05.同盟の報せ

2020年12月14日

 耳を澄ませると、林を通り抜ける風が枝を揺らす音が聞こえる。遠くでさえずる鳥の声も。
 木漏れ日が差し込む森の中で、私は夏樹の前で片膝をついて弓をつがえていた。

 気配をころし、息を潜め、じっと見つめるのは30メートル先の鹿。
 平たく大きな角をしている白い斑点のある体躯。草をみ、時おり警戒するように顔を上げている。

 私たちはこれでも神の端くれなので、本来は食事をしなくても生きていけるわけで、はじめは生き物を殺すことに忌避感きひかんを抱いていた。
 しかし、今は表向きは人として生きているし、かつて天帝釈様から許しを得たこともあって、こうして狩りをすることもあった。

 私がつがえている弓は、かつてギリシャの女神アルテミス様からいただいたものだ。見た目は素朴な木製の弓ではあるけれど、飛距離は長く、練習の甲斐もあって、今ではそれなりに狙い通りのところに射ることができる。

 神経を集中して呼吸を整えていくと、やがて周囲の森と一体化していくような感覚になっていく。

 ――すっ。

 指を離すと、放たれた矢が真っ直ぐに飛んでいき、見事に鹿の急所を貫いた。驚きで飛び上がった鹿だったが、2、3歩あるいてすぐに倒れる。
「お見事」
という夏樹に「まあね」とドヤ顔を見せ、肩の力を抜きながら弓を下ろした。

 夏樹と一緒に、ゆっくりと仕留めた鹿のもとへと近づいていく。すでに死んでいることを確認して、目をつぶって黙祷もくとうを捧げた。その後で夏樹がしゃがみ込んで、すぐに血抜きの処理を始める。

 夏樹が持っている剣は、中国でとある仙人から授けられた剣だ。本来は戦いに使うであろうその剣を、今はナイフ代わりに使っている。
 ……私の弓にしろ、夏樹の剣にしろ、人相手の戦いで使うことはあっっても、その命を奪うことはしない。実際は、こうして狩りの際に使うことが多かった。

「王女がびっくりしそうだな」
という夏樹に、今さらながら、やっちゃったかもと思う。鳥や野うさぎならわかるけれど、鹿は大物過ぎたかもしれない。

 実はこうして森に来たのは、アミュティス王女からお誘いがあったからだ。
 当初は散策するだけだったのが、途中から王女の思いつきで狩りをすることになって、一緒についてきた兵士たちは森へと獲物を探しに行き、自衛のために弓矢を持って来ていた私もまた、夏樹と一緒に森へと入る羽目になっていた。

 競争させるようなことは言っていなかったけど、もっと大きな獲物をとる人もいるよね? 鹿の大きさを見てちょっと不安になったけれども、もう今さらか。

 血抜きの終わった鹿を、前脚どうし、後ろ脚どうしで縛って棒にくくりつけ、江戸時代の駕籠かご持ち人足にんそくのように、夏樹と2人でよっこいしょと肩に背負う。

 夫と一緒にり下げた獲物を運んでいる。
 そんな今の私の姿は、普通の女性ではありえないシュールな姿だろう。王女がどんな反応リアクションをするかを想像して、ひとりほくそ笑む。

 森の出口に近づくにつれて王女たちの気配が近づいて来た。耳を澄ませば、護衛の兵士や侍女とおしゃべりをしている声がかすかに伝わってくる。
 夏樹を先頭に、森から出た私。すぐに気がついたであろう王女が、次の瞬間、爆発するような笑い声をあげた。

「あははははは! すごい! これは想定外! なにこれどうなってるの!」

 イスに座っていた王女が、私たちの方を指さして大きな声で笑っている。周囲の侍女は目を丸くして、兵士は苦笑していた。

「私が仕留めたんですよ~」
と声を出しながら近づいていくと、苦笑していた兵士もぎょっと驚いた表情に変わった。

 少し手前で鹿を下ろすと、王女がさっと立ち上がって近寄ってくる。
「すごいじゃないの! まさかハルカがこの大きさの鹿をね~。交易商人と侮っていたつもりはないけど、随分と旅慣れしているってことかな」
 すると夏樹が、
「王女様。今日はたまたまですよ。それに、これくらいできなければ、私どものような若い夫婦の2人旅は危険も多いので」
「そうだけど、正直ちょっと見直したわ」
 そういう王女に、えへんと胸をオーバーに張って自慢顔をしてみせると、ぷっと吹き出してまた笑い出す。

「あなたたちって本当にものじしないわねぇ。でもそれが良いところか」
と言った王女は、もう成果は充分だから一緒に休憩しようと誘って下さった。

 エクバタナから持参したイスに王女が座り、私たちはそのそばに敷物を広げて並んで座る。自分たちの荷物から水筒を取り出した。
 中身は単なるいつもの水出しハーブティーなんだけれど、なぜか王女が興味を持ったので彼女のコップにも入れてあげる。

