05結の章 踏まれても踏まれてもなお耐え抜いて 野辺に咲きたる花ぞうつくし

 太陽の光を浴びて、川面かわもがキラキラと輝いている。
 香織ちゃんの家を辞した俺と春香は、まっすぐ清玄寺に戻らずに川の見える土手にやって来た。
 並んで座る俺たち。先ほどまでの香織ちゃんの様子が脳裏のうりに浮かび、2人とも無言のままだった。

 香織ちゃんのところには言ったが、まだ宇都宮の増田の家、黒磯の石田の家へ行かねばならない。
 そしていつか、ビルマのアラカンに眠るみんなの所ヘも。戦争は終わったと伝えに行かねばならない。


 風がそっと吹き抜け、川原の草たちが揺れている。

「春香……」
「なあに」
「話を聞いてくれるか?」
「うん」
「俺が東京に帰ってきたときの事だ」
「――うん」

 ようやく復員ふくいん船が広島の宇品うじなに到着し、DDTをかけられるなど復員手続きを終えた俺は、ともかくも東を目指して列車に乗った。

 出征しゅっせい時は外から見えないように窓を閉め切っていたこともあり、流れる景色を飽くことなく眺めつづけた。
 戦争が終わって2年が経ち、着々と復興しつつある街並み。東京駅に到着すると、ますますその感が強まる。

 東北本線に乗るために上野まで行ったはいいものの、もう夕暮れに差しかかり、どこかで泊めてもらおうとホームを降りた。

「地下の改札を出ると、そこに子供たちがいたよ。親を亡くして孤児になってしまったんだろう。どの子もあかや汚れで黒くなっていた。
 ……俺たちはこの戦争に負けるって知っていた。
 でもね。いざ、あの子たちを見るとやるせなくてな。俺たちが負けたせいで、この子たちが孤児になったんだって思ってしまって」

 その時、春香がそっと俺の腕に自分の手を添えてくれた。

「その時だ。俺の横を、50歳くらいのご婦人が中学生くらいの娘さんを連れて通り過ぎていった。そのまま、近くの子供に声をかけたんだ。――私の家に来ないかって」

 驚いたことに、ほとんどの子供たちが断っていた。けれど何人か目で、ようやく1人の子供がうなずいた。

「俺はほら、軍服姿だったから声すらかけられなくて……」

 結局、何もできなかった。お前のせいだといわれやしないか。それが怖かった。
 だから、そのご婦人からも孤児たちからも、目の前の光景から逃げるように、俺は駅舎を出た。
 そのまま早足で、行き先もなく歩き続けた。

「気がつくともうすっかり暗くなっていて、ところが自分の居る場所がわからなくなってね。……その時に、美津子っていう女性に声をかけられたんだ」

 ロングスカートの女性で、その人は娼婦しょうふだった。それも町角でお客を見つける街娼の。

 俺の腕に添えられた春香の腕に、ぎゅっと力が込められる。もちろん、そういう夜のお勤めはいらないって断ったさ。

「そしたら、あ~あ、今日はお客無しだって言っていたよ。男の子が待ってるから、もう家に帰るって言ったから、思わずお願いしてみた。……食事もいらないから、ただ泊めてくれないかって」

 自分でも、なんでそんなお願いをしたのか、今さらながらよくわからない。
 でもその美津子って女性は、一瞬目を丸くしてから小さく笑って、いいよと言ってくれた。

 近くにあるらしき彼女の家にいくと、家の前に小学校4年生くらいの男の子がいた。たけるくんという。

 美津子さんを見て「姉さん、お帰りなさい」と言ったものの、隣に俺がいるのを見て男の子は下を向いてしまった。
 それを見た美津子さんが笑って、「この人は客じゃないの。ただ今晩だけ泊めて欲しいってさ」という。

 どういうことかって聞いてみると、これからお勤めなら、外で待ってなきゃいけないと思ったんだそうだ。

 俺はそういう客じゃないからと、3人でその家に入った。美津子さんが夕飯の準備をしようとしたから、背負い袋から取り出した風をよそおって魚の缶詰を出して、おかずにしてもらった。
 健くんは余所余所よそよそしかったけれど、美味しそうに食べていた。

「美津子さんは20台半ば、それなのに健くんは小学校4年生くらい。年の離れた姉弟だなって思っていたら、そうじゃなかった。美津子さんが健くんは浮浪児だったと教えてくれたよ」

 戦争が終わって、浮浪児たちが上野駅の構内にまりだした。
 そばに大きな闇市やみいちもあって、子供たちはそこで食べ物を恵んでもらったり、闇市を仕切っていたテキヤやヤクザ、愚連隊ぐれんたいと呼ばれる若者たちのお使いをするなどして、1日1日を生きていたらしい。

 ところが、昭和21年の春頃から警察が浮浪児たちの狩り込みをはじめ、健くんも捕まって施設に送られたそうだ。
 行った先の施設では、食糧も充分に無く職員からの暴行もあったらしく、結局逃げ出して上野駅に戻ったという。

「美津子さんは美津子さんで、もとは秋田の良いところのお嬢さんだったそうだ。
 ところが、結婚して東京に出てきたはいいものの、戦争で旦那さんは亡くし、しかも進駐軍しんちゅうぐんの兵士4人に襲われて陵辱りょうじょくされ、自暴自棄になって売春婦になったらしい」

 わずかなお金でお勤めをする街娼をパンパンと言ったらしいが、そのパンパンも昨年から警察の取り締まりが厳しくなったという。

「1人で生きていくのが寂しいということもあって、それまでもたまに見かけていた健くんに声をかけ、一緒に住むことにしたそうだ」

 もちろんお客がとれなくて食事抜きの時もあれば、健くんがわずかな食糧を持ち帰って、分け合って食べたこともあるという。

「それを聞いたとき、俺は申しわけなくなって、いてもたってもいられなくなって、お金を出したんだ。泊めてもらう代金だって。そうしたら、すごい剣幕で怒鳴どなられたよ。
 お金を見た途端とたん、目をつり上げて。――ふざけないで! そんなお恵みなんていらないよ! って」

 あの時の剣幕はすごかった。
 そんなつもりで私たちの事を話したんじゃない。そのお金を出すってことは私を抱いてくれるのか。……私たちはここで、ちゃんと暮らしてるんだ。決してみじめじゃないんだ!

