の人から聞いた話なんですけど。――日本ニュースでビルマが出ているらしいんです」

 ああ、なるほど。

 日本ニュースってね。
 占領地の様子や国内のニュースを動画で流すニュース映画なんだけど、内容は戦意高揚のためのプロパガンダ的なものだ。

 ……夏樹が出ているってことはないよなぁ。おそらく香織ちゃんも、秀雄くんが出ているかどうかも知らないとは思う。
 それでも見たいんだろう。その気持ちはわかる。

 秀雄くんが今どんなところにいるのか知りたいんだよ。少しでも同じ空気を感じたいんだろう。私もそうだもの。
「――そうだね。じゃあ一緒に見に行こうか」


 こうして約束を交わした私たちは、明くる日、黒磯の映画館に向かった。

 戦時中ではあっても、今のところ映画はそれなりに上映されている。この日は去年の正月に封切られた『姿三四郎』を再上映しているらしい。

 久しぶりの映画館で少しドキドキしている。香織ちゃんもうれしそうに隣の椅子に座っていた。
 東京以来だものね。映画を見るのは。


 やがて会場の照明が暗くなり、正面が四角く明るくなる。


 ―第189

 スクリーンに文字が浮かび、ラッパの音が流れ出した。続いて「脱帽」「大元帥だいげんすい陛下親臨しんりん 陸軍はじめ観兵式」と文字が浮かぶ。
 前の席の人がかぶっていた帽子を取った。

「大東亜戦争下、3度迎える陸軍はじめ観兵式は、かしこくも大元帥だいげんすい陛下の親臨しんりんを仰ぎたてまつり、1月8日、代々木練兵場において、いとも厳粛に執り行われました――」

 捧げつつをして整列している将兵たち。その前を騎乗した天皇陛下の一行が通り過ぎ、つづいて陸軍の行軍、空には航空隊の飛行機が編隊を組んで飛ぶ様子が映し出された。


 つづいて「戦機せんき動く」の文字が映し出される。
 白黒の映像だけれど、まるで夏空のように白い雲が浮かんでいる。山野を背景にした鉄道の線路。
 あの鉄道は、最近完成したという泰緬たいめん鉄道だろうか。

「――ビルマの空は紺碧こんぺきに晴れ、空に、陸に、戦機動く」

 ああ……、あれがビルマ。あそこに夏樹がいるんだ。

「空との戦い、ジャングルとの戦い、そして不足をしのぶ補給の戦いである。陸の精鋭の労苦を思い、健闘をいのるや、せつである」

 上半身はだかになったビルマの人たちが、荷台に荷物を載せている。
 トラックを運転する兵士。
 輜重兵しちょうへいだろうか? 顔がよく見えないのがもどかしい。
 揺れるトラックから前方の道を移すカメラ。BGMといい、このシーンは妙に冒険映画みたいな撮り方。まるでインディ・ジョーンズシリーズの映画の一コマのようだ。
 そのままトラックは森の中に入っていく。

 林の中にひっそりと建物がたたずんでいった。その傍には木々に埋もれるように車が隠してある。
 宿舎らしく、中のテーブルで将兵が何かを書いていた。

 そして画面は変わり、平野に集合したチャンドラ・ボース率いるインド国民軍が行軍している映像となった。

「1月7日、スバス・チャンドラ・ボース氏は、自由インド仮政府をひきいてビルマに進んだ」

 次の映像は……、爆撃を受けた寺院だろうか。

 崩れた寺院の塔パゴダ、頭のもがれた仏像、そして瓦礫がれきの中にたたずむ白い仏像が映し出された。その虚空に向けられた眼差しが、どこか諦念あきらめを感じさせる。
「――彼らの言う『敵に与えた大損害』とは、かくのごときものである」


 再びコントラストの強い空となり、モクモクとした大きな積乱雲せきらんうんを背景に、戦闘機が飛んでいく。私には戦闘機の種類なんてわからないけど、それでもその映像はかっこよかった。

「見よ、敵機撃墜げきつい。我が爆撃機は敵・軍事施設を爆砕ばくさい。全機悠々ゆうゆう、帰還のにつく――」

 最後に映し出されたのは、上空から見たビルマの山河だ。あの大きな川はイラワジ川だろうか?
 その向こうには山稜さんりょうがまるで波のように、どこまでも連なっていた。

