08.王女の婚礼
ウルクのエアンナ神殿にある王族の居住区。私は今、そこにあるアミュティス王女の控え室にいる。
王女は本衣裳の下に着る簡易なドレスを着て、王宮の侍女からお化粧をほどこされているところ。……そう、今日は婚礼の日。アミュティス様は王女から王太子妃になる。
王女たちの一行は、私たちがウルクに来てからおよそ1月後にウルクに到着した。その際に、私たちもバビロンのクドゥリ王子とも対面し、挨拶を済ませてある。
アパル王とはまだだけれど、クドゥリ王子に会ってみた印象としては、軍属なだけあってがっしりした体格で明るい性格の好青年だと思う。
王女が心配していた初顔合わせも無事に済んだようで、後から王女はほっとしたと笑っていたっけ。
とはいえ、さすがに次期国王の王太子だけあって、多忙なクドゥリ王子は何度もバビロンに行っており、なかなかアミュティス様との時間は取れていないようだ。
その代わりに粘土板の手紙はよく届いているらしく、筆まめ、いや、粘土板まめな人なようだ。王子も気をつかっているのだろう
ともあれ、今ごろは王子も儀式の準備をしているはず。夏樹は王子に呼び出されてそっちに行っているから、後でどんな様子だったのかを聞いてみようと思う。
ちなみに王女の衣裳はエクバタナから持参した婚礼衣装で、真っ白なチュニックの上からカラフルなガウンを掛け、ラピスラズリを思わせる深い青色のスカートも細かなアラベスク模様が金糸で丹念に縫い込まれた逸品だ。
細部は変化してきているだろうけれど、その婚礼衣装は先祖伝来のものだという。遊牧民族に見られる華やかな衣裳は、草花の萌えいずる季節を迎えた人々の喜びの心を表したものだと思う。そして、その喜びの衣裳に身を包んで、今日、アミュティス王女は結婚する。
あれだけ憂うつそうにしていた王女だけれど、実際に王子と会ったことでマリッジブルーも軽くなったようで、今日はとてもうれしそう。化粧を施している侍女のラウラさんも笑顔で忙しそうに手を動かしていた。
じっと見ている私の視線に気がついたのだろう。王女が、
「ハルカ。今日はありがとう」
「間に合ってよかったです。――王女、おめでとうございます」
「ふふふ、もう王女じゃなくなるけどね」
ちなみに王女からは、夏樹ともども、アミュティス様って名前で呼ぶことを許されている。だけど、心の中ではこれからも王女って呼ぶと思う。
「――さ、できましたよ」と手を止めたライラさんが言った。「よくお似合いです」
ライラさんが抱えている鏡を王女に向けると、その鏡をのぞき込んで衣裳の具合を確認し、満足げにうなずいている。
じゃあ、次は私の番だ。
かたわらに置いておいた木箱を取り上げて、蓋を開けて王女の方へと向ける。
「じゃじゃ~ん!」
わざと友達っぽく言ってみたら、受けたようで笑いながら王女が箱の中を見た。
「わあぁ! なにこれ」
さっそく王女が中から取りだしたのは、金細工の花冠だ。イメージの元はかつてミノス島で見たディア・ディマで、金を冶金士のところに持ち込んで造ってもらったもの。
正直、時間的にギリギリかなって思ったけど間に合って良かった。
「すごい素敵じゃないのこれ」
柊の葉っぱを象っていて、葉っぱと葉っぱの間から宝石をはめ込んだティアドロップが垂れている。森が好きな王女にはよく似合うはず。
「ハルカがかぶせてくれない?」
「いいですよ」
王女から手渡された花冠を、今度は王女の頭に被らせる。髪を隠した紺色の布の上の、金色のディアディマ。スカートの金糸の模様と相まって、イメージしていたとおりよく似合う。
ライラさんも、「お似合いですよ」と笑顔を見せていた。
首元には、幾重にも編み込まれた金鎖の首飾りに、大粒のラピスラズリや馬瑙の宝石。今日は婚儀ということもあって儀式中の新婦は顔を出して良いようだから、きっと評判になることだろう。
キラキラした王女の瞳を見て、なんだか私もうれしくなってきたのだった。
◇◇◇◇
「ナツキと言ったか。それで実際、彼女はどういう人柄なのだ? 君の目で見たままを教えてくれ」
すでに儀式のために正装に着替えたクドゥリ王子に、俺はいまアミュティス王女について根掘り葉掘り尋ねられている。
「聡明で行動力がある女性です。他の人が気づかないような事に気がつく。きっと王子を支える良い妃となることでしょう。……そして、私からさらに一つ申し上げたく」
