8.秘湯リブ(マナス王国中部州ジェロナ・レシュノ地方)

 訪れる人がいないような山の奥地に、知る人ぞ知る温泉がある。人はそれを秘湯という。

 マールの東にもリブと呼ばれる秘湯があり、秋も深まりつつある頃に、私はロナウドと一緒に向かった。

 森の木々が綺麗に赤や黄色に色づいていて、空気も澄んで、そして冷たくなってはいたけれど、山を登っているときにはむしろ少し汗ばむくらいだった。それになにより、森の香りに包まれて心と体の隅々まで清気がみなぎっていくような気分になった。

 途中で森の中で野宿をし、その翌日、再び細い道を歩く。森の中で渓流がサラサラと流れているところに出て、今度はその流れ沿いに細い道を上っていくと唐突に1軒の宿が現れる。そこが秘湯リブだった。

 色づいた木々の葉が川の水面にも映り込み、その美しい景色を背景にしたリブの宿はあたかも一幅の絵画のようだ。

 シンプルな木の家。ノッカーを鳴らしたけれど誰も出てこない。裏手に人の気配があったので、行ってみると宿の人らしきおじさんが薪を割っていた。50歳くらいだろうか。無精髭が白い。

 振り返ったおじさんが「うん? 誰だ?」と問う。お客だとわかりそうなものだけれど、きっと訪れる人もお客もほとんどいなかったのだろう。

 私が答えるよりも先に、ロナウドが温泉に泊まりに来たと言うと、「なんだ客か」と言いつつ、もう少しで薪割りが終わるから中で待っていてくれとのこと。田舎らしいと思った。

 チェックインもそこそこに昼は食べたかと尋ねられ、まだですと答えると、かみさんが帰ってきたらすぐに昼にしようと言う。

「こんな山奥に、奥さん1人で外に?」

「ああ。この山は庭みたいなもんだ。そりゃあ、ゴブリンだのはいるけどよ。かみさんの方が強えな」

 なるほど。さすがに人里離れたところで暮らす夫婦はひと味違う。妙に感心していると、ちょうどその話題の奥さんが帰ってきた。

「ちょっと遅くなってごめん。――お。この2人はお客さんかい?」

「ああ、そうだ。昼もまだだってよ」

「あれま! じゃあ、待っててね。すぐにお昼の用意をすっから」

 おじさんと同じくらいの歳だろうおばさんが、分厚い革のエプロンに腰に斧をぶら下げて帰ってきた。気さくな近所のおばさんといった雰囲気なので、その格好を見るとひどくシュールな気分になる。そのおばさんは挨拶を済ませるとさっさと奥に入っていった。

 すでにお昼をいただくことになっている。私とロナウドを置き去りにして、おじちゃんとおばちゃんの2人でドンドン話が進んでいた。……まだ料金の説明もないんですが。この夫婦なら何にも気にしなさそうだ。そう思うと何だか愉快になってきた。

 おじちゃんとおばちゃんのペースに巻き込まれているけれど、不思議と嫌ではない。

 食堂といって良いのかもわからないけれど、テーブル席が2つ。その一方に私とロナウドが座って、もう一方におじさんが座っている。間には高さ1メートルを少し超えたぐらいの鉄製のストーブがあり、そこから延びた煙突のパイプが天井近くを通って外につながっていた。

「ああ、そういえば客だったな、お前ら。温泉はもう少し上流にある。夜より昼の方がいいな。脱衣所で小屋はあるけど壁なんざない。魔物避けの結界はしてあるけど動物たちは来るからな。まあ滅多なことはないだろけどさ」

 うわぁ……、本当に自然の天然温泉なわけだ。ドキドキするけど、楽しみだね。動物か……、リスとかだったらいいけど、クマとか入りに来たら怖いかも。

「いちおう、武器は持って行っとけ。んで、部屋はあっちの扉だ。ベッドとトイレとある。夕飯は鍋だ。2日前に猪を獲ってなぁ。調味料に漬け込んでいたんだが、そろそろいい案配だ。……きっとうまいぞぉ」

 食事前でお腹が空いていたこともあって、実に美味しそうに聞こえる。ごくりとつばを飲みこんだ頃に、ちょうど食事ができたようだ。

 おばさんが作ったのは山菜ときのこのフライだった。今までも地方の村に行ったことがあり、山菜やきのこの料理をいただいたことがある。しかし、その時に比べてもなお、おばさんの料理はひと味違った。この網目状のキノコなんて、森の中で見たことはあっても食べられるとは思いもしなかった。

 ロナウドも慎重に、フォークを迷わせながら食べている。これが温泉宿でなく、どこかの一軒家だったら絶対に毒を盛られていると思って食べないだろう。

 1つの棒状のフライをロナウドが口にした。

「おっ、これ旨いな」

 へぇ。……どれどれ。

 私も同じフライを口にする。淡泊なイカのフライだ。厚めの身に歯がすっと通る。それなりに高級なイカのようだ。

 するとおばさんが嬉しそうに、

「そうかい。それはよかった。久しぶりに採れたんだ。――オオナメクジが」

 空気が固まった。

 は? オオナメクジ? さっき食べたやつ?

