04転の章 ひぐらしの声をまくらに眠る子ら 見守るわれも夫を夢みし

 う~。帰ってこない。夏樹が帰ってこない。遅いぞ。何をやっているんだろう。

 そんな思いを懐きながらも、季節は廻り、早くも11月となっていた。
 戦争が続いている間は、夏樹がいないことにまだ我慢ができた。だけど、いざ終わってしまうと、早く帰ってきて欲しいとより強く思う。
 やっぱり南方からだと時間がかかるのかな……。

 心配していたとおり、配給はかろうじて続いてはいるものの、び延びになったり中止になったりしていて、戦時中より当てにならなくなっている。

 幸いにここは農村で、例年よりも凶作気味だったとはいえ、秋ともなればそれなりの収穫があった。
 都会から買い出しにわざわざ来る人もいたようで、村の人たちも交換で良い着物を手に入れるなどできたらしい。

 戦争が終わって、学童の親がぽつぽつ引き取りに来ることもあって、今では30人ほどに人数が減っている。
 そして、その30人もいよいよ東京に帰ることになった。

 1年と3ヶ月になる集団疎開生活。
 我慢させることばかりだったなと思ったけれど、帰る日が近づくたびに甘えてくる子供が増えてきた。
 普段はしれっと大人ぶった態度をとっているような6年生も、何かあるとやってきて、「こんなことがあった」とか「こんなの採れた」と自慢げにやってくる。

 そんな子供たちを見ながら、少しは母親代わりをできたのかなとも思う。寂しくなりつつも、そんなふうに残り少ない日々を一緒に過ごしてきた。

 とうとう、今日はその出発の日。

 すでに清玄寺を出る時に、松守村の人たちや分校の子供たちとのお別れは済んでいた。ここ黒磯の駅にいるのは、清玄寺寮の関係者だけだった。

 まだ列車が来るまでには時間がある。
 改札に入らずに、私たちは駅前広場の一角で固まっていた。戦争が終わった影響もあるのか、多くの人でごった返している。

 東京から買い出しに来たと思われる野菜を持った人。誰かを探すように、道行く人の顔をのぞいている人。そして、あちこちで思い思いにしゃべっている子供たち。
 和則くんと残ることになっている優子ちゃんも、同級生との別れを惜しんでいるようだ。


 ――出発前のお寺でのお別れの挨拶を思い出す。

 本堂に子どもたちが集まってくるのを、私はご宝前ほうぜん側に座って眺めていた。隣には、ここに残ることになる香代子ちゃんや和則くんたちの姿もあって、どこかうらやましげでいて、それでいて寂しそうな表情を浮かべていた。
 彼らも仲の良い友人との別れは、昨日のうちに済ませてあったみたいようだ。

 大丈夫。また会えるよ。東京の復興が終わったら、みんなを連れて東京に行ってもいい。そう思う。

 そんなこんなしているうちに、全員が揃い、青木先生が感慨深げに小さくうなずきながらみんなを見つめていた。

 あの詔勅を聞いてから、しばらくは先生もかなり思い悩んでいたようだ。
 それもそうだろう。今まで教えてきたことはなんだったのか。これからどうなるのか。その指針を見失ってしまったのだから。

 恵海さんがその相談役になっていたようだけれど、訓示も新たな日本建設を目指すようなものに変化していた。もしここに夏樹がいたら、夏樹もきっとアドバイスをしていたと思う。

「それでは皆さん、これから東京に出発します。
 ここで暮らした1年と3ヶ月のことを、先生は絶対に忘れません。おそらくみんなもそうでしょう――」

 先生の訓示が始まった。そして、恵海さんたちが順番に挨拶をすることになり、最後に私にも順番が回ってくる。
 子供たちの視線を感じながら、立ち上がった。

「今ここに直子さんがいないのが残念です。同じように皆さんの中には、家族を失った人もいるでしょう。兄妹を失った人もいるでしょう。
 愛する人を失った悲しみ。ぽっかりと胸に穴が開いたように、そして、その空虚くうきょな穴に冷たい風が吹き込むように辛い時があると思います。……でもね。無くしたものは。亡くした人は帰ってこないのです」

 そっと目を閉じる。まぶたのうらに直子さんの顔を思い浮かべる。笑顔の直子さん、そして、焼けただれつつも、安らかに眠っていたあの顔を。

「――世界は変わりゆくもの。その悲しみもやがてやしていけるでしょう。
 皆さんには未来がある。誰かと巡り会い、そして恋に落ちることもある。心にあいた悲しみの穴は、誰かの愛によって埋めることができる。私はそう思います」

 目を開けた。体はまだ痩せたままだけれど、どの子もたくましくなった。……本当にたくましく。

「そして、誰もが誰かの特別になることができる。皆さん一人一人が、誰かの悲しみの穴を埋められる人になることができるんです。
 誰かの穴を埋めるとき、同時に皆さんの心に開いた穴も埋まっていく。それってとても素敵すてきなことだと思う」

 つぶらな瞳で見つめる子供たちに微笑みかける。

「戦争に敗れ、町はボロボロになったけれど、ここが私たちのスタート地点なのです。地面に倒れた人が、再び地面を踏みしめて立ち上がるように。ここから私たちが、日本が、再び立ち上がるんです。
 この変わりゆく世界で。転変しつづける世界で、私はみなさんと出会うことができた。その縁を大切にしたいと思います。
 そして同時に、みんなもお友だちと。この清玄寺寮で暮らした人々と、松守村の人々と出会った。その縁を大切にして欲しい。それが愛ってことだと思います」

 広い世界。夏樹と2人で歩き続けてきた歴史。多くの別れと、たくさんの愛の形を見てきた。
 恋人、夫婦、家族、友情……。縁って不思議なものだと思うし、人と人との繋がりの根底には愛がある。今はそう信じられる。

「だからどんなに辛いことがあっても、自分が1人だと思わないでください。この広い世界の、どこか片隅で1人ぼっちだなんて思わないで。
 私がいる。みんながいる。まだ見ぬ誰かがいる。……人生ってね。そんなに悪いものじゃないんですよ。それを忘れないで欲しい。そう願っています。
 ――さあ、いよいよ出発です。いつでもまた松守村にいらっしゃい。ここは貴方たちの家でもあるんだから。お手紙を待っています。向こうに帰っても元気でいてください」

 途中でうるっと来てしまい、目をこすりながら自分の席に座る。
 夏樹。私、間違っていないよね。これでいいよね。

 気がつくと、子供たちも胸にこみ上げてくるものがあったようで、何人も目をこすっていた――。

 お寺の外にはすでに村の人たちが集まっている。役場の村長さんから、分校の子供たちまでも見送りのために来てくれていて、そのざわめきが本堂にまで伝わってくる。

 お別れの挨拶が終わり、順番に1列になって本堂から玄関へ向かう子供たちの一人一人と、短く言葉を交わしたり握手したりして別れをしむ。
 低学年の子よりも6年生の女の子の方が甘えん坊みたいで、抱きついてきたので、思わず小さく笑いながら抱きしめ返してあげた。

 それで、そのまま黒磯にお見送りをするために、私たちもついてきたんだよね。

 駅前を眺めていると、青木先生が挨拶にやって来て、
「春香先生。本当にお世話になりました。あなたがいてくれて本当に良かった」
と言う。私は右手を差し出して先生と握手をした。

 正面からじっと見つめて、いたずらっぽくわざと微笑みかける。
「先生。向こうで良い人を見つけて結婚なさってください」
と言ってあげると、照れくさそうに笑っていた。

 そのあと、安恵さんとも言葉を交わし、先生は村長さんの方へと歩いて行く。

 隣の安恵さんが、
「……とうとうこの日が来ましたね」
とどこか寂しげに言った。彼女にとっても、もうこの子供たちは家族か親戚のように感じているにちがいない。

 私はふふっと微笑んで、「今晩はうちできのこ鍋でも食べない? もうお酒も大丈夫だったよね?」
「ちょうど1週間前で20歳になりましたから」「じゃ、決まりね」

 こういう時は一緒に飲むに限る。きのこ鍋を囲んで、恵海さんたちも入れて騒がしく夜を過ごそうじゃないか。

 ――不意に子どもたちの一角いっかくから大きな笑い声があがった。一体なんだろう?
 微笑みながら、そちらに顔を向ける。

 その時、視界の端っこで軍帽を着た男の人の姿が通りすぎていった。


 ……え?


 ドキンと胸が鳴って、あわてて振り向いたけれど、確かに見たはずのその姿はどこにもなかった。
 必死で目で人混みを探すけれど、軍人などどこにも見当たらない。

 胸が喪失感そうしつかんで締めつけられる。右手を胸元に当てながら心の中で自嘲じちょうする。

 とうとう幻を見るようになっちゃったか……。

 そんな私を見て、安恵さんが心配そうに「春香先生?」と声を掛けてくれた。そのとき、青木先生の声が響きわたった。
「そろそろ時間だ。みんな中に入りますよ!」

 気を取り直して駅の方に向き直ると、ちょうど列車がホームに入ってくるところだった。



 その日の晩、清玄寺に村長さんたちをまじえ、みんなできのこ鍋パーティーをした。

「はい。どうぞ」
と恵海さんにおしゃくをすると、
「ああ、こりゃ。御仏使さまについでもらうなんて」
と言われる。

 すでにお酒が回っているようで、目もとが赤い。まあ、村長さんたちも似たようなものだけどね。

 酔っ払った恵海さんが、
「それにしても、この寺も静かになっちゃって……。なんだか寂しいですなぁ」
 優しげに微笑むその目は、私の好きな夏樹の目にそっくりだ。
「……元に戻っただけなんですけど、子どもたちがいるのが当たり前になっちゃいましたからね」

 穏やかな表情で恵海さんとのやり取りを見ていた村長さんが、
「それで、これからどうなさるおもりでしょう」
と尋ねてくる。
 近くにいた美子さんや川津さんも知りたそうに私を見ている。――大丈夫。そのことはもう考えているから。

「今のところですが、恵海さんと美子さんには申しわけないですが、清玄寺に孤児院を作りたいと思っています。……まあ、人数はこれ以上増えないと思いますけど」
「ふむ。この恵海、承知いたしましたぞ」
 見ると美子さんも微笑んでうなずいている。この人たちって、私のやることに全肯定だよね……。

「孤児院の経費は、私の所の畑を利用します。名義は私のままですが、実質はお寺のものとしてください」
「それはかまいませんが……」
「それともう1つ、ご相談があります。大きな話になるんですけど」

 この相談は、これからのお寺と村の関係を変えることになるかもしれない。でも必要なことだと思っている。

「小作に貸している畑をそのまま開放しましょう。あわせて皆さんの借金しゃっきん減額げんがくを行い、檀家組織の見直しをしておいた方がいいと思います」

 やはり想定したとおり、誰もが驚いて私の相談に聞き入っている。
 体制を変えるってことは大きな変化になる。村で受け入れられるには、本来、時間がかかることだ。
 でもね。これから農地解放が行われたはず。

 どっちにしろ小作に畑を開放することになるし、通貨も円が基本単位になっていくわけだから、借金も圧縮される。ならばその前に下準備をしておいて、お寺の運営を支える手段を講じておいた方がいい。
 もちろん、人々の負担が重くなりすぎないように考えながらだけど。

「檀家から地区ごとに講を組織し、畑を開放し借金を減額する代わりに、各家庭に一定額の割り当て金を設け、それを講から毎月お寺に納め、清玄寺の運営資金にててはどうかと」
 恵海さんがあごを撫でながら、ふむぅと考え込んだ。村長さんも手元のお猪口ちょこを見つめながら、吟味ぎんみしているようだ。

「今すぐにどうこうと言うわけではないですが、検討しておいてください」

 清玄寺も、この村も、戦後体制に移り変わっていくべき時がすぐにでもやってくる。
 否応なく、中央から地方へと。既存の価値も社会も大きな変化が訪れるのだ。

「――あははは。あったね。そんなこと!」
 安恵さんの明るい笑い声が聞こえてきた。彼女は子どもたちと同じ鍋をつついている。
 20歳になって初めてのお酒のようで、酔っ払ってご機嫌なようだ。――明日、大丈夫だと良いけど。
 初めてのお酒で、初めての二日酔ふつかよい頭痛に苦しむ未来が、容易に想像できるよ。

 くすっと口の中で笑って、私はお猪口を口につけた。すっかりぬるくなったお酒だけれど、ふくよかでどこか優しい味わいが舌に広がっていく。
 お猪口の底に残ったわずかなお酒が、部屋の明かりを反射して妙になまめかしく見えた。

「世界は移りゆくもの、か……」
 無意識のうちに、そうつぶやいた。


 それから恵海さんと村長さんたち総代そうだいさんとで、話し合いが進んでいったようだ。
 そして1月後、暮れも押し迫ったある日の夜、檀家だんか総会がお寺の本堂で開催された。

 雪の降る静かな夜で、筆頭総代の村長さんから、清玄寺に孤児院を作ることが伝えられ、あわせて、小作農の件、檀家月並金の創設がみんなに告げられた。

 その場に私も座っていたけれど、借金を大幅に減額するとあって、おおむね受け入れられていったようだ。
 最後には座談会のようになって、村の人たちからは東京から買い出しに来る人について相談があったりした。まあ、そちらは私が口を出すことじゃないだろう。

 こうして開設された孤児院は慈育園と名付け、当面は学寮と使用していた宿舎、いわゆるお寺の客殿を利用している。
 今のところは、宮田香代子ちゃんに、石田和則くんと優子ちゃんの兄妹、そして泰介くんと景子ちゃんの兄妹、菜々子ちゃんの6人。
 将来、もし村で孤児が出た場合は、ここで引き取ることになっている。今は清玄寺で運営だけれど、将来は公立の孤児院となっていくだろう。

 この前、豆炭まめたんを入手することができたので、いそいそとこたつを出すことにした。
 かつて学寮の宿直室だった部屋で、そのこたつに足を入れ、子どもたちの綿入れをっている。
 そばの火鉢にかけた鉄瓶の口からは、うっすらと蒸気が立ち上っていた。外は今日も雪。窓辺の障子しょうじからは冷気が忍び込んでくるようだ。

「ん~。ここはヒヨコにしようか?」
 手元の布地を景子ちゃんに見せておうかがいを立てると、うんと小さな頭でコクンとうなずいた。

 こたつの天板では、香代子ちゃんと和則くんがノートを開いて恵海さんから、漢字の書き方を教わっている。その脇では優子ちゃんと菜々子ちゃんが、美子さんに教わりつつお手玉で遊んでいた。そこに景子ちゃんも加わっていく。

 中等学校はこの辺りの村をまとめる百村もむらにある。和則くんと香代子ちゃんは今そこに通う中学生になっていた。

 手元の布に針を刺す。小さい子の笑い声が響いて、とうとう中学生の2人から静かにするようにと怒られている。
 ふふふ。……なんて平和なんだろう。

 まだまだ学校教育も変化していくし、どうなるかわからない世の中ではあるけれど。今この部屋の時間は穏やかに流れている。

 ちらりと恵海さんと美子さんの様子を見るも、2人は2人で楽しそうにしていた。
 自然と口角があがってきた。きっと今、私は微笑みを浮かべていることだろう。

 これで後は――。あなたが帰ってきてくれたら万々歳ばんばんざいなんだけどね。ミサンガを見てそう思う。
 昭和20年の暮れの夜は、こうして過ぎていった。

04転の章 ひぐらしの声をまくらに眠る子ら 見守るわれも夫を夢みし

 とうとう運命の8月15日が来た。

 昨日まわってきた隣組回覧板かいらんばんに、「至急」の文字があり、なんでも今日の正午に天皇陛下自ら重大な発表をされると予告があった。疎開学童組も村人と一緒に分校の校庭に集合することになっている。

 青木先生を先頭に、子供たちが2列に並んで分校に向かっている。その一番後ろに私たち寮母と恵海さんたち、そして小さな子供たちがついていた。

 夏まっさかりで、きれいに晴れた空が青い。遠くには入道雲が浮かんでいた。
 村道の土はすっかり乾いていて白っぽくなっている。あちこちで蝉が鳴いていた。

 こんな風に全員が一斉に集められ、重大発表があるなんて、初めてのことじゃないだろうか。
 恵海さんが、
「一体なんでしょうな」
とつぶやくと、安恵さんがひたいの汗をぬぐいながら、
「ソ連が中立条約を破って宣戦布告してきたし、西の方で新型爆弾が落とされたみたいですから、きっと最後まで頑張れってお言葉をいただけるんじゃないですかね」
と言う。

 どれだけ空襲を受けようと日本は戦争を止めようとしなかった。
 6月下旬には義勇兵役法などという法律が制定され、とうとう兵役の年齢が15歳以上となり、さらに17歳以上の女子までも兵役につくことになってしまった。

 8月6日には広島、そして9日には長崎に原子爆弾が落とされた。報道では新型爆弾とあり、村のみんなは何やらすごい爆弾くらいにしか思っていなかったようだけれど……。原子爆弾の惨状が詳細に伝わってくるのは、これからなのだろう。
 この2日は原爆投下の日と知ってはいても、私は何もできず、気まずい思いでただ流されるように過ごしていた。

 原爆のことを考えていたせいか、恵海さんが、
「なにやら原子爆弾というらしいですな」
と話し出した。私もそこに口を挟む。

「――ええ。大変に恐ろしい爆弾ですよ。たった1発で15万人以上を殺す爆弾です。
 閃光せんこうとともに熱と衝撃しょうげきが広がって、爆心ばくしんに近い人は骨すら残らずに蒸発するように殺され、何キロも爆風が街を駆け抜けて建物も人も吹き飛ばす爆弾です」

 タイムリープ前。もう遥かな過去の記憶だけれど、広島の原爆資料館に行ったことがある。8時15分を指して止まった時計。多くの悲惨な写真に戦慄せんりつした覚えがある。

「御仏使さま?」といぶかしげに私を呼ぶ恵海さんに気づかず、足元の道を見つめたままで話し続ける。

「信じられますか? シミのような影しか残らないんです、光を浴びた人は。生きていた痕跡こんせきなんか何も残らないんですよ。
 夜には黒い雨が降り、放射能によって何年も、いや何十年も人々を苦しめる最悪の爆弾です。あんなもの。開発しちゃいけなかったんだ」