「俺は何も言えなかったよ。ただすまなかったとだけ言って。どうにか美津子さんは機嫌きげんを直してくれて、このお魚の缶詰だけで充分だって言ってね」

 それからも戦後のことなど、少し話を聞いて、何もなくそのまま一泊した。
 起きたらすでに美津子さんの姿はなく、俺も列車に乗らなきゃいけないから、健くんにお礼を言付けることにした。

「缶詰を3つ、むりやり渡して、せめてこれだけは受け取って欲しいと言って、それと……。春香。お前には悪いけど、もしどうしても手助けが必要になったら、栃木県那須塩原にある松守村清玄寺に連絡をくれとメモを渡した」

 無駄になるかもしれないけれど、見てしまったからには、聞いてしまったからには、拒否されるとはわかっていても、そう申し出ずにはいられなかった。

 隣でじっと話を聞いてくれた春香の方を向く。彼女は微笑んでいた。
「大丈夫。わかったわ」


 その時、ふたたび強い風がさあっと吹き抜けていった。川原に生えている草たちが、一斉になびいている。
 少し離れたところにあるシロツメクサの群生地でも、白く丸いぼんぼりのような花がいくつも揺れていた。

「ねえ。夏樹。私は思うんだ」

 真っ直ぐに川面を見つめたままで、春香が話しはじめた。

「私たちが知っていたとおりに、たしかに日本は負けたよ。どん底に落ちた。
 ……でも、必ず蘇ることも、私たちは知っているじゃない。だからさ――」

 春香が振り向いて俺の顔をじっと見つめている。
「今度は、その復興を見つめようよ。うちの子供たちと一緒に」

 春香の言うとおりだ。
 日本は必ず復活する。血のにじむような努力を続け、そして経済成長を遂げていく。

 雑草が、踏まれても踏まれても、それでもなお花を咲かせるように。
 どんなに踏みつけられようと、はずかしめられようと、必ず日本は再び立ち上がるんだ。

「そうだな。そうしようか。…………春香」
「なあに」
「愛してる」
「ふふふ。私もよ。愛してるわ、夏樹」

 微笑む彼女がまぶしかった。

 きっと俺たちはこれからも色々な人間の姿を見ることだろう。
 この戦争と同じく、いや、より辛く哀しい出来事もあるかもしれない。

 それでも俺と春香は2人で寄り添いながら、どこまでも歩き続ける。――俺たちの旅はまだ終わらないのだ。

 腕に添えられた彼女の手に自分の手を重ねる。

 隣には春香が居てくれる。これからも永劫の時を歩んでいく伴侶。
 彼女が居てくれること。このぬくもりが、俺に安らぎと喜びを与えてくれるのだ。何度でも言いたい。愛してると。


 まるで長い長い物語を話し終えた気分になり、深く息を吐く。

 見上げた空をツバメがよぎっていった。その向こうで、白い雲がゆっくりと動いている。
 再び川原を吹き抜けた風が、土や草の匂いを運んできた。

 命を育む自然の匂い。
 そこに変わることなく存在し続ける大地の匂いに、俺はどこからともなく力が湧いてくる気がしたのだった――。

05結の章 踏まれても踏まれてもなお耐え抜いて 野辺に咲きたる花ぞうつくし

 朝が来た。
 遅めの朝食を取りながら、今日はどうしてもやらねばならないことがあると春香に告げる。

「香織ちゃんの家に?」
「ああ、そうだ。……戦友だった秀雄くんの最期を伝えにいかないといけない」
 そう言うと顔をくもらせて、
「そっか……」
とうつむいた。

 彼女には昨日のうちに秀雄くんの事を話してある。あの白骨街道で、撤退してくる戦友のために待ちつづけている戦友みんなの霊の話も。

 だからなのか、春香の表情が気になって話を聞いてみると、なんでも今年の4月に戦死の公報が届いていたという。
 それも秀雄くんだけでなく、俺の分も。

「……本当か?」
「本当よ。白木の箱は離れに置きっぱなしだから、後で見る? 公報は返してもらって、……ええっとここだったかな?」
 春香が机の引き出しから一通の手紙を取り出した。

 手に持った箸を置いて、食事中だけれどその手紙を広げる。そこには『死亡告知書(公報)』と標題があって、たしかに俺の名前が書いてあった。

「まじかよ。まさか自分の戦死の公報を見ることになるとは……」
 そうつぶやいて、苦笑いを浮かべながら春香に通知を返した。

「まあ、誰も信じてくれなかったけどね。貴方が生きてるって」

 それは、……そうだろうな。しかし、そうすると春香は1人で俺が生きてると言い張っていたんだろうから、大変だったろう。

 考えていることが伝わったのか、春香がニコッと微笑んだ。
「最初のうちだけだね、大変だったのは」
「そうか。苦労したんだな」
「それで貴方の白木の箱を取りに行ったときに初めてわかったんだけど、同じ時に香織ちゃんにも秀雄くんの戦死の公報が届いていたんだ」

 なるほどな。おそらく死亡の判断は、あの崖崩がけくずれで川原に落っこちて2人でさまよった時だろう。

 春香が自分の味噌汁わんを見つめ、
「でも夏樹が戦死を伝えるとなると。……辛いね」
とつぶやいた。
「だけど、それが戦友の責務なんだ。それに」
「それに?」
「秀雄くんとの約束があるんだ」
「……そう」

 それから「すぐに行くの?」といてくる春香に、なるべく早いほうがいいと言い、食事が終わってひと息ついた頃、香織ちゃんの家に向かうことにした。


 行く前に清玄寺で、恵海さんや美子さん、子供たちの顔を見て挨拶をしてから、香織ちゃんのとつぎ先がある中郷なかごう地区へと向かった。

 初めは俺が1人で行くと言ったんだが、香織ちゃんのことでもあるので春香も行くと言う。
 やむなく、いざ話をする時には門のところで待っているように伝え、春香と2人で連れ立って行くことにした。


 清玄寺から村の中央へつづく道を歩く。左右に広がる畑の上では、幸運をはこんでくるとされるツバメが、大きくえがきながら飛んでいた。

 畑の麦を見ながら、ふと気になった。
「そういえば、もうお盆の祭りは復活してるのか?」
「昨年からだね。青年会の出店は少なかったけれど」

 仕方ないだろうね。今年もそろそろ打合せをする頃だろうか。
 そんなことを考えつつ、分校の手前で道を右折し中郷地区に向かう。

 この道は、かつて東京からこの村に移り住んできたとき、まだ高等女学校生だった香織ちゃんを連れて3人で歩いた道だ。
 あの日は雨上がりの晴れた日だったろうか。今、同じ道を春香と2人で歩いている。

 やがて道の先に、香織ちゃんの嫁ぎ先の家が見えてきた。
 もともとの実家の隣にある嫁ぎ先の家。
 横並びか向かいかの違いはあるけれど、かつての俺と春香の家もそうだった。

 この辺りでは垣根かきねなどないから、道から家がよく見える。香織ちゃんは、庭にある物干し台で洗濯物を干していた。

 5年も会っていなかったからか、もうすっかり大人の顔になっている。和くんももう小学生になっていることだろう。

 手慣れた様子で、1つ1つの洗濯物を広げ、次々に干していく香織ちゃん。
 ……ああ、どんなにか秀雄くんも生きて帰りたかったことだろう。その無念さを思うと、再び俺の胸が締めつけられる。