「ああ。かまわぬ」
「アミュティス様のことは王子がその目でなるのがよいでしょう。
他人の言葉はしょせん他人の言葉。真に王女のことを知ろうと思うのならば、共に過ごすことです。王女のことで何かを王子が感じたのならば、それこそが王女の人柄というものです」
「ふっ、それもそうだ。確かに他人の言葉はその者の見た事柄に過ぎぬな」
「もちろん演じている場合もありますから、他人の評判は評判で心に留めておくべきですがね」
「それも商人の知恵というものか。わかった。……そうだな。彼女ともっと一緒にいる時間を取るようにしよう」
「それがよいかと」
周囲に王子の側近たちがいるなかで、王子とこんな会話をするのは緊張するが、王子は王子で満足げに俺を見てから側近たちを見た。
「よいか。この者を覚えておけ。我が妃の友人の片割れだ。皆とともに色々とやってもらうことも多くなるだろう」
「はっ」
「ナツキ。そなたも、今後は俺を名で呼ぶことを許す。ここにいる者たちを覚えておけ。俺の手足となってやってもらうこともあるだろうからな」
……これは配下となれということか。
「クドゥリ様。ありがたくお引き受けいたしたいところですが、我々はアミュティス王女の友人であるとともに、一介の商人です。
この度、バビロニアに来たのも、王女と5年との契約を結んでいるからで、それ以後はこの地を離れるかもしれません」
「ああ、そんな説明があったな。また変わった契約をしたものだ」
「もっとも契約が終わっても、王女の友であることには変わりがありません」
「ならば良しとしよう。我々とも友でいようではないか」
「それならば、どうぞよろしくお願いします」
どうやら俺が王子に呼ばれたのも、こうして顔合わせをするためだったようだ。
王子の指示でその場にいた側近の人たちと順番に挨拶を交わす。
家令のシン・アブ・ウツル殿
親衛隊長のアトカル・アナ・マール・エサギル殿
書記官のベール・ウヴァリト殿
騎兵隊長のナブー・アフ・ウツル殿
歌手のネルガル・レツァ殿
そして王子お抱え商人のハヌヌ殿
なんでも他の配下はバビロンでそれぞれの仕事に従事しているそうで、顔合わせはバビロンでとのこと。一度に紹介されても覚えきれないしね。
そんな風にして一通りの挨拶を終えたところで、ふとクドゥリ王子は真剣な表情となった。
「俺はアッシリアを滅ぼす。そして、このシュメールの大地を統一し、バビロンにかつての栄光を取り戻す。ティンティルの名にふさわしい都にしてマルドゥーク神を讃えるのだ。
ナツキよ。私とも契約しないか。私の手伝いをせよ。期間は王女と交わした契約と同じ期間とする」
「……わかりました。その申し出を受けましょう」
この申し出は、俺たちが自由に動けるようにと身分を王子が与えてくれた。そういうことだろう。
「王子。そろそろお時間です」
やってきたのは文官見習いのネリグリッサル君だった。
うむと言って立ち上がった王子は、ハヌヌ殿以外の側近を連れて歩いて行った。
ハヌヌ殿は神殿の外で待機をするらしいので、一緒にどうかと誘われたけれど、申し訳ないが妻と合流しなければいけないのでと言って別れ、ネリグリッサル君の案内で春香のいる部屋へと向かった。
◇
時間になってアミュティス様がライラさんと一緒に儀式に向かった後、私は夏樹と合流して神殿の外に出た。
明るい太陽の日射しの下で、今日は王子の結婚式とあって、ジックラト前の広場には大勢の住民たちが集まってきていた。仕事をほとんど奴隷にさせている人も多いからか、はたまた特別な日だからか、お昼を過ぎた時間帯だというのに、実に多くの人々がひしめいている。
ざわざわと人々の声を聞きながら、いかにも関係者ですという顔をして、夏樹と一緒にすごすごと階段を降りていく。
色んな人の視線を感じてドキドキしながら、何食わぬ顔をしてすごすごと人混みの中に入り込んだ。もちろん夏樹の後ろにくっついて。
群衆の中で夏樹のそばにいると、まるで夏樹に守ってもらっているような感覚になる。いや事実そうなんだろう。
「春香。俺の前に」と言われて夏樹の前に向かい合って立つと、肩に手を置かれてぐるっと身体を反転させられ、背中を夏樹に預けて2人して神殿の方を向く体勢に。すっと後ろから回された夏樹の手で抱きしめられる。
「えっと、ちょっと恥ずかしいんだけど」
「この人混みだ。念のため、な?」
「うん……。そだね」