「さすがにそんなに変わったものを飲んでいるってわけじゃないか……」
「なにを期待していたんですか」
あきれながら言うと、
「貴方たちのことだから、何か珍しいものでも入っているのかと」
「さすがに口にするもので珍しいものを、いきなり王女様に出したりはしませんよ」

 好き嫌いとか、アレルギーとかもあるし。他には果物も持って来てはいるけれど、そんな物くらいは侍女のラウラさんだって用意してくれているはずだしね。

「アミュティス様、あまり2人を困らせてはいけませんよ」
と言うラウラさんに、
「この2人が面白いものだから、ついね」
 そんなことを言う王女に思わず突っ込む。
「そんなに面白いですか? 私たち」
「面白いわよ。外の世界のことも知ってるし、やっぱり他の人と違うっていうか、妙に王族慣れしている気もするし……」

 かつてギリシャで王子テセウスを引き連れた女の子アリアが押しかけてきたこともあったし、中国で育てた娘が嫁いだ先は一国の軍師で、ついには斉の国の王となった。王族慣れしているのは、そういう経験があるからでもある。

「前から思っていたんだけど、あなたたちって普通の一般人より肌が綺麗だし、身なりもしっかりしてるよね。知識もあるし、……実はどこかの国の王族の出身なんてことはない?」
と言いながら私たちの表情を探る王女。

 夏樹が穏やかに微笑み返しながら、
「それはないですが……、そうですね。西のとある王子が幼なじみの女の子に引っ張られて、お忍びで町に出てきたことがあって、その時に仲良くなって一緒に過ごしたことがあるんですよ。
 ……女の子の方は、アミュティス王女とよく似ていましたよ」
と白状すると、
「ほらね! なんだか面白そうな話が飛び出してくる」
「ですが、どこの誰とは言いませんよ。交易商人は信用が大事ですから、そういう秘密は話せません」
「ほほう。話せないと言うわけですか……」

 そんな風におしゃべりをしている時だった。

 護衛をしていた兵士の1人が、王女に「伝令がこっちに来るようです」と報告する。エクバタナがある方向を見ると、たしかに1人の兵士が馬を駆けさせていた。
 それを見た王女が立ち上がったので、俺たちも立ち上がって脇に控えることにした。
「何かあったのかしら――」
 王女からつぶやきが漏れる。

 今、キュアサクレスウマキシュタル2世王はアッシリアとの戦争に出ている最中だ。
 定期的に報告が来ているのは知っていたが、こうして街の外にいる王女のところへ使いがやってくるのは、余程のことがあったはず。
 まさか王様が戦死した……ってわけじゃなさそうだ。おそらく推測ができているであろう、夏樹の様子を見る限りでは。

 王女の前で兵士が馬から降りて膝を地面につく。

「遠征中の王より急報が到着しました。我が軍が、タルビシュに続いてアッシュールを攻略したとのことです!」
「アッシュールを! それは大きな戦果ね」
「王も健勝にあられますが、その後、バビロニアと同盟を組んだそうでございます。つきましては、王女様にはすぐに王宮へ戻るよう命令がありました」
「バビロニアと……。わかりました。では皆を呼び集めなさい。急いで戻ります」

 王女が護衛の兵士にそう命じると、すぐにその兵士が笛を鳴らした。帰還の合図だ。

 にわかに慌ただしくなる王女の周辺だったが、私たちには、
「貴方たちも今日はここまでで良いわ。早駆けするけれど、一緒に戻るでも自分たちで戻るでも好きなようになさい。……あとで鹿の褒美は届けさせます」
 素の表情から王女の顔へと変わったアミュティス王女に、私たちは頭を下げて「かしこまりました」と返事をする。

 ここへは王女が手配してくれた馬に乗って来たわけだけれど、これ以上の同行は邪魔になるだけだろうから、ここでお別れするのがよいだろう。馬は後で王宮に返しに行くことにしよう。

 森に入っていた兵士たちがすぐに戻ってきて、――獲物は鹿1頭、猪1頭、野うさぎ、鳥が数羽だった――、その間に撤収を始めていた王女たちと合流し、一団は馬に乗って街へと戻っていった。
 丘陵を降りていく王女たちを、夏樹と一緒に見送ってから、私たちも2人して馬に乗り後を追いかけるように馬を歩かせる。

「夏樹は、何があったと思う?」
 すると隣の馬に乗っている夏樹が、
「王女の結婚が決まったんだと思うよ」
「結婚? ――なるほど」

 同盟ってことだから、相手はもちろんバビロニアの王族だろう。急いで王宮に戻ることになったのも当然だ。

「アッシリアはエジプトと同盟を組んでいるし、それに対抗する意味もあるんだろうと思う。相手はネブカドネザル2世だ」
「……う~ん。名前は聞き覚えがある」

 高校の世界史で習った覚えがあるけれど、もうあれから千年以上経ってるし……。

「新バビロニア全盛期の王だよ。有名なのはイェルサレムの人々をバビロンに連れて行ったっていうバビロン捕囚、そして、春香が見たがっている空中庭園の建設者ってところかな」
 さすがは夏樹。よく覚えている。
 なるほどねぇ。バビロン捕囚は言葉しか覚えていないけれど、空中庭園の……。うん? ちょっと待てよ。ということは……。