「――春香。悪いけど、お前は入り口のところで待っていてくれ」
「わかった」

 ここからは俺が一人で行かねばならない。

 家の敷地に入った俺を香織ちゃんが見つけ、首をかしげた。けれど入り口でたたずんでいる春香を見て、俺が誰かわかったようで、目を見張って手をわななかせ始めた。

 それはそうだろう。秀雄くんと一緒に戦死の公報が来たはずの俺が、こうして生きて帰ったんだから。

 じいっと俺を見つめ、そのまま失神するんじゃないかと心配しそうなくらい顔をこわばらせ、それでも微動だにせずに俺が近づいていくのを待っていた。

 視界の端っこで、俺を見たご家族が、外で遊んでいた男の子を家の中に引っ張り込むのが見えた。あの子が和くんだろうか。

 離れた位置で一度足を止め、そっと目を閉じる。

 ……迷うな。これから香織ちゃんに秀雄くんの死を伝えねばならないんだ。

 それでも何と言って切り出したらいいのかわからないまま、俺は目を開けて再び香織ちゃんのところへ向かった。

 けれども俺が口を開くより先に、香織ちゃんがガバッと頭を下げた。戸惑ってしまって足が止まる。

 頭を下げたままの姿勢で香織ちゃんが、
「申しわけありません! 旦那だんな様」
と叫んだ。

 感情をおさえ込んでいるのか、その背中が揺れている。悲痛な気持ちがその全身から噴き出しているようで、俺は身動きできなかった。

「私は旦那様にも、奥様にも、家族のように良くしていただいて、お二方ふたかたには並々ならぬ御恩ごおんがあります。ですが! ……今この時だけは。今この時だけは! おうらみ申し上げます」

 その言葉が胸に突き刺さる。
 がばっと顔を上げた香織ちゃんは、顔を悲しみにゆがめていた。

「今、はっきりとわかりました。あの人は、秀雄はやはり死んだのですね。
 奥様がかたくなに旦那様が生きているって信じていたように、私も心ひそかに、もしかしたら生きているんじゃないかって思っていました。
 ……けれど今、旦那様の顔を見て、やはり戦死してしまったんだと、はっきりわかりました」

 彼女の両目から、見る見るうちに涙がこぼれ落ちていった。

「――なぜ! なぜ! 旦那様はこうしてお帰りになったのに、……私の、あの人は、秀雄は、……帰って来なかったんでしょうか!
 なんで……。秀雄ぉ……」

 香織ちゃんは、そのまま崩れるようにひざをつき、うつむいて両手で顔を押さえて激しく泣きはじめた。

 俺も身を切られたように心が痛い。悔しさに、にぎるこぶしに力がこもる。

 ……そのとおりだ。俺が生きて帰ってこられたのは、俺が人じゃないからなんだ。そんなのひどいズルだ。裏切りも同然だろう。

 あれだけ一緒にいて、それでも俺は秀雄くんを守ることができなかった。生きてここへ連れてくることができなかった。
 そのことは何度も何度も、俺自身が悔やんでいる。

 香織ちゃん。……すまない。本当に、すまない。
 せめて君の悲しみを、この俺にぶつけてほしい。たとえ、どれだけ責められようと、俺はこの身で受け止めてやりたい……。

 その時背後で、春香がこちらに来ようとするのを感じ、後ろ手に来るなと合図する。

 俺はゆっくりと香織ちゃんに近づいた。
 地面の土を握りしめ、嗚咽おえつらしている香織ちゃん。秀雄くんが帰ってこないっていっていたけど、でもね。秀雄くんはね――。


「秀雄くんは、帰ってきたんだよ。ここに。俺が連れて帰ってきた」
 神力収納から秀雄くんの御遺骨ごいこつを包んだ白い布包みを取り出して、うつむいて泣き続けている彼女に見えるようにそっと差し出した。

 それを見た香織ちゃんは恐る恐る顔を上げ、布包みに手を震わせながらのばしてきた。
「あ、ああ、あ……、秀雄ぉ」


 ぶるぶる震える指先で、俺の手からそっと包みを受け取り、じっと見つめている。そして、泣き笑いの表情で、ゆっくりと胸に抱きしめた。
「お帰りなさい。秀雄……」

 その時、ばっとかずくんが走り込んできた。
「まま!」
 幼いながらも心配そうな表情で、香織ちゃんのそばに来て、どうしていいかわからずに立ち止まっている。
 涙に濡れた顔のままで和くんを見つめ、香織ちゃんは「ああ、和」とつぶやいて、男の子を強く抱きしめた。

 ……そうか。どうやら大丈夫そうだ。
 香織ちゃんには和くんがいる。あの子がいるかぎり、彼女はくじけることはない。そう思う。
 だから俺は、心のなかで秀雄くんに語りかけた。――君は心配していたけれど、2人とも大丈夫だよと。

 俺は香織ちゃんに語りかけた。
「秀雄くんから香織ちゃんに伝えてくれといわれた言葉がある」

 遺骨を胸に抱いたままで、香織ちゃんが俺を見上げた。和くんもつられて俺を見る。

「生きて帰ることができず、すまない。だが俺は君と結婚できて幸せだった。
 父さんと母さんを頼む。和のことも。
 ……香織。来世こそ、また君と夫婦となって最後まで一緒に暮らしたい。本当にありがとう」

 こうして抱き合っている母子を見ていると、すでに輪廻りんねに旅立ってしまった秀雄くんが2人を見守り、微笑んでいるような気がした。

 香織ちゃんがつぶやいた。
「私の方こそ、来世でもあなたと一緒になりたい。……ありがとう。秀雄」

 夫婦となる。親子となる。そのつむがれた因縁は、生死をも越える。
 果てしない輪廻のどこかで、秀雄くんと香織ちゃんは再び夫婦となるだろう。

 願わくば、その時代が平和でありますようにと祈らずにはいられなかった。

05結の章 踏まれても踏まれてもなお耐え抜いて 野辺に咲きたる花ぞうつくし

「ふふふ、ふーんふんふん~」

 春香が蔵の玄関口にある調理場で、割烹着かっぽうぎに身を包み、機嫌良さそうに鼻歌をうたいながらお鍋を見ている。

 ……ああ、なんて幸せなんだろう。
 ただ調理をしている彼女を見ているだけだというのに。これが幸せをかみしめるっていうことだろうか。
 きっと今の俺はゆるみきった顔をしていることだろう。

 春香もさっきからチラチラとこちらを見てくる。
 そのたびに目が合って、恥ずかしそうにお鍋に視線を戻す。かと思えばこちらの様子を窺うように、再びチラリと見てはまたすぐにお鍋に……。

