「君。大丈夫か?」
不意に誰かに声を掛けられて目が覚めた。
「う、んん」
目を開けると一人のラマ僧が俺の顔をのぞき込んでいる。
俺は上体を起こした。「え、ええ。大丈夫です」
どうやらどこも異常は無いようだ。見回すとどこかの廊下で寝そべっていたようだ。
「あれ?……そういえば」
さっきまで俺は石窟で写真を撮ろうとしていて……、急に穴に落ちこんだんだよな。ここはどこだ?
少し混乱して、俺は周りをきょろきょろと見回した。そんな俺の様子を見て、ラマ僧がおもしろそうに笑みを見せている。
「ふむ。君のリュックならここにあるよ。……それにしてもよくここまで来れたね」
「あ、ありがとうございます」俺はリュックを受け取った。
「いや、それが壁画を撮影していて……、急に足下が崩れた気がしたんですが」
「そうかい。……まあ、立ち給え。ここで話をするのも何だから奥に行こう」
そういうとラマ僧は俺に手をさしのべてくれた。ううむ。ラマ僧には似つかわしくないくらいすべすべして綺麗な手だ。そう思って見上げると、僧形ではあるがなかなかのイケメンだった。
俺は手をとって立ち上がり、おしりについた砂を払った。リュックを背負い、先を行くラマ僧の後を追いかける。
石造りの廊下には明かり取り窓が無かったが、不思議と暗さは感じない。うす暗くはあるけれど、周囲が見えないほどではない。
突き当たりの出口から青みを帯びた光りが漏れている。ラマ僧が言った。「すぐそこだよ」
出口にあるのは部屋では無かった。廊下を抜けるとそこは四方を山肌に囲まれた隙間のような外の空間だった。真上には高地特有の突き抜けるような青空が見える。
隠された庭園のように周囲は切り立った崖になっていて、おそらく外からは山肌に開いた大きな陥没穴のように見えることだろう。
見える範囲には階段もなく、どうやらここへは岩の中をくりぬいたであろう廊下を通って来るしかないらしい。人の手が入っているのであれば、ここは寺院の境内のどこかなのだろう。
正面奥の崖に仏の像が刻まれていた。磨崖仏だ。
その手前に2本の柱が並んでいて、さらにその手前にこんこんとわき出している泉が見えた。光の具合だろうか、透き通った泉は不思議と青白い光を放っているように見える。あふれた泉の水は、水路に流れ込んで奥の磨崖仏の方へと流れている。
聖域。その言葉が脳裏に浮かぶ。
「さ、そこに座りなさい」
ラマ僧はそういうと傍らにあった木のイスを指し示した。テーブルも置いてあって、まるで庭園の休憩場所のようだ。
「はい。失礼します」
俺はそういってイスに座るとその向かいにラマ僧が座った。ラマ僧は意味深な笑みを浮かべて、俺を見た。
「さて、私はデーヴァ・インドラという。見ての通りここに住んでいる」
俺はリュックから英語と中国語で併記してある名刺を取り出して差し出した。
「日本から来ました。大学で文化人類学と考古学を教えています。夏樹といいます」
ラマ僧は名刺を受け取るとそれをしげしげと見つめ、再び顔を上げた。
「ほお、なるほど……。ところで、君はここがどこだかわかるかい?」
「ここはあの石窟の奥ですよね?」
俺の返事にラマ僧がしばらく考え込んだ。「その答えは正解とも不正解ともいえるな」
思いがけない返事に今度は俺の方が考え込んだ。
「どういう意味でしょう?」
「ここは普通の人が来られる場所ではないんだよ。ここは因縁に結ばれた資格がある者しか入れないんだ」
言っている意味がよくわからないが、やはり聖域で、俺は禁足地に無断で入り込んでしまったのだろう。事故だとはいえ、申し訳なく思いながら頭を下げる。
「すみません。ここが禁足地だとは知らなかったんです」
「あ、いやそういう意味じゃないんだ」
おそるおそる顔を上げると、ラマ僧はきょとんとした表情をしていた。
「ここは君がいうチベットのお寺でもありお寺でもない。君がここに来たのは因縁があってのことさ。だから謝る必要もないよ」
「はあ。そうですか」
「どうやらわかっていないようだな。ふむ。――もったいぶって言うのはやめよう。君たちにわかりやすいようにいえば、ここは補陀落への道でありシャングリラでもある」
「は?補陀落の道?」
急にラマ僧が突拍子も無いことを言い出した。「そうだよ。言葉を換えて言えば、ここは神に至る道の出発点だ」
俺は驚いて言葉も出ない。
「信じられないかい? そもそも君は私の名前に聞き覚えがないのかい?」
「い、いえ……、え?」
デーヴァ・インドラ? ――天帝釈?