 ふと気がつくと、いつの間にか口元がほころんでいる。
 遠いビルマの風景。ビルマの人々に、将兵たち。
 ほんの僅かなショートフィルムだけれど、確かに夏樹と同じ空気を感じていたと思う。
 戦争の映像なのに、なぜかそれがうれしかった。

03転の章 わが夫(つま)が戦いいますは彼方(あなた)かと 南の空を見つめたたずむ

 あのアラカン越えから半年が過ぎた。

 今から思い返しても、あの横断行は厳しかった。
 しかもだ。ミンダサカンを抜けたところで、新たな師団命令が俺たちを待っていたんだ。
 ――輸送品をここに集積し、再びポーク村に戻り補給をした後に急行せよと。

 中隊長以下、その命令に接して愕然がくぜんとした。あの山を戻るのかと。
 けれど、命令とあらば従わなければならない。肩を落として再びミンダサカンの高峰への道を登ったのだった……。

 再び犠牲者を出しながらもポークで弾薬を補給し、また取って返す。3度ミンダサカンを通り抜けるとすでに先発の部隊は先に進んでいて、俺たちは急いで追及したわけだ。
 途中でチン族などの集落があり、荷物運びの苦力として何人かの村人を雇い入れた。彼らのことはそのうち紹介しよう。

 アキャブ攻防戦は雨期に入ったおかげで、どうにか英印軍を退けた。しかし、近いうちにイギリス、……いや連合国軍の大反攻作戦がありそうな予感を、俺たちにひしひしと感じさせていた。

 今は、雨期のまっただ中の8月の28日。
 バラック小屋の明かりの下で、俺は春香への手紙を書いていた。

〝ビルマに来て半年くらい経つけれど、ここは優しい人が多いように思う。ほかの地域の人とは違う何かがあるよ。
 仏教に帰依している影響だと思うが、他人が喜ぶことをしてあげるということが、ごく自然なことのようだ〟


 俺が日本の軍人だということもあるのかもしれないし、勿論すべてのビルマの人がそうじゃないだろうけどさ。
 近代化して、西洋の影響を受けた日本。それと対照的で、素朴なビルマ。住んでいる人々にとって、どちらの方が幸せなんだろうか。
 それはさておき、


〝今回初めてビルマに来たわけだが、この戦争が終わったら是非ともお前春香を連れて来たいと思っている。
 きっとお前も気に入ることと思うよ〟


 シルクロードをよく利用してはいたが、陸路の方は途中からヒマラヤ山脈の北側へ抜けるルート。海のシルクロードでも、インド、スリランカの次はタイのクルンテープバンコクか、インドネシアのスンダクラパジャカルタに行くのがお決まりのコースだった。
 途中にあるビルマは、いつもショートカットしていたんだよね。


 ただ1度だけ、ビルマを訪問したかもしれない時があった。

 かつてシルクロードを西へ向かっていたとき、砂漠で行き倒れになりそうな僧侶玄奘三藏がいて、一緒にインドのナーランダ僧院まで行ったことがあるんだ。
 俺たちはそこで別れたんだが、聞くところによると、その僧侶はナーランダ僧院を訪問した後でインドの東側へ向かったという。

 あの時、もしも一緒に行っていれば、あるいはビルマにも足を踏み入れていたかもしれない。結局はその機会は訪れなかったわけだが。

 ともあれ、ここの人たちの気質は春香も好きになると思う。それに、


〝国土も山脈あり大河あり、気候もスコールありと、変化に富んでいてなかなか面白い。
 年間通して昼間は30度を超える月が多いんだが、高い山に登ると一気に冬のように寒くなったりもする。
 かといって、一度谷間に降りて次の山に登ったら、標高が低いとうっそうとした密林が待っていたりするんだ〟


 これは、この前のアラカン横断でわかったことだ。
 手紙には軍の検閲けんえつがあるから作戦の詳細を書くことはできないんだが、かつてアフリカやブラジルの密林を冒険した時を思い出してしまった。
 あの時のように、2人で密林や山脈の踏破とうはにチャレンジするのも面白そうだ。きっとまだ見ぬ絶景もあるに違いない。