そういえば新宿の雑踏の中でも、こうして抱きしめてくれたことがあったっけ。ちょうど年末で街にはイルミネーションがキラキラしていて……。
今は真っ昼間だけど、なんだかドキドキしてしまう。
時おり夏樹とささやくように話をしながら、時間が経つのを待つ。というか、ちらちらと投げかけられる周りの視線に、まんじりと気持ちを落ち着かせることもできなかった。女性の姿が無いわけではないんだけど、ほとんどが男性で、しかもこんな風に抱きしめられているのは私くらいだから。
長い長い時間がすぎてから、突然、神殿の方から太鼓の音が鳴り出した。それに呼応するように大きな歓声を挙げる群衆。その大きな声が体の中に響く。
前の人の頭越しに神殿を見上げると、階段の上に楽士が現れ、次から次へと儀式に参列した人々が姿を現した。
バーンと銅鑼が鳴らされると、自然と群衆が静かになっていく。
「このいにしえのウルクに住まう人々よ。まずはともに女神イシュタルに祈りを捧げよう。主たるマルドゥークに祈りを捧げよう」
階段上でたくましい男性が張り上げた声が、それなりの距離があるというのに広場に響き渡った。背後の夏樹が、
「あの人が親衛隊長のアトカル・アナ・マール・エサギル殿だよ」
と名前を教えてくれる。
「――この喜ばしい日に、王子はメディア王国のアミュティス姫を妃に迎えた。この婚儀により、我がバビロニアはメディア王国と同盟を強固にし、かのアッシリアをいよいよ打ち倒すことであろう!」
親衛隊長さんがそこまで言うと、再び銅鑼が鳴らされて、階段上にクドゥリ王子と、妃になったアミュティス王女が姿を現した。
群衆が拳を振り上げて歓声を上げる。親衛隊長さんが音頭を取るように、王子の御名をたたえ、王女の御名をたたえ、女神や神々をたたえ、バビロンをたたえる。群衆も手を振り上げて、次々に名前を呼んでたたえるうちに熱気が高まっていった。
クドゥリ王子は右手を挙げて群衆の歓声に応え、そのすぐ後ろにアミュティス王女がたたずんでいる。
その姿を見て素直によかったと思う。
少し疲れているようだけれど、あの微笑みには充実感があふれている。儀式の緊張から解き放たれたのだろう。
どことなく視線をさまよわせているのは、私たちを探している? ……いやいや、それは無いか。
ふと王子が振り返って、王女の手を取った。ちょっと驚いた様子を見せたアミュティス王女だったけれど、王子が自分の隣へと並ばせて何事かを告げると、王女はふたたび笑顔になり、王子と同じように右手を挙げて群衆の歓声に応えはじめた。
王女。夫婦はこれからがスタートですよ。
たとえ今のような戦乱の時代ではなかったとしても、2人の間では色んな事が起きることでしょう。笑い合うばかりではなく、意見が対立し怒鳴り合うことだってあるんです。
それでも夫婦は一緒に生きていくもの。色んな経験を乗り越えたその先にきっと、ああよかったと思える人生があるはずなのです。
心の中でアミュティス王女に語りかけ、2人の幸せを祈る。
あの2人が、互いを思いやり、幸せな人生を送れますように。私の祝福があの2人に届きますようにと――。
やがて2人は再び神殿の中へと向かい、側近の人たちも戻っていく。しかしそれでも、いまだ熱の冷めやらぬ多くの人たちが広場に残っていた。
「あの2人がうまく行くといいね」
「そうだな。……王子も王女と一緒の時間を増やそうという気持ちがあるみたいだったよ」
「へえ~。ま、どっちにしろ出会ってからまだ短いから、2人ともこれからだよね」
この世界にはラインもメールもなければ、スマホも携帯電話もないわけで、離れていると相手と連絡が取れない。
離れているからこそ思いが募ることもあるだろうけれど、一緒の時間を過ごすからこそ深まる仲もある。
次第に相手の色に染まっていくというか、相手も私の色に染まっていくというか……、そういうのがある。
2人して神殿を見上げると、ちょうどその時、再び男性の役人が現れ人々に何かを告げた。声が小さいみたいで、よく聞こえなかったけれど、前の方の人たちが大きな歓声を上げる。伝言ゲームのように人々のささやき声が広がってきて、何を言っていたのかようやくわかった。
今日の婚儀を祝して、神殿から酒とヤギの肉が人々に振る舞われるのだそうだ。……おそらくは儀式の際に生け贄として捧げられたヤギたちなのだろう。
