16.ノブヒム温泉(魔族領)

 温泉は朝食が良い。

 素直にそう思えるのがノブヒム温泉郷である。

 白い紙障子を張った窓を通して朝の光が畳の部屋に差し込み、朝食膳の上にのった粗塩を揉み込んだ川魚の焼き魚。独特の味わいのある漬け物の大根に、白いお米を多めのお湯でトロリとするまで煮込んだというおかゆに、漆黒のお椀に入った味噌スープ。いかにも身体に良さそうなメニューに、思わず頬が緩む。

 例えていえば、病み上がりに食べる消化の良い食事だが、それが温泉の朝にはよく似合う。

 魔王が整備させたもう1つの温泉郷ノブヒムは、風情のある落ち着いた温泉だった。

 私たちがヤノールからノブヒムに向かったのは、熱い陽射しの中にも秋の気配を感じるようになった頃だった。

 そのまま街道を南下し、途中から脇街道に入って山深い谷間に入る。ノブヒム道と呼ばれるほっそりとした山道を、さらに半日ほど進めばノブヒム温泉だ。

 晩夏というか初秋といえるような時期ではあったけれど、ノブヒムが近づくにつれ秋の気配が濃くなっていく。まだ青々とした木々もあったけれど、中には一足ひとあし二足ふたあしも早く色づいている木もある。黄色に染まりかけたギンクゴーいちょう、すでに赤く染まったメイプル山もみじの木。そんな木々の枝の上を、リスたちが走り回っていた。

 色あざやかな錦の布のようにきらびやかな山道。その色は、道の下を流れる沢の水にも映り込んでいて、息をのむような美しさ。その完璧ともいえる自然の美を前にしては、ただ言葉を失うしかない。山の霊気に包まれながら行くこの道は、世界でもっとも美しい峠道の1つだ。

 細い山道を進んでいくと、木々に隠れるようにいくつかの建物が見えてくる。そこがノブヒム温泉郷である。

 一番手前にあるお茶屋を通して、フリージアお薦めの宿「さざんか」の離れ「山月」を申し込んだ。このノブヒム温泉はどの宿も離れの部屋ばかり。「離れ」とは聞き慣れない言葉だろうけれど、いわゆるコテージといえばわかるだろうか。

 本館と回廊でつながってはいるそうだけれど、客室は独立した小さな家のようなものになっているらしい。

 到着した宿さざんかは、木製の柱に白い漆喰の壁、そして屋根は見慣れない陶器の板を重ねたような建物だった。これを和風建築というらしい。なんとも不思議で、それでいて山の風景に溶け込むような落ち着きを感じる。

 中に入ると、落ち着いた年配の女性が着物と呼ばれる服を着て待っていてくれた。女官長ともいうべき立場の人らしく、「仲居さん」のリリィさんという。その彼女に案内されて絨毯を敷いた廊下を進む。私たちの脱いだ履き物は、すぐ後ろの少年がうやうやしく持ってくれていた。

 見事な山の風景を眺めることができる廊下を進む。いくつもの離れを結んだ回廊はあたかも迷路のようだけれど、分かれ道には看板があるので迷うことはないだろう。

 通された離れ「山月」に到着し、スライドする木の扉をくぐると、木の目も美しい床の小さな廊下に出た。ここの部屋数は2つで、どの部屋も干した草を編んだ畳と呼ばれる床で、これが足裏に心地よい。

 1部屋は寝室で、1部屋はリビング。お夕飯はリビングの部屋に準備しますとのことで、どんな料理なのか実に楽しみ。

 お風呂場は壁の1面がまるまる開いていて、結界で守られているようだけれど、外と繋がっている。岩を組んで作られた広い浴槽に、わずか3つのランプが明かりとして灯っていた。

 外には紅葉の森が眺められて、時おり鹿も姿を見せるとか。

 仲居さんが退出してからリビングの畳の上にごろんと仰向けになった。すぐ隣にロナウドも同じように横になる。

 静けさが漂っている。聞こえてくるのは風が木々の枝を揺らす音だけ。畳の香りがする。床の上に寝転がるなんて今までしたことがなかったけれど、こうして木の天井を見上げていると、意識が少しずつ自然の中に融け込んでいくような気持ちになる。

「静かだな……」

「そうね……」

 ただそれだけ言ったきりの私たち。気がついたら2人とも眠っていた――。

◇◇◇◇

 目を覚ませると、まるで長いこと眠っていたような感覚になっていた。気がつかないうちに、体の奥底に疲れが溜まっていたのかもしれない。お夕飯までにはまだ時間があるので、2人でお風呂に入ることにした。