〝とまあ、こっちは元気にやっているよ。秀雄くんもそうだ。安心してくれ。
 ――愛している。

  春香へ      夏樹〟


「奥さんへ手紙か」
 自分の名前を書き終えたときに、後ろから増田が話しかけてきた。
「驚かすなよ」
「っと悪いな。……酒を買ってきたから飲まないかと思ってよ」
「ああ、じゃあ、ちょっと待ってろ。ナッツか何かあったと思うから」
「おお助かる。ビルマの独立でも祝おうぜ」
「ははは」

 そう。今月8月の1日にビルマは独立を宣言したのだ。もちろん日本軍が支援する形なので、実質的にどうなっているのかはわからないけれど。それでも独立に向けて大きな一歩を踏み出したことには変わりがないだろう。

 南方軍では英印軍および連合国軍の反攻作戦に備え、新たにビルマ方面軍を組織した。それによって、俺たちは大本営―南方軍―ビルマ方面軍―第15軍の隷下れいかに入ることになる。

 英印軍を主力とする連合国軍は、隣接するインド・アッサム州のインパールを拠点として、ビルマ国内に勢力を伸ばしつつあった。

 タイとビルマをつなぐ泰緬たいめん鉄道の建設が続けられているらしいが、こんな雨期ではさすがに工事は延び延びになっていることだろう。……あまり情報が入ってこないので状況がよくわかっていないんだ。
 ただ完成したところで、日本からの物資輸送は結局のところ海上輸送が肝となるので、この鉄道の効果も限定的なもののようにも思う。

 それはともかく、アキャブ作戦後、俺たちは再びエナンジョンに駐留していたんだが、先月になってパコックに移駐することになった。
 同じイラワジ川沿いではあるが、ビルマ中部の物流拠点に当たる重要地だ。

 再び地勢の話になるが、このパコックより少しさかのぼった地点で、西北から流れてくるチンドウィンという大河がイラワジ川に合流する。
 つまりこのパコック周辺は、河川交通のターミナルポイントに当たっているのだ。

 そんなわけでパコックに移ってきたわけだが、さっそく輸送任務を与えられた。今度の輸送は象を使う計画なので、現在、その訓練をしている。
 なお師団本部は相変わらず、ここから東のタウンギーにあった。あそこは避暑地リゾート地らしいから少しうらやましい。

 雨がトタン屋根をリズミカルに打ち付けている。地面の水たまりを打つ音、金属に当たる音など、様々な音が雑多に聞こえてくる。
 雨期になったせいもあるのか、蒸してはいるが少しひんやりとした空気が漂っていた。

 買い置きしていたナッツ類を持って戻る。甘いと酒に合わないので塩を振りかけてシェイクしておいた。

「毎日毎日よくも降るもんだ」
 呆れたように言う増田に俺も同意する。「まあな」
「そういえば午前中に街に出ても、僧侶に会うことがなくなったな」
 さっそく乾杯した後で、思い出したように言う増田だった。

 確かに朝、馬の運動のために騎乗して町に出ているんだが、以前はよく小さい修行僧の集団と出会ったものだ。
 上座部じょうざぶ仏教の黄色くゆったりした袈裟けさを身につけて、くりくりっとした頭と澄んだ目をしたお小僧さん。
 町の人たちは、順番に彼らの持っている大きな鉢に米を入れていたが、あれは托鉢たくはつだったのだろう。それがわかってからは、俺も何度か布施ふせをしていた。

 町の人に聞くところによると、食事は朝と昼の2回、午後は断食の時間となるらしい。その彼らの姿が最近は見られなくなったわけだが、この時期だと安居あんごなんだろう。
 寺院にもりきりになっているんだと思う。

「そういえば、托鉢しないで食事とかどうしてるんだろう」
 ふと疑問が口をついて出てきた。増田がおでこをテカらせて俺を見上げる。こいつひげが伸びてきたな。
「そりゃあ、食べられなきゃ死んじまうわけで……、誰か面倒見てんだろ。門徒もんとさんとか」

 日本ならそうだろう。が、ビルマの寺院にも檀家とか門徒とかが組織されているのか?
 でも村の人が支援してるというのは、当たっているだろう。

 食えなきゃ死ぬ。それは俗人でも出家者も同じ。
 ……例外は俺みたいな存在だけだろう。

「そういえば、こっちのお寺っていったことないな」
 増田がつぶやいた。
「今度行ってみるか?」
 確かここの近くに有名なパガン寺院群があったはずだ。俺は興味がある。