 ふふふ。そんな春香が可愛い。
 間違いなく彼女も幸せを感じていて、気持ちをどう表現していいのか、わからないでいるのだろう。

 久しぶりの夫婦水入らずのひととき。さっきからお出汁だしのいい香りが漂ってきている。言葉をかわすこともないけれど、ゆったりと流れていくこの時間、この雰囲気が心地よい。

 どうやら料理ができたようだ。そろそろちゃぶ台の準備をしておこう。
 壁際にたたんでおいたちゃぶ台を組み立て、そのまま台所に向かう。玄関の上がり口にあたる板間にお盆が並んでいて、そこにおはしやご飯茶碗ぢゃわんが用意されていた。

 春香がお鍋のおかずをお皿に移しているのを横目に見ながら、そのお盆を取り上げた。――ほう。今日は煮魚か。

 ちゃぶ台にもどってお箸や食器を並べる。すぐに、おかずを持って春香がやって来た。

 目の前に置かれたお皿には、じっくりと味の染みこんだ魚の切り身が乗っている。刻んだ生姜しょうがが添えてあり、うっすらと湯気が立っていた。
「うまそうだな」

 思わず口の中につばがいてくる。5年ぶりの愛妻料理だ、うまくないわけがない。

 待ちきれない様子がわかったのか、春香が苦笑しながら手早く俺の茶碗に麦ご飯をよそってくれた。
 茶碗に盛られたご飯。飯ごうのふたじゃない、俺の茶碗だ。そのことがとても嬉しかった。

 うん?

 春香の目もとがうるんでいる。
 その視線の先には、先ほど並べた俺のご飯茶碗があった。

 すぐに俺が見ているのに気がついたのだろう。そっと微笑んで、
「ようやくそのお茶碗をまた使えたなって思って……」
と小さな声で言った。

 そうだよな。
 おそろいの夫婦めおと茶碗。春香はずっとずっと、これを使うのを待っていたんだ。だけどね……、そんなことを言われたら泣けてくるじゃないか。

 目の前のちゃぶ台には、並んだ2つのおかず、並んだ2つのお箸、並んだ2つのお味噌汁に、今ご飯茶碗も並んでいる。
 かつては当たり前の光景だったけれど、それがこんなにも愛情にあふれたものだったなんて……。

 黙りこくった俺を見て、春香が照れくさそうに笑った。
「――ね。ご飯にしよう」

 お互いにわかっているよとばかりに微笑みあい、少し潤んだ目もとをぬぐってから両手を合わせる。

「いただきます」
「いただきます」

 この食事の挨拶をするのにも、2人して何故か照れてしまう。

 幼なじみから恋人になり、そのまま結婚した俺たちには、付き合い始めの初々ういういしさなんてなかったけれど、新婚さんってもしかしてこんな感じなのかもしれない。


 この5年間。春香はどんな風に過ごしてきたんだろう。何を見て、何を感じ、そして何をしてきたのか。
 ふとそんなことを思う。

 俺たちは永い永い年月を共に暮らしてきた。相手のことで知らないことなんてないくらいに。
 それが今、目の前にいる春香は、俺の知っている春香ではなく、俺の知らない経験を積んで成長した1人の女性のように見えた。
 それが少し寂しくも感じるが、すごいと尊敬をも覚える。

 ……まあ、すぐにベタベタの甘々な俺たちになるとは思うけどさ。


「なんかね」と春香が言いかけた。
「うん?」
「夏樹が帰ってきたら、聞いてもらおうと思っていた話がたくさんあるんだけど……。なんだか、もう、そんなのどうでもよくなっちゃった」

 春香がそう言って微笑み、すぐに、
「あ、でもやってもらおうと思ってたことはあるから、それは後でやってもらうからね」
「やってもらいたいこと?」

 なんだろう。どこかで雨りでもして手つかずなのか?

「そうそう。今日は寝るときに抱きしめてもらって、耳元で愛してるって100回はささやいてもらうから。それから――」

 なにそれ可愛いな。
 でも100回も愛してるって言っていると、その言葉が軽くなりそうな気もする。
 ……そうだ。それなら100回のキスをしよう。その言葉のかわりに。唇でもおでこでも首筋でも手でもどこでも。春香を愛撫あいぶするように、何度も何度も口づけをしよう。

「あー、わかったわかった。俺にもやりたいことがある。だけど、まずはご飯を食べちゃおう。せっかく春香が作ってくれたんだし」
「あ、はは。そうだね」

 さっそく箸で身をほぐし、そっと口に入れた。お出汁と魚の旨みがじわりと口に広がる。懐かしいこの味付け。……ああ、うまい。
 久しぶりに食べる春香の食事は、今まで食べたどんな料理よりもおいしかった。


 食事が終わり、春香が片付けをしている間に、俺はお風呂を入れることにした。
 ただそれだけなのに「私も一緒に行く」と言い出した春香に、居間を挟んで向こう側に行くだけだし、どこにも行かないからとなだめ、1人でお風呂場に行く。

 離れるのが怖いんじゃない。片時も離れなくないのだろう。その気持ちは俺にもわかっていた。

 湯船に水を張り、鉄砲風呂のボイラー部分にまきを入れて火を点ける。洗い場にあるイスに腰掛けて、じっと浴槽よくそうのお湯を見つめながら温まるのを待つ。
 温められたお湯が湯船の表面に上がってきて、浴槽よくそうはしの方へと流れていく。

 ああ。風呂か。前に入ったのは一体いつだったろうか?

 ビルマの雨に濡れ、全身がびしょびしょになったことなら何度でもある。
 バケツをひっくり返したような雨の中を進軍していったみんな。崩れた道を補修し、泥まみれになりながら通り抜け、そして熱に侵されては倒れ、雨ざらしになっていた奴もいた。

 退却路たいきゃくろで見た、あの白骨となった戦友。彼らは今も、遠く離れたビルマの山中で、退却してくる戦友を待ち続けているのだろう。あの雨のジャングルで。

 チンドウィン川を渡ったはいいものの、あれからも激しい撤退てったいがつづいた。あの時も――。


 思考が深みにはまっていこうという時、後ろから春香が抱きついてきた。いつのまにか風呂場に来ていたようだ。

 背中が柔らかく温かいぬくもりに包まれる。
「夏樹……」
 肩越しに俺の首元に顔をうずめ、ささやくその声。彼女の息が首筋をくすぐる。

 どうやら不安がらせてしまったか。

 前に回された彼女の腕に、そっと右手を添える。
「大丈夫だよ」
「うん」
 そうつぶやくけれど、彼女は離れようとしない。

 左腕を彼女の頭に添え、そのまま振り向いて唇を重ねた。
 やわらかいこの感触。春香も少し汗をかいているようだ。かぎなれたこの匂いに、この日だまりのようなぬくもりに包まれていると、穏やかな気持ちになっていく。