「見た目はあんなんだけど、背中側を切り開くとね。ああやってイカみたいな身が採れるんだ」

「この時期に見つけられるとはラッキーだったな」

「それもお客さんの分も採れるなんてね」

 おじさんとおばさんがおしゃべりをしているけれど、私とロナウドは表情をこわばらせたままで互いの顔を見ていた。――マジか。

 ううん。でも食べちゃったものはしょうがない。それにマズいってわけじゃなかったし……。料理に珍味はわかるけど、まさかゲテモノを食することになるとは。

 秘湯、恐るべし。

◇◇◇◇

 食事の後は、さっそくお風呂に向かうことにした。

 おじさんとおばさんは宿で冬に備えて色々と準備するものがあるらしい。というわけで、ロナウドと2人だ。

 渓流を左に落ち葉を踏みながら細い道を歩く。

 ときおり鳥が枝を飛び交い、よく見ると野うさぎの姿もあった。木の根元には採る時期を過ぎてデロンと大きくなったなめこがある。

 やがて小屋が見えてきた。あそこが脱衣場なのだろう。周囲には人の気配などなければ、どうやら今は動物もいないようだ。

 小屋の脇から温泉場が見えた。渓流のすぐそばに円形に石が組まれ、そこから湯気が立ちのぼっている。周囲には目隠しの塀も無ければ柵もない。……なるほど、これなら動物は入りたい放題だ。

 お湯の表面に黄色い葉っぱが浮かんでいる。よく見ると底の方にも何枚かの落ち葉が沈んでいる。それが何ともいえない趣となって見えた。

 うん。風流というのはこういう景色のことを言うのだろう。

 さっそく小屋に入ると、魔道具のヒーターが設置されていた。魔力充填形なので私が魔力を注ぎ込み、スイッチをオンにしておく。これで風呂上がりでも寒いということはないだろう。

 タオルと武器の宝杖クレアーレを持ってお風呂場に行く。ひんやりとした外気が肌に冷たい。けれど見渡す限りの大自然に包まれて、とても気持ちが良い。浴槽の傍に武器置き場があったのでクレアーレを置いて、足からお湯に入った。

 湯温は熱めのようだけれど、外気が冷たいのでちょうどよい。つるりとしたお湯で、掛け流しているだけでお肌がキュッキュッと音を立てそう。そっと両手でお湯をすくい、ざばっと顔を洗う。

 隣に入っているロナウドも浴槽の壁に背中を預け、「ふうぅぅぅ」と深く息を吐いている。

「最初は、こんな山の中で風呂に入るなんてと思っていたけどさ。いざ入ってみるとすごく気持ちいいな」

「開放的だよね。魔物避けもしてあるというし」

「俺たちしかいないしな」

 目の前には渓流が。その向こうには赤や黄色に染まった秋の森。その上には遠くの山々が澄んだ空に向かってそびえ立っている。この景色を前にしていると、ああ、本当にここは自然の真ん中なんだなと思う。

 この開放感こそが秘湯の醍醐味なのかもしれない。山の香りに渓流の音、温かいお湯の湯気に包まれて、私たちはしばし贅沢な時間を過ごした。

 お風呂から上がって小屋に戻り、着替えを済ませてから宿に戻る。何か手伝いをしましょうかと申し出たが、お客にしてもらうことはないと言われ、仕方なく食堂でお茶を飲みながら窓の外を見る。

 何もすることがない何もしない時間。

 窓の外を眺めているとゆっくりと雲が風に流されて動き、山すそでは鳥がどこかへと飛んでいく。目の前の林では、どこから出てきたのか、リスがあらわれて、もう1匹のリスと一緒に枝を登ったり別の木の枝に飛び移ったりしていた。

 そんな景色を眺めているといつのまにか日が傾いてきていて、一度部屋に戻ることに。

 客室は狭く、ベッドが2つとテーブル。そして、火鉢がある。すでに炭に火が付いていて、五徳の上に水の入ったヤカンが置いてあった。そのお陰か、部屋の中が心地よい温かさに保たれていた。

 すっかり夜になった頃にご飯の準備ができたと連絡があり、行ってみると食堂のテーブルとテーブルの間に火鉢が置かれ、その上に黒鉄の鍋。そして鍋の中には、数種類の芋やキノコ、しし肉が熱いスープに浸っている。

 食欲をそそる美味しそうな匂いが室内に満ちていて、急にお腹がぺこぺこになる。

 すでにおじさんは陶器の酒瓶を手に飲み始めており、

「腹が減ってたまらん。早く喰うぞ」

と言う。賛成です。

 お鍋は様々な具材の味がスープにしみ出ていて、実に温かく、そして美味しかった。おじさん特製のお酒も癖があったけれど、濃いめの味付けのこの鍋にはよく合う。

「おう! お前ら、冒険の話でもせい」

「うん。私も聞きたいね~。若者の冒険談は。ほら、おかわりお食べ」

 昼間はさわやかな温泉に入り、ゆったりとした時間を過ごした後は美味しいお鍋。そして気さくな宿のおじちゃんとおばちゃん。

 誰も彼もがせかせかと動き回っている都会とは大違いだ。ここでは時間が自然と同じ速度で流れている。

 都会の喧噪を離れ、人里離れた山の中で過ごすひととき。秘湯の温泉は疲れた私の心と身体を温め、癒やしてくれるのだった。