 すると増田は首を横に振り、
「俺は良いよ。……うちは阿弥陀さんだが、そんなに信心深いわけじゃねぇし」
「俺は行ってみるよ。個人的に興味がある」
「お土産頼むぜ」
「こっちの寺にお土産なんかないだろ」
「ははは。それもそうか」

 しょうがない奴め。俺はそう思いながらも、村で何か買って帰ろうと思った。


◇◇◇◇
 それから数日が経ち、俺は外出許可をもらって宿舎を出た。パコックの岸辺から焼玉やきたまエンジンの船に乗せてもらってパガンに向かう。

 幸いに雨期にもかかわらず、雨はパラパラと降るくらいだった。
 水量の増えたイラワジ川を、ポンポンポンポンと独特のエンジンの音を立てながら船が進んでいく。
 船頭のビルマの男性は、草を編んだような傘をかぶっていた。

『パガンには沢山のパゴダがありますよ』
『そうみたいだね。でも夕方には帰らないと行けないから、どこまで回れるかな』
『それは残念。ですが、それでしたら最初はアーナンダ寺院をお薦めしておきますよ』

 ああ、その寺院の名前はどこかで耳にしたことがある。……そうか、パガンにあったのか。

『ありがとう。ぜひ行ってみるよ』
『いえいえ。日本人が私たちのパゴダに参詣してくれるなんて、私にとってもうれしいことですよ』
『実は軍に入る前は、日本の寺院に住んでて農作業をしてたんですよね』
『おお。それは尊いことです』
『はは……』

 まあ、清玄寺に奉仕しているわけじゃないから、船頭さんが想像しているのとは違うだろうけどね。

『今は安居でしょうから。僧侶は寺院に閉じこもってますし、先生みたいな方がいるとありがたいでしょうね』
 俺は苦笑しながら、
『実は日本には安居はないんですよ。こちらと違って』

 そうなんですかと言った男は、少し物憂げな表情になった。
『こっちでは今困っていましてねぇ。……かつては王様が安居中の寺院への布施を行っていたんです』

 ……そうか。
 安居中は托鉢に行かないけれど、王様の布施があるから大丈夫だったのか。

『ところがイギリスが来てから……。彼らは布施をしないんですよ。弾圧されないだけマシなのかもしれませんけど』
『おそらくイギリスは他にも多くの植民地を持っているから、各地の宗教には触れないように統治しているんだろうね』
『はぁ、そうですか。……ですが、安居中の寺院は王の布施でやりくりしてましたから、パゴダの方では随分と困っているみたいですね』

 そうだろうな。
 たしか安居中に托鉢たくはつにいかない理由は、雨期は虫が繁殖はんしょくする季節でもあって、外を出歩くことでいつの間にかその虫を殺すことがないように、という理由があったはず。不殺生戒だな。
 戒律でお金を持つことも禁じられている。その上、出歩けなければ托鉢ができない。食糧がなければ死んでしまう。

 国王の統治からイギリス統治になって、イギリスとしては宗教は自由にしておいて、上手く統治できているつもりだったのだろう。が、それは支援もしないということで、かえってパゴダにとってのあだになってしまっていたわけだ。

『この度、日本のお陰で独立しましたけど、本当は安居の寺院への布施があると助かると思います』
『ああ。……事情はわかりました。ただ日本軍もそこまで裕福じゃないので厳しいかもしれません。個人的には同じ仏教国ですから思うところもありますけど』
『そう言っていただけるだけでもいいですよ。本当は我々の布施で支えないといけないことですしね』

 日本の仏教事情とビルマの仏教事情はまったく違うからな。おそらく進言しても無理だろうと思う。
 戦後の日本国憲法では信教の自由が定められるけど、その信教の自由もビルマの場合は実情にそぐわない可能性が高い。やはりその地方、その地方にあわせた統治の仕方が必要だと思う。

 やがて川岸の向こう広がる林の間から、金色のパゴダの尖塔や大きな赤茶色の寺院の壁が見えてきた。
 数が多い。これら1つ1つがパゴダや寺院なのか。

 考古学者としての血が騒ぐ。妙に気分が高揚してきた。わくわくしている。

 船着き場で礼を言って岸に上がり、教えてもらったアーナンダ寺院を目指して歩いて行った。

 ぬかるむ道を歩いていると、木から木へと、南国のカラフルな鳥が飛んでいく。時たま、頭にカゴを載せた女性とすれ違う。カラフルなロンジ腰巻きを身につけた女性たち。
 自然との調和。平和な楽園の光景だ。