 私の手を恵海さんが握った。はっと気がついて顔を上げると、心配そうに見つめる恵海さんと美子さんがいた。
「御仏使さま。大丈夫ですか」
「……ええ」

 しまった。しゃべりすぎた。心配させてしまったみたいだ。……いや、不審がらせもしただろうか。

 何と言っていいかわからずに口をつぐむけれど、その時、菜々子ちゃんが、
「ね。行こう」
と私の手を引っ張った。そのつぶらな瞳を見て、そっと微笑む。「――そうだね」

 いずれにしろ今は分校に急ごう。


 校庭には、すでに多くの村人たちが集まっていた。地元の子供たちの姿もある。
 うちの子供たちの中に知り合いを見つけたのだろう。気安く手を挙げて互いに挨拶をしていた。

 時間は11時57分。――終戦の詔勅しょうちょくまであと3分。

 学童たちは先生の指示で整列をはじめた。
 村の人はなんとなくバラバラに立って、校庭のスピーカーを見上げている。

 やがてスピーカーから君が代が流れはじめた。幸いに松守村は電波の状態が良かったのか、思いのほか明瞭に聞こえる。

 姿勢を正す人々。そして歌が終わり、男の人の声が流れてきた。
 ……はじめて聞く天皇陛下のお声。私だけかもしれないけれど、どこか固く、本当のお心をどこか奥深くに隠しておられるようにも感じる。

ちん 深く世界の大勢たいせいと帝国の現状とにかんがみ、非常の措置そちもって時局を収拾せと欲し、ここに忠良なるなんじ臣民に告ぐ――」

 頭を垂れる人々。まるで林に並ぶ木になったように立ち尽くしていて、その間を陛下のお声が風のように通り過ぎていく。

「朕は帝国政府をして米英 四国に対し、の共同宣言を受諾じゅだくする旨、通告せしめたり」

 知らず、熱くこみ上げてくるものがある。これでようやく戦争は終わったんだ。
 夏樹が出征してから3年の日々、そして真珠湾からの4年の日々が脳裏をよぎる。やっと……。

「――さきに米英2国に宣戦せる所以ゆえんも、また 実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾しょきするにいでて、他国の主権を排し領土を侵すが如きはもとより朕が志にあらず。

 然るに交戦すで四歳しさいけみし、朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司ひゃくりょうゆうし励精れいせい、朕が一億衆庶しゅうしょの奉公、各々おのおの最善を尽くせるにかかわらず、戦局必ずしも好転せず。

 世界の大勢たいせい、亦われに利あらず、加之しかのみならず 敵は新たに残虐ざんぎゃくなる爆弾を使用して、しきりに無辜むこを殺傷し惨害さんがいの及ぶ所、まことはかるべからざるに至る」

 誰かがすすり泣きをしている。ぐっと拳を握っている人もいるようだ。
 夫を、子供を軍隊に送り出し、増産だ、貯蓄ちょちくだ、報国だと圧迫されながらも勝利を信じてきた暮らし。
 それが遂に果たせなかった。それも力に負けたのだ。あらかじめ歴史を知っていた私でさえ、やるせない思いがあふれてくる。


「――帝国臣民にして」
 唐突に、ほんのわずかだけど、お声がゆっくりとなられた。
 マイクに向かわれる陛下が、涙をこらえて、声に震えがでないように耐えておられる姿が目に浮かぶ。

「戦陣に死し、職域にじゅんじ、非命ひめいたおれたる者、及びの遺族におもいを致せば――」

 そうか。陛下のお辛い気持ちがここに……。
 多くの命が失われたこの戦争。万の後悔を一身に感じられているだろう。それが、淡々とつづく詔勅の、ほんのわずかな変化に出ているのだ。
 悔恨だけではない。その失われた命をも御一身に背負われようと、そう思われているのだろうか。

 この陛下のお言葉を聞いて、何人かの村人が地面に崩れ落ちるようにうずくまった。おそらく子供や夫が戦死した家だろう。
 香織ちゃんも地面にうずくまり、地面にぬかずいて両のこぶしを握りしめていた。その背中が震えている。

おもふに今後、帝国の受くべき苦難はもとより尋常じんじょうにあらず。
 なんじ 臣民の衷情ちゅうじょうも、朕れを知る。しかれども、朕は時運じうんおもむく所、がたきを堪、忍び難きを忍び、もって万世の為に太平を開かと欲す。

 朕はここに国体を護持し得て、忠良なるなんじ臣民の赤誠に信倚しんいし、常になんじ臣民と共にり」

 耐えがたきの所で、遂に感情を抑えられなかったのだろう。一拍、ほんのわずかにお言葉が止まる。

 これから日本は敗戦国として苦難の道を歩むことになるだろう。進駐軍が来て、沖縄はアメリカに支配され、まさしく多くの耐えがたい事件が何年も、そして幾度も発生する。

 他国からは批難され、搾取さくしゅされ、援助を顧みられることなく、要求を受け続けるかもしれない。フェアな条件は与えられず、文句も言えずに難局に直面することもあるだろう。

 何十年も、世代をも超えて、その苦難の道はつづくかもしれない。けれど陛下は、その苦難の道を国民とともに歩いて行こうと決意されているのだ。

「――よろしく挙国一家、子孫あいかたく神州の不滅を信じ、にん重くして道遠きを念ひおもい、総力を将来の建設に傾け、道義をあつくし志操しそうかたくし、誓って国体の精華を発揚はつようし、世界の進運におくれざらことをすべし。
 なんじ臣民、く朕が意をたいせよ」

 どんなに不遇の目にあおうとも、日本の不滅を信じ、復興の道の遠きを思ってなお、国家建設に向かって行くように、か。

 初めて聞いた終戦の詔勅。だけど、それは単に戦争が終わったことを宣言するだけではなかった。
 敗戦国となった日本が歩む苦難の未来を思い、それでもなお復活を信じて国家建設に向かって、共々ともどもに歩もうという陛下の決意でもあったんだ。

 自分たちが戦争を始めたくせに何を言っているんだと思う人もいるだろう。
 戦争にうんざりしていて、ああ、終わった終わったという人もいるだろう。
 愛する家族を亡くして、ふざけるな、自分はまだ生きているぞ、戦えるぞという人もいるだろう。
 そして、ただただ哀しくて、頭がからっぽになっている人もいるだろう。

 色んな思いはあるだろうけど、ただ1つはっきりしていることがある。

 ――長らく続いた戦争は、今ようやく終わったのだ。

 万感の思いを込めて見上げた空は、どこまでも青かった。


 詔勅を聞いた誰もが、何をする気も起きないようで、なんとなくその場が解散となる。

 香織ちゃんの傍に行き、うずくまっている彼女の背中にそっと手を添えた。ゆっくり顔を上げた彼女の顔は涙と砂にまみれていた。

「奥様……」
「もう、終わったのよ」
「はい」
「あなたには和くんがいる。ほら、心配しているわ」

 石川の奥さんと手をつないでいる和くんが、すぐそばに立っていた。振り向いた香織ちゃんが、「ああ……」と言って和くんを抱きしめる。
 小さな手で香織ちゃんに抱きついていた。そのぬくもりを感じているのだろうか。涙に濡れた目を閉じて、そっと微笑んでいる。

 その様子を見てひと安心し、視線を感じて顔を上げると、石川の奥さんが頭を下げていた。……これ以上はお邪魔になるだろう。私はそっと立ち上がる。

 周りは、ほとんど無言のままに家路につく人たち。その向こうに立ち尽くす子供たちと、呆然ぼうぜんとしている青木先生の姿が見えた。

 ともかくお寺に戻りましょうと言うも、先生からは返事がないので勝手に子供たちにそのように指示をした。

 子供たちは言葉が難しすぎてわからなかったようだけれど、素直にお寺に向かって歩いている。先生もその後ろをのろのろと付いてきていた。

 校庭を去り際に、もう一度香織ちゃんを見ると、石川の奥さんに連れられて帰って行くところだった。

 いつの間にか隣に来ていた安恵さんが、
「これからどうなるんですかね」
と心配げにつぶやく。
「みんな捕まって、アメリカやイギリスで売られちゃうのか……」

 私は首を横に振ってそれを否定する。
「それはないよ」
「米英の奴隷になっちゃったり、植民地になるんでしょうか」
「それもないよ」

 そうは返事したものの、昔ならあっただろうし、沖縄は統治されてしまうから、植民地と言えばそうなのかもしれない。

「まあ、もしそうなっても、こんな田舎の村までは捕まえに来ないですよね」
「う~ん。村には来るかもしれないけど、何もしないでいて捕まることはないよ。……ただね」
「ただ?」
「若い子は乱暴される可能性はあるから、もしアメリカ軍が来た時には安恵さんは隠れていた方がいいかも」
「……そうですか」

 温泉も何もない村だから、視察にやって来てもすぐに別の村に行っちゃうとは思うけど。
 ……そう思うと、以前、夏樹と話していた温泉を掘る話は実行しなくて良かったと思ったり。
 GHQ時代が終われば、掘っても大丈夫だとは思うけど。……どっちにしろ、夏樹が帰ってこないと無理か。

 そう。夏樹だ。
 戦争が終わったんだから、いよいよ帰ってこられる時期になるはず。いつになるんだろう?
 子供たちもいつまで清玄寺にいられるのかな?

 ……うん。こうしてみると、まだまだ気が抜けないというか、確認すべきことが多くて忙しくなりそうだ。

「あれ? どうしたんです?」
と安恵さんに言われて、初めて自分が微笑んでいることに気がついた。こんな時に不謹慎ふきんしんだったか。
 でもさ――。

「うん。これで夏樹が帰ってこられるんだなって思ってさ」
「……あ~。うん。そうですか」

 歯切れが悪いなぁ。もう。どうせ戦死したと思ってるんでしょ。

 そうは思いつつ、結局、私も他の人のことより自分のことが一番なんだよなとも思う。だって戦争に負けたと聞いても、これで夏樹が帰ってくると思うと嬉しくなるもの。

 南の方角にある山の稜線りょうせんを見つめた。
 晴れ渡った空に白い雲。強い陽射しに火照る体。俺は生きてるぞと言わんばかりに鳴いている蝉。
 ……人の世界がいかに乱れようと、戦争でボロボロになっても、自然は変わらずにそこにある。

 日本も同じじゃないだろうか。

 敗戦国となっても日本が無くなるわけじゃない。
 この大地に広がる自然のように、国土に刻まれた戦争の爪痕つめあともいつか必ず元のようになる。

 ろくに歴史の知識がないせいもあるだろうけど、もう戦闘はない。戦闘機も爆撃機も爆弾を落とすことはない。これから平和な時代がやってくる。
 今はまだ負けたショックが大きいだろうけど、それでも時は流れていくもの。必死で生きつづけていうるうちに、いつしか悲しみも薄れていくことだろう。

「道の遠きをおもい、か」
 ふとつぶやきが漏れた。

 まあ、どんなに社会が移りかわろうと、私のすることは変わらない。ただ待ち続けるだけ。――愛する夏樹あなたの帰りを。

04転の章 ひぐらしの声をまくらに眠る子ら 見守るわれも夫を夢みし

 ウ――、ウ――、ウ――。

 暗夜にサイレンが鳴り響いている。

 どうしてこの音は、こんなにも心を不安にさせるんだろう。

 防空壕の中では、防空頭巾ずきんをかぶった子供たちが不安げに身を寄せ合っている。恵海さんと美子さんも暗がりのなかで心配そうにたたずんでいた。

 私の腕の中では菜々子ちゃんが震えている。恐怖に見開かれている瞳。
 この子は、あの大空襲の夜を思い出しているのかもしれない。

 青木先生が、
「爆弾を落としてきたら、先生が合図をするから目を閉じて口を開けるんだぞ!」
と大きな声で指示をしている。
 近距離で爆発が起きると、爆風と衝撃で目が飛び出てることがあるらしく、その対策だそうだ。

 石田和則くんと香代子ちゃんのことも心配になって見回すと、和則くんは妹の優子ちゃんを強く抱きしめ、香代子ちゃんは私のそばで震えていた。

 腕を伸ばして香代子ちゃんの肩を抱き寄せる。言い聞かせるように「大丈夫。ここは大丈夫だから」とつぶやき続ける。

 やがてどこからかプロペラ音だろうか、ゴーともボーともつかない音が聞こえてきた。

 いよいよこの村にも爆撃機が近づいている……。あれほど遠くにあった戦争の足音が、とうとうここにもやってきたのだ。

 まだ梅雨が明けていないけれど、雲間から今にも欠けそうな月が姿をのぞかせていた。
 ほかのみんなの目には見えていないだろうけれど、私の目にはその雲の下に銀色の爆撃機が見えている。――あれがB29なのだろうか。

 この近くには軍の施設はなく、空襲に備えた高射砲こうしゃほうも無ければ、機体を下から照らすサーチライトのようなものも無い。
 灯火管制により村には明かりが1つも見えないはずだし、果たしてあの飛行機から村の様子は見えているだろうか。

 7月7日の夜空を飛ぶ1機の爆撃機。どこか絵になるようなその光景。――B29は、幸いに爆弾を投下することもなく飛び去っていき、夜が明けた。



 次の日、厨房ちゅうぼうで作業をしていると、お勝手口かってぐちから隣組の石川のまささん(この地方には鈴木とか、石川さんが多い)が回覧板かいらんばんを持ってやってきた。

「いつもすみません」
といいながら受け取ると、まささんが、
「なんでも宇都宮の方では伝単でんたんがまかれたみたいですよ。それで緊急疎開になるとか。……ないとは思うけど、しばらくは宇都宮に行かないほうがいいと思いますよ」
「ご心配なく。今のところそういう用事はないですから。……それにしても伝単ですか」

 伝単っていうのはビラのことだ。
 連合国軍の爆撃機が、そのビラで宣伝工作をしてくるほか、次の空襲目標の都市を予告していると聞く。実際に、予告通りに空襲になっているらしいから、間違いなく宇都宮は近いうちに空襲されるだろう。

「この前はここにもきましたし、これからどうなるのか……」
とため息をつくまささんに、口に人差し指を添えて、
「まささん。下手なことは言っちゃ駄目。ここがお寺だとはいっても、どこに誰の目があるかわからないんだし」
 そうですねと頭を下げるまささんに微笑みかけながら、他人事じゃないんだよねとも思う。

 昨年から本格的にはじまった空襲は、以前は軍事施設や工場を目標にした精密爆撃だった。けれど、それが3月の東京大空襲から無差別なものに変更になっているらしい。

 5月頃、ドイツが降伏してから少しの間は空襲も落ち着いていたけれど、すぐにまた再開されている。
 おそらく連合国としては戦争を終わらせるには無差別爆撃を行い、民衆や政府を動かすしかないと考えているんじゃないかと思う。

 ただね。悪いけれど、民衆には政府に訴えかける力は完全にがれてしまっていると思う。特高警察もいるし、憲兵隊も目を光らせているわけだし。生活が汲々きゅうきゅうになりすぎて、革命など望べくもないだろう。

 帰っていくまささんを見送り、午後に使う道具を取りに外の倉庫に向かう。
 今日はこれから麦や夏野菜の収穫に行く予定になっている。待ちに待った収穫の夏だ。これで料理を増やすことができる。

 空を見上げると、今日もまだ曇り空。まだ梅雨は明けていない。
 それでも雨は降らないだろう。いい収穫日になりそうだ。
 一人ほくそ笑んで、私は外倉庫の扉を開けた。


 麦わら帽子がチクチクする。帽子の藁の香りが夏の訪れを教えてくれるような気がした。

 収穫期を迎えた作物は麦のほかに、トウモロコシ、キュウリ、ナス、枝豆などなど。
 日々、大きくなっていくその実に、今か今かと待っていた子どもたちが、嬉しそうに畑に潜り込んでいった。

「見てみて。大きい!」
「すっげぇ」「これもいいのかな?」

 あちこちから聞こえる子どもたちの声に、一緒に作業に来た安恵さんも微笑んでいる。
 私ももちろん楽しい。あ、そうだ――、
「いい? ナスはトゲがあるから気をつけるのよーっ」
 大きな声で注意をうながすと、何人かが「はーい」と返事をした。アレ、思いのほか痛いからね。

 不意に服を引っ張られて下を向くと、菜々子ちゃんが私を見上げていた。
「私も採りたい!」
「そうだね。じゃ、一緒に行こうか」「うん」

 ここには泰介くんと景子ちゃんの兄妹も来ている。きっと今ごろはどこかで仲良く収穫作業をしているだろう。

「じゃあ、安恵さんは子どもたちの集めた野菜をまとめておいて下さい」
「了解です! ……どうぞごゆっくり」

 片手を挙げて挨拶をして、私はキュウリの区画に向かった。
「ここをこうして。……はい」
 菜々子ちゃんの手の届くところのキュウリを手に取り、つるの部分に剪定せんていばさみを当ててから、あとは菜々子ちゃんに切ってもらう。

「上手にできました」
 採ったばかりのキュウリを菜々子ちゃんに手渡すと、両手でささげるように持ち上げて、嬉しそうに笑っている。
「じゃあ、安恵お姉さんの所に持って行って」「――うん!」

 駆けていく菜々子ちゃんを見て、私も気合いを入れた。さあ、やるぞっ。
 次々にキュウリを採っては、持って来たかごに入れる。色も大きさもいい。身も詰まっているようで、冷やして食べると美味しそうだ。
 味噌はまだ余裕があったから、今日のご褒美でキュウリを冷やして子どもたちに出しても良いかもね。

 作業をしていると、キュウリの列と列の間から、ひょっこりと和則くんと優子ちゃんが姿を見せた。「あ、いたっ」

 優子ちゃんがトウモロコシを持ってやってきた。
「見てみて。先生、こんなに大きいよ」
「本当だね。――これね。ゆでても美味しいし、取り立てなら生でも食べられるんだよ。乾燥かんそうさせて粉にしてもいいし、甘みがあるから楽しみ!」
「うん。楽しみっ」

 ふふふ。みんな楽しそうで良かった。
 ここのところ暗い話題ばっかりで、子どもたちの雰囲気も暗くなってて心配だったけれど、今日の作業で少しは明るくなるだろうか。
 村の子たちも今日は収穫作業をしているはず。今度、共同で学芸会みたいな名目で収穫祭を企画してもいいかもしれないね。

 菜々子ちゃんが戻ってきた。小さいあんよでよいしょ、よいしょと歩いてくる。――が、その足がふと止まった。
 私の耳に、遠くから何かのエンジン音が聞こえる。菜々子ちゃんは東の空を見上げている。その方向に視線をやると、遠くの空に小さく飛行機の姿が見えた。

 ぞわりと身の毛がよだつ。
「――みんな! 急いで畑に隠れて、地面に伏せなさい!」

 大声を上げると、辺りの笑い声が一度に消えた。「急いで! 敵の飛行機よ! 伏せてー!」
 再び声を張り上げると、途端にあちこちでざわめきが聞こえる。

 くっ。なんでこんな時に。しかも空襲警報はどうしたっての。なぜ鳴らないっ。

 そう思ったとき、すでに射程に入ってきていたのだろう、機関銃を撃つ音が聞こえてきた。

 タタタタタタタタッ。タタタタタタタタッ。

 バババババッと銃弾が連続して地面に当たる音。それがだんだん近づいてくる。
 ――って、菜々子ちゃん!