「俺はここにいる。もうどこにも行かないさ」
 そう言うと、春香がぎゅっと俺を抱く腕に力を入れた。
「うん。……さっきは少し怖い顔をしてたから」
「そうか。あの戦場を思い出しちゃって……。すまん」
「いいのよ。忘れちゃいけない。そうでしょ? だって私たちは――」

 春香の言いたいことはわかっている。
「人間を学んでいる。そのために歴史をたどっている修行の身」

 そのとおりだ。今回の戦争は思いっきり、その残酷ざんこくな一面を見続けてしまった。

「そして、夏樹は1人じゃないんだよ。私がいる。……だから、貴方のその辛い気持ちを私にも分けて」

 今日だけは、戦争の話をするつもりはなかった。帰ってきた今日だけはと、そう思っていた。
 でもこうして春香と一緒にいると、幸せを感じる度にあの戦場を思い出してしまう。

 ――やはり、まずは春香に話を聞いてもらうのがいいだろうか。春香がどう思うか少し怖いけれど、そこがスタートラインなのかもしれない。

「なあ春香、聞いて欲しい。ビルマで何があって、どんな風に、俺たちが戦ってきたのかを。少し長くなるけれど、聞いてくれるか?」

 おそるおそるそう尋ねる俺だったが、春香は即座に、
「うん。いいよ」
と言ってくれた。

 俺から離れた春香が洗い場の床にじかに座る。
 そのまま俺はインパールに向かって戦っていた日々を、そして撤退し、戦友たちが死んでいった様子を話しはじめた。
 秀雄くんの最後も含めて――。


 お風呂場に俺の声が響く。温かい蒸気が伝わってくる浴槽を前にして、時おり言葉に詰まりながらも俺は話し続け、春香は最後までじっと聞いていてくれた。

 途中で何度もお湯が冷めてしまったので、新たな薪をくべた。そして、長い長い話を終えたとき、春香は俺の方を見た。
 だが、俺はその目を見つめかえすことができずに、少しうつむいてしまった。

 怖かった。理由はわからないけれど、ただ怖かった。

 けれど春香はそんなことお構いなしに俺の傍にやって来て、俺の手を握る。
「よくがんばったね。夏樹。話してくれてありがとう」

 その声を聞き、おそるおそる春香を見る。彼女は微笑んでいた。
 その笑顔を見た途端、俺は知らない間に背負っていた何かが消えていくのを感じた。まるで罪の許しを得られたかのように、救いの光をみたように。

 そうか。こんなにも気持ちが楽になるのか。春香に話を聞いてもらうと。

 春香の目をじっと見つめる。その澄んだ瞳が吸い込まれるように美しい。
 何かな? といいたげに首をかしげる春香に、
「愛してる」
と言うと、不意打ちだったみたいで、少し照れた様子で顔をそらし、
「私も。――ねえ。そろそろお風呂に、入ろう?」
とはぐらかすように言っていた。



 背中を流し合って一緒に湯船に入り、ゆったりとした一時ひとときを過ごす。
 他愛もない会話を交わしながらも、春香の背中を流すときには柔らかくしっとりした肌に妙にドキドキしたし、久しぶりに見る彼女のまろやかな胸に視線がくぎ付けになった。

 まあバレバレだとは思うけれど、そんな気持ちを抑えつつ、お風呂から上がって浴衣に着替え、居間でのんびりとした気持ちで窓の外を眺めていると、春香が酒器をお盆に載せてやってきた。

 雨は降っていないようだけれど、あちこちからカエルの鳴き声がにぎやかしく聞こえてくる。それがまた松守村らしくて懐かしい。

 小さく2人だけの乾杯をして、さっそくお猪口ちょこを口にする。おそらく神力を使ったのだろうけど、よく冷えたお酒がすっとのどを通り、腹の中から俺の体を清めてくれるような、そんな感じがした。

 カエルの声をBGMにして、1口、2口とお酒が進む。
 いが回ってきたのか、少しいい気持ちになりながら、
「やっぱり日本酒は旨いな」
「向こうではどんなお酒を飲んでいたの?」
「ああ……、将校はウイスキーとか手に入れていたみたいだけど。俺たちひらの兵士は地元のチン族の作ったお酒とかだ。ヅウって名前で黄酒みたいに濁っててさ」
「ふうん」

 ま、ズウも手作りとしては悪くはなかったけどね。

 ふと脳裏に亡くなった増田の顔が思い浮かぶ。あいつも子供を残してってしまった。同じように父を亡くした子供たちが大勢いることだろう。
 戦場に散っていった戦友達のことを思えば、もちろん限界はあるが、俺も春香と同じように子供たちを引き受けようとしただろう。
――ああ、そうだ。こっちでは子供たちを引き取ったんだったか。

「そういえば子供たちを引き取ったんだったね」
 すると春香は少し物憂ものうげな表情を浮かべ、手元のお猪口に視線を落とした。
「うん。……見ていられなくてさ」

 そっと左手をのばして、春香の手に重ねる。ピクッとした春香が、おそるおそる俺を見た。俺は彼女の目を見ながらゆっくりとうなずいた。

「わかるよ。俺も色々と見てきたからな」

 この様子、春香も悲惨な光景を見てしまったんだろう。一体なにを見てきたのかわからないけれど。

「なあ春香」
「なあに」
「今度はお前の話を聞かせてくれないか」
「うん。……まあ、夏樹ほどじゃないけれど、こっちも色々あったなぁ。長くなるよ?」
「構わないよ」
「そう。それじゃあ――」


 それから聞いた春香の話に、彼女の苦労を知る。
 清玄寺で学童疎開そかいがあったこと。そして、東京大空襲くうしゅうに、寮母りょうぼだった女性の死。
 子供たちと暮らした生活。俺を待ちつづけた日々。

「色々あったんだな」
「まあね」

 春香の手をなで続ける。
 この手で子供たちの面倒を見てきたのか。そう思うと、俺には春香が何か尊いもののように思えた。

 ちゃぶ台の向こうで微笑む彼女。この歳の姿の春香は、若い時と違った美しさがある。
 しっとりと柔らかい手。どこかいろのある表情。……もちろん、そんなものがなくても、俺にとってかけがえのない、世界で唯一の女性であることには変わりがない。

 この手を握りながら、ずっと世界を回ってきたんだよなぁ。なんてすごい女性なんだろうか。そして、なんて愛おしいんだろうか。

 同じこの手で、俺のために千人針を作ってくれたんだ。俺のために春香人形を作ってくれたし、そして、胸のポケットにお守り代わりに自分の下の毛をい込んでいてくれた。
 そのどれもが、あの悲惨な戦場で、俺を守ってくれたと思う。

 気がついたらつぶやいていた。
「ありがとうな」
「うん?」と、いぶかしむ春香。
「お守りのことさ」
「ああ……、千人針」
「いや、それだけじゃなくってさ。人形もそうだし、胸のポケットの……、毛?」
「毛ぇ言うな」
 わざとだろうけど、久しぶりにほおを少しふくらませている。

「ははは。見た時は驚いたけど、まあその……」
「ふっふっふっ。あのお守りを何に使ったのかわからないけれど、役に立ったんならよかった」

 ちょっと引っかけるような言い方だけど、変なことには使っていないぞ?
 あんな大切なもの、大事にとっておくに決まってるじゃんか。それにさ、

「お前が、自分で抜いているところを想像するとおもしろくって」
「うっ」

 こんな表情をするってことは、やっぱり恥ずかしかったんだろうね。ふふっ。


 少し間があいて、春香が急にニヤリと笑みを浮かべた。なんだ? 何かする気か?