 途中で道がわからなくなって、女性に生き方を教えてもらい、ようやくアーナンダ寺院にたどり着いた。
 釈尊の十大弟子の一人阿難の名前を寺院名にいただくパゴダ。

 インドにはかつてナーランダ僧院やマトゥラー、そしてヴィクラマシーラといった有名な寺院があった。イスラム教徒の侵入によって破壊されてしまったわけだが、その後、仏教は衰退してしまう。
 東南アジアでは、スリランカやここビルマ、そしてインドネシア等で生き延びる。ボロブドゥールやカンボジアのアンコール・ワットに並ぶ中心的な寺院の1つが、アーナンダ寺院だったはず。

 入り口で靴を脱いで裸足はだしとなる。そして、そのままで敷地に足を踏み入れた。
 ジトッとした地面だけれど、普段は裸足で歩くことがないので、実に新鮮だ。

 寺院の尖塔だけを見れば、どこかアンコール・ワットやボロブドゥールに似ているような気がする。同じ仏教圏だからだろうか。うん。実に興味深い。様式や形式を広域で調査してみると、思わぬ事実が出てきそうな予感がする。
 外側の壁は白い。周辺の寺院は赤茶色のレンガのようだったが……。中央の大塔が金色に塗られ、実に均整の取れた美しい建物だ。

 そのまま白亜の寺院の入り口に行き、入り口にいた僧侶に挨拶をして中に入れさせてもらった。
 ひんやりした石の感触を足の裏で感じながら、暗い廊下を進んでいく。
 途中の広間では幾人もの僧侶が床に座り込んでいた。

 彼らはチラリと俺を見るものの、すぐに興味を無くしたかのように、正面に向き直っていた。
 瞑想中だろうか。安居の修行で何をするのか知らないけれど、戦争などここでは関係ないかのようにただ静けさが漂っていた。

 やがて回廊の奥に巨大な仏像が見えてきた。
 金色こんじきの立ったままの仏像。高さは10メートルほどもあるだろうか。
 お顔はインド風でもなく中国や日本風でもなく、あえていえばビルマ風なのだろうか。
 法衣の裾がまるで西洋のマントのように広がっていた。


「――よくここまで来たね」
 不意に声を掛けられて振り向くと、そこにいらしたのは1人の僧侶。……いや違う。僧侶の姿をした天帝釈様だ。

 幾度となく、俺たちの前に現れて道を暗示してくれた、俺たちの指導教官。

 頭を下げて、
「お久しぶりです」
「ははは。堅苦しい挨拶はなしにしよう」
「はあ」

 この人、いつもこんな感じなんだよな。
 いつだったか俺と春香が夫婦げんかしてる時に、いきなり完全武装ぶそうで来られて、いたずらっぽく「夫婦げんかを止めるにはこの装備でないと」なんておっしゃるし。
 案外茶目っ気があるんだ。

「ここの回廊の壁にもブッダの生涯を描いたレリーフがあるよ。それと、近くにティ・ピタカ三蔵を納めた建物もある。後で見ておくと良い」
経律論三蔵ですか」
「そうだ。もっともこの国では教えの内容よりも、行いとか修行が重視されているから、あまり読まれていないけどね」

 へぇ。日本とは大違いだな。どっちかと言うと日本の場合は学問の側面も強いからな。

 ふっと帝釈天様が微笑まれる。
「なかなかビルマのパゴダもいいものだろう」
「ええ。建物といい、仏像といい、すべてのパゴダを回る時間が無いのが残念です」
「君たちの使う車で、ここから1時間半くらいのところにポッパ山という山があってね。777段の階段をのぼった先にあるパゴダも面白いぞ」
「はあ、ポッパ山ですか」
「今回は無理だろうけど、いずれ君の奥さん眷属神も連れて行ってみたらどうだい?」
「そうですね。春香が一緒だともっと楽しめますしね」
「……相変わらずだね。君たちは」

 苦笑した帝釈天様は巨大な仏像を見上げた。
「そろそろ君たちをブッダの前にお連れすべきかもしれない」
「本当ですか?」
「ああ、まだもう少し先になるけれどね。――それはともかくだ」
 急に帝釈天様の雰囲気が変わられた。