 呆然として空を見上げている彼女に気がついて、急いで走る。

 銃撃の音が近づいてくる。必死で手を伸ばす。お願い、間に合って――!

 がばっと彼女を抱えて地面に飛び込んだその瞬間、私の頭のすぐそばを銃弾が通り過ぎていく。

「くっ。――この」
 そのまま震える菜々子ちゃんを必死に地面に押しつける。頭上を通り抜けた戦闘機は、グウウウーンと音を上げながら空高く上がっていき、ゆっくりと旋回せんかいしてきた。

 また撃ってくるというの?
 この子を。幼い子どもたちを、そんなにも殺したいの?

 そう思ったとき、心の底で何かがはじけた。ずっと溜まっていたどろどろとしたマグマが噴火ふんかするように、激情げきじょうが吹き上がる。

 すべてを亡くした子どもから、まだ奪おうというのか!
 そんなにも幼い命が欲しいのか!

 気がついたら私は立ち上がっていた。
 戦闘機が真っ直ぐに、こっちに向かって飛んでくる。銃撃じゅうげきが線を引くように近づいてくる。
 突き刺さる銃撃。吹き上がる土砂。はじけ飛ぶ葉っぱ。

 怒りで頭が真っ白に染まる。ふざけるな! ふざけるな! ふざけるな!
 戦闘機をきっとにらみつける。操縦士そうじゅうしと目が合った気がした。

「いい加減に……、しろおぉぉーっ」

 突き動かされるままに感情を爆発させ、私は力一杯さけんでいた。

 怒りがぶわっと広がっていくような感覚。
 私の頭上を戦闘機が通りすぎた。風がごうっと吹き抜ける。――銃撃はピタッと止まっていた。

 次の瞬間、空に閃光せんこうが走った。すぐにゴロゴロと鳴り出す。強い風が吹き出したのか、ゆっくりと雲がうごめきはじめ、再び雲の合間から稲光がほとばしった。
 これは……、天帝釈さまの援護だろうか。

 再び空高く上がっていった戦闘機は機首を南に変えると、そのまま飛び去っていく。

 はあ、はあ、はあ……。

 荒げる息を整えながら、飛び去っていった南の空を睨みつづける。子供たちを殺させてなるものか。

 その時、おそるおそるといった様子で、
「春香、先生?」
と声が掛けられた。
 振り向くと安恵さんがこっちを見ている。その向こうには畑の緑の中から子どもたちが、ピョコピョコと頭を出していた。

 あっ、いけない。――やりすぎただろうか。

「そうだ。みんなケガはない? それに――、菜々子ちゃんっ」
 あわてて足元の菜々子ちゃんを見下ろすと、菜々子ちゃんは地面に座って、ちょこんと私を見上げている。

「よかったぁ。無事だったんだ~」

 へなへなと腰が抜けて、その場に座り込んだ。
 菜々子ちゃんを抱きあげて、小さな身体にケガがないことを確認し、ほっと肩の力を抜く。そこへ子どもたちが集まってきた。

「みんな、ケガは――」と言いかけたとき、安恵さんが、
「春香先生! なんて無理をするんですか!」
と顔をいからせて怒鳴ってきた。「あ、ごめん」と素直に頭を下げると、深くため息をついて首を横に振ると、
「でもまあ、みんな無事みたいですよ。春香先生のおかげで」
と微笑んだ。

「すげぇ! 春香先生すげえ!」「戦闘機を追い払った!」
 男の子が興奮して叫ぶ。

偶々たまたまだよ。ほら、きっと機関銃が詰まったか何かしたのよ」
と言うと、気持ちを切り替えたのか、安恵さんが冗談っぽく、
「いやいや。あれは春香先生の気迫に負けたようにしか……」
 ……。これは嫌みかもしれない。
「あのね。本気でやめて」「え~」
 まだ興奮しているせいか、やり取りがちょっとお馬鹿っぽい。でもまあ、みんなが無事で良かった。

 地面に伏せたせいであちこちに土の跡の残る子どもたちを見て、守り切れたうれしさに笑顔になる。

 ――その数日後、香織ちゃんが清玄寺にやってきた。
「奥様! 聞きましたよ! なんでも敵の戦闘機を叱りつけて追い払った女傑じょけつだってすごい評判ですよ!」

 思わず私はがくっと脱力した。

04転の章 ひぐらしの声をまくらに眠る子ら 見守るわれも夫を夢みし

 だんだん暖かくなってきたせいだろうか。並んで寝ている子どもたちのほとんどが、掛け布団をはねている。
 不思議だよね、子どもって。これでいて寒くなってくると、無意識のうちに自分で布団を引き上げるんだよ。

 昨年度の6年生は2人を残して、もうここにはいない。その他の学年でも、3月の東京大空襲で親を亡くした子もいて、その子は親戚に引き取られていったりもした。
 けれど新しい3年生、そしてより小さな1、2年生も新たに増えていて、結果的に以前より子どもの人数は増えている。

 すー、すーと、あちこちから寝息が聞こえる広間の中に入り、お腹を出してしまっている男の子の寝巻きを直す。そのままそっと頭を撫でてあげる。
 小さな頭。短く刈り込んだ髪がブラシの毛のように手の平をくすぐる。……ふふっ。何の夢を見ているんだろうね。

 すでに疎開学童が来てから10ヶ月になろうとしている。新しい土地に引っ越ししたときはいつもそうだけれど、最初の1年っていうのはバタバタしているうちに過ぎ去ってしまうものだ。

 来たばかりの頃は、どの子も帰りたそうにしていたなぁ。寂しそうな顔をして……。
 面会も当初は月に何回もあったけれど、ここ最近はほとんどない。手紙のやり取りは続いているけれど、親も子も慣れてきたんだと思う。

 親と子、か……。

 ふと点呼集合の前のことを思い出した。
 寮母りょうぼ宿直室しゅくちょくしつで、香代子ちゃんたちと、新たに引き取った泰介くんと景子ちゃんの顔合わせをしたんだけれど、泰介くんはかたくなに心を閉ざしているようだった。

 それを見た香代子ちゃんが、ようやくあの大空襲の夜に何があったのかを話してくれたんだ。

「……私はね。もともと東京から疎開してきたんだ。だけど、3月に受験で東京に戻って――」

 懐かしい本郷の町に戻ると、所々に建物疎開のために取り崩された家屋があったらしい。
 それを見て、自分の育ってきた思い出の町が少しずつ無くなっていくような、そんな気持ちをいだいたという。

 久しぶりに自宅に帰り、その日の晩は、疎開生活であんなことをした、こんなことがあったと話し、ご両親はその話の1つ1つをニコニコしながら聞いてくれていたそうだ。

 そして、運命の日を迎える。
 9日の夜。空襲警報が鳴り響き、布団から飛び起きて、あわてて庭に出た時には既に焼夷弾しょういだんの細い筒が何本か落ちていたという。

「防空頭巾ずきんをかぶって防空ごうに逃げようとしたんですけど、目の前には焼夷弾が転がっているし、町全体がすでに火の海になりつつあって――」

 ああ。その光景が私にはわかる。
 かつて日本に戻ってきた江戸の街も、同じように火の海になったことがあるから。

 ごうっという熱気に包まれた町。恐ろしかったことだろう。
 ちょうど香代子ちゃんの話が途切れたその時に、「ただいま帰りました」と声がして、黒磯に行っていた和則くんがやってきた。部屋に入るや、香代子ちゃんが話しているのを見て、どこか悟ったように黙ってテーブルの傍に座り込む。

 それを待っていたかのように、ふたたび香代子ちゃんが話しはじめた。

「隣組の人たちも通りを逃げていたから、私たちも一緒に逃げようと飛び出して。だけど、どこに行ったらいいのかわからなくて……。人にまれているうちに、お父さんとお母さんとはぐれちゃって」

 そして香代子ちゃんは人の流れに押されるままに、他の人と一緒に防火用水の中に入ったそうだ。すぐそばの夫婦が薄い布団を一枚持っていたようで、その下に潜り込ませてもらったらしい。

「全身びしょれになった警防団のおじさんが、長い柄杓ひしゃくで水をすくっては、御経おきょうを唱えながら、みんなの頭の上に掛けてくれて――」

 すでに防火用水の外は地獄と化していたそうだ。
 髪に火のついた女性が狂ったように転げ回って、同じように全身火だるまになった人が崩れるように倒れ……。
 業火に照らされて空は赤く燃え上がり、建物から出た火柱がゴウッと音を立てて、あちこちから人々の泣き叫ぶ声が聞こえてきたという。

 そこにB29のグウーンというエンジン音と、ヒューヒューと焼夷弾が風を切って落ちてくる音、地上から放たれる高射砲こうしゃほうの音が混ざり、そして、ガラガラと金物をひっくり返したような凄まじい音が響いた。

「怖くなって耳を押さえて、ひたすらじっとしていたんだ。ひたすらじっと。――長い長い時間が過ぎて、燃えるものがみんな無くなって、ようやく火が消えたみたいでさ」

 着ている服が水を含んで重くなっていたため、布団を持っていた老夫婦に助けられて防火用水から出たという。
 目の前の町は焦土となり、人だかなんだかわからない炭となった遺体が、道路を埋め尽くしていたという。

「ちょうど朝になって明るくなっていたから、すぐにお父さんとお母さんを探して歩き回ったんだけど……」
 少しずつ香代子ちゃんの声が涙ぐんでくる。

「どうやら逃げた先が行き止まりになっていたらしくって。焼け焦げた遺体の山の下敷したじきになっていて……」

 それっきり香代子ちゃんは口を閉ざした。
 かけてあげる言葉が見つからない。せめてもと思って彼女の傍に行き、震えているその肩を抱きしめる。

 火の海から逃げて逃げて、ようやく助かったと思ったら、お父さんとお母さんは死んでいた。それがわかったときのなげきは、どれ程のものだったことだろう。

 愛する人を失った。それも数時間前まで一緒にいた家族を。恐ろしい大火をくぐり抜けたら、自分だけが生き残っていた。まわりに生きている人はいても、もうこの世界にひとりぼっちなんだ。

「泰介くん。その時、私は1人になっちゃったの。
 写真も燃えちゃって、お父さんとお母さんが生きていたっていう事実は、もう記憶の中にしかない。……でもね。もう会えないけれど、その思い出はずっと私の中にある。だから私は生き続けたいと思う。
 大人になって、結婚して、子供を産んで。そして、お父さんとお母さんの思い出を伝えるんだ。……写真もないけど、ちゃんとこの世界でお父さんとお母さんが、私の家族がこうやって生きていたんだよって」


 そう話したときの香代子ちゃんの顔を思い出していると、寝ている子供の1人が突然笑い出した。いったい何の夢を見ているんだか……。
 深く息をはいて、肩の力を抜き、幾人かの寝巻きを直してから廊下に戻る。
 はねた布団は、いま掛け直してもまた蹴飛けとばしてしまうだろうから、そのままにしてある。今晩は布団がなくてもあたたかい。少なくとも風邪を引くことはないだろう。

 子どもたちを起こさないよう静かに廊下を歩き、階段を降りる。
 踊り場の障子が少し開いていたので閉めようと手をのばしたけれど、ふと外の様子が気になって少しだけ障子を開けてみた。

 どうやら空は曇っているようで、星の瞬きは見えない。窓の向こうには真っ暗な闇が広がっているようだった。
 ガラスに写り込んだ自分が、じいっと私を見つめている。

 ……隣に夏樹がいなくなってから、もう3年。
 まだビルマで戦っているはずだけれど、今も銃をもって土まみれになっているのだろうか。それとも戦死の公報が来たということは、軍隊からはぐれてしまって山野をさまよっているのだろうか。

 ううん。でも大丈夫。夏樹のことだもの。

 それに私の人形がついている。
 無事に帰ってきてほしい、そして、夏樹の支えになりますようにと祈りを込めたあの人形が。

 ドイツが降伏したとラジオが言っていた。これでとうとう残りは日本だけとなったわけだ。
 ただそれでも村の人たちも、ここにいる子どもたちも、日本が負けるとは思っていないようだ。

 神国日本。
 神である私が言うのもナンセンスだけれど、科学の時代になっているのにかたくなに幻想じみた信仰に固執してしまっている。
 これじゃ前近代の封建社会となんにもかわらないよ。

 男の子たちの中には、将来は軍人になって、お国のために死ぬんだと誇らしげにいう子もいる。
 軍国教育の成果なんだろうけど、それを聞くたびに複雑な気持ちになってしまう。

 大っぴらには何も言ってあげられず、ただたやすく命を投げ出してはだめ。死ぬその最後の瞬間まで生き抜くつもりでいなければ駄目だとだけ言い聞かせた。

 あの子たちの命は多くの人たちの犠牲の上にあるんだし、国のために喜んで死にに行くようにはなってほしくない。おおっぴらに言えないけれど。



「――俺の所は学校に逃げ込んだんだ」

 ふと耳に和則くんの声がよみがえる。
 香代子ちゃんに続いて、和則くんもようやく重い口を開いて、どうやってあの夜を生き延びたのかを話してくれた。

「もう学校の敷地の前は火がめるように広がっていて、赤々と燃える火の中で黒い影のような人がうごめいていた。町の上には火が旋風せんぷうになって燃え上がっていたよ」

 すぐに誰かが学校も危険だと言い出して、和則くんたちも外に逃げることにしたという。だけど、悲劇はこの時に起きた。
 玄関を出るっていう時に、突然、校舎が崩れたのだ。

 背中をお父さんに突き飛ばされ、転がり出た和則くんが振り向くと、崩れた木材と燃えさかる火の向こうにご両親がいたそうだ。

 そのまま駆け寄ろうとしたらしいけど、
「逃げろー!」
というお父さんの叫び声に突き動かされて、そのまま周りの人と一緒に逃げた。
 幸いに、どうにか川に架かった橋の下に逃げ込むことができたらしく。冷たい水の中で一晩すごしたという。

 頭上から人々の叫び声や燃えさかる炎の音が降りかかるように響いてきて、火の色が映り込んだ川面には、時折、道路から人が飛び込んでいたり。それもそのまま亡くなった人もいて、ぷかぷかと遺体が浮かんでいたという。

 あの日の出来事を話し終えた和則くんは、机の天板の一箇所をにらむように見つめ続けている。そして、独り言のように、
「俺は絶対に生き続けてやる。父さんが助けてくれたこの命、優子と一緒に、何があっても生き続けてやる」
とつぶやいた。

 そういう和則くんを泰介くんはじっと見つめている。

「お前たちがどんなところで、どんな風に暮らしてきたのかはしらない。……だけどな。ここに来た以上、お寺に迷惑だけは掛けるんじゃないぞ。特に春香先生に迷惑を掛けたらぶっ飛ばすからな」

 黙ってうなずいた泰介くんが、ようやく口を開いた。
 2人の身の上話を聞いて、自分も話してくれる気になったのだろう。

 泰介くんたち家族は静岡県の浜松に住んでいたらしい。
 父親はもともと名古屋の出身で、昔は料理屋をしていたそうで、赤味噌のとんかつのお店として有名だった。ただ背が低くて徴兵ちょうへい検査の時は丙種へいしゅ合格。ずっと軍隊に行くことなく暮らしていたそうだ。
 戦争が始まってお米も配給となったころにお店を畳んで、地元警防団けいぼうだん員となったという。

 背が低く、母親の方が背が高くって、ノミの夫婦と呼ばれていたらしいけど、子どもたちをよく撫でてくれる優しいご両親だった。そして、とうとう赤紙が来る。

 警防団の人たちからはおめでとうと言われ、わけがわかっていない景子ちゃんは嬉しそうにしていたという。
 入営までのわずかな日、それまで以上に頭を撫でてもらったし、出発の前日には一緒にお風呂に入って背中を流してあげたそうだ。

 ――いいか。父ちゃんはな、お前たちが将来、ぎょうさんご飯を食べられるようになるように戦ってくる。いないからといって、たわけ愚か者になるんじゃないぞ。
 うん。
 じゃあ、母さんを頼むからな。

 父と子の間の約束。
 そして、父親は歩兵第118連隊に所嘱。まもなくして出征となった。しばらくして戦死したとの連絡が……。
 なんでもサイパンに向かうために輸送船に乗ったところ、その輸送船が撃沈したのだという。

 その知らせを受けたとき、母は1人泣き崩れた。
 白木の箱が帰ってきて「お父さんだよ」と言われて、中に入っている木札を見た時、もうお父さんが帰ってこないんだと悟ったという。

 母子家庭となり、生きていくために母親とともに、福島県は白河にいる叔父おじの家に厄介になったそうだ。祖父や祖母に当たる人はすでに亡くなっていた。
 初めての東北、福島県。母は父親の死亡賜金しきんを叔父にすべて渡し、離れの物置を住居にして、畑を手伝いながら2人を育ててくれたという。

 けれど気を張りながら無理をしつづけていたのか、はたまた突然の環境の変化に身体がついていかなかったのか、今年の2月に激しい下痢げりが始まり、まもなく倒れてしまった。
 医者にせるお金もなく、日に日に衰弱していったらしく、最後は泰介くんたちの見守る中で息を引き取ったという。

 それからは食事も叔父たちと一緒に取るようになったそうだけれど、叔父の家族には具が入った水団すいとんなのに、兄弟にはほとんど水団すら入っていないスープの食事が続いた。
 景子ちゃんが寂しがるからと一緒に遊んでいると、叔母からはこっちは面倒見てるんだから、もっと働けと怒鳴どなられた。

 ある日の夜、たまたま物置から出たところで、母屋から話し声がしたという。
 叔父と叔母が話し合っていて、あの2人がいては自分たちが生活していけないという。

 その会話を聞いたその日のうちに、泰介くんは眠いとぐずる景子ちゃんを連れて、その家を出たらしい。

 神社の社などを点々としながら移動し、畑から作物を盗み、大きな街では物乞いをしてわずかな食べ物をもらって、そして、この松守村に流れ着いたのだという。

 ようやく話してくれたことに内心でうれしく思いながらも、どこかやり場のない怒りを覚えてしまう。
 階段で、夜のガラス窓に写った自分もまた、こっちにいる私をにらみつけている。
 もちろん子どもたちにはこんな顔を見せられない。ただただ、こうした感情を心の底に隠し、いつかおさまるのを待つだけ。