「私もこれになぐさめられたからね~」
と言いながら、春香は長い枕をひょいっと取り出して、胸もとに抱き込む。
 思わず、それを指さして、
「あー! それが俺の枕か!」
と声を上げてしまった。
「そうだよ。見せるのは初めてだよね~。これに夏樹の浴衣を着せてね。抱きついて寝てました」

 抱き枕だけに1メートルほどの長さがあって、その先端にまるでマジックで描いたような人の顔が、布を器用に切り抜いて縫い付けてある。

「それ、俺に似てるかあ?」
「え~。似てるでしょ」
「いや、デフォルメしすぎじゃあ……」
「いいの。夏樹の顔は私の頭の中にあるんだから、イメージが重ねれば良いんだから」
「そういう問題なのか」
「そういう問題です」

 むぅ。

 黙り込んだ俺の目の前で、春香が枕をすっと差し出す。俺が手をのばすとヒョイッと枕が逃げた。
 再びのばした手の先で、ぱっと枕が消える。神力収納か。
「あ――」というと、春香はにっこり笑って、
「でももういらない。夏樹はもう、ここにいるんだから」
と言う。

 春香がゆっくりと立ち上がり、俺の所にやってくる。何をするんだろうと見ていると、堂々と「よっこらしょ」と言いながら、あぐらを組んでいた俺の足の上に頭を載せて、ごろんと仰向けになった。

 甘えん坊モードになったな。
 苦笑しつつも、春香のほっぺたを触る。
 春香も手をのばして、俺の頬に手を当てた。ほくそ笑んで俺を見上げている。

 お酒をくいっとあおり、空になったお猪口をちゃぶ台にトンと置いた。空いた手で俺の春香の手に自分の手をそっと重ねる。
 そのまま目をそっとつぶり、添えられた春香の手に頬をすり寄せ、そのぬくもりを味わった。

 いつしかお互いに口数が少なくなった。
 そっと目を開き、足の上の春香を見つめる。酔いが回っているのもあるだろうけど、その目元は少し熱を帯びているようだ。

「――じゃあ、上に行こうか」
というと、春香はうなずいて身体を起こした。

 いそいそと窓を閉めに行くと、春香は片付けを明日にしたらしく、先にハシゴの上にのぼっていく。
 部屋の電気を消すと、ロフトにある行灯あんどんに明かりが灯った。まるでベッドランプのように、ほのかな光がロフトから漏れている。

 ハシゴを登り上にあがると、すでに春香は布団の上で正座をしていた。

 対面するように俺も正座で座り、すっと彼女の左手を取る。怪訝けげんな表情を浮かべた春香の目の前で、神力収納から結婚指輪を取り出した。

 俺たちの絆の指輪を、今ふたたびはめよう。

 少し震える春香の薬指に、ゆっくりと指輪をはめていく。するすると奥へ差し込み、かつての定位置へ。

 無言のうちの儀式。誰も見ていない2人だけの儀式だ。

 次は俺の番。
 左手を差し出すと、春香が同じように仕舞っていた結婚指輪を取り出した。俺の左手を取って同じように薬指にゆっくりと指輪がはめられる。

 その途中から、不意に春香の頬をツーッと一筋の涙が流れ落ちた。終わってから、親指でその涙をぬぐってやり、潤んだ瞳を正面から見つめる。

 胸の奥から、愛してるっていう気持ちがこみ上げてきて、目もとが熱くなる。視界がにじんできた。

「ただいま……。春香」

 改めてそう言うと、春香は微笑んで、
「お帰りなさい。……あなた」
と言って、抱きついてきた。

 柔らかい彼女の身体を受け止めて、そのまま布団の上に倒れ込む。震える彼女の唇、そして涙の跡に次々に口づけをしていく。

 ああ、こんなにもお前が愛おしい。――愛してる。心の底から愛してる。

 何度も何度もキスをしているうちに、次第にとろけていく心。
 お互いに愛を与えようとするように、俺たちは求め合い、やがて何もかもが一つになっていった。

05結の章 踏まれても踏まれてもなお耐え抜いて 野辺に咲きたる花ぞうつくし


 あなたは、何をしているのでしょうか。
 まだ帰っては来られないのでしょうか。
 どこかで道に迷っているのでしょうか。

 あれから幾度いくども幾度も黒磯に行きました。
 駅前で何度もお待ちしました。
 復員兵を見かけるたび、あなたかと声を掛けました。

 月日は流れ、もう昭和22年。6月になっています。
 もう帰ってきてくれても、いいのではないでしょうか。

 終戦からまもなく2年。それでもまだ、夏樹あなたは帰ってきてはくれないのですね――。


 爽やかな風が洗濯場を通りすぎていく。
 もみ洗いをしていた手を休め、ふと空を見上げた。きれいに晴れ渡っている。今日は少し暑くなるかもしれない。

 戦争が終わってから、連合国軍最高司令官総司令部、通称GHQの指示を受けながら、日本は新たな国作りに入っていた。

 一方で、戦争の傷痕きずあとも深く、ことに昭和20年は凶作の年だったこともあり、食糧を求める人々がちまたにあふれ、戦災孤児は駅にたむろした。
 軍需ぐんじゅ物資の強奪ごうだつ隠匿いんとく物資の捜索そうさく。東京では売春する娘たちにあふれ、窃盗せっとう団が活発に活動をしていたという。

 極東国際軍事裁判が行われ、日本軍の軍人たちの犯罪が審議しんぎされて刑が確定したが、世界情勢では東ヨーロッパ諸国が共産化し、お隣の中国では国共こっきょう内戦が始まった。
 大きな戦争が終わったというのに、平和にはほど遠く、まだまだ世界情勢は安定しない。すでに次の東西冷戦へと移りかわりつつあった。

 国内では事前に予想していたように、農地解放、通貨改革、選挙改革、そして日本国憲法の制定、教育改革と、矢継やつばやに社会が変わっていく。
 それでもなお、復興の道、いまだ遠しといえるだろう。