「これから戦場に向かう君に行っておこう」
「はい」
「これより君が帰国するまで、他人に対して力を使うことを禁じる」
「はい。かしこまりました」
「もちろん、自分自身には使ってかまわない。それと、わかっていることとは思うが、君が相手を殺すことも禁じる。いいね?」
「はい。そちらも大丈夫です」

 日本人としては英印軍や連合国軍は敵だが、すでに人間ではない俺にとって、彼らは敵ではない。
 だから、たとえ小銃を撃つようなことがあっても、神力を使って相手を殺さないように調整をしないといけない。

「今までの経験でわかっているだろうけど、戦場では特殊な心理が働く。だが、君たちの目的のためにも今の戒めを守りたまえ」
「はい」
「うむ。わかればよろしい」

 大きくうなずいた帝釈天様は、再び仏像を見上げられる。
「果てのない欲望、そしてその行いがごうとなって、苦しみをまねく。……さまざまな社会の階層で、あちこちの国で。疫病えきびょうも、飢饉ききんも、兵火へいかも、世の中全体の業の流れによって招き寄せられるんだ。
 ……君はこれから凄惨せいさんな戦場の姿を如実にょじつに見るだろう。一緒に悩み、苦しみ、もがき、そして歩き続けなさい」
「――はい」

 金色の仏像は、まっすぐ正面を向いている。その眼差しが、苦海くかいをさすらう人々をじっと見つめているかのように見える。
 微笑んでいるわけではない。悲しんでいるわけでもない。仏は、ただじっと我々を見つめている。
 あたかもこの世の苦しみすべてを真摯しんしに見つめ、向き合うかのごとく――。

03転の章 わが夫(つま)が戦いいますは彼方(あなた)かと 南の空を見つめたたずむ

 昭和18年の1月、俺たちはイラワジ川西方にあるアラカン山脈の山道にいた。

 この山脈を横断した先、ベンガル湾沿いの要地であるアキャブを狙って、英印軍が上陸してきたのだ。
 アキャブには少数の部隊が防衛していたんだが、今ごろは必死の防衛戦が繰り広げられていることと思う。

 俺たち弓第33師団は、南方軍の隷下れいかにあるわけだが、このうち南方軍はすぐに増援を派遣することを決定。
 その支援命令が俺たち輜重兵しちょうへい第33連隊の第1および第2中隊にも下ったのだ。

 物資輸送のためには馬だけでは足りない。そこで山脈の入り口ポークの村近辺で300頭の牛を買い入れた。
 ビルマの牛は、明るい灰色から白っぽい体毛をしていて模様はない。中には黒っぽい体毛の牛もいた。
 ビルマの人にとって牛は家族も同然。そのため買い入れられたのは、年老いた牛やせた牛ばかりだったが、これは仕方のないことだろう。

 もともとは農耕用だったので荷物を背中に載せたことがないらしい。短い期間で訓練はしたものの、せいぜい40キロの荷物を載せるのが精々だろう。
 結局、俺たちもいくらかの荷物を手分けして持っていくことになった。いわゆる人力輸送って奴だ。

 その上で1人で2頭の牛の手綱を持って後ろから追いやり、一列になって山道を登る。
 俺たちの横断ルートは、途中、3000フィートの高峰を越え、行程300キロメートル以上となる予定だ。

 目の前にはまるで日本アルプスのような山々が立ち塞がっていた。

◇◇◇◇
 ビルマ平原を背に登り続け、いくつもの山の峰を登っては谷底におり、開いた場所を探しては野営を重ねた。
 標高が高くなるにつれ気温がどんどん下がっていく。

 確かに1年のうちでも涼しい季節だけれど、それでも数日前まで真夏のように日中は30度を超えていたわけで、今では一気に真冬になったような気温になってきた。
 想定外の寒気に、みんな夏用の軍衣しか持って来ていないので、仕方なく上から耐水仕様の外装を着ている。少しでも体温を奪われないようにしないと……。

「うぅ、寒い」
 増田の吐く息が白い。すでに寒いどころじゃなくて、凍るような冷気になりつつあった。ここはミンダサカン山の頂上付近。
 周りに広がる岩場では、雪が地面にこびりつくように積もっていた。おそらく風が強すぎて吹き飛ばされてしまうのだろう。