 そう。あの子たちはもう充分に大切なものを失っている。
 父親を、母親を、家族も家もすべて……。あと2ヶ月で戦争は終わる。けれど、彼らの苦しみは戦争が終わったからといって、無くなるわけじゃない。

 私では、失ったものの穴を埋めてあげることは充分にできないだろう。それができるのは亡くなった人だけなんだから。

 でもね。それでも傍にはいてあげられる。寄り添っていくことはできる。見守っていくことはできる。

 それに彼らは1人じゃない。
 和則くん、香代子ちゃん、泰介くん、優子ちゃん、菜々子ちゃんに景子ちゃんと。……もう6人も新しい兄妹がいる。
 1人では無理でも、みんなでなら生きていくことができるだろう。
 願わくば、彼らが無事に生きていけますように。そう祈らずにはいられなかった。


 1階の女の子たちの部屋を見回り、そして、宿直室に戻る。
 幸いに私が離れても景子ちゃんが目を覚ますことはなかったようだ。すやすやと穏やかに眠っているその寝顔を見ていると、愛おしさがあふれてくる。

 そのまま手首にしているミサンガを見下ろした。日々の水仕事で色は抜け落ち、汚れてよれよれになってきている。

 まだまだ頑張れってことかな。

 別に夏樹の声が聞こえたわけじゃないけれど、なんとなくそんなことを思う。

 南の方向はあっちだ。
 この方角をずっと行った先。そのどこかに夏樹がいる。

 話したいことが沢山ある。子どもたちとの楽しい話や苦労もあるけれど、空襲後の東京も、この怒りも、イライラも、寂しさも、やるせなさも全部全部、夏樹が帰ってきたら聞いて欲しい。

 そして、抱きしめてもらうんだ。耳元で何回も愛してる、大好きだとささやいてもらおう。キスはこっちから何回もしちゃうだろうけど。顔を胸元にこすりつけたい。
 ……それくらいはいいよね。

 その時のことを想像すると、気持ちが楽になっていく。

 景子ちゃんの横に潜り込んだ。そのまま横を向いて、可愛い寝顔をじっと見つめているうちに、私もいつしか眠りに落ちていった。

04転の章 ひぐらしの声をまくらに眠る子ら 見守るわれも夫を夢みし

 子供たちのお昼が終わり、今、私たちは厨房でおひつや食器を手分けして洗っているところだ。
隣では、新たに見習い寮母となった香代子ちゃんが、食器をガシャガシャと洗ってくれていて、その洗い終わった食器は、安恵さんが軽く拭いてから棚へとしまい込んでいく。
 下の方の棚に食器をしまった安恵さんが、腰を伸ばしている。あれあれ……。まだ20歳前だと言うのにね。

「香代子ちゃんが手伝ってくれて助かるなぁ」
 そういう安恵さんに、香代子ちゃんが、
「なんにもできないですけど」
と言う。まあ、まだ12歳。平成の日本でいえば中学校1年生だからねぇ。それでも随分と大人びてきたとは思うよ。


 先月の夜這いから再び蔵で暮らすことにしたわけだけれど、最初の頃は、恵海さんと美子さんから何度も理由を尋ねられた。さすがに夜這いがあったなんて話すわけにもいかない。おそらく激怒するだけじゃすまないと思うから。
 なので、当たり障りのないような理由を言ってある。

「あそこは私が夏樹と暮らしていた場所だから、あそこの方が落ち着くんですよ。なんていうか、私がいるべき場所はここだって感じるのが、この蔵だから……」

 どうやら2人ともこの理由に納得したようで、それからは尋ねられることはなくなった。

 肝心の先生の方は、あの夜這いの翌日こそ挙動不審気味で様子がおかしかったけれど、私の方から、意識をして以前と同じように接しているうちに普段通りに戻ったようだ。
 安恵さんは意外と鋭くって、先生に何かがあったと感じていたようだけれど、何があったのかまではわからなかったようだ。

 日々、色んな出来事は起きるけれど、それでも時は流れていく。暦はもう6月になっていた。

 東京で別れた大森鈴子ちゃんから手紙が届いた。
 生き残りの子がいたのかなと思いつつ、すぐに目を通したけれど、書かれていたのは東京を離れることになったということだった。
 やはり、もう……。生き残りはいないのかな。他の子もみな死んでしまったのだろうか。
 残念だとは思う。でもどうやら、あれから3ヶ月が経ち、私も少しは冷静に受け止められているようだった。

 鈴子ちゃんの手紙によると、東京は4月にも5月にも大きな空襲を受けたらしい。
 首都である東京がそんな状態で、なぜまだ戦争を続けられるのだろうか。あの焦土しょうどの光景を見た今なら、尚のことそう思ってしまう。
 もっとも私の記憶のとおりならば、沖縄を占領され、2発の原子爆弾を落とされるまで戦争は止まらない。このまま歴史通りになるだろう。

 それはともかく、鈴子ちゃんは新しい住所を書いてくれてあったので、今度お返事を出しておこうと思う。香代子ちゃんの手紙も同封するといいかもしれない。

 ようやく片付けが終わり、3人で少し休憩をしていると、突然、廊下の奥で電話が鳴り響いた。
 さっと美子よしこさんが電話に出たようだ。漏れ聞こえる声から、どうやら相手は駐在さんらしい。

「――え? 畑泥棒?」

 美子さんのそんな言葉が聞こえてきて、一瞬なんのことかわからなかった。

 畑泥棒って、あの畑泥棒だよね。野菜とかを勝手に採っちゃう……。
 まさか子供たちが? 

 思わず安恵さんを見ると、彼女も顔をこわばらせていた。

 立ち上がりかけた私の耳に、美子さんの言葉が入ってきた。
「ああ、ここの子じゃないんですか。それを先に言ってくださいよ」

 なんだ……。よかった。
 胸をなで下ろして再び腰をかけ、電話が終わるのを待つ。

「はあ、そうですか」
 けれど浮かない様子の美子さんの声が気にかかる。やがて「あのう、御仏使さま」と私を呼ぶ声が聞こえてきた。

 ちょっと行ってくると2人に言って厨房を後にして、隣の部屋にある電話の所ヘ行くと、美子さんが話の内容を教えてくれた。

 なんでも、泥棒は9歳の少年と4歳の女の子だったそうだ。ほかの村から流れてきたらしく、村人の畑だけでなく私の所の畑でも盗んだと話しているという。
 どこの村からか、どこの家の子なのかは教えてくれないらしい。ともかく、畑の持ち主に謝らせようと思って、駐在さんが電話をしてきたとのこと。

 9歳と4歳か。

 2人きりで生きていくのは大変なことだ。
 ただそれでも、いつの時代にも、生きるために人の物を盗んでは生を繋いでいた子供たちがいる。そんな子供を見てきた私にはわかる。
 畑泥棒は悪いこと。そんなの決まっているけれど、これは善悪の問題じゃなくて生きるか死ぬかの問題なんだ。食べなきゃ死んでしまう。生きていくには盗むしかなかったのだろう。

「私が行きますよ」

 半ばまた引き取ることになるような予感を覚えつつ、私はそう言っていた。

 駐在所は村の入り口に近いところにあり、ほとんど村を突っ切っていかないといけない。もっとも別に急ぐ必要もないからと、徒歩で向かうことにした。

 つばめの飛びう畑の上には、黒々とした雨雲が空に広がっている。天気予報がなくなって久しいけれど、もう梅雨に入っているのだろう。

 役場の前を通過して、さらに10分ほど歩くと駐在所が見えてくる。
 出入り口には3人ほどの村人の姿が見えた。どの男の人も50代過ぎのようだ。

「清玄寺です」
と挨拶をすると、男の人たちが「ああ、どうも」と道を譲ってくれた。
 中に入ると、駐在さんの前にいる男の子と女の子の姿が目に入ってきた。
 男の子は体中を殴られたようで、顔はれ上がりアザになっている。きっと捕まったときに散々さんざんにやられたんだろう。

「ああ、どうも」
 せまい村だけに駐在さんも顔見知りだ。
「ほら。謝らんかっ」

 男の子に怒鳴どなると、男の子は涙を流しながら土下座をした。女の子はうつむいて呆然としているようだ。
「もうしませんっ。すみませんでした。許してください」

「いいかっ、お前たちが盗んだ畑はな。村のもんの畑だけじゃない。東京から疎開している学童の畑からも盗んだんだよ」

 怒鳴どなる駐在さん。男の子はただひたすらに「もうしません。許してください」と言い続けている。

 あの服も、もうずっと替えていないんだろう。身体もやせ細って……。

 そうなんじゃないかって予想はしていたけれど、2人の姿を目の前にすると胸が痛む。
「駐在さん。少し話をさせて下さい」
「ああ、どうぞ」

 男の子の前にひざをつき、その頭をそっとでる。あかでベトついた髪の毛。シラミもいるのは当然か。

「顔を上げて」
 そう声をかけるが、男の子は震えるだけで顔を上げようとしない。

 見かねた駐在さんが再び怒鳴ろうとしたので、手でそれを止め、優しく言葉をかけた。
「怒らないから、顔を上げなさい」

 ようやくゆっくり顔を上げた男の子を正面から見る。垢まみれ、泥まみれ、殴られ、踏みにじられた跡の残る、痛ましいその顔。
 果たして、本当にこの子たちが悪いんだろうか。ただ必死に生きようとしているだけなのに。

「そっちは妹さん?」
「はい」
「そう。……どこから来たのかは言えない?」
「はい」
「2度と戻りたくないから?」
「……はい」
「お父さんとお母さんは?」
「死にました」
「そう。……どうして亡くなったのかは教えてくれる?」
「父は戦争で、母は病気で死にました」
「それで家族は妹さんだけ?」
「はい」

「将兵の遺族には恩給が出るのは知ってる?」
「いいえ」
「そう……。誰も教えてくれなかったのか、あなたの親族にだけ説明があったんだと思う」
 もっとも年金は将校でないと出ないけれどね。

 その少年は悔しそうにギリッと唇をかみしめた。

「あなたに恩給が届くようにするには、その親族にも連絡をしないといけない。お名前も、お父さんが陸軍だったか海軍だったかも……」
「いりません!」

 強い口調で断る男の子に、駐在さんが、
「馬鹿がっ。子供が2人で生きていけるわけがないだろう! 悪いことはいわん。お前たちが一緒に暮らしていた家に戻れ」
と言う。
 うん。それが普通の考えだと思う。大人としては、だけど。

 貝のように堅く口を閉ざしている少年を見て、
「じゃあ、私の所にいらっしゃい。お寺だけど、妹さんも一緒に。いつか話してもいいと思えるまで、うちで暮らしなさい」

 思わぬ申し出だったのだろう。少年は腫れた瞼の隙間から、私をじっと見ていた。

 一方で、ぽかんと口を開けた駐在さんが、
「な、なにを。清玄寺で面倒をみるんですか?」
「ええ。もうすでに学童もいるし、4人の孤児もいる。もう2人くらい増えても変わりはありませんよ」
「しかしですな」

 言いよどむ駐在さんだったが、そこへ援軍がやって来た。
「いいんじゃないですかな。本人たちがそれでいいんなら」

 そう言いながら中に入ってきたのは、村長さんだった。

「村長。しかし……」
「清玄寺なら大丈夫でしょう。もし捜索願そうさくねがいが出たときには、その時に初めて連絡すればいい。……このまま元の家に帰しても、また脱走しますよ。この様子じゃ」
「それはそうでしょうが。むぅ」

 私は兄妹に向き直った。
「それでどうする? うちに来る?」
 2人はコクンとうなずいた。それを見て村長さんはうなずき、駐在さんも「仕方がない」とようやく納得してくれた。

 お兄ちゃんは石川泰介たいすけくん、妹は景子ちゃんというらしい。手続きはこちらでやっておきますという村長さんに後はお任せをして、私は2人を連れて戻ることにした。

 外にいる村人に、改めて兄妹と一緒に頭を下げ、今度から清玄寺で面倒を見るから、何かあれば遠慮なく清玄寺に言ってほしいと伝える。
 どうやら男の人たちは外から中の様子を見ていたようで、その場はそれで済んだ。後日、また謝罪に行った方がいいだろう。

 宮田香代子ちゃんに、石田和則くんと優子ちゃん、そして菜々子ちゃんに、石川泰介くんと景子ちゃんと、これで6人となる。さすがに増えてきたか。
 夏樹が帰ってきたらなんて言おうか。それが心配だけれど……、まあ、何とかなるでしょ。



 清玄寺に戻ると、子供たちが遠巻きに見ていた。すぐに先生が解散させていたけれど、明日からみんなと上手くやっていけるかなぁ。

 でも、まずは2人をお風呂に入れよう。
「ね。香代子ちゃん。悪いんだけれど、美子さんのところから打ち身用の塗り薬をもらってきて。あと同じくらいの背丈せたけの子から、服を一着ずつ借りてきてくれないかな」
「はい。わかりました」
「よろしくね。私は2人をお風呂に入れてくるから」

 そのまま清玄寺のお風呂場に行き、脱衣所で服を脱がさずに、そのまま風呂場へと連れて行く。浴槽に水を入れ、窓から手を延ばして外に積んであるまきを手に取った。
 鉄砲風呂の火をくべるところに薪を入れ、すぐ火を点ける。

「さ、服を脱いで」
と振り返るも、男の子はなかなか脱ごうとしない。

 しょうがないなぁ。まずは景子ちゃんから……。

 ボタンを外して脱がせ、その身体を見た途端にハッと息を飲む。もう幾日いくにち食べていなかったのだろうか。
 あばらが浮き出ていて、お腹がふくらんできている。栄養失調の危険な徴候ちょうこうだ。体を動かすのも億劫おっくうだったろうに……。

「春香先生、ここに置いておきます」
 ちょうど脱衣所の方から香代子ちゃんの声が聞こえてきた。替えの衣類を持って来てくれたんだろう。

「香代子ちゃん、お願いがあるんだけれど。美子さんか安恵さんに、この子たち、ずっと食べてなかったみたいだから、薄いスープを作っておくように言っておいてくれる?」
「あ、はい。わかりました」
「お願い」

 さてとお兄ちゃんの方は……。じっと見ていると、ようやく観念したのか一枚ずつ服を脱ぎだした。
 2人とも脱いだ服にはシラミが動き回っている。これはこのままお風呂場で煮沸しゃふつするしかないだろう。
 それよりもあらわになった上半身もひどい。あばらが浮き出ているのは一緒だけれど、殴られた跡が痛々しく残っていた。

 私がじっと見つめているのに気がついているのだろう。お兄ちゃんはさっと顔をらした。
 こんな身体で小さい景子ちゃんと……。そう思うと、胸が苦しくなる。

 いったいこの2人に何があったのだろう。
 まるで野良猫のように、傷つき、身体を寄せ合い、さまよい歩くようにこの村に辿りついたであろう幼い兄弟。
 ご両親が亡くなり、親戚はよくわからないけれど、もうこの世界に2人きりのつもりでいるんじゃないだろうか。

「頑張ったね」

 気がつくと、そうつぶやいていた。

「よく頑張ったね。……でも、あなたたちは2人だけじゃないんだよ。私もあなたたちの中に入れてちょうだい」

 するとお兄ちゃんのれ上がった目から、ポロポロと涙があふれ出した。「うっ、うっ」と嗚咽おえつを漏らす泰介くん。私は2人をそのまま抱きしめた。
「頑張った。よく頑張ったよ。ここに居ていいんだからね」

 この子たちには居場所が必要だ。親代わりになる大人も。恐らく親戚の家ではその余裕が無かったのだろう。
 誰が悪いでもない。どこの家もまず自分たちの暮らしが第一なんだから。

 少し泣きそうになりながらも、私は二人の身体を洗い、湯船に入れてあげたのだった。

04転の章 ひぐらしの声をまくらに眠る子ら 見守るわれも夫を夢みし

「安恵さん。いくよ。熱いから気をつけて!」
「はいっ」

 大釜の中で煮えたぎっているお湯に竹竿をさしこむ。ぐるりと動かして、中でおどっている衣類をたぐり寄せる。そのまま引っかけて、地面に並べてある すのこの上にベチャンと降ろした。
 湯気の立っている衣類のかたまりを、安恵さんが火箸で広げてから団扇であおぐ。

 ここのところ晴れて穏やかな天気がつづいているので、2日かけて、みんなでシラミ退治をしているところだ。
 特に今日は村の婦人会にも手伝いに来てもらって、朝から布団を本堂の回廊に並べて日干しし、今ごろは子供たちも一緒に宿舎を掃除をしている頃だろう。
 同時並行で班ごとに呼び出して、散髪と頭のシラミ取りを行い、そのままお風呂場へ直行の予定になっている。

 服についた成虫や卵を殺すための煮沸作業は、寮母の私たちと美子さん、そして、無理矢理来てもらった香織ちゃんが担当している。

 もちろん香織ちゃんの子供の和くんも一緒なので、危険な火のそばの作業はさせられない。
 なので今は美子さんのところで、1つ年下の菜々子ちゃんとできる範囲のお手伝いをしてもらっている。

 香織ちゃんは、温度の下がった衣類を再度たらいに入れて水に浸し、踏み洗いをしてから絞る係をお願いしている。
 作業量は多いけれど、手があき次第に私もそっちに合流するし、清掃中の婦人会の人たちも応援に来るからそれまでの我慢だ。

 児童全員分なので山のような衣類。
 一枚一枚を大釜の中に放り込み、熱湯に10分ほど浸して取り出す。三角巾で髪を覆っているけれど、お釜の熱気で額から汗が噴き出てくる。

 そんな作業をしながらも、チラリと香織ちゃんの表情をうかがう。
 あれから1月が経ったとはいえ、表面上は落ちついて見える。子供たちを気にしながら、美子さんともおしゃべりをしながら作業をしているようだ。
 それを見て、そっと安堵のため息をつく。

 あの英霊の伝達のあった次の日、私は香織ちゃんの様子を見に、嫁ぎ先の石川さんの家に向かった。
 そこで石川さんの奥さんに聞いてみたところ、白木の箱を安置して中をあけると、やはり私と同じく1枚の木札が入っているだけだったという。

 それを見た途端、香織ちゃんは拳を握りしめて立ち上がり、そのまま台所に向かって包丁を握り、大根を乱雑にダンッ、ダンッと包丁を叩きつけてぶつ切りにしていたらしい。
 そして1本切り終わるや、包丁を置いて、その場で泣き崩れたという。

 その後、お家にお邪魔して少し香織ちゃんと話もしたけれど、どこか魂が抜けたようになっていて、とても見ていられなかった。
 秀雄くんの葬儀に参列した時は、憔悴しょうすいしきった香織ちゃんが、まだ何にもわかっていない和くんを膝の上に載せている光景を見て、あまりの痛ましさに胸が苦しかった。