 お風呂場の結界は侵入とのぞきと若干の室温調節の機能があるようだけれど、山の空気はそのままお風呂場に入ってきているようだった。

 桶でお湯を肩から流し、さっそく湯船へ。少し熱めのお湯に肩までつかる。つるっとしたお湯。その表面から湯気がユラユラと立ちのぼり、ちゃぽちゃぽと竜吐水から源泉が流れ出ている音だけが響いている。

「あ~。染みわたる~」

 ロナウドがそんなことを言うので笑ってしまった。たしかにさっきまで寝ていたこともあって、体にお湯の熱が染みこんでいくような心地よさがある。

 ロナウドと2人だけの時間がゆっくりと過ぎていく。

 枝先からはらりと落ちる葉っぱ。木漏れ日がまるでスポットライトのように当たっている黄色い葉っぱ。地面に転がっている木の実……。こうしてお風呂場から外を見ると、まるで一幅の大きな絵画のようだ。

 そのままゆっくりとお風呂を楽しんで上がると、すでにお夕飯の時間が近づいていた。

 リビングに用意された夕食は、シンプルなフォルムながらも美しい黒と朱の食事台お膳に載せられていた。目を引くのは小ぶりな個人用のお鍋に、野菜と魚の天ぷら、そして……生魚? けれど何かのタレに漬け込んであるようで色が黒くなっている。他にも見た目も美しい小鉢の料理。これはおいしそうだ。

 さっそくロナウドと向かい合って座り、女中さんが用意してくれた酒瓶を手に取り、ロナウドが持つお猪口と呼ばれる酒杯にお酒を注いであげる。お返しに注いでもらったところで乾杯。

 透明で澄んだお酒。お猪口の底に描かれた紺色の模様が綺麗に見える。唇を近づけると、すうっとした香りがする。そのまま一口いただくと、水のようなお酒がお腹の中でカッと燃えるように熱くなった。香りをそのまま味わいにしたような後味が残り、その旨みに思わずニンマリとしてしまう。

「――これが純米大吟醸〝香雪蘭フリージア〟」

 魔王アキラめ。よっぽどフリージアのことが好きと見える。けれど旨い。

 お膳にはお箸と呼ばれるテーブルウェアが用意されていたが、それと別にいくつかの種類のナイフとフォークも用意されていて、どれをどう使っても良いそうだ。本来はお箸らしいけれど、気取らず楽しんで欲しいということらしい。

 さっそく小ぶりのフォークを手にとって、細長い素朴な焼き締めのお皿に載せられた竹筒を手に取った。中には貝ひもに葉野菜を細かく刻んだものに、極小の魚卵が和えてある。慎重にすくって口に入れると、その具材の1つ1つに丁寧に味付けがしてあって、繊細で奥深い味わいとなっていた。

 見た目もよく、魚卵の食感もよく、味もよい。食事の楽しみをよく知っている人の手による料理とわかる。

 焼き魚も小ぶりの切り身だけれど、何かに漬け込んであったものを焼いたようで、かすかに香ばしく薫るだけでなく、魚自身の持つ油と旨みとが相まって旨いとしか言えない。しかもこのお酒に合う。

「旨い」

 しみじみとそういうロナウドに、私もおなじく「おいしい」としか言えなかった。

 底の深い蓋付きの小鉢には、薄茶色の透き通ったつゆに魚のすり身を丸めた団子があった。お汁は少しとろっとしていたけれど、そのお出汁の味が淡泊なすり身と調和している。……なんて事だろう。この小鉢も美味しいとしか表現できないなんて。

 天ぷらもさくっとした食感なのに、お出汁の味も素材の味も……。いやいやお鍋の中のお肉と味噌かな。これもおいしい。――くぅ。語彙のなさがうらめしい。

 そんな大満足の食事を終えて、お酒で気持ちが良くなったところで、再びお風呂に入る。

 すっかり夜も更けて、ランプの明かりに照らされた浴室。そして外の色鮮やかな木々の葉がライトアップされていた。

 お湯の表面にランプの明かりがユラユラと揺れている。浴槽のヘリに腰掛けて、外の風景を眺める。

 名前を呼ばれてロナウドを振り返ると、少しぼうっとしたような目で見つめられ、

「……きれいだ」

 その一言に、胸がトクンと高鳴った。すぐに頬が上気して、「な、なにかな突然」と聞き返してしまった。

「肌がいつもより透き通るように白い。色っぽいよ」

 そういうことを面と向かって言われることの、なんとくすぐったいこと。まあ、そんなわけで、私たちは2人きりの夜を過ごしたのだった。

 そして迎えた朝、並んだ2つの枕、そして寝癖のひどいお互いの頭。どこか気だるく、しかし満ち足りた気分。障子越しの光は柔らかいけれど、妙にまぶしく見える。

 さあ、今日も元気で行こう。