「空中庭園って、たしか奥さんのために造ったっていう話だったよね」
「そうさ。故郷の山々を思い出して寂しがっていた王妃のために、ネブカドネザル2世が造ったんだ」
「ということは、その王妃がアミュティス王女であると」
「そういうことになるね」
「これまた不思議な因縁ねぇ……」

 私たちはその王女のお抱えになっているわけで、なんとなく縁というよりも、因縁という言葉を使いたくなる。

「あ~あ、せっかくエクバタナに住みだしたのに、あとちょっとでお別れか」
 王女が嫁いでしまえば、私たちの役割も終わりだし、契約も終わりだろう。
「それはまあ、仕方がないだろうね。それから後は、どこかの町で家を購入して暮らそうか?」
「うん。せっかくだから少しゆっくりしたい」

 寿命がないから一カ所に長く住み続けることはできなけれど、できれば怪しまれないくらいの年数は町中で普通の生活をしたい。

「そうだな。じゃあ、エクバタナを出ることになったら、2人で相談して決めようか」
「うん」

 その日が来るのが楽しみだ。日干しレンガの家なんかも味があっていいかもしれない。場所はどこがいいだろう? ここのような高原都市もいいけれど、海沿いも、山麓、低地もいい。今度は町中で、堂々と手をつないでも平気なところがいいな。
 馬の背に揺られながら想像する。どこかの街角でデートをしているところを。

◇◇◇◇
 その日の夜、夕食を終えたくらいの時間に家の外から呼ぶ声がした。

「はい。ちょっと待ってください」
と言いながら、玄関の扉を少し開けると、そこには王女の侍女ライラさんがランプを片手にたたずんでいた。背後には2人の兵士がいるけれど、おそらく護衛だろう。

「このような時間にすみませんが、少しお話があります」
「はあ、食後なのでちょっと散らかっていますが、どうぞ」
と扉を開けると、ライラさんは兵士にはそのまま外で待機するよう命じて、1人で中に入ってきた。

 テーブルの上の片付けをしている最中だった夏樹が、
「ああ、今すぐ片付けるので」
「すみませ、んが……、旦那さんの方が片付けを?」
「いつもってわけじゃないですよ。単に手持ち無沙汰だっただけで」
「そうですか」

 そんな会話をしている間にも、重ねた食器を流しのところへと持って行く夏樹。すぐに私はテーブルをいて、ライラさんに椅子を勧めた。
 すぐに私たちも向かい側に座る。

「実は、お2人に王女から依頼があります」
 神妙な表情でそういうライラさん。
「王女と一緒にバビロニアに来ていただきたいのです」

 想定外の依頼にきょかれ、一瞬、空気が固まった。
 バビロニアへ?

 私よりも先に我を取り戻した夏樹が、
「それは付き人として、ということでしょうか?」
「はい。その通りです」
「他にはどのような方々がいらっしゃるのですか?」
「私たち侍女が2人、王女の家庭教師であった壮年の男性が1人、そして、あなたたち2人の予定です」
 そこへ口を挟んで聞いてみた。
「なぜ私たちを?」
 するとラウラさんは、少し視線をさまよわせ、
「1つには交易商人であった2人の知見から助言が欲しいということのようです。もう1つは……、話し相手でしょうか?」
「話し相手?」
「ええ。歳が近くて気軽に話せる方が、王女にはいませんでしたから……」

 思わず夏樹と視線を交わす。
「ということは職人としてでも、交易商人としてでもなく?」
と夏樹が尋ねると、
「これは王女が言っていたことですが、交易商人としての活動はしていただくことになるかと思います。それで珍しいものなどを手に入れると言いますか……」
「ああ……、なるほど。情報などの収集もということですね」
「はい。おそらくは」

 つまりは、王女専属のアドバイザー兼商人で、子飼いで自由に動ける付き人ということだろう。
 いずれにしろ今すぐここで決められることではない。夏樹とちゃんと話し合わないと――。

 そう思って夏樹を見ると、わかっているとばかりに肯いて、ライラさんに、
「ありがたいお話ですが、今晩、妻と検討させてください。――明日、王宮へとお返事にまいります」
 私も一緒にライラさんを見つめると、彼女と視線が合った。真摯な目からは表情はうかがえない。けれど、どうにか引き受けて欲しいという気持ちが何となく伝わってくる。

 用件はそれだけだったようで、玄関まで見送りに出た私たち。兵士をともなって王宮へと戻っていくライラさんを見送った。

 暗い夜にランプの明かりが遠ざかっていく。
 あの王女となら一緒に行くのもいいと思える。しかし、私たちには私たちなりの事情がある。……そして、再び私たちの周囲で、時代というものが動きはじめたような気がした。

 横にいる夏樹の腕に、私はそうっと自分の腕を絡めて少し寄りかかり、さてどうしようかと考えた。