 あれからずっと彼女のことが気がかりだったけれど、残念ながら寮母をしている私には、あまり彼女とゆっくりと会う時間をとることができない。
 そんな事もあって、今日は無理矢理来てもらったんだよね。

 一方で私の方は、青木先生や安恵さん、隣組の人たちから、葬儀はしないのですかと何度も尋ねられている。それはもう、うるさいくらいに。
 けれど、主人はまだ生きていますと頑なにお断りしつづけているうちに、最近になってようやく誰も葬儀のことを言い出さなくなった。
 諦めたのか、恵海さんたちが説得してくれたのか……、それはわからないけど。

 戦況は悪くなる一方だ。
 5月9日には、ラジオでドイツが無条件降伏をしたと流れてきて、村の多くの人たちが驚いていた。
 ……これでもう残っているのは日本だけになったというわけだ。

 聞くところによると、いよいよ敵軍が沖縄に上陸したというから、多くの住民をも巻き添えにしている泥沼の戦いが、今、この時も続けられているのだろう。

 日本だけでどうやって戦っていくつもりなのか。どこまで戦うつもりなのか。なんでこんな時代になってしまったのか。
 戦争、出征、空襲、戦死……。もううんざりだ。夏樹も帰ってこないし、私1人でどうしろと。
 っと、いけない。まだ作業中だったっけ。
 濡れた衣類って重いから、こんな作業をしていたら腰を痛めてしまいそうだ。……筋肉痛とは無縁の身体ですけどね。

 さて、そんなことを考えているうちに大釜の作業は終わり、火を消してから、香織ちゃんの作業に合流する。早いうちに大釜も洗いたいけれど、まだ熱すぎるので後回しにせざるをえないだろう。

 洗い場のポンプからくみ出した水をバケツで運び、たらいに入れ、そこへ温度の下がった衣類を放り込む。
 そっと足を踏み入れると、くみ出した水が冷たくて、思わず「ひぇっ」と声が出た。

 そんな私を見ていたのだろう。衣類を踏み踏みしている香織ちゃんが小さく吹き出した。

 ――お。笑った。

 内心でそう思いながら、「いっちに、さんし、いっちに、さんし」と口でリズムをとりながら私も踏み洗い作業をはじめる。

 さっきまで大釜の前にいたせいか、着ている服の中にまだ熱気が籠もっている。時折そよいでいく風が、えり元から入ってきて心地よかった。
 目の前の林の間ではチョウチョが舞っている。チョウチョが飛んでいると菜々子ちゃんに教えてあげようと振り向いた。

「2人とも手伝ってくれるの? いい子だねぇ」
 コクンとうなずいた和くんは、菜々子ちゃんと一緒になって、美子さんが絞った衣類を受け取り空になったたらいに持っていく。その光景が、お婆ちゃんと孫のように見えてほほ笑ましい。

「奥様って変わりませんね」
 香織ちゃんから突然そう言われた。

 私の場合は夏樹が死ぬわけないって思っているからだけど、それを秀雄くんに当てはめるわけにもいかない。
 あんな戦死通知なんて信じていないからと言ったとしても、それを香織ちゃんが信じてしまってもマズいことになる。たとえ、それで彼女の心を慰めることができたとしても、後で戦死が確実なものとわかったときが怖い。

「まあ、遺骨が帰ってこないから実感がないってのもあって、そのうちひょっこり帰ってこないかなって。どうだかわからないけどさ……。それに目の前にもっと悲しんでいる若奥様がいるからね~」
「はい」
 香織ちゃんが曖昧な微笑みでうなずいた。

「それでも私たちは生きていかなきゃいけないしね。それに今は他に子供たちがいるから悲しんでいる暇もないってわけよ」
「ああ、……まあそうですね」
「というわけで香織ちゃん」
「はい」
「いつでもお手伝いに来てくれていいからね」
「――はい」

 きっと家にいても時の経つのが長く感じているはず。
 あたかも明けない夜の中にいるように、出口の無いトンネルをさまよっているように。親御さんも同じ気持ちかもしれない。

 でもね。それでもその悲しみを背負いながらも、生きていかなきゃいけないんだよ。たとえ今は、地獄にいるかのように辛い日々になっているとしても。やがて、その悲しみは時が解決していくだろう。

 不意に和くんの明るい笑い声が響く。菜々子ちゃんのキャッキャと笑う声が続く。美子さんったら、楽しそうにしている。

 でもこの笑い声を聞いていると、なぜか私もうれしくなってくる。
 息が詰まりそうな時もある。暗く重苦しい気持ちになる時もある。そういう私たちを癒やしてくれるのは、子供たちの笑顔や笑い声じゃないだろうか。

 秀雄くんの忘れ形見である和くんが笑っている。その声を聞いて微笑んでいる香織ちゃんを見ながら、私も自分が微笑んでいることに気がついた。



「ふうぅ。チェック終わりっと」

 直子さんが亡くなってから、会計書類は私の仕事になっていた。幸いに食糧事情が回復してきていたので、どうにか今月は収入と支出がトントンといったところだ。
 けれど先のことを考えるとまだまだ不安が頭をもたげてくる。

 というのも、今のところは政府の補助金があるからどうにかなっているわけで、戦争が終わってからもこの補助金が続くのかどうかはわからない。もし補助金が出ないとなれば、運営はかなり厳しくなるだろう。

 だいたい配給だってどうなるかわからないんだよね。特に8月15日以降は。
 今のうちから対策をしておいた方がいいと思うけど、8月で戦争が終わるなどとは誰にも言えない。やるなら1人で、気取られないように話を進めておくしかないだろうか。

 ……うう。こんな時、夏樹がいてくれたらなぁ。

 そう思って、布団に入れてある抱き枕夏樹枕を見る。
 ここのところ菜々子ちゃんと一緒に寝ていたけれど、今晩はバーバとなった美子さんと一緒に寝るらしい。
 ほんのちょっとだけ寂しいけれど、まあ私にはこの夏樹枕があるからね。大丈夫ですよ。

 それにしても……。夏樹枕のにっこり笑っている顔が恨めしい。

 直子ちゃんは亡くなりました。
 いくらこちらで回向をしているとはいえ、まだここの学寮に彼女がいるようで、ふとしたときにその姿を探してしまう自分がいる。一緒に暮らしていた彼女の死を、私はまだ受け入れられていないのだ。

 ……戦争か。
 銃弾に爆弾、焼夷弾。人類の作り出した兵器が、私たち市井の命をもたやすく奪い、大都市をも一夜にして廃墟に変えてしまう。
 悠久の歴史の中で人々の暮らしを支えてきた火が、今は多くの一般市民を殺す武器になっている。

 かつては弓矢や剣の戦いだった。それでも国と国の争いがあり、多くの人々が殺し合い、悲劇が生まれた。
 国というものが生まれる時や滅びる時には、大勢の人々が死ぬ。そんな光景をいくつも見てきた。
 もちろん疫病や魔女狩りなんて時代もあったけれど、やがて銃が生まれ、大砲が生まれ……。その行き着く先が、この戦争となっているのだろう。

 ふと昼間の香織ちゃんの顔を思い出した。……秀雄くんはやはり死んでしまったのだろうか。それとも夏樹と一緒にどこかで生き延びているのだろうか。
 生きていて欲しいと思いつつも、心のどこかでやはり駄目だろうとも感じている。

 一緒にいた人、近しい人が亡くなる。それは辛いことだ。そんなことはわかっている。
 決してうわっつらの言葉だけじゃない。私にだってお父さんを亡くした経験があるんだから。

 ただ……、あの時は夏樹がいてくれた。
 お父さんがガンで闘病中の時も、いや、もっともっと前からずっと夏樹が傍にいて私を支えてくれていた。
 一緒に病院に行ってくれること。一緒に家にいてくれること。隣にいてくれたことで、どれだけ私は救われてきただろうか。

 けれども、今は夏樹はいない。

 それでも救いになっているのは、この広い世界の中で、私は決して迷子になっているわけじゃないということだ。
 ここで待っていれば、必ず夏樹が迎えに来てくれるとわかっているってこと。
 この狂ったような時代のなかで、ただそれだけが私にとっての支えになっている。

 まあ、それでも辛いし、寂しいし、1人にされて困ってるし、いつまで我慢すればいいのかわからなくて苛立つこともあるし、ぐちぐちと文句だっていいたいこともあるけどね。

 四つんいになって枕ににじりより、笑顔のほっぺたを突っついた。

「あなたはいつ帰ってくるんでしょうね?」

 反応はない。……また突っつく。

「今どこで何をしているんでしょうね?」

 指先でほっぺたの辺りをぐりぐりと押し当てる。本物だったら、ここでつねってやるのに。

「いつまで私を1人にしておくんでしょうね?」

 両手でほっぺたを左右から挟み込む。

「何でもいいから早く帰ってきてよね。……お願いだから」

 ぱっと両手を離して、ため息をついた。

 ――はあ、何やってんのかね。私は。

 迷子よりはいいのかもしれないけれど、待ち続けることも辛いよ。
 疎開している子供たちがいるから、まだマシだけどさ。忙しく動いていることで、あのにぎやかな子供たちの中にいるだけで、幾分か寂しさが紛れているのも事実なんだよね。

 それでも、
「ままならないなぁ。……本当にままならないよ」

 そうつぶやきながら、私は夏樹枕の顔を優しく撫でた。にっこり笑ったその口に、そっと唇を重ねる。
 布の感触がむなしいけれど、それでも幸せな気持ちになった。

 うん。今日は、もう寝よう。

 夢で会えるといいなぁと思いつつ、私は部屋の明かりを落として布団にもぐりこんだ。



 いつしか眠りに落ちてから、どれくらいの時間が経ったろうか。
 ふと目が覚めてしまった。……今は何時だろう?

 室内には5月のどこか気だるい空気が漂っている。
 壁と障子しょうじに囲まれた6畳間。電気をけず、静寂の漂っている今、あたかもこの部屋だけが世界から切り離されているような錯覚さっかくがした。
 それが急に怖くなって、隣の夏樹枕に頬をりつける。

 さっきまで何か夢を見ていたのは覚えているんだけれど、その内容は思い出せない。それがちょっともどかしい。
 まあ、いいか……。まだ早いみたいだし、もうひと眠りしよう。

 そう思って再び目を閉じた。ゆっくりとゆっくりと意識がどこかに沈んでいく――。

 うん?

 意識の端っこで何かが引っかかった。まるで張り巡らしたあみに何かがかかったような違和感がする。
 寝ようとしている時に、一体なんだろう。危機感というほどではないけれど、このままここに居ては面倒なことになる気がする。

 目を閉じたままでこの感覚が何かを探ろうと、耳を澄ませて意識を広げていくと、廊下の離れたところを誰かが歩いているのが感じられた。

 ここに向かっている?

 目を開き、さっと起き上がって周囲を警戒する。さっきまで気だるく感じていた部屋の空気が、今は張りつめているかのように感じられた。
 今はわかる。確かに誰かがやってくる。音を立てないように忍び足で、ゆっくりと。

 こんな夜中に私の所に来るなんて。
 それも見つからないようにとは穏やかではない。

 ……こういう時にどうすればいいのかはもう決まっている。伊達に長く生きているわけではないんですよ。

 というわけで、夏樹枕を持って私は縁側に通じる障子をそっと開いた。そのままガラス戸の鍵を外し、音を立てないように裸足のままで外に出た。

 今日は月が明るい夜だ。
 穏やかな月明かりを頼りに、私は蔵へと走る。暗い林の間を、いくつかの光点が動いている。早くも蛍が少し飛んでいるのだろう。
 その光景を横目にしながら蔵にたどりつき、後ろを気にしながら急いで鍵を開けた。

 大丈夫。まだその誰かが外に出てくる気配はない。
 けれど警戒は緩めないままに、するりと中に忍び込んで鍵を掛ける。

 ここまで来れば、もう大丈夫。はやる胸をなで下ろし、台所脇の水瓶から水をすくって、汚れた足の裏をぬぐった。

 ……さて、誰か分からないけれど、部屋にいないとなったらどうするだろうか。外まで追いかけてくるだろうか。

 蔵の居間の明かりを点けず暗いままでハシゴを登り、2階のロフトスペースへ上がる。ここは夏樹と私の寝室スペース。そして、ここには清玄寺側に向いた窓があるんだ。
 窓を開いて、そおっと外の様子を窺う。

 ここから見える夜の村は静かに眠りについている。何もなければこのまま穏やかな空気が流れるところなのだろうけど……。

 そう思っていると、清玄寺の離れの障子が開いた。月明かりに照らされたその人は、青木先生だった。

 ……そう。そういうこと。

 その姿を見た途端、私は悟った。あの人、私に夜這よばいをしようとしたってわけだ。

 私が夏樹以外の誰かになびくわけないのにねぇ……。たとえ1人でいるからって、ありえないし、すきは見せていなかったはずなんだけどな。そうか。未亡人だと思っているのだろう。

 そりゃあ、この村ではかつて夜這いの風習があったよ。
 正確には今でもあるかもしれないけどさ。ただ、それは事前になんとなく合意みたいなのがあったりするわけで。よりによって私にしなくても。

 だいたい夏樹は戦死したわけじゃないんだし。……他の人にはわからないかもしれないから、それを責めるのは酷かもしれないか。

 見ていると、ガラス戸の鍵が開いているのを見つけたようで、先生は外をながめて私を探しているようだ。

 お願い。そのまま帰って……。

 しばらく視線をさまよわせていた先生だけれど、私の祈りが届いたのか、諦めたように頭を小さく左右に振り、ふたたび障子を閉めていった。
 もしかしたらトイレにでも行っていると思ったのかもしれないね。

 肩から力を抜いて、ため息をひとつつく。
 先生には少し同情をしている部分もある。だって、こんな田舎に男1人で来られてるんだよ。奥さんでもいれば別なんだけれどね……。

 かといって、私にはどうにもできないことだ。しかも誰にも相談できないしねぇ。精々が、あの人に良い人が現れますようにと祈るくらいかな。

 気を取り直して振り返り、私は2階のロフトスペースを見回した。

 私たちが寝室にしていたこの場所。いくつもの思い出のある蔵。
 そして何より、この建物全体に込められた夏樹の力が、私の肌にしっとりと馴染む。

 私を包み込むあたたかい力。心安らぐ気配。思い出の品々。
 それらが私のいるべき場所はここなんだよと教えてくれているように感じる。

 ――うん。今日から、寝泊まりはここでしよう。

 それにしても私に夜這いなんてね。やっぱり1人になると色んなことが起きるもんだ。
 しみじみとそう思いつつ、この事はすっぱり忘れることにした。

 だって今は蔵に居るんだもん。少しご機嫌な気持ちになりながら、私は改めて布団を敷くのだった。

04転の章 ひぐらしの声をまくらに眠る子ら 見守るわれも夫を夢みし

 焼け野原となった東京から戻って、およそ1月が経とうとしている。焦土と化した東京都は対照的に、ここ松守村では桜や桃の花が咲き、その下には黄色いタンポポの花が広がって、のどかで穏やかな時が流れていた。

 4月の陽気に誘われ、子供たちにせがまれたこともあって、いま私は子供たちと遊んでいる。

「勝~ってうれしい 花いちもんめ」
「負け~てくやしい 花いちもんめ」

 手をつないで歌いながら前に出ては「花いちもんめ」で足を上げる。終われば、次は対面したグループが進み出てきて、同じように足を上げた。
 ふふふ。もんぺだからいいけど、この歳の姿だと、こうやって足を上げるのがちょっと恥ずかしいね。

「あの子がほしい」
「あの子じゃわからん」
「その子がほしい」
「その子じゃわからん」

「相談しましょ」「そうしましょ」

 頭をつきあわせて、「ね。誰にする」と話し合う子供たち。
 東京大空襲後に、集団疎開の対象外だった1、2年生の小さい子もここにはいる。また4月からは1年間の学校停止となっていた。「――優子ちゃんにしよう」「わかった」

「決~まった」

 再び向かい合う私たちと相手のグループ。
「春香先生がほしい」
「優子ちゃんがほしい」

 え? 私?
 戸惑いつつも一歩前に出ると、向こうからも石田優子ちゃんが前に出てきた。

「じゃんけん、ぽん」

 私たちの組はグー。相手はチョキ。「やったぁ」という声とともに優子ちゃんの手を引っ張って、再び歌が始まる。
 なぜかご指名が多くって、あっち行ったり、こっち行ったり。……まあ、大人が私1人だからかもしれないけどね。

 そんな長閑のどかなひとときを楽しんでいると、突然、1人の女の子が何かに気がついたようにお寺の門の方を指さした。
「誰か来たよ!」

 その声で歌は止まり、私は子供たちと手を繋いだままでそちらを見やる。やって来たのは村役場の助役さんだった。珍しく1人きり。何かあったのだろうか。

 恵海さんに用事かな?
 そう思いつつ、「ちょっと待っててね」とみんなに断り迎えに行こうとすると、私を見つけた助役さんがまっすぐこっちにやって来た。
 その表情はどこか暗い。なんとなく嫌な予感がした。

「こんにちは。中へどうぞ」
と声をかけると、助役さんは立ち止まって一礼をして、
「いいえ。それには及びません。――これを春香さまに届けにまいりました」
 そう言って一通の封筒を差し出した。

 私に……。なんだろう。ますます嫌な予感が強くなる。おそるおそる封筒を受け取り、すぐに中を開いてみる。
 折りたたまれた紙をゆっくりと開くと、見慣れない文字が飛び込んできた。

 ――『死亡告知書(公報)』

 一瞬、何が書いてあるのかわからなかった。死亡、告知書? この通知はいったい……。

 意味が分からないままに読み進めていくと、そこには夏樹の名前が書かれている。

〝昭和十九年九月、ビルマ チン州にて戦死せられましたから御通知致します〟

 一度読み、意味がわからないので、もう一度読みかえす。ビルマ……、戦死……。
 ぼうっとたたずんでいると、その通知書の下から別の紙がピラッと落ちた。さっと拾いあげると、そこには『英霊えいれいに就ての御知らせ』と書いてある。

 助役さんが、
「残念です。謹んでおやみ申し上げます。――英霊の伝達は、3日後、分校の体育館にて行います」
と言う。

 英霊って、まさか夏樹のことを言っているのだろうか。なにを馬鹿なことを。夏樹が死ぬなんてあるわけがない。だって、あの人は私と同じ神格を持っているんだから。
 助役さんは何故そんなにあわれむような顔で私を見つめているんだろう。わけがわからない。
 

