その日の晩は久しぶりに親子三人で出かけた。行き先は駅前のフレンチのお店だ。一人じゃ絶対にこれないよ、こんな高そうなところ。彼女もいないしね。成人してお酒を飲んでも大丈夫な年齢になったこともあって、三人ともワインを飲んだ。
父さんがいつもより楽しそうにワインを傾けながら話をしてくれた。昔の父さんが大学生だった頃の話。母さんとの出会い。そして、若い頃の失敗談。
きっとこうやって子どもと酒を飲むのを楽しみにしていたんだろう。
……たまには帰ってきて父さんと母さんに顔を見せなきゃだめだな。
親子三人で楽しい食事を終えてタクシーに乗って自宅まで帰ってきた。母さんがお風呂の準備に行っている。
俺と父さんはリビングのソファに座ってテレビをぼんやりと見ていた。
「なあ、夏樹。実はな、十日前になるが、春香さんが亡くなった」
不意に父さんがテレビを見ながら、そう言った。
「知ってる。……昨日、聞いたよ」
「そうか……。ご両親も亡くなっていてね。裏山のお寺さんがそのままお葬式をしてくれたらしい」
「うん」
父さんが俺の方を向く。
「あんまり落ち込むなよ。な」
うん。もう大丈夫。お爺ちゃんお坊さんにも会ってきたし。
「聞いたときはショックだったよ。まだ信じられないし……、でも大丈夫」
「そうか」
その時、母さんがリビングに入ってきた。
「お風呂いいよ。父さんから入って」
その声に、父さんがソファから立ち上がった。
「夏樹。何かあったら必ず相談するんだぞ。いいな」
そういって廊下を歩いて行った。
「……わかってるよ。父さん」
俺は小さくつぶやいた。
母さんが今度は俺の隣に座る。
「ああ、春香ちゃんのことを聞いたのね? だまってるつもりはなかったんだけどね」
「帰ってこなかった俺も悪かったんだ。今日、裏山のお寺さんでも話を聞いたし、お墓もお参りしてきた」
「ふ~ん」
テレビからお笑い芸人の笑い声が聞こえてくる。その声が何だかとても場違いなもののように聞こえる。
母さんが何かを思い出したようだ。
「……あ、そういえばあんた宛に手紙がポストに入っていたのよ。う~んと二週間前かな?」
「手紙?」
「そう。宛名はなかったんだけど、ほら、あんた帰ってくるっていってたから。え~と、確かあんたの机に置いておいたわよ。気づかなかった?」
「え? 机に?」
俺は首をかしげた。そんなの机の上にあったっけ? 昨日は帰ってすぐに風呂入って寝たし、今日もフラフラ歩いていたからか、気がつかなかった。
「確かに置いといたからね。差出人がないのが気にはなったんだけど。……ラブレターだったら教えてね」
母さんはそういって、はははと笑った。
「いやいや。わざわざ郵便でラブレターなんてこないって」
慌ててそういうと母さんも「そうね」と言って、テレビ番組を見出した。それから俺は、父さんの次に風呂に入り、母さんに一声掛けてから自分の部屋に戻った。
「えっと、机の上だっけ?」
部屋に入ると、まっすぐに自分の机に向かう。けれども手紙の姿は見えない。
「う~ん。どこだ……」
独り言を言いながら、机の周りを探すと机の下に手紙が落ちていた。
見た目は普通の白い封筒で切手は貼っていない。直接投函だろうか? 表書きはペン字でどうやら女性の文字のようだ。なるほどラブレターと思われるのも無理はない。ひっくり返すとやはり差出人の名前は記されていなかった。
……いたずらじゃないよな。
天井の蛍光灯に透かせて見ると、便せんのほかに怪しいものはないようだ。机の引き出しからはさみを出して封筒の端っこを切る。はさみを戻すと俺はベッドに腰掛けた。
封筒から便せんを取り出して開いてみる。最初に差出人を見てみるとそこには、
――春香より――
の文字が目に映った。
「春香からの手紙……」
夏樹くんへ
あなたがこの手紙を読んでいるころ。きっと私はもう生きてはいないでしょう。手紙を出そうかどうしようか。随分と悩みました。優しいあなたのことだから、きっとこの手紙を読んだら悲しんでしまう。私のために悲しんでしまう。できればあなたには笑っていてほしい。
ですが、どうしてもこの手紙を書かずにはいられませんでした。本当に、ごめんなさい。
あなたが高校に行って寮に入ってから、私もこっちの高校に通いました。最初は何度か手紙が届いて、すごくうれしかった。ですが次第に手紙がなくなってしまいました。あ、ごめんなさい。責めるつもりはありません。きっとあなたも慣れない環境で大変だったと思うから。