神殿裏手の方から、神官らしき人たちが、奴隷たちに酒樽など乗せた荷車を引かせながらやってきた。こういうやり方はギリシャと同じみたい。
みんなそっちの方へと移動していくが、私たちは騒ぎが落ち着くまで待つことにした。
……なかなか集まっていった人たちが捌けないので、結局、夏樹に守られながら人混みに入り、どうにか焼かれたヤギの肉をもらえた。
お酒は入れ物が必要だったらしく、周りの人に気がつかれないように神様収納から空の水瓶を取り出して、それに入れてもらった。
そのまま、夏樹と一緒にごった返している群衆の中から離脱。さっそく神殿前で飲み食い始める人たちを余所に、家路についた。
特に理由はないけれど、なぜか私も夏樹も口数が少ない。それでも夫婦となった王子と王女の姿を見たからか、どことなく満たされた気持ちになっている。
ふと夏樹の視線を感じて隣を見ると、優しい眼差しで私を見ていた。そっと微笑み返し、言葉もなく黙ってうなずき合う。
意味は特にないやり取り。デートの時もそうだけれど、そんな他愛のないやり取りをするのがいい。
家に着いてから口をようやく開き、誰もいないのに「ただいま」と言いつつ中に入る。持ってきたお肉とお酒をテーブルに置き、ん~と伸びをして夏樹の方に振り返った。
「これで一段落ついたね」
友人の披露宴から帰ってきた時と同じで、――間違ってはいないけど、なんとなく疲労感がある。
「ねえ、今日はさ、庭で食事にしない? 出来合いのものでさ」
「ははは、疲れたよな。俺もだ。……ちょっと休憩したら準備しようか」
「オッケー」
そんなやり取りをして、ひとまず椅子に座ってハーブティーを取り出して2つのカップに注ぐ。もう色々と面倒になってきたので、家にいることをいいことに神力で冷やしてしまう。
爽やかなハーブの風味が喉を通り、体の中を綺麗にしていくような感覚。思わず、ほぅっと息を吐く。そんなお互いの顔を見て、ちょっと笑った。
落ち着いたところで裏庭へと出て、前から用意していたガーデンテーブルのセットを引っ張り出して、空がよく見えそうな場所に設置する。
場所が決まれば、次は火鉢を真ん中に置いて準備は完了。
一度お台所に戻って、夏樹はお盆に食器を、私は大きめのお皿の上に、神様収納にストックしておいた羊肉や魚を並べ、ついでに塩を胡椒なんかを用意しておく。もちろん貰ってきたヤギ肉も忘れずに。
飲み物は、貰ってきたお酒のほかに、ワインを1瓶、それとこっちに来てから自分たちで作ったシカルを1樽用意した。
手作りビールといっても、製法はこの時代のもの。大麦を発芽させた麦芽を乾燥させて、そこに小麦の粉を混ぜてバッピルっていう固いパンみたいのを焼く。このバッピルをお湯に溶かして発酵させるとシカルになるというわけ。
バッピルの焼き加減や麦の配合、スパイスを入れたりすると味が変わるので、クラフトビール好きな人とか、凝り性の人にはちょうど良いかも。ちなみに我が家では夏樹が作ってます。
余談はここまでにして、庭に戻り、炭に火を付けた頃には空もあかね色に染まっていた。
夏は猛烈な暑さになるこの地方も、サムヌの後半にもなれば、次第に涼しくなっていく。日中は25度くらいだったろうけど、夕方の今は20度をちょっと下回ったくらいだろう。
却って過ごしやすいのか、外から突然、誰かの笑い声が聞こえてきた。街ではまだまだ宴もたけなわなのだろう。
さっそく夏樹と向かい合って座り、まずはシカルで乾杯を。
お手製の素焼きのカップにシカルを注いで掲げもつと、夏樹が、
「2人の結婚に、乾杯!」
「乾杯!」
カツンとかるくカップを合わせてから、さっそく口を付ける。
昔はぬるいビールなんて飲めたものじゃないと思っていたけれど、シカルを作ってみるとより味わいが深いように思えて、なかなかいける。
「おいしい。……うまくできたね」
「ああ、ちょっと焦がしたのが良かったかな。今度はもうちょっと大麦の配合を……」
さっそく熱した網にお肉を載せながら、一生懸命にシカルについてしゃべっている夏樹の言葉に耳を傾ける。まるで何かに夢中になっている子供みたいでかわいかった。
壁の向こうから聞こえてくる人々の喧噪が、庭にも響いてきていて、なんとなく夏のお祭り気分になる。
群青色に染まっていく空に、ポツポツと星が増えていき、イシュタルの司る月が輝きを増していく。
ああ、今日はなんていい一日なんだろう。素直にそう思えた。