 考え込んでいる私に、助役さんは頭を下げ、
「それでは、まだお届けしなければならない家がありますので、失礼いたします」
と言う。
 ほぼ惰性のままで「はい。お疲れさまでした」と声をかけ、去って行くその背中を見送った。

 いきなりの事で少し混乱したけれど、考えれば考えるほどありえない話だ。
 だいたい夏樹が死んでしまったのなら、眷属けんぞくである私だって唯じゃ済まないはず。それに帝釈天様だって見守ってくれているはずだし。

 まったくねぇ。何の手違いなんだか……。ほんと、悪い冗談だよね。

 そんなことより遊びの続きをしようか。そう思って振り向くと、子供たちが痛ましげな表情で私を見ていた。
 その向こうには連絡を受けたのか、外に慌てて出てくる恵海さんと美子さんの姿も見える。

 やだなぁ。そんな大げさな。

 ともかく恵海さんのところに行こうとすると、傍にいた女の子が「先生」と言いかけた。けれど、その隣の子がぱっとその子の手をつかんで止めてしまう。
「大丈夫よ。そんなに気を使わなくったって。どうせ何かの間違いなんだから」
 そう微笑むけれど、子供たちの様子はどこかぎこちなかった。

 それもしょうがないか。
「みんなは遊んでいてね。私はちょっと恵海さんとお話があるから」
とその場を離れた。

 庫裡くりの玄関の前で、恵海さんと美子よしこさんが待っている。微笑みながら歩み寄ると、恵海さんが沈痛な表情を浮かべながら、
「御仏使さま……」
「恵海さん、それに美子さんも、大丈夫ですよ。夏樹あの人が死ぬことはないってことは、お2人にはわかるでしょう」
と笑いかけた。この人たちは私たちを仏の使いと思ってくれているんだ。それくらい当然だよね。

 まあそれでも改めて、冷静になってこの告知書を読んでおいた方がいいだろう。私は恵海さんに庫裡くりの部屋をお借りすることにした。

 こっちを見ているみんなの視線を感じるけれど、やっぱり普通の人にはわかってもらえないよね。仕方ないけど……。

 4畳半のせまい和室に入り、後ろ手にふすまを閉めて1人きりになる。畳の上に座り、先ほど受け取った手紙を再び広げた。
 1枚目は『死亡告知書』。これはもういい。
 他にわら半紙の通知が2枚。1つは『英霊についての御知らせ』、もう1つは県知事からの弔慰文ちょういぶんのようだ。

〝英霊についての知らせ
 御英霊の傳達伝達に際してはあらためてその日時、及び場所を通知いたします。
 尚、死亡賜金しきん等は御英霊傳達伝達の際に支給することになってますから御承知置き下さい。
  栃木第一世話課
 御遺族様〟

〝謹啓 夏樹殿の御戦歿せんぼつあそばされました公報を差し上げるにあたり、御遺族の御心中、御愁傷しゅうしょうの程、如何いかばかりかと誠に御同情に堪へたえません ここに謹んで御くやみ申し上げます。
 唯の上は御供養に専念せられると共に犠牲をにせられることなく、新日本建設のため御努力あそばされ、末永く御多幸ならん事をせつに御祈り致します。
 なお時節柄、何かと御多艱たかんなる御起居ききょあそばされる事と拝察致しますが、當廰当庁きましても及ばずながら御家庭についての御相談にじてりますから何卒なにとぞ御遠慮なく御申し出下さるよう申し添へそえます。
 昭和廿年四月 日
    栃木県知事 相馬 敏夫
 御遺族様〟

 読み進めていくうちに、自分の指先が震えていることに気がついた。……ああ、私、やっぱり動揺しているんだな。
 不思議と冷静な頭でそのことに気がついた。
 あの人が死ぬわけがない。それはわかってはいるものの、いざこうして『死亡告知書』を受け取り、正直なところショックを受けている。

 馬鹿みたい。
 そう自嘲じちょうしながら丁寧に通知を折りたたむ。夏樹が帰ってきた時に、こんなの届いたよと見せてあげよう。
 そう思いながら、窓の外に視線をやる。春の優しげな空に、ひばりが円を描くように飛んでいた。

 ――絶対に死ぬわけがないんだから。絶対に!



 先生や安恵さんからもお悔やみの言葉を頂戴したけれど、「大丈夫ですよ。これは何かの間違いですから」と言っておいた。誰もが変な顔をしていたけれど、信じられない人は信じなくてもいいと思う。

 和則くんと優子ちゃんの兄妹も、香代子ちゃんも妙に気遣ってくれているようで、微妙に変な気持ちになる。

 あ、そうそう。和則くんは勤労奉仕の名目で畑を、、香代子ちゃんは寮母見習となってくれていた。
 それと学校が停止となってから、世間では学校の建物が簡易の工場となっていて、高学年の子たちはそこに勤労奉仕に通っているという。

 ここ松守村では農村であるせいか、食糧増産の名目で工場ではなく農作業に従事することになっていた。……つまり、和則くん以外は、幸いなことに今までとあまり変わらないということだ。

 連れて帰ってきた菜々子ちゃんは、見た目通りの4歳で、私が忙しい時は美子さんがおばあちゃん代わりになって遊んでくれている。美子さんも孫ができたようでうれしそうにしていた。

 もっとも夜はまだ寂しがるので、極力、一緒に寝るようにしている。
 なので寝る時は夏樹枕と私の間に菜々子ちゃんを挟めている。正直にいえば、この子のぬくもりに、私の方こそ癒やされているのが事実だったりする。

 ともあれ、あれから3日が過ぎ、今日は英霊伝達の日。
 村によっては村葬にするところもあるようだけれど、松守村ではそこまではしない。もちろん全員が清玄寺の檀家なので、戦死者が出るたびに恵海さんが御経を上げに行っていた。

 さすがに手違いとはわかっていても、取りに行かないわけにはいかないだろう。美子さんが一緒にというのを、1人で大丈夫と断り、もんぺ姿で分校の体育館に向かうことにした。

 英霊の伝達は、今まで気にしたことはあまりなかったけれど、帰ってきた英霊の数によって村役場であったり分校の体育館だったりしているらしい。

 おりしも途中の道ばたでは1本の桜の木が満開を迎えていた。そよぐ風に花びらがはらはらと舞い落ちている。
「桜、か……」

 若々しい緑の草たち、黄色いたんぽぽと菜の花、優しげな春の青空の下にある1本の桜。畑に隣接した農道脇の桜ではあるけれど、その姿はどこか力強く、そして美しい。
 英霊の伝達がある今日にはふさわしい景色かもしれない。

 分校の門をくぐり敷地に入る。運動場の向こうにある体育館には「英霊安置所」と紙が貼り付けてあった。
 体育館ということは、他にも何人もの御遺骨が届いているのだろう。戦争も末期になり、戦死者も増えているのだ。

 中に入ると、いつもは子供たちが使っているだろう体育館なのに、妙にシインとしているように感じられた。一番奥には祭壇が設けられていて、そこに遺影と白木の箱が並んでいるのが見える。

 その前にトレニア台が出されていて、そこが受付になっているのだろう。村長さんと助役さん、そして、役場の書記鈴木さんのほか、在郷軍人会会長の福田さんがたたずんでいた。

 並んでいるのは5つの遺影と5つの箱。そうか。4人もの若者が亡くなったのか……。

 夏樹のものとされている白木の箱は、左から2つめのようだ。軍服姿の夏樹の写真が、妙に懐かしく感じる。
 受付の鈴木さんの前に行って『死亡告知書』を手渡すと、「私にとりましても無念極まりありません」と言って下さった。この人も村役場で夏樹と一緒だったからね。

 もちろん、夏樹は今もどこかで生きているわけで、何と返事をしてよいのか困ってしまう。さすがにこの空気のなかで、それも4人の英霊を前にして、夏樹の戦死を真っ向から否定する勇気は私にはない。

 そのまま在郷軍人会の福田会長さんの前に行くと、
「英霊であります」
と言って、白木しらきの箱を差し出された。

 白木の箱か……。中に夏樹の骨など入っているわけがない。そう信じてはいても、いざこうしてこの箱を前にすると、神妙な気持ちになってしまう。

 おそるおそる両手をのばして、その白木の箱に触れた。滑らかな木目の箱。指先の感触は思ったよりも軽く、簡単にこわれそうだ。
 底に手を回して持ち上げ、胸に抱きかかえる。――が、これは軽い。軽すぎる。
 夏樹は生きているわけだから、それも当然だろうけど。

 そのまま遺影も受け取って、箱と胸の間に挟みこむ。村長さんたちが一斉に一礼してくるのを、こちらも一礼して「失礼します」と言って振り返った。
 まっすぐ立ち去ろうとした時、体育館の入り口から1人の若い女性と、それに付き添うように年配の女性が入ってくるのが見えた。その姿を見て、思わず胸がギュッと引き締められる。

 あれは、――香織ちゃん?

 間違いない。どこか思い詰めたような、それでいて感情を押し殺したような無表情な顔だけれど。間違いなく香織ちゃんだ。
 彼女は、一瞬、私を見て目を見開いたものの、そのまま足元に視線を落として歩いてくる。付き添いの女性は、彼女の嫁ぎ先の石川さんだった。

 ……まさか。秀雄くんが戦死した?

 振り返って改めて祭壇を見たとたん、全身に衝撃が走り抜けた。
 さっきまでは気がつかなかったけれど、一番右にある遺影は香織ちゃんの夫、井上秀雄くんだった。

 そんな!

 目の前で、先ほどの自分と同じように白木の箱を受け取り、そして、付き添いの女性が遺影を受け取っている。そのまま振り向いてこちらに歩いてくる香織ちゃんは、変わらず無表情のままだった。

 ふと脳裏に、かつて宇都宮に買い出しに行った帰りに蛍を見た時のことを思い出す。
 秀雄くんとひそかに付き合いをはじめ、不安を漏らしていた彼女のことを。

 あの蛍の乱れ舞う河原で、見とれている香織ちゃんに、私は「後悔しないように、今を大切にしなさい」と言った。
 あの時の「はい」の返事は小さかったけれど、確かに決意を秘めていたように聞こえ、そして、2人が結婚のお願いに来たのだったけど……。

 奥さま、と声を掛けられた気がして香織ちゃんを見ると、その目尻には涙の跡が残っていた。きっとここに来る前にも泣いていたんだろう。
 そのまま無言で、ちらりと私の抱えている白木の箱を見て、「旦那様……」とつぶやいて黙礼し、彼女と石川さんはそのまま通り過ぎていった。

 ……秀雄くんが戦死。亡くなった。死んだ。死んでしまった。
 ぐるぐるとそのことが頭の中で渦を巻いたままで、私も2人を追いかけるように出口に向かった。


 清玄寺に戻ると、先生以下、安恵さんや子供たちがずらっと並んでいて、私を出迎えてくれた。
 秀雄くんのことで気が滅入っていたこともあるのか、ひどく足が重い。

 子供たちは普段私に見せる表情とは違って、静かに、真剣な表情で並んでいる。内心を吐露とろすれば、こういう出迎えはやめて欲しかった。そんなことより今は1人にして欲しい。

 庫裡の玄関で恵海さんと美子さんが待っていてくれる。宿舎の玄関ではなく、そちらから入れということだろう。
 そのまま一礼して庫裡の玄関から入ると、恵海さんと美子さんも続いて入ってきて扉を閉めた。

「ひとまず離れの方へ」
という恵海さんにしたがって、離れへの廊下を進む。
 普段、私が寝起きしている離れの部屋は、すでにふすまが開け放たれていたので、そのまま中へと入り、とこに箱をおろす。

 恵海さんと美子さんが手を合わせようとするので、止めさせようかとも思ったけれど、それでは2人の気がおさまらないだろうか。
 白木の箱なんて今はどうでもいいと思ったけれど、何となく何が入っているのか見てみたくなった。

 そっと木箱の側面にあるふたを開くと、その奥には「陸軍一等兵 夏樹の霊」と書かれた木札が一枚収まっている。

 なにこれ? これで英霊って……。馬鹿にしてるの?

 急に何もかもがどうでもよくなって、思わず笑い出しそうになった。
 ああ、でも、違うか。遺体を収容できなかった場合、陸軍としてはこうするほか無かったんだろうね。

 ただそうすると、この木札を見て余計にやるせない気持ちになる人もいるんじゃないだろうか。私のように生存を確信できているわけじゃないんだし。
 香織ちゃんのところはどうだったのだろう。……心配だ。

 おそるおそる私の顔を見るお2人に、そっと微笑み返す。

「大丈夫。夏樹はまだ生きてる。私にはわかるんです。その証拠に――、ほら。遺骨なんて入っていなかったでしょう」

 けれどどういうわけか、2人はそろって困ったような表情を浮かべている。この様子、きっと私が強がっていて、夏樹の死を受け入れられないでいると思っているようだ。

 私は白木の箱の方に振り向いた。
 私の方こそ困ったな。香織ちゃんのことも心配だし。……夏樹、どうしたらいいと思う? 誰も信じてくれないんだけどさ。

 そう問いかけるも、当然のことながら木札は何も答えてはくれなかった。

04転の章 ひぐらしの声をまくらに眠る子ら 見守るわれも夫を夢みし

 黒磯から東京まではおよそ160キロ。川津さんが列車の切符を手配してくれたので、どうにか列車に乗って大宮にまで来られたものの、そこからは歩きとなってしまった。

 奥州街道を東京に向かって歩いていると、東京からの罹災者りさいしゃだろうか。大八車だいはちぐるまに家財道具を乗せて歩いている家族と何度もすれ違う。

 そのくたびれきった姿を見るたびに早く早くと気がいて、知らず足早になっていた。今ほど、疲れ知らずにできるこの身体がありがたいと思ったことはない。
 すでに通り過ぎた大宮もそうだが、このあたりも空襲にあっているようだ。

 川口を過ぎて荒川あらかわにたどり着くと、川向こうには焦土しょうどと化した東京が広がっていた。
 あまりの惨状に、唖然あぜんとして立ちすくんでしまった。

 黒焦げの瓦礫がれきの山になった家々。背の高いビルもあったと記憶しているけれど、そんな建物はポツンポツンとしか見えない。焼け焦げた匂いが風に乗って運ばれてきた。

 橋を渡って東京に入る。頭の中で東京の地図をイメージしておかないと、現在地がどこかわからなくなりそうだ。

 道路脇には電信柱がぽつんぽつんと立っていて、その外側では、生き残った人々が瓦礫の中でバラック小屋を作り、ぼうっと空をながめていたり力なく動き回っていた。

 タンパク質が焼けた独特の嫌な臭い。……人の身体の焼ける、顔を背けたくなるようなにおいが立ちこめている。大気中に細かい灰が混じっているようで、遠くがかすんでみえる。のどがひりついて辛い。目がチカチカする。
 街道の先を見るも、どこまでいっても同じような光景が広がっているようだ。

 不意に後ろから、
「タマミさん。タマミさんじゃないか!」
と声をかけられた。
 振り向くと、見知らぬおばあさんが私を見ている。「――あ」といったおばあさんは、悔しそうな表情をして、
「すみません。よく似ていたので……」
と頭を下げた。
「いいえ。お気になさらず。見つかるといいですね」
と声をかけて別れたが、探しながらさまよい歩くその姿が哀れでやるせない。

 それでも自分にはやるべきことがある。直子さんや子供たちの元へ行かねば。
 そう思いなおして、みんながいるであろう本郷区に向かって歩きはじめた。

 とある広場に差し掛かった時、目に入った光景に思わず吐きそうになる。
「うっ……」

 そこには炭と化した遺体がまとめられていた。
 叫んでいたかのように口を開け、真っ黒になった手が虚空をつかんでいる。一部は既に骨になっている遺体も……。
 そしてそんな遺体置き場の中で、おそらく肉親を探しているんだろうか、ほとんど見分けもつかないだろうに、ご婦人が誰かを探している。

 東京は、瓦礫と焼死体の街になっていた。

 これが人のすることだろうか?
 残酷な、悪魔の所業によって炭となった人々。暖かい暮らしが続いていたであろう街が……。

 道ばたで、別のご婦人が子供の遺体を抱えて泣き崩れていた。


 通りを歩いて行くと、やがて空襲から免れた建物の数が増えてきた。
 直子さんや子供たちが住んでいただろう本郷区は、町自体が残っているところもあるようだ。もちろん空襲によって廃墟となっているところもあるけれど、通ってきた道と異なり、少し落ちついているようにも見える。
 もしかしたら、もっと前の空襲の傷跡なのかもしれない。

 ……よかった。これなら直子さんや子供たちも無事かも。

 不謹慎かもしれないけれど、そう思う。

 火災を免れた家の前にいるご婦人に声をかける。
「あのう。栃木の松守村から来た春香と申します。このあたりで中村直子さんっていう20代半ばの女性が住んでいるかと思うのですが、ご存じありませんでしょうか?」
「はあ、中村さんですか――」

 幸いにしてそのご婦人は中村さんを知っていた。近所だったそうだ。が、今どこにいるのかを聞いて私は目の前が真っ暗になった。

 今月4日の空襲で実家の建物が焼けてしまい、一時的に南にある神田区の空き家に移っていたらしい。けれど、そこは先日の大空襲で一面焼け野原になったところだという。

 早足で南の方へ、皇居の方へと急ぐと、途中から画面が切り替わるように、瓦礫の街となっていった。

 まさか、まさか、まさか。

 焦る気持ちのままに見かける人の顔を確認しながら進む。
 違う。この人も違う。この人も。違う。違う。違う。違う――。

 さまよい歩いているうちに、時間の感覚が無くなっていく。違う。違う。この人も直子さんじゃない。一体どこにいるの?