 小休止となり、風を避けるために牛の影に数人で集まったはいいものの、歯の根がガチガチと震えてしまい、とても休憩できる状態じゃない。
 火を起こそうにも、運悪く風に雨と雪が交じりだして来てしまっていた。

 幸いに起伏はゆるやかで、はげ山のように遮るものはない。稜線りょうせんを一直線に牛たちが並び、そのそばに点々と将兵が集まっている。

 増田は寒さに真っ赤になった顔で、足踏みをしながら、
「腹の底まで冷えちまった」
 同じく一緒にいる山岡一等兵が、手袋をした手を盛んにこすり合わせていた。
「俺もだ」

 たしかにここまで寒いとは全くの想定外だった。一旦戻って冬装備に変えられればいいんだが、一度命令が下された以上はそれはできない。天皇陛下のご命令も同然だから。

 俺も手をり合わせながら、
松明たいまつで火を持ちながらいったらまずいか」
と言うも、
「燃やすものがねえよ。……ランプだって暖かくなんねえだろ」
と増田に突っ込まれる。

 しかし、どこかでだんをとれるようにしないと、俺たちもそうだが、牛ももたないぞ。
 山岡が中隊長殿がいるはずの先頭を見ながら、
「ともかく早く谷間に降りて風だけでも避けないと、このままじゃ遭難そうなんしちまうぜ」
とつぶやいた。

「しゅっぱーつ」
 前の方から声が聞こえる。
「んじゃま、行きますか」と増田が離れていった。

 俺は自分の牛の手綱を握り直し、「さあ、行こう」と牛に声を掛けた。
 幸いに2頭ともゆっくりと歩き出してくれたが、すぐに後ろの増田からあわてたような声が聞こえる。
「おいっ、行くぞっ。ハイノーッ」

 必死な声に何があったのかと振り返ると、どうやら1頭の牛が座り込んで動かないようだ。
「がんばれ。ほらっ」
 声を掛けるが、牛はただじっと明後日あさっての方向を見ている。増田が手綱をぐいっと引っ張ってお尻を叩くも、迷惑そうに小さく一声だけ鳴いたきり。

「どうした?」
 すぐに小銃を持った護衛小隊の人たちがやってくる。増田を見て、すぐに状況がわかったようだ。
 増田に、牛から荷物を下ろすようにいい、動かなくなった牛は彼らが連れて行くという。
 重々しくうなずいた増田が牛から荷物を下ろし始めた。

 おろした荷物のうち半分をさらに分けて、俺の2頭の牛に載せることにした。……重いだろうが、耐えてくれよ。
 牛は、どこか諦めたように頭をさげていた。

「先行ってるぞ」
と声を掛け、俺は行軍の列に戻る。この牛たちも何かを感じているんだろうか。

 風が一段と強くなってきた。ひゅうおおおおと、魔笛まてきのように空気を切り裂くような音。吹き付ける風に、俺はえりを立て直す。
 しばらくして、その風に紛れて後ろからズダーンと銃声が聞こえた気がした。

 烈風にあおられたみぞれ雪が、まるで弾丸のように俺たちの身体を打つ。外装にダダダタと当たり、べちゃりと融けかけた雪がへばりつく。

 急激なみぞれ雪に、前を歩く山岡が、
「マジかよ……」
と嘆息して空を見上げた。俺もつられて空を見るも、頭上の雲はまるで中に竜が潜んでいるかのように、どす黒くうごめいていた。

 山岡と目が合った。
「これ、まずくねえか」

 まずいよ。こんな状況で身体なんてらしたら、一気に体温が下がってしまう。

 けれどもどうにもできない。
 もはや寒いというレベルでは無く、身体の芯まで冷たくなってしまい、身体の中にまったく熱がなくなってしまったかのようだ。
 手が重い。足が重い。冷気が肌を突き刺している。頭の働きもにぶくなっていく感じがした。

 はあはあと息を吐きながらも、ともかく一刻も早く次の谷間に降りたいと、みな必死で牛を急がせていた。
 幸いにも穏やかな起伏がつづき、はげ山のように障害物も無い。この風とみぞれ雪、そして、寒ささえなければ……。

「ハイノーっ、ノアハっ」
 必死に牛に声をかけていると、今度は前の方で、
「あっ」
 誰かの叫び声が聞こえた。
 前方の列から、山の斜面を、一頭の牛が転がり落ちていった。