 今日は学校が休みということもあり、香代子ちゃんが一緒に手伝いをしてくれている。
 和則くんは泰介くんを連れて、畑に行っていた。小さい子たちは洗い場のそばで遊んでいる。

 もみ洗いのおわった衣類を水ですすぐ。簡単にしぼって、他の干すものと一緒にかごに入れた。
 ずっとかがんでいた腰を伸ばし、固まっていたすじをのばすように左右に身体をひねる。

 子どもたちが歌をうたいだした。ここに流れる穏やかな時間の中を、小さな子のあどけない声が響き渡る。

 十五夜お月さん ごきげんさん
 ばあやは おいとま とりました

 十五夜お月さん 妹は
 田舎へもられ貰われて ゆきました

 十五夜お月さん かかさんに
 もいちど私は 会いたいな

 おそらく意味はまだわかっていないだろう。どこか哀しい気持ちになる歌。「もいちど私は会いたいな」という言葉が切ない。

 その時、ふっと足元に何かが落ちた。なんだろうと見下ろしたら、それはずっと手首に巻いていたミサンガだった。
 そっと拾い上げ、手のひらに載せる。すり切れた糸。色の薄れたミサンガ。

 ……そう。とうとう切れたんだ。



 しぼった衣類をパンパンと伸ばして竹竿に掛ける。
 1つ終われば、そばにいる菜々子ちゃんが「はい」と次を手渡してくれた。
 4歳だったこの子も、今は6歳。もう1年生になっていた。

 梅雨シーズンの貴重な晴れの日。今朝までは雨が降っていたけれど、晴れている間にできるだけ天日で干しておきたい。
 夏のようなモクモクとした白い雲が、山の上に姿を現している。夕立こそ心配だけれど、気温も上がりそうだ。
 ラジオからは軽快な音楽が流れてくる。風がそよぎ、洗濯物をふわっと揺らした。


 東京の復興は着々と進んでいるようだ。
 清玄寺寮に来ていた子どもたちからは、以前ほどではないけれど、今でも手紙が届いている。

 あの日、東京に帰っていったみんなだけれど、その家によって随分と環境が変わっていったようだ。とはいえ、やはりどの家庭も生活が厳しいようで、アメリカ軍の兵士からチョコレートをもらったと絵に描いた子もいた。

「よしっと。ね。香代子ちゃん、ちょっと休憩にしよっか」
「はあい」
 少し疲れたので、本堂の正面階段に腰掛ける。ここは本堂の屋根が張り出していて日陰になっていて、見晴らしが良くてのどかな村の様子がよく見える。ひと息つくにはちょうどいい。

 脇のあじさいの上には大きなカタツムリがゆっくりと動いている。
 けんけんぱをしている子どもたち。午後からは畑仕事にいかないといけないなぁ。

 慈育園の経営は、畑だけでは厳しいものがあった。食べるものには困らないのが幸いだけれど、子どもたちはすぐに大きくなるし、勉強に必要な教科書、文房具も馬鹿にならない。
 幸いにお寺での経営って事になっていて、例の講組織による月並み分担金もあるから、なんとかやっていけている。

 教育内容は戦前とはがらりと変わったようだ。
 民主主義を教える内容や英語の授業があると聞き、かつて私が暮らしていた平成の日本にぐっと近づいた気分になったものだ。

「あ~、疲れた」
という香代子ちゃんに微笑みかけながら、今日のおやつは何にしようかなと考えた。

◇◇◇◇
 俺がこのバスに乗るのも、もう何年ぶりだろうか。

 懐かしい黒磯の駅も駅舎自体は変わりがなかったけれど、道行く人々には自分のように軍服を着ている人もおらず、なんだか場違いな気がした。
 ひと目で復員してきたとわかる恰好かっこう。何人かのご婦人が顔を見ては肩を落として歩き去って行った。……きっとまだ戻らない家族がいるんだろう。


 梅雨に入ったとは聞いていたけれど、今日はきれいに晴れている。まるで夏のような空の下を村に向かう道が延びていた。
 窓から射し込む光に照らされた車内。つり革がゆっくりと揺れ、穏やかな空気がただよっていた。

 窓の外からは川が見える。この時期にはもう蛍が舞う頃だろう。
 懐かしい道。……ここに来るまで色んな事があった。

 けれど、ようやく。ようやく。自分はここまで帰ってこられた。それが嬉しい。

 春香はどうしているだろう。そればかりが気になる。
 もうすぐだ。あともうちょっと。

 窓の外を流れていく景色を見ながら、知らずのうちに春香の姿を探している自分がいた。
 大丈夫、清玄寺で待ってくれているはずだ、とわかってはいるけれど、探さずにはいられなかった。

 握った手の中には、列車の中で切れたミサンガがある。
 出征しゅっせいの朝に春香が編んでくれたミサンガ。春香人形やお守りとともに、戦場まで俺と一緒に行ってくれたミサンガだけれど、黒磯の駅に到着する直前で唐突に切れたのだ。まるでその仕事を終えたとばかりに。

 この晴れた空のように、俺の気分は明るくなっていく。この先には春香が待っている。ずっとずっと帰ることを願っていた、……彼女がいるんだ。

 ――あ。そういえばヒゲをってなかったな。

 唐突にそんなことを思い出した。

 前に剃ったのは3日前か? 俺だってわかるかな。
 少し心配になりながらあごに手をやると、もう触りなれた無精ヒゲが指先に触れる。
「今さらか」
 そう言いながら、どこか愉快な気持ちになった。

 しかし戦争が終わってから、随分と経ってしまった。
 捕虜ほりょになった俺は、戦争が終わってもイギリス軍の指示のもとで、ずっと強制労働をさせられていたんだよね。

 俺はかつてイギリスに住んでいたし、英語もできる。それに何より、かつての知り合いが将校になっていて、ひょんなことで再会できたということもあった。
 その際に、みんなより先に日本に帰れるように都合を付けようかと言われたけれど、さすがに一緒に戦ってきた戦友をおいて1人で日本に帰ることはためらわれたんだ。

 ただねぇ。まさ2年もかかるとは思いもしなかったよ。結局は、GHQがイギリスに早く捕虜を日本に戻すように強く要求したらしい。

「次は松守村入口。松守村入口」
 到着だ。降りる準備をしよう。――――春香、いま帰るぞ!