 その時だった。
「春香、先生?」

 呼びかけられた声に顔を上げると、そこには大森鈴子ちゃんがたたずんでいた。
「鈴子ちゃん! よかった! よかった! 生きていたのね」
 駆け寄って抱きしめる。生きている。生きているよ。よかった。

 髪が煤臭すすくさいけれど、肌ががさついているけれど、それでも鈴子ちゃんは生きている。

「ちょ、ちょっと、先生……」
という鈴子ちゃんの肩をつかんだまま、身体を離し、
「ね。みんなは? 直子さんは? 無事なんでしょ? どこにいるのかわかる?」
と聞く。

 お願い。教えてちょうだい。心配で会いに来たのよ。

 言いつのる私の前で、鈴子ちゃんは顔を曇らせた。「ああ。はい……」
 嫌な予感がじわじわと心に湧き上がる。

「直子先生は亡くなりました」

 ――え。

「家はそこだったんですが……」

 鈴子ちゃんが指さしたところには、崩れ落ち、さらに焼け焦げて炭と化した家屋の残骸ざんがいがあるばかり。「ご遺体は……、そこに」
 鈴子ちゃんの言葉がまるで現実味のない音として聞こえる。手足の感覚が薄くなり、貧血にでもなったように意識が遠のきそうになった。

 よろめきながら鈴子ちゃんが教えてくれた一画に歩み寄ると、そこには30人ほどのご遺体が並んでいた。
 男性、男性、女性、男性、男性、女性、子供、子供――。そして、その中に変わり果てた姿の直子さんが横たわっていた。

 顔の半分は焼けただれ、手足は炭となっている。ところどころの皮膚ひふが融けて、その下の筋肉組織や白いなにかが――。
「直子さん!」
 彼女の遺体を目にした途端、私は膝から崩れ落ちた。

「春香先生!」
 あわてて鈴子ちゃんが私の背中を支えてくれる。

 ついこの前まで笑っていたのに。
 ついこの前まで一緒にいたのに。

 どこかに良い人がいないかなっていっていた直子さんの顔が思い浮かぶ。
「なぜ。なんでなの……」
 意味のない問いかけがつぶやきのように口から漏れる。手が震える。灰まじりのちりを握りながら、涙がこぼれてきた。ああ……。
 堪えきれずに、そのまま地面に頭を打ち付ける。

「春香先生……」
 背中を鈴子ちゃんがさすってくれる。その手のぬくもりを感じながらも、私は泣き続けた。

 ――どれくらいの時間が経ったのだろう。

 顔を上げ、涙をふく。またすぐに視界がにじんでくるけれど、改めて直子さんの顔を見る。
 苦しんだ様子はない。おそらく窒息ちっそくして意識が薄れ、そのまま亡くなったんだろう。そして、その後で火に焼かれたのか。

 そこへ2台のトラックがやって来た。近くで停まると、兵士が降りてきて次々に遺体を乗せていく。生きていた人々が、まるで物のように無造作に投げ込まれていく。
 思わず「どこへ?」とうかがうと、近くにある駒込こまごめの六義園という公園に合葬するのだそうだ。
 遺体を引き取る事もできず、トラックに積み込まれていく直子さんの遺体を前に、ただ黙祷もくとうするほかなかった。

 走り去っていくトラックを見送り、隣で同じように黙祷していた鈴子ちゃんに、
「他のみんなは?」
「香代子ちゃんと、石田くんはご両親が亡くなりました。笠井くんや他の子は……、まだ行方不明で」
「そう」

 行方不明、か……。それにご両親を。ならば香代子ちゃんと石田和則くんと合流するのが先決か。

「お願い。香代子ちゃんと和則くんの家に案内してちょうだい」
 鈴子ちゃんは「はい」とうなずいた。

 彼女に連れられて歩いて行くも、道路の左右には街の残骸ばかりが広がっている。
 柱だった木材が炭となり、汚れたお釜、割れた茶碗が転がって。どの家にも、それぞれの家族の暮らしがあったことだろうに。

 多くの子供たちは疎開して無事だったかもしれない。けれど、夫がいて、妻がいて、そして、中学生以上の男の子や女の子、はたまた小さな子供がいて、ちゃぶ台を囲んでいた暮らしがここにはあったんだ。戦時下で貧しい暮らしだったろうけれど、確かにここには家族がいたんだ。

 たった一夜で瓦礫となった家。その残骸ざんがいが広がった街。

 恐ろしいサイレンがなるなか、空からは敵機のエンジン音、そして焼夷弾の投下される音に、次々に火が立ち上るゴオッという音。
 一面が火の海となりチリチリとした熱気の中を、炎の赤に照らされながらも必死で逃げただろう人々。少しでも安全な場所へ、川へと。行き止まりで逃げ惑う人もいたかもしれない。
 この焼け焦げた町並みの上に重なるように、そのような光景が幻視される。

 いくつもの暮らしがわずか一夜にして壊れてしまった。積み上げてきた幸せが一瞬にして無くなってしまった。

 怒り、なげき、むなしさ……。さまざまな感情が心のなかで渦巻いて、自分で自分がわからなくなる。
 かえって自分の中がからっぽになってしまったような、そんな気持ちのままで私は鈴子ちゃんの後を追った。

――――
――
 宮田香代子ちゃんは家だっただろう廃墟はいきょの中で、呆然としながら座り込んでいた。
「春香先生……」
 足元に気をつけながらそばに行き、そっと抱きしめる。「よくがんばったわね」

 彼女の背中をさすり、少し離れて真っ正面から表情をうかがう。
 すすだらけの顔に、疲労が濃い。もう涙はれはててしまったのだろうか。しっかりものの彼女だけれど、今は生きる気力すらも抜け落ちた人形のように見える。

 ここに来る前に和則くんの家に行ったが、そこでは黙々と焼け焦げた木材をひっくり返し、使える家財道具を集めている和則くんがいた。
 むすっとした表情で作業を続ける彼に、私は1つの提案をした。同じことを彼女にも伝えようと思う。

「香代子ちゃん。清玄寺に行こう」

 ここにいても、孤児になってしまった香代子ちゃんは生き抜いていくことはできないよ。もし頼りになる親戚がいるなら、清玄寺から手紙を書けばいい。親戚も頼りにできなければ、そのまま清玄寺の子になればいい。

 けれど、香代子ちゃんはうなずいてはくれなかった。
「私の家はここなんです」
 そういう彼女の目尻に一粒の涙が浮かぶ。
 優しく親指でぬぐい取って、
「わかるよ。でもね。あなたには生きつづけて欲しいの。ここでは……」

 洗脳するみたいで卑怯ひきょうかもしれない。でも許して欲しい。
 そう思いつつ、言葉に神力を乗せて改めて言う。
「だから、今は思い出の品を持って、私と一緒に清玄寺に戻ろう。……私があなたのお母さん代わりになってあげるから」

「春香っ、先生っ」
 見る見るうちに彼女の目から涙がこぼれてくる。ぎゅっと抱きしめて、彼女の頭を胸もとに抱きかかえた。小さい子をあやすように、そっと背中をぽんぽんと叩く。

 心配そうにこちらを見ている鈴子ちゃんに黙ってうなずく。しばらくそのままの姿勢で、彼女が泣き止むのを待ち、他の子も探してくるから、その間に持っていく品々を集めて鈴子ちゃんのところに行くように伝えた。

 鈴子ちゃんの家族も、家を失ってバラック暮らしで、そのうち遠方の親戚のところに引っ越しするかもしれないという。私も長居はできない。残念だけれど、行方不明の子を探せるのは今日だけだ。

 作業を始めた香代子ちゃんを残し、私は鈴子ちゃんとも別れて1人、残りの子供たちを探す事にした。


 ひたすら歩き続けた私は、本郷区だけでなく、浅草、墨田川沿いを南下して上野あたりまで歩き続けた。
 けれど誰も見つけられないままに夕暮れ時が近づいてくる。

 疲れた。
 夕焼け色の空の下に、焦土となった町並みが広がる光景。
 なんて凄まじい光景だろうか。非日常の、あたかも世界の終わりであるかのような世界が広がっている。

 ふと立ち尽くす私の手を誰かが引っ張った。
 振り返ると、そこには小さな女の子がいる。年は4歳くらいだろうか。
「ママ?」

 ――。とっさに言葉が出てこなかった。

 しゃがみ込んで、女の子の頭を撫でてあげる。
「ママとはぐれちゃったの? お父さんは?」
「わかんない」
「そう。お家はどこ?」「あっち」

 女の子に手を引かれるままに、私はその子の家に向かったが、そこにあったのはやはり崩れ落ちた焼け跡だった。

 私が女の子といると、近所のおじさんだろうか。私たちを見ると、妙にニコニコと笑顔になって話しかけてきた。

「よう。菜々子ちゃん。ちょっとお家にいっていな。ちょっとこの人と話があるから」
 すると女の子はコクンとずいて、焼け跡の中に入っていく。

 おじさんは、私を見て真剣な表情になる。
「あの子の家族はみんな死んじまった。遺体もどこかに持って行かれてわかんないんだ。……あんたが誰かは聞かないが、このまま帰った方がいいよ」

 そう。あの子も孤児になってしまったのね。

 私は首を横に振った。
「それなら、私があの子を連れて行きます。だから、もしあの子の親戚が訪ねてきたら、栃木県松守村の清玄寺に――」
と行き先を伝える。
 おじさんは一言、「わかった」とだけ言うと、手を振って離れていった。

 お寺と聞いて安心したのかわからない。けれど、やはり心配はしていたんだろう。
「菜々子ちゃん。お邪魔します」

 私は女の子の家のあった廃墟に足を踏み入れた。思い出の品。持っていくものを探そう。そして、なにより菜々子ちゃんに一緒に行こうと説得しないといけない。

 ひとりぼっちになってしまった女の子。まだ幼いのに……。
 涙が出てきそうになるけれど、それでも彼女は生きているんだ。

「私、春香。……ね。おばちゃんのところに来ないかな?」

 この幼い身体に降りかかった残酷な運命を思うと、辛くなる。すべての孤児を救うことはできないけれど、この子を放っておくことは私にはできなかった。
 まだ状況がよくわかっていないのだろう。無邪気で澄んだ瞳が私を見つめていた。


 リュックを身体の前に移し、背中には菜々子ちゃんをおんぶして本郷区に戻るが、ようやくたどり着いた頃にはもう夜になっていた。
 鈴子ちゃんの家、とはいっても、崩れた建物の木材をどうにか組んで作り上げたバラック小屋だけれど、その前の道路に和則くんと香代子ちゃん、鈴子ちゃんの3人がたたずんでいた。

「おまたせ」
 無言でこっちを見る3人に、
「駄目だった。他の人は見つからなかったよ」
と告げるが、痛ましそうな表情を浮かべたのは鈴子ちゃんだけだった。2人はそれどころじゃないんだろう。

 幸いに鈴子ちゃんの隣の家は誰もいないということなので、そこの焼け跡で今日は野宿させてもらうことにした。鈴子ちゃんのご両親は生き残りをまだ探しているということで、戻っていないらしい。

 私の背中で眠ってしまった菜々子ちゃんを、そっと地面に降ろして香代子ちゃんに見ていてもらう。
 和則くんと2人で木材をどけて、腰を下ろせるスペースを作る。幸いに木材の下に座布団を2つ見つけたので、その上に菜々子ちゃんを乗せた。
 幸いに鈴子ちゃんの家では水道が生きているということだったので、それぞれの水筒に水を補給すると同時に、凹んではいるけれど拾ったヤカンに水を入れてもらった。

 まだ3月上旬ということもあり、夜は冷える。
 作ったスペースの中央で火をおこし、その周りに、和則くんと香代子ちゃんと私、そして、帰りを待つ鈴子ちゃんとで円座になって座り込む。

 リュックからおにぎり包みを取り出して、みんなに分ける。1つ足りなかったけれど、私の分は無いということにして、気にしないで食べてもらった。

 昨日まで曇りだった空が、今日はきれいに晴れ渡っている。キラキラと輝く星空が、廃墟の街の上に広がっている。
 パチパチと木材が燃える音が静かに聞こえた。

 空襲の時の様子。どんな風に逃げ延びたのかなどは、怖くてとても聞けなかった。それに辛い記憶を呼び覚ますことになるだろうから。
 この子たちが自分から話す気になるまでは、そっとしておこうと思う。

 その代わり、
「これからのことだけれど――」

 明日の朝、近くの役場で『罹災りさい証明書』を取り、そのまま清玄寺に出発すること。
 歩いて荒川を渡り、大宮から列車に乗る予定であること。そして、当面は清玄寺で疎開学童と一緒に暮らすこと。けれど、親戚のところへ行くならそれも良し。もし行き先がどこもなければ清玄寺でそのまま暮らしなさいと。願うのならば、私と夏樹の子供になりなさいと。

「春香先生。ご主人がいないのにそんな約束して……」
という香代子ちゃんだけれど、私は微笑んだ。
「大丈夫。夏樹はわかってくれるから」
と答える。やれやれと思うくらいはあるかもしれない。でも、夏樹だって同じことを考えるはず。かつて香織ちゃんや身売りされそうになった女の子たちを引き受けた夏樹だもん。

 ただし、永遠の時を生きる私たちと、この子らでは時の流れが違う。かつて碧霞へきかの前から去ったように、いつかはこの子たちの前から去らねばならない。
 もっともそれは未来のこと。

 私の申し出に、和則くんは首を横に振った。
「春香先生には悪いけど、僕は……」
「もちろん今すぐに決めなくていいよ」
 今はそれよりも、明日を生きることのほうが大事だから。それに、どっちにしろ清玄寺にいる間はちゃんと面倒を見るつもり。

「僕は許せない。家をこんなにして。父さんと母さんも死んだ。米英のせいか。それとも政府のせいか。わかんない。何もわかんないけど許せない。いったい誰が悪いんだ? なんで僕はこんな目にっているんだ?」
「和則くん……」

 たき火に照らされた彼の顔が歪んでいる。

「くそっ。――泣くもんか! 絶対に泣くもんか!」

 そう叫んだ彼の目尻から、一粒の涙がこぼれた。

 かける言葉がみつからない。なんて言ってあげればいいのか……。
 そう思った時、寝ていた菜々子ちゃんが目を覚まして、泣き始めた。

 すぐに駆け寄っていって、抱きかかえてあげる。
「よしよし。大丈夫よ。大丈夫。大丈夫だからね。私はここにいるから。ね」

 あやしながらも、和則くんと香代子ちゃんを横目で見る。じっと炎を見ながら我慢している2人。まだ6年生の幼さにもかかわらず、大人にならざるを得ない2人。その心には消すことのできない傷がついている。

 焼け跡で身を寄せ合うようにして過ごしている私たち。菜々子ちゃんを抱っこしながら、その頭上で煌めく星を見上げた。

 まるで亡くなった人々が、空から私たちを見守っているかのように美しく星が輝いている。
 ……ああ、願わくば、この子らを。行く末を。未来を。どうか見守り下さい。そして、この心の傷を癒やしていけますように。

 いつしか菜々子ちゃんが泣き止んで、私の腕の中でうつらうつらとし始めた。どうやら鈴子ちゃんのご両親も帰ってきたようだ。
 気にしながらも自分の家に帰っていく鈴子ちゃん。残された2人はただじっとたき火を見ている。

 まだすぐには無理かもしれないね。
 それでもいつか家族になれるように、この子らの心に寄り添っていきたいと思う。

 長い長い息を吐き出す。瞼の裏に夏樹の顔を思い描く。私を包み込むように、そっとあの温かい目で見つめる、あの顔を。

 ねえ、夏樹。私、がんばっているよ。
 この地獄のような廃墟の中で、今も子供たちとがんばっているよ。

 こんな時、あなたがいてくれたらなぁ。……早く会いたいよ。

04転の章 ひぐらしの声をまくらに眠る子ら 見守るわれも夫を夢みし

 昭和20年も3月となったけれどまだまだ寒さは厳しく、先月の終わりにはまとまった雪が降った。けれども順調に野草も芽を出してきていて、子供たちの副食に活躍してくれていた。
 これからお彼岸が近づくにつれ少しずつ気温も上がっていくのだろう。春はもうすぐなんだ。

 6日の夜。
 明日は6年生の子供たちが、受験のために東京に出発する。久しぶりにそれぞれの実家に帰ることができるということもあり、ここ数日間はずっとそわそわしていた。

 夜の点呼が終わり、6年生は2階の先生の部屋に集合になった。これから訓示を受けるのだ。私たちも呼ばれて先生の部屋にお邪魔している。

 先生の部屋は、壁際には衣類を入れた行李と、教科書や参考書と思われる本が積んであった。
 先生の普段の衣類こそ私たちが洗っているけれど、掃除はご自分でされているようで、普段は私たちも入ることはあまりない。


 青木先生は、正座をしている6年生8人を前に、
「明日から君たちは東京に戻る。それぞれ受験する学校は違うが、君たちが将来、この日本を背負っていくのである。
 天皇陛下のため、またビスケットを御下賜くださった皇后陛下の期待に添えるよう、精一杯、挑戦してきたまえ」

 全員の「はいっ」という返事を聞いて、先生は満足そうにうなずき、
「当日は直子さんが東京まで引率するが、向こうでは何かあったら森山第六で待機している先生方に相談すること。あとは風邪を引かないように。実家に帰るからといって、食べ過ぎてお腹をこわさないようにな」
「はいっ」
「……笠井。お前のことだぞ」
 すると皆が笑いながら隊長の笠井くんを見た。

 おどけて自分を指さす笠井くんは、
「えっ、僕ですか?」
「お前、今ちろっと笑いそうになったろ」
 指摘を受けた笠井くんが頭をかきながら、
「ばれてましたか」
 周りではまた笑い声が起きた。
「ははは。まあいい。……ここのところ東京では頻繁に爆撃を受けていると聞く。明日、私は駅まで見送りにいけないが、気をつけるんだぞ」
「はいっ」

 こういう先生と子供たちのやり取りを見ていると、自分が学生だった頃のことを思い出してしまうね。

 さて寮母からも一言ということだけど、その前に実はプレゼントを用意してあるんだ。みんなで作った米ぬかクッキーだけど、焦がしてチョコレートのような風味に仕上げてある。きっと喜んでもらえるだろう。
 紙袋を手渡して、
「これはみんなから。お砂糖の関係で3枚ずつしかないけど、がんばってね」

 中を見て驚いた表情を浮かべる子供たちを見て、私たち寮母は互いに顔を見合わせて微笑みながら、サプライズ成功に喜んだ。


 翌朝、私は村の入り口にあるバス停まで、みんなを見送りに行くことにした。

 リュックを背負った直子さんと子供たちと村道を歩く。村人の庭先にある梅の花が赤や白の花を咲かせていた。どこからきたのか、ウグイスがぴょんぴょんと跳ねるように枝から枝へと渡っている。
 道の途中に桜の木もあるけれど、すでにつぼみが出てきているものの、まだまだ小さいようだ。今年は例年より少し遅いかもしれないね。

 空はあいにくの曇天だけれど真冬のような寒さはなく、旅立ちには良い日だと思う。
 道ばたには土の黒い色に混じって、若葉の綺麗な緑色が見える。つくしもでてきているようだ。
 冬から春に移りかわるこの時期は、瑞々しい清気に満ちて自分の体が清められていくような感覚になる。

 後ろからは楽しそうな6年生たち。ふざけ合いながら歩いているけれど、まさか受験ということを忘れてないよね。
 隣の直子さんも、久しぶりの東京にどこかうれしそうな様子だった。彼女は子供たちを送り届けた後、5日ほどお休みとして東京のご実家に留まり、13日の列車で帰ってくる予定になっている。