 ずざざざ―と砂利を巻き上げながら谷間に落ちていく牛。……かわいそうに。あれは助からないだろう。

 いや、もとから食料が無くなったら、この牛を殺して食料にする計画だったから、結果としては変わらないのか。

 手綱を握っている2頭の牛を見る。
 自らの運命を悟っているのか、感情を感じさせない大きな目で俺を見つめ返している。

 手をのばして、後頭部をガリガリといてやる。「がんばれ、な。がんばれ」
 動けなくなったらその場で処分されてしまう。こいつらは最後まで大丈夫でいてほしい。
 2頭ともそうしてやると、ぐいっと俺の手に頭を擦り付けてきた。
 歩く足に力が戻ってきただろうか。

 少しほっとして、再び前を向いた時だった。

「おい。あそこに誰かいるぞ!」
 中隊長殿が何かを見つけたようだ。すぐに本部付きの将兵3人ほどが走って行く。
「小休止だ!」

 再び行軍が停止した。と同時に、さっきまで強く吹いていた風がふっと止まった。風がなくなったせいか、雪がハラハラと降りてきている。

 どうやら倒れていた奴がいたらしい。衛生兵が呼ばれ、1人の兵士を2人がかりで抱えてこっちにやってきた。
 そのまま後方へと連れて行くようだ。病院送りだろうか。

 すれ違い様に見たそいつの顔は、血の気を失った真っ白な顔をして、眉毛や頭にうっすらと雪が積もっていた。
 これは……、病人じゃない。すでに死んでいる。

 ポタッと俺のそばで何かが落ちた。軍隊手帳だった。落ちた衝撃でぱらりと開いたページには、平山と名前が書いてあった。

「落ちたぞ」
と言って、衛生兵を追いかけて手渡した。「すまん」
 戻ってきたところへ増田が後ろからやってきた。
「おい。今の――」
「凍死だ」
「……そうか」

 他人事じゃない。もしかしたら、次は自分の番かもしれないと思っているんだろう。
 黙りこくってしまった増田の肩を叩いた。「ともかく行くしかないんだ」
 増田は俺を見て「ああ」と返事をすると、そのまま自分の牛の所ヘ戻っていった。1頭になってしまった自分の牛の所ヘ。


 空は相変わらず黒い雲が広がっている。山を進む一行に、静かに雪が舞い降りる。
「しゅっぱーつ」
 平山の装具を回収し終えたのだろう。再び行軍が始まった。

 それからどれくらいたっただろうか。何頭もの牛が動かなくなり、行軍の列からも遅れる奴も出てきたが、ようやく俺たちは谷間に入ることができた。

 野宿となり数人ずつ集まってグループを作って、火をおこし始める。
 谷間に、ポツンポツンとたき火の暖かい光がともっていく。牛も近くにあつめて暖を取らせている。

「あったけえ」
 増田が、そう言いながらたき火に当たっている。
 山岡は疲れて地面に座っているが、その地面も氷点下に近いくらいに冷たくなっていることだろう。

「それにしてもすげえ所に来たな」
 つぶやく山岡に相づちを打ちながら、
「ああ、こんなに寒いとは思ってもいなかったな」
というと、増田が苦々しげな顔で、
「牛は1頭になっちまうし……」
「だが、あれはお前のせいじゃないだろ」
 そう言ってやるが、増田がかぶりを振った。
「そうは言うけどな」

 山岡がぽつりと、
「――他にもたくさん死んじまってるさ」
と指摘すると増田も黙り込んだ。

 そう。中隊の連れ来た牛はすでに4分の1が動かなくなったり、谷底に落ちたりしていた。

「そもそもが、こんな山を牛じゃ厳しいんだよ」
 山岡の言葉を俺たちは黙って聞いていた。

 ここから見上げる山頂は、闇の中に雪がほのかに白く浮かび上がっている。
 人間社会から隔絶したような雪山。
 このアラカン山脈をずっと北にさかのぼると、あのヒマラヤ山脈につながっているのだ。

 俺は知っている。
 険しい山はどこであれ、幾多の人々が命がけで通り抜けてきたことを。山の中での生と死は、背中合わせなんだということを。

 その日の夕方に珍しく副食が臨時に配給されてきたが、それは牛の肉だった。