46.大学1年生 珈琲店のバイト

01第一章 時を超えて

 大学に行く途中の駅のそばに、一軒の喫茶店がある。

 明るいカフェというよりは、どこかシックな雰囲気のレトロな珈琲店だ。

 ウェッジウッドやマイセンなどのカップで供される珈琲は、ほどよい苦みがあっておいしい。上質な時間を過ごすことができる貴重な珈琲店だ。

 東京のカフェは古いスタイルのところも、新しいスタイルのものもある。『東京カフェマニア』の川口葉子さんが「カフェは街の猫のようなもの」と同書の中で表現したが、本当にその通りだ。

 TOKYOカフェなんて言葉も生まれたけれど、ここのお店はカフェとも喫茶店ともいえるだろう。

 俺と春香はその珈琲店「南風堂」でバイトをすることになった。

 店のマスターが北海道の人で、厳しい冬の終わりを告げる南風はえからお店の名前を取ったそうだ。

 「「はえどう」じゃ、ちょっと嫌だから、「なんぷうどう」ってしたんだよ」

 もう七十になろうかという小柄なマスターは、目を細めながらそう言っていた。

 ここの店は、昭和四十一年に上京したときに始めたそうで、それからずっと続いているのは凄いと思う。

 残念ながらタイムリープ前は、このお店を知らなかった。知っていたら通い詰めていたろうに……。

 バイトのシフトは週に三日で、月曜と木曜日の午後16時から21時。日曜日の午後12時から17時だ。

 常駐のスタッフとしてはマスターのほかに、二十代の女性が一人、由美さんというらしい。ほかは九人のバイトで回しているとのこと。

 時給は1000円ということで、バイトのシフトとかは由美さんがやってくれている。俺は春香と同じシフトにしてもらうようにお願いしたが、その時でできない時もあるとのことで、これは仕方が無いだろう。

 由美さんは見た目はブラウンのふんわりロングの美人だけれど、話してみると思いのほか、ぴしっとしたしっかりした性格のようだ。かといって融通が利かないわけではない。ちなみにマスターのお孫さんではない。

 ほかのカフェだと夜はお酒の提供をする場合があるが、ここはあくまで珈琲店なので、せいぜい紅茶を出すくらいとのこと。

 というわけで、俺は今、洗い物をしているところだ。

 春香は由美さんと一緒にフロアに立ち、俺はマスターと一緒に厨房だ。

 まだ始めたばかりなので洗い物や力仕事がメインだが、好きな珈琲の香りに包まれてだから文句はない。

 月曜日の午後六時。

 店内には背広を着た男性が二人、珈琲を飲みながら話をしている。三人組のOLがビーフシチューを食べている。

 由美さんと春香がカウンターのところで店内を見渡しながら、話し合っている。

 黒のパンツに白のブラウス。その上から黒のエプロンを着た制服姿の春香は、いつもより素敵に見える。こうして美人が二人並んでいるのを見るだけで眼福だ。

 春香は楽しそうに由美さんと話をしているが、何を話しているのかな。

 食器を洗い、白いふきんでキュッキュッと拭いて食器棚に戻す。マスターは、生豆を広げて異物や駄目な豆をさっさっと取るハンドピックの作業をしている。その目は真剣だ。

 出入り口の扉のガラスから、外に大学生くらいの女の子が二人いるのが見える。

 かすかにおしゃべりの声が聞こえてきた。

 「いやぁ。まだまだ寒いね」

 「ほら、ここだよ。前に話した珈琲とビーフシチューのお店」

 「……ふうん。なかなか雰囲気がいいね」

と言いながら重い扉を開いた。

 カランカランっ。

 ドアベルが鳴り、春香がさっと応対に行く。

 「いらっしゃいませ。お二人様ですか?」

 「はい。二人です」

 「どうぞ。こちらへ」

 南風堂の店内は、二人がけのテーブルが12組あって、四人の場合はテーブルとテーブルをくっつけて使う。そして、カウンターには10脚の椅子が置いてある。

 春香は女の子たちをテーブル席に案内しようとしたが、ボブカットの女の子が、

 「カウンターでもいいですか?」

ときいた。春香は笑顔で、

 「はい。ではこちらへ」

と言ってカウンター席へと案内する。女の子たちはコートを脱ぐと、少し端よりに並んで座って目の前のメニューを開いた。

 南風堂のメニューは、ブレンドコーヒーから、モカ・マタリなどのブランド、さらにカフェ・ウィンナなどのアレンジコーヒーまで揃っている。

 また紅茶も力を入れているようで、ダージリン一つでもオレンジ・ペコやシルバー・ティッピーなどの等級、またファーストフラッシュ、セカンドフラッシュの区別がついている。残念ながら紅茶の方のアレンジは、せいぜいミルクティーがあるくらいだ。

 ボブカットの女の子の方が、

 「ええっと、ビーフシチューが二つに、パンをつけてください。それで、私がブレンドコーヒーで……、キッコは何にする?」

 キッコと呼ばれた髪を後ろで縛っている子が、

 「う~ん。ウィンナ・コーヒーかな。あとチーズケーキをつけてください」

 「あっ、私もガトー・ショコラ追加で」

 「はい。ビーフシチューがお二つにパンをつけて、ブレンドコーヒーにウィンナが一つずつ。それとチーズケーキが一つに、ガトー・ショコラが一つ。以上でよろしいでしょうか?」

 春香の読み上げとともにメニューを見ていたボブカットの女の子が、うなづいて、

 「はい。オッケーです」

 「それではお待ち下さい」

 春香はそういって一礼すると、俺の方へやってきた。

 春香から注文を受け取り、俺は鍋の所ヘ向かった。棚から深皿を出して、お湯を切って拭く。鍋からビーフシチューを皿に盛りつけて、カウンター内のテーブルに置くと、マスタがさっとクリームを散らした。それにパセリを添えてお盆に載せる。

 その間に、俺はバゲットを取り出して、1センチ厚に切り分け、それを籠に並べた。

 その籠を由美さんがお客さんの所ヘ運んでいく。

 女の子たちは携帯を見たり、おしゃべりしていたが、春香がビーフシチューを届けると小さく歓声を挙げていた。

 続いて由美さんがパンの入った籠を置いて下がってくる。

 二人の女の子はビーフシチューをふうふう言いながら食べ始めた。

 「……うん。グッド」

とキッコと呼ばれた女の子が、ボブカットの女の子に小さくいうと、ボブカットの女の子が、

 「でしょ」

と自慢した。

 二人のサラリーマンがお会計をして帰るころに、マスターが女の子たちのコーヒーの準備を始めた。

 コーヒーポットを火に掛けてから、焙煎した豆をミルで挽く。ドリッパーの準備をしながら、俺はカップを二つ取り出してお湯で温めた。

 そのままホイップした生クリームを確認している間に、由美さんがケーキの準備を終えた。

 コーヒーの香りが漂ってきて、振り返るとマスターが一人ずつにセットしたコーヒーのドリップを始めたところだった。

 女の子たちがマスターの手先を見ながら、

 「ん~~。いい香り」

とおしゃべりしている。

 カップのお湯を切って拭き、マスターのそばに持って行くと、あとはマスターがコーヒーを入れた。

 最後に、俺がカフェ・ウィンナのホイップクリームの上に、スプーンでショコラパウダーを振りかけて、お盆に載せる。

 春香がそれらを女の子の所ヘ持って行った。

 二人の女の子は、しばらくおしゃべりしながらコーヒーとケーキを楽しんで、小一時間後に帰って行った。

 「すごくおいしかったです」

 「ごちそうさま」

と会計の時に春香が言われ、春香はうれしそうに微笑んでいた。

 時間が遅くなるにつれ、客足は減っていく。お店は午後八時三〇分に閉店となる。時間が迫るにつれ、少しずつ片付けをはじめた。

 食器を洗ったり厨房を掃除したり、ようやく最後の初老の男性が帰り、閉店時間となった。

 俺は外の看板を中に入れてから下げられたカップの残りを洗い、春香はフロアの掃除を始める。マスターと由美さんは、次の日の準備をしている。

 一通りの片付けが終わると、俺と春香は奥の部屋で私服に着替えた。

 厨房に戻ると、マスターと由美さんがコーヒーを入れてくれていた。目の前にはケーキも用意されている。

 「どうだい? 少しはこっちの暮らしも慣れたかい?」

 マスターがイスに座るように手で示しながらそう言った。

 俺は軽く頭を下げてからイスに座り、

 「お陰様で、いまのところ大丈夫です」

というと春香も、

 「はい。ここのバイトもお二人ともよくしてくれるので、助かってますよ」

といった。

 由美さんはにっこり笑って、

 「よかったわね」

と言い、

 「それにしても、私だってまだ一人なのに、二人暮らししてるなんてねぇ」

と愚痴りだした。とは言っても表情はやわらかく笑っているが。

 「え? 由美さん、彼氏は?」

と春香がきくと由美さんは手をひらひらと振って、

 「高校以来、もう七年もフリーよ」

といい、頬杖をついて俺の顔をのぞき込んで、

 「ねえ。夏樹くん。私の彼氏になってくれない?」

と流し目を送ってきた。……へえ。こんな一面もあるんだ。

 驚いていると、春香がぎゅっと俺に抱きついてきて、

 「ダメ! 夏樹は私のです!」

と言って、ガルルっと由美さんを威嚇している。

 それを見てマスターも由美さんも大笑いしはじめた。俺は、春香をなだめながら、

 「春香。単なる冗談だよ。ね?」

と言うが俺からは離れない。

 由美さんが、

 「ごめんね。春香ちゃん。試すようなことして……。あ~あ、いいなぁ。彼氏が欲しいよー」

と言って、足をバタバタさせる。俺はそれを見ながら、

 「大丈夫ですよ。由美さん、美人だからすぐにでも彼氏ができますよ。ね、マスター?」

と話を振ると、マスターがうなづいて、

 「ああ、そうだね。でも、変なのにつかまるんじゃないぞ?」

と優しく微笑んだ。

 「俺、最初、由美さんがマスターのお孫さんだと思ってました」

というと、春香も、「あ、私も」と言って座り直した。

 マスターは「ははは」と笑いながら、

 「由美くんはね。うちのファンだったんだよ。大学時代は文学少女でね。いっつもあそこのコーナーのところでコーヒーを飲みながら、本を読んでいたんだ」

と遠い目をした。由美さんは照れくさそうにはにかむと、

 「お気に入りのお店だったんですよ。コーヒーはおいしいし、静かで落ち着けるし。変なお客は来ないし……」

 それにしても大学生の由美さんって文学少女だったんだ。

 まじまじと見ていると、由美さんが、

 「なぁに? 本なら今でも読んでるわよ?」

 「へぇ。どんなジャンルですか?」と春香が言うと、

 「推理小説から恋愛物。明治文学から海外の翻訳物なんかも読むわよ」

 「それって凄い幅広いですね」

 「そう? 最近のお気に入りは……」

と由美さんが、コーヒーを一口飲んで、

 「北村薫さんのかな。最初はね。『ターン』っていう本のタイトルが気になって読んでみたんだけど。面白くてね」

 俺と春香もコーヒーを飲みながら由美さんの話を聞く。

 「同じ北村さんの本を探して、『円紫さんと私』っていう推理小説のシリーズにはまっているわ。……興味があったら貸してもいいわよ?」

 そういって由美さんはハンドバックの中から一冊の文庫本を取り出した。

 『夜の蝉』とタイトルされた本を手にとって、パラパラッと目次をながめ、最初の数頁にざっと目を通す。

 そんな俺を見ながら由美さんが、

 「ジャンルとしては日常ミステリーかな? 今度、別のを持ってきてあげるわね」

 俺は春香に本を渡すと、春香も俺と同じように本に目を通す。

 由美さんにお礼を言って、今度、おすすめの本を借りることにした。

 由美さんはこのお店に通う内に、バイトの募集を知り、バイトをつづけながら大学を卒業。そして、そのままこの店で正社員としておいてもらったそうだ。

 コーヒーが飲み終わる頃、マスターが、

 「ま、仲良くなれそうで良かったよ。またよろしくね」

 「はい。俺たちの方こそ。よろしくお願いします」

 「ふふふ。何かあったら相談に乗るわ。いつでも連絡してね? ……デートのお誘いでもいいわよ?」

 由美さんはそういって名刺を俺と春香に一枚ずつくれた。しまった。こういう時の名刺をつくろうと思って、まだ作ってなかった。

 俺は頭を下げて、

 「すみません。俺たちまだ名刺をつくってないんで、できたらお渡しします」

と言うと、由美さんは笑いながら、

 「いつでもいいわよ。連絡先はわかってるし……、それに夏樹くんと直接メールでもしようものなら、かわいい奥さんが黙ってなさそうよ」

 「まあ、確かに」と言いながら春香の方を見ると、

「……否定はしません」と春香が言い、再びみんなが笑い出した。

 俺も春香も。この珈琲店のバイトを見つけて本当に運が良かった。

 春香とアパートに戻る道すがら、そんなことを話し合った。

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