 男の子が道ばたの雪をすくい上げて、小さな雪玉を作り、女の子めがけて投げつけた。笑いながらそれを手で払いのける女の子。

「ほらほら、濡れるからやめなさい」
と直子さんが注意すると、「はあい」と笑いながら返事をしながら列に戻る。うかれてるなぁと思いながらも、どこかほほ笑ましい。

 やがて村の入り口が見えてきた。
 その脇にぽつんと立っている「松守村入口」のバス停。
 黒磯駅を発着点として、各村を巡回するバスが日に2本だけくるんだけれど、少し時間が早かったようだ。


「春香先生。ありがとうございました」

 振り向くと、声の主は宮田香代子ちゃんだった。
「ここに来たころは、早く帰りたいとばかり思っていましたけど、今日まで無事に過ごせたのも寮母先生や住職さん、それに村の方々のお陰です」

 気がつくと、他の子たちも私をじっと見つめていた。やだなぁ。今生の別れじゃあるまいしに。

「どういたしまして。――まあ、私は子供が好きなだけだから、気にしないでちょうだいな」
 すると香代子ちゃんはしれっとして、
「知ってました」
「やっぱり? みんなも、これでお別れってわけじゃないんだし、無事に帰ってくるのよ」
「はい!」

 一斉に返事をする子供たちは、いつの間にか大人っぽく見える。不思議なもんだね。

 やがてバスがやってくる。直子さんとハグをして、
「直子さんも気をつけてね」
「ありがとうございます。……お土産持って来ますね」
「ふふ。楽しみにしてる」

 直子さんや子供たちが乗りこみ、目の前で扉が閉まった。窓の向こうにいるみんなに手を振っている。私も手を振り返しながら、少しずつ遠くなっていくバスを見送った。

 ……あ~あ、いっちゃった。

 そんな寂しさを抱えながら清玄寺に向かって歩いていると、本堂前の方から賑やかなこえが聞こえてきた。

「鬼さん、こちら、手の鳴るほうへ!」
「鬼さん、こちら、手の鳴るほうへ!」

 山門をくぐると、前広場で子供たちがぐるっと円を描き、その中央で法衣姿の恵海さんが目隠しをして鬼役をやっていた。
 その口元がニッコリと笑みを浮かべている。
「ははは! まてぇ~」

「鬼さん、こちら、手の鳴るほうへ!」
「鬼さん、こちら、手の鳴るほうへ!」

 逃げ惑う子供たちがキャッキャッ言いながら走り回っている。その向こう。本堂の正面階段では、先生や美子さん、安恵さんが腰掛けて、楽しそうに恵海さんを見ている。

 子供たちにとっても、今まで一緒にいた人が8人もいなくなるわけで、寂しさもあるだろう。ああやって子供たちと遊ぶなんて、これも恵海さんの思いやりなんだろうな。


 さて6年生がいなくなり、新隊長に5年生の大石政重くんが任命された。一番上のお兄さん、お姉さんがいなくなり、どことなく学寮に寂しさが漂っている。
 夜の点呼を終えた後は、宿直ではないので離れに戻ることにして、美子さんと安恵さんにお休みの挨拶をした。

 直子さんも行ってしまったから、今日から宿直も2日に1度となる。帰ってくるまでの話だけれど、子供たちも慣れてきているし、まあ問題もないだろう。


 昨年12月の東海地震につづき、およそ1ヶ月後の1月13日にも東海地方を大きな地震が襲った。
 その2日後には伊勢神宮に空襲があり、各紙とも憤激に満ちた論調の記事が躍っていたっけ。2月には本土上陸に備えて全国に軍管区ができ、決戦体制が整いつつある。
 小笠原諸島の硫黄島いおうとうでは、日米の激しい戦いが始まっているようだ。

 終戦は8月ってことは記憶にあるけれど、それでも早く講和を、早く講和をと願わずにはいられない。なぜグズグズしているのか。その理由はどこにあるんだろうか。

 気になるのは、工場で欠勤者が増えているという記事が見られるようになったことだ。空襲に備えて地下に工場を移していると噂で聞くが、環境が甚だしく悪くなっているんじゃないだろうか。

 2月16日には、初めての空襲警報けいほうが村にも鳴り響いた。ラジオからは軍管区情報として迫り来る爆撃機の情報が流れ、初めての防空壕に子供たちも不安げな様子だった。
 幸いにも村にはこなかったけれど、宇都宮の清原にある陸軍飛行場が爆撃にったと聞く。宇都宮上空では、陸軍の戦闘機・疾風はやてが空中戦を繰り広げたらしい。


 離れの部屋に入り、さっそく布団を敷いて電気を消し横になる。
 今朝までいたはずの子供たちが行ってしまった。まるで娘の碧霞が嫁いでいったときのような寂しさを感じる。巣立ちを見送る親の気持ちとでも言えばわかるだろうか。

 どんな時代であっても、子供はやがて大人になる。あの子たちの受験が上手く行くことを祈っておきたい。

 私は夏樹枕に顔を埋めながら、そっと目を閉じた。



 それから3日が経ち、寂しさも普段の忙しさに紛れて薄れていった頃。朝起きた私の元に、役場から学童の係の川津さんが飛び込んできた。

 ――3月10日午前0時、東京大空襲。


「うそでしょ?」

 尋ね返すも、川津さんは首を横に振るだけ。
 悲痛な表情の大人組。子供たちには不安にさせるから、まだ連絡はしていないという。

 胸の奥がずぅんと重くなっていく。気持ち悪くなってきた。
 誤報だと信じたい。けれど、みんなの様子を見ると……。

 大空襲? なんで? どうして? よりによってこのタイミングで。

 直子さんと6年生の子供たちの顔が思い浮かぶ。火の海となった東京で、逃げ惑う皆の姿を想像してしまう。嫌だ。そんなのは嫌だ。

「……美子よしこさん」
「はい」
「しばらく私の代わりに寮母をお願いします。場合によっては香織ちゃんも助っ人にお願いして下さい」
「御仏使さま?」
「私は――、東京に行きます」

 途端に「えっ」と驚きの声を挙げるみんなが私を見つめる。
 辛い光景が待っているかもしれない。でもね。手が届くところならば、かけつけて1人でも助けに行きたい。どうなっているのか、もう待ち続けるのはゴメンなんだ。

 後のことは任せますと一言いって、私は蔵へ向かう。すぐに準備を。一刻も早く東京へ行こう――。

04転の章 ひぐらしの声をまくらに眠る子ら 見守るわれも夫を夢みし

 川の土手に冷たい風が吹いている。頬が冷たくなって指先がかじかむけれど、この冷気の中にいる感覚は嫌いじゃなかった。

 足元を滑らさないように、注意しながら土手を降りて行き、下から斜面をじっと見つめる。
「――あった」

 探しに来たのは春の野草。それも一足早くに食べられるハコベ、仏の座などの七草。……さすがに芹はまだ早いようだ。
 雪の間からは、ふきのとうも小さく頭を出している。

 こうして芽を出している野草を見ると、春が着実に近づいて来ていると感じるね。

 子供たちに我慢を強いていた食糧事情だけれど、あと1月もすれば、もっと色んな種類の食べられる野草が芽を出すだろう。のびる、タラの芽なんかは素揚げにしても美味しいだろう。

 畑の白菜も収穫を迎え、ここのところは浅漬けにしたり、雑炊の具にと大活躍だ。村の農家からはミカンをいただいていて、子供たちのおやつにさせてもらっている。
 おもしろいことに、ミカンをくれたのは、学童の親分とケンカをしたガキ大将の家。このミカンは友情の差し入れといえるかもしれない。

 皮は集めて干しておいたので、今晩はミカン風呂にしようと思っている。

 ……お風呂のことを考えたら、早く帰りたくなってきた。

 でも、そうはいかない。もっと食べるものを探さないと。



 かご一杯の野草を背負って、お寺に戻る。
 今日は紀元節きげんせつなので、子供たちは朝から先生に引率されて分校に行っていた。そのためか、今の清玄寺は生気が抜けたような静けさに包まれている。

 勝手口から厨房ちゅうぼうに入ると、ちょうどそこで恵海さんと美子よしこさんが休憩をしていた。

「ただいま帰りました」といって篭を下ろすと、美子さんが、
「たくさん採れましたねぇ」
としみじみと言う。「ええ。思いのほか生えてて」

 野草の処理は後回しにして、私も2人と一緒にお茶をいただくことにしよう。
 美子さんがお茶の準備をしてくれている間に手を洗っていると、恵海さんが、
「そういえば、昨日は宇都宮の方にB29が来たそうですね」
と世間話をはじめる。

 そう。じつは恵海さんが言うように、とうとう長距離きょり爆撃ばくげき機のB29が宇都宮にまでやってきたのだ。……ただし、昨日は去りぎわに爆弾を少し落としていっただけで、さしたる被害はなかったらしい。

「きっと偵察ていさつでしょう」
 そう断言すると、恵海さんは「やはり」とうなずき、心配そうに、
「栃木もこれから空襲がはじまるんでしょうか」
「そう思っていた方が、いざという時に対処できるでしょうね」

 学童用の防空ごうは、幸いにも昨年の12月のうちに、村の男衆に手伝ってもらって境内の端に作ってあった。
 とはいっても、さすがに50人の人数が入るような大きいものは作れないので、3つに分けて掘ってある。
 防空頭巾ずきんも、村の婦人会に応援をお願いして作ってもらってあるし、ひととおりの備えは済んでいた。

「本土決戦が近づいているんでしょうなぁ」
と、恵海さんがどこかわびしそうに言った。

 恵海さんも美子さんも、この戦争が始まってから、めっきり歳を取ったように見える。普段はかくしゃくとしておられるんだけれど、村から若者が出征し、また戦死者の葬儀に行くたびに、色々と思うところもあるのだろう。

 美子さんも気遣きづかわしげに、
「夏樹さまはご無事でしょうか」
と言うので、ニッコリ笑って「大丈夫ですよ。何があってもちゃんと生きて帰ってきますから」と告げる。

 もちろん手紙は1通も届かないけど、戦況がここまで悪くなってしまっては、軍事郵便が届かないのも仕方がないと思う。素人判断かもしれないけど、そう考えれば納得ができる。

「そうですか」
という美子さんに、
「気をつかわないでください。私には夏樹が生きているってことは、わかるんですから」

 恵海さんがうなずいて、
「うん。そうだ。御仏使さまですからな。我々はここをお守りして、お帰りを待つだけだ」
「そうです。その通りです」

 そうは言ったものの、寂しさは消えない。けれどそんな気持ちはぐっと飲みこんで、2人には言わなかった。


 夜の食事は、主食は水団すいとん、おかずとして野草のおひたしに、煮大豆をつぶしてして、すりおろしたジャガイモと混ぜ、お好み焼きもどきを作った。

 大豆を工夫すればお肉のようになった気もするんだけど、やり方がわからない。それに調味料もほとんどないから、味付けにも非常に苦労する。
 そんなわけで不本意な料理なわけですが、それにも慣れてしまった。残念なことにね。

 ただそんな申しわけない食事以上に、子供たちはこの後のことが気になっているようだ。そそくさと食事を終えて、食器を下げ終わると先生が立ち上がった。

「さて、皆さん。昼の紀元節でお話があったように、本日は恐れ多くも皆さんに、皇后こうごう陛下よりお菓子を賜っています」

 そう。皇后陛下から子供たちにと、ビスケットの恩賜おんしが用意されているのだ。
 皇后陛下は昨年の12月23日、まだ立太子はされていないが、皇太子殿下平成天皇が11歳の誕生日を迎えられた際に、疎開している子供たちを思って御歌みうたをよまれたという。

  疎開学童のうへを思ひて
 つぎの世をせおふべき身ぞ たくましく
  たしくのびよ さとにうつりて

 そして、親元を離れて疎開している子供たちに、25匁93.75グラムのビスケットを下賜かしくださることとなったのだ。

「皇后陛下の御歌にあるように、このビスケットには、次の日本を背負う皆さんが、強く、そして正しく伸びていくようにとの願いが込められているのです。
 この御心を拝して、おろそかにすることのないようにして、大切にいただくようにしてください」

 先生の訓示が終わると、「御賜おんし」と印刷された封筒を、直子さんが子供たちに配っていく。あの中に15枚ずつのビスケットが入っているのだ。

 ここだけの話。本当は1人20枚ずつだったんだけど、先生の判断で1人15枚ずつとし、残りは地元の村の子供たちに分けて下さっている。

 配りおわると解散となり、とたんに子供たちは封筒を手に、笑顔で部屋に駆けていった。
 それを見て、先生が「こらぁっ。走るんじゃない」と怒っていたのが、妙におかしかった。
 まあ、今日くらいは目くじらを立てることもないでしょう。

 厨房にもどる途中で女子の部屋をのぞくと、東京の方に向いて正座をして食べている子もいれば、数人で集まってカリカリと、まるでリスのように、ちびりちびりかじっている子たちもいた。

 子供たちを思いやる皇后陛下のお心に、私も頭が下がる。同時に、子供たちに我慢をさせてしまっている自分が情けなくなる。仕方が無いこととはいえ、ね。

 ……これが平時なら砂糖も充分に手に入る。小麦粉だって。ハチミツだって。だけど今は闇市で買うにしても高すぎて手が出せない。
 せめてもう1年、準備期間があれば甜菜てんさい栽培さいばい量を増やせたから、もっと砂糖が手に入ったはずだったんだ。
 ないない尽くしだけれど、そんなことは子供たちには関係ないこと。

 だから尚のこと、今回のビスケットは私にとってもありがたい。あんなに嬉しそうな子供たちの表情を見られたんだから。



 さて今日は、ビスケットだけでなく、お風呂もいつもとは違ってミカン風呂にしている。
 男子は清玄寺のお風呂だけど、女子は蔵のお風呂と分けてみた。蔵に子供を入れるのは今回が初めてだ。

 こういう季節風呂は先月の松の葉を使った松湯からなんだけれど、やはり人数が人数だけに風呂を分けた方がいいと判断したんだよね。
 ちなみに松湯は温まるし気持ちもすっきりするので、子供たちにも好評だった。
 2月だと大根湯もあるけれど、大根は食べる方に回すからね。それでミカン湯となった次第です。

 というわけで、私は蔵の方のお風呂の係。私と夏樹の住居だし、まあ当然でしょう。

 蔵の風呂は、もともと私と夏樹の2人用だからそれほど広くはない。風呂の手前の居間では火鉢に炭を入れて寒くないようにしているので、交代で入ってもらうことになる。
 浴槽には、乾燥させたミカンの皮を入れた麻袋を沈めてあり、良い香りが蔵中に漂っていた。
 女の子は20人いるので、10人ずつ交代の予定になっていて、すでに前半の組がお風呂から上がって宿舎に戻ったところだ。

 どうやら後半の組の子が来たようだ。玄関の方から、
「ご免ください」
と声が聞こえたので行ってみると、宮田香代子ちゃんに引き連れられた女の子たちがいる。

「どうぞ。上がって」
と声をかけると、初めての蔵を興味深そうに見回しながら中に入ってきた。
 靴をきちんと出船でふねの形にして、居間に上がってくる。

 香代子ちゃんが、
「ここの中ってこんな風になっていたんですね」
「普通の蔵とは違うから驚いたでしょ。ここはね。私と夫が住んでいたのよ」
「へぇ。蔵に……」
「みんなで最後だから、私も一緒に入るね」
 そう言うと3年生の女の子が、
「春香先生も? やった」
と小さくつぶやいた。

 蔵の鍵を閉めて、みんな揃って居間で服を脱ぐ。タオルを手にお風呂場に入っていくと、ミカンの良い香りが私たちを出迎えてくれた。

「ん~。良い香り」
 そうつぶやいて、手桶ておけで肩からお湯を流す。女の子たちにも順番にお湯をかけて、小さい子から湯船に入れてあげた。

 5年生、6年生になると、少しずつ胸もふくらんできている。なぜか私を見て恥ずかしそうにしているんだけど。なんでかな?

 先に身体を洗うへちまスポンジに石けんを含ませてから、
「はい。この石けんつかって」
と香代子ちゃんに渡してあげた。

「ねえねえ。春香先生って本当はどこかの華族かぞくの家柄だったりは……」
「え? 華族? ぜんぜん違うよ」
「そうですか。てっきり……」
「――私たちはね。今でこそ鬼畜きちく米英っていわれているけど、昔はそのイギリスに住んでいたの」

 それを聞いた皆が驚いた表情で私を見る。これは言わない方が良かったかな?

「あっ、別にスパイとかじゃないからね。イギリスに住んでいたのは戦争が始まるずっと前だし、さらに昔をたどれば、ここ清玄寺の開基檀那かいきだんなにつながるんだから」

 つながるっていうか本人だけどね。

「なるほど。それで住職さんとか村の人が……」
「ははは。まあ、そういうわけですね」

 それだけの理由じゃないけど、仏の使と見なされているなんて理解できないだろう。

「それに、その外国での経験やたくわえが役に立ってるのよ」
「あの温室ですか?」「そうそう」

 あそこではハーブと冬場のための野菜を栽培している。スペースに限りはあるけれど、子供たちもその恩恵に預かっているわけだ。

「冬の間にみんなが食べた野菜のいくらかは、その温室で採れたもの。他にも運転もしてたから免許も持っている」
「ふうん」

「今は男の人が戦場に行っちゃって、挺身隊ていしんたいとか勤労報国きんろうほうこくとか、女の人が列車を運転したり、バスを運転したりしているでしょ?
 香代子ちゃんたちも、しっかりと勉強して色んな経験を積んでおいた方がいいよ。……女性がちゃんと一人前として働く時代はもう来ているんだから」
「……はい」

 と、変な話になっちゃったね。というわけで……。

 私は泡をつけた手を握り、親指と人差し指でわっかを作った。
 うすく張った石けんの幕にふうっと息を吹きかけると、大きなシャボン玉がふわっとできる。
 手で風を送って、低学年の子が入っている湯船に飛ばしてやると、みんなうれしそうな目でシャボン玉を見ていた。

「香代子ちゃんもやってみる?」
「えっと……はい」

 それを見て、一緒に身体を洗っていた高学年の子たちも挑戦するが、なかなか上手くできないようだ。

「そっと、そっと息を吹くんだよ」

 だんだん遊びになってきたけど、今はそれでいい。6年生だけに将来のことを考えちゃうんだろうけど、まだ皆は子供なんだから。

 一生懸命にシャボン玉を作ろうとしている子供たちを見て、私はそっと微笑む。こういうお風呂もいいもんだよね。