一匹のナメクジがいた。
葉っぱを食べ、消化してうんちをする。
頭のツノを伸ばして、周りを見ながらゆっくりと前に這っている。
ナメクジは小さかった。
わずか4センチメートルの体長しかなかった。けれど、寿命はなかった。
葉っぱだけでなく何でも食べたけれど、お腹を壊すこともなかった。
ナメクジがいた世界は森の中だった。
しかし、人間が少しずつ増えていき、時には森の動物を殺し、木々を切り開き、生活圏を広げ、村ができていった。
ナメクジは、森にいたときと同じように、家の片隅をゆっくりと移動しながら、エサを食べてうんちをしていた。幸いに何でも食べることができたし、エサはほんの僅かにあれば充分だった。
「げっ。ナメクジっ」
壁を這っていると、若い女がナメクジを見て気持ち悪そうに言った。すると隣の同じ年頃の男が、ナメクジを指でつかんで地面に放り出し、思いっきり蹴っ飛ばした。
ナメクジの体は大きく放物線を描いて飛んでいき、樽と樽の間に落っこちた。
「これで死んだろ」
「あんた何やってんのよ。その靴でこっち来ないでよね」
「おいおい。お前のためにやったのに――」
男と女はそんなことを言いながら、どこかに歩き去って行った。
ナメクジは何ともなかった。
同じように人間に放り出されても、踏みつけられても、またある時は鳥についばまれ、飲みこまれたけれど、何事もなくお尻から排出された。
気がつくと、年月が経っていた。
人間はますます増え続け、村が町となり、町が都市となり、やがて王国となった。いくつもの国ができると、今度は国同士で戦い、人間同士が殺し合った。
どんどんと森が切り開かれ、船で海を渡って他の大陸とも行き来するようになった。山にも登って岩を切り出し、鉱石を掘り出していった。
道を這って移動していたナメクジは、馬車の車輪に轢かれた。けれどやはり何ともなかった。
気づかれないように、人間の服にへばりつくと、あっという間に見知らぬ土地に運ばれた。
途中で見つかるとと、叫び声とともに振り払われ、これまた見知らぬ土地に落っこちた。
それでもナメクジは落っこちた土地で、エサを食べ、うんちをした。
やがて木や石で出来ていた人間の家が、コンクリートに替わっていった。中には鉄筋が入っていて、四角い箱のような巨大な建物が次々に出来た。
剣や弓矢を持っていた人間が、いつしか銃や本、ペンを持つようになっていた。
建物の窓にはガラスがはめられて、ナメクジが中に入るのは難しくなった。けれど、換気扇の隙間から中に入ることができた。
建物の中に入ったナメクジが這っていると、通気口の下の音が響いて聞こえてきた。
埃や鉄の錆なんかを食べながら、ナメクジは色んな建物に入った。
人間は、時に怒鳴り合っていたり、時にベッドの上で裸で抱き合っていたり、時には映像が流れる板状の物を見て泣いたり、笑ったりしていた。
ナメクジはツノを伸ばしてその光景を見ながら、エサを食べてうんちをした。
見つかると、つまみ出されたり、嫌な臭いと刺激的な味のする霧を吹き付けられたりした。あっというまに冷たくなる霧もあったけれど、ナメクジには効かなかった。
「うわっ。なに、このナメクジ、瞬間冷凍スプレーが効かないよっ」
「そんなのほっといたら」
「だってキモいじゃん。あんた捕ってよ」
「面倒くさいな……」
その男はそう言いつつ、ティッシュでナメクジをつまむとゴミ袋に棄てた。
ゴミ袋の口は閉じられ、ナメクジは出られなくなった。
数日すると、突然車に乗せられて、ほかのゴミと一緒にどこかに運ばれていく。
急に車の中が斜めになって、ゴミ袋ごと、巨大な穴の中にナメクジは落っこちていった。
穴の底には、膨大なゴミが溜まっていた。
しばらくすると穴の上の扉が閉まっていき、穴の中に火があふれ出た。真っ赤に燃える火の中で、ナメクジは平気で這って移動していた。
やがて火は消えると、またゴミが雨のように落ちてきて、再び火が燃えさかった。
ナメクジの周りは、何回もそれを繰り返していたけれど、ナメクジは何ともなかった。
いつしかナメクジは穴の上にのぼり、開け閉めする扉から外に出た。
ナメクジには時間の感覚がほとんど無い。ただ、まわりの世界が変わっていくのを見ているだけだった。
巨大なコンクリートの建物は、どんどん増え続け、中には全面ガラス張りの建物も出来た。
夜も明るくなり、様々な音があふれていた。多くの人間が動き回り、車がスピードを出して走り回っていた。
ナメクジはその片隅でエサを食べてはうんちをしていた。
ある日、突然、空が閃光に包まれた。
ゴミを焼いた火の何万倍もの熱波が通り過ぎ、ナメクジのまわりのものが吹き飛ばされ、炎となって燃えていった。
衝撃が通り過ぎてから地響きや、大気が震動する音が聞こえてきた。ナメクジは炎の中をいつものように壁を這って移動していた。
たくさんの人間が吹き飛ばされて、何かに叩きつけられてしまっていた。
たくさんの人間が炎に焼かれて、真っ黒な炭になってしまっていた。
生き残っている人のうめき声があちこちから聞こえたけれど、ナメクジはただ壁を這って、エサを食べてうんちをしていた。
やがて空がくもって雨が降り出した。けれどいつもの雨と違って黒い雨だった。
その雨が止むと、あれほど騒がしかった音が一つも無くなっていた。
鳥の鳴き声も人間のうめき声も聞こえなくなっていた。
ナメクジは気にすることなく、エサを食べてうんちをした。
それから膨大な時間が経った。
大都市は廃墟となり、町も村も、地球上のどこにも人間の姿も動物の姿もなくなっていた。植物すらほんの僅かしか無かった。
どこまで移動しても、白い灰が広がっていた。
植物が無くなったせいか、空気の成分が変わった。酸素が減っていった。生き残ったのは酸素を必要としない単細胞生物とカビの仲間だけだった。
空からは突然、スコールのように黒い雨が大地に降った。かと思うと、猛烈な陽射しに地面の温度が急上昇した。
山から巨大な火の柱が立ち、ドロドロになった真っ赤な溶岩が流れ出した。
けれどナメクジは気にすることなく、炭でも灰でも、汚染された土でも、砂漠の砂でも、何でもエサにして食べてうんちをした。
果てしないほどの時間が経った。
いつしか、ナメクジのまわりに植物が増えてきた。
黒い雨が降らなくなって、空気の成分が元のように酸素が増えてきた。
ナメクジは食べるエサが美味しくなってきたので、ますますエサを食べてうんちをした。
そのうんちの中から植物が芽を出した。
やがて小さな動物が現れた。
それを食べる大きな両生類や、は虫類が現れた。
水の中には魚や巨大なイカが現れた。
あちこちが森で覆われ、そうでないところは草原が広がって行った。
ナメクジは、時に食べられたりもしたけれど、やはり消化されずにお尻から排出された。
生き物で一杯になってからしばらくして、突然、気温が下がりだし、海が凍っていった。
巨大な生き物の数が見る見るうちに減って、小さな動物が生き延びた。
猿の仲間が二足で歩くようになり、洞窟に住んで、道具を作ったり火をおこすようになった。
ナメクジは氷を食べてうんちをした。生き物の死骸も食べてうんちをした。猿が食べられないと残した物も食べてうんちをした。
やがて猿は言葉をしゃべるようになり、服を作り体の毛が薄くなっていった。
いつしか人間が誕生した。
掘っ立て柱の家を作り、いくつかの家族が集まって村となった。やがて、服は複雑になり、森は切り開かれて、村は町となっていった。町は都市となり、国ができ、やがてコンクリートの建物がそびえ立つようになっていった。
ナメクジはまた壁を這っていた。
一人の女がそれを見つけて、
「げっ。ナメクジっ」
と言った。
傍らにいた男が笑いながら、「無害だし、ほっとこうぜ」と言った。
女が、
「キモいんだよ、これ。――うぅ」
と言って離れると、男は笑いながら女の肩を抱きよせた。
「案外、あんなのが神さまだったりしてな」
「なにそれ、神ナメクジ? キモっ」