考えていることがわかったのだろう。目の前のラマ僧が笑顔を見せた。
「――そうだ」
その声と共にラマ僧の雰囲気が変わる。うっすらと光を放ち厳かな雰囲気を漂わせている。
「ここにいる時に私の役目は訪れた者を導くことだ。……もっともここに足を踏み入れた人間は君が初めてだけどね」
「は、ははは。それは本当ですか?」
現実味が薄れ、変な笑いがこみ上げてくる。
「本当だとも。君がここに来たということは、君には神格を得る資格があるってことだよ」
そういって天帝釈は泉の方を指さした。
「で、どうする? 条件があるけれども、あのアムリタを飲めば君は神格を得る。不老不死となり、神通力を得る」
俺は改めて、入ってきた廊下を見た。そして再び正面の磨崖仏を見て、ラマ僧を見つめる。
聖域。
不思議とそれが本当のことだと信じられた。ここに満ちる清浄な空気。そして、ラマ僧の存在感。
俺は天帝釈と名乗るラマ僧に尋ねた。声が震えているのがわかる。
――もしかして、
「あ、あの。……神格を得れば、亡くした人を救うことができるでしょうか?」
――これで再び春香と会えるのでは。
俺の言葉に天帝釈がしばらく考え込んだ。
「ふむ。その救うってのがニルヴァーナのことならば無理だ。ニルヴァーナを得るにはブッダについてパーラミターの修業をせねばならない。……だが、君が言いたいことはわかっている。それとは別だろう。それならば、君の眷属にすれば君が思うような救いにはなるだろう」
「眷属ですか?」
「ああ、そうだ。だが相手がそれを受け入れればの話だぞ。……眷属になれば君に準じた存在となるんだ」
天帝釈の言葉を聞いた瞬間。俺は叫んでいた。「なります! お願いします!」
大きくうなずいた天帝釈は説明する。
「ただし条件がある。私の指示に従って神天としての修業をすることだ」
それは当たり前のことだし、願ってもないことだ。「わかりました。むしろ助かります」
大きく頷いた天帝釈は大きく頷いた。
「ならばよい。……善神が増えるのは我らにとってもありがたいことだよ」
「はい」
「さてと」とラマ姿の天帝釈は泉に歩み寄ると、屈んで手に持った鉢に水を汲んだ。そのままの姿勢で俺に向かって手招きをしている。そばに行くと、鉢を手渡してくれた。
「これがアムリタと呼ばれる霊水だ。飲めば神格を得る」
鉢の中を覗くと、かすかに水が青い光を放っている。見るからに不思議な水だ。けれどこれを飲むだけで神格を得られるとは簡単すぎる気もする。
俺の内心を読んだのだろう。天帝釈が笑いかける。
「この場所に来るかどうかで既に資格が選別されているんだよ。心配しなくてもいい」
「はあ。……あの、飲んだら死ぬとかないですよね?」
「ないよ」
「ほら、飲んだら骸骨になるとか……」
「ない。ない」
「はい。……では」
俺は意を決して水を一口含んだ。飲み口はよく冷えた湧き水と同じでおいしい。飲み下した水から不思議な力が体の隅々まで潤っていくような気がする。
大丈夫そうだ。俺は一口、また一口と水を飲み干した。
「ご馳走様でした。……なんだか体の中が綺麗になった気がしますね」
「うむ。それでよいが、神格が表れてくるのにはまだ時間がかかる。……ついて来なさい」
そういうと天帝釈は磨崖仏の手前にある2本の柱の方へと歩いて行った。言われたとおりについていく。
「……うん?」
さっきまでは単純に柱が2本、並んで立っているようにしか見えなかったが、今はその間に光の入り口が見える。七色に光っており、いかにも別の世界にいけそうな雰囲気だ。
……なるほど。補陀落への門。入り口か。
天帝釈は柱の手前まで行くと振り向いた。
「さっそく修業と言いたいところだが、さっきも言ったようにアムリタの効果が表れるまで時間がかかる。……ちょうどよいから、そなたの眷属としたい女性のところへいってくるがいい」
そういって光の入り口を指さした。
「ここを通ってゆけば、時間を逆行していける。やがて神格が備わるとともに少しずつ力が備わるだろう。もっとも次に私と会うまでは大した力は使えないから、安心するがいい。せいぜい幸運になるくらいだ」
ううむ。アムリタを飲めばすぐにでも神格を得ると思っていたが、実際に神としての力が身につくには、思った以上の時間がかかるようだ。
だが……、この先に行けば再び春香に会える。その喜びの方が大きい。
「また時が来れば自ずとなすべきことがわかろう。ではゆくがいい」
「はい。デーヴァ・インドラ様。ありがとうございました」
俺は天帝釈に深く一礼した。天帝釈は俺の方を静かに叩き、それから背中を押してくれた。
――さあ行こう。春香のところに。
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