 バスを降りて、村の入り口を見ると同時に万感の思いが胸にこみ上げてくる。たとえようもない喜びが身体からあふれ出していく。

 ここに来るまでどれほどの苦しみを味わったことだろうか。
 だけど、とうとう春香のもとに戻るという目的が叶えられようとしている。
 もう何も俺たちの間を邪魔するものはないのだ。誰も俺たちの間を引き離すことはできない。

 懐かしい村の道を歩き出した。およそ5年ぶりの村は、出発した時と何も変わりがないように見える。それが妙に嬉しかった。


 駐在所を過ぎ、かつて働いていた村役場が見えてきた。

 ちょっとだけ帰還の挨拶をしようかと思ったけれど、それよりも今はとにかく春香の顔が見たい。
 挨拶なら後からすればいいだろう。そう思って足早に通り過ぎた。

 背後から誰かが飛び出してくる気配がする。「――まさか!」と声がした気がするけれど、俺は振り返らなかった。


 道の隣に広がる畑には、青々とした麦が風に揺られている。
 懐かしの分校からは、校庭で運動をしているのだろうか、子供たちのにぎやかな声が響いてきた。その声に、意味もなく口元が笑みをつくる。

 分校の先には、道ばたの桜が青々とした葉っぱに陽光をきらめかせていた。道にまだら模様の影を投げかけ、その木漏れ日の中をアリが行列を作っていた。

 昨日は、――いや今朝までは雨だったのだろう。ところどころぬかるんでいて、道のくぼみにある水たまりに、晴れ上がった空がきれいに写し出されていた。


 途中で1人のご婦人とすれ違った。あれは隣組の石川のまささんだったか。
 いぶかしげな顔のままでお辞儀じぎをしていたから、きっと俺が誰かはわかっていないんだろう。探るような視線を感じたけれど、何かの用事の途中だったようでそのまま役場の方へ歩いて行った。

 村道は畑の外側に沿うように、ゆるやかにカーブを描きながら上り坂となり、その先に清玄寺の山門が見えてきた。

 雨上がりだからだろうか、空気が澄んでいて、景色がいつもよりもくっきりとして見える。そのままわずかな階段をのぼり、山門をくぐった。

 夏には祭りの行われる広場では、見知らぬ子供たちが楽しそうに遊んでいる。
 ……そして、その向こうに歴史のある本堂が静かにたたずんでいて、日陰になっている階段に、春香がいた。


 ――その瞬間、すっと風が通り抜けた。止まっていた時計が再び動きはじめたような感覚をおぼえる。

 階段に座って子供たちを、そしてこちらを見ているその小さな姿を見て、も言われぬ感動が全身に満ちていく。

 遥かな長い時をともに過ごしてきた彼女。それにくらべれば出征しゅっせいしていた年月など微々びびたるものだけれど、千年の別離べつりを過ごしたような気がする。

 きっと彼女も、ここで俺の想像できないほどの苦難に直面しただろう。
 悩んで、悲しんで、それでも彼女は彼女として生き抜いてきたんだろう。
 自分があのビルマの山深い戦場で戦ってきたように。

 ここまでの道のりは果てしなく遠かった。
 戦場をともにした戦友は次々に倒れ、親しい者も3人、それも目の前で失った。すさまじい爆撃に、機銃きじゅう掃射そうしゃに、人間がまるで虫けらのように死んでいく戦場で、いつしか自分も感情を殺していた――。

 でも、もうそんなことは遠く過ぎ去ったことではないだろうか。

 今こうして春香の姿を目にしていると、死んでいった皆には悪いけれど、これまでの苦難や苦しみが意味の無いことのように思えた。

 足を踏み出す。子供たちがすぐに気がつき、そして、階段にいる彼女も、俺に気がついたようだ。

 けれど、彼女はただぼんやりと俺を見ているばかり。……そうか。今、ここにいる俺を、夢か幻かと思っているのか。
 おそらく今までも、何度も俺の幻が彼女の前に現れていたのだろう。

 そっと微笑みを浮かべる春香。けれど、それはどこか寂しげで諦めの色が見えるようだった。

 そんな彼女を見て目もとが熱くなる。幻を見るほどに、ずっと待ちつづけてきた彼女に、すぐにでも膝をついて祈りを捧げたくなる。
 我慢できず、無意識のうちに「春香、春香――」と何度も名前を呼ぶ。

 するとその声が聞こえたのだろう。彼女が突然目を丸くして、まるで心臓が止まりそうになったかのように胸に手を当てた。
 ゆらゆらと立ち上がり、おぼつかない足取りで階段を2、3段降りた。

 今や、春香のなかで、幻から現実になりはじめたのだろう。今にも泣き出しそうな瞳で、まっすぐに俺を見ている。その唇が震えながら「夏樹」と動いた。

「春香ぁっ」
 右手を挙げて声を張り上げると、次の瞬間、春香がこっちに向かって走り出した。はだしのままで、転びそうになりながらも視線をらさずに。

 俺はその場を動けなかった。
 必死で、なりふり構わずに走ってくる彼女を見て、愛しているという強い思いが、胸の奥、魂の底からあふれ出して俺の身体を縛りつけている。

 春香が、少し手前で急に腰が抜けたように崩れ落ちそうになった。
 あわてて支えようと足を踏み出したところで、彼女が俺の下半身にすがりつく。頭をお腹に当てて、そのしなやかな腕は俺の腰に回されている。

「あなたぁっ。あなたっあなたっあなたぁ――」

 同じことを何度も何度も叫ぶ春香に、胸が締めつけられる。止めようもなく涙が目からあふれ出した。
 お腹の上で泣き続ける彼女の頭をかき抱く。

「春香。ああ……、春香」
 喜びがつきぬけ、ただひたすら彼女の名前を何度も、何度も呼び続けた。

 やがて彼女が嗚咽おえつに肩をふるわせるだけになったころ、俺は彼女の両脇に手を差し込んでぐっと持ち上げて強引に立たせ、そのまま抱きしめた。
 泣きれた春香の瞳を真っ直ぐに見つめながら、俺は言った。

「春香。――ただいま」

 目を泣きはらした春香が、そっと微笑む。
「お帰りなさい。――夏樹」

 そのまま背中に手を回し唇を重ねる。涙でしょっぱくて、柔らかい唇に、言葉にならない、ただただ愛してると想いを込めて……。


 どれくらいの時間をそうしていたのかわからないけれど、子供たちや恵海さんたちが、俺たちを遠巻きに見守ってくれているのに気がついた。

 そっと唇を離すと、熱を帯びた春香の目が、なんで? というように問いかける。その唇に人差し指をポンと置いて、
「みんな見てる」
と言葉少なくいうと、彼女もようやくそのことに気がついたようで、おそるおそる後ろを振り向いた。

 恵海さんと美子さんが、微笑みながら頭を下げる。女の子たちは赤くなりながら、俺たちをじっと見ていた。

 腕の中の春香が、今度は照れて赤くなりつつも、コテンと俺の胸に頭をもたせかけてきた。
 ……ふふふ。きっと、恥ずかしいけどそんなの関係ないって思っているんだろう。

 確かに息づく彼女のぬくもり。ああ、俺はようやく春香のもとに帰ってきたんだ。