二年生の頃です。急に父にガンが見つかり三ヶ月後には亡くなりました。残された母と私は呆然としてしまい。しばらく何も手につかなかった。それでも母はパートに、私も学校に行きながらバイトをしたりしました。
忙しさに時間はあっというまに過ぎていったのですが、三年生の春から母が酒にのめり込むようになりました。きっと父が恋しくて、寂しくて仕方が無かったんでしょう。幸いに酔っ払っても暴力をふるったりすることはなかったのですが、そうやって安心していたのがいけなかったのです。
あっという間にアル中になり、パートもできなくなり、父の残した遺産を少しずつ崩して生活をする羽目になりました。……ですがその生活も半年で終わります。肝臓を悪くした母が急に倒れたのです。
私はそのときバイトをしていたので発見が遅れました。自宅に帰って台所で母が倒れていたのを見て、ああ、とうとう来るべき時がきたんだと感じました。結局、母はそのまま亡くなりました。
私は遠い親戚の家に預けられることになりましたが、父と母の残した遺産が親戚の新しい家に変わりました。向こうの旦那さんが私を変な目で見るようになって、私はおばさんに家からたたき出されました。
困り果てた私は生きるために一生懸命でした。でも信じてください。私の体は綺麗なままです。いつかきっとあなたが迎えに来てくれる。そう信じていました。でないと生きていくことはできませんでした。ですが、今年になってある人にだまされて私に多額の借金ができてしまいました。もう帰すことはできません。きっとこのままだとあと二週間で期限がきてしまいます。
私はもう疲れました。きっともうあなたに迎えに来て貰うわけにはいかない。あなたをも不幸にしてしまう。ですから最後に言わせてください。
夏樹くん。私はあなたが好きでした。ずっとずっと好きでした。もちろん今でもあなたのことを思うと胸が締めつけられます。
一緒にいた頃は楽しかった……。覚えていますか? あの桜の木の下での約束。裏山のお寺にある桜の木の秘密基地。私はあなたとおままごとするのが好きでした。小学校4年生の時、お爺ちゃんお坊さんのいうとおりに紙でいろんなアクセサリーを作りましたね。低学年の子ども達と一緒に作って。あの日の帰り。あなたは私に自分で作った指輪をくれました。
中学校の時、あなたは知らないかもしれませんが、何人かの男子に告白されました。ですけど、私はあなたからの告白を待っていたんですよ。ずっと。あなただけを。
できることなら……、あの幸せだった頃に戻りたい。あなたと一緒に遊んだ、あの幼い日々。
夏樹くん。ごめんなさい。こんな手紙、きっとあなたの足かせになってしまう。優しいあなたを苦しめてしまう。ごめんなさい。でも夏樹くん。どうかあなたは私の分まで幸せになって。誰かいい人と幸せな家庭を気づいて。今の私にはそれを祈ることしかできないの。夏樹くん。本当にごめんなさい。
ああ、せめて……、せめて最後にあの幸せだったころの夢をみられますように。
春香
――。
読んでいる途中から涙がぽろぽろとこぼれ落ちていく。きっと春香も泣きながら書いたのだろう。ところどころにじんでいる文字を見ると、俺の胸はきつく締めつけられた。
「は、春香……。はるかぁ。ううっ」
ああ……、春香。なぜ。なぜそんな状況を俺に知らせなかったんだ。何もできなかったかもしれないけど、そばにはいてやれたかもしれないのに。
……いや、無理か。あの頃の俺には無理だったのかもしれない。
声を抑えながら俺は泣き続けた。
なんて俺は馬鹿なんだ。自分を好きでいてくれた女の子がいたのに。……春香が待っててくれたのに。こんなに辛い。切ない気持ちは生まれてはじめてだ。心が真綿でしめられるように苦しい。
ああ……。春香。今、俺はお前に会いたい。お前に謝りたい。お前を抱きしめたい。それなのにもう……お前はいない。その事実が俺の心を苦しめる。
次から次へと涙がこぼれ落ちていき、気がついたら俺はそのままベッドに倒れて眠っていた。真っ暗な夢の中で春香の声が聞こえた気がした。
――私、なっくんが来るのをずっと